インド亜大陸放浪記No.4バングラデッシュ

ダッカのラール・バーグ(砦)

インド亜大陸放浪記No.4バングラデッシュ

ダッカのラール・バーグ(砦)

陸路での国境通過を試みると、意外と国と国の距離感を近いものに感じさせます。カルカッタとバングラデッシュ第三の都会クルナ(人口60万人)の距離はわずか150キロしかありません。カルカッタの郊外は既にバングラデッシュ領域なのです。カルカッタから列車で1時間ほど乗ると国境事務所のあるバンガオン駅です。駅から6キロ離れた国境事務所までリキシャを利用します。国境を通過した後さらに二キロ東に進むと国境の街ジェッソールに入ることが出来ます。ここからは、クルナやダッカ行きのバスが発着します。

国境は無事通過したものの手持ちのドル建てのトラベラーズチェックが交換できず、ジェッソールの銀行の人にお金を貸してもらい、クルナまで移動して、ようやく両替することが出来ました。前回のインドの旅、ラメッシュワラムでも同じような事件に遭遇しました。やはり、ドルキャッシュは旅の必需品なのです。

 

目次

目次… 1

  1. バングラデッシュ入国… 2
  2. フェリー・ボート… 2
  3. ビザも受領しました。… 3
  4. モスリム国家… 3
  5. お茶飲む?… 4
  6. たかが300円と言うなかれ… 5
  7. ジェッソールの出来事… 6
  8. クルナの街… 7
  9. 友人宅を訪問… 8
  10. 最近の動向… 9
  11. もう少しでアッサム… 10
  12. 或る日の印象… 10
  13. 高級中華料理店で400円の散財… 11
  14. 心は豊ですが・・・… 12
  15. ダッカ遊覧、… 12
  16. ボグラに来ました。… 13
  17. 閑話休題… 14
  18. 1985年4月23日ダッカへの道… 14
  19. バングラデッシュの恐怖… 14
  20. チッタゴンor チョットグラム… 16
  21. ベンガル人の不思議… 16
  22. パブナへの道… 16
  23. 再訪を祈念して… 16
  24. 両替証明不要… 16
  25. コックス・バザール… 17
  26. ゴメンナサイ… 18
  27. 辺境の街テクノフ… 18
  28. 水に浮かぶ国… 19
  29. 甘党天国… 20
  30. 血染めの休日… 20
  31. 野菜食べたい… 22
  32. 旅は労働… 23
  33. 清く正しく… 24
  34. バングラ様々… 25
  35. 新聞記事から… 26
  36. 墜落事故… 27
  37. 日本の20分の1の生活… 27
  38. 再び児童問題… 28
  39. サイクロン… 28
  40. さようならバングラデッシュ… 29

 

 

1.    バングラデッシュ入国

陸路での国境通過を試みると、意外と国と国の距離感を近いものに感じさせます。カルカッタとバングラデッシュ第三の都会クルナ(人口60万人)の距離はわずか150キロしかありません。カルカッタの郊外は既にバングラデッシュ領域なのです。カルカッタから列車で1時間ほど乗ると国境事務所のあるバンガオン駅です。駅から6キロ離れた国境事務所までリキシャを利用します。国境を通過した後さらに二キロ東に進むと国境の街ジェッソールに入ることが出来ます。ここからは、クルナやダッカ行きのバスが発着します。

国境は無事通過したものの手持ちのドル建てのトラベラーズチェックが交換できず、ジェッソールの銀行の人にお金を貸してもらい、クルナまで移動して、ようやく両替することが出来ました。前回のインドの旅、ラメッシュワラムでも同じような事件に遭遇しました。やはり、ドルキャッシュは旅の必需品なのです。

 

2.    フェリー・ボート

クルナからダッカへは、有名なロケット・イクスプレスという名称の船が運行されています。キャビンクラスは個室の一等が22室(定員22名)と二等が10室(各部屋二人で20名)です。今回は257タカ支払って二等船室を予約しました。そのほかに格安クラス(デッキクラスで自由席雑魚寝)があり無制限の乗客を運びます。定員があってないような状態です。船で働いているのは100人程で、ジャムナ川を下ってダッカに向かうとの事、船員と話していると、お姉さん(娼婦)も「今晩お付き合いしますよぉ!」と声をかけてくれます。

料金は257タカで出発は早朝6時ですが、前日の午後6時よりキャビンが利用可能で一泊分の宿代節約にもなります。切符は前日に購入し、乗り場も確認したのですが、当日夕方6時に船着き場に出かけたのですが、船の姿は見当たりません。話を聞くと、何等かの事情で異なる桟橋に移動したそうな!荷物を抱えてウロウロする始末でした。

朝食っはオムレツ、紅茶、バタートーストで7タカ、夕食と昼食は野菜炒め、トマトのサラダ、豆のスープにご飯とチキンカレーがついて18タカでした。一般より高いのですが、そこは、上級客ですから仕方ありません。三等客室というのは、運賃が77タカで、床に直接ごろ寝することになります。多くの客で大混雑しています。

 

3.    ビザも受領しました。

昭和59年3月25日記載

今日はちょっと忙しい日でした。市内の高級ホテルで円のトラベラーズチェックを両替、インド大使館で査証の申請、中央郵便局へ局留めの郵便物を受領が完了しました。明日は祭日ですから、明後日待望のビザの発給日です。まずはめでたしめでたしです。

以下は、友人からの届いた手紙の返信内容です。

「さて、お便り拝見しました。写真が五枚同封されているのも確認しました。必ず当事者に届けようと思っています。本当に綺麗に映っていますから、彼等も大満足するでしょう。それにしても、南インドのポンデイチェリの市場の親分から返信が届いたとの事、嬉しい限りですね。南インドの人々は律儀ですからね。どうも、当方は南インドの人々をえこひいきしすぎますかね。ヒマラヤの報告書出版なさるとの事、おめでとうございます。早速ですが、当方2部購入予約をしておきます。代金は後払いとなりますが、宜しく!」

「今の所、快適な日々です。長い道中には、所々で肉体と精神のオーバーホールが必要となります。それが、スリランカのキャンディ(ムナシンハ家)だったり、南インド・タミール州のマハバリプラムだったりするわけです。住み心地を良くしてくれる地元の皆さんに、感謝しなくてはなりません。ここバングラデッシュも意外と気も張らずのんびりと楽しめそうです。3月27日にインド大使館に出向いて10日間のトランジットビザを貰いました。これで準備万端、ネパールへの道が開けました。

 

4.    モスリム国家

回教国と申しましても、そのイメージが狂ってくるのが、ここバングラデッシュです。一般的に回教国のイメージは月の砂漠にラクダが行進する風景を思い浮かべます。しかしここは、そうしたエジプトやアラブ諸国のイメージとは異なります。アフガニスタンやパキスタンは、馬にまたがり草原を駆け抜けるイスラム教徒、そしてここは、牛車でのろのろ進むイスラムの国です。マレーシアの回教徒はどのような位置づけになるでしょう。さしずめ、ワニに跨った回教徒の人々と解釈するには、脱線のしすぎでしょうか?

インド亜大陸の回教徒のぶん部は東のバングラデッシュ、西のパキスタンそしてインド中央部のデカン高原のモスリムと3箇所に分布しています。さて、バングラデッシュの旅はバクシーシ(喜捨)に始まり、バクシーシ(喜捨)に終わるともいえます。ですから乞食との対面が苦手な人、チップの習慣に戸惑う人は十分な覚悟が必要です。

さて、チップの習慣を周辺諸国を比較して見ると、スリランカは長い間英国の植民地であり、文化が入り西洋文化が浸透してきていますが、それほど厳格ではありません。ネパールでは、殆どチップの習慣は見かけません。しかし隣の大国インドではチップの習慣が根強く、私の知るかぎりでは、そのために専用のポケットがあり、つかみ取りで渡している光景を見かけました。

中級の飯屋で、時々10タカ以上の食事をした時、ウェイターと視線があうと、ついお釣りの1タカが横流しの憂き目に会います。そして支払いを済ませチップを渡し外に出ると、老人が空き缶を持って佇んでいます。

同じクラスの食堂でも、インドでは、「チップをもらって当然」という横柄な印象を受けますが、ここでは、礼儀正しく「それでは頂きます」という穏やかさを匂わせてくれます。

路上の乞食を比較して見ると、インドは横柄でどこまでも追いかけられる感じです。スリランカの乞食は偽装乞食とも言えるでしょうが、インチキ臭い部分があります。そしてバングラデッシュの乞食には、不自然さを感じることはありません。そんな意味で慣れて来れば、バングラデッシュの楽しみも増えてくるわけです。

チップや、バクシーシをしなくても、この国は旅行できないことはありません。しかし「郷に入ったら郷に従えを試してみると、より深くこの国の実情を知り、愛するようになるかもしれません。ここは、典型的なインシャラー(神のご加護がありますように)の国です。

この国では、直ぐに住所や氏名を欲して来ます。クルナの若いお巡りさんもそうでした。彼は10人兄弟だとか! 同じクルナのアフザルホテルのルームボーイの給料は10タカと聞きした。いつもラジオを片手に時を過ごしているのです。

 

5.    お茶飲む?

今日も、数度あの回教国独特のお祈りの放送が聞こえて来ました。隣の隣がモスクなのです。この宿は親切なルームボーイが一杯います。その中で一番カシラと思えるのが、モハメット・アブバーランなるようで、通称アブルと呼ばれています。いつも笑顔なのですが、時々子供がだだをこねるような一面も見せてくれません。先日ぶらりと私の部屋に来て

「はい、これどうぞ!」

と大切そうに、1本15円(1.5タカ)の外国製タバコ555を置いて来ました。その時に、「俺の家はソナルガオンでさぁ、お父さんもお母さんもいるんだよ。一度家においでよ!」と招待してくれました。でもその後しんみりと、

「でも、俺の家はここのホテルみたいにセメントじゃないんだよ!」

と困った様子でもありました。

ある日、お茶を飲むかと誘われました。手にはしっかりとお茶2杯分のお金を握りしめて楽しそうです。その気持が嬉しくで、結局私が奢ることになりました。そして今日は映画鑑賞に出かけることになりました。夜の9時から11時の最終回に誘ってくれました。彼のポケットの中には入場券の20タカがしっかりと用意されていました。結局二人で俺が出すという押し問答になって来たのです。考えてみると不思議なものです。20円でこれだけ楽しめるわけですから、日本の金銭感覚からは、はるかにズレています。映画の看板はカラーでしたが、実際は白黒映画です。言葉は良くわかりませんが、その風俗、習慣、動きに焦点を併せて眺めると、それなりの興味も湧いてくるものです。

今回の映画は恋愛物語、すなわちメロドラマでまあまあ良い作品だったのでしょう。

 

6.    たかが300円と言うなかれ

良く売れている外国製タバコ555は、ここでは有名ブランドですが、格差社会を感じてなりません。高級タバコをスパスパ蒸している人を見かけます。300円という金額は安飯屋で腹いっぱいの食事が6回出来るという金額です。小生も時にはいつも吸っているBOSSという銘柄(20本入り60円)をやめ、555をバラで一本、二本と買って吸うこともあるのです。

宿の近くの安そうな食堂に入りました。5タカでお腹が一杯になりますが、日中入ると魚の匂いがぷーんと充満しています。何か恐ろしそうな食事が出てきました。しかし食後は幸いに下痢もなく安全圏でしたが、やはり時にはビビるものです。

ダッカ市内の高級ホテルは、インターコンチネンタルホテルかシェラトンホテルとは、言うれも世界的なホテルチェーンが運営しています。そこに新たに日本の清水建設が建設したソナルガオンが加わりました。常にビジネスマンが往来し、地元の金持ち達と派手に振る舞っているようです。人口の比率から比較すると、高級ホテルの数はネパールのカトマンズが圧倒的に多いようです。次に多いのがスリランカのコロンボでしょう。時に、市内の喧騒を逃れてコーヒーを飲みに入ることがありますが、私が愛用する安宿一泊分の価格とほぼ変わりません。これがバングラ感覚という事なのでしょう。

さて300円で何が出来るでしょう。

外国製のタバコが一箱購入出来る。

この安宿Syabeeba Hotelで一泊出来る。

高級ホテルでコーヒー一杯飲める。

三等列車で300KM移動出来る。

鶏肉入りのチキン・ブリヤニを三皿食べれる。

安物のルンギ(腰巻き)が一着手に入る。

とにかく色々と使うことが出来るのです。たかが300円というなかれ。

 

7.    ジェッソールの出来事

カルカッタより陸路で通過したのですが、どうもバングラ側の愛想が良く、インド側は無愛想に感じます。これはパキスタンとインドの国境でも同じ事でした。パキスタンの係はにこやかに応対してくれましたが、インドは冷たい感じがしてなりません。

手続きが終えるとリキシャが待っています。が手持ちの現地通貨がありません。歩いて30分ほどすれば銀行があるとの事でほっと一安心で希望を持って出かけたものの、ここでは、ドル現金しか扱っていないそうで、トラベラーズチェックならクルナかジェッソールの支店に行ってくださいということになりました。

「Nothing to do, this is the rural are」の一言です。「ここは農村地帯だからなんにもてきません」にべなく断られて途方に迷ってしまいました。粘った結果、近くのバス会社の事務所に連絡を入れてもらい、料金後払いで乗せてもらうことになりました。バスは銀行の前でしばらく待ってくれました。銀行の守衛が状況を素早く判断したのでしょう。迷うことなく10タカのバス料金(およそ90円)を即座に用立ててくれました。しかし、それからが問題となったのです。

我がトラベラーズチェックを銀行の偉い人が弄り回し熱心に眺めています。「明日なら多分大丈夫かもしれない、もしかすればOKだけど・・・・。あなたはクルナに出かけたらよいですよ。あそこには外資系の銀行がありますから。あの街はバングラデッシュ第三番目の都会だからね。」

それにしても、どうやってクルナに行けるのだろう?お腹は減るし、宿代はいるし、バス代も払わなければなりません。インドルピーも使い果たしてしまいました。これはかなりのピンチです。我が愛用の目覚まし時計が売れないものかと案じてゆるりと取り出してみたものの、「それは子供用でしょう。5タカなら引取りましょうということでした。この案も却下です。

結局偉い人達が10タカ集めて差し上げようという話も出ました。そうするとクルナへ行けるし、宿は後払いで問題ないという議論になりました。しかし、なかなかお金が集まりません。どうのこうのする間に若い職員から50タカを借りることになりました。置き時計(クォーツの電子音付き)を担保にして翌日返却に来るという約束をしました。まさしく置時計が置き時計となったのです。こうしてクルナに到着し無事グリンドレイズバンクで両替をすることができました。ああ、今日は疲れました。

翌日再びジェッソールに引き返し、借りた50タカの返却に例の銀行を訪ねました。若い職員に会うことができたのですが、置時計が出て来ません。その内に、彼の自宅に招かれました。簡素なアパートに招待され、チキンカレーが登場しました。ゆっくりと食事が始まりました。私は時計の事が気になり、その事を話すと、後で渡しますという返事でした。

さて、実際の所、時計は4歳の息子の大切なおもちゃと化しておりました。100タカ上積みするから是非売って欲しい!ということです。

私は、「これは旅に必要なので、残念ですが、お売りするわけにはいかないのです」と断ると、奥さんがマドラス産のサリーを出してきて、「これでお金を作って、その時計を買いましょう」とどんどん話が進んで行きました。

彼は丁寧に「私がこれを家に持ち帰ったのがミステイクだったのです」と語りました。息子は大切そうに「Japan Ghari(日本の時計)」と嬉しそうにその電子音を楽しんでいます。最後に200タカまで値が上がりました。これも穏やかに断りまして、別れた次第です。帰国が絵葉書を送ることを約束して別れました。出身はかなりの田舎ですが、現在は夫婦と息子の三人暮らしです。二三年後にはジェッソールから転勤になるとか話していました。

 

8.    クルナの街

どこともなくタイの裏町を彷徨っているような気がします。特に川沿いの市場はそうした空気が充満しています。店の裏側には船が一杯、夜の暗闇の中を人々は荷物運びをしています。この街で只1軒の中華レストランに入ったら、店の親分が私の国籍を聞いた後、日本の演歌を流してくれました。

現在この街では博覧会が開催されています。小さな規模ですが、その中で脚光を浴びているのが、新バングラサーカスというコーナーです。入場料は10タカ、7タカそして5タカの三種類です。かなり原始的なサーカスで危険な演技の場面になると10人ほどの助っ人が安全用のネットを手で取り囲み万全を期しています。竹製の槍、木製の器具、麻のロープが所帯道具ですから危険極まりない状況です。

さて、不思議な事に観客からの拍手があまり響いて来ません。それぞれのプログラムが終わると演出者が手を挙げて挨拶をして幕真に消えるのですが、観衆は真剣に、真面目にみているのですが、全く反応がありません。

サーカスの他に人気のあったのが、ルーレット方式の賭博です。他の展示館は閑散としています。入場料は1タカで、まずまずの人が入っています。いや暇人の多いこと、そして楽しい事。これがバングラの実情なのでした。

どこに行っても緑の大平原が続くバングラデッシュです。この国では、今は誰もが貧しい、貧しいと叫んでいるようにも見えます。いつか時が過ぎて豊かになったらインドネシアのように無茶な国にならないものかと心配です。でもこの国の本質は農耕の民の集団ですから、大丈夫かもしれません。

最近中国を旅行した日本の友人から聞いた話です。中国人が言うには、「今は、私達は朝ごはんを食べることが出来るようになりました。だから、これからが大変なのですよ」

バングラでも挨拶として「朝ごはん食べたかい?Nasta Kaishen?」と聞かれます。南インドのタミル州でも「食べたの?Saarptheyaa?」等を挨拶として良く耳にします。しかしスリランカでは、こうした挨拶を耳にすることはありません。中国では以前「ご飯食べましたか?吃飯了マ」が日常の挨拶になっていたそうです。

 

9.    友人宅を訪問

午前中はダッカ郊外の広大なる動物園、植物園に出かけました。ベンガル語ではチリヤ・カナといいます。

午後は友人のMr.Shaheenの家を訪ねて見ました。昨年の10月にトルコのイスタンブールで会ったイラク出稼ぎ組のベンガル人です。当時とても印象的な出合いだったので自宅に出向いて見ました。彼は帰国していて久しぶりの対面、明日は昼食に招待されました。

10ヶ月ほどインド亜大陸の生活に慣れた後、ギリシャに飛びました。所が私には欧州の空気に馴染めず、一刻も早くイスタンブールに向かおうと決心し、3日後に夜行列車で出発することにしました。出発は真夜中の11時ですから、駅構内の待合室で待っていた所、一人のインド系の青年を見かけました。

車内に乗り込んでから声をかけるとバングラデッシュの人とわかり、当方は大感激で嬉しくて仕方ありません。コンパートメントは違っていても行ったり来たり懐かしのインド系の会話をしながら、私がダッカの空港で買ったメイド・イン・バングラデッシュのビスケットをかじりながら過ごしました。イスタンブールについてから一緒に博物館を見学しました。早朝にイスタンブールについたのですが、夕方のバスで仕事場のイラクに帰りました。いつまでも彼の姿が脳裏に焼き付いています。

来年の1月に帰国するというので、今回彼の住所を辿ってみました。お父さんが雑貨屋を営んでいました。2時ごろ訪問したらカレーのオンパレードで、私のために色々と準備してくれたようです。食事を終えて2時間ほど休憩したら、続いてスナックの時間になりました。とにかく大歓待をうけたわけです。

彼も私の事を覚えていてくれました。家族には、イスタンブールで妙な日本人に会ったことを話していたようです。彼の家についた時、本人は不在でお父さんにチラリとベンガル語で話すと、事情を察してすぐ私の正体が分かりました。タバコと紅茶の接待を受け、今度はリキシャで市内へ繰り出し、新設なる国会議事堂からニューマーケット方面に向かいました。まあのどかなものです。夕方から夜にかけてのニューマーケット付近は活気があります。日本の中小都市の商店街と変わりません。ここで彼は麻のハンカチを購入してプレゼントしてくれました。それにしても、知人、友人、親戚の多いこと。何軒かいくつかそんな人達のお店をぶらぶらして挨拶を交わし楽しい時間を過ごしました。なにはともあれ彼の精一杯の行為に甘えることにしました。彼は冗談が好きでさっぱりとした性格で仲々の紳士です。夕方8時頃までお付き合いをしてくれて、宿まで送ってもらいました。

「また機会があったら会いましょう。いつでもおいでください。5年後でも10年後でも待っていますよ。それは神様の思し召しによるものです。いつかは私も日本に行ってみたいと思います。ではお元気で。」

と固い握手で別れました。本当に良い人に会ったと思います。明後日からは半月ほどバンコクとシンガポールへ商用に出かけるそうです。何もない貧しい国バングラデッシュというイメージですが、どこかに心温まるものを見出すのがこの国ではないでしょうか?

 

10. 最近の動向

最近少しばかりダッカ市内のバスを乗りこなすことが出来るようになりました。主要な地名を覚えたことと、文字が少しですが、読めるようになったことが奏をなしたようです。今日は午後から新築された博物館に出かけました。チルドレン・パークのすぐ近くにあります。立派な建物ですが、入場無料しかし展示場の一部が空になっている部屋も幾つかありました。係員もまだ不慣れな感じです。

博物館で大賑わいしていたのは、エジプトのカイロの国立博物館でした。それとは極めて対照的です。この国が独立したのは1971年ですからつい最近です。日本の大阪EXPO万博は1972年と同じころで、東京オリンピックは1968年ですから、私達日本人にとっては、バングラデッシュの独立戦争が1971年に発生した事など念頭にないのは当然です。もっとも印象的だったのが、この独立戦争に関した展示でした。

そのほかの展示は矢張りヒンズー教とイスラム教に関したものが並んでいます。ヒンズー文化とイスラム文化が混在した土地です。近頃はチキンやフィッシュをふんだんに食べる生活になりました。3月29日のダッカ市内はリキシャのストライキがあり、一台も動いていません。それで市内バスは大混乱しています。

さて、今後の予定をお知らせしましょう。

3月18日 陸路でカルカッタからバングラデッシュへ入国。     クルナ

3月19日 ジェッソールの銀行へ借金を返しに行く。        クルナ

3月20日 博覧会とサーカスの見学。               クルナ

3月21日 クルナで船の切符手配。市場見学            外輪船

3月22日 終日船の旅                      外輪船

3月23日 今日は金曜日で休憩                  ダッカ

3月24日 そして土曜日も完全に休み               ダッカ

3月25日 インドのビザ申請、GPOそして高級ホテルで両替     ダッカ

3月26日 動物園と植物園                    ダッカ

3月27日 郊外のMohedpurに出かける。             ダッカ

3月28日 友人宅訪問                      ダッカ

3月29日 中級都市コミラにて休憩                コミラ

3月30日 10時間のバス移動                   シレット

3月31日 シレット滞在予定                   シレット

4月01日 シレット滞在予定                   シレット

4月02日 シレット滞在予定                   シレット

11. もう少しでアッサム

さて、コミラは平均的な都市です。付近には仏教遺跡があるので出かけて見ました。今回はここを経由してアッサムに近いシレットという街へはバスで8-10時間の距離です。宿のスタッフは賑やかで給料は一ヶ月300タカだそうで、マネージャークラスだとその三倍の1000タカと話してくれます。

新装のこのホテルは25タカでとても清潔です。だた、この国の特色としてシャワー室及びトイレは魚臭い匂いがたちこめる事です。ルームボーイが私の部屋に入って、いつまでも出てこないのに気がつくと、マネージャーが気を配って「ほれほれ、邪魔しないように」と気を配ってくれるのが嬉しい所です。片言のベンガリ語も少しずつ身について来ました。

今日は一日中バスの旅です。コミラを朝の9時10分発、シレット到着が夕方の17時50分ですから所要時間は8時間半です。道中一度だけフェリーで川を渡りました。もうそれは平原をひたすら走るのみです。2箇所ほど丘陵地帯といっても紅茶畑ですが、それを超えました。その風景は何となく北海道が南に移動したような感じです。中部インドのガンジス川沿いのビハール州の農村に似た風景です。

ここまで来るとインドのアッサム州がすぐです。何しろダッカから北へ300キロ北東に位置しています。ここまで来るとインドなのかバングラデッシュなのか区別がつきません。投宿しているホテルのマネージャーはアッサム語が母国語にしています。ルームボーイの一人はそのおじさんがアッサム州に住んでいるそうで、ここからとても近く20-30タカの料金で行ける距離です。つくづく国境という人為性を考えさせてくれます。

コミラの宿のボーイ達だけに限らす、一般的にこちらの人々はYESとTHANK YOUを良く使います。これは日本も同様な現象でしょう。英語が少し分かる人だと「名前は?国は?学歴は?職業は?と聞かれておしまいになるので少々うんざりする場合もあります。あまりしつこい場合は「何故そんな事を聞くのですか?あなたの人生に大切なことですか?」それでシーンとしてしまうのです。

外国で仕事をした人、外国に住んだ事のある人は、そのあたりは心得ています。コミラで会ったベンガル人は欧州に7年間住んでいたそうで、話の内容がより深いものになるのです。

12. 或る日の印象

この街もリキシャが大活躍しています。バス駅は殆ど郊外にあり、それも行き先によって異なりますから、大変です。この街は大きな川を挟んで2つの区になっています。おまけに、この橋は勾配がきつく、それを狙ってリキシャや荷車の押し屋なる商売がヒットしています。活気が溢れすぎの街と言えるでしょう。

そのほかに目立つことは、付近に竹林とココナツ林が共存していることです。人々は竹製の傘(三角形の形)をつけて東南アジア的な風情をかもし出しています。そして家の屋根が図のようになっています。荷物の持ち方も図のように。船は長細く、竹製の屋根がセットしてあるのもあります。川には竹で組んだ筏が往来しています。薪売も繁盛しています。

全体の印象は、ネパールという国を回教徒にしたような風土です。ここからインドのアッサムまではそんなに遠くありません。以前はアッサムのシロンには英国植民地時代の行政府が敷かれていました。さしずめアッサム風玄ガリとでも申しましょうか!

このバングラデッシュの風土、歴史を考えてみると、異質さを包含しているのです。古代においては、ヒンズー文化が栄え13世紀以降イスラム化が始まり、19世紀には西洋の影響を受けるという三極構造を随所で見かけます。

この国の食事風景は、魚料理が副食の主となっています。彼らの食事の後を見るとテーブルの上には骨が撒き散らしのままです。その後丁寧に拭くこともなく次の客が座ります。となると、店内には魚の匂いが充満してしまうのです。

私が日本に帰って食べたいと思う料理を並べてみると、次のようになります。

そうめん、竹輪の生をワサビ醤油で、がんもどき、インスタントラーメン、わかめの酢の物、酢だこ、沢庵、しめ鯖、鯨の川そしてイカの刺身です。

一般的に発展途上国の村の人々は早起きです。泊まっている宿のルームボーイはパトアカリの出身で実家に帰るには列車と船を乗り継いで二泊三日要するとの話です。今の所二年間故郷には帰っていないそうで、家には妻と6歳の子供がいるそうです。今彼は24歳で、今年は久しぶりに帰るそうです。一ヶ月の彼の給料は150タカですから、一度帰郷するに必要なお金は300タカですから大変な出費となります。まあ驚きの連続です。しかしこうした実態が存在するバングラデッシュです。

今日の会計

宿代:15タカ、タバコ6.5タカ、ビスケット4タカ、朝食3タカ、昼食12タカ、夕食11タカ、お茶二回:1.5タカ 合計53タカ=約2ドル 1タカ=9円

 

13. 高級中華料理店で400円の散財

今日は竹の故郷として有名なシレットから一気にバングラデッシュの大平原を縫ってダッカに向かいました。距離にして350キロを8時間半でこなすというのは順調というか、快適なデラックスバスです。インドのタタ社製の車内は意外と清潔でカーステレオ、12インチのサンヨー製白黒テレビ、飲料水の設備までありました。

道中三度もフェリーで渡りました。殆どが平地で街らしいものが少ないのでかなりのスピードで進みました。流石に今日のバスは高級だけあってほこりの量が少ないのです。コミラからシレットへのオンボロバスは隙間だらけで我が愛用のバッグとズボンはホコリだらけになりました。バスの料金と埃の量は反比例するようです。

今日は散財の多い日でした。バス代金が65タカ、ちなみに列車は50タカで10-11時間かかります。そしてシャンプーを購入しましたが、これがなんと150CCの小さなもので35タカですから、宿代以上の価格です。シレットでは二泊分の宿代です。シャンプーは高いものと予想はしていたものの、こんなに高いとは!

おまけに今日はダッカの宿の近くの高級中華料理店に入りまして、エビ焼き飯とチキン野菜スープを頼み36タカとチップ4タカが消えました。それからフイルムの現像代が3本で90タカ、これなら矢張りお金持ちと言われても仕方ありません。

このダッカの宿は何となくいい加減な所がありますが、楽しい所です。私の記憶に残っている印象的な宿は、なんといってもチッタゴンのニジャム・ボーデングハウスかもしれません。

 

14. 心は豊ですが・・・

この国できつく感じるのが貧富の格差が大きく目立つことです。実際はその格差はインド社会の方が大きいのでしょうが、見かけはこの国が大きいのです。ともうしますのは、実際に肌で感じる貧富の体感度です。即ち対比が強いとも言えるでしょう。目に付きやすいのです。インドの金持ちは私達の目に触れない場所で豪勢に活躍しています。ここでは目撃する場面が多いからです。ちょっと説明が難しいのですが・・・。

それに比べるとスリランカの庶民は豊かだなぁと感じます。インド、スリランカ、ネパール、バングラデッシュ、パキスタンの五カ国の一覧表を作成したら面白いと思います。物事を見慣れるということは怖いことでもあります。こちらに来て数多くのリキシャ、乞食、浮浪者、質素な小屋、ボロ布をまとった人、人の叫びなどおよそ日本社会と縁遠いものを見ても驚かなくなりました。どう判断して良いものやら不思議な地球です。

インドを旅する人、旅をしたい人の多くはいきなりカルカッタに入る人が多いようですが、ちょっと思考を変えて、ダッカ入りしてから左右をゆっくりと眺めるのも楽しいのではないでしょうか?カルカッタ、カルカッタへと熱が入り過ぎていませんか?ダッカからパキスタン

のペシャワールへのラインをゆっくりと旅をするもの一つの醍醐味です。

 

15. ダッカ遊覧、

今日がダッカ最後の日となりますので、市内名所をブラブラ歩き回りました。市内の目抜き通りにあるGPOを出発してサダルガート、ラルバーグ砦、ニューマーケット、シャー・バーグ、モグバザールの終点までです。その中でさしずめラル・バーグ・キラはインドのニューデリーにあるラル・キラに似ています。ムガール帝国の名残をとどめているこの遺跡はインドのそれより4分の一程度の規模ですが、ダッカ市内にある遺跡の中でもトップに位置するものでしょう。でも、ここは、一人で来るよりも何人かで弁当持参の見学が良いでしょう。なかなか立派な遺跡で、通称オールド・デリーと呼ばれ船着き場が近く、苦力達が必死で荷物の積み下ろしをしています。

さて、この街は病院が多い、学校が多い、老人ホームが多いという事で社会福祉が進んでいると判断を下すのは余りにも西洋的な思考にこだわり過ぎているのではないかと思います。その土地の習慣やシステムをしっかりと見つめて判断しなければなりません。大家族制度で身内で老人を介護する社会には老人ホームの建設が進みません。学校が多くあって中堅技術者の養成が進んでも、学業を終えた後、仕事がなくて、国外へ出稼ぎに行く状態になるとすれば、教育の普及が国を豊かにするものか疑問が沸いて来ます。

現地の新聞におやっと思う記事がありました。

週休二日制が週休一日となりました。今までは、日曜から木曜日の週五日間AM9:00からPM5:00だったのが、変更となり、土曜から木曜日AM7:30からPM2:00に変更になりました。ある家庭では、一ヶ月80タカ(800円)でリキシャを利用して送迎をしていたのですが、当然の事ながら費用が増加します。二人の子供達は違う方向に向いますから、大変なことになると訴えています。子供を歩かせるのは危険だし、ダッカの市内は歩道と車道の段差が大きく何度も登ったり、降りたりすると足が痛むとお金持ちの主婦がしきりと喚いています。

リキシャ車夫はもっと教育しなければなりません。そうすると事故は減ります。と語るのはダッカのビジネスマンです。更に続けて「彼らは田舎から出てきて一週間もすると市内をウロウロするからとても危ないのです」

 

16. ボグラに来ました。

バングラデッシュの北西部にやって来ました。ボグラという街です。ここで気がついたことは、ビハール・コロニーという地域があることです。この地域はインドのカジュラホの近くにベンガリ・コロニーがあるのと同じ意味があります。すなわち独立戦争の際に大量の難民を引き受けるための政策で、バングラデッシュには、インドに住んでいた回教徒が、インドには東パキスタンに住んでいたヒンズー教徒のグループが難民居留地として設定されていた事を物語っています。宿で働いている少年の一人は、そのコロニーに住んでいるそうです。またこの地域で、珍しいのはLAL TEA(赤い紅茶)を飲む習慣がありそれはブラック・ティーに生姜が入ったものですが、これはインドから伝来したものでしょうか?

泊まっている宿はカーン・マーケットの二階で小さな宿です。一泊15タカ(135円)の快適な宿で、階下の薬やの妹が日本にいるとのことです。ベンガル人の夫婦で技術者として日本で働いているのですが、その子供はベンガル人なのに、日本語しか話せない奏です。彼の家に出かけて日本語のテープを聞きました。

道中ナラヤンガートとアリサを結ぶフェリーは大きなもので川の流れが急なので一旦上流に向かい、再度下流に向かうので二時間を要しました。船の上にはレストランもあり、広大な川を眺めながらの旅に日本では味わうことはできません。

ミニバスは料金が50タカ。日中の日差しは強く、真正面の席に座ったので何度も冷や汗をかきました。ここでは近くのマハスタンガードへも出かけました。小さな遺跡でしたが、博物館もありました。

さて、バングラデッシュは地域によって少しずつ風土が異なって来ます。それは日本同様、県によって性格が異なってくるのと同じです。

シレットはインドのアッサム的

チッタゴンはビルマ的

ラジシャヒはインドのビハール的

そうなるとダッカはバングラデッシュの東京になるわけです。

 

17. 閑話休題

ボグラのカーン。ボーデング・ハウスはシングルで15タカでした。

昨日はかなり古い映画をみに行きました。自国の作品なもんで白黒映画でした。

バングラデッシュの人々から良く聞かれるのは「あんたの国はフリーセックス」どうなっているのでしょうか?

シレットの魚市場には、うなぎ、ドジョウ、こい、フナ、ウグイ等いろいろな魚が並んでいました。

今後の予定

4月9日から11日 ラジシャヒ

4月12日から14日 クルナ(バガールハット経由)

4月15日 カルカッタへ

 

18. 1985423日ダッカへの道

今日は国境通過で一日時間を潰すことになりました。国境付近では、自称両替商がしつこく食い下がって来ます。概して彼らのレートはそんなに良くありません。国境に設置されている公認の両替所では100インドルピーに対して190バングラデッシュタカです。国境の銀行では1ドル25タカとこれも良くありません。しかし、クルナの銀行では一ドルが26タカ、そしてダッカにやって来ると1ドルが31タカに跳ね上がります。これを上手に使うことが大切です。二割の開きは100ドルが120ドル分に変わるわけですから我々貧乏旅行者にとっては致命的な出来事です。

続いてクルナからはダッカへは夜行バスに乗りました。これも少しばかりスリルのある旅です。というのは、昼間のバスは60タカ、夜のバスは69タカです。この9タカの開きは安全料とでもいいましょうか、旧式銃を構えた兵士二名が同乗してくれます。

その他に日本と異なる点といえば、スーパーバイザーという職員が乗り込んで来ます。彼は不思議な役割を担っています。この役割はなんだろうとじっと観察していると、良い服装をして座席表を見ながら乗客を案内し、かなりの権限を持っている人なのです。

所でこのバスは真夜中の3時頃

 

19. バングラデッシュの恐怖

久方のバングラデッシュの旅はまずまず順調な船出をしています。しかし恐怖を感じるケースもあります。その点を2-3記して見ましょう。交通機関は命がけとなる要素が沢山あります。人力車に乗っていると、すぐ側をミニバスやトラックが減速することなく追い抜いて行きます。リキシャの運転手はそんな中を器用にハンドルを操作しています。

クルナからダッカに着いた早朝、ミニバスに乗った時のこと、バスはリキシャを当て逃げして去りました。幸い人身事故にならなかったもののがりがりと嫌な音を発しました。今日も、オートリキシャがガツンとリキシャにかすり傷を負わせていました。どうも、これが日常茶飯事なるようです。リキシャの乗っていて一番緊張するのは、右折する時なのです。

市内バスはいつも超満員ですが、この国のバスにはヘルパーと称する係が前と後の乗降口に配置され客の安全確保に努めています。その役割とは、駆け込み乗車と飛び降りを奨励するかのような感じです。成る程、乗ろうとする乗客の体を掴んで乗客を吊り上げています。そして二番目の役割は障害物となるような人間やリキシャそして動物を追い払うことです。大声で行き先を告げ、車体を二度連続して叩くのが出発OKの合図で、運転手ぴったり息を合わせています。

この国のバスはまさしく私達の生活原理に満ち溢れた乗り物です。比べると日本の都市を走っているワンマンバスが何となく不気味に見えて来ます。黙って行き先を見て乗り込み、掲示板通りの金額を払って、下車が近くになったら降車ボタンを押すという沈黙の世界です。

慣れてしまうとどうということはないのですが、毎日どこかで長距離バスがひっくり返って死者、負傷者をだしている記事が目に入ります。そんなエキサイティングな生活の日々を過ごしています。

続いての恐怖は食料事情です。格別に悪いということではありませんが、・・・。先日安飯屋で魚のカレーを注文しました。始めは調子よく喉を通ったのですが、小骨が多く泥臭いのです。結句全部食べたのですが、この魚は近くの沼に住んでいたのでしょうか?すぐ側

で人々が沐浴しています。同時に朝のお努めもしています。この水の中に水銀やカドミウムが混じってはいないだろうか?等と不要な妄想に駆り立てられてしまいました。最近は殆どチキンを注文することにしたのですが、この国の人にとっては川魚の方が海の魚より良いというのです。近くの川や沼で取れた魚のほうが新鮮な状態で出回るからなのでしょう。

さて、最後の恐怖は甘党天国です。いくつもいくつもお菓子屋さんが繁盛しています。残念ながら酒屋さんという業種は絶滅状態です。これは辛党にとっては大いなる恐怖です。少しばかり出回っているようですが・・・。以上がバングラデッシュのオソロシサです。時々強盗などが報じられていますが、意外と平静平穏な佇まいをなしています。いわゆる東南アジア的な南アジアとでも言いましょうか!

追加でもう一つ付け加えるとサイクロン(インド洋で発生する台風)でカレンダーでいうとバイサク(4月中旬から5月中旬)という月に多く発生します。ダッカに到着してその日の夕方に見舞われました。風速150Km/hなるちょっと大きいものです。天上界がみるみる間に暗くなり、時折突風が襲いかかります。看板やトタン板がガランガランと音を立てて降って来ます。それでもリキシャが向かい風なれど進んで行く姿には異様なものを感じてしまいます。

最高潮の時刻には、電線がバリバリーとまるで仕掛け花火のように火花を散らしながらショートし、結局は暗闇で停電です。3時間後には何事もなかったように再び、人々も交通機関も動き出しました。翌日の新聞では「4人死亡、200家屋(と言っても掘っ建て小屋)全壊と出ておりました。

これに竜巻が加わると、もう救いようがないのでは!時々トルネードの記事も掲載されています。そんな厳しい自然条件を再認識することになりました。ここ数日は平穏な日々が続いています。今のバイサクが終わると次は雨季がやって来るとの事です。

 

20. チッタゴンor チョットグラム

久しぶりの訪れたホテルニジャムは健在でした。但しスタッフが少し入れ替わったようで、マネージャーのギヤスッデキンはちょっと厳つく太った体型で、出身はフェニですが、この時間は職探しで町に出かけて不在でした。ルームボーイの一人でヌルル・カリムは一ヶ月前にトラブルがあってホテルの仕事をやめて、この宿のオーナーが経営する養鶏場の仕事に移動しました。当時カリムより若いロバニは新弟子のアユブ・カーンが入ってきたので格上げ、この宿で仕事をしながら学校に通っているタヒールも健在でした。

宿の入り口に差し掛かるとロバニが買い物から帰って来た所で、まさしく「やあ!」という感じで挨拶を交わしました。人の良い彼が受付へ案内してくれました。前回より値段があがり20タカから25タカになっていました。例によって、狭くて日差しの悪い部屋ですが、何故かここが好きになりました。ロケーションが良く食堂、茶店、雑貨屋が近くに揃っています。ルームボーイ達と雑談をしているとあっと言う間に一日が過ぎてしまいます。

機会があって、カリムの働いている養鶏場にも出かけてみました。なんの事はない製氷所も経営しています。一階がアイスクリーム製造所なのですが、インド製の機械は故障中。二階が養鶏場で屋上が宿舎兼事務所です。訪問した時に突然のサイクロンが猛威をふるい、ちょっと大騒ぎです。風が収まったあとは、カリムとラシッドの二人は補修作業に大童です。しかし、この最上階への階段は、梯子とでも言うのが正しいでしょう。

久しぶりに彼らの純真な笑顔に触れる安らぎの一時です。皆で近くの茶店に入った時に、とう言う理由かわかりませんが、「どうぞ肉を食べてください」と熱烈な接待です。断りきれず甘んじてしまいました。しかし、彼らはTeaとパロータ(小麦粉を焼いたもの)のみ注文しています。今日の肉の味は格別に美味を感じました。そんな平和な日が続きます。

ホテル・ニジャムのルーム・ボーイのロバニに渡したビニール製のコイン入れは、マネージャーが取り上げて、彼のポケットに入ってしまいました。

「俺がロバニにプレゼントしたのに、何故あんたのポケットに入っているの?さぁ返しなさい」と一言で問題解決です。ロバニはほっと一安心、嬉しそうに頷いていました。

21. ベンガル人の不思議

  • 今でも回教寺院の付属学校ではウルドー語(パキスタンの公用語)を教えているそうです。
  • 夜の8時過ぎに中華料理店に出かけたら着飾っている人々が沢山、家族連れも見かけます。一歩外に出ると全く違う国に感じてなりません。
  • バスの切符で座席番号はベンガル語ですが、時々私が外人とわかると算用数字で記載してくれます。しかしバスに乗り込み、表示を見ると全部ベンガル語ですから、どの席なのかわからなくなります。
  • インド人と同様にこの国の人々は平気で例のチューインガム(パン)を噛んでいます。青い茎の部分にたっぷりと石灰を塗り込んで美味しそうにシャブリます。そして最後は赤い汁をぶちゅーと吐き出しています。
  • 栓抜きは必要ありません。穴あけ器具で十分です。栓そのものに、ゴツンと穴を開けて飲むわけです。ストローで飲むもよし、そのままぐい呑でもよし。
  • 沼地での沐浴には石鹸不要なるようです。

 

22.  パブナへの道

早朝出発の予定が前日遅くまで友人と語っていたのがたたって、少々出遅れてしまいました。でも8時半には出発準備が完了です。リキシャに乗って西部行きのバス駅まで20タカでものすごく高額を示してくれます。その料金では無理ですから、市内バスのラッシュはいくらか緩和されたものの、超満員のバスで行くことになりました。幸いにすぐバスがやって来ました。後部の空席を見つけ5タカを出すと3.2タカのお釣りが来ました。ああラッキー。そして9時にバス駅に到着しました。出来て間もないこの地域、バス乗り場と言っても、ただの広場にバスが沢山並んでいるのみ。片隅に竹で出来た簡素な小屋が20軒ほど並んでいるのが切符売場兼事務所で、信じられない光景です。インド各地では立派なコンクリート製の建物が事務所兼切符売場になっているのですが、ここは、そんなイメージから程遠く、バスの駐車場みたいなものです。

行き先を聞きながら、次第に目的のバス事務所に辿りつき、40タカを払いました。すぐバスが出発かとおもいきや11時発とかで二時間待たなければなりません。その間スコールに見舞われましたが、定刻どおりに出発です。90分後には80キロ離れたアリサのフェリー乗り場に到着です。ここでバスともどもデンマーク製のフェリーボートで2.5時間の旅が始まります。

しかし一度に30―40台の車を上手にキッチリと積み込んで出発するのには、1時間要したのです。早いようで遅いようで、安全確保のためには仕方ありません。結局目的地には夕方の5時半に到着しました。

所でこのパブナは何もない小さな町ですが、かっこいい回教寺院がいくつもあるので有名だそうです。田舎町ですから宿代金は20タカとダッカの半分です。困ったことに共同シャワーの戸が取れてなくなっていたのです。仕方なくベンガル人のように腰巻きをしたままの姿での沐浴をしたのですが、どうもうまく行きません。石鹸分が残っていてベタベタするのです。

隣の茶店でお茶を飲むと油がギラギラ浮いています。飯屋に入ってライスは生煮えの状態です。昨日のダッカの高級ホテルでのコーヒータイム、高級中華料理店での夕食とは偉い違いです。

  • パブナの水は石灰分が多いのでアルミのヤカンの内側はゴトゴトで白くなっています。
  • 部屋の扇風機は天井に竹の棒を使って吊るしてある。
  • 空き缶を利用した茶こし器はどこでも見かける。(コンデンスミルクの空き缶利用)
  • 交通機関はダッカを中心にして各地を結んでいる。従って都市間の移動は不自由である。
  • 何もない土地でも何かがある。大都会ダッカと対比すれば良くわかりますが、地方に行くと乞食や浮浪者風の人々が増える。
  • 当然の事ですが、地方に行くと生活も食事も簡素になる。
  • ロケット・イクスプレスという列車は名前は素晴らしいのですが、時速30キロの、ノロノロ運転です。

 

23. 再訪を祈念して

今回のバングラデッシュの旅もまずまずの成果を見ることが出来ました。しかし南東部のテクノフへは再度行きそびれて残念です。しかし、インドからの帰りに再び立ち寄ってみようと計画しています。まあ事故にも遭わず、元気で旅を続けることが出来、神に感謝しています。但し、野菜不足になったかなぁ?

 

24. 両替証明不要

今日のチッタゴンは青空が広がって快適です。カルカッタよりも気候は遥かにマイルドです。そんな中をブラブラと旅を続けています。近くの大衆食堂では殆どがそうですが、ドラム缶に溜め込んだ飲料水をひん曲がったグラスにポンと出される事にも慣れました。

所で経済の地盤沈下でタカの値打ちはどんどん下がっています。そのほかにWEFという制度(Wage Eeaner’s Found)があり、出稼ぎ組みの外貨を有利に換金出来る仕組みがあり、そのレートは一ドル31.65タカになっています。

両替のため銀行に行きました、第一番目の試みはホテルアグラバッド内にあるショッピングモールの一角を占めるグリンドレイズバンクに出かけましたが、ここではWEFの適用が受けれず、一ドル28.5タカになると言うことで、棄却です。次にニューマーケットの向かいにあるチャータードバンクを調べてみましたが、ここでもレートが良くありません。奥から偉いおっさんが出てきてソナリバンクに行けば良いレートなることを教えてくれました。その言葉を半信半疑ながらも信じて出かけてみました。

変なおっちゃんがよって来て、何やら数字を記した紙をもらい一緒に行内二回の事務所のど真ん中で取引開始です。係官がバンクレシート(領収書)いるのかと質問したので、「さあ、不要だと思うけどDフォームもくれなかったし、システムが変わったのかな?」と答えるとにんまりとして、私の持っている50ドル札をモケットの中にねじ込んで引出しの中から1550タカを取り出して私に差し出しました。わずか数分の出来事であっけに取られてしまいます。どうも公式に闇取引が流行しているようです。手元には領収書なしでレートの良いバングラデッシュの通過が残りました。銀行内でこのような経験は始めてです。ともかく銀行で両替したのだから間違いはありません。

 

25. コックス・バザール

チッタコンで四日間休養して、更に南方に向かう予定です。急性の蕁麻疹を患ったようで、素人療法なれど、適当に薬を求めて安静にすれば安泰でしょう。ああ年かなぁ。

チッタゴンからコックスバザールに向かう風景はインドというよりも東南アジアの色彩を強く感じます。水田が拡がり、ヤシの木が繁り、丘には緑の樹木が続きます。それはちょうどタイの山岳部(チェンライやチェンマイ)を高速バスで走っているのと同じ風景です。時々ゴムと紅茶畑が目に入りますが、多くは水田地帯です。乗客35名のミニバスは全員が男で、悪路を疾走するので何度も体がポンポンと浮き上がります。追い越しの際にはガリガリと相手を傷つけても平気です。まあ大きな事故に会うこともなく無事到着することができました。

夕食時にレストランに入って何が出来るのか質問するとチキン、マトン、魚、そしてイッソマスと名が上がりました。イッソマスというのはスリランカでは小エビのことを意味します。もしかして、と懐かしい思いで注文したら、案の定頭と尾を除いた殻付き小エビ(1-3センチ)がカレー風佃煮という感じで出てきました。ちょっと無理をいうならば、熱を加えすぎたものか、香辛料の使いすぎなのか、エビの風味が抜けてしまっているのが残念

です。料金はエビカレーとご飯のセットで13タカですから比較的安価で、さしずめ70点といえましょう。こちらの人の感覚ではエビもうなぎもナマズも全部魚類仲間としています。以前スリランカのレストランでマネージャーと議論になって「エビはエビなのか、魚なのか?」と議論して追加料金を払ったことを思い出しました。いや文化の差異は随所に見受けることが出来ます。そろそろイカやタコを食べたくなりました。あと一ヶ月ほどすると、毎日がそうした日々になるものと予想しています。

この国はやはり回教を中心とした国でやたらと甘いものに老若男女が群がっているのです。乾燥暑のデカン高原内部のモスリム人口の多い土地ではチャイハナ(茶店)よりもサトウキビジュースの店が流行っています。日本の赤ちょうちんに似た雰囲気ですが、ここではお酒の代わりに甘い甘いジュースが登場するのです。この甘党の習慣はもしかして後で大病を引き起こすのかもしれませんが?

街の大通りからちょっとばかし路地に入り込んだヒンズー寺院からシャンシャンと遠慮気味で夕方の儀式の楽器の音が響いて来ました。

26.ゴメンナサイ

この緑豊かなバングラデッシュも近代化していく過程で随所に矛盾を見かけます。開発途上国のいずれもがそうであるように、急激な生活の変化に大衆が追従していくには、その国の文化的基盤が確固としていないと悲惨でもあります。日本から輸入される高性能の中古車は、その用い方を誤ると簡単に殺人兵器になります。

南アジアでの車両の運行状況を比較すると、

  • ネパール人は比較的落ち着いた運転をします。
  • スリランカでは少々お金もちなのでタイヤが部品を交換する余力があります。
  • パキスタンはある程度の基礎力と資金を使ってやりくりしています。
  • インドは完全自国でマネージメントします。
  • バングラデッシュは、雨が降っても修理せず、つるつるタイヤを使う。

また医薬品の使用に関しても乱用気味で毒と裏腹をなしています。もちろんインドも同様なのですが、その違いというのは、インドが古来の漢方処方(アユルベーダ)を確立しており、それが現代医学と平行して進んでいます。ここではインドの偉大さを感じざるを得ません。現代化を図る際に、古来から受け継いだ文化を主体にしながら、進展をしていくというパターンです。

バングラデッシュの場合、それが極めて困難なようで、人種としてはベンガル人(元はヒンズー)で宗教がイスラム教中心です。気候風土は東南アジア。更に現代生活には欧米諸国の影響を受けざるを得ません。

タイやトルコは、自国の文化を維持しながら、既存の伝統と調和を見せながら異質な文化を取り入れて現代化していると見受けます。

バングラデッシュの混乱というのは、例えばアラブ諸国(回教国)では赤十字の代わりとなるのがレッド・クレッセント(赤三日月)なのです。しかし、ここでは回教国でありながら赤十字の車が走っています。最貧国という地位から抜け出すのに西洋からの援助に頼らざるを得ません。行政方式は英国の植民地時代の名残で英国式が採用されています。今後増加する人口を考えると救いようがない感じがします。バングラデッシュの皆さんゴメンナサイ。

今滞在しているコックスバザールは辺境です。店頭でビルマ製のタバコが最低価格で販売されています。新聞は2日前のものが揃っています。物価は少々高いのですが、のんびりと、気が遠くなるような世界です。

 

27.辺境の街テクノフ

辺境の地テクノフに出かけてみました。コックスバザールから更に南に80キロ、バスで約3時間13タカの旅です。オンボロバスは雨漏りしながら、必死の様相で丘を登り、完全停止をせぬままに、乗客の入れ替えを行います。それは辺境を走るバスにふさわしい風情を持っていました。

幸か不幸か、到着の日も、その翌日も小雨が降りしきり、国境の街、いや村にふさわしい気候です。低く垂れ込めた雲の下には、広大なナフ川が流れ、対岸には黒い密林地帯が続くアラカン山脈がそびえています。聞くところによると、ここは雨が非常に多い土地だそうです。町と言っても、それらしい気配もなく、場末のバス停の終点に数軒の掘っ建て小屋風のレストランとタバコ屋が、そして町の規模にあわない中級のホテルが1軒、他にパラパラと銀行と政府の官舎が目に入っておしまいです。

夜ともなると蛙の鳴き声が響き渡ります。この宿にはビルマ人も何人か滞在しています。船で往来するそうで、夜明けから日没までの往来が許可されています。

見るからに対岸にそびえる巨大な山塊と大河に挟まれた天然の国境です。ここまで来ると回教徒の勢力は半減するようで、アラカン超えをすると仏教社会が形成されることになります。

バスの便は良く、大まかに毎時運行されています。何しろ辺地ですから品物の種類が極端に少なくなります。食堂が提供する水も透明ではありません。ここを起点に西に向かうほど文明度があがり、品物の数が増え現代生活に近くなっていくのです。

概してバングラデッシュは西高東低で経済の豊かさが分布しています。今は丁度田植えの季節ですから、竹製のかごを被って農作業をしている人々をよく見かけます。地元の人々は雨に濡れても平気なようです。改めて、太平洋戦争の時に実施されたインパール作成の無謀さを感じてなりません。

 

28.水に浮かぶ国

さて、バングラデッシュの総印象ですが、水郷に生きる人々、そしてリキシャの国この2つが頭に浮かびます。雨量の多さでは我々の日常とは大きく異なり、雨に対する意識も当然の事ながら違って来ます。少々の雨は雨ではありません。東パキスタンと西パキスタンの分離はこの、大きな風土の違いを認めざるを得ません。肌のカサカサ人とミズミズ人の対立とても申しましょうか。

この沼地族人間にとって河そのものが生活の場なのでしょう。途中に幾つもの大河が道路を分断し、フェリーを乗り継いで目的地に向かわなければなりません。どんなに大きな川幅があっても右岸と左岸の往来はあり、同様な生活を送っています。アレクサンダー大王やジンギス・カーンはさすがこの大河には難問だったようで、攻め落とすことが不可能でした。しかし、地元の人にとっては何の不自由もありません。

この国がリキシャの密度で世界第一位に輝いています。インドよりも繁盛しています。8月中旬の新聞にはリキシャマン10余名が日射病で病院に運ばれ7名は応急手当てを受け帰宅、残りは療養中だそうです。表を見れば、その密度の高さがしっかりと分かるでしょう。

経済の側面から考えると世界から取り残されそうな状況で、あまりにもおそすぎた感じがします。バングラデッシュのお金持ちも愛想をつかしていることでしょう。徐々に改善されていると言えども、コメとジュートと魚しか育たない土地ではハンディが大きすぎます。これが、沼地国家、水郷国家の宿命なのでしょうか!

 

29.甘党天国

このバングラデッシュという国は不思議なもので、旅がしにくいというものありますが、回教色があまりにもギンギンとたなびいているのです。外国人は高級ホテルでの飲酒は可能ですが、現地の人々には不可能です。麻薬及び酒類取締Gメンが活躍しているようで、時々新聞記事には、どこそこでワインを押収など報告されています。

ここでワインの代わりに登場するのがコカ・コーラやファンタそしてセブンアップの類です。概してセブンアップに人気があるようで、要するに甘党なのです。これはフィリピンやタイなどでも人気があり、ウイスキーのコーク割など楽しむことが出来るのですが、この国ではそういうわけには行きません。

同じ回教国のパキスタンと比較しても少々異なるようで、パキスタンの田舎では、矢張りチャイとお水のもてなしです。バングラデッシュでは、どんな田舎でもコーラの類が店先に並んでいます。価格の差はコーラが5タカでチャイが1タカですからその差は大きいのですが、中流階級のステータス・シンボルにもなっています。世界的企業のコーラやペプシ社が、バングラ人の甘党に目をつけて煽っているようにも見えます。

一種の弱い国に対しての文化汚染の側面が見えないわけではありません。経済侵略とも言えるでしょう。インドの場合は自国産の清涼飲料水リムカというレモン系の炭酸飲料が人気を帯びています。いやこれしかないから?イタリアの会社との合弁なるようですが・・・。しかし、インド製のコカ・コーラもあり、カンパコーラという名称で模造品を販売しているのがインドの面白さです。時々インドでリムカを飲みますが、どうも薬臭いのです。

自然の牛乳をふんだんに注いたチャイや南インドのコーヒーを飲みなれていると、今一つインド製コーラには手が出ません。そんな中でスリランカに行くと本物のコカ・コーラが手に入ります。経済の自由化の波に乗っていち早く市場開放をした結果でしょう。地元資本のジュースメーカー(象印とライオン印の飲料会社)は苦戦を強いられています。映画館での宣伝も巧みで、これならば購買意欲を燃え上がらせてしまいます。

概して、南アジアの各種の主要な宣伝は、飲料水とタバコと化粧品がやたらと溢れています。

30.血染めの休日

明日8月26日はイド・ウル・アザーという犠牲祭が始まります。生贄祭りに捧げる家畜市場が、今はその準備で町のあちこちが賑わっています。ちなみに価格は中型の牛で4000から9000タカ、羊は900から1700タカ、大きな牛だと30,000タカもするそうです。(1タカが8円です。1ドルが240円)

この回教国の重要なる祭礼は三日間の赤丸がついていますが、実際はその前後をあわせて10日ほどの連休になります。日本で言えば新年のようなもので、皆さん衣服を慎重し新しい靴を用意するので、市場も賑わっています。もちろん羊や牛も角に飾りをつけられ、花輪を飾られて売りに出されます。生きたままの鶏や鳩、アヒルの部類も路上商人が手ぐすね引いて客を待っています。

さて、ここで考えてみると、このような状況にあれば、牛を神聖なものとするヒンズー教徒と回教徒が分断されるのは当然の事です。この祭日には生贄となる数百万頭の動物の命が失われてしまいます。しかも何と一日の出来事です。熱狂的な日でもあり、情熱の日いや、欲求不満解消の日なのです。正しくは宗教的に意義のある行事なのです。10軒に1軒の割合で生贄を捧げるとも聞きます。盛大な血祭りの儀式があちこちで行われます。別名クルバニとも呼ばれています。インド映画のヒット作に同名がありました。以前スリランカで見たデーパワリ(光の祭典)で何百、いや何千という量のココナツが、山車の進む前方に投げつけられて割られていました。ベンガル人の重要なお祭りのドルガ・プージャにしても動物を犠牲にする事はなかったと思います。(ドルガという神様は血を好むそうですが・・・・。)

しかし、一見温厚そうなネパール人でも、ダサインというお祭りには水牛をあのククリ刀でバッサバッサと殺っちゃいます。これは、菜食主義者の多い南インドのヒンズー教徒にとっては耐え難い事でしょう。幸いにネパールと南インドは遠くはなれているので、他人事ですまされるのでしょう。こうして考えてみると、ヒンズー教徒と回教徒の対立は宿命的なものかもしれません。

この日が近づくとダッカ市内で働いている人々は村に帰り、がら空きになってしまいます。宿の従業員の多くは里帰りをしています。いつも行きつけの食堂も今日は閉店し、お店も多くがシャッターを閉めています。趣向を変えると、このお祭りの日をめがけてバングラデッシュに入るのも一興です。いや訪問しないほうがいいのかな?

さて、祭礼当日がやって来ました。路上にはおびただしい数の家畜の皮が山積みになっています。ちょっと路地に入ると犠牲となる家畜が四足を縛られて、瞬時に殺られてしまう現場を目撃してしまいました。毛皮市場の周囲には、山と積まれた毛皮がリキシャで運ばれます。勿論毛皮運搬リキシャで狭い道路は渋滞しています。誰もが袋に入れた肉塊を持って往来をしています。中には、家畜の片足一本まるごと積み込んでリキシャに乗り込む客も珍しくありません。

ここ数日間は富めるものも貧しい者も肉攻めとなります。お裾分けという感じで小袋に入れて持ち帰る人もいます。金持ちの人は、貧しい人に喜捨をするのが宗教上の掟ですすから、スラム街にも肉の匂いと煙が立ち込めています。でも良く観察すると同じ肉でも食べ難い部分が多いようで、骨や皮にこびりついた肉片を削ぎ落としたものを食しています。

こうして、裏通りはプーンと動物臭が漂って来ます。流れの悪い排水路は、油と血の混じった怪しげな液体のたまり場と化します。夕方になると、血飛沫にまみれたシャツとルンギ(腰巻き)姿の殺し専門家が一人で二-三丁の大型ナイフを手にして帰路につきます。

さて、今日は投宿している宿の奢りで昼食を頂きました。とにかく、おもてなしをするのが礼儀だそうで、日本のお正月気分です。でも日本のおせち料理は最高なのですけど!

この祭礼はイスラム暦のZIFTHAJ月の10日目に開催されるわけで、本家本元のアラブ諸国ではラクダが犠牲になるそうです。しかし、ここにはラクダがいませんから、代用として牛や羊に変化してくるのです。こうして考えると仏教徒の穏やかさの理由が浮かび上がって来ます。肉食をすれば、仏教徒でも同じことで、動物を殺してはいるのですが、ちょっと違うような気がします。公衆の面前で殺戮するか陰で殺戮するかの違いでしょうか?インドの菜食主義者の穏やかさの理由がここにあるのかもしれません。この行事がイスラム暦で計算されるという事は、シーズンも異なる年になります。雨降りの続く雨季だったり、寒い冬だったり、寝苦しい暑気だったり!

31.野菜食べたい

今日8月29日は久方に長距離バスの旅でした。10時30分に出発したラジシャヒ行きのバスは269キロの道程を9時間要しました。料金は58タカ円換算で415円という料金です。ちょっときつい旅でした。出発の20分前にバス駅に到着したので最後尾のマド側の席となり、揺れが極めて激しかったのです。

例によってアリサとナガバリの区間はフェリーの旅です。バス車体そのものも同時に運ぶので、この時間はバスの行列が続きしばらく待たなくてはなりません。結局1時間待ち時間プラス船の運行区間で2時間、合計三時間かかりました。河ともつかず海ともつかず湖ともつかない中をスウェーデン製の中古船が私達を対岸に届けてくれるのです。空腹を感じたので食堂に入って聞くと今日は魚しかないので、やむなく豆のスープとお魚一切れの簡素なランチになりました。

体調が不調ではなく快適なのですが、普段肉食をしていると、こうした素食、節食も良いものです。そうそう思い出しました。チッタゴンで偶然に入った食堂で、今までの最低料金の食事を注文しました。わずか6タカで野菜カレーとご飯と薄い豆のスープという組み合わせでした。振り返って見ると、体が欲していたのかもしれません。

なるほど回教徒の行う断食の生理的根拠がわからないでもありません。毎日飽食していると、節食も必要なのかと勝手に解釈をしています。

日本と違うのは生野菜の不足を感じてなりません。食事の時に提供されるかけら程度の玉ねぎときゅうりを刻んだものに唐辛子が混ざったサラダ風なるものが登場するのですが、これが美味しくてたまりません。

西洋の栄養学がベストとは申せませぬが、この国の人々の野菜感は我が国のそれと大きく異なり、バングラだけではなく、南アジアに共通しています。生野菜らしいものは大根スライス、玉ねぎスライスそしてきゅうりのスライスでしょう。

今はグアバの季節で、この果実は甘みも少なくさっぱりとして果物というよりも野菜に近い食べ物で、一個5円で手に入ります。(加工賃、切ってくれます)カリカリとした舌触りは蕪のようなものです。通称マサラロボン(唐辛子入りの塩)をたっぷりと振りかけ皆さんクチャクチャと食べています。マンゴーの季節は終わり、今はアムラとジャンブル(グレープフルーツ)のシーズンです。パパイヤも時々見かけます。パイナップルも時期です。

車窓からはジュートの取り入れや加工風景を見ることが出来ました。路上にはジュートが干されています。こちらで仕事をなさっている日本の看護婦さんに話を聞いたら、甘いものと辛いものを同時に食べるのは糖尿病を無縁にしてくれるそうです。伝統的な生活の知恵がここにも垣間見ることが出来ます。

32.旅は労働

1.     Dhaka-Rajshahi 9hours 58Taka 269Km

Luxury Bus アリチャからナガルバリのフェリーは2時間

2.Rajshahi-Bogra 2.5Hours 22Taka 120km

Coaster (Mini bus) フェリー一度あり

3.Bogra-Shiraz Ganji 3Hours 12Taka 100km

Old mini bus フェリー一度あり。めちゃ混み

4.Shiraz Ganji-Buhapur Ghat 1.5Hour 4Taka 20km

Boat 広大な川を横切る

5.Buhapur Ghat-Buhapur Town 0.5Hour 3Taka 5km

Cargo Riksya

6.Buhapur Town- Alangai 1Hour 3Taka 25Km

Local Bus

7Alangai- Modhapur 1.5Hour 8Taka 40Km

Truck

8.Modhapur-Mymensingh 2hours 9Taka 50km

Deluxe Bus

9.Mymensingh-Dhaka 3Hours 22Taka 130k,

Coaster(mini bus)

 

さて、上図のようにコースをとってみました。詳細は左に記してあります。このコースでは今までのバングラデッシュでは気づかなかった一面を見せてくれます。特にシラジガンジやブハプールからダッカに向かう南路線は容易なのですが、北に向かうのは極めてふべんだったのです。人専用のリキシャがなく、荷物専用リキシャが代行していたり、トラックがバスの代用になったり、ともかく人々がごちゃごちゃ動いています。

メインルートなるダッカ起点の各都市雪は比較的整っていますから、ダッカからチッタゴン、ダッカからシレット、ダッカからクルナ等は比較的スムーズに移動が出来ます。所が東西の横断には極めて難しい部分があります。ボグラからシラジガンジに向かう時に乗ったオンボロバスは凄かったものです。トヨタハイエースが正面を飾り、後部は大改造木製のめちゃくちゃな代物です。それでもコトコトガタガタとうなりながら跳ぶように走り、亀のようにのろのろ走りながら乗客の乗り降りがなされるのです。

数えて見るとざっと60人が乗り込んでいます。屋根に15人、シートは30席分、そして立ち席で15人以上です。これで良く走るものです。まあ距離の割に料金が安いのも頷けます。こういった類のバス車掌は重労働で、叫びっぱなし、喚きっぱなしで一瞬の油断も出来ません。慣れというものは恐ろしいものです。

  • ブハプールガート(ガートは船着き場の意味)ブハプールの市内までは荷物用力者で移動です。どうもあれは乗り心地が悪いのです。何しろフラットな板一枚が座席になっていますから。
  • この近辺の交通事情は概して想像以上に悪く、トラックが駆り出されて乗客を運んでいます。トラックは床が高く眺めは良いのですが、時々並木の枝にぶつかりそうになりますから前方注意が肝心です。
  • 不思議な現象としてバスにわぁーと人が群がって乗り込みます。一度はガンガンになってから、又人々が下車してしまうのです。行き先の違うバスに乗っかる人があまりにも多いわけです。急行バスは定まった場所にしか停車しません。それで間違って乗り込んだ人がどんどん降ろされてしまいます。こうして車内の混雑は緩和されていくのです。
  • 良く見かけるのが乗車拒否です。この国では客も乗務員も激しく口論しあいます。口論と言っても我々の口論とは違います。区間によって交通規則の取締が厳しい場所もあるので立ち席禁止になっているので、二人掛けの座席にむりやり三人が座ったり、中腰になったりして偽装を繰り返しながら検問をくぐり抜けていくのです。
  • 車掌がドアをガチャンと閉めてしまっても、乗客は車体にしがみついているものですから、彼らを追い払うにも必死です。下車したい乗客は本当の停車地から50メートルから100メートルも離れた場所で誰も乗客が乗り込まない場所を選んで停止します。となるとお客さんは再び停留所まで徒歩でバックしなければなりません。
  • 元来行き先を告げて、車掌のOKをもらってから乗り込むのがルールですが、あまりにも大量の客が強引に割り込んでくるので処置なしです。
  • バスに乗るのは戦にでかけるようなものですから、これでは村の人や老人、婦女子などの弱者は安心して利用することができません。
  • 村の人の朝食は前日夜の食べ残しをお粥にして食すのが一般的です。
  • ヒンズー教徒の商店には小さな神様のブロマイドがひっそりと飾られていますが、モスリム系のお店はこれでもかと自慢げに大きく、キラキラする回教徒風のパネルを展示して商売に励んでいます。
  • 回教寺院からは一日五回大きなマイクでガンガンお祈りのアザーンを響かせていますが、ヒンズー教徒のプジャはさしずめ少年合唱団のような静けさを保っています。

33.清く正しく

年とともに、この国は回教色が強まってイスラミゼーションが進んで行きます。禁酒なれどもタバコに関しては歓煙とでも表現したら良いでしょう。一本1.5タカの外国産の555が売れています。ブルーフィルムをビデオで見せる店があり、売春婦が取締の摘発にあうという事は多数いるという証です。映画館でも闇切符販売が横行し、密輸品がバンバン販売されドラッグはバングラデッシュのチッタゴン港を経由してビルマからの製品が国外へ運ばれる始末です。バスが横転して一度に50人の死者を出し、サイクロンで一気に10万人がなくなる国です。電線がぶらりと垂れて感電死、池の中で死体を発見、少女への強姦事件、そして毎日100人以上がダッカで各種の事件や犯罪で捕らえられています。

こうして眺めるとまさしく地獄国家、犯罪国家のように感じるでしょう。しかし大半は善良な市民ですから、あまり心配するには及びません。何処の国でも断面記事はこのような事件で溢れています。規則として定められているのは、あれもダメ、これもダメと言いながらも各種事件が発生するのです。清く正しく暮らしましょうが前提なのですが・・・。しかし目に着くのは初歩的な事件であり、日本のように知能犯とは異なります。紳士的な服装をしていても、心の中は濁っていてやましい事を考える人々ではありません。

町の中でビニール袋に入ったピーナッツを1タカで売る少年の手には、連続してつながっている袋を切り落とすためにカミソリの刃を握っています。その替刃が一枚1.75タカです。こうした光景を見ると、これがバングラデッシュなのだと感じるのは私だけでしょうか?

少年の目には清く正しくという空気を感じてしまいます。

価格体系が全く異なります。鍋つまみというのは必要のないもので、紙切れか布で代用しています。昔も日本はそうだったのかもしれません。

 

34.バングラ様々

バングラデッシュの河はあくまでも土色です。褐色を呈しています。ナイル川は青かった

インダス川は緑色そして、日本の河の色は無色透明なのです。

バングラデッシュの人が移動する時には何も持たなくても良いのです。ルンギ(腰巻き)はそのままハンカチの代用もします。歯磨き粉も必要なく炭の粉のようなものを指に塗りつけて、ゴシゴシプチューンで終わりです。髭を剃る習慣がないので、特別毛深い人でなければひげそりも必要なしです。信じられないほどの小さな荷物です。スーパーの袋に着替え用のルンギを入れて身軽に出発する姿は羨ましい限りです。

これで、何百キロも離れた身内や友人宅に転がり込むのが実情です。ポケットに少しばかりのお金を抱いているのでしょう。無駄のない何もない暮らしで、日本の大量消費社会と大きな違いがあります。

先日現地の新聞に核戦争が発生した場合、汚染の少ない食べ物はお米とチキンだと記載がありました。となるとこの国は滅びないで済むかもしれません。

ゆっくりと旅をしてみると、この国の持つ野性的な一面に感心せざるを得ません。原始的とは少しことなり、人々は衣服をまとっています。列車もあり、飛行機もありバスもあります。そんな意味でインド亜大陸の旅はいつまでも興味が尽きません。

バングラデッシュの場合はインドと異なり、アプローチし易いと思います。それはあたかもインド国内でもタミル州を訪問するような印象を受けます。

今がジュート収穫の時期です。農民が沼地で腰まで水に浸かりながら作業をしています。それがバングラデッシュ的な光景の一つです。

凡そ一億の人口を抱えた大国、なれどもデルタ地域という不利な条件。モンスーンが幾多の命を飲み込んでしまう国です。当然のことながら生産性も伸びず、いつまでも最貧国にとどまる歯科ありません。もし外国からの援助がゼロとなっても人々は暮らし続けるのでしょうが、その水準がどのように低下するのか想像がつきません。

バングラデッシュの医薬品の三割がインド製で占められ、サリーの70%もインド製であることに対して次の記事が雑誌に載っていましたが、どうも反インド系のプロパガンダに見えてしまいます。その内容とは、

「それは我々にとって公害であり、バングラデッシュの我々はもっと国内産品を愛用しなければならない・・・・」

それならば何故日本製の自家用車がやり玉にならないのでしょうか?もちろんこの国では輸入に頼るしかない。何故コカ・コーラが文化的汚染だと騒がないのでしょうか?一部の人々はインドに対して激しい敵愾心を持っているようです。

イスラム国家の建設を目標に掲げながら、欧米諸国に援助を要請し、日本製品を褒めちぎりるのが疑問でなりません。約15%のヒンズー教徒を抱えている国ですから、その数はおよそ1500万人となり、一つの国が出来てしまいます。所得水準が上昇するとこうした自立、自治権要求、独立への動きが高まる可能性がありますが、ここはスリランカと違い、まずは起きることがないでしょう。スリランカの場合は北部と北東部に文化、宗教の異なるタミル人が多く住んでいるという背景とは異なり、ヒンズー教徒は分散して生活をしているのがこのバングラデッシュです。

人口問題、経済問題等大半の開発途上国は工業化によって乗り切ろうとしています。でもそれは手法としてオーソドックスなもので、この国唯一の輸出産業である衣料品や皮革製品の製造は落ち込んでいます。世界各地の競争が激しくなり、今までのようにうまく行きません。何らかの新しい方法を探る必要があるように思います。

こうした国々の中でスリランカは出稼ぎによる外貨収入が第一位を占めるという好条件、好環境にあります。途上国では農水産物の輸出か軽工業製品の輸出もしくは観光産業の整備が従来のパターンでしたが、ここに新しく出稼ぎ産業が加わるようになりました。

まあ良く考えて見ると、日本でも農村から都会へ出稼ぎにいくという場面を想定すれば同じ事になるのでしょう。

 

35.新聞記事から

バングラデッシュ・オブザーバーという英字新聞があります。9月5日号に、児童問題が取り上げられていました。一部転載します。

  • 幼児死亡率は1000人に対して117人
  • 80%の農村部の子供は栄養不良。
  • 毎年35,000人の子供がビタミンAの不足で失明する。
  • 5人中4人の子供は、体内に虫がいる。
  • 5歳以下の子どもたちの1割が破傷風になっている。
  • 婦人の四分の一は10-49歳でなくなっている。
  • 87%の農民は天然便所を利用している。
  • 27%の子どもたちは一生に一度しか医師の顔を見ることがない。
  • 人口の5%が精神障害者。
  • 500万人の子供達が身体障害者である。
  • 4700万人の子供人口の中で、小児専門医は46人のみ。
  • 国内の総病床数が26,000床。その内子供用が800床(ダッカ子供病院の225を含む)
  • 初等教育(五年間)の児童数1,500万人中850万人が在籍。
  • 准中学(三年間)の進学者は300万人。
  • 高等学校(2年間)へは250万人が進んでいる。

等などで、改めて悲惨な実態を報告しています。実際はこれよりも悪いのかもしれません。日本の過保護なまでの教育事情と過剰医療を比較すると複雑な気持ちになります。日本の国が進歩し国力に富んだ結果と手放しに喜んでいていいものでしょうか?複雑な心境です。

安食堂、安宿で働いている10-15歳の子供達はダッカを離れて地方に行くと一層目に付きます。勿論ダッカにも沢山います。癩病患者の集団が乞食巡業をしています。文盲の人々も見かけます。等など記載すると、とても恐ろしい国に見えてしまいます。しかし、これが現実のバングラデッシュなのです。

 

36. 墜落事故

ちょっと話は異なりますが、JAL123便のボーイン747機に関してですが飛行機会社が墜落事故解明に真剣に取り組んでいないように感じます。英国で火災を生じたボーイング737機については必死に原因究明に乗り出しているのです。これは有色人種の僻みかもしれませんが、そう思い当たる節が多いのです。

もう一つの理由は、これだけ飛行機の数が増えたのでスチュワーデスは美人から普通の女性になり、優秀な機長も普通の機長に変わり、機体も老巧化して翼のネジが緩んでいたのかもしれません。

と言いながらも当方もそうした飛行機に乗せてもらうことになりますが・・・・。

もう一つ世界情勢ですが、欧米諸国では人口受精などの研究がどんどん進んでいますが、その割に熱帯医学の部門は遅れています。これは、どう考えても「有色人種の事はまあ、どうなってもいいから」というような空気を感じてなりません。

 

37. 日本の20分の1の生活

サトウキビの原産地は東南アジア及びベンガル地帯となっています。砂糖といえばキューバが有名ですが、これはコロンブスによって持ち込まれたもので、梅毒と同様で世界にあっと広まってしまいました。だからこの国が甘党の発祥地とも言えるでしょう。

人口一人あたりの生産性を考えると日本の20分の1の規模しかありません。

さて、この社会を眺める場合、我々の持つ物質的に慣れた見地をちょっと変えて、8割の農民の側にたって考えてみると面白いものがあります。

今はグレープフルーツがシーズンで収穫期です。主たる産地はバリシャルですが、ここでは一つ1タカ=10円です。ダッカに来ると3タカ、チッタゴンに来ると5タカと距離が伸びると値上がりします。となると、輸送コストが大きな比率を占めています。でも実際には、近年の流通システムでは商品価格に含まれる流通コストはごく僅かなはずですが、どうなっているのでしょう。

外国産タバコ555を例にすると、密輸基地のチッタゴンでは22から25タカ、ダッカでは30タカするのです。いや誰かが、中間業者が暴利を貪っているのでしょう。

 

38. 再び児童問題

児童問題に関して、更に翌日の記事がありましたので、追記しましょう。

  • 45,000の初等学校は無料教育で夫々の家庭から1マイル(6キロ)以内の距離にあり、18万人の先生がいる。就学児童数は1,500万人中850万人でその中で女子は350万人
  • 320万人が第一学年、そして180万人が第五学年
  • 35%の児童は学校に行かない
  • 600万人余の未就学児童のなかで女子はその三分の二を占める。
  • 最終学年(五年生)の終了率は30%で1960年の統計では33%
  • 毎年250万人の児童がドロップアウト(中途退学)第一学年で放棄するのは45%で140万人。二年以内でやめるのが16%で50万人、第三学年と第四学年でやめるのがそれぞれ9%
  • 識字率23%は過去20年間変動していない。

これがバングラデッシュの実情で日本と比較すると教育の貧困は明らかです。米国のエネルギー消費量は国民一人当たり石油に換算すると、インドの100倍になると聞いたことがあります。砂糖の消費量も何十倍と開きがあります。先進国と発展途上国の差は一向に縮小しません。

 

39. サイクロン

バングラデッシュでは、西部すなわち、パブナ、クルナ、ジェッソール方面は比較的ヒンズー教徒が多く、ノアカリ、チッタゴンでは仏教徒が多いそうです。

今年5月中旬に大きなサイクロン(台風)が発生しました。その際20万人もの人々が安全地帯に避難したそうです。高波にのまれて海や川に漂っていた人々は鮫やワニの餌食になったと聞きます。ざっと2億弗の財産と14万頭の家畜を失ったそうで、人口一億の国での一人当たりの年間所得140ドルからすると、極めて大きな被害です。1963年には25,000人、1970年のサイクロンでは10,000、そして今回も又10,000人の犠牲者が出たそうです。

 

40. さようならバングラデッシュ

4度目のバングラデッシュの旅もそろそろ終えようとしています。味わう程に、この国の様々な部分が浮き彫りになっています。今回は地方へも出かけて見ました。時期的には雨季だったので、以前とは異なった面を伺い知ることとなりました。

次回の旅は何時になることでしょう。機会を見てベンガル湾に浮かぶ島々も訪問したいものです。カタコトのベンガル語を使い、現地人のような服装で旅を楽しみたいと思います。

今回、幸いに盗難や事故にあることもなく無事過ごせたのは、アッラーの神のご加護かもしれません。それでは、バングラデッシュ万歳

追記: 金子昌彦様

切手を同封しました。花シリーズ6枚、動物6枚、魚4枚の計16枚です。ご笑納ください。次の訪問国ビルマでも準備して送ります。

ダッカのカルワン・マーケットにて写真を撮りました。ボロ傘の下でのミシン屋さんの路上のオジサンがウルドゥ語で話しかけてきました。当方すかさず、ウルドゥ語で応戦、最後にはウルドゥ語とベンガリ語の混ぜこぜ会話となりました。50-60歳とおぼしき老人は

「ビルマのマンダレーに居たことがあるよ。日本の軍人に物資を調達する仕事をしていたんだよ。でも、今は日本語忘れてしまった。タイとシンガポールも出かけたことがあるけど、日本人は結構良い人達だった」と嬉しそうに語ってくれました。ささやかながら、お茶をご馳走になって別れた次第です。

 

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