アジア旅日記 No.16 バングラ紀行

バングラデッシュの農村

アジア旅日記 No.16 バングラ紀行

S.HOSHIBAのアジア日誌NO.16より

2000年3月5日~3月25日

By S.HOSHIBA

バングラデッシュの農村

私がバングラデッシュを訪問したのは、15年以上も前のことでした。インドやネパールへは毎年足を運ぶのに、ここバングラデッシュは疎遠となってしまったのです。この国を通過してミャンマーに足を運ぶ回数が増加しました。昔のバングラデッシュの旅では、力車の洪水と貧しいながらも親切な人々という2つのイメージが残りました。旅人からバングラデッシュの話を聞くことは、稀にしかありませんが、懐かしく昔のことを思い出し、今度こそ出かけようと思う日々が続いたのです。前回のミャンマーの旅でラカイン州(バングラデッシュと国境を接している)を訪問し、隣国バングラデッシュが以外と近いことを知りました。

 

目次

行程表.. 1

初めに.. 2

概要.. 2

バングラデッシュ入国.. 3

公害天国.. 4

友人との対面.. 5

NGO花盛り.. 6

チッタゴン.. 7

社会事情あれこれ.. 10

バングラデッシュの教育… 10

女性とイスラム教… 11

多発する犯罪… 13

旅とは… 14

スラム街… 15

英語… 15

メード・イン・バングラデッシュ… 16

トイレ、沐浴、養殖場… 17

子供の人権… 17

経済悪循環… 18

力車経済学… 18

チムロン・モナストリ.. 19

コックス・バザール.. 20

モヘシカリ.. 23

セント・マーチン島.. 24

ストライキ遭遇.. 27

交通渋滞.. 28

クルバニ.. 29

クリントン訪問.. 31

独立と民主主義.. 31

ダッカ脱出.. 33

ボグラにて.. 34

ラジシャヒ.. 35

変形した国境.. 36

クルナ.. 36

バガールハット.. 37

国境超え.. 38

最後に.. 39

バングラデッシュの旅の留意点… 40

バングラデッシュの旅モデルコース… 42

 

行程表

日時 行動 宿泊地
1日目 3月5日 国境を超えてバングラデッシュへ Dhaka Buddha Temple
2日目 3月6日 市内観光 Dhaka Buddha Temple
3日目 3月7日 休憩 Dhaka Buddha Temple
4日目 3月8日 列車で移動 Chittagong Dream Land
5日目 3月9日 市内観光 Chittagong Dream Land
6日目 3月10日 チムロン日帰り観光 Chittagong Dream Land
7日目 3月11日 バスで移動 CoxBazar Dream Land
8日目 3月12日 モヘシュカリ見学 Coxbazar Beach House
9日目 3月13日 バス、船で移動 St.Martin Bengal Lodge
10日目 3月14日 再び移動 CoxBazar Beach House
11日目 3月15日 ストライキの中を移動 Chittagon Dream Land
12日目 3月16日 祭日前夜で12時間のバスの旅 Dhaka Al Razzaq
13日目 3月17日 川端氏と市内観光(生贄のお祭り) Dhaka Al Razzaq
14日目 3月18日 バスで移動 Bogra Memon
15日目 3月19日 マハスタンガード観光 Bogra Memon
16日目 3月20日 バスで移動 Rajshahi Metropolitan
17日目 3月21日 休憩 Rajshashi Metropolitan
18日目 3月22日 バスで移動(クシテア乗り換え) Khulna Basundara
19日目 3月23日 バガールハット観光 Khulna Basundara
20日目 3月24日 休憩 Khulna Basundara
21日目 3月25日 ジェッソール経由でインドへ

初めに

私がバングラデッシュを訪問したのは、15年以上も前のことでした。インドやネパールへは毎年足を運ぶのに、ここバングラデッシュは疎遠となってしまったのです。この国を通過してミャンマーに足を運ぶ回数が増加しました。昔のバングラデッシュの旅では、力車の洪水と貧しいながらも親切な人々という2つのイメージが残りました。旅人からバングラデッシュの話を聞くことは、稀にしかありませんが、懐かしく昔のことを思い出し、今度こそ出かけようと思う日々が続いたのです。前回のミャンマーの旅でラカイン州(バングラデッシュと国境を接している)を訪問し、隣国バングラデッシュが以外と近いことを知りました。

また、カルカッタのビルマ寺の友人達は、ミャンマーあるいは、バングラデッシュの出身の人々が多いのです。彼らからバングラデッシュ東部の丘陵地帯の話を聞きました。陸地をたどりながら旅を続けると、徐々に人々の生活が変化していくのを観察出来ます。そんな理由が重なってバングラデッシュ行きが決まりました。インドの東北辺境州のトリプラから入国し、ベナポールから出国しカルカッタに抜けるという陸路のコースをとる結果となりました。はたして今回の旅でバングラデッシュをどのように感じることになりましょうか?

概要

バングラデッシュは北緯20度34分から26度36分、東経88度1分から92度41分に位置しています。国土の面積は147,750平方キロメートルと日本の4割程度の広さで、1億2600万人以上が住んでいます。人口密度は平方キロあたり2,211人で、総人口の86.6%は回教徒で占められています。他にヒンズー教徒、仏教徒、キリスト教徒で構成されています。国の西側はインド、北側もインド、東側はインドとミャンマーに囲まれています。パドマ、メグナ、ブラーフマプトラ、ジャムナが主要な河川で、水上交通のネットワークは世界有数なものです。シレットは高原地帯にあり、バングラデッシュで最高の標高は1500メートルです。バングラデッシュの夏は暑くて湿気が多く、気温は21度から34度です。冬は冷え込み最低気温は9度以下となります。年間の平均雨量は3500ミリメートルに達します。

古来人々の往来があり、トルコ、ムガール、アフガン、アルメニアン、アラブ、ポルトガル人などがこの地を訪問したとされています。イギリスが1757年に最終的にこの地を支配することとなったのです。1947年にインドとパキスタンが分離した際には、東パキスタンとなりましたが、1971年には、9ヶ月の戦闘を持って、バングラデッシュとして独立しました。このリーダーとなったのは、国家の父とも賞されるバンガバンド・シェイク・ムジブル・ラーマンでした。

ベンガル語が国語となっていますが、英語も広く通用します。識字率は36%です。

(バングラデッシュ政府観光局発行のパンフレットより)

バングラデッシュ入国 

今日は国境を超えてバングラデッシュに入る日です。力車で7ルピーを払って4キロほど郊外にあるインド側のチェックポストに行きます。ここは、なぜか大変ひっそりとした国境線です。さて、国境の通過は結構時間がかかりました。パスポートにスタンプを押してもらうのに、20分ほどかかりました。他に誰もいません。私だけが通過客のようです。係官はなれない手つきでパスポートを眺め回し、一字一句台帳に記入していますから時間がかかるのは当然です。何事もなく終了です。つぎに税関事務所に立ち寄りましたが、ここでの申告は適当なものでした。いくらお金を持っているのか?他に何か申告するものがあるのか質問を受けましたが、適当に返答をして終わりです。バングラデッシュ側の入国事務所では、スタンプを押してもらうと同時に両替をしました。職員自身が小遣い稼ぎをかねて両替業務をやっています。それが終わってから税関の検査です。やたらと荷物を空けて中を調べています。ひとつひとつ説明しなければなりません。幸いにパソコンは発見されずに済みました。これが見つかると何となくトラブルの元となりそうです。次回、バングラデッシュを出るときに一悶着するかも知れません。アガールタラの宿を9時半に出かけました。時差がありますから、10時(バングラデッシュ時間)といえば正しいでしょう。結局バングラデッシュのボーダーですべての手続きが終えて、アカウラの町へ向かって出発したのが11時過ぎです。ですから、一時間半程度かかったことになります。

バングラデッシュ側では、鉄道駅まで行くのに、力車は最初50タカといいましたが、30タカに値切って交渉成立です。大きな緊張もなく、平和に通過することが出来ました。以外と静かな国境線通過を経験しました。今回は誰もこの国境を超える人にあわなかったのです。多少不気味な感じがしないでもありません。よく考えてみると、この国境線は人々の通過がきわめて少ないようです。ともかく、回教徒とヒンズー教徒が自然と国境線を張って出来あがった地域です。

力車で20分程度田園風景の中の田舎道を揺られ、11時50分に駅に到着です。駅周辺は道幅が狭いうえに人と力車の洪水です。その中をトラックが入り込んで渋滞をいっそう激しいものにしています。インドとは町の構造が異なって来ました。何となくバングラデッシュを感じ始めるのです。30分後にダッカ行きの列車が来るとのことで、早速乗車券を買い求めました。コンピューターを利用して発券された切符は75タカと現地の数字で表記されています。座席指定はなく、立ち席承知の切符でした。お茶を一杯飲んで、ホームで待つこと30分、12両編成のインターシティがやって来ました。しかし、どうしたものか席が空いているではないですか。結局そこに座り、2時間半後にはダッカに到着することが出来たのです。

今回は仏教寺院での投宿を予定しています。地図を見ると、そこは駅の裏側で、これなら歩いてもいける範囲です。しかし、始めての土地は地理が良く分かりませんから、力車のお世話になるのが一番です。予想したとおり、あっと言う間に到着です。かなり広い敷地の中に学校、病院、そして学生寮などが並んでいます。仏教の教えを前提とした一種のチャリティーと言えるでしょう。この仏教寺院は日本のNGOからの援助も受けているようで、OO教団の名前も掲げられています。敷地の中央には、池があって安らぎをかもし出してくれます。境内の中は静かで落ち着いているのですが、いったん外に出ると大変騒々しいのです。この境内の中に住む多くは仏教徒です。ガードマンはネパール人です。久しぶりにネパール語の会話が登場しました。最近、財源不足で建物の一部を回教徒の商人にリースし、収入を上げているそうです。入り口付近ではトラックが冷蔵庫を何台も積み降ろしていました。

ここは、多くの僧侶たちが下宿生活を送っています。彼らの一人が早速強硬な意見を述べました。

「我々は少数派で、差別されている。政府は、回教徒優先の方針で、私たちの生活は惨めなものです。私は日本に行きたいのだが…。日本政府はイスラムの人々に査証を出すが、私たちには発行してくれない。同じ仏教徒として、あなたの力をかりたいのです。保証人になってくれませんか。また、この事実を日本に訴えて欲しい。」

と言うような意見がいきなり持ち出されました。これには驚きです。今出会ったばかりなのに、このような話を持ち出すのはいけませんと注意しました。何となくその場は終わりました。

もう一人のモンクは施設内を丁寧に説明してくれました。この場所は高等学校も同時に経営しています。この場所の学生は主に、モグ、チャクマなど少数派のコミュニティの出身ばかりですから、どちらかというと、東南アジア的な顔立ちです。この中にいる限り、バングラデッシュの印象が変わってしまいます。時間とともに、彼らと親しくなっていきました。さて、今日から三週間の間バングラデッシュの旅が始まるのです。少しばかり興奮しないわけでもありません。今の所快適な宿泊が保証されています。あちこち出かけてみたい場所が幾つか浮かび上がって来ました。船にも乗ってみたいものであります。明日は銀行に行かなければなりません。実のところ手持ちのタカが少ないのです。国境で200インドルピーをバングラデッシュ・タカに交換したのみです。

公害天国

ダッカ市内のスラム街も大変汚れています。この国でも目立つのが、ゴミの処理です。とくに化学製品の多くなった今日、多くの発展途上国は頭を悩ませていると思います。今は安易に埋め立てのみしていますが、将来は埋め立ての場所もなくなるでしょう。また、埋め立て地から無機物質の地下浸透を通じて、二次公害が今後出現するのは確実です。燃やそうとしても簡単に燃えるごみではありません。今は何事もなく平静な状況ですが、将来はこれらが暴発するのは時間の問題です。ごみが今までのようにすぐに土に帰ること出来なくなっていきます。通称プラスチック公害が発生するのは目に見えています。環境問題を考えるならば、これらは大変な出来事となるのです。土壌が自然の守りをしなくなる日は近いでしょう。各地で地滑りが発生するでしょう。プラスチックの類は排水システムを無能化しつつあります。またこれらの大量のゴミは当然のことながら、海を徐々に汚染していきます。池、川、湖沼などが自然のサイクルに順応できなくなるのです。河川や湖の成分が大きく変化し、それが気象上の蒸発効果に変化を与えています。海洋もまた同じではないかと思います。今回の旅を通して環境問題の深刻さを浮き彫りにしてくれるようです。一見何でもないかのように見えても、地球は凄まじい勢いで変化しつつあります。いつかはこのバランスが大きく崩れることは間違いありません。その兆候として異常気象が続いているとも言えましょう。

また、地下水も不法なゴミ投棄が原因で汚染が始まっています。各地で井戸水から砒素が検出されましたが、政府は事実を発表していないようです。第二の水俣病が始まっているとのことです。砒素だけではなく、その他の有害物質を多く含んだ水は危険だからということで、ペットボトルのミネラル・ウォーターが出回ります。すると、町中にプラスチックのゴミが出回るという悪循環です。

またどの車両も真っ黒な排気ガスをふかしています。エンジンの整備不良とガソリンの質に問題があるのでしょう。ともかく車両とは、物資や人を大量に積みこんで動けばそれで良いという基本概念があるのみです。日本のように排気ガス規制などは存在しないようです。

友人との対面

今日は15年ぶりに友人カリムに会うことが出来ました。以前バングラデッシュの旅でチッタゴンの宿で知り合いとなりました。当時、彼は私の利用した宿でルームボーイをしていました。何となく、実直そうな人柄で好感のある青年でした。当時、ペプシコーラの空き瓶を抱えて、隣の茶店へティーを買いに行った姿が浮かんできます。その後、手紙を通じてずーと友好関係が続いていました。宿での仕事を辞めてから、兄の協力で銀行の小遣い(ペオン)としての職を得ることが出来たようです。4年前に父親がなくなったそうですが、同時に結婚をしたと連絡がありました。実家は首都ダッカから5時間程度離れた田舎にあります。

事前にまったく何の連絡もなく訪問したものですから、彼は突然の出来ごとでかなり興奮した様子です。彼の名前はこの銀行の中でも結構有名になっています。玄関先で聞いたらすぐ分かりました。一介の小間使い役の青年がこんなに成長したかと思うと感慨深いものがあります。ともかく15年以上が過ぎたのは間違いありません。その間、さまざまなことがあったと思います。私は彼に連れられて何人もの上司を紹介されてしまいました。何人かの人々は私の名前をしっていました。本人が英語を書くことが出来ないので、代筆をした人々がそれとなく私のことを知っていたのです。今もあどけない顔つき、実直そうな面影には変化がありません。

一番偉い上司とは、バングラデッシュの経済や環境問題について話をしました。誰もが、好意を持って応対してくれました。それにしても、なんと多くの人がこの銀行で仕事をしているのでしょうか?900以上の支店を抱えて、3万人もの職員を抱えた大きな銀行の一つです。そんな中で彼は15年以上もここで人生を過ごしてきたのです。時々昔の出来事を思い出します。昼食は彼の接待で、かなり良いレストランにつれていかれました。今も彼の心は光り輝いています。嬉しそうに顔をほころばせていました。

夕食は。カリムの上司にあたるビジャウさんの家でご馳走になりました。ビジャウ氏はカリムの結婚式に招待されて実家へ行ったことがあるそうです。約束どおり7時には、待ち合わせをしている仏教寺院に登場です。彼の家はここから歩いて5分とかかりません。カリムは上司のかばん持ちという立場です。しかし、誰もがカリムの素直さを高く評価している気配を感じました。料理は奥さんの凝った手作りの作品です。彼には娘が2人います。小学校三年生と中学校2年生で大変かわいい娘たちです。古ぼけたアパートに暮らしています。白黒ですが、TVもあります。冷蔵庫もあります。そしてやたらと多いのがネクタイと人形です。これは日本製のですと自慢していました。簡素な暮らしといえども調度品も整っています。人形や飾り物がやたらと多く目立ちます。同じ上流階級といっても、ネパールのマノーズ家は桁違いに豪華そのものです。電気製品の多くは純日本製を好んで調達しています。新築なった家は設備が整っています。畑もあり、ガレージもあります。所がここ、バングラデッシュでの彼らの生活には、豪華なものを求めたくても手に入らないので、精一杯の消費で辛抱している気配を感じます。彼の発言には、人生のあきらめを見出すことができます。「人生は一度しかなく、しかもそれはすぐ終わるのです。楽しまなくてはなりません。それでせめて食事で贅沢をしようではないか…」夕食はトマト、キュウリ、タマネギのサラダ、魚の揚げ物、チキンカレー、ダルスープ、が豪華に飾り立てられた大変なご馳走をいただいてしまったのです。

NGO花盛り

今日は、ここカマラプール仏教寺院の若い坊さんと一緒に郊外の仏教寺院を訪問しました。ダッカ市内から30キロ程度離れた郊外にあります。30キロといえども、乗り合いバスでは2時間程度かかります。何しろ、ダッカ市内の渋滞はすごいものがあります。同行した若い僧侶もここを訪問するのは、始めてだそうです。ダッカの中心街からサバール行きの冷房付きミニバスが運行されています。このバスは普通バスの三倍程度の価格で設定されています。その分快適でシートも清潔です。もちろん客層も違います。ともかく終点まで行って地元の人に尋ねるしかありません。こう言った場合、力車は力強い味方です。少しばかり値段は張りますが、道案内をかねています。どんなに近くても力車を利用するのがバングラデッシュの習慣となっています。力車に乗ること約5分で目的地に到着です。料金も5タカと割安です。

ダッカ大学を出た若い僧侶が管理しているこの寺は学校を兼ねています。創設されたばかりで、10人の子供達が下宿しながら勉強しています。彼らの多くはチッタゴンの山間部からの出身です。しかもビルマ系の文化を持つマルマ族です。日本政府からの援助でこの一部が成り立っているそうです。バングラデッシュでのこう言った種類の問題に対して、前回はまったく気がつかなかったのですが、今回、寺院に寄宿してバングラデッシュの別な一面を知ることになりました。地理的にはビルマが隣接していますから当然のことかも知れません。現地では今も問題のある場所と見えます。すから、ダッカ郊外に難民キャンプ的なものを作り、外国からの援助を仰ぎ、孤児を引き取って教育の場としているようです。現地に援助組織をつくるより、外国人の出入りの多い首都近郊に設定するのが効果的と見えます。子供たちは、村からここに引き取られた形成が見えます。一階平屋建ての細長い建物は10部屋に区切られて、教室、事務室、台所、倉庫、子供たちの寝室などが準備されています。別棟には、仏陀の像が安置された講堂があります。今後は生徒数の増加に伴って2階建てに増築する計画があるそうです。今はヒンズー教徒の女性教師と雑用係りの男性をやとい小規模で運営しています。

この施設の運営管理にあたる住職は日本語が上手でした。彼はダッカ大学で日本語を勉強し、会話コンテストで表彰を受けたそうで、厳かに、表彰状を見せてくれました。しかし三年前に大学を卒業したそうで、今は日本語を話す機会も少なく、上手に話すことができない、といいながらも、丁寧な基礎日本語を話していました。大変なるインテリ坊主と言えましょう。

夕方無事にカマラプールに帰って来ました。何人かの僧侶と親しくなりました。多くの坊主の中でまた一人日本へ行きたいので何とかならないか、スポンサーになってくれないか、と相談を持ち掛けられました。出会ってすぐにそんな話を持ち出すものですから私としては、戸惑ってしまいます。今日一日同行してくれた僧侶はカルカッタのお寺の坊主とルームメイトということで、打ち解けた仲となりました。カルカッタの寺は比較的明るい雰囲気ですが、ここバングラデッシュでは寺院が何となく圧迫されている印象を受けます。国の体制がイスラムを基本としているところに大きな原因がありましょう。僧侶に対しての特権はこの国では存在しないようです。仏教徒の社会では、交通機関の多くは僧侶席を準備しています。満員の市内バスでも誰かかれかが、僧侶と見ればあたかもそれが義務でもあるかのように、席を譲っています。仏教国では通用するのですが、回教の人々には通じません。こういった実情はインドネシアでも同じかも知れません。ミャンマーの超満員の市内バスでは、若い小坊主が乗車するとすかさず誰かが席を譲ります。しかしこの国では、誰も関心を払う人はいません。手すりにつかまって立ったままの乗車を余儀なくされるのです。

チッタゴン

今日はダッカからチッタゴンへも列車の旅です。予定を一時間遅れての出発です。目的地のチッタゴンには、やはり一時間遅れて三時半ごろ到着しました。列車は結構清潔で制服姿の車掌さんは日本のそれと似ていました。時々、鉄道警備隊が古びた銃を抱えて車内を巡回していきます。列車は青々として大草原の中を疾走します。チッタゴンが近くなってようやく山並みを見ることが出来ます。

ガイドブックも何にもありませんから、適当な宿を探すのが大変です。政府観光局の運営する宿は600タカします。10ドル以上ですから、手が届きません。結局4軒目に聞いた宿が140タカで予算に見合う場所でした。ある宿では、日本から旅行に来たのに300タカが高いとはおかしいじゃないのか、と馬鹿にされてしまいました。私も心の中では、彼らを馬鹿にしています。彼らの意識からすると、日本は金持ちの国だという認識しかありません。金持ちの国から来た人が旅行に来て宿代をケチるのは、非人間的という考えに基づいています。彼らの旅行の概念は、成金ごとく派手に札束を撒き散らすのが礼儀なのでしょう。

歴史の流れから振り返ってみると、この町がアラカン王国とムガール帝国の境界線となっていた期間がかなり続いたそうです。しかし今はイスラム圏の勢力範囲となっています。バングラデッシュで最大の港町としても有名です。ということは香港同様にあらゆる犯罪が存在する町でもあるのです。通常の取引以外にドラッグ類、武器、銃器などの取引が暗躍しているそうです。街角では、いとも簡単に麻薬入りのタバコが大手を振って販売されています。武器弾薬もお金を出せば容易に入手できるそうです。またこの町はダッカ以上に政治的に不安定な場所で政党間の抗争も激しく、ストライキが多発し毎日新聞記事を飾ってくれるのです。

15年前に泊まった宿の周辺を散策してきました。市内のごみごみとした一角でしたが、当時の面影がそのままでとても懐かしく感じます。近くには新しいビルが出来ていましたが、私の投宿した建物は変わっていませんでした。近くにあった有名な古着市場は、昔と違って新品の衣料を販売しています。それらが変化といえば変化でしょう。そこから遠くない距離に小高い丘があり、良く散歩に出かけたものでした。若いアンちゃんたちがガンジャ入りタバコを吸っています。この国では、タバコ屋さんが、この手の商品を扱っています。これでは、国中に蔓延するのも止むを得ません。さて、彼らは私がビルマからきたものと思い込んで、にたにたしながら、「これは、あんたの国から来たものですよ…」。多くの力車ドライバーはこれを習慣としているそうです。少ない稼ぎの大半が煙となって消えてしまいます。儲かるのは、闇商人だけといえましょう。貯蓄の概念などが育つはずがありません。それが彼らの人生観なのでしょう。カルカッタの裏通りではヘロインを吸引したり、注射器を持ち出すなど怪しげな行動を見かけるのは日常茶飯事です。ここもそれに負けずに奮闘しているのです。ミャンマーとアフガニスタンがこれらの供給国として名前が挙げられています。バングラデッシュはこれらの商品の中継地点となり、ミイラ取りがミイラ化していきます。生産地のミャンマーでは、このような光景をほとんど見かけることがありません。どこに原因があるのでしょうか?

この地域では、お金を受け渡しする際に、ミャンマーの方式が採用されています。これには驚きます。左手を右腕上部に添えて丁寧なしぐさが伴います。これは本当に気持ちの良いものです。またこの地域の言葉は標準ベンガリ語とかけ離れているようで、ダッカでは聞き取れた会話がここでは、それが難しいのです。地元の人々はチッタゴン語だと言います。それは、関西弁と標準語との違いにたとえても良いのではないでしょうか?

力車のお世話になって博物館を訪問しました。ここ民族学博物館は、パキスタンの部族に関しての展示もなされています。建物の礎石はパキスタン政府によって開設1964年となっています。館内をつぶさに見て回ると、ここバングラデッシュも多くの民族に依って形成されていることを痛感します。大勢を占めるのが、アーリア系ベンガル人ですが、地方ではそれぞれ異なった民族が住んでいます。メガラヤ国境付近では、文化のまったく異なるカロ系の住民です。チッタゴンの丘陵地域では、チャクマやモグ(現在はマルマ等ビルマ系の総称)などが住んでいます。こうして考えるとバングラデッシュとは一体何なのか大きな疑問にぶつかります。本当のベンガリとは一体どの人々なのか疑問を感じてしまいます。インド、バングラデッシュ、ミャンマーと国境をまたいで双方に分布する民族もいます。この国では、少数派なれども、隣へ行くと多数派です。現在の国境線がいかに人為的なものかを如実に示してくれるのです。

博物館のパネルを見ていると、ベンガル人といっても、アーリア系ベンガル人、ドラビア系ベンガル人、モンゴル系ベンガル人と大きく三種類に分類されています。これは、地図をじっくり眺めると理解することが出来ます。ベンガル人を定義するならば、アーリア系、モンゴロイド系そしてドラビダ系の人々が混ざりあわったのがベンガル人といえるでしょう。地理的、気象の立場から考えるときわめて住みにくい場所だと思います。民族の交流がきわめてゆっくりと長時間をかけて混同したものと見えます。インドの西海岸にはシリアン教会の建物が残っています。ケララ州のコーチンには最近までユダヤ教徒が住居を構えていました。ボンベイでは、古来パルシー教徒(拝火教徒)のコミュニティが今でも残っています。元ポルトガルの植民地だったゴアは数年前にポルトガル語の新聞が廃止となりました。インドの元植民地の主要拠点には、今でもアングロ・インデアンと称されるコミュニティが残っています。マレーシアには、英国の政策によって大量のインド人や中国人が入植し国民の一部を形成しています。バングラデッシュはこのような人為的な民族移動の経験も少ない場所のひとつでしょう。しいて言うならば、この国が東西パキスタンの統治時代に流れ込んだパキスタン系の人々を見かける程度です。それと対比して、パキスタン最大の商業都市カラチには、ベンガリ・モスリムのコミュニティが存在します。この地域が、常にサイクロンなどの自然災害に見舞われる土地というのが最大の原因かも知れません。したがって民族の混血も自然発生的な過程を得て生じたものといえるでしょう。

博物館の見学を終えて河口にある船着き場に出かけました。ここからバリシャルという町までBIWTC(バングラデッシュ水上交通公社)の運行する船があるそうです。この船に乗ると、インドへ陸路で抜ける場合にダッカを経由することなく、バングラデッシュ西部に到着できます。話によると24時間の船旅と聞きます。桟橋にはすごくオンボロな船が待っていました。朝9時に船が出航し、翌日9時に到着するそうです。料金は個室で750タカ程度です。係りの人は丁寧に教えてくれました。はたしてこの船は大丈夫なのでしょうか?船体は錆付いて、今にもプロペラの軸がポッキリと折れるのではないかと不安になってきます。新聞の報道によると、海賊が近辺を荒らしまわっているとの報道がありました。過去2ヶ月に6件の海賊強盗事件が発生したとなっています。イスラム教の国ではお祭りの前には盗難が多発すると聞きました。人々はお祭りに備えて資金を調達しなくてはなりません。インドネシアの市内バスでスリが横行するのは、決まって祭日の前だと聞きます。年に2度回教徒には大きな祭りが控えています。断食明けのラマザンと今回のいけにえの祭りです。それらの前一ヶ月間はこの種類の犯罪が急増することが統計的に実証されています。

初日は物珍しく私を眺め回しています。まるで当方は動物園のパンダ同様です。私が多少のバングラデッシュ語を話すことを知って大喜びで、いろいろと気配りをするようになります。次の日はさらに親しみを増して来ます。こうしてタバコ屋の主人とも顔見知りとなりました。レストランとも仲良くなりました。店の親父が自ら世話役をかってくれました。主人は最大の努力を払って英語を使うのですが、彼らの語彙は知れていますから、私にとってはまどろっこしくでかないません。まあ旦那の顔を立てる手前があります。歩調を合わせると私の英語も変なアクセントが混じり、なまってしまうのです。私の投宿する宿の向かいにあるこの店は、朝6時から深夜2時までの営業です。駅前通りにありますから結構繁盛しています。食堂入り口の雑貨やでボールペンを買ったとき、乞食が手を差し伸べましたが、店の人がそれを制止しようとしました。結構気を使ってくれます。これも、バングラデッシュならではの光景かも知れません。庶民の心は場合によってはこのようにキラリと光り輝くものがあります。

社会事情あれこれ

バングラデッシュの教育

バングラデッシュ政府がダッカの北方にイスラム大学を設置したものの、学生運動が多発して、頻繁に主要道路が封鎖されたそうです。困り果てた政府はこの大学をバングラデッシュの北西部に位置するインド国境の町ラッジシャヒに移転させたといういきさつがあります。前回の訪問ではジェネラルストライキの日にでくわした。午前中のみのストライキでしたが、飛行機の出発時刻をめがけて暴動警戒中の市内を歩いてバングラデッシュ・ビーマン空港の事務所へ出かけたことがあります。この時は、地元の公務員が「ダッカ大学の周辺は大変危険だから安全なルートを案内しましょう」と一緒に先導してもらったことがあります。

さて、最近の調査によると、ダッカ大学構内は絶好の大麻吸引の場所となっているという報告がなされました。およそ一割の学生が薬物中毒者で、三割が時々それらに手を染めているという結果がでたそうです。しかし、彼らが将来の官僚やビジネス部門で中核となるはずなのに、これで良いものでしょうか?しかもその最大の理由は政府が悪いからフラストレーションが嵩じて薬物に手を出すというおまけまでついています。こうなると手の施しようがないのが現実です。

私の滞在中は偶然に全国一斉の卒業試験が開催されていました。新聞の報道によると、問題集が事前に漏れてそのコピーが出回ったり、偽の証明書で会場に侵入し、代理で試験を受けたりするなど全く秩序がありません。カンニングも多発していて、それを試験官が注意すると、当人が暴行を受けるというありさまが続出で無法地帯同然の様相を示しています。

大学は荒れ放題のようですが、初等教育もまだまだ遅れているようで、生徒のドロップアウトの率が異様に高いのです。新聞の報道によると6割程度が小学校の段階で通学を中止してしまうそうです。政府が躍起になっていますが、改善への道は程遠いのが現実です。至る所で子供たちが仕事をしています。どうもこの姿を見ていると、若い頃、すなわち幼少年期に一生懸命働いて、年頃になると結婚をし、中年になるともう仕事は子供に任せて、トランプでも賭け事や大麻の吸引に精を出すのが標準的な人生のパターンではなかろうかと目を疑うような出来事を見受けます。

女性とイスラム教

元来イスラム教は西洋の歴史観からすれば男性支配を当然としています。ですからこの国では、女性の権利などが異様に低い地位にあるのは間違いないようです。最近はイスラム急進派も登場してその傾向を高めています?極端に言えばタリバン現象とでもいいましょう。女性が病気になった場合は夫婦が一緒に医師の診断を受けるそうです。イスラムの規則によると、男性は見知らぬ女性の肌に触れてはなりませんから、亭主がそれを代行するとの話です。触診が出来ないので誤診も多く発生しているに違いありません。結局手遅れとなってからお隣のインドの医者にかかることが日常茶飯事のようです。金持ち階級はインドの病院より、同じ回教国であるブルネイに飛行機で飛ぶそうです。そう言えば、カルカッタからマドラスへ行く列車はいつもバングラデッシュの客の多いこと。彼らの多くは観光旅行ではなく、治療のためにマドラスへ向かうのです。大体、バングラデッシュには設備のしっかりした病院がないのも一つの大きな理由です。

バングラデッシュの衣料品の輸出額は年々上昇していますが、それらの工場で働く多くは女性です。この国で彼女たちは、同じ仕事をしている男性に比べると半分の給料だそうです。しかもその多くは貧しい階級の出身です。ここにも、女性蔑視の一面を見ることが出来ます。コックスバザールにあるビルマ・マーケットが、この国においては唯一の女性の店員がいる場所として有名です。それを目当てにイスラム教の男性達が買い物をするためではなく、単に女性とお話が出来る感激を味わおうと押しかけるのが常だと聞きます。これに比べると、ミャンマーでは女性の実業家も結構いるようです。女性の店主というのも珍しくはありません。隣のインドの市場では、おばさん達がデンと座りこんで堂々と商売をしています。回教徒の集中するマレーシアの東海岸でも、市場の主人は頭巾をかぶった小太りの女性です。

さて、南アジアでは、女性の地位が低いのに拘わらず女性の党首が登場するのはどうしてでしょうか?この地域に関して現状を見るならば、バングラデッシュとスリランカは女性を国家の代表としています。過去にさかのぼるならば、著名な政治家としてインデラ・ガンジーやパキスタンのベナジール・ブットなど名前が挙がってきます。南インドのタミール州の首相は一時期、元女優のジャヤラリタであったことも有名です。また、その他にインドではコレクター・オフィサー(徴税管理官)として名前が挙がるのは多くが女性です。これは、インドの娯楽映画にしばしば登場してきます。どうしてこのように女性が党首として選ばれるのでしょうか?

すなわち、これらの国々では一般的に女性の地位が西洋の文化から比較するとあまりにも低く、その反動として、女性党首を置くことにより、カリスマ性が得れることにあるのではないでしょうか?またこれらの国々で、男性の党首が実権を握った場合には暗殺される可能性が非常に高いと言えましょう。男性が党首となった場合には、徹底的に抗戦する姿勢が見られます。その手段として暴力を振るってもやむ得ないとう背景を抱えています。スリランカのバンダラナイケ、バングラデッシュのジアウルラーマン、インドのガンジー、ラジブ・ガンジーなどが代表的でしょう。こう言ったケースを防ぐには、か弱い女性を党首に置くことでその被害を最小に食い止めることが可能です。また多くの女性党首は、政治家の娘や孫であり、彼女たちの政治手腕よりも先代威光にあやかっている部分が多いのではないでしょうか?

実際にこの地域での女性の進出は、単なるアイドル的価値からのものとも思えます。女性が党首となっているこの国では、彼女自身の地位は向上しても、一般女性の地位の向上が見られるのでしょうか?真剣にこの問題について討議する場所は閉ざされているようです。それ以外に大きな問題を抱えていることで議論をそらしているとも言えます。国家の政策において、教育が大切なものであるならば、なぜ男女同等の地位がないのでしょうか?どこかが違うのです。

どの町を歩いていても、男ばかりですからたまりません。何となく暗い感じがしてかないません。ちらりと女性の姿が見えますが、多くは家族連れか夫婦のどちらかですから、単身の女性の散歩などは出現するはずがありません。家族連れであっても、女性の多くは黒いベールに身を隠しての外出ですから、どうも理解に苦しみます。時々、ベールを被らない場合もありますが、その多くはどちらかと言うと厚化粧で気持ちが悪くなります。素肌の、素顔の女性などはこの国ではめったに拝見できないことが分かりました。その点、インドやネパールはまだ救いようがあります。とくにネパールなどは性的な交渉以外は意外に自由な空気があります。このことはバスに乗ってみれば一目瞭然です。一番ひどいのが、パキスタンで、車内が完全に仕切ってあります。車掌は、バスが止まるたびに、あちらとこちらを行き来しながら料金を集めているのです。

バングラデッシュも比較的これに近い状態です。しかし、ネパールなどは以外と平気で見知らぬ男女が同席する場合が多いのです。隣のおばちゃんの大きなお尻が邪魔をすることがしばしばあります。ミャンマーでは、両隣に見知らぬ可愛い娘さんに挟まれることもしばしばです。これは、東南アジア系の文化、中国あるいはチベットの文化から起因していると思われます。かくも、イスラムの社会は男女分離をはかるものでしょうか?

さて、再び矛盾を感じています。諸外国からミャンマーの軍事政権に批判が巻き起こり、人権が尊重されていないと批判を浴びています。パキスタンも軍事政権に転換しました。ミャンマーの軍事政権が強制労働を強いているといわれます。多分にそれは、事実でしょう。しかし、ミャンマーでは、子供の人権が他の南アジア諸国よりも守られているのではないかと感じます。バングラデッシュやインドが民主主義国家としての誇りがあるならば、どうして、多くの子供たちが就労しているのでしょうか?学校のドロップアウトの比率が高いのでしょうか?男女平等に教育の権利があるのでしょうか?その点ミャンマーの方策は以外と民主的な方向に位置していると思います。また女性頭首や女性の実業家が当然として存在しています。店主が女性というのも珍しくありません。これらは回教国家としては、存在してはならないことなのかも知れません。人道的配慮、人権などの言葉はあくまでも西洋の文化を基準として判断されていますから、文化圏の異なるイスラム社会では、そのひずみがいっそう拡大されて我々の目に入るようです。情報化社会が進行し、日々世界が狭くなっていきます。そんな中で人権擁護を訴える場合、その土地の背景となっている文化基盤を充分理解した上で発言しなければなりません。世界各地で今激しく文化摩擦が発生し、バランスが取れず混乱している地域が多くあります。

イスラムからの観点から、女性は守られるべき立場にあるとした場合、大きな矛盾が生じます。それは、過保護にされて、実際の社会の仕組みを肌で理解することなく、公共の場所に登場することがあります。ここでは、多少のわがままも許されるという倫理が働いて、周囲とのバランスが妙に崩れていくのが良く分かります。すなわち、彼女たちの多くは公共生活の場での経験が少ないと言えましょう。これは、インドでも若干感じることです。しかし、東南アジア諸国では、こう言った印象を受けることはありません。同じ回教国でもインドネシアのスマトラ島のパダンでは、母系社会ですから、経済の実権は女性が高いという地域もあります。

現状を見る限り、女性の多くはチャダールで覆われています。彼女たちは概して過保護の状態のようです。ですから、家族内或いは、身内の中では、きわめて親密となっているに違いありません。いっそう怪しげな雰囲気をかもし出すのであります。

多発する犯罪

お寺で泊まっていたときに、こそ泥棒に入られてしまったのです。インドルピーとネパールルピーが巧みに抜き取られていました。誰かが鍵を開けて進入したのは確かです。時計もなくなりました。ソーラー・チャージャーの袋がなくなりました。いくつかの小物が消えています。あれは、とても良い品物でした。地元の人が欲しがるもの頷けます。

こうしてまたバングラデッシュの印象が悪くなって来ました。バングラデッシュの実情を目前にすると、以前にまして情勢が悪化して住みにくくなっていると感じます。交通渋滞や生活環境の悪化などは甚だしいものがあります。今後も未来があるものでしょうか?それに比べるとインドは大変頼もしく思えてきます。成長しているのは確かです。各分野でこの地域のリーダーとしての風格を感じることが出来ます。主要な産業や技術は自国で十分カバーしているという強みがあります。合弁事業としての車両産業も高成長をしています。ここバングラデッシュは何を作ることが出来るのでしょうか?インフラストラクチャーの整備はまだまだ遅れています。また、毎年襲ってくるサイクロンに膨大な資金を投入しなければなりません。

大都会はどうも落ち着きません。もちろん田舎でも各種の事件が発生しているようです。交通事故の多発、定員過剰が原因で渡し舟が転覆、近所の不和が原因の殺人、政治集団の派閥抗争、妻の持参金が不足で夫が暴力行為を働き、尊属殺人に発展、武装した強盗団による夜行バスの襲撃事件、強姦未遂などが、場所を選ばす毎日どこかで発生しています。

食堂に入っても、男衆の姿しか見当たりませんから、大変ぎすぎすした印象を受けてしまいます。昨日はダッカでデモ行進を見かけました。バングラデッシュのそれは、怒鳴り散らしているとしか耳に入りませんでした。いや勇ましいともいえるのですが…。どこに行っても本当に荒々しい場所です。隣のミャンマーと対比すると雲泥の差があるのです。基本的には、乾燥地帯で発生した回教文化は、湿潤地帯のバングラデッシュに適合しないようです。隣のインドのウェストベンガル州と対比すれば一目瞭然かも知れません。そこを無理やりに適合させようとしている動きが見えてなりません。デカン高原のど真ん中にハイデラバッドと言う都市がありますが、市内バスは英語とアラビア文字(ウルドゥ語)、そしてこの州のテルグ語の三種類で表記されていました。点々とデカン高原の内陸部には、このようなモスリムが多数派を占める町を見ることが出来ます。バングラデッシュという国家の成立は、歴史のマジックに見えてなりません。

ここバングラデッシュを観察していると、我々の日常生活の枠を超えた多くの事件が報道されています。人口過剰の招く結末を垣間見ているようです。この国の人口密度は2230人/平方キロとなっています。規律を守ろうにも、なすすべがありません。あまりにも多い乞食軍団や、浮浪者の数にお手上げという状態です。無秩序とはこの事かも知れません。教育事情も決して良くありません。ミャンマーのように大衆レベルの教育水準を高めることが良き答えかと思います。上流、中産階級と大半の庶民階級の格差はインドに比べると、この国のほうが大きいのではないでしょうか?いやこの国では中産階級がまだ育っていないとも言えるでしょう。この国は回教国として男性支配のもとにありますから、一層気性が激しくなるのは事実です。新聞では、毎日血なまぐさい出来事が報道されています。事故も多発しているようです。本当に危険といえば、危険な国なのであります。

旅とは

旅はまだこの国では、一般大衆のものではありません。親戚や友人を訪問するのに移動するのみです。観光旅行といえば贅沢をするのが当然と現地の人々は見ているようです。この点がインドと大きく違っています。お隣のインドは、あちこちを観光するのがはやっています。外国人観光客のみを対象としたものではなく、国内の中産階級の増大に伴い、彼らをも含めた観光産業が育っています。それぞれの州が観光開発公社を設置し、観光バスや宿泊施設の運営、情報の配布などをして盛んに観光産業の振興に勤めています。多少変形かも知れませんが、観光というよりも貸切バスを仕立てた巡礼団も良く見かけます。この巡礼団は一台のバスを貸し切り、食料、なべ、釜を積みこんで広大なインド大陸を移動しています。いわゆるキャンピング・バスとでも称しましょうか、地元にはほとんどお金を落とすことのない超経済的な旅をしています。その他に個人で旅をしようという意識も高まっています。でも、ここはどうもニュアンスが違うので困ります。ともかく外国人は金持ちという意識、外国で働いているのだからお金を沢山持っていると単純に考えてしまいます。どうも何かが食い違っています。宿の雰囲気もどことなく乱暴でぶっきらぼうです。すぐにバクシーシ(喜捨)を要求してきます。所がミャンマーの観光産業は、始まったばかりで受付のお嬢様がさわやかな笑顔で対応してくれます。

スラム街

ダッカ駅周辺やチッタゴン駅周辺では乞食や浮浪者の数を多く見かけます。それは前回よりも多いのではないでしょうか?インドと比較してみると後者が以外と少ないと思います。バングラデッシュの乞食はきわめて悲惨さを訴えています。目くらや不具者の数が圧倒的に多いのです。路上では肢体不自由ながらも全身をゆすりながら、アッラー・アッラーとうめき声を上げている人がいます。象皮病の患者がどでかい足をかも自慢するかのように路上にデンと投げ出して人々の喜捨を待っています。列車で窓側に座ろうものなら、必ずめくら乞食が、どこにあれだけの力が残っているのだろうかと思うくらい大声で、回教の呪文を唱えながら寄ってくるのに遭遇します。いやはや乞食のオンパレードの社会とでも言いましょうか?しかし、その悲惨さは目を覆うばかりです。

一体どうなっているのでしょうか?近年インドのモラルは乞食に物を与えることは彼らを増長させるばかりであり解決にはならない、だから自助独立の方針を探るのが結果的に正解だという意識が芽生えています。回教を主体としたこの国では、与える者と与えられる者の双方が投げやりな気持ちで行動しているように映ります。

あるバングラデッシュの友人よると、彼らは物乞をしているほうが働かなくても良いし、体も楽だからという説が登場しました。大体乞食の人々は少なくても2人以上の妻を抱えて生活しているそうで、当然の事ながら子供の数も増え、子供たちも同じ道を歩むのが常との話です。炎天下で数時間我慢していれば、それ相応のお金が入手できるのです。ただでさえ就職口の少ないこの国では、乞食の道も職業のひとつと化しているようです。

英語

私が外国人と分かると人々は急に親しくなってきます。英語であれこれと話し掛けてくるのです。しかも大変丁寧な英語を使おうと必死に努力していますから、彼らの言いたいことが逆に不明瞭となっていくのです。彼らの質問内容は国籍、職業、名前、既婚か未婚かなる四点で終了ですから、いたって単純です。先を読むことができるので不自由はありません。話が少し複雑になると、そこで会話は打ち切りとなり誰もいなくなるのです。矢継ぎ早に質問をするばかりで、話し掛けた本人の紹介はまったくありません。あたかも警察の尋問を受けているかのような錯覚を起こします。こう言ったことが、一日に4~5回発生すると私のほうもストレスがたまってきます。相手の名前を聞くならば、己を先に名乗るのがマナーではないかと注文をつけるのが習慣となりました。

少し話しが出来る人でも話題は次に経済の問題に移ります。経済の問題といっても単に、あなたの時計はいくらか、カメラはいくらするのかを聞いて終了です。続く質問は、日本にいきたいから保証人になって欲しいというのがお決まりの会話の流れです。「大体、会って5分後にこんな話を持ち込むアンタおかしいのではないか?」それで大概はクシャンとなって黙ってしまうのです。

メード・イン・バングラデッシュ

バングラデッシュで売れている商品の多くはインド製と見受けます。強力な粉石鹸はインドの商品です。インドで3ルピーがここでは、5タカしています。蚊取り線香もインド製です。歯磨き粉もインド製です。日常生活の多くはインドに頼っていることが良く分かります。やはり、この国の生活もインドに頼るしかありません。トラックはインド製が多くなりました。薬品類は単純な商品は自国生産が可能ですが、少し複雑な薬品となるとインドに頼るしかありません。お米は隣のミャンマーから入ってきます。小麦粉の袋には、メード・イン・ベトナムと印刷してありました。自国で麦の生産をしないのに、この国では朝食やスナック類として、小麦粉を使ったパロータと呼ばれる小麦粉を焼いたものを好んで食べています。いつからこの習慣が始まったものでしょうか?南インドは米が主要な作物ですから、朝食として、ライスケーキと称したものが登場します。昼食、夕食にはご飯を食べます。ですから、南インドは自給自足が可能です。バングラデッシュの場合は貧しい国といいながらも舶来品を朝食としているのです。外国からの援助資金が国家の建設に充当されるよりも、この資金が食料調達の資金として還流しているのではないでしょうか。

インドの製品がバングラデッシュの製品よりも売れているのが良く分かります。世界に輸出できる標準に近づいているのが、インドかも知れません。例えば、蚊取り線香は、バングラデッシュ製とインド製では大きく違います。匂いや品質などどちらをとってもインドに軍配が上がります。バングラデッシュの蚊取り線香を買いましたが、不愉快なにおいを発し、湿気が多いとぶらりと垂れ下がり、油断するとすぐに立ち消えします。

電気屋では、日本的な名前をつけたTVセットが販売されています。箱にはメード・イン・バングラデッシュと記載されています。これは現地組み立ての商品でしょうが、インドの似せブランド商品のほうがはるかに立派です。インドのTV業界は自国で部品などすべてを調達することが出来ます。ある宿で客が扇風機を買いこんで嬉しそうにしていましたが、これも包装といい、中身といい完全にインドの商品が抜きん出ていることは明白です。STEEL COMPANY なる看板があがっていましたが、この国では、製鉄所ではなく、鉄加工所と呼ばれるのが正解かと思います。

バングラデッシュで供給可能な商品があります。それは、天然ガスです。この国の発電はガスに頼っています。各地にガスタービン利用の発電所を増築したり、新設するなどして、電気の供給事情は悪くありません。これが現政権の自慢のひとつです。はたして電気の質はどうなのでしょうか?この天然ガスは民需用としてもたくさん出回っています。将来、このガスを外国へ販売して外貨を稼ごうという動きが賛否両論を巻き起こしています。

そんなに、天然ガスがあるならば、市内の交通機関をガス利用の車両に置きかえれば排気ガス問題は解決するでしょう。南インドで「ガソリン車をガス車に変換する装置あります」を見かけました。技術がないとこの転換は出来ません。ミャンマーでも乗り合いトラックがガスボンベを荷台に積みこんで、それを燃料として90キロの速度で疾走していました。ネパールでもガステンポと称した公共交通機関が導入されています。

バングラデッシュの経済は浮かびようがありません。以前に比べると少しですが、所得は上昇しているように見受けます。しかし、一般の人々の暮らしは殆ど変わっていません。都会のみが華やかになっていくのです。そう考えるとインドの農村部は着実な発展を見ることが出来ます。地域的な格差は存在しますが、南インド各地の田舎の生活は向上していると感じます。今はどんな田舎へ行っても電話や電気の設備が整備されています。しかし、ここでは、まだ10年程度遅れているように感じてなりません。反面ダッカでは携帯電話に人気があるのです。

トイレ、沐浴、養殖場

さて、バングラデッシュで見かける典型的な風景があります。田舎では、多くの家には池が設置されています。この池で人々は洗濯、水浴び、食器洗浄など生活にはなくてはならない一部です。さて、良く観察するとこの池の一角にはトイレも設置されているのです。どうもこの感覚をどう理解して良いものかいつも悩んでしまうのです。友人に聞いても答えは不明瞭です。乾季になると池の水位はどんどん下がり、池の水は濁り、ドロドロの状態になるのですが、いつもと変わることなく、主婦が洗濯、炊事に使っています。子供たちが水浴びしています。もちろん魚も住んでいますから、手打ち網で魚を捕獲します。当然この魚は食卓をにぎやかにしてくれます。このサイクルの理解は完全に私たちの衛生観念を覆してしまうのです。日本の美容法として、顔じゅうに泥を塗りこむ美顔パックというのがヒットしています。一部の好事家の間では糞尿健康法というのを実践する人もいます。そんな見方をすれば多少は納得できるのですが…。しかし、子供の頃から、これを日常生活の一環としている限り、バクテリアに対しての抵抗力は強い鍛え上げられるものと思います。

子供の人権

日常生活において、子供たちの労働の占める割合が圧倒的に多いのがここバングラデッシュです。国際的な法規が守られる様子もなく、当然のように仕事をしています。この現象はバングラデッシュだけではなく、南アジアの共通した社会構造のひとつです。反面ミャンマーでは、男女を問わずに子供達が通学している光景を多く見かけます。また、貧困家庭では寺小屋を利用した教育制度も発達しています。この地域では、識字率も高く、力車ドライバーも時間があれば読書にいそしんでいます。民主主義を掲げた国家が子供達の権利を無視しているのに引き換えて、軍事政権によって人権が保護されるケースも存在していると言えましょう。

バングラデッシュは、子供達の就学率が低く、中途退学のケースが一向に改善されないと報道されています。ましてや、スラム社会における子供達の人権にいたっては後退する一方ではないでしょうか?新しい発電所を作る努力があっても、人を育てる事業はなかなか進展しそうにありません。

経済悪循環

この場所での海運業は大変です。定員があってないようです。これでは、事故が起きても不思議ではありません。とくにお祭りなどがあると、人々は集中します。船頭は少しでも稼ぎを多くしようとします。安全は第二となり、船は転覆を招き多くの人々が犠牲となってしまいます。一人でも多くの客を拾うことに張り切っています。これは、船だけではありません。市内バス、長距離バスも一人でも多くの乗客を集めようとして、頻繁に停車し定員以上の客を詰め込みます。トラックも完全に積載オーバーで速度が上がりません。現時点で売り上は多いのでしょうが、タイヤの寿命やブレーキの磨耗などを考えると不経済そのものです。一般大衆にはこの概念が欠落しています。

この国で、経済の動きを観察していると、ものすごく効率が悪いのではないかと感じます。すなわち、収益が次の再投資に循環されていないのです。彼らの稼ぎの多くが賭博やタバコそして薬物に投資されていきますから、生活状況は改善される余地がありません。しかも、大麻などは自国生産の商品ではなく、隣国からの非公式輸入品です。潤うのはマフィア集団しかありません。何をしても救いようがないと感じます。もう荒れ果てた、荒みきったとも表現しても過言ではありません。もちろんインドでもこのような状況が目に入ります。しかし、インドでは宗教(ヒンズー教)がクッションの役割をはたして、日常生活の悲惨さをカモフラージュしてくれます。所がここでは、回教がその役割を担うのですが、この宗教はどちらかというと荒々しさを伴ったものがあります。同じ貧困国とされるミャンマーでは、悲惨さを少しも感じることはありません。

力車経済学

今日は終日チッタゴンを歩き回りました。この場所では、力車の利用が盛んです。どんなに近いところへ行くにしても答えは力車の価格が登場するばかりです。ともかく大変な数の力車ですから、時々渋滞が生じます。それにしても、彼ら(運転手)は巧みに操っています。急カーブや旋回、横断など心得たものです。器用に走行してくれるのです。時々先行車にガツンとぶつかることもありますが、安心して身を任せるしかありません。しかし、力車経済を考えて見ると、以外とコストが高い事が分ります。これを、大量交通機関に置換すれば、人々の購買力が他の分野に転換できると思うのですが、意識を変えるのは容易なことではありません。

ダッカ市内で35万台の力車とすれば、この国全体ではその10倍程度の力車がいると予想されます。とすると、350万人が力車に従事していることとなりませんか?これは大量な数となります。この労働力が他の分野で活躍するならば、この国の発展はまた変わったものとなるかも知れません。力車の活動は単に人間の輸送のみの生産性しか寄与していません。こうして考えてみると、経済学のひとつの対象となるのではないでしょうか?輸送の生産性も確かに低いのは当然です。

バングラデッシュの乞食は2人か三人の女性を抱えているようです。当然のことながら、子供がたくさん出来てしまいます。その子供たちは力車の仕事をするか、悪の道にはいるかのどちらかが多いようです。こうして力車の仕事をしても、稼いだお金の多くはギャンブルとドラッグで消えてしまうようです。彼らにはお金を蓄えるという概念がなく、その日暮らし同様です。大体、一台の力車の価格は4000タカ程度だそうです。さて、力車経済学にこの数字を入れて考察をすると面白い結果が出ると思います。

チムロン・モナストリ

チムロンはチッタゴンから東に60キロ程度離れたマルマの人々の住む地域です。ダッカの仏教寺院の友人たちが、由緒ある仏教寺院だから是非訪問して欲しいと希望があり、彼らは熱心にどうやっていくのか説明してくれました。昔は市内のど真ん中からバスが出ていたのですが、最近のバングラデッシュはどの町も肥大化し、郊外に大きなバスターミナルの登場です。超満員、超旧式の現地のおんぼろ市内バスに揺られること20分バス駅到着です。ダッカ行きのバスは4人がけでシートも広く結構ゆったりと快適な旅が出来ますが、地方と地方を結ぶ車両は数十年前のボンネット型のバスです。エンジンの音だけがやたらと高く、そのわりにスピードが全然あがらない代物です。天井も低く、背の高い人は姿勢を低くしなければなりません。この国は、女性が公衆の面前に姿を出す機会は少ないので乗客の多くは男性です。満員のバスに女性が乗り込むと、車掌は座席の割り振りに大忙しです。基本的に、女性客は車両の前部に集められることになるのです。しかもこのローカルバスは客の姿を見ると、所構わず停車します。日本のようにバス停留所などはありません。便利なようですが、これが渋滞の原因にもなっています。曲がり角だろうが、対向車が停止している場所だろうが、客の姿を見かけると停車しますから、後続車両は追い抜きをかけることも出来ず、じっと待つのみです。

ともかくバスは急発進と急停車の繰り返しです。車掌がバンバンと車体を叩いて出発進行の合図を送ります。バーンと一度叩いた場合は停止の信号です。運転手にとっては、バックミラーなど関係ありません。おんぼろバスはしばらくすると郊外に出て、緑のじゅうたんの中を突っ走ります。途中に検問所がありましたが、ローカルバスですから、関係なく通過します。外人はここで登録する必要がある旨表示がありましたが、日本人の顔も一部の現地人と似通っていますから、誰も私が外国人だと気がつきません。バスは関係なく通過してしまったのです。山間部に入るにつれて何箇所か仏教寺院の看板が目に入ります。

ようやくのことでCHIT MRONGに到着です。まずはバスを降りて茶店で一服です。地元の人々の顔つきは完全に我々と似ています。ここは、ベンガル人の居住区ではなく、モンゴロイド系住民が多数派を占める場所です。川の向側に仏塔がそびえています。そこには、信心深いアラカン系の人々が住んでいるのです。すぐ近くには船着き場があります。数艘の渡し舟が客待ちをしています。一人姿の私を見て、船頭が10タカと呼び込みを始めました。一分も待たないうちに数人の客がやって来ました。これに同乗すると、1タカで済むのです。ここまでくるとカルナフィリ川の水はエメラルド・グリーンで透明度を増しています。渡し舟には何人かの回教徒も乗り込んでいますが、彼らは信仰の対象として、この寺院を訪問するのではなく、風変わりなものを見学にきたようです。

ダッカの友人坊主が数日後にここへくるから、再会しようといって別れたので、早速、この寺の小坊主に聞いてみましたが、まだ現地入りはしていないようです。境内には、簡素な寄宿舎、ちょっと立派な本堂、バングラデッシュ・シェル石油会社の寄付による来客用のゲストハウスなどが並んでいます。私が彼らの日常会話であるマルマ語を理解するのに好感を持ってか、2人の若い坊主が親切にも案内役をかってくれました。彼らにとって、日本人に接するのは始めてなのかも知れません。ここで今月の16日から三日間盛大に高僧の葬儀が行われるそうです。若い坊主たちはここで勉強しています。ベンガル語も話しますが、住所交換した彼らのノートには、彼らの日常使用する言語の文字を練習している跡を見ることが出来ました。

この地域は、バングラデッシュ全体で考えると少数派に属するアラカン系住民の居住区ですから、まったく別な国へ足を踏み入れた感じがします。

歴史の流れから考えると、回教徒は交易の民とアジア各地の町に定着してモスクを設立し、居住区を作り次第に勢力を拡大していきました。インドの西海岸の港町には、回教徒が集中して住んでいる町があります。スリランカなどでも同様な現象を見ることが出来ます。(たとえば南西部の港町ゴールのフォート地区はほとんどが回教徒)回教徒の勢力分布の末端にあたるのがこの地域なのでしょう。仏教の信仰と回教の信仰が対峙する微妙な場所です。バングラデッシュの東部では、仏教徒は少数派ですが、隣のアラカン山脈に入れば、仏教徒が圧倒的に多数派を占め、回教徒は少数派に属します。概して、回教徒はたとえ少数派であっても気性の激しさを見せ付ける場合が多く、反面仏教徒は宗教そのものが温和ですから、多数派であっても温和な性格を持ちつづけます。彼らが少数派となれば、さらに温和とならざるを得ません。10年ほど前、この地域は仏教系の住民が分離独立を要求して、武器を持って立ち上がり、ゲリラ戦を企てたことがありましたが、今は平和協定が結ばれ平静を取り戻しているようです。

コックス・バザール

今日はコックスバザールへやって来ました。チッタゴンの中央郵便局の前から出るバス会社が何かと便利です。車体も比較的新しく、便数も豊富です。ここを訪問したのは15年以上も前です。ここ数年の間に、コックスバザールは大きく変化したようです。海岸に沿って新しい道路が完成し、海辺は大変な賑わいを見せています。みすぼらしかった政府系のホテルも新装開店しています。昔の閑静な面影がなくなりました。バスを降りてから一人のガイドらしき人物に導かれてホテル・ビーチハウスに到着しました。料金は100タカですから、相応の値段です。ちなみに近くのデラックスに見えるホテルの料金は、200タカから250タカといっていました。この宿のボーイ役をしているのが、勤続8年のバブルです。彼はヒンズー教徒だと言っていました。英語は他のバングラデッシュ人よりも達者で話しやすい気性の人物です。この傾向は多くの観光地で見ることが出来ます。初歩の観光産業の一般的なケースです。少数派のグループが従来の産業に踏み込んでいく余地がないので、このようにしてガイド役や新しい部門で道を開くしかありません。スリランカでは、昔はクリスチャン系住民がそうした役目を果たしていました。ミャンマーでは、主としてインド系の人々が観光業やガイド役の発端を築いています。彼らは概して少数派に属する人々です。伝統的な職場への道がないから当然のことかも知れませんん。

この地域の言葉はベンガリ語ですが、チッタゴン語とも呼ばれ、オリジナルなるベンガリに比べると相当に異なっているようです。多分それは、同じ日本語でも生粋な関西弁が分かりにくいと同様になまっているようです。この地域の食事も風変わりです。ダルスープは隣のミャンマーのように自由に取ることが出来、大きなボウルにたっぷりと入ってきます。大きな柄杓がついていますから、これで何杯でも取ることが出来ます。しかもこの味が少しばかり酸味が強いのです。これは、ミャンマーのスープに似たもので、ターマリンドの味の効いたものなのです。その他にミャンマーで有名なンガピーの類も登場します。野菜は漬物風になったものが提供されるのです。バングラデッシュの東部とは異なった文化圏に入ったことを感じてなりません。

午後はこの町の仏教寺院に出かけました。通を歩いていると、ビルマ・マーケットという文字が日本語のカタカナ、ベンガリ語そしてミャンマー語の3カ国語で表記してある看板が目に入りました。店の主人はモンゴロイド系の顔です。店番をしている女性の顔には、タナカが塗られています。明らかにミャンマー系(アラカンの人々)と言えましょう。店の主人はモンゴロイド系で親しみが沸きます。たどたどしいミャンマー語で仏教寺院の場所を聞きました。力車ならば3タカで行くことが出来るからと、力車を紹介してくれました。

乗ってみればきわめて近い距離です。この国の力車は道案内もかねているのです。お巡りさんに聞くよりも力車に乗るのが、この国のマナーかもしれません。大通りから外れてひっそりと寺院がありました。建物の形式はミャンマースタイルです。質素ながらも色々な財宝があります。かなり老巧化しているようですが、古い経文もしっかりと残っていましたが。これら貴重な資料は、悲しいかな保管の状況はおもわしくありません。虫食いや湿気にやられるのは時間の問題です。寺の境内で案内をしている青年は19歳の仏教徒です。この寺院に出入りしていると、昼ご飯は無料で提供されます。回教徒が見学にくると案内をして幾ばくかの小遣いをもらって生活しているとの話です。バングラデッシュの仏教寺院には多くの回教徒も見学に来ます。仏教徒が回教寺院を見学することは、めったにありませんが、その逆は存在するのです。ここに、多数派と少数派の微妙な関係を見出すことが出来ます。彼らには、この国の社会の枠組みから外されているように見えてなりません。この国全体で彼らのコミュニティは20万人程度ですから、大勢に無勢に等しいのです。それでも、この寺院の隣には、マルマ開発協会の建物があり、少数派に対しての配慮が始まっているようです。

ビルマ系仏教を振り返ってみると、それが以外と封建的な一面を持っていることを感じます。すなわち、僧侶が社会の特殊な位置に配属されているのを感じます。交通機関での優先乗車、食事は僧侶が終わってからでないと、俗人は口に出来ません。このようにして、僧侶自身の特権意識もかなり高いようです。この実態はインドのカースト制のブラーフマンの存在と似通った面があります。大きな違いは僧侶集団が社会の上層部に位置していても、政治的権力をもつことはなく、あくまでも文化の面で頂点にたっていた点ではないでしょうか?日本のように、僧兵を組織することもなく、政治に関与することもなく過ぎていったようです。インドではブラーフマン階級が、武装集団を彼らの支配下に置くことに成功し、それが現在も継続しています。仏教がインド国内で広がらなかった理由のひとつとして、特権階級が内部での抗争に明け暮れて崩壊したものと指摘されています。さて、アラカンやマルマの人々は敬虔な仏教徒です。バングラデッシュに住む仏教徒はこの国の社会の枠から外されていますが、反面僧侶に対しての忠誠心は大きなものがあります。ここに彼らの社会構造の矛盾を感じてなりません。このコミュニティの資産が寺院に注ぎ込まれ自由な経済活動を阻止しているのを感じます。僧侶や寺院への喜捨は非生産部門への投資ですから、それは将来の再生産に貢献することがありません。これがなお一層彼らの共同体の力を弱くしているのではないかと思います。ミャンマーのように大半が仏教徒であれば、少数派としてのハンディは存在しません。ですから、一見無駄とも見える寄進をどれだけ多くしても、その地域、国家に還元されます。

寺院に対しての寄付行為は現代史の観点から眺めると、一種の税金と同様な性格を持ったものと解釈できます。寄進された資金で多くの子弟が学問の機会を得ることが出来ますから、文部省的性格を備えています。寺院の祭礼は博物館の事業に類似しています。また、僧侶イコール官僚と決め付けるには無理があるかも知れませんが、ほぼそれに近い形態だと思います。しかし、これが正常に機能するのは、初歩的な産業構造の社会、すなわち第一次産業主体の社会においてでしょう。僧侶達は概して、人文系には強いけれども、理工系の思考を持たないことに現在のミャンマーの社会構造を見出すことが出来るでしょう。考え方次第では、この方向が正解なのかも知れません。極論すると工業化不要につながりますが、日本社会が将来の道を見失った答えを見出すことが出来るようです。

さて、それに反して日本の僧侶は僧職としての特別な地位はありません。日本の僧侶の特徴は彼ら自身が俗人としての生活をしながら社会の是非を考えて、説教をすることにあります。ここに大きな違いがあると思います。他方ミャンマー等では、僧侶の生活は、常に特権階級に身を置きながらの日々です。説法は仏典にのみ集中し、現実を黙視しているように見えます。時代とともに変わり行く社会の生活を真に見るときには、その中に身を置いたあらゆる経験が必要ではないでしょうか。僧職という特権の中から見えるものは何でありましょうか?僧職という特権に守られた中での思考は、実社会に適合しない場合もあるのではないでしょうか?

モヘシカリ

モヘシカリはコックスバザールの西側に位置する島の中心地です。ここには、有名なヒンズー教の寺院と仏教寺院があると聞きます。早速出かけることにしました。宿のMR.バブルが行き方を親切に説明してくれました。バングラデッシュはどこをとっても大変な場所に見えてきます。どこにいっても想像を絶する混雑、どことなく回教の影響が大きいシステム、くわえて新品を見出すことが殆どない空間、そういったことに圧倒されてしまうのです。

まずは、力車を利用して桟橋まででかけます。ちょうど引き潮の時間でしたから、干上がった河口には、多くの船が泥の中に立ち止まったままです。その中をぼろぼろの桟橋を歩きます。桟橋の末端でも船が着岸できず、渡し舟を泥の上にいくそうも並べて仮の桟橋が設置されています。私の目には異常なる光景でもあり体験ですが、地元の人々にとっては日常生活の一端です。それを過ぎてようやく本当の渡し舟が待機していて、本船に乗り込むことになります。桟橋の入り口で桟橋利用料を払い、渡し舟の並ぶ即席桟橋ではしけ利用料が徴収されます。スピードボートで行くと10分で到着できて45タカですが、普通の船だと一時間の所要となります。私の選択はもちろん普通の船です。宿での説明では頻繁にでているという話でした。10人程度で満席となるスピードボートは、次々と客を満杯にし快適なエンジン音を響かせて疾走していきます。その間当方は、じっと待つのみです。あいにく当方は炎天下で、まだかまだかと一時間半近く待たされ、ようやく出航です。

島では仏教寺院があり、そこでは、今日はお祭りがあるとのことで、ミャンマー系の仏教徒と分かる人々もちらりほらりと混じっていました。彼らの顔を見るとほっとします。東南アジアの顔立ちですからすぐに分かります。また彼らの衣装もベンガル人のそれとは大きく異なります。とくに女性の服装に特色を見出すことができます。さて、港を離れるときに、後ろを振り返ると丘の上に仏教の卒塔婆が大きく見えます。また、反対側の島に近づくと、これまた丘の上に仏舎利塔が目に入ります。となると、この地域の歴史が浮かびあがってきます。一時期、繁栄を誇っていたアラカン王国の匂いを感じ取ることが出来ます。現在、この地域は回教徒に押されてしまいましたが、丘に立つ仏塔はどこからでもランドマークとなります。

偶然に今日は祭りの日で、彼らの音楽と踊りを楽しむことが出来ました。ここでは、彼らの日常生活の一端としての仏教が強く根付いています。青年達による勇壮な神輿踊りらしきものがスタートしています。伝統的な楽器のみで演奏される独特のミャンマー音楽が耳にはいって来ます。桟橋に到着すると力車が客待ちをしています。車両進入を防止する柵を乗り越えて船のすぐそばまで出張しています。50メートル程度進むと力車は客を降ろして、力車仲間の協力でよっこらしょとそれを持ち上げて柵を乗り越えます。客は何事もなかったように、再び乗車して目的地に向かいます。60センチ程度の柵はまったく効果を発揮できません。いやはやバングラデッシュの人々のエネルギッシュなことにはビックリするのです。この地へ外人が足を踏み入れるのはきわめて少ないことでしょう。誰もが珍しそうに私を眺めています。

力車の世話になって、ヒンズー教の寺院まで行きました。始めは30タカという料金は、10タカで交渉成立です。小さな商店街を抜けると、レンガを敷き詰めた道になります。力車はでこぼこの道を時には力車引きが下車して押しながら進みます。終点にひっそりと小さな寺院がありました。周囲に住む人々の多くはヒンズー系の集落です。家の中には、数多くの神様の写真とインド映画のポスターが掲げられています。また仏教寺院の周囲はアラカン人の集落となっています。このアラカンの祖先は、アラカン王国とビルマ王国の戦火を逃れてこの地に住みついた人々と言われています。こう言った人々(難民的存在)は、バングラデッシュの中央部に位置するパトアカリ県にも見られるそうです。最近、この国は彼らにとって住みにくくなり、ミャンマーに引っ越しする人が増え、年々人口が減少しているそうです。

寺院の見学も終わり、たっぷりとモヘシカリの空気を吸いました。帰路は20分ほど待つのみで船は出航しました。さて、コックスバザールに着いてビックリです。干上がっていた桟橋には水がたっぷりと入り込んでいました。はしけの世話にもならず、直接桟橋に着岸することが出来たのです。今にも底が抜けそうな桟橋を注意深く歩いたのです。

宿に帰り川端さんという日本人に会いました。今回の旅を通じて出会った唯一の日本人旅行者です。彼はここからさらにミャンマーに近いセントマーテン島へ行き、えびのカレーを50タカで食べてきたとの話です。夕食を共にし、バングラ談義に話が弾みました。近づくイスラムの祭礼時は、移動が不可能となるから注意するように地元の大学生に教えてもらったそうです。私の計画も変更しなくてはなりません。彼は今月の18日のフライトでカルカッタへ向かう予定でいます。何としても16日にはダッカに到着しなければならないと話していました。

セント・マーチン島

セント・マーチン島

セント・マーチンはバングラデッシュの最東端にあり、ミャンマーを向い側に眺めることの出来る場所です。コックスバザールからテクノフまでの道は、日本政府の援助でアジアハイウェーの一環として建設されたもので、日本の規格に近い設計となっていますからバスは快適に走行します。しかし、その後の船が大変でした。通常の客は30タカですが、私はなぜか50タカといったように料金はだまされるし、船は大きくゆれるのです。もちろん救命具などの非常用安全装備は搭載されません。

情報によれば、テクノフからセント・マーチンまでは3時間と聞いています。所でこのテクノフも興味深い場所です。隣のミャンマーから米を搭載した船を多く見かけます。船はミャンマーの国旗が旗をなびかせ、船首にはミャンマー独特の丸文字が書き込まれています。ヤンゴンやバンコク、カルカッタのような巨大な港ではありませんが、河口を利用した天然の港のひとつですから、共通性をみることが出来ます。多分100年前のカルカッタは、このような光景だったかも知れません。港としての構造は基本的には同じでしょう。沖合には数隻の大型船舶が停泊しています。対岸から対岸へと直接接岸できる小型船舶がズラリと見事に隙間を埋め尽くしています。河口や本流では潮の満ち干があまりにも大きく、船荷の搭載をする岸壁を作るには膨大なコストがかかります。結論として適当な支流を見出して、そこを集荷場としていると見受けます。

セント・マーチン行きの船は食料をたっぷりと積みこんでいます。かなりの乗客が集まっています。12時半出航の予定は20分程度遅れてエンジンが鳴り響きました。いよいよ出航です。渋滞している支流を強引に相手の船を押し抜けて本流に向かいます。遠慮もなく相手の船にぶつかりながらの前進です。そこへ無理やりに突進してくる対抗船もいます。自動車道と同じように、追い越しをかけようとする船もいますから、大混乱です。おまけに今は引き潮ですから、支流の川幅はいっそう狭く浅くなっています。そんなことを無視しての前進こそ、まさしくバングラデッシュ的光景、バングラデッシュ魂です。

今日はとくに波が高いからでしょうか?漁船程度の小さな船では無理なのです。河口と潮の流れがぶつかる場所は自然と波も荒くなっています。インド亜大陸を流れる多くの川は必ず河口にはデルタ地区を作りますが、ここナフ川は扇状地を形成しない珍しい川のひとつで、対岸にはアラカン山脈がそびえています。一時間半ばかり進むと、船の中央部におかれた荷物は、UN(国連)と記載された大きなシートをすっぽりとかぶりました。何となくいやな予感です。それは、的中です。その後30分もしない間に大揺れが始まりました。そのゆれはまるでジェットコースターに乗っているかのごとくでした。乗客は平然としています。安っぽい偽ブランドのサングラスをかけ、不明瞭なバングラデッシュ英語で語り掛けてきたキザな学生がぐったり伸びていました。典型的な船酔いです。真っ青な顔が引きつっています。先ほどまでは、威勢良く友人同士で英語でやり取りし、周囲の人々の注目を引いていたのですが、今は完全に精気が失せています。

遠くに障害物はないのですが、波しぶきが上がっています。これは、川の流れと潮の流れが衝突して発生する自然現象のひとつと見て良いでしょう。南米大陸のアマゾン河口に同様な現象があり、大きな波がたつと聞いたことがあります。船は両者の交わる危険地域をさけて迂回しながら目的地に進んでいきます。それでも船は大揺れです。しかし、島陰はまだ見当たりません。

結局4時間の所要で無事島に到着です。島の周辺はうって変わって静寂を保っています。船が到着したものの、ここには、桟橋がありません。ズボンの裾をまくり、靴を脱ぎ、はしごを伝って波打ち際へジャバンと入り込まないと上陸できません。本当に冷や汗の船の旅でした。4時半ごろに到着しました。今にも転覆しそうな船を降りて、久しぶりに大地の感覚をじみじみと味わったのです。

この島には今のところ三軒しか宿がありません。多くの外国人旅行者は、もと校長MR.カシムの経営するベンガル・ロッジに宿泊するようです。カシムおじいさんの孫が岸辺へ迎えに来ていました。宿は船の停泊場から商店街を抜け、歩いて5分の距離にありました。設備の整っていない簡素な宿は、それでも100タカします。

この島は昔ミャンマーの領土でしたが、ネ・ウィン[1]氏によってバングラデッシュへ売り飛ばされたといういきさつがあります。また10年ほど前にサイクロンに襲われ、平坦なこの島が全滅になったと聞きます。電話の中継塔がこの島で一番高い建造物です。島の東西を結ぶ1キロ程度の一本道がコンクリートで舗装されているのみで、自動車や力車などはありませんから夜ともなると静寂そのものです。他の集落へ行くには浜辺そのものが道路になっています。島を一周するには4時間程度かかるそうですが、ともかく小さな島です。島の南部にはさんご礁があると自慢していましたが、今回は時間がなく訪問することは出来ませんでした。島の東側にはミャンマーの山並みを眺めることが出来ます。島内で一番立派な建物はイスラミック・ファンデーションのビルです。これは、バングラデッシュ各地にこの手の施設があります。どの建物も同じデザインになっていますからすぐ判別がつきます。中近東の支援で作られたこの建物は集会所でもあり、サイクロンの避難所でもあり、多目的に利用されているそうです。真偽はわかりませんが、武器弾薬の貯蔵庫となり、イスラム過激派の拠点として利用されているそうです。

地図の上では国境線が存在するのですが、地元の住民は国をまたいで適当に出入りしています。レストランで働いている青年は隣の国のミャンマー人です。三時間の船旅でミャンマーの町に入ることが出来ます。これは、バングラデッシュのテクノフへいくのと同じ距離です。もちろん彼らは両者の言葉を話します。しかし、彼らのベンガル語はまったくブロークンなもので、私と似たりよったりです。

村には発電機があり、これで夕方6時から10時までの間電気を供給しています。小さな商店街は結構豊富に商品が出回り、仕立屋、薬局、八百屋、床屋、雑貨屋がならんでいます。地下水も充分涌き出るようで簡素な生活を営むには不自由しません。島の偉い人々は、ここを開発してもっと客を呼び込もうと計画しています。しかし、いつ完成するのでしょうか?タイランドの島のような一大リゾートの夢は、回教徒ばかりのこの島では机上のプランで終わってしまいそうです。イスラミックマインドが観光地として成功する確率が低いのは周知です。回教国マレーシアの東海岸にはいくつもの島々があり、観光地として発展しています。しかし、それらのノウハウは同居する中国系の人々の資本が入り込み、知恵が結集されています。バングラデッシュのように、イスラム色ギンギンの傾向にある場所では、観光開発をするには、あまりにも障害が多いと感じます。

魚介類は豊富で多分浜辺ではただ同然の価格でしょう。この島の唯一の産業は漁業です。あちこちに魚を日干ししている光景を見かけます。浜辺を散歩していると、向こうから一人の青年が声をかけて来ました。さて、誰だったかな?思い出してみると、テクノフからの船に同乗していた客の一人です。彼は、工具を買いに本土へ往復したそうです。彼の仕事は船大工で、難破船の残骸整理をしています。浜辺にテントを張り、そこが、作業所兼住居となっています。トイレは大自然の海です。今は気候も温暖、この島には蚊もいませんから生活環境は悪くないようです。しかし、何の娯楽もありません。そもそも、彼らの余暇という概念は、私たちのそれとは異なるのかも知れません。ですから娯楽がないというのは、的を得ないかも知れません。数日後には回教徒の大祭が控えていますから、チッタゴンに帰るそうです。私も大祭の隙間を縫いながら、混雑に巻き込まれないように帰らなければなりません。帰りの船は大きくゆれることもなく2時間でテクノフに到着しました。

ストライキ遭遇

今日の朝はチッタゴンにいく予定でした。朝食を済ませて部屋へ帰ってみると、宿の人が「今日この町はストライキだから、明日にしたほうが良いですよ」と忠告してくれました。しかし、日程の都合で本日の移動を頭から決めていましたから、何らかの方法でチッタゴンにいけるかどうか確かめると、ローカルバスが街の郊外から出ているからそれなら大丈夫という話でした。ともかく力車でそこへ向かうことにしました。力車の値段はこのような時には高騰するものです。始めは50タカという声が聞こえました。宿の人に前もって確かめてあった平常15タカ、緊急時の20タカという値段を知っていましたから、すんなりと20タカで交渉成立です。

そう言えば、昨日バザールを散歩していたときに不穏な空気に遭遇しました。数人の若者が旧式の銃をシャツの背中に隠しもち、覆面をして歩いていく姿を見かけました。周囲の人々もおびえたような顔つきで彼らが通過するのをそっと眺めていました。ギャング同士の抗争か、それとも政治的対立が原因なのか、この町も緊張状態です。イスラム教徒は復讐が好きなのは定説で、インドの娯楽映画には、その影響が強く表れています。

さて、力車に乗ってしばらく進むと、道路が封鎖されているではないですか、それではということで、力車は細い路地を迂回しながら目的地に向かいます。昨日、過激派のテロ行為があって一人死亡したそうです。2箇所が封鎖されていました。少しばかり緊張感が漂います。さらに、進むと今度は子供たちが棒切れを持って、力車を通してくれません。多くの客は仕方なく、ここから歩き始めました。バス乗り場まで遠いのかと聞くと、すぐだと答えます。当方もここを力車の終点とあきらめて、予定通りの20タカを払って下車しました。彼らがすぐとはいったものの、なんのその、約30分ばかり歩いたことでしょう。生贄の大祭が近いので家畜市場は大混雑しています。その中を横切り、ようやく、通称リングロードに出ることが出来ました。家畜市場の両端は車両が進入できないように封鎖されています。これで、子供たちが棒切れをもって力車の進入を防いでいた理由がうなずけます。リングロードまで来るとバスやトラックが頻繁に走っています。仮のバスターミナルが出来あがって混雑しています。宿を出たのが9時、力車で20分揺られて、歩いて30分後にようやくバスに乗ることが出来ました。バスは30分ばかり客待ちをしてようやく出発です。ローカルバスでは6時間かかると聞きましたが、実際にこのバスは準急と言うべき存在でした。所要時間はちょうど4時間です。所々で客が乗り降りしながら突っ走りました。

交通渋滞

今日も大変な日でした。朝はすごい雨に見舞われました。西の空にはどんよりと暗雲が立ち込めています。ものの20分もしない間に豪雨が襲ってきたのです。屋根からは滝壷のように雨水が流れはじめ、道路の低い部分は水浸しとなっていきます。設計不良の排水溝は機能することなく、朝食をとっている間にどんどん水位が上昇していきます。その合間を縫って、バスの切符を求めて右往左往です。幸いなことに一番前の特等席を入手できました。このバスはダッカ市内の中心部まで入り込みますから、市内バスに乗り換えをする必要がありません。ともかく本日は満員盛況の様子で、料金も割増しで125タカが150タカに跳ね上がっています。とくに地方へ行くバスの当日分は売り切れだそうです。明日が祭礼の日ですから、民族大移動が始まっているのです。切符を手にしたころは雨も小ぶりとなりました。

運良く、9時45分発のバスでした。係りに聞くと6時間で到着するという話でしたが、結果としては夜の8時半過ぎに到着です。まずフェニまでがえらく時間がかかりました。列車では一時間、バスでは通常一時間半で行くのが倍以上かかりました。道幅が狭いのに小型三輪車や力車が障害となって速度はがたんと落ちていきます。その中を瞬間的にスピードをあげてぶっ飛ばしますから効率が悪いのです。力車などを器用に避けて走らなければいけません。ここでは、交通規則などありません。混沌とした中をまっしぐらに突進していると言えましょう。前の座席ですから一層実感することが出来ます。もう、緊張の連続で、せっかく準備してくれた最前部の特等席がバングラデッシュでは、疲労困憊を招く席と分かりました。早く宿についてほっと一休みしたいのが本当の思いでした。道中で一度休憩したのみで、後は車内に缶詰となりました。バングラデッシュは中国との関係が良いようです。大きくは見えませんが、外交の駆け引きとして利用されているようです。インドと中国は仲が悪く、いまでも国境線がはっきりとしていません。有事の際には、バングラデッシュと同朋に巻き込もうという作戦でしょう。渋滞に巻き込まれると、バスは速度を落として走行しますが、逆にさまざまな事柄を発見することが出来るのです。中国との合弁会社も目に入りました。中国製ホンダバイクを見かけました。

もう、割り込みなどは当然のことです。大体、立派な橋がかかったものの、橋へのアクセスが巧くできていませんから、渋滞の連続です。橋の直前が急カーブになっていたり、交差点の周囲だけがやけに広く、すぐに渋滞を引き起こす設計になっています。対向車が来ても譲ってはいけません、強引に割り込まないと終点へ到達することが永遠にできないのです。あまりの渋滞に警察官や地元関係者が誘導しているのですが、車両は彼らの指示に従うことは少ないようで混乱を高めています。20分ほど快走したかと思うと、一時間停止したままです。この国の渋滞は完全にバンコクをしのいでいます。産業が発達するにつれて、郊外へ連なる超過密の渋滞状況は悪化するばかりではないかと思います。それを改善するために、所々道路が工事中ですから、なおのこと延々と車の列が続きます。ましてや、今は民族移動の日々です。バスの屋根にも客がびっしり乗っているのです。バングラデッシュで大変なる体験をしてしまったのです。日が完全に暮れて夜の8時半にダッカ市内に到着です。バスは幸いにグリスタンを経由してくれましたから、そこで下車し、力車を乗り継ぎアルラザック(宿の名前)につれていってもらったのです。ともかく、宿の看板を見てほっと胸をなでおろしたのです。結局11時間の所要時間でした。

10分ばかり遅れて、コックスバザールで出会った川端さんと一緒になりました。彼も今日は大変な日となったそうです。昨日からバスの切符を探し求めていた様子で、朝になってようやくバスの切符を入手したそうです。結局12時間かけて政府のバスでたどり着いたそうです。料金は150タカと私と同じ値段です。私は2×2の座席でしたが、彼は2×3のバスで超満員だったそうです。しかも私よりも一時間半早く出発しているのです。早速2人で夕食を取ることとしました。

それにしても、この国の生活環境や社会事情は最悪と言っても過言ではありません。インドがまったくと言って良いほど光り輝いてみえるのは、私の目だけでしょうか?やはりカルカッタは、質実ともに文化の都と呼べるでしょう。バングラデッシュは、自由なる民主主義の国家と主張していますが、それと相反して、社会事情を見ると、胸が痛みます。一体民主主義の恩恵をどこに見出すことができましょう。ミャンマーの軍事政権を非難する意味が薄れてきます。ミャンマーでは自由がないようですが、男女が仲むつまじく暮らしていける国です。子供たちの悲惨な姿はありません。ここバングラデッシュでは、子供たちの労働が主体となっています。教育水準もミャンマーに比べるとはるかに低いようです。国家の発展には問題が山積となり、どれも解決されないままに時が過ぎていくのでしょうか?ネパールの上流階級は本国から脱出して発展国への移住を夢見ていますが、ここも同じかも知れません。

クルバニ

クルバニが近くなると、あちこちで家畜の市場が繁盛します。しかも、祭日の時は町中が血まみれとなるとの話です。宗教がらみですから、良い悪いは言えませんが、ヒンズー教徒にとっては、とても恐ろしい日です。彼らにとって神聖な牛がいけにえにされるのですから、かないません。しかもあまりにも膨大な数が一日に処理されるのですから、どう解釈して良いものか理解に苦しみます。今年のメッカ参りには全世界から200万人の信者が集まり、65万頭の家畜が一度に首をはねられたと報じられています。これらの肉が世界各地のイスラム系の難民に届けられるそうで、イスラムの教義に沿った儀式であることを強調しています。これだと、インドとバングラデッシュは仲良くなれるはずがありません。カルカッタのアラカン寺の人々が回教徒を毛嫌いするのが良く分かります。

今日が生贄の祭礼の日ですから、バングラデッシュの大地が血の海となるのです。ダッカ市内のあちこちで牛が首を切られている光景を見かけます。ヒンズー教の人々にとっては全く目を背けたくなるような儀式です。まるでそれはインドを意識してかのように映ります。医学や科学技術の進歩はやはりインドが大国です。文化水準の高さもインドははるかに上位にあります。人々が治療を受けるためにインドの病院に行くのが良く理解できます。南インドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロールでは、多くのバングラデッシュからの頭脳流出があります。これでは、バングラデッシュの存在感が消えるばかりです。ここぞとばかり、情熱を注ぐのがこの生贄の儀式です。

午後はリバーシティなるダッカの船着き場やオールドダッカを観光しました。もちろん頼りになるのは力車のみで、市内バスや乗り合い三輪車などの公共交通機関は全面運休です。幸いに川端さんが一緒だったので退屈することなく二人で出かけました。夕方になってこの地域は力車の渋滞が発生したのです。細い路地に力車が毛皮を積んであちこち往来しています。この地域は皮の集荷場があり、取引が行われていました。路上にまだ血糊のついたままの家畜の皮が山積となっています。それにしても、今日一日で殺戮された牛肉はどこへ行くのでしょうか?ビニールの袋から肉の断片が姿を見せています。それをぶら下げて人々が通過していきます。力車の乗客は、肉塊となった片足をポンと前に乗せて帰宅の途中です。路上生活者も今日はいつもよりご馳走にありつけるようです。案の定、ダッカ市内の用水は赤味をましています。こうして、今日は終日クルバニづくしとなるのです。

ダッカ市内を歩くのは大変神経を使います。今日も何度か力車の世話になりました。彼らは巧みに操縦しています。一種の特殊技術かも知れません。これに乗っかっていると安心できます。歩いていると危険そのものです。道路の横断は女性には不可能でしょう。数カ所歩道橋が設けてあるのですが、だれも使おうとはしません。絶好の日よけ、雨宿りの場所と化しているのです。ダッカの市内の大通りは、今日はひっそりとしていました。歩行者天国という印象です。通常は身動きとれないほど多くの力車や車両、歩行者で道路前面が埋まってしまいますが、まったくガランとしています。マーケットも休みです、大学も13日間の長期にわたって休校となっています。ダッカ市内はもぬけの殻となっています。宿泊している宿もがら空きです。外人が三人しか泊まっていません。公式には三日間の連休となっていますが、あちこちのマーケットや商店街が本格的に稼動するのは一週間後という話です。

この国にも海外援助が各国から注ぎ込まれています。しかし、お祭りの時は盛大です。いやこの国は援助なしでも十分に運営できるのではないかと思うぐらい、にぎやかで、人々は盛装しています。あれだけの数の牛を一度にいけにえにすると膨大な分量となります。貧しいながらも、見栄を張るがために必要以上の牛を殺戮しているように映ります。収入が以前よりも増えた部分をこの生贄の祭礼に注ぎ込んでいるとしか思えません。一日で食べきるのでしょうか?首飾りのかかった牛たちも、観念したように見えます。本当に今回の状況は始めて目にしますから驚きです。日本でも、祭日の時は結構にぎやかで美味しいご馳走で振舞うのですが、最近は食生活の向上で日常と大きな差異はなくなりました。バングラデッシュでは、つかの間の飽食の日になるのでしょう。祭礼や儀式に莫大な資金を投入しているのが、発展途上国の多くです。貧しい国と自ら名乗るネパールは、毎日どこかで祭礼があります。この予算の一部を近代化に振り替えれば、海外からの援助がなくても国家の運営、人々の暮らしは向上すると思うのですが…。

クリントン訪問

今月の20日には、アメリカの大統領がこの国を訪問するそうです。警備は10メートル毎に立てるそうでかなり厳重な方針です。アメリカの大統領、すなわち超VIPの訪問はこの国にでは始めての出来事です。国全体が張り切っています。それを示すかのように、野党も歩調を合わせて反政府運動やストライキの先導は、当分の間中止するとの見方が流れています。今回は12時間の訪問が決定し、官僚はその予定を組むのに奮闘中ですが、肝心の首相はメッカ参拝で不在です。彼女が帰国した翌日にクリントンが訪問という過密スケジュールです。

実際には、クリントンはインドとパキスタンに関心があって訪問することになっています。しいて言うならばバングラデッシュ訪問は付録みたいなものでしょう。またバングラデッシュの首長は、同じ回教国としてのタイアップを捨てるわけにも生きません。どちら側も重要視していない様子がありありと浮かび上がってきます。マスコミに洗脳された庶民だけがやたらと興奮しています。

案の定、予定された行程はいくつかキャンセルされています。ダッカの郊外30キロにある独立記念碑の表敬訪問は、取り消しなりました。道中の森の木陰からイスラム過激派によって、ミサイルで撃墜される恐れがあるというのが主な理由です。最近はテロリストの動きも国際化し、国境を超えてあちこちに入り込んできます。99年12月には、カトマンズでインド国内航空が、カシミールの過激派によって乗っ取られてしまいました。平和そうに見える場所であっても、ずさんな出入国管理体制のもとでは、国境を超えるのは今でも容易なことです。陸路はオープンボーダーです。また同じ回教国として、アフガニスタンやパキスタン人の入国には以外と甘さがあるのではないでしょうか?バングラデッシュの政府は記念碑の訪問が取り消されたことを大変残念がっていましたが、実際には、クリントンにとっては何の意味もなかったものと思います。

TVがクリントンの訪問の様子を放映していました。12時間の間に何百人もの人々と握手をしたことでしょう。お疲れ様でした。しかし、大きな事件もなく、無事終了となりました。この訪問で空港は半日閉鎖され、交通規制で市内の商売は麻痺したそうです。

独立と民主主義

バングラデッシュの知識人は1971年の独立を国家の偉大な一歩として記していますが、その真実はどうなのでしょうか?300万人の人々が犠牲になりパキスタンからの分離独立を成し遂げたと聞きます。当時の状況を判断すると、バングラデッシュ側の主張として、パキスタンがバングラデッシュの富を持ち逃げしたという不満が原因といわれます。単に経済の面からのみ語れるものではなく、アーリア系文化とベンガル文化の摩擦という理由もあげることが出来ます。パキスタンがバングラデッシュに何の投資もしなかった、という説が今も定番となっています。しかし、バングラデッシュは西パキスタンにその富を搾取されるほど豊かだったのでしょうか?まったく投資がなかったのでしょうか?事態を分析してみると、西パキスタン政府もある程度の社会資本の投資を試みたのでしょうが、あまりにも過酷な自然条件に方策がなかったのかも知れません。富の剥奪が論争となりますが、大体においてこの地域での富はほとんどないにも等しいといえるでしょう。歴史を一方的に眺めると間違いを犯すこととなります。西パキスタンにとっては、お荷物だったのかも知れません。

独立を勝ち得た後は真に希望のある国家となり得たでしょうか?旧宗主国の英国からインド連邦として独立を勝ち取り、パキスタンからの分離で更なる、独立を勝ち取ってからは、ベンガル人の回教国家としての意識は高揚しました。その反面、少数派を完全に隷属化している傾向を見かけます。自由独立を歌いながら、独立した多数派が内部の少数派の自由を束縛するという循環が始まります。多数派と少数派の問題はこの国だけのものではありません。少数派の人権は一体何処にあるのでしょうか?南アジアの民主主義は本来の概念から距離を置いたものとして映ります。東南アジアのマレーシアやシンガポールなどの複合民族国家は、お互いの文化を尊重しながら共存しています。大衆の間にも宗教や文化を乗り越えて社会が機能していますから、大きな問題は発生していません。マレーシアのブミプトラ政策のようなマレー人優先策などの逆差別などが存在しましたが、少なくても双方の武力衝突を避けることに成功しています。

さて、この地域の少数派の例としてチャクマやモグなどが挙げられます。しかし、彼らのコミュニティはあまりにも小さいのではないでしょうか?他方、中国系の人々が世界各地で少数派として存在していますが、以外とタフで何事にもめげずに現地に適応しています。マレーシア、タイそして、インドネシアの中国人社会の影響力は大きなものがあります。インドネシアでは国家の人口の数0.5%に満たない中国系の人々は、経済の面で強い影響力、支配力を持ちつづけています。これが原因で死者を出し新たな問題に発展しています。バングラデッシュの少数派の社会は異質な回教文化圏の波から逃れようと必死ですが、実生活においてはその大きな波に飲まれてしまいます。ここに彼らのジレンマがあるように思います。

この国のあちこちで、機関銃を構えた警察官を良く見かけます。青い制服の人々です。それは、いかに治安が悪いのかを如実に語っているのではないかと思います。ミャンマーと比べると格段の違いです。政治的には、軍事政権ということで世界各地から批判を浴びていますが、人々は和気藹々とすごしています。独立直後の夢はどこへいったのでしょうか?毎年、政府の閣僚がこの記念碑で式典を行っているのに、どうしてその理想が実現しないのでしょうか?

民主主義を雄弁主義と勘違いしている人々がかなりいるようです。本質を理解せずに、口達者なばかりの人種が多いと見受けました。これは、南アジア諸国で感じる現象です。貧しい国といいながらも武器と麻薬が豊富にあるのがバングラデッシュなのです。大学生の一割が薬物中毒という恐ろしい結果が公表されました。彼らが将来国家の運営にあたるとすれば、この国の将来はもうないも同然かも知れません。昔に比較すると、変化の速度が急激に速くなっていくのを感じます。この国も大きく変化しつつあります。経済の急速な進展を見ることが出来ます。電話、電気、道路などの社会基盤が少しずつ整備が進んでいますが、人口の増大を考えると一人あたりの実質整備はまだまだ低いのが現実です。バスのネットワークなどは大きく整備され、便利になったはずですが、それに伴う人々の移動の絶対数が増えていますから、混雑の緩和にはいたりません。通信網が整備されたとしても、その機能が本当に有効に利用されるかどうか疑わしいものです。一部の人々が、井戸端会議の道具として重宝するのみかも知れません。この地域でTVがあっても、誰も教育番組や政府の報道に関心を示すことなく、民間の娯楽番組にのみ終始しています。一体誰が利益をあげているのでしょうか?

このデモクラシーを叫ぶ国には、あらゆる犯罪が毎日大きく報道されています。人々が本当に安心して社会生活を営むことが出来るのでしょうか?日毎に状況は悪化するばかりです。人殺し、強盗、バス乗っ取り、交通事故、船の転覆、過激派のテロ行為など数多く存在しています。それで、民主主義国家として誇ることが出来るのでしょうか?形態はどのようなものであれ、人々が安心して生活できるのが民主主義に勝るものではないでしょうか?この国では、がなりたてたものが勝ちとなる民主主義が成立しているようです。どこへいっても男ばかりの光景はもう懲り懲りであります。

ダッカ脱出

今日はダッカからの脱出を試みました。日本でいうならば元旦の翌日にあたります。昨日は列車、長距離バス、市内バスが前面ストップの状態で、今日から運行が開始されると聞きました。ダッカの中心街から西部方面行きのバスが発着するカプタリへは、二階建てのバスが運行されています。市内は大きな渋滞もなく、20分程度でバスターミナルに到着です。しかし、ここからのバスは大混雑でした。バスの屋根にも乗客を満載し、車内も牛詰めで阿鼻叫喚が聞こえます。しかも切符は平日の倍の価格で取引されています。またしても、バングラデッシュのしらざれる一面を垣間見てしまったのです。ともかく本日は渋滞がありません。運行している車両の数がきわめて少ないのですから渋滞が起きるはずはありません。トラックなどは道路脇で眠ったままです。このルートはバンガバンドという有名な橋を通過します。フェリーや渡し舟に乗る必要もなく一気に通過できるので、ダッカから西部方面の距離は短縮となったようです。230キロの行程を5時間で到達したのですから、この国としては早いかも知れません。ここで、フェリーの乗り換えなどがあると、フェリーの順番がくるのに2時間待ち、フェリーが川を横断するのに2時間必要となり、4時間加算されるのです。前回のチッタゴンからダッカの旅は何と12時間必要でした。それに比べると本当に早いものです。しかし、バンガバンドの橋までの整備は遅れています。いくつもの橋が工事中で道路も拡張作業をしているものですから、ガタガタでゆっくりとしか進むことが出来ません。しかし、交通量が少ないので運良く快適な旅となりました。

しかし、この国の道路状況を考えるとまったくといって良いほど、効率が低いのに驚きます。インドも同様で状況が悪いと思いましたが、近年南インドの実例を見ると、快適な道路が多く作られています。先日訪問したケララ州やタミル州などは、道幅も広く、日本のような高速度道路といえませんが、かなりの高規格の道路となっていました。4車線から6車線の道幅で、力車などは見かけませんから安心して突っ走ることが出来るのです。最近、東南アジアの国々の中でタイランドやマレーシアなどは立派な道路が完成しました。同時に車両の点検整備も並行して進んでいます。この国においては、車両の整備は不良でも動けば良いのです。真っ黒い排気ガスを吐き出しながら、図体の大きいバスが大きな警笛をならしています。それが、車両の運行をさらに難しくしています。そして、渋滞の源となっているのです。

ともかく、ボグラに到着です。マーケットまでは目と鼻の先なのに、人々に聞くと力車で行きなさいというのです。乗ってみると本当に近いのでした。しかし、これが一般的なバングラデッシュ感覚なのかも知れません。ともかく近くても、遠くても力車は庶民のドアーからドアーへの公共サービス機関なのです。

ボグラにて

さてボグラは結構大きな町と感じました。力車はどこへいっても待ち構えています。バングラデッシュの都市構造は、市街地は完全な力車天国で、大型車両は通行禁止となり、郊外に位置するバス駅へは必然的に力車を利用するしかありません。ボグラの北15キロに古い遺跡が残っているそうです。ベービータクシーという乗り合いテンポで遺跡の町へ向かいましたが、急カーブはするし、安心して乗れるものではありません。平坦な道ではスピードを上げるし、力車を追い越そうとするし、同時に、バスに追い抜かれるのですからたまったものではありません。インド製の小型者三輪車は近隣諸国では経済的な近距離移動手段として人気があります。後部に8人、前に2人合計10人の客が集まれば出発です。いやはや、この国の交通機関はどれをとってもハラハラします。

ここマハスタンガードには古い都の跡が残っているのですが、時代的にあまりにも古く、老巧化していますから、イメージが沸きにくいのです。今は当時の城壁の名残を補修したものが昔の面影を偲ばせています。博物館には多くの展示品が並んでいますが、発掘された品物の多くがテラコッタの類ですから、長期に保存できるものではありません。しかし時代の流れに沿っての展示には興味深いものがありました。仏教文化とヒンズー教文化が共存していた事実を知ることが出来ます。しかし、今のバングラデッシュとの関連がほとんど見当たりません。現存するバングラデッシュはおよそ30年前に新設された国家ですから、歴史の関連性を見出すのは難解なことなのです。またこの博物館は、1967年にパキスタン政府によって完成されたものとして礎石が残っていました。現在のバングラデッシュは回教が主体となった国で少数ですが、ヒンズー教徒と仏教徒そしてキリスト教徒がいます。過去において仏教が栄え、ヒンズー教が栄えたとしても、今はそれらの文化が片隅に葬り去られているのです。

同様なことをパキスタンでも感じます。すなわち歴史の関連性を見出すことが無理なのです。現在のこの地域は回教徒によって支配されている地域です。文化は生活様式全般に影響を及ぼします。この地域に一時期栄えた王朝は、まったく過去のものとなってしまい現在の生活との関連は薄れてしまったのです。その点インドを考えると歴史の国と言えましょう。過去の文化が現在においても連綿と引き継がれていることに、すごいものを感じることが出来ます。それがインドの魅力のひとつといえるでしょう。自分たち文化を他の地域に従属させるエネルギーがインドや中国に残っている、と読むのは間違いでしょうか。改めてインドの豊かさを、強さを感じます。もちろん歴史を通じて、外来文化の流入があり、大きな影響を受けていますが、基本的には、インドそのものとしての主張を見出すことが出来るのです。領土拡張の争いと同様に、見えない形で文化の摩擦も数多く歴史の中に発生していたと思います。この観点からするならば、中国も偉大と言えるでしょう。またミャンマーも、生活の基本は仏教であり過去から現在に至るまで続いています。タイもそう言えるでしょう。そんな思考をめぐらせながらの散歩は、楽しいものがあります。途中ひなびた茶店では丁寧なもてなしを受けました。

ラジシャヒ

本日もまた移動しました。ともかく昔訪問したラジシャヒにやってきたのです。ボグラからのバスは快適にハイウェーを走行します。90キロの道のりは40タカの料金を払って2時間程度で到着したのです。同じバングラデッシュでも西側は道幅も広く、整備が行き届いています。しかし、車内はいつも満席で、通路にも屋根にも人々がたくさん乗っていました。騒然とした車内ですが、私はともかく座席を確保できました。人々の服装もインドに似通って、ズボン姿の人が多くなりました。TVもサテライトの発展でインド系の放送を見ています。バングラデッシュ西部と東部では顔つきが少し異なります。チッタゴンやコックスでは、彼らの話している内容が非常に聞き取りにくかったのですが、ここでは標準的なベンガリ語が話されているようで当方のベンガル語と同じ発音、イントネーションを使っています。これらが、大きな違いかと思います。大河ブラフマプトラを挟んで文化が違うのは当然のことかも知れません。ダッカから大河を越えてボグラやラジシャヒなどの町があります。さらに、西にいくと再び大河があってインドとバングラデッシュを分断しています。広大な川はゆっくりと文化を寸断しているとも言えましょう。

今日は、インドではホーリーというお祭りの日ですが、ここバングラデッシュでは、祭日とならず、通常の日です、インドではにぎやかに色つきの水をかけあうのですが、ここではそんな気配を失っています。一部の人々がこの祭礼をしたようです。特有の赤い粉にまみれた衣装を洗っている人々を河畔で見かけました。対岸に中州が見えますが、それを超えるとインドというのがこの地域です。いやはや、この川もだだっぴろいものです。エンジンつきの船が行き来しています。これだと、対岸から密輸品が流れるのも容易です。この川の眺めはラオスとタイを挟むメコン川の比ではありません。なにしろ対岸がかすんで見えないのですから。それがパドマ川です。これも大きな川で対岸に中州があり、それを越えるとインドに達します。小船が行き交う川は乾季で水量も少なく、青みを帯びてゆっくりと流れています。国境警備隊が銃を構えて見張りをしています。

今はクルバニが終わった直後ですから、密輸業者にとっては絶好の稼ぎ時です。バングラデッシュでは祭礼として大量に家畜をいけにえにしますから、その皮の処理に四苦八苦です。これらの皮はなめされて、ハンドバッグやベルトに加工されるのです。バングラデッシュも皮革製品を製造していますが、なめし方など技術的にはインドがはるかに上位を保っています。今回のように瞬時に大量の原皮が出回ると国内の業者だけでは捌ききれません。祭礼で資金を使い果たしてしまい、手持ちの資金がありませんから、インド商人の手に委ねるしかないのです。原料の多くが他国に流出し、うるおうのは、インドのみという奇妙な現象が発生します。政府がどれだけ取り締まりをしても効果があがらないのは当然です。

変形した国境

さて、再びこの国の地図に目を通して見ましょう。以外な事に気がつきます。すなわちチッタゴンから東の地域はフェニを挟んでくびれたものとなっています。チッタゴン側は少しばかり東南アジアがかったバングラデッシュといえるでしょう。この地域でお金の受け渡しをする場合はミャンマー方式が採用されています。さらに、チッタゴン丘陵地域の東側はもうアラカン族、すなわちモグの人々で占められています。この地域は微妙な場所と言えましょう。すなわち東南アジアとインド亜大陸の緩衝地帯です。またまた新しい発見をしたのです。また北部のメガラヤ州と接する場所は、半分インド(メガラヤ)で半分がベンガルという文化地図を描いています。バングラデッシュだから、地図で示されるバングラデッシュ領土全域にベンガル人が住んでいる、という単純なものではありません。世界地図を見る場合には、国境線が変形している地域は同じようなことが言えます。インドの国境線も東北部は奇妙な形をしています。そこでは、必ず少数民族の問題を抱えています。日本は海という天然の国境線を持ち、この類の問題を回避することが出来、国家予算を自国の発展に集中できた点にありましょう。

クルナ

今日は、また移動です。最終目的地へ向かっての行動ですが、まあ何とか無事にこの町に到着することが出来ました。とうとう、やって来ましたクルナです。以外とここも大きな街です。宿代金を弾んで150タカのところに宿泊することとしました。以外と人々は友好的ですが、油断は禁物です。貴重品はしっかりと身につけることとしましょう。しかし、ラジシャヒの宿は確かに安かったと重います。ここは高いのです。他に宿を探せば安いところもあるのでしょうが…。

クルナも大都会でした。人口は多分50万人程度いるのではないでしょうか?すさまじいエネルギーを感じる港町のひとつです。バイラブ川の河口がそのまま港となっています。旧市街の市場付近がそのままバザールとなっています。細い路地には、所狭しと商店が並びます。商店(問屋)の裏側がすぐ川ですから、物資流通の好条件の地理にあります。大体においてテクノフも似たような構造になっていました。

バンガバンドの橋はおよそ5キロありますから、対岸を見ることが出来ません。きわめて大きな川です。この川は確かブラフマプトラと呼ばれています。というと、先月私が訪問したアッサム州のゴウハテを流れている川です。やけに広大で、まるで、それは海の如くです。これだけ大きな川ともなると、物資の交流や人々の交流が妨げられるのは当然です。しかし、ある意味では、川を越えるのは以外と容易だったのかも知れません。今回の旅を通してさまざまな河川を見てきました。川に伴って物資の交流そして、文化の交流へとつながっていきます。時に川の構造によっては、河川が障害となるケースを見出します。

バスは予定通りに到着です。クシテアで乗り換えての旅でした。朝9時にラジシャヒを出発して、ここクルナへは、夕方の4時半に到着です。料金は55タカと50タカでした。しかし、ここのバスは猛スピードで動きますから、心配でなりません。急カーブや、急ブレーキは当然のことですから神経が磨り減ってしまいます。

さて、地元の新聞を眺めると社会の問題が浮き彫りになってきます。子供達に無償で配布されるはずの教科書がなぜかしら、本屋さんで高額で取引されているそうです。また、使い終わった本(古本)を再利用しようとしても、大事な部分が抜けていたりして、子供達の本に対するマナーが徹底していません。一体誰に責任があるのでしょうか?

さて、その他に感じたことですが、リバーシティを順番に眺めて見ると、結構面白い分析が出来るのです。バンコク、ヤンゴン、テクノフ、チッタゴン、ダッカ、カルカッタと地理的に東から並んでいます。これらはいずれも、交易の場として繁栄してきました。しかし、そこに住む人々、民族によって外見は大きく異なってくるのです。それらの中で一番無法的な場所がチッタゴンに見えて来ます。さて、カルカッタの光栄は今も続いていると思います。沈み行くカルカッタと今でも批判されていますが、バングラデッシュの状況と比較すると、一応法の秩序を見出すことが出来るのがインドです。一部の州(ビハールやUP)を除くとセンスのある場所を多く見出すことが出来ます。宗教のもたらす影響も大きく関連しているものと思います。

バガールハット

今日は、歴史的遺産の観光の出かけました。いやはや、このルートも大変なものです。一直線に到達できるものではありませんでした。力車でルプサまで行って、渡し舟に乗って向こう側に行きます。それから、バスに乗るのですが、このバスも直行と称するバスとローカルと称する2種類のバスがありますから、戸惑います。しかし、地元のおっちゃんが親切に教えてくれるのです。人相は一寸悪そうでしたが、バスを止めてくれました。所が、向こう側に渡るにも力車の洪水で容易にわたることが出来ません。そうしているうちに、彼は、隙を見て私の手を引いて、向こう側まで誘導してくれたのです。いやはや、感心、感激です。大体、回教徒の習慣として、客をもてなすこと、弱者の救済が原点あるのではないかと思います。となると、当方は弱き者と判断されたものでしょう。

夕方タバコを買ったら、始めて定価で買うことが出来ました。いつも20タカ払ってお釣りはこないのが相場ですが、この店では18タカでした。おまけにお茶もおごってくれたのです。時々こんなことが起きるのです。

国境超え

ところで、本日はバスを乗り継いでの旅でした。まずは、クルナからジェッソールへは一時間半の所要時間です。それからベナポール行きのバスに乗り換えて12時にベナポールに到着です。今日は土曜日で貨物の動きはなく、トラックがひまそうに路上で荷台を空にして並んでいました。2キロほど先にチェックポストがあるのですが、半分バングラデッシュ人になっていますから、力車の世話になりました。9時に宿を出発して、国境のチェックポストに到着したのは12時半でした。手続きは外国人優先策となっているようで、係官の対応は大変丁寧で紳士的です。バングラデッシュ側の出入国事務所の係官に「バングラデッシュはいかがでしたか?」と聞かれると「良かったですよ」と答えるしかありません。実はその後インド側の事務所で、「やはりインドがいいね」と裏腹なことを発言してスタンプをもらうのが常道です。バングラデッシュの税関とは5分ばかり英会話のレッスンがはじまり、握手をして別れました。荷物検査などは一切ありません。これでバングラデッシュ出国完了で、インド側に入ります。こちらでは、税関検査を済ませてから入国審査となります。インド側ではハイテクを導入してコンピューターが並んでいます。私が気にしていたハイテク機器の持ち込みは、まったく感知されずにあっけなく終了しました。国境の通過には40分程度要したのです。どちらも国境事務所には昨日の通過客が発表されていました。それによると2000年3月24日のバングラデッシュへの入国者数は、バングラデッシュ人が1090名、インド人が91名です。他方、バングラデッシュからの出国者数は、バングラデッシュ人が1060名、インド人が83名、外国人が5名となっていました。圧倒的にバングラデッシュの移動の激しい場所です。明日の掲示板では、外国人の数字の中に私が含まれるのです。

入国のスタンプを受けて最終チェックが終了します。さて、入国管理事務所を出ると両替屋がびっしりと並んでいるのです。相場はバングラデッシュ100タカがで81インドルピーとなっていました。両替商店街を過ぎると乗り合い三輪車が待っていて、一人15ルピーでボンガオン駅まで運んでくれます。人力車を利用すると30ルピーということでした。4人定員ですぐに乗客が集まり、即出発です。

この地域はパキスタン系のテロリストが、バングラデッシュを経由して侵入するケースが多いそうで、シアルダーの駅は常時警戒が厳しいそうです。

バングラデッシュからインドに入るとほっとします。それは、旅行者がインドからネパールに入るとほっとするのに似ています。でも所詮同じようにも見えます。人々の顔は穏やかさをまして来ました。絶対的な違いといえば、ここでは、公共の場所で女性の姿が圧倒的に増加するのです。バングラデッシュはどうも女性隔離方式になっているとも言えます。そう言った意味で、女性の社会参加は穏やかな社会を構成するひとつの要素かも知れません。回教国家はどうも灰汁が強いといえます。同じ回教国でも東南アジアでは以外とまろやかな空気を感じます。東南アジアの回教徒は純粋な回教から遠い距離にあります。所がバングラデッシュではどうしてこんなに気性が激しくなるのでしょうか?貧困という状況を加味すればそのなぞは解けるのではないでしょうか。それでは、貧困がそこに住む人々の性格を激しいものにするのでしょうか?インド、バングラデッシュ、それからネパールやミャンマーなどはどれも同じような所得水準にありますが、それぞれの文化が異なります。人々の心を操る宗教が最大の理由となるように思います。結論として、仏教徒グループが、一番穏やかなのではないでしょうか?

駅前の茶店で軽いスナックを口にして一休みです。国境を越えて違う国へ来たことを強く感じてなりません。列車は2時ごろ出発しました。ここからシアルダーまで2時間の距離です。

今日の夜はカルカッタのサダル・ストリートにあるセンターポイントに宿泊することとなりました。幸いに下のベッドが空いていましたから、快適です。久しぶりにヤキソバを食べました。コーヒーも飲みました。ああ感激です。この宿でバングラデッシュ人からの留学生に会いました。彼は海軍の息子です。バングラデッシュの話をしましたが、いろいろとえるものがあり、有意義な討議をすることが出来たのです。これも今回のバングラデッシュ旅行の延長かも知れません。しかしバングラデッシュの旅の印象は強烈なものが在りました。今までよりも緊張したように思います。大体、インドの東北地域の旅自体が警察や軍隊の数が多く緊張の連続でした。それに加えてバングラデッシュも似たような状況です。彼の実家のあるチッタゴンは犯罪都市と化しています。バングラデッシュにはどこも安全な場所がありません。

しかし、AMUで勉強している学生は祖国バングラデッシュを自慢していました。政治の話も出てきました。私が旅で経験した悪い印象を徐々に取り除いてくれました。一般大衆は素朴で純情で本当に良い人々という結論に達しました。しかし、社会の暗い部分を否定することは出来ません。この宿で彼と出会ったことは幸いでした。今までぶっきらぼうな英語しか話さなかったバングラデッシュ人の中で、久しぶりにまともな英語を聞くことが出来ました。これが始めてです。今までの人々は本当に片言しか英語を話しませんでした。ここで大きく目を開くことが出来たのです。

最後に

カルカッタに到着して翌日からは、バーラサットのアラカン寺院で宿泊することにしました。ここを離れてからちょうど一ヶ月目にあたる約束の日です。久しぶりに皆さんと合うことが出来ました。ここは、カルカッタ郊外に位置し、田圃のど真ん中にありますから、騒音ゼロで環境が良いのです。広大な敷地に池を配置してあり、私にとっては、静かで落ち着ける秘密の場所とも言えるでしょう。

ここの僧侶ワッタナースワァミ氏と話しこんでしまいました。親族がオーストラリアにいて、台湾に友人がいます。ダッカの寺院で9年間滞在して勉強と続け、今はカルカッタ大学で勉強しているインテリ坊主の一人です。彼の実家はバングラデッシュのマヘシュカリにあります。時々里に帰るそうですが、私がそこを訪問したので、話は急速に進みました。結局2人でバングラデッシュをけなしてしまったのです。それで何とか気分がすっきりしました。私のバングラデッシュ観と彼の意見とがほぼ一致しました。彼は歴史と地理を勉強していますから、こう言った文化についての討議は話がいっそう弾んだのです。本当にここでは、今まで胸につかえていたものが吐き出される感じですっきりしたのです。

しかし、バングラデッシュを離れるとそこが懐かしくなってきます。今回のバングラデッシュは誠に貴重な体験だったと思います。多くの人はネパールが最貧国で遅れていると考えているようです。しかし、同様な事情を抱えたバングラデッシュの庶民の生活はネパールより悲惨です。過酷な自然環境、人口過密の招く環境破壊、不安定な政治体制などの現状をつぶさに観察することが出来ました。南アジアという共通した文化基盤を有したこの地域の発展を考えるには、バングラデッシュの存在を忘れてはなりません。発展途上国が今後どのような方向に進むのかを考察するうえで、多くのヒントを与えてくれたと思います。

今後もこの国を時々訪問するようにしたいと思います。今回入ることの出来なかった地域を巡ってみたいと思います。今回は銃弾にあたることもなく、平穏に終了しました。旅の道中で人々は親切にしてくれました。常に緊張していましたが、全てが悪いことの連続ではありません。バングラデッシュの庶民の笑顔に再び触れたいと感じる日々です。

バングラデッシュの旅の留意点

  • 地元の人々同士の抗争や犯罪は多発していますが、外国人旅行者をターゲットとした犯罪はまだ少ないようです。外人とわかると特別な配慮をしてくれるのがこの国の現状です。
  • 現在バングラデッシュ政府は、陸路での外人旅行者の通過を制限しています。カルカッタの大使館では、陸路入国の観光ビザは発給していません。陸路で一ヶ月の観光を楽しむには、陸路あるいは、空路でカルカッタからアガールタラに向かい、バングラデッシュ領事館で査証を取得すると、その場で一ヶ月の観光ビザが発行されます。ビザには出入国地点が明記されます。(カルカッタ~アガールタラは空路で50ドル、陸路で15ドルの費用)
  • バンコクからカルカッタやカトマンズへの途中下車の場合は、空港で2週間の滞在許可が発行されます。最初から一ヶ月を予定している人は事前に査証を取得したほうが便利でしょう。
  • 銀行や政府関係の仕事は日曜日から木曜日です。したがった金、土曜日と休みになっています。マーケットは金曜日のみが休みとなります。
  • ダッカの宿は何といえどもアルラザックがお勧めです。料金は140タカですが、それなりの設備が整っています。しかも、安心してとまれます。空港へ夜遅く着いた場合は、タクシーをシェアしていくのが最適でしょう。大体300タカ程度が相場かも知れません。ベービータクシーはその半額以下で利用できます。
  • チッタゴンへは、列車が便利です。2日前から乗車券が発売されます。カウンターナンバー2で購入できます。8時10分発ですが、時々遅れる場合があります。これは、渋滞もなく、大体、6時間後には、到着します。料金は150タカですから、高くはありません。またバスで移動すると、125タカから150タカです。会社によっては、グリスタンから乗車できるものもあります。その中でもお勧めはALAMいう会社は信頼があり、安心して利用できます。長距離バスの座席は好みの席を指定できますから予定が決まったら、早めに予約すれば良いでしょう。バス番号、座席番号、料金などが現地語で明記されています。
  • チッタゴンの宿は政府系のモーテルの向かいに数軒ありますが、HOTEL DREAMよりも、その隣のサフナが良いと思います。(サフナはベンガリ語の表記のみ)当方はドリームに泊まりましたが、140タカでした。設備は良いのですが、雰囲気が今一つ明るいものではなく、怪しげなけはいが漂っている宿です。
  • チッタゴンからコックスバザールへ行くのも、ALAMが便利です。GPOの前からバスが出発し、座席は予約制となっていますから快適です。
  • コックスバザールの浜辺では、最近犯罪が多発しているようです。強盗、婦女暴行などです。ご注意ください。
  • コックスバザールからモヘシカリは日帰り可能です。仏教寺院やヒンズー寺院がある必見の土地です。
  • セント・マーチン島からの船が9時か9時半ごろ出航し、12時半過ぎにテクノフに到着します。この帰路の便を利用すると、夕方4時ごろには、島に到着することが出来ます。島の宿は簡素ですが、食事もあまり高くありません。
  • チッタゴンからカプタイ方面のバスは郊外のバスターミナルから出ますが、これは、中央郵便局の前から来る緑色の旧式バスに乗ると良いのです。このバスが三タカで頻繁に往復しています。
  • ダッカのグリスタンの市内バス乗り場からガプタリ・バスターミナルへは、5タカでBRTC(バングラデッシュ道路交通公社)のダブルデッカーが運行されています。これが一番分かりやすく安心で快適な方法かと思います。
  • 市内バスや乗合テンポは大声で行き先を叫びあっていますから、割とキャッチしやすいのですが、現地語に慣れている場合に限ります。
  • 力車の値段は宿の人や周りの人に聞くと、親切に適切な料金を教えてくれます。我々はその料金より若干上乗せされる場合が多いようです。
  • コックスバザールの宿はビーチハウスがお勧めです。宿の人が意外と親切です。しかも値段も手ごろで100タカで宿泊可能です。隣に茶店があり、力車マンがいつもたむろしています。斜め向かいには、清潔なレストランがあります。
  • 確かにバングラデッシュの旅は一人ではきついものがあります。出来たら2人以上で行動したいものです。以外と親切な面もあるのですが、今一つ旅に関しては整備が進んでいません。インドのほうが充実しているのは間違いありません。
  • チッタゴンの宿は外人お断りの場所がいくつかあります。ダッカとチッタゴン以外は関係ないようです。安宿にも宿泊することが出来ました。
  • 食事はライスアンドカレーが主体となります。チキンカレー、ご飯、ダール、サラダの組み合わせで30タカ前後です。朝食はパロータ、ダール、テーの組み合わせで12タカ程度です。
  • お祭りの時には、移動しないのが賢明でしょう。

 

バングラデッシュの旅モデルコース

ダッカ、チッタゴン、ランガマテ、コックスバザール、テクノフ、セントマーチン島を2週間程度で回るのが理想でしょう。比較的安心して回ることが出来ます。ダッカからチッタゴンはインターシティの列車を使うことをお勧めします。バスはどちらかというと、事故が多く安全ではありません。これでも忙しい旅となります。

さらに時間のある人は西部にあるラジシャヒやマハスタンガード、クルナ、バガールハットなどがお勧めです。

 

[1] 1960年のミャンマー軍事政権の首謀者で、長期にわたって社会主義、鎖国政策に沿った独裁政治を続けた。

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