アジア旅日記 No.10 アンダマン紀行

アンダマンの位置

アジア旅日記 No.10 アンダマン紀行

アンダマンの位置

何となく、昔から出かけてみたいと思っていたアンダマン諸島です。マドラスから西へ約1200キロメートル、カルカッタからほぼ南1200キロメートルのインド洋上にあるのがこの島々です。飛行機では2時間、船では潮の流れにもよりますが、約60時間要します。ベンガル湾に浮かぶ島ですが、どちらかと言うとマレーシアやタイランドに近いのではないでしょうか?

日時 1999年2月11日~2月27日

 

 

 

 

目次

日程. 2

1アンダマンへの道. 2

2 ニコバル号. 4

3 アンダマン上陸. 7

4 市内散策. 10

ロスアイランド. 10

チリヤタップ. 10

ジョリブオイ島. 11

コルビンズコーブ. 12

セルラージェイル. 13

その他の見所. 14

5 ランガット行き. 15

6 帰り道. 19

7 アンダマン考察. 21

8 韓国の友人達. 24

9 情報化時代の盲点. 26

10 アンダマンへ旅行の留意点. 28

最後に. 28

 

 

日程

2月11日  マドラスを出港
2月12日  終日船内
2月13日  終日船内
2月14日  早朝CARICOBAR到着。夜ポートブライアール到着
2月15日  ワンドール及びコルビンズコーブ観光
2月16日  ジョリブォイ島観光。インド映画鑑賞
2月17日   ロス島、チリヤタップ観光
2月18日   人類学博物館見学
2月19日   バスにてランガット行き
2月20日   ランガットより船でポートブライアールに帰る
2月21日   帰りの切符購入に半日費やす
2月22日   チリヤタップ、ムンダパハールに出かける
2月23日   乗船券購入無事終了
2月24日   出港12:00が18:00となる
2月25日   終日船内
2月26日   終日船内
2月27日    16時半マドラス到着
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1アンダマンへの道

何となく、昔から出かけてみたいと思っていたアンダマン諸島です。マドラスから西へ約1200キロメートル、カルカッタからほぼ南1200キロメートルのインド洋上にあるのがこの島々です。飛行機では2時間、船では潮の流れにもよりますが、約60時間要します。ベンガル湾に浮かぶ島ですが、どちらかと言うとマレーシアやタイランドに近いのではないでしょうか?アンダマンと言う名称は何となく心地よい響きをもっています。インドの伝説によるとハヌマン(猿の姿をした神様)と呼ばれています。またカラパニ(黒い水)という呼称は、英国統治時代のもので、今でもインドの人々にとって「ああ、アンダマンだね。」というぐらいに人々の記憶に残っています。

さて思い立ったら実行です。まずはマドラスにあるインド政府観光局にて最新情報の入手です。ここでは旧式のパソコンをカチャカチャいじくり回してもらい、A4サイズで4ページにわたるアンダマン情報が提供されました。ふーむ成る程、概略が判明しました。しかし、ここでは船のスケジュールがどうなっているか、わかりません。観光に関しては最新の情報を保持しているのに、現地へ行く船舶の予定については、SCI(インド船舶公社)に直接問い合わせて欲しいという事です。SCIと情報が有機的に結びついていないのが残念です。
その足で、マドラスのビーチロードにあるSCIの事務所を訪れました。現在の所、約10日に一度程度の割合で船の便があるようです。受け付けの人々は友好的で「明後日船があるけれども乗りますか?」と質問されてびっくり。ちょっと早すぎます。まだまだ心構えが出来ていません。しかも許可書も入手していません。ともかくこの事務所から、許可申請に必要な書類をもらって10日後の乗船を予定としました。入国管理事務所からのアンダマン入域許可がないと乗船券の発行は出来ないとの事です。

マドラスの入国管理事務所は、繁華街のマウントロードの一部である、サウザンドライトの交差点から歩いて20分ほどの距離です。受け付けは午前中11時半迄です。それを知らずに出かけ、結局この事務所へは3度も足を運ぶ事となりました。申請の翌日午後に発給される仕組みです。この界隈はどちらかと言うと高級住宅街で、多くのネパール人達が守衛として雇用されています。我々と顔立ちが似ているので何となく親近感が沸いてきます。彼らの一人が私にネパール語で「どこへ行くのですか?」と語りかけてきます。彼らの忠実さがここでも高く評価されているようです。何度もこの場所を往来することとなり、もう顔なじみとなりました。勿論彼らにとってアンダマンは何処なのか想像もつかない場所なのです。彼らはここがお気に入りのようです。一年中暑い土地柄ですが、私にとってもお気に入りの土地です。南インドは、しっかりと秩序があり、北インドの無秩序でアウトロー的な社会に比べるとはるかに住み良い土地です。彼らは時々、数ヶ月まとめて休暇をとり、はるか遠くのネパールへ里帰りをするそうです。

所で入管の建物は現地語でシャストリバワンと呼ばれています。インド中央政府の施設内は独特な雰囲気があります。まず受け付け担当の紳士がものすごくユニークです。ギョロ目の彼は常に3カ国語(ヒンデー、タミル、英語)を混ぜこぜにして常に忙しそうに話を進めています。彼と対照的なのが、もう一人のマダムです。美人の彼女は常に冷静沈着な態度を崩すことがありません。まるで小鳥のさえずるような声でインタビューを受ける人の名前を呼び上げています。この入国管理事務所はインド中央政府の仕事ですから、上層の偉い人々はヒンデー語圏の出身です。ギョロ眼氏は、上部の人と連絡をするにはヒンデー語を使います。アンダマン島への許可書を取得しようとする外国人には英語が登場します。更に同じ外国人でも複雑な問題を抱え込むタミル系スリランカ人に対しては、本人の母国語であるタミル語で対応する、という特殊な才能の持ち主なのです。

さて許可書の発給は翌日の午後3時という約束で申請は受理されました。格別問題はなさそうです。翌日約束通り3時に出かけましたが、まだ上司のサインが入っていないので、もうしばらく待つように指示がありました。結局それを入手したのが午後4時半です。「あぁー、これでSCIは閉店かなぁー」と、半分あきらめ気分でビーチロードの事務所にむかいました。所が5時を過ぎたと言うのに、私より少し先に、許可書を貰ったフランス人のグループが切符を買うのに押し寄せていました。事務所内の乗船券販売窓口は臨時オープンです。私もこのどさくさに紛れ込むこととなりました。道路の向かい側のコピー屋さんで許可書を3枚複写し、乗船申込書を添えて…。何と5分間で全ての用件が終了です。無事、明後日乗船の切符が確保出来たのです。入管へ何度も足を運んで、かなりの時間待たされた不満など全て吹っ飛んでしまいました。万歳の限りです。後日同乗した外人によると彼らは切符売場で3時間も並んだそうです。私達は運が良かったのでしょうか?インドの不思議さが改めて浮き彫りとなりました。

2 ニコバル号

先日、乗船券を購入した際に、「2月14日の午後2時にこの事務所へくるように」と申し渡しがありました。マドラス郊外のマハバリプラムを10時過ぎに出発し、途中で銀行に立ち寄り両替を済ませたり昼食をとったりして、定刻にSCIの事務所に到着です。事務所前にはANDAMAN SERVICEと表示板を掲げたバスが待っていました。タミル語で質問すると、車内の乗客は私をマドラス在住のネパール人と思ったらしく、ヒンデー語で質問ぜめにあう一幕もありました。何しろ初めての経験ですから、慎重にならざるを得ません。誰彼を問わずに、このバスに乗り込んで間違いなくANDAMANに行くのか確かめなくてはなりません。大量の荷物を抱え込んで次々と乗客が乗り込んできます。料金は一人10ルピー(30円)と割高ですが、誰もがこの料金を払っています。この中には別途荷物料金も含まれているとの事で納得です。船の停泊している場所へは徒歩で15分ほどの距離ですが、このバスはグーと遠回りをし、港湾局入り口の検問所で乗客一人一人の乗船券を確認してから管内に入ります。しかしこれは極めてインド的です。始めは真面目にチェックしていましたが、私の座っている後部座席組は調べもせずに係官は通過していきました。わずか10分の乗車時間です。白い船体の後部にくっきりと、「NICOBAR BOMBAY」と記入された文字が眼に入りました。

ここでも約30分待たされた上で乗船です。うーん、なかなか立派な船です。これだと大体5000トンクラスの船でしょう。日本で言うとさながら大型の外洋船に匹敵します。早速船内の探検が始まりました。この船は1988年ポーランドで建造されたもので、設備も比較的新しく快適そのものです。全館冷房完備でバンククラス(大部屋)が960ルピー、すなわち大体3,000円程度です。この料金で3泊4日の外洋の旅が楽しめるのは嬉しい限りです。10,000円払うと個室が取れるのですが、今回は財力不足で大部屋で我慢をしましょう。厳密には下のクラスの乗客は上部デッキへの立ち入りを禁止されているのですが、この船に限ってはかなりあいまいで、皆自由に船内のあちこちを、私と同様に徘徊しています。

船内放送は何処にいても、はっきりと聞き取れます。「外人旅行者は、パスポートを船内の案内書へ預けるように」と何度も放送がありました。今回は64名の外人が乗り込んでいます。時々、BGMも流れます。何と快適な船内でしょう。キャビンクラスのカフェテリアには、ゆったりとしたソファーが配してあり、眺めもよく、ここですするコーヒーの味は格別です。これがインドの船かと信じがたいのです。日本の外航船や最新の長距離フェリーに比べると見劣りしますが、インド版豪華客船と言っても過言ではありません。一度に1,500名の乗客を運ぶ能力があります。当然それにあわせた設備がなされ、トイレやシャワーの数も多く設置してあります。売店は小さいながらも煙草や菓子、歯ブラシ、乾電池等を並べています。価格は陸上の1、5倍から2倍です。やはり、独占企業は強いものです。乗客の弱みを握る船上価格は世界共通かも知れません。まさしく天国に近い限りです。乗客を楽しませるために午後1時半と夜の8時にはビデオ上映が始まります。このビデオはどうもパキスタン向けのインド映画なのでしょうか?やたらとカラチ市内の宝石屋とか、呉服商の宣伝がウルドウー語で暇なしに入り込む特殊な仕様です。全館冷房で、密閉されていますからエンジンの音は全く気になりません。売店では、これから先3日間の通しの食券を販売し始めました。料金は192ルピーすなわち、600円弱で朝食、昼食、3時のおやつ、そして夕食と合計12回分の価格です。その都度購入も出来るのですが、食券購入のために毎回並ばなくてはなりません。

船は出港予定の午後4時を過ぎてもまだ停泊したままで動こうとしません。ほぼ2時間遅れて引船が登場し、ゆるりと岸壁を離れ、進行方向を調整し始めました。6時過ぎにはエンジンを回転させ、しずかに湾内から離れていきます。マドラス港は巨大な人造港です。周囲はずーと砂浜が続くのに、この一角のみが、防波堤や防砂提が沖へ、沖へと延長されています。海底が浅いのでしょうか、プロペラが回転すると、海底の土砂が巻き上がり海面が濁ってきます。港のイメージといえば周囲に山や丘があり、地形を利用した自然の良港というのが常ですが、マドラス港は大違いです。さぞかしお金をつぎ込んだものでしょう。同じインドでもボンベイはまだリアス式の地形の一部を利用したものでしょう。一般的にアジア巨大都市の港を比べてみると、大河の河口を利用したものが多いと思いませんが?バンコク、ヤンゴン、ダッカ、カルカッタ等は河口から数十キロも内陸に入った場所が港湾施設として確保され、数千トン級の外航船が横づけとなり、荷を積み下ろししているのを良く見かけます。これは、日本では見かけない光景です。

船は一旦出航すれば、よほど海が荒れない限り平和そのものです。船内の乗客は全てが俗世間から離れ、当分の間何処へも逃れる事は出来ません。すべての事柄から解放されているからでしょう。目的地に到着しないと次ぎの行動が取れないのも事実です。この先60から70時間は乗客全員が運命共同体で、もがいても、あがいても、どうにもならない社会です。そういった事が主なる理由なのでしょうか、乗客は皆なニコニコ顔で平和そのものです。インドの日常生活によくある各種のトラブルが派生することもなく、全くリラックスした様子で船旅を楽しんでいます。初めての人々にとっては、見知らぬ土地への船出はなお一層好奇心を掻きたててくれます。

巡航速度は10ノット程度です。即ち時速18~20キロという所でしょう。ここへ潮流が加減されます。予定通りアンダマンへ60時間後に到着するものでしょうか?徐々にマドラス市内が遠くなっていきます。エンジン全開のようで、船は方向を定めて波しぶきを立てながら目的地へ進み始めました。船が巻き起こす波しぶきは個々の人生を象徴するかのように、生まれては消えを繰り返しています。ある波のしぶきはあっという間に消えてしまいます。ある波はその3倍も4倍も続きます。それぞれの波の形はどれ一つとして同じものはありません。大海原は無限の広がりを見せて消えゆく波しぶきを後ろにして行きます。人間の茂垣がいかに小さいものかを、この船は私達に教えてくれているようです。

船には、様々な人々が乗り込んでいます。インド各地からの寄せ集め集団です。バンガロールに住む軍関係の将校。これからアンダマンで軍隊の勤務につくネパール人。アンドラプラデッシュからグループ旅行(20名)できたキリスト教徒。アンダマンへ嫁いだ娘婿が急死したので、今後の処置をどうするか相談にいくマドラスからの老人。船内へ大量の食料を持ち込んだイスラエル人。韓国の旅行者が4名。皆、それぞれの夢や目的を抱えての船出は、旅情を一層熱くしてくれました。

食事時間は一定していますが、その都度放送があります。時刻となると皆がどっと押し寄せますからタイミングを悪くすると、しばらく待たなくてはなりません。乗客の4/1程は時分達の食器を持参し時分達の部屋へ持ち帰る人々もいます。大概これはインドの家族連れに多く見られる傾向です。夕食、昼食には、ライス&カレーですが、魚、卵、そしてマトンカレー等と、その時その時品替えをしてくれます。午後のおやつの時間は薄いミルクテーと2枚のビスケットと決まっています。インドの旅に慣れた人々には、この給食風景にはビクともしないでしょうが、始めてインドを体験する人には、大変なるカルチャーショックかも知れません。まるでそれは、学校給食、いや囚人の給食にも似た光景です。一挙に数百人が押し寄せます。男ばかりのむさ苦しい雰囲気で、時々怒鳴り散らされながら、行列が進んでいくのです。インド製のステンレスの区分け皿にどばっと盛られたご飯の上に、巨大なポリバケツからすくわれた豆のスープがジャバっと注がれて、魚のから揚げが一切れポンと乗っかります。気持ち程度に野菜のかけらが皿の片隅に置かれます。美味しいという物ではなく、まあ何とか食べれるというのが実状です。食器の数が不足していますから、先着組が食べおわってから第二陣の食事が開始となります。でもこの船内の食器は熱湯消毒をしていますからご安心ください。こうした船内の食事にも慣れてきました。それにもまして、未知の島へ旅をするという意気込みが食事を楽しくしてくれるのかも知れません。旅のヒントとして、インド製のピクルスを一瓶持参するともっと食欲がわくでしょう。

さて、外を見ると明けても暮れても単調なる海原が続くのみです。視界360度は全て海ですから水平線が丸みを帯びて見えます。船内の案内所にようやくカールニコバルへ翌日午前6時到着予定、と黒板に大きく記入されました。この船はマドラスから西南西に進路をとり、一度ニコバル諸島に寄港し、更に北上して最終目的地のアンダマン諸島の首都ポートブライアールに到着するのです。ここニコバル島は遠浅で外航船が接岸出来る桟橋はありません。沖合に停泊したままで、はしけを待つ事となります。遠くに真っ平な島が見えています。小船が50名程の乗客を運んで来ました。彼らが乗船した後同様な数の乗客が下船しました。この島は今の所外国人立ち入り禁止区域です。インド人もこの島々へいくのには、特別の許可書が必要となります。約一時間で乗客の積み替えを終え、船はゆっくりと弧を描いて進路変更をし、次の目的地ポートブライアールへむかいます。これから先の旅は島影を眺めながらの旅となります。船内の掲示板には、ポートブライアール到着が夜8時なる事を知らせてくれました。さてもう一息です。

3 アンダマン上陸

あとしばらくすると到着です。遥か遠くに街の明かりがこうこうと見えてきました。周囲は真っ暗ですから、船は速度を落とし徐行しながら湾内の岸壁をめがけているようです。大地に足を捉える事が出来るという期待で胸がワクワクしてきます。ただ夜の8時過ぎという時刻が気になります。見知らぬ土地での夜の到着は出来る限り避けたいものですが、今回はどうしようもありません。船内で地元の人に聞くと船着き場から市内は、近いから心配いらないとの答えでした。船内で預けたパスポートを返却してもらいました。この時「明日午前10時に地元の警察に出頭してスタンプを受けるように」、と指示がありました。さて、下船して港湾局の出口を出ると沢山のタクシーが待ち受けています。客引きが盛んに声をかけてきます。この時刻、この場所では市内バスがどこからどのようにして運行しているのか全くわかりません。どうもタクシーの世話になるしかありません。一人で利用すると割高です。ともかく相棒を探し出すのが得策です。しばらく待っていると、韓国勢の4人が大きな荷物を背負ってこちらへ向かって来るのが眼に入りました。彼らと合流して市内へ向かう事となりました。私が現地語で巧みにタクシー料金の交渉をしているのを見て、彼らは驚きながらも安心したようです。タクシーは我々5名と大きな荷物で70ルピー(200円)でまとまりました。運転手にラームニバスという宿の名前を告げると、「はい了解」とかで10分程突っ走って目的地へ到着です。どうもこの宿は有名なようです。夜のドライブは快適そのものです。

さて、宿に到着ですが、今は2人用の部屋が一つしかないとの事です。隣の宿も満室です。どうもここポートブライアールは慢性的な宿不足に陥っているようです。ともかく今日はこの部屋で5人投宿する案が持ち出されました。女性2人はベッド利用。男性3人は床にマットを敷いて夜を明かす事となりました。韓国からの皆さんは私のタミル語やヒンデー語に圧倒されたようです。室内では長老的存在となり丁重にもてなしを受ける羽目となりました。明日になれば部屋も空く事でしょう。まずは一安心です。夕食をとった帰り道、船内で会った外人が必死に宿探しをしていました。夜の9時を過ぎているのに、まだ宿が確保出来ないようです。宿へ帰ってみると、ホテルの前でタクシーが2台到着したばかりで、外人が宿探しをしている所でした。我々は滑り込みセーフで安眠出来るようです。

このラーマニバスは快適なる宿です。安宿の部類で一泊一人200円程度の宿泊料金です。スタッフは我々に対して好意的で親切です。何の抵抗もなく友好的なこの宿の雰囲気に溶け込むことが出来ました。ここでは、まだ外人旅行者が珍しいのかも知れません。目の細い東アジア系の私達は、異星からきた特殊な生物かの様に眺められる事がしばしばです。屋上のテラスには満点の星がきらめいています。星空の下で韓国のチャンさんと世間談議を交わすのが日課となりました。明日からの市内観光が楽しみです。

数日後にカルカッタからの船が入港しました。この宿は商人の利用も多く見られます。なまこ(シーキュウカンバ)やエビを、タイやシンガポールへ輸出しているカルカッタの商人は、ここを常宿として利用しています。早速、彼らは日本や韓国に、有望なマーケットがあると確信しながら売り込みを兼ねて私達に近づいて来ました。私は片言のベンガル語で「出会ってすぐに商売の話をするのはマナーに反しますよ…。」と警告すると相手方はあっけに取られたようです。即友人関係が成立です。またもう一人のカルカッタからの商人は、日常品や雑貨の商売のためにこの島にやってきました。明日は早朝に船着き場へいって送り込んだ荷物を引き取りにいくそうです。またニコバル諸島からの学生にも出会いました。彼らはどちらかというと、モンゴロイド系の血を持っていますから私達とかなり似た顔つきをしています。彼らはヒンデー語を話すインドネシア人といった感じを受けます。宿のチェックアウトは何と朝6時となっているのです。原則としてこの時間帯を過ぎてチェックアウトするとさらに一日分が加算されるのです。実際は6時を3時間ほどオーバーしても許してくれるようです。聞く所によれば、この島での主要な交通機関である船や長距離バスは大体早朝出発となり、朝の6時には、殆どの人々が出払ってしまうそうです。しかし、日中の空いている時間を利用して売春婦がちらほら出入りしているようです。時々流し目でおばちゃんが挨拶を交わして行きます。宿にとっては一石二鳥なのかも知れません。二人の息子を医者と技術者に育て上げたケララ州の老人は、いつも酒の臭いをぷんぷんさせながらミャンマー語で私に話しかけてきました。聞く所によると彼にはミャンマー人の愛人があったようです。そんな正体不明の人々の集まるコスモポリタン的な宿です。

ある夜カルカッタの老人が、すごい剣幕でルームボーイに文句を言っているのが耳に入りました。「水が出ない、ベッドシーツが汚れている。」と苦情を撒き散らしています。すぐに交渉慣れしたオーナーが説得工作をしています。「他の宿はもっと事情が悪いのですぞ。当館は常に最善の努力をしています。ほら、あの大きな屋上にある水のタンク、隣よりも大きいでしょう。朝4時から8時までは絶対水が流れます。しかし客が水を無駄使いするので、すぐになくなるのです。高級ホテルでも時間外では、バケツで水を運んで部屋へ持ってくるのです。」と、しきりに弁明しています。カルカッタ紳士の憤りが少し和らいだ様子です。最後は二人で固く握手を交わして揉め事は解決したようです。オーナーのインド的対応はなかなか立派なものです。こうしてロジックに攻め立てると解決の道へつながるものですね。しかしこの宿のカランの多くは不良品でいつもチョロリ、タラタラと流出してしまうのですから、水槽はあっという間に空っぽとなるんですね。

4 市内散策

ロスアイランド

観光名所の一つロス島は今ゴーストアイランドとなっています。英国がこの島を行政の中心地とした1,800年代中頃には、500名程の英国人が住んでいたそうです。古い煉瓦作りの教会や倉庫、軍隊の宿舎、パン焼き工房などの跡が巨大な樹木に覆われながらも、当時お面影をとどめています。今は無人島で、鹿や野鳥の天国となりハイキングには絶好の場所です。青い海と透き通るような水の色、ひょろ長くそびえる椰子の木々が気持ちを和ませてくれます。船を降りて右側には博物館があり、スケッチや本国へ宛てた手紙、この島の歴史などが解説展示され当時の面影を忍ばせてくれます。日中の滞在のみが許されている島です。森林局の下で厳重に管理されています。ゆっくりと散策しても2時間程度で全島をカバーする小さな島です。歴史探訪必見の地といえましょう。
この島への船は所要時間が20分程度です。水曜日を除いて一日6便の船があります。朝8時半から夕方4時半まで運航され、料金は往復13ルピーとなっています。島内で入島料が5ルピー徴収されます。車やバイクが走行するわけもなく、全く閑静そのものです。本島のフェニックス桟橋から船が到着する毎に、人のけはいがするのみです。弁当持参で、終日のんびりするにふさわしい場所でもあります。

チリヤタップ

別名バードアイランドとも呼ばれるこの地区は、南アンダマン島の最南端に位置した風光明媚な海岸です。ポートブライアールのアバデーンバザールから政府のバスと民間のバスが、それぞれ一時間毎に運行されていますから容易に、ここを訪問することが出来ます。帰路の最終便は、チリヤタップが夜の7時ですから一日かけてのハイキングにはもってこいの場所なのです。距離にして約30キロ離れています。バスは細い田舎道を突っ走っていきます。このあたりの田園風景はどうもマレーシアのペナン島に似ています。背の高いビンロー樹の林ガ延々と続き、所々水田も見受けます。バスの終点から先は大型車乗り入れ禁止で、歩道を2キロほど歩くと可愛い小さな砂浜が目に入ります。その間はちょっとしたジャングルウオークです。様々な鳥のさえずりが、あちこちから響いてきます。マングローブの根元が引き潮にさらされて、びっしり群がっているのを見ることが出来ます。バス停から先は売店や茶店などもなく、自然そのものに囲まれています。若い外人旅行者が食料、キャンプ用品持参でテントを張っているのを見かけます。岩場には大きな魚がゆっくりと泳ぎまわっています。

さらに、ここから2キロ半離れたムンダパハールという岬へは、ジャングルの中を半時間ほど歩きます。まさしくそれは森林浴そのものです。樹木の香りが肺の中へスースーと吸い込まれていき快い気分です。ここまで訪れる人は数少ないようです。先人の踏み跡を見出すには、苦労します。一度は全く別の方向に出てしまい、引き返して現場に辿り着きました。ようやく探しあてた岬は断崖絶壁インド版です。途中の看板には「心臓の弱い人は入ってはいけません。」と記されていたのを思い出しました。日本ではさしずめ福井県の東尋坊岬に匹敵するでしょう。林の中の木々には、赤いペンキで所々印があって我々を導いてくれます。日本では岬が随所にあるので珍しくはないのですが、インド人にとってここは圧巻でしょう。岬を境に東側は荒海でごうごうと大洋の荒波が押し寄せます。西側は波すらたたないという強弱のコントラスを見せてくれました。

この岬がさらに南に伸びるとニコバル諸島です。さらに南下するとインドネシアのスマトラ島に続きます。北を考えると、ビルマのアラカン山脈に連なり、それは遠くヒマラヤ山系の一部を形成しているのかなーと、想像すると胸がわくわくしてきます。

私達がピクニックに出かけた日は運悪く民間会社のバスがストライキを始めたようです。帰りのバスがなかなかやってきません。夕方6時半も過ぎました。あぁ、今夜はここで野宿?置き去りとなるのかもと悲壮な気持ちが高まりました。待つ事2時間半、ようやく彼方からバスの警笛が聞こえてきました。政府系のバスが我々を救ってくれるようです。やれやれ安心、お疲れさまでした。

ジョリブオイ島

ここも観光名所の一つです。島全体が国立公園となっています。この島へは日中しかもグループでしか上陸出来ません。ポートブライアールのバススタンドからは頻繁にバスの便があり、約一時間でガンデー海中公園の船着き場に到着します。島への観光船は毎朝10時出航で3時帰着の予定です。時刻になると何となく人々が集まってきます。乗船券が85ルピー、国立公園入場料が10ルピー、そしてカメラ持ち込み料金が25ルピーで合計120ルピーの出費です。この国立公園事務所で守衛の仕事をしているのはネパール人でした。

10時出発といっても、今日は50名ほどの乗船には時間がかかります。引き潮で折角用意してある桟橋は役立たずで、小さなボートがわずか数メートルの距離を行ったり来たりしながら、乗客を本船に運んでいます。結局30分後に出航となりました。しばらくの間、マングローブの林の中、エメラルドグリーンの入り江を快適な音を響かせながら走行していきます。目的地なるジョリブオイという珊瑚礁の島に到着したのは一時間後でした。しかもここも大型船は接岸出来ないのでグラスボトムボートに乗り換えて上陸となります。その際に歌い文句の一つでもある珊瑚礁の鑑賞をちらりと数分間兼ねる事となります。

ようやく我々の順番が回ってきました。正午後過ぎに白砂のビーチに上陸です。二時には再び集合するように指示がありました。早速皆さん思い思いの方向に散って行きました。サリー姿のままで海に飛び込むインド女性、シュノーケルを楽しむ外人組、木陰で一休みしているインド人の老夫婦、持参した食料に手を出し始める人々など様々です。しかし残りわずか2時間しかありません。

インドの上流階級が新婚旅行の場所として、ここアンダマンを取り入れているようです。この船にも10組ほどのカップルが同席しています。どの夫婦も似たようなスタイルで振る舞っています。あたかもインド映画に登場する恋人同志のようにベッタリしていますから、すぐわかります。殆どが写真をとりまくっています。中にはソニーの8ミリビデオを手にしている人もいます。どうも弄くりすぎたのでしょうか、はたまたバッテリーが切れたのでしょうか、不調です。嫁さんがポーズを取るのですが、うまく撮影された気配はありません。やむなくカメラボックスにしまい込んでしまいました。新婚さん達はチャパチャパと岸辺で服をまとったまま水浴びです。徐々に嫁さん同志のグループが出来、互いに気分が和み始める頃は帰り支度をしなくてはなりません。新婚さんの生態は世界中共通なのかも知れません。ラジャスタンと言うとインド北西部の砂漠地帯です。ここから老夫婦が一生に一度の思い出として、アンダマンへやってきました。乾ききった土地に住む彼らにとって、ここアンダマンへの旅は記念すべきものとなるでしょう。

どうも、ここは、観光パンフレットの歌い文句を信じ過ぎたばかりに、実際来て見ると大きな失望感を味わう事となりました。スリランカやモルジブ等では、どこにでもありそうな景観です。ミュージカル南太平洋の付帯となったマレーシア東海岸のテォマン島がはるかに規模も大きく、島内に滞在することも可能で24時間自然を堪能できます。この島では、2時間しか滞在出来ません。まぁ、その分自然破壊されずにすむのでしょうが…。

インドの旅に限らず、旅行というものに期待を持ち過ぎるとがっかりする事が多いのです。無心の気持ちで自然体のまま漂っている時、ふっとした何かに出会う時こそ最高の発見があるものです。

コルビンズコーブ

ポートブライアールの繁華街アバデーンバザールから、4キロメートル程海岸沿いの道を歩いていくと美しいビーチがある」との事です。早速私達は5人で出かける計画を立てました。歩いているとタクシーが声をかけて来ました。はじめは50ルピーと言う料金は最終的に35ルピーまで下がりました。目のクリクリとした運転手は南インドのマドライ郊外の出身です。今でも両親は本土に住んでいますから、時々里帰りするそうです。この島でタクシー稼業を始めて7年になるとの話です。私がタミル語を話すものですから、珍しいのか、あれこれとハンドル片手で話しかけて来ます。歩けば一時間以上要するのですが、タクシーは、ガタガタでカーブの多い単車線の道を勢いよく突っ走るので10分ほどで到着となります。あっと言う間に現地の人がいう名勝地に着きました。
しかし、その砂浜はあるのですが、一キロ程度の入り江にちょぼちょぼと砂地が広がっている程度です。日曜日の夕方なのでしょう、地元の客でごった返しています。ここでも何となく期待が裏切られました。ともかく砂浜で一休みし、ぶらぶら歩いて帰る事としました。日没までまだ時間があります。食前の運動を兼ねての散策が砂浜自身よりもはるかに楽しい思い出となりました。街までの海岸線は崖ありで、変化に富んでいます。ふと丘に眼を向けると熱帯を感じさせるココナツ林が広がっています。車はほんに時々しか通過しません。まさしく歩行者天国です。街に着く頃は既にこうこうと灯火がきらめいていました。

セルラージェイル

アンダマンと言えば、多くのインド人の心に浮かぶのはここに存在する刑務所のことでしょう。英国がインドを統治していた当時、インド独立の士気に燃えた多くの人々が政治犯として、この土地に送り込まれたのです。本土から遠くはなれ、逃れようのないこの島での生活を余儀なくされた場所です。別名インドのバスチューユ牢獄と異名を持つこの建物には、数多くの秘話が込められているようです。インド独立の自由戦士の要石でもあり、彼らの魂の故郷でもあるのです。今はインドの国家記念の建物として施設がしっかりと整備され、館内は当時の囚人の生活を物語る展示が設置されています。3階建ての7棟この建物は、700人もの収容力があります。ある人は数年間、ある人は数十年間の刑を言い渡されて人生の大半を過ごしたり、過酷な所内の環境に耐えられず病気で亡くなる人々もいた事でしょう。そうした事実がここに刻まれています。一角には、インド独立の英雄とされているチャンドラポーズのコーナーもあり、彼の暗躍した経路が世界地図の上でしっかりと表示されています。こうして歴史に思いを馳せると胸が熱くなってきます。勿論日本の軍隊が1942年から3年間統治した事実もはっきりと示されています。インドの歴史的意義を感じる絶好の場所を提供しています。

夜6時からはヒンズー語で、7時からは英語で音と光りのショーが開演です。10ルピーの切符を購入して7時の部を鑑賞する事としました。おや、隣に座っているのは、同じ船に乗りあわせたバンガロールからの家族連れでした。どうも皆さん到着後は同様な予定を組んでいるようです。このショーはなかなか楽しめます。ロマンチックな野外でインド音楽の流れる中、照明効果を生かして牢獄の一部が浮かびあがります。静かにナレーションが私達の心にしみこんでいきます。周囲は暗闇で、ぽつりぽつりと星が見えています。気候も寒くもなく暑くもなく爽やかです。あっと言う間に50分の上映が終了します。しかし、これはかなりインドをエコヒイキしているように見受けます。当時のフリーダムファイター(自由戦士)があまりにも美化され、英国人は完全に悪人扱いという設定です。勿論日本の軍人も悪者扱いです。ショーが終わって宿への帰り道に思いました。現実には英国や日本の存在なしでは今のインドは成り立たないのに!観客の中には誰一人西洋人はいませんでした。

その他の見所

ポートブライアールには、その他見学する所が沢山あります。古いちっぽけな木造の建物ですが、人類学博物館は、この島の先住民に関しての詳細を展示しています。ここには、モンゴロイド系とニグロ系の住民が今でも昔ながらの生活をしています。しかし、同化は困難を極めているとの話です。でも徐々に近代的な生活への道を歩きはじめつつあるそうです。

ガンデー公園の一角には、日本の戦没者慰霊塔と小さな社があります。当時この島には、約1万人もの日本軍兵士が駐屯したと言われています。

マリーナパークは海岸そのものを取り入れて設計され、人造湾では各種のウオータースポーツが楽しめるようになっています。夕方は9時過ぎまでこうこうと灯かりに照らされ、絶好の夕涼みを兼ねた散策の場を提供してくれます。時々アベックが防波堤の上で恋を語り合っている姿も見受けます。

水族館も新しくオープンしました。インドでは比較的立派な施設といえましょう。いくつも水槽があり、それぞれ珍しい海の生物が我々の眼を楽しませてくれます。

バス停(アバデーンバザール)の近くにはポンジーチャウンと呼ばれる一角があります。ビルマ語では寺院の意味で、ビルマ様式の塔が残っています。そこに置かれた碑文によると、4年前までビルマのお坊さんが、ここに 住んでいたそうです。

観光情報はインド中央政府のものと州政府のものと2個所ありますが、前者のほうが丁寧に説明してくれました。州政府管轄の案内所は、建物は立派なのですが、いつも州観光局の経営する宿泊施設の予約業務等でてんてこ舞いです。何しろこの島への観光産業が4年前から活気を帯びてスタートしたばかりです。資料の請求はジングリガートにあるインド政府観光局アンダマン支店へどうぞ。

また、市内バスの終点(チャタム)へ行き、更にフェリーに乗り換えて、対岸のバンブーハットへ出かけるのも趣向が変わってよいでしょう。何の変哲もない場所ですが、のんびりとした田舎です。平均的なアンダマンの村の構成を知るには最適です。

ハッドという大型船の発着する埠頭の近くには、森林博物館があります。簡素な施設ですが、ここでも環境問題が議論されています。自然破壊は人類滅亡につながる事をそれとなく伝えてくれます。

まだまだ探せば見所がたくさんあるポートブライアールです。今回は何故かここには9泊もしてしまったのです。

5 ランガット行き

さて、ポートブライアールでは主要な場所をほぼくまなく回りました。4日間もこの街を歩きまわるとほぼ何もかも事情が分かってきます。それではと言う事で郊外に足を伸ばす事としました。目指す所は170キロ北方に位置するランガットです。政府バスの事務所で時刻を確かめると早朝5時と6時にランガット行きがあるとの話です。他に11時の便があるけれど、これは途中で乗り換えが必要で、場合によっては乗り継ぎが不可能かも知れないとの説明です。この事務所に勤務するおじさんは大変親日的です。7歳の時にこの島へ移住したそうで、戦時中の事もしっかりと覚えているようです。「日本人がやってきた3年間に島は急に発展したんですよ、日本人は大変勤勉な人々でした。ほらほら、インド人は怠け者だから国が発展しないんですよ!」と私達の肩を持ってくれました。

ともかく我々は5時や6時では早すぎるので、10時半発の民間バスの切符を80ルピーで入手して出発する事としました。このバスは空席が目立ちます。通常アジアのバスは満席にならないと出発しないのが常識です。急行バスと言ってもあちこち停車して乗客を一人でも多く集めて稼ぐのに必至です。そんなインドの常識、アジアの常識を無視しての出発進行です。ここアンダマンは人口過疎地域です。島の南北を縦貫するATR(アンダマン幹線道)は、一時間も走行すると民家や人影は見かけません。結局客を拾うのにも客がいないのが現実です。どうもインド色からかなり遠ざかったようです。

この地域の運転のマナーは信じがたいものがあります。対向車が来ると必要に応じてどちらかが、後退するではないですか?通常インド本土では対向車がすれ違いをする時には、しばらくの間にらみ合いが続きわずかなる隙間を利用し、巧みなハンドル捌きでバックする事もなく、ジワジワとすれ違い作業をするのが当然です。また、追い抜きの際には、負けてはならぬという意気込みで追い越される側もスピードを上げ、レースさながらの展開を見せてくれます。しかし、この島はのんびりとしたもので、後続車が追い抜きの合図をすると、前の車が片隅に寄って停車するではありませんか?いやここは、インド社会ではありません。

我々を乗せたバスは、うっそうとしたジャングル地帯に切り開かれた新道をぶっ飛ばしていきます。そもそも交通量が極めて少ないのも事実です。時々野生動物のきつねや孔雀等が横切っていきます。2度ばかりジャルワと呼ばれる原住民の集団を見かけました。彼らの姿は全く異様で真っ黒な肌をしています。全裸で過ごしている森の民で、いまでも現代文明を拒絶しています。いや、現代文明にどのように対応すれば良いのか分からないのかも知れません。しかし、最近は通過するバスの乗客からの食料を求め、頻繁に路上へ出没するようになったそうです。インド政府は彼らに対して同化対策を講じているのですが、一向に進まないそうです。彼らの中で若い人々や子供を都会へ引き取り教育を与え、再び村へ返しても、その本人がすぐに殺されてしまうという繰り返しだそうです。かたくなに現代文明を拒否しているのでしょうか?それでも最近は事情が好転したそうです。数ヶ月前にこの原住民が木から落ちて大怪我をした時、本人をマドラスまで運び大手術を施して回復してから、元の場所へ返したとの事です。それ以来、原住民の態度には大きな変化が見られるようになったとの話です。これからは徐々に彼らの生活も変化するでしょう。アンダマンの開発に伴い森の人々は、次第にインド社会の枠の中に入らざるを得なくなるでしょう。

一方、ニコバル諸島は古来、民族移動の中継地点として開けた場所です。森に住む原住民とはタイプがことなります。彼らはクリスチャンであったり、回教徒であったりして早くから外界との接触があり、広く世界を知っているようです。

太陽が沈み始めた頃ランガット到着です。約6時間のバスの旅は大満足でした。バスのスタッフは我々のために、宿の前で停車してくれました。この街には、2軒しか宿がないそうです。ここは、はるか東方から来た珍客を暖かく迎えてくれる街です。驚いた事にこの宿でベッドをみたら、その上に薄っぺらな布が一枚敷いてあるのみです。マットレス(蒲団)というものがありません。板の上に直接寝るのと変わりはありません。2人で75ルピーすなわち250円ですから、分相応なのかも知れません。この街はベンガル人が多く、私達の宿泊したクリシュナロッジのオーナーは学校の校長さんです。実は彼は、バングラデッシュのチッタゴンの生まれです。1971年のバングラ独立戦争当時に難民として、ここ到着したそうです。いわゆるイーストベンガルの出身だと自負していました。彼以外にもこのように難民として移住した人が沢山いるのでしょう。地図で見ると、バングラデッシュのチッタゴンとここアンダマンは近いのです。しかし30年前のここランガットは全くの荒野であったに違いありません。今は電気も供給されて、街らしくなったのですが…。

さらにこの街から北へ車で2時間走るとマヤブンダールと言う港町があります。今でもここには300家族を超えるミャンマー系の人々が住んでいるそうです。そう言えばポートブライアールとマヤブンダールを結ぶ民間バス会社の一つにティン・チャウンというミャンマー系の名前をつけた会社があります。インド名ではラニランガット(ランガットの女王)社です。ミャンマー系の大商人の経営する会社で象を2頭、トラックを10台抱え、材木を動かして大金持となったので有名なビルマ系の商人もいるそうです。私達の貰った許可証を良く読むと、ミャンマー人がランガット以北の町へ出入りするには、別途の許可を取得するようにと注意書きがあります。これで何となくミャンマーが近くなった気分がします。アンダマン最北端はココ海峡がミャンマーと対面しています。ミャンマー側のココ島は中国がミャンマーから領土を租借して軍事基地を造成し、常にインド海軍の動きを睨んでいるそうです。今回は時間がなくて最北端への旅は断念せざるを得ませんでした。次回はたっぷりと時間を取って旅を続けたいものです。

翌日は4時半起床です。ここランガットの市街から船着き場までは6キロ離れています。ポートブライアール行きの船は6時出航で、5時発の波止場行きのバスに乗らないと間に合いません。まだ夜も明けない暗闇の中ですが、バス停近辺は賑わっています。この時間帯にポートブライアール行きのバスが3台同時に発車します。マヤブンダール行きの始発も5時です。満席の市内バスが波止場へ着く頃には白々と夜が明け始めました。

私達の乗るハブロック島経由ポートブライアール行きの船はラマナジュン号です。どこかで聞いた名前です。乗組員に聞くと思った通りでした。インドとスリランカを結んでいた難民船は、その航路が廃止となったのを受けてボンベイで化粧直しされて、現役復帰です。ずっと昔私もこの船を利用して数度スリランカとインドを往復した事があります。今は上、下デッキとも改装され、立派なソファーが設置されて見違えるようになりました。定員は約500名程の495トンの客船です。インドとスリランカを結んでいた当時は多くの乗客が、すし詰めとなっていたのを思い出します。大量の荷物を抱え込んだ現地人は、密貿易を兼ねて行き来をしていました。正式には、難民引き揚げ船という名目で運航されていたのです。今は、1982年から激しくなったタミル人独立運動のあおりを受けて、この路線は廃止となりました。さて1971年のバングラデッシュ独立戦争当時の難民数は、どの位に達したものでしょうか?一度に1000人運べるものとすれば、2万人の引揚者を移送するには、20回の運航が必要となります。アンダマンからバングラデッシュへ往復5日要したとすれば、フルに運転して100日、即ち3ヶ月以上も待たされる人もあったのかも知れません。戦争という背景を考慮すると、実際の航海はさぞかし悲惨なものだったに違いありません。

ベンガル湾を航行した難民船の例は、1960年代のビルマからインドへの大量移動があげられます。当時のビルマ政府の指導者であるネウィン氏が、すべての産業を国有化し始めた事が契機となり、何と10万人もの人々がこの海を超えて母国の南インドへ再移住した記録があります。これを現実に数値ではじき出してみましょう。当時の大型船で外洋を長期に航海出来る船の数は、多くはありません。一度に2000人程度が限度でしょう。しかもヤンゴンとマドラスの往復には、最低10日は必要とします。となると、一隻の船で運ぼうとすると500日、二隻の船を利用しても250日は必要です。フル回転しても一年がかりの大変な作業だったに違いありません。そんな歴史の大舞台に来ているとは…。ベンガル湾での大発見の一つとなりました。

海の色は青く澄んでいます。時々いるかが飛び回っています。そんな中をハブロック島目指して船はゆっくりと南下していきます。予定では、この島に何日か滞在する予定でしたが、今回は通過のみとなり残念です。船の乗組員も暇つぶしがてら、私達の所へ来てあれは**島、こちらは00島と親切に説明してくれます。一人36ルピー(約100円)で8時間の船の旅です。もう3回もコーヒーをお代わりしました。このハブロック島から乗り込んで来た珍しい客がいます。東アジア系の顔立ちです。どうも日本人かなぁと言う事で声をかけてみるとやはり日本からの旅行者です。久しぶりに日本語の会話が始まりました。彼は昨日この島へやってきたのですが、許可証には、アンダマン警察署の入域スタンプが押してないので、翌日の便で強制送還の羽目になったとの事です。私達は到着後地元の警察署で手続きをしたのでしっかりとスタンプが押されています。彼は地元の警察署へ出頭する事を知らずに今まで過ごしてきたそうです。結局、映画作製の人生を歩もうとしているこの青年とは、その後マドラスへ帰る船でも一緒になり、モンゴルや東ヨーロッパ等の楽しい旅の話を聞かせてもらいました。

 

6 帰り道

さて、ポートブライアールに再び帰ってきました。わずか一日留守にしただけでしたが、帰ってみれば、ポートブライアールのラーマニバスホテルは、まるで我が家のような感じがします。韓国の女性二人組みは、私達とは別行動でランガットから先のマヤブンダールへ向かいました。船内で日本人青年と知り合いとなり、結局3人で古巣へ帰った次第です。これから帰路の切符を確保しなければなりません。

しかし、これが大混乱の連続です。元来、乗船券は、出航日の3日前から発売されます。SCIの事務所が始まる頃を見計らって乗船申込書を入手しなければなりません。それを記入してから発券センターへと向かうのです。しかし、そこには、人がわんさと詰めかけています。ここにもインド特有の女性専用窓口がありますが、そこも長蛇の列が出来ています。10時近くになってようやく窓口が開き、切符の販売が始まりました。あちこちでわめき声が聞こえます。その都度、整備係の警察官は棍棒を振りかざし、列への割り込みを防いだり、秩序を保つのに精一杯です。一時間に10人も進めば良い方です。中には、一人で何人もびっしりと氏名を書き込んだ申込書を手にしている人もいます。発券の際には、各人の身分証明書と写真が必要なのですが、書類不十分や申込書記載が不完全だったりして、列は微々としか進行しないのです。我々も延々と3時間半待ちました。もう午後1時半には窓口が完全に閉まりました。まだ購入できない人々が沢山います。係官は、「明後日来るように。必ず購入出来るから、心配しないように!」さあて今日は一体何だったのでしょうか?果たして明後日は、切符が入手出来るのでしょうか?一抹の不安が残ります。空しい一日が終わろうとしています。

2日後、再び人々が行列をなしていました。が、一昨日ほどは多くありません。我々は女性専用窓口に並びました。極端ですが、紳士用の窓口に並ぶと圧死しかねません。切符販売所は、まるで動物園のオリの様子と変わりません。長い行列をバッチ方式で10名ずつ区切って、中へ入れてくれるのです。中へ入るともう安心です。切符入手の資格を得たのも同然です。またしても我々の目前で、本日の業務が終了しそうです。しかし、おまわりさんが向こう側から入室するようにと手招きをしてくれたのが、10時過ぎです。お陰さまで、出口から我々外国人グループのみが鉄格子の中へ入る事が出来ました。外ではまだ50名程の男達が順番を待っていたのです。ようやくメドがつきました。所定の料金を払って乗船券を手にした時は、ほっと一安心です。おまけに今回は一時間ちょっと待つだけで買う事が出来ました。あるタミル系の商人が言うには、「ブラック(闇)で切符が出回っている。100ルピーの上積みで並ばなくても大丈夫」と教えてくれました。どうも船会社もグルになっているようです。売り切れのふりをして、プレミアム付きで乗船券を流しているのが実状でしょう。帰路の乗船券の入手はコツが要ります。運が良いと即手に入ります。悪いと何時間も辛抱強く待たなくてはなりません。いよいよ明日はこのアンダマンを離れる事となります。
今日が出航の日です。昨日切符を購入した時に時刻を確かめると12時に船が出るという事で、3時間前には桟橋に到着して待機するよう説明がありました。が当日の地元の新聞には、14時乗船開始、16時出航となっていました。果たしてどちらが正しいのでしょうか?乗り遅れると大変です。また2週間ほど待たされます。再びSCIの事務所で確かめると当日の新聞記事の通り16時出航です。これでは、早く埠頭についても仕方ありません。ポートブライアールで昼食を済ませてから、大型船の接岸するハッドへ向かいました。案の定10名ほどの外人が12時出航を信じて、早くから桟橋へ駆けつけたものの、待ちぼうけを食らっています。午後2時を過ぎると次第に待合室は乗客が集まり始めました。私達の乗船券の番号は950番台です。今日は1000人以上の人がここへ集まる予定です。

2時半過ぎから、何かしらメデカルチェックなるものが始まりました。これも押すな押すなの大行列です。あちこちで割り込みが始まり、遅々として咲きへ進みません。元来、乗客一人一人が、医師の面接を受けて乗船するのがメデカルチェックだと思うのですが、一人で何枚も乗船券を抱えて列に加わっています。どうも、これは単なる形式にしか過ぎないようです。しかし、このスタンプがないと乗船不可です。ここは、乗船者番号の確認にしか過ぎない事が判明しました。次は、これもまた形式上の税関検査です。ここでも切符に仰々しく別のスタンプが押されます。最後に我々外国人は、税関のカウンターの右側にあるイミグレーションの窓口で出域のスタンプを受け、すべての過程が終了します。後は乗船するのみです。しかし、ここまで到達するには、ものすごい時間と体力を消耗します。あぁ帰り道は遠かった。

乗り込んだのは、何とオンボロ船です。建造1971年のノルゥエーの船です。バンククラスは貨客船の貨物部分に二段ベッドを据え付けたに過ぎません。ダクト(通気孔)や天井がむき出しになっています。勿論冷房など効くわけはありません。ダクトから生暖かい風が吹き出してくる程度です。キャビンクラスは、少しばかり設備が整っているようですが、こちらへ着いた時のニコバル号に比べると格段の差があります。料金は120ルピー安く830ルピーです。まさしくインド的な船内の設備です。

トイレは沢山あるのですが、扉があっても内側から鍵がかかりません。シャワー室は数が少なく、いつも人々が列をなして待ち構えています。前回利用したニコバル号よりも一回り船体が小さく、1,000名ほどのバンククラスの乗客は、暑い船内を敬遠して甲板にごろごろしています。食堂には巨大な風扇機が激しくうなりをあげています。まるで倉庫改造簡易集会所と言った印象でしかありません。いやはや参った、参った。

オンボロ船アクバル号は、時々サウジアラビアへ回教徒と巡礼船としても活躍しているそうです。となると、由緒ある船に乗りあわせたものです。そもそもこの船の名称自体が回教のお祈りに登場します。「アッラーアクバル…神は偉大なり」と最初に出てくる文句の一つです。しかしこの船の体験は一度で充分と言えましょう。他にこの航路を運航するナンコーリ号があります。こちらは、今ボンベイで修理中との事。6月頃には、この戦列に加わるそうです。所で、このオンボロ船は昔、エンジンが一基しかなく、当時は、マドラスからポートブライアールまで一週間要した事もあるそうです。今は増設して2基ありますから、かなりスピードアップが可能です。現実に今回の帰路は、ポートブライアールからマドラスへの航海で到着時刻が2時間以上も短縮したのです。海がしけたると、甲板まで水浸しになるそうです。ああー沈みませんように!果たして30年近く生き続けたこの船は、いつまで走り続けるものでしょうか?鉄鋼で出来た船ですから、外観はペンキを塗り替えれば新品同様です。腐る事はありません。エンジンが痛めば取り替える。そうすると、永久に航行出来るのではないでしょうか?そう言えばミャンマーのイラワジ川を航行する平底船は戦前の日本製でした。船の寿命は意外と長いのかも知れません。

出航予定となっても、まだ船は動こうとしません。タラップがついたままです。ようやく2時間の遅れでタラップは取り外されエンジン始動です。あぁ、楽しかったアンダマン、また寄りますから宜しく。またしても日が暮れ、夕闇の始まる中を静々とニコバル島を目指して湾内から遠ざかっていきました。翌朝カールニコバルの沖合いに到着です。次に進路を東北東のマドラスに向けてエンジン全開です。ニコバルを離れ2日後に陸地が見えました。コロンブスかバスコダ・ガマの気持ちが良く分かります。背景に山を持たないマドラス港は、遠くから見ると摩天楼の連続がごとく、ぽっかりと街全体が浮かびあがって見えました。お疲れさまでした。ようやく大地、大陸に到着です。ここで2日間滞在し、列車で2泊3日の旅を続けて北インドのベナレスへ向かう予定です。

 

7 アンダマン考察

アンダマンは私にとって、全く不思議な場所でした。領土的にはインドなのですが、インドではない部分が沢山あります。行政区分としては、インド中央政府の直轄地なのですから、ミニデリーと呼ばれる一面もあります。地理的には、ミャンマーのアラカン山脈の一部です。南方のニコバル諸島はインド領と言うよりも、インドネシアのスマトラ島の北端に近いのです。ベンガル湾の中央部といってもどちらかと言うマレーシアやタイランドのほうが、マドラスやカルカッタにちかいのです。極めて不自然な境界線だと思いませんか?「ここまでが、我が国の領土」と言わんばかりに、インドの大国意識がむき出しとなって領有権を主張しているかのように見えます。

インド国家の一部を主張するためには、莫大な資金の投入が必要です。この島には産業らしいものは殆どありません。強いて言うならば、森林資源が豊富なことが挙げられるでしょう。工業製品や建設資材、そして資本財は本土から運ばなければなりません。ポートブライアールの港には、芝生を刈り込んで作製された大きなインドの地図が眼に飛び込んできます。しかもインド各地からの移民で形成されているこの島では、あらゆる言語が通用しています。概して、南インドのタミル人と東インドのベンガル人が圧倒的に多く、この2つの言語が優先しているようです。しかし、この地域の行政はヒンデー語で行われています。政府関係の建物では英語とヒンデー語で看板は併記されているのです。

元来、何もなかったこの島、数万人の原住民しかいなかった所に、今は40万人が住むようになりました。その多くは本土からの移住者です。何故かこの街には、乞食も少なく、本土のような交通機関の殺人的ラッシュもありません。人々の表情は南国的なところがあり、明るくて平和そのものです。あらゆる宗教が混在し、同じヒンズー教寺院でもタミル系のゴプラム形式があれば、ベンガル系のドルガ神を祭った寺院もあります。中部インドのラーマ寺院の様式も見かけます。ルンギ(腰巻き)の巻き方で、それぞれの出身が分かります。ケララ州の男性は比較的派手な柄を好み、布切れは筒状に縫ってはありません。ベンガルの人々はちょうど、おへその辺りに丸くたんこぶを作ってその中を財布の代用として利用する事があります。タミル系の人々は、筒状にして格子模様を好んで巻き付けています。インド全体が、この狭いポートブライアールの中に凝縮されていると言っても過言ではないようです。それでしっかりと平和に満ち溢れているのです。犯罪発生率は極めて低く、皮肉にも、インド建国当時の理想を、ここで再認識できそうです。まだまだ、人の住める空間が沢山残されています。周囲を見渡すと、厚く緑に覆われた島影が眼に入ります。最近の統計によると、インドの人口密度は平均値で1平方キロ当たり、300人程度です。しかし、ここアンダマンでは、その八分の一程度で40人です。これが平和さをかもし出している理由の一つかも知れません。精神的にギスギスする事もなく、穏やかに日々を過ごす事が出来るのでしょう。都市は、巨大化すればするほど、そこに住む人々の魂を取り上げてしまうのでしょうか?

第二に、この地域は豊かな自然条件に恵まれているようです。年間を通じて暑くもなく、寒くもありません。うっそうとした森林はそれ自身が豊かな資源を提供してくれるのみではなく、年間平均降雨量の3000ミリの保持を兼ねて治水の役割を充分に果たしてくれます。インド西北部やデカン高原内陸部のような乾きの苦しみに襲われる事もありません。変化に富んだ海岸線は、自然の良港を造るのに適し、海の幸をたっぷりと与えてくれます。自給自足の生活には事欠かないようです。

そして、第三の理由として、インド政府が莫大な公共投資を重ねるが故に、地元の経済が活気を帯びているのも見逃せません。あちこちに政府の庁舎や公共施設が出来上がっています。40万人の人口に対して、贅沢すぎると思われる立派なサーカー場や公園があちこちに建造されて、市民にゆとりを与えてくれます。海の国境を控えていますから、軍用施設も多くあります。港湾施設も充分すぎるほどあちこちに埠頭が整備されています。インド本土の富が、この土地にばらまかれているのが良く分かります。本土より物価は2割程度高く感じますが、庶民の所得はその購買力を補うに充分なものがあるようです。本土への船の料金は、島民優遇策とかで、我々が960ルピー払う所を、地元の人々は380ルピー以下と多額の補助金が出ています。島内あちこちに衛生放送受信用の大きなパラボラアンテナがごろごろしています。インド政府のスローガン伝達の強力な武器となっているのでしょう。公共投資が循環し、消費をあおり、その波及効果で経済が活性化する社会の構造はこれだと言う事が、目の前で理解できるのです。どれだけ公共投資をしても、全く効果が出ない日本の経済構造とはかなり違うようです。

経済的繁栄と精神的繁栄は密接な関係があると思います。前者のみで社会が豊かになるとは限りません。ローマ帝国の滅亡は後者の欠落が原因ではなかったでしょうか?現代の日本は、経済的繁栄は達したものの、後者が全く進展する事なく現在にいたり、各種の社会問題を引き起こしているようです。

インドのボンベイやデリーは、他の都市に比べると、経済的に大きく繁栄していると言えます。しかしそれは、果たして豊かな社会なのでしょうか?インドの都市構造は、富裕層と貧困層の二極構造となり、全体が平均的に豊かであるとは言えません。個々が平均的に富裕化しているのが、ここアンダマンではないでしょうか?ミャンマーは経済的には、後進国とされていますが、精神的には先進国のような感じを受けます。西アジアの回教諸国の一部は経済面では遅れていても、宗教を通じて精神的繁栄とのバランスをとりながら、対外的には摩擦があっても、比較的安定した社会を築き上げている例を見る事が出来ます。両者は社会安定の為に相互に作用し、密接な関係にあると思います。アンダマンはその両者のバランスを失う事なく発展している実例でしょう。精神的繁栄の道標を立てずに経済繁栄へ進むのは、あまりにも危険が多いのではないでしょうか?

さて、ベンガル湾の潮の流れに沿って生み出された歴史を振り返ってみましょう。インドネシアのバリ島は、ヒンズー教徒の島として、有名な観光地です。中部ジャワ島にもヒンズー教の遺跡が数多く残されています。ボロブドールの仏教遺跡も仏教三大遺跡の一つとなっています。マレー半島やスマトラ島にかけて中世の頃はマジャパヒト王国とか、シュリビジャヤ王国と呼ばれたヒンズー国家が出現した時代があったのは、歴史の本を開けば記載されています。こうして考えてみると、文化の伝播が、このアンダマンを挟んでベンガル湾を往来した史実を身近に感じる事が出来ます。海を伝ってマレー半島へインド文化が広まった事実として、クアラルンプール郊外の港町ポートクランの地名が、その名残を留める一つかもしれません。当時インドではカリンガ王国が栄えていたわけで、ベンカル湾を挟んで、マレー側ではクランと呼んでいたようです。クランと言えば今でもマレー語ではインド人の事をさしています。英国がアジア各地に植民地を展開した時代には、南インドの人々が大量にミャンマーやマレー半島へ移住しました。また、前述したように、インド本国から多くの政治犯が帰る望みもなく、ベンガル湾を渡ってこの島の牢獄での生活を余儀なくされました。60年代には、ビルマから多くのインド系移民が逆戻りしました。70年代にはバングラデッシュからの難民が動き、居留地ともなりました。日本軍も第二次大戦の際に登場します。

アンダマンは英国が七つの海を支配した当時の拠点の一つだったかもしれません。大洋の真ん中に英国は、あちこちに拠点を作っていきました。昔の話ですが、フォークランド島も今でも英国領です。元英国領の島を挙げると、フィジー、モウリシャス、モルジブ南部のガン島、セイシェル等数多くあります。しかし、ここアンダマンは地理的には、一つの独立国家として存在可能な位置にあったはずです。大戦後は独立するか、近隣諸国の一部となるかの選択があったと思います。結果としてインドが英国からの独立を勝ち取った時点で、この島を奪回しなければ大国の面子がなくなるという危機感があったようです。

 

8 韓国の友人達

さて、アンダマン行きのニコバル号の船内で、二人連れの韓国女性、単独で旅をしている韓国青年のユーさん、そして私と同じ年代のチャンさんに会いました。64名の外国人の中で5名が東洋からの客です。アンダマン上陸後もしばらくの間、彼らと行動を共にする事となりました。

所が彼ら4名の中で、英語を話せるのはチャンさんのみです。ラーマニバスの屋上で、毎夜彼と語り合うのが日課となりました。彼は10年前から世界各地の旅行を始めました。米国のロスアンジェルスにも、しばらく住んでいた事があるそうです。英語の先生をしているそうで、話題も豊富です。他方ユーさんは28歳、政府の社会福祉事務所に勤めていましたが、日常頻繁に横行する汚職の実態を目前にして、仕事を辞め何となくインドへやってきたそうです。英語はイェスとノーしか分かりません。現在インドへ来てから、3ヶ月経過したそうです。韓国語の地球の歩き方には、あちこちにマーカーで印が入っていました。女性2人組みも仕事を辞めて、旅を始めてから3ヶ月になるそうです。彼女たちは、英文は何とか読めるのですが、会話は殆ど出来ない状態で旅を続けてきました。常に英文のガイドブック、ロンリープラネットを片手にしています。チャンさんは、得意の英語で外人旅行者に離しかけ、情報収集に懸命です。私は、現地語で地元の人から情報を仕入れるのに没頭です。互いに情報を突き合わせて確認です。ユーさんと2人の女性は、私達の後についてくるパターンとなりました。

チャンさんを除いて、韓国の人々も単なる憧れでインドの旅に足を踏み入れたようです。彼らがインドへ来るきっかけとなったのは、友人から良い所だと漠然と聞いた事が始まりです。最近、インドの東側の玄関口でもあるカルカッタには、日本人と同数の韓国人旅行者を見かけるようになりました。チャンさんを通じて、韓国の社会事情を聞くと、日本と同様な問題を抱えている事が分かりました。

日本でもそうですが、韓国でも、次第に若い人々が、年配の人を敬わなくなり始めたそうです。若い人々は、人生の目的意識を持つ事もなく。単に漠然と生活するようになったそうです。物資的に、経済的に豊かになると逆に精神的に荒廃していくのは、日本と同様です。韓国の青年達も日本の青年同様、ガイドブックを片手にしてその内容を確認するのみに終始いているのが、良く分かります。韓国では、これからもこういった傾向がどんどん増加していくでしょう。

単独で来ているユーさんは、この島に嫌気を感じ始めたようで、もう帰る準備をしています。幸いに4日後に本土へ帰る便があります。彼の出発前夜は皆でお別れ会です。インド製ラーメンと近くの店で求めたご飯、彼らが本国から持ち込んだキムチの組み合わせです。ユーさんの奢りでビールが10本加わりました。

さて、車座になりながら、歓談が始まりました。旅の経験やノウハウについて語る場所ともなりました。彼らも今は、母国を離れて数ヶ月経過しました。いわゆる社会脱落組み?の一派でもあります。本国での社会の実態に多くの疑問を感じ、反発をし、社会が自分達をだめにしたと主張します。構造は日本のそれと非常に類似しています。しかし、単に現在の社会を批判するだけでは、解決とはなりませ。その事に視点が向かった事は大きな収穫でもありましょう。社会の矛盾を認識した上で、自分自身を変えて行く方法をさぐってこそ次なる発展が存在するのではないでしょうか?旅のパターンも、各人各様で、何でも良いから積極的に取り組み、吸収しておけば、それらはいつか有機的に結びつく事があるはずです。彼らは、今までの自分達の旅があまりにも無駄なものだったのか、理解したようです。これからは、ガイドブックと言うフィルターを通さずに、自分達の体で直接、物事を感じ行動していくでしょう。

当初私達の後ろをベッタリとして歩いた女性2人組みは、覚悟を決めたようで、ランガットから先は、私達と別行動をとるようになりました。別れ際には、きれいな英文で、そっとお礼の絵葉書を渡してくれました。いつかまた、どこかでこの人々に会いたいと思います。一方チャンさんとは、同室ですが、お互いに自由を束縛する事なく、楽しくアンダマンの日々を過ごす事が出来ました。ぽつりと、一人で先に島を離れたユーさんは、どうしているものでしょうか?

 

9 情報化時代の盲点

現代社会は、情報化時代とよくいわれます。しかし。この情報に我々の生活は翻弄させられているのではないでしょうか?情報が現実に有効的に作用しているものかどうか、改めて考えてみたいと思います。

旅を続けていると、様々な人に出会います。情報の収集に多くの旅人が時間と資金を投入しています。しかし、結果として収集した多大なる情報に埋もれ、実際にどのように行動すれば良いものか混乱しているようです。情報を集めたけれども、消化不良を起こしているのかも知れません。次に例をあげてみましょう。

先日春休みを利用して、2ヶ月ほど南アジアへ旅行にきた日本からの青年に会いました。カトマンズで出会ったのですが、これからネパールでトレッキングをするとの話です。出来るなら、3週間程度かけて、アンナプルナ一周のコースを取り組みたいと情報収集中でした。さて、彼の場合はネパールへきたのは、初めてです。まして、日本で、山歩き等は今までした事がありません。だからこそ情報が必要だと思い、あちこち旅行者に聞きを入れていました。所で、このコースでは、標高5400メートルのトロン峠と言う難所が待ち構えています。場合によっては高山病の危険性もあります。本人は熱心に地図を買い込んでコースの主要ポイント、見所などを聞き出して、記入しています。が、肝心の難所に関してのデータは皆無です。現在の峠の気象状況はどうなのか、初心者にとってこの難所はどう対処すべきなのかは、全く不明です。特に標高の高い場所は、個人差も大きくそう簡単に誰でも出かけられる場所ではありません。場合によっては、命取りとなります。これでは、どれだけ多く情報を集めても意味を成さない事となります。結論として、道中通過するポカラでトレッキング許可書不要のコースで2~3日歩いてみて、トレッキングの初歩をマスターした上で再検討すればどうかと、提言をしました。

地球の歩き方はいつも幅を利かせています。最近はバイブル的な存在です。しかし情報過多は同時に消化不良を伴うものです。危険情報や現地医療事情などを細部に渡って収集すると、私達は足が竦んで全く身動きが取れなくなります。こと細かく対策までが記述され、誰もがその記事を手にした人は、その対策と傾向を過信して、全員がマニュアル通りの行動に走ります。本能的な危険察知の能力が次第に鈍化し、いざと言う場合に応用が利かなくなりつつあります。自分自身から得た対策ならば、しっかりと身につきますが、他から与えられたノウハウは簡単に身に付くものではありません。即ち自分で考えた対策こそが、最善の防御であると気づくべきでしょう。

医療事情に関しては、事細かく症状や対応する薬品などに関して記述がなされています。しかし、予防医学として健全な日々を送るための快食、快眠、快便については殆ど触れていません。基本的な事柄をおろそかにしては、どれだけ末端の情報を集め込んでも、それらは有効に作用するとは思えません。彼らが購入した書籍は、その数ページしか眼を通す事がなく古本屋の店先に並びます。ガイドブックに記載されている内容を確認する事が精一杯となっています。今後は、ガイドブックを主体とするのではなく、個々が独創的に、意味のある旅をするべきでしょう。

ファッションは、各人がそれぞれに個性を象徴しています。なぜ各人がそれぞれ独自のヘアースタイルをし、服装が異なり、特色ある飾りをするのでしょうか?そこには、創造力と言う知的生産物が必要とされます。直感的に捕らえる人もいましょうが、我々はファッションを考える時、創造力を駆使しながら、あらゆる角度、観点から検討を重ね好みのデザインを生み出していると言えましょう。しらない間に考えるという 豊かな作業に没頭してしまっているのです。

何故それぞれの人々お旅のパターンに変化がないのでしょうか?全員が旅に対して同様な思考しかもたないのでしょうか?単なる情報の渦に巻き込まれ、それらを消化する事、即ち考える事を失っていたのです。今後は確認の旅から脱却して、考える旅へと切り替える必要性を感じてなりません。
今回のアンダマンの旅は情報ゼロからの出発でした。幾つかの情報収集はありましたが、そのプロセスは至って単純なものでしたが、充分旅を楽しむ事が出来多くの発見を持ち歩く事となりました。旅の基本は水泳にも似ているかも知れません。一度深い海に突き落とされると、自然と体が浮き泳ぎの上達が早いと言われます。事前に知識を沢山詰め込んでも、役立つ事は少ないのです。浮かぶという基本を知った上での情報の収集は効果的だと思いませんか?

 

10 アンダマンへ旅行の留意点

カルカッタからの乗船の場合は事前の許可書が不要で船の切符が購入可能。
マドラスからは事前にアンダマン入域許可が必要(流動的)。
今後観光産業促進のため、現在の30日の許可を45日に変更される見通し。
帰路の乗船券は、予め州政府観光局で予約を受け付けている。
現地では、インド各州の言語が英語よりも通じる。
現地の物価は、本土より1~2割高め。
季節的には、12月~3月頃までが最適。
この季節は日本では真夏といった感じが続く。
4月5月はインドの夏休みで人の出入りが多く混雑している。
船内は物価が高いので、陸上で予め追加食料、嗜好品などを持ち込む。
島内では、船やバスなど早朝の出発が多い。
ポートブライアール到着後、警察への出頭を忘れない事。
アバデーンバザールは何かと便利な場所です。
宿はラーマニバスをお勧めします。

最後に

今回も沢山勉強となりました。今後も異文化との触れ合いを続けていこうと思います。この記事を書くにあたり、旅の道中で出会った人々のご協力を感謝します。この記事のまとめは、1999年3月カトマンズのフジヤマゲストハウスにてまとめる事が出来ました。

干場 悟
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