アジア旅日記 アッサム、メガラヤNo_12 1999年
ネパールのイラムを午前8時半のバスで出発すると12時半には終着ベルタモードに入ることが出来ます。さらに国境までは30分の所要時間です。カッカルビッタの国境のデータを見ると、昨年は500名の日本人がこのルートを利用してインドへ入国しているのが分かります。またほぼ同数がインドからネパールへ入国しています。
目次
1 シルグリへ
ネパールのイラムを午前8時半のバスで出発すると12時半には終着ベルタモードに入ることが出来ます。さらに国境までは30分の所要時間です。カッカルビッタの国境のデータを見ると、昨年は500名の日本人がこのルートを利用してインドへ入国しているのが分かります。またほぼ同数がインドからネパールへ入国しています。
この入国事務所は双方共に心地よく旅行者の対応をしてくれます。同じ出入国事務をしているスノウリの国境は何となく陰険で雰囲気が重いのですが、ここは、明るい感じがします。
インド側の国境からシルグリまでは頻繁にバスが往来しています。料金は8インドルピーで所要が一時間です。この車内には、ちょっとした密輸組織が暗躍しています。インドのおばちゃんたちが、サリーを纏い腹ボテのいでたちで4,5名乗り込んで来ました。しかも彼女達は常に緊張状態で車の前方を気にしています。どうも路上での税関の取り締まりを警戒しているようです。隣の席に座ったおばちゃんは、妊娠する年頃をはるかに過ぎているのに、お腹を大きく膨らませたサリー姿です。「ここに荷物が入っているから、もう少し席を譲ってください」ということでした。今回は検問に引っかかることもなく、無事通過出来た様子です。ある男性はポケットにカメラを2台も放り込んでいます。伯母ちゃん達のサリーの下には電気製品やカメラなどが仕掛けられているようです。わずか一時間の距離ですが、この運び稼業で一日の生活が成り立つのかも知れません。
こうして、バスは無事にコスモポリタンなシルグリに到着です。この町はインド東部の州の接点になる場所です。ビハール、ネパール、ベンガリ、アッサム、ブータンなどの始発地点でもあるのです。ここから大半の外国人旅行者はダージリンやカリンポンへ向かいます。ごく少数の人々がシッキムの旅を始めます。ましてや、アッサムへ向かう旅人は極端に少ないようです。
アッサムといっても結構広く、ここシルグリから500キロ以上も離れています。列車もあるのですが、夜行バスの利用となりました。12時間から13時間後に州都ゴウハテに到着するそうです。バス駅の係官は大変親切であれこれとアドバイスをくれました。数年前からアッサムとメガラヤ、そしてトリプラの3州は自由に旅が出来るようになりました。まだ知名度が低いのと、これといった格別有名な遺跡や観光資源が乏しいからでしょう。旅行者の数はまだまだ少ないようです。
バスは座席も広くゆったりとしたソファーがあしらってあり、快適そのものです。夜の9時ごろコーチビハールという場所に到着です。しかし、このバス駅には銃を構えた兵士が警護を固めています。何となく国境、辺境に近くなった印象を受けます。しかし、地元の人々にとっては日常茶飯事なのでしょう。ともかくバスはどんどん東へ向かって進行していきました。インドのバスにしては珍しく、私の隣の席は空席となっていましたから、なおゆっくりと休むことが出来ました。
翌朝6時ごろにバスはゴウハテ市内の入り口に差し掛かりました。ここでオマワリさんが乗り込んできて乗客のチェックです。私も不審人物と見られたのでしょうか?しかしパスポートを提示して何事もなく済みました。しかし、後部に座っていた二人組は一度外へ連れ出されたものの、20ルピーを払って何事もなかったように席に復帰しました。これでは、ゲリラやテロリストなども容易に紛れ込むことが可能ではないでしょうか?最近この界隈では、ULFA(United Liberation Front of Assam)という反政府組織が一斉蜂起の予定ということで警戒が強まっているのを知りました。
2 アッサム
アッサムの州都はゴウハテです。バスの駅と列車の駅は隣接していますから何かと便利です。しかしやはりインドの都市です。ごみがあちこちに散乱しています。おまけに、軍隊がうろうろしています。今でも即攻撃態勢に入れれる装備軽車両が勢い良く市内を駆け抜けていきます。駅の近くには、軍のキャンプ地を兼ねた巨大なビルがあり、その付近はなお緊張していました。今まで私が見たインドの都市の中でもっとも緊迫しています。
駅の近くにある、州政府観光局の経営するツーリストロッジにお世話になることとしました。一泊100ルピーで、一人ではもったいない広さです。設備はまぁまぁですが、お役所経営で従業員は職務怠慢的な部分も見え隠れしています。
この町の北側には巨大なる川ブラフマプトラが流れています。それが、唯一のこの町の特色かも知れません。ここの風景はミャンマーのピーという町に似通ったものがあります。大河を控えた自然の構成は同じようですが、ヒンズー教文化圏か、仏教文化圏かという大きな差異があります。人種的には、インド系とモンゴル系の半々という印象を与えてくれます。この地域の歴史を考えてみると、彼らのオリジンはモンゴロイドと言えるでしょう。ここへ、ベンガル系やアーリア系の人々が商業活動を通じてじわじわと押し寄せた感じがします。またインド中央政府が自国の国境線確保のために意図的にデリーやカルカッタとの交流を促進しているようです。アッサムはバングラデッシュと国境を接しています。1971年のバングラデッシュ独立に際して多くの難民が回教国家バングラデッシュから流入したに違いありません。地図を見ると、この部分が異様にくびれて細長くなっているのに気がつきます。
さて妙な場所に迷い込んだものです。このあたりは少しばかりミャンマー的色彩の漂う地域でもあります。現在の国境線は近代史の国家論のうえに成りたっています。100年ほど遡れば現在の国境の意味はあいまいです。カルカッタから1,100キロ離れていますから、中国やビルマの影響を受けるのも当然です。いつの時代かは、ミャンマーの王様の支配化にあった史実も残っています。今はインド共和国の一部となっていますが、どれだけ巨額の軍事費を投入して、この地域を獲得したものでしょうか?今でもそれぞれの部族が独立を目標にしたり、更なる自治権獲得のために闘争を続けていると聞きます。それらの動きはインドの独立当時から現在に至っているようです。インドでもなく、ミャンマーでもなく、中国でもない自分達の国家を目指した動きも、次第に大国インドのエゴに押し流されているようです。
インド人を大きく分類すると、アーリア系インド人、南インドに集中するドラビダ系インド人が今までの私の認識でしたが、モンゴロイド系インド人が私の視点に加わりました。
3 シロン
ゴウハテからシロンまでは100キロの距離がありますが、バスが頻繁に運行されています。およそ4時間の丘陵地帯の旅です。標高1500メートルの高原年ですから気候はきわめて温暖です。下界すなわちアッサムの州都ゴウハテは蒸し暑くてうなっていても、ここは松ノ木が茂り、扇風機などは必要なない土地柄なのです。今までに何度となくインドの高原都市を見てきましたが、ここはどうも何かが違っています。
ダージリンはネパール人の多く住む高原都市で、シッキム州のガントックはネパール色とチベット色が混在しています。西北インドのマナリ方面はやけにヒンズー色を満々とたたえています。デリーの北に位置するムスリーはインド的な印象を与えてくれました。いずれにも共通していることは、英国の避暑地として選択され、町の構造は大体共通した一面を持っています。
しかし、ここの空気は一つも二つも違っているのです。州都シロンの人々の顔つきは東南アジアといっても過言ではありません。この町でヒンズー語の看板を見ることはまずありません。中央政府の建物にのみヒンズー語の表記をみることが出来ます。もちろんベンガル語も見かけません。この州の公用語は英語と現地に昔から伝わるカーシ語です。ここでは昔からの現地語カーシ語をローマ字表記したものを見かけます。それが、英語と併記されるのが常です。ですから、デリーやカルカッタから来た人々にとっては異境の地かも知れません。現地の人々の服装はサリーやルンギではなく、我々同様に西洋のシャツとズボンの出で立ちです。ここは、ヒンズー帝国から遠くはなれたキリスト教文化圏なのです。
ちょうどシロンに到着した日はシロンフェステバル開催中でした。すなわちそれは、クリスチャンの集会の日でもありました。ゴウハテからバスで4時間離れるとヒンズー教の社会アッサム州です。1972年にインドの21番目の州として、アッサム州から分離した小さな地域です。ヒンズー文化圏とクリスチャン文化圏とではどうしても相容れないものが存在したでしょう。カナダからの牧師を招いてのシロンフェステバルは大盛況でした。
概してインド東北部の州はキリスト教徒が多いことが知られています。町を歩くと1922年創業の中華料理店や1897年設立の軍人病院など近代史の中でおやっと思うことが良く目に付きます。22,000平方キロの地域に200万人以上の人々が生活しています。その多くはインドのアッサムと隣国バングラデッシュに挟まれた東西に細長い丘陵地帯に住む人々です。山岳民族なのですが、ネパールのそれとは異なった印象を受けます。どちらかというと東南アジア系の集団に近い顔立ちをしている人々です。インドネシアやマレー系の顔つきも混じっています。どうもインド社会のイメージに混乱が生じてくるのです。
他にこの町で目立つのがエイズの予防の看板です。そして、あちこちにインドの国旗がここもインドの領土ですぞ言わんばかりにしきりになびいています。他の都市ではこれほど多くのインド国旗を見かけたことはありません。ここも軍隊が多く駐屯している町です。2時間程度南に下るとバングラデッシュに通じています。ちょっとユニークな土地だったと思います。
4 インド東北辺境
アッサムからメガラヤ州に入ると、途端に目につくのが、ワインショップです。南インドでは。ケララ州やゴア州などキリスト教徒の多いところでは聖水とみなされるのでしょう。ここも同様です。坂道の多いシロンの町はあちこちに政府機関の建物が威容を誇っています。それらは、あたかもインド帝国がこの地を支配しているぞといわんばかりの強硬さを感じてなりません。
歴史的観点からこの地域を考えてみましょう。日本の国家統治を考えてみると、歴史を通じて同じ民族によって支配されています。外部から異質の文化を持ち込んだ集団によって統治された経験を持ちません。一般的に先進国の多くは、その国家の統治を考えると、国家元首が交代しても同一民族の支配下にあるケースが多いと思います。
インドを眺めてみると、モーリア朝、アショカ王朝、グプタ王朝とヒンズー王朝が続いた後、回教文化圏のムガール帝国に支配されました。その後は英国の支配を受けるとう歴史を負っています。ムガール帝国での支配は200年、英国による支配が200年続いたと言えるでしょう。すなわち長期に渡って異民族の異文化の支配にあったといえるでしょう。
地域的にも規模的にも小さい東北辺境のインド各州はそれぞれ固有の文化を持ちながら現在のインドの支配下に身を置かなければならないのが現状です。ここに自分たちのアイデンティティを求めて独立要求の動きが活発化していると思います。周囲の国々を眺めてみましょう。17世紀からヨーロッパの支配下にあった植民地は戦後復権し、ミャンマー、ラオス、ベトナム等自分達の手で民族独立を達成しました。
アンダマンもそうですが、このインド東北部の小さな州はまさしく、インド中央政府が資金と軍事力を注ぎ込んで自分達の領域にしたとも言えるでしょう。それぞれにメリットやデメリットは存在するようです。この地の多くの人々はモンゴロイド系ですから、インドの東南アジアの文化圏とも言えるでしょう。さらに東に位置するミャンマーがパキスタン同様の国力を保持していたとするならば、この地域の歴史は大きく変わったかも知れません。隣に控えるのは、純然たる仏教国ミャンマーであったということで現在の結果に至ったのでしょう。
同じミャンマーでも10~12世紀においては、アラカン王国という強力な国家が存在し、その勢力範囲は現在のバングラデッシュをまたいでカルカッタ近辺まで及んだそうです。ここから500キロ東へ移動すると、第二次世界大戦で有名になったインパールです。さらに進むとミャンマーへと道が通じています。