アジア旅日記 カルカッタの僧院にて2001

コルカタ郊外の仏教寺院

アジア旅日記 カルカッタの僧院にて

1.はじめに

コルカタ郊外の仏教寺院

私がカルカッタ郊外のラカイン僧院に出入りしてから7年の歳月が過ぎました。事の発祥はミャンマーの首都ヤンゴンからカルカッタに向かう機内でヤンゴン在住の僧侶との対面が契機でした。

 

 

 

 

 

目次

カルカッタの僧院にて… 1

1.はじめに… 1

2.ラカイン・ミャンマー・ビルマ… 1

3.ヤンゴンからの留学僧… 2

4.ラカイン僧院… 3

5.ミャンマーコネクション… 4

6.より集う人々… 5

8.バングラのNGO活動家… 8

9.日本社会… 9

10.差別社会の貧困と教育… 10

11.最後に… 11

 

2.ラカイン・ミャンマー・ビルマ

ラカイン、ミャンマーそしてビルマという言葉は混乱しがちなので簡単な説明を加えることにしましょう。ミャンマーはビルマという英語の名称がビルマ語の発音になったものと解釈してください。ミャンマーという名称は過去30年近くに渡ってネ・ウイン氏によってビルマ社会主義計画党の管理(軍事政権)の名残でネ・ウイン氏没後、多少なりとも従来の鎖国的性格を緩和した際に国名もミャンマーと改称したものです。そもそもミャンマーという国は、その国旗が示すように5つの主要な民族から構成されています。モン族、ビルマ族、ラカイン族(アラカン族)、チン族、カレン族だったと思います。その中で70%以上はビルマ族によって構成されているといえます。続いて大きいグループがラカイン族と称してミャンマーの西部を拠点として住んでいる人々です。このラカイン族とビルマ族は歴史的に常に対立を続けていました。

一時は広大な領土を抱え、その勢力範囲はバングラデッシュ東部やインドへも広がる巨大王国を形成した時代がありました。今でも、バングラデシュの東部にはラカイン族の居住地があります。インドのアッサムやトリプラ州にも点々とラカイン族の居住区があります。

首都ミャウーへは一度出かけたことがありますが、今は廃墟の町ですが、至る所に過去の栄光を物語る遺跡が散在していました。ヤンゴンからのアクセスも厳しく、飛行機で行けばそれなりに早くあっという間につくのですが、私は夜行バスで一晩かけ、更に湿地帯を行く船で2泊3日の行程を得てシトウェという現在のラカイン州都に到着し、更に3時間~5時間かけて川を遡上するという難行苦行の連続でした。今考えてみると良くこうった土地に出かけたものだと我ながら感心しています。この地域は第二次世界大戦の頃日本軍が侵攻したことでも知られ、今でも数は少ないのですが、戦没者慰問のツアーが催行されると聞きました。私の友人のお父さんもこの地(ミャウー)から数十キロの地域で戦死されたそうです。ラカイン州の現在の州都がシトウェですが、電線が蜘蛛の巣のように張りめぐされていますが、通電したことが一切ないという街です。

余談ですが、シトウェから古都ミャウーへ行く船は小さな小船でした。朝もやの中定時に船は出港したのですが、途中で船は浅瀬に乗り上げてしまいました。100人ほどの乗客でびっしりと足の踏み場もないほど牛詰めの状態でした。乗組員がざんぶと飛び込んで船を押して浅瀬から抜け出るようにしているのですが、いかんせん力が足りません。

あっという間に婦人たちもザブンと川の中に飛び込んで加勢しました。20人以上も応援がでたので船は無事浅瀬から脱出し航行を続けることができたのです。加勢した人々は何事もなかったように平然として又同じ位置に席を取り、とうとうとした川の流れに沿って目的地に着くことが出来たのです。

また、一時勢力を伸ばしたラカイン王国はポルトガルとの交易があり、当時は日本の侍が傭兵として住んでいたといわれる場所です。

3.ヤンゴンからの留学僧

ヤンゴン市内で僧院長を務めるウ・アデッサワンサ氏は敬虔なる信者の寄進を受けてインドのガヤにある大学に留学することになりました。僧侶にとっては初めての海外体験です。首都ヤンゴンに住んでいるとはいえ、ヤンゴンのインフラ(電気、通信、交通手段など)は今のインドの数十年前に等しい状況です。又僧院長ともなれば、見習い僧や在家信者が日常生活全般にわたって全て面倒を見てくれます。しかし、一歩外へ出るとなると自分自身で全てを為さなければなりません。飛行機はヤンゴン発、ダッカ経由カルカッタ行きです。ダッカでは一泊しなければなりません。ダッカでは同席したロンドン行きのミャンマー人(イスラム教徒)が僧侶に対して親切に説明をしていました。しかし、この先が問題です。翌日カルカッタへ向かう乗客は数十人いたのですが、ミャンマー系の客は誰もいません。

そんな訳で私がガイド役を引き受けることになりました。驚いたことに、この僧侶は英語も殆どわかりません。会話は勿論のこと読み書きも殆どゼロに近い状況でした。れカルカッタについたら、電話するようにと一枚の紙切れに電話番号が記載されたものを大切にしまいこんでいました。

そんなわけでカルカッタ到着後、入国、税関、両替そして電話のかけ方などを指南したわけです。電話といってもコイン式の電話は僧侶にとっては初めての体験です。そういった細部にわたり世話をすることになったのです。電話番号は勿論カルカッタ郊外にある僧院でしたが、連絡が取れすぐ向かえにくるという伝言があったのですが、なかなか迎えが現れません。空港建物のすぐ外で僧侶は毛布や食料、キッチン道具などカートに満杯の荷物を抱えています。これだと、置いてきぼりをというわけには行きません。僧侶が差し出すりんごをかじりながら、延々と待つこと2時間、ようやくインドの国民車アンバサダーが恰幅の良い2名の僧侶を乗せて迎えが到着です。その間客引きなどが珍しがって声をかけてきました。そういった輩はミャンマーでは存在するわけはありません。ともかく追い払うのも私の義務でした。これで安心、当方は心置きなく市内へ出向くことが出来たのです時間があったら、当僧院へもおいでくださいと一枚の名刺を受け取ることになりました。それにしても、この僧侶はまるで王子様のような、穢れしらずで何と品格のある方だろうという印象を持ったのです。

翌日早速僧院への訪問です。一枚の名刺が手がかりです。電話番号もありますから、電話すればどこかで誰かが迎えに来るでしょう。私にとっては日常茶飯事のことで、今までも住所のみを頼りに家探しをしたことがあります。住所の通りに場所を絞り込んでいけばよいのです。カルカッタ市内からバスにのって1時間半。それから角々で人に尋ねながら1時間半でようやく目的地に到着です。早速ミンガラバー(ミャンマー語、ラカイン語での日常の挨拶ネパールではナマステ)と声をかけて入門です。もう、昨日のことが院内に広まり、大なる歓迎を受けることになりました。良ければ是非当院で寝泊りしてくださいと声をかけられたのがきっかけとなってカルカッタでの定宿になってしまったのです。

4.ラカイン僧院

そんな経過があって数度となく、この僧院を利用することになりました。僧院長をはじめとして、全員と親交を持つ日々が続きました。朝は簡単にお茶とビスケットが提供されます。昼と夜はラカイン風の食事(ライスとカレーや野菜の煮込み)が出されます。勿論僧侶達は一日二食で午後からは食事を取る習慣はありません。しかし、この僧院で寄宿している学生達は夕食も提供されますから、私もその仲間入りとなります。

建物はカルカッタ市内から30キロほどの郊外にあります。バス終点からリキシャに乗り換え、歩いて20分ほどの距離で広大な田園風景の中にレンガの仕切りで囲まれた一角が僧院です。ビルマ独特の卒塔婆が遠くかれでも目にはいる、閑静な一角でした。大きな池を囲んで簡素な宿舎や院長の宿舎そして食堂やホールなどの建物が散在しています。いずれも簡素な作りですが、これならば生活できないわけではありません。住めば都とはこのことでしょうか?

私が数度に渡ってミャンマー訪問をした話を彼らは熱心に耳を傾けています。概して彼らの話の争点は軍事政権の批判が多いのですが、私なりにミャンマーで見聞したこと、そしてミャンマーの人の良さを話すことに終始することになったのです。

こうして数度で入りすることにより益々親しくなりました。あるときは僧院長が苦労を重ねてラカインの著名な遺跡から盗みとってきた石柱や石碑のレプリカ(碑文の拓本)を広げて碑文を解読しようとしていました。その巨大な紙に版画のように浮かび上がった文字を読み取るのは大変な作業です。早速デジカメで写真を撮り、パソコンの画面で閲覧できるように工夫しCDに全ての資料を収めてしまいました。この手法は僧院長の通うカルカッタ大学の教授の目にとまり、かなりの評価を受けたと報告がありました。と同時にこの僧院の実態も次第に浮き彫りになってきたのです。

前述のようにラカイン族とビルマ族の反目もありますが、現在の軍事政権は双方ともに敵に等しい感覚を持っています。ラカインとビルマ族の対立はこの僧院では大きな争点になることはなく、ビルマ系の巡礼団もここカルカッタを出発地点としてガヤなどへ巡礼の旅に出かけます。そういった巡礼団からのお布施も重要な財源の一つとなっていました。今はカルカッタやヤンゴンから直接ブッダガヤへの便が運行され、カルカッタ経由の必要度がなくなり、ちょっとした財政危機につながっています。

この僧院の前身は当初ラジギールに本拠を置いて活躍していたのですが、最近カルカッタ郊外のこの土地に広大な土地を取得して活動をするようになりました。Young Buddhist Literacy Missionというのが正式な名称です。YMCAの仏教徒バージョンに近いものと解釈して良いでしょう。数人の学生がここを拠点として生活し、ある学生はカルカッタ大学で学んでいます。ある学生は近くの中学校で勉強しています。又インド各地にある仏教系の大学に通うミャンマー系或いはラカイン系学生達の根城ともなっています。ここを中継地として北東インドのアッサムやトリプラ、そして遠くはバングラデッシュの国境近くのラカイン族もこの場所を利用して出入りしています。

ある見習い僧などはラカイン州(ミャンマー)の故郷を離れて10年以上にもなります。僧院長のウ・サンダムニも生まれはミャンマーの西部でしたが、難関を排し、国境を越えてバングラデシュに身を投じ、勉学の機を持ち現在に至っています。ある。後に、この僧院はメデテーションを主体とするウ・サンダムニはブダガヤ郊外に新しい施設を作り、今は4階建ての僧院を維持するに至ったようです。今はバングラデッシュ国籍のウ・ナンドバダ氏がこの僧院の長を勤めています。

まあ、別名インテリ坊主の住む僧院とでも表現しましょうか!私も時々彼らとはE-mailを利用してメッセージを届けたりします。でも時々PCが不調になるので支援の声もかかることもしばしばです。この僧院内にいても飽きることはなく時間が過ぎていくのです。

数年前から、この僧院は英語で授業をする学校も併設するようになり、次第にこの地域でも有名になりつつあります。選ばれた五名の学生がこの学校に寄宿しながら生活を続いています。見るたびに彼らが成長していくのも楽しみの一つとなりました。私がくると部屋を用意したり、食事時には声をかけてくれたりするのも彼らの役目のひとつとなりました。

古株の学生の多くは僧衣をまとい、学校が休みになるとここカルカッタの僧院で独習を兼ねて色々と僧院の活動に手を貸しています。

又この地域はビルマからの難民(1960年代に多くのインド人や中国人がビルマの軍事政権によって追放された)が住む地域でビルマ食堂が2軒あります。また地元に住むミャンマー語を話す人々も良く出入りし、様々な書類の作成や提出などにも一役かっているようです。

基本的には、アメリカ在住の日本僧や、台湾、香港などの仏教徒信者からの寄進で運営されているようで、昨年はアメリカから数人の人々が集い英語教室を開いていました。それがここラカイン僧院なのです。

5.ミャンマーコネクション

この僧院の人々は一見反軍事政権の狼煙を上げているように見受けます。現在の政府に関しての批判はかなりの度を越えているように感じました。しかし表面上は平静を装っているようです。生まれはミャンマーのラカイン州でもちょっと小船で沖合にでるとバングラデシュですから、パスポートの偽造などは比較的容易な地域です。こうして得体のしれない様々な人々の集う巣窟に小生も参入することになりました。

彼らの最も興味深いことは軍事政権がいつ崩壊するかという事ですが、当分の間大きな変化はないようです。最近の情報によると、軍事政権内部の派閥抗争が激化しているとの知らせがミャンマーからの巡礼団によってもたらされていました。

夜になると短波ラジオを片手にBBCのミャンマー語放送を必死になって聴いている彼らの姿を思い浮かべます。

ミャンマーの現状は多少なりとも複雑なものがあります。果たしてミャンマーには民主主義が根付くものでしょうか?戦後この国は一時的ですが、選挙による民主主義が施行されたことがあります。しかしあまりにも贈収賄の比が高く、崩壊したいきさつがあります。ミャンマーのような純粋に近い仏教国では僧や僧院に対して巨大な寄付が流れていきます。お布施をするのが日常とする文化を政治に持ち込めば、容易に政治部門にもお布施が流れ込むのは当然です。又、当時ラングーンの経済は中国人とインド人に支配されていました。経済のみではなく、弁護士や医師そして実務担当の公務員などの多くがビルマ人というより外国人によって占められていたのが実情です。そういった事情を背景に民主主義が軍事政権に委譲せざるを得なかった部分を感じます。そして30年以上にもわたりネ・ウイン氏をトップとする鎖国性の強い軍事政権が続いたのです。

隣国のタイはベトナム戦争の影響を受けて急速に経済発展の道を歩みました。当時はバンコクの外交官がラングーンへ買い物に来たといわれるほど、ラングーンは豊かさを抱えていたようですが、今は完全に逆転してしまいました。タイは観光客が年間1000万人押し寄せますが、ヤンゴンは20万人程度という数字です。経済投資も殆ど進んでいません。都市のインフラも恐ろしく遅れています。

しかし、人々の生活には悲惨さを感じることはありません。相互扶助の心で精神的には豊かさを残しているように感じてなりません。ある意味では大半の人々が外国というものを知らないからかも知れません。また気候も比較的温暖といえるでしょう。仏教の教えと人々が一体となった生活を垣間見ることが出来るのではないでしょうか?もし、この国が民主主義となり、国外から大きな資本が入り込んだとしたら、状況は一変するかも知れません。人々は次第に西欧文明の影響を受け隣国タイと同じような現象が生じるでしょう。

開発を考えると環境問題が絡んできます。発展をしようとすればその文化も取り入れることになり文化摩擦も発生します。どのようにして両者のバランスを保つかが争点となるでしょう。

6.より集う人々

さて、前述したように、ここはラカイン人が出入りする基地ともなっています。

以前知り合ったMr.Wenaはバングラデッシュの孤児だったそうで、ラカインの血が流れています。数年に渡ってこの僧院に住みカルカッタの大学にも通学しました。その後彼は縁があって台湾に留学する道を見出すことが出来ました。今はアメリカに渡って学業とアルバイトに励んでいる日々です。先日ペンシルバニアからメッセージが届きました。縁は不思議なもので、彼には日本人の友人がいましたが、数年来音沙汰がないのでどうしたものか調べて欲しいと依頼をうけたのが今年の春でした。日本に帰り早速ローマ字表記の日本の友人宛に一通のはがきを送りました。数日後丁寧な返信が届きました。カメラマンとして長くバングラデシュに滞在した日本の氏は数年前から病に冒され九死に一生の思いで現在回復中とかでした。勿論Mr.Wenaが孤児であったという事はこの方を通じてしることになったのです。日本の友人の書面によれば、連絡したかったけど出来なかったと記してありました。私の仲介が無事両者を再び結びつけることになったのです。

ノビス(見習い僧)ケッテマは13歳の時からこの僧院で暮らし10年の歳月が過ぎました。当時は英語もヒンズー語もベンガリ語も解りません。今は堂々とヒンズー語やベンガリ語を話すようになり、ブッダガヤの大学に籍を置くようになりました。今年に入って10年ぶりに故郷に帰り父母に会ってきたそうです。しかし、家にはわずか3日間しか宿泊することが出来なかったそうです。この寺院の僧侶グループは結構恵まれているようで、携帯電話を片手に、MP3の音楽にどっぷりと浸っています。当初は周辺にある小学校に通って地元の子供達と同じように授業に参加したそうで、今でも同級生(ベンガル人)とのつながりを持ち続けています。

この僧院には時々アッサムに本拠地を置く僧侶も出没します。トリプラ州に僧院を営む僧侶達も時々滞在することがあります。大体においてこのラカインの人々はどちらかというとモンゴロイド系ですから、我々日本人と顔つきや体格は殆ど変わりません。そういった部分も何かと親近感を覚える一つとなります。

あるときは日本で京都大学に留学し、今は神田外語代で講師をしている日本在住のミャンマー人と一緒になったこともあります。

以前は時には20人、時には数人のグループが巡礼団と称してカルカッタから列車やバス(貸切)でブダガヤ方面に向かう人たちで部屋は満杯になることもありました。彼らは自分達の食材を持ち込んで、近くの市場で追加材料を買い込んで自炊です。そんな時は食卓がかなり豪華になりました。満室となる場合、私は学生達の部屋で起居をともにすることもありました。巡礼客の中には、元ヤンゴン大学原子力学科教授という方とも鉢合わせすることもあったのです。

この寺院を知るきっかけとなったウ・アデッサワンサ氏は数年に渡りインドとミャンマーを往復し無事学位を取得されたようです。昨年のマレーシアで開かれた世界仏教会議にも参加なさったそうです。彼のヤンゴンの僧院へは二度ほど足を運び親交を深めてもいたものです。簡素な建物でしたが、ヤンゴンの北東部に位置するオカラパ地区には幾つも僧院があり、地方から来た見習い僧侶達が修行に励んでいたのを思い浮かべます。

バングラデッシュにはラカイン族の居住地がいくつかあります。五年ほど前にバングラデッシュを訪問した時には、少数派の苦悩を幾つか眺めることになったのです。スリランカやタイそしてミャンマーでは交通機関は僧侶には絶対的な優先権があります。どんなに混雑している市内の公共交通機関でも僧侶席があり、姿を見かけると即僧侶に席を譲ります。しかし、バングラデッシュで目撃したのは、僧侶が満員のバスの中で必死につり革につかまっている姿でした。イスラム教に支配された国家では教義上特別扱いはしないのでしょう。しかし、地元の有力者だと多分席を譲ると思いますがね。勿論、地元の有力者は公共のバスを使うわけがないのかもしれません。そういった悲哀を感じることもしばしばでした。

ある古寺は荒れ放題と化し、今にも崩壊寸前なるところもありました。政府からすると放棄された土地、寺院という判断でしょうが、明らかに多数派と少数派との格闘の様相が見え隠れします。

今回宿泊したときにはバングラ在住の婦人が夫同伴でカルカッタの病院で受けた手術の経過を見るためにこの宿を基地としていました。

またデリーには仏教関係の組織が数多くあり、その関係者も時々ここカルカッタのラカイン僧院に出入りすることがあります。東インドに点在する仏教寺院の集結地的な要素をかもし出しているのです。時にはカリンポン(ダージリンの近く)の僧侶も滞在して帰ります。多くの僧侶からの招待を受けることもしばしばありました。まだ一度も実現しませんが、今度は時期を見て出かけてみたいと思っています。彼らのネットワークの広さはネパールにも及んでいます。仏陀生誕の地としてのルンピニをはじめとし、カトマンズにも広がり一度カトマンズ市内にあるシャンカムニの僧院を訪問したこともあります。又、この僧院から紹介を受けてベナレスのサンスクリット大学の校舎を訪問したこともあります。ベナレスのサンスクリット大学は何と大勢の僧侶がいたことでしょう。学校自体がお寺のような雰囲気だったことを覚えています。年齢も様々ですが、概して若い僧侶学生が目上の僧侶(学生)の世話をしながら皆学業にも励んでいます。アジア各地からの僧侶達がこのベナレスで研鑽している様子に圧巻されたのです。

この僧院の長たるウ・ナンドバダ氏も陽気で誠実な方なのでしょう。氏もカルカッタ大学で学位を取得し、インド各地で、時には海外で講演や会議に出席する多忙な方です。先日話をしていたら、台湾に世界仏教会議があって参加したのだが、我々僧侶は一日二度しか食事をとらないのに、高級ホテルで飲めや食えの攻勢で参りました。もう病気になりそうだったと苦笑いしていらっしゃったのです。概して僧侶という立場は暇をもてあますといえば失礼かもしれませんが、家族扶養の義務もなく、衣食住が事足りていますから、新聞や本を穴が空くほどにらみっこする日々です。そんな中で私のミャンマーでの現体験が新鮮なものに映ったのでしょう。ナンド氏も目を輝かせて当方の話を聞いてくれました。

ナンド氏の最近の体験として、氏よりも高齢の僧がこの僧院に対しての批判をしているのが耳に入ったそうです。しかし、氏は瞑想を続けて気分を沈めてからやんわりとその僧に対して語りかけたそうです。勿論批判の件です。結局対立することもなく、高僧も自分の非を改めて今も友好な関係が続いていると話してくれました。お互いに対立してしまっては、物事が解決するはずはありません。冷静に穏やかに双方が理解しあうこと、認め合うことが出発点だということを改めて知り我ながら驚いたことを語ってくれました。

また更にひとつナンド氏が懸念しているのは環境問題でした。戦争や闘争で多くの人々がなくなるけど、それよりも本当の恐ろしいのは環境破壊による人類の絶滅ではなかろうかとテーマが持ち上がりました。環境破壊というのは現代においては開発ということと矛盾しながら進んでいる現象です。日本のように科学技術の進んだ国ほど環境汚染を犯した国という定義も成り立ちます。開発という意味は別の観点からすると自然破壊と同じ意味をもつのは明らかです。地球にとって人類がその自然の一部だとすれば、人類の消滅があっても、地球にとっては大きな事柄ではありません。発展というのも人々がより良い生活をという欲望が表出したものともいえます。人類の持つ欲望が環境破壊へ導かれているのではないかと押し問答をする羽目になってしまいました。

僧院は新たに英語で授業を行う小中一環校を設立したのです。それで急遽先生の募集が必要となりました。インドではダージリンやカリンポンで学業を修めた人々はネパールを含めて各地から教職者としての腕が買われていま

す。当初は地元のベンガルの先生が多数を占めていましたが、昨年からは新しい仲間が入りましたカリンポンで育ったミンマ・タマン氏です。12歳の時に学校の教師をしていた父をなくし、兄の支援で学校を卒業することが出来ました。20歳の頃はネパールのポカラで4年間、カトマンズで3年間教職の仕事をしていたのですが、ネパール国内で内乱があり生地のカリンポンに引き返したそうです。縁があってこの僧院で再び教職の道が開けました。一月の給料は2000ルピーですが、最近僧院内でアルバイト的に私塾の道も開け何とか生計を維持しているようです。夕方4時から5時半までが家庭教師の時間です。小学生数名を相手に熱心に手ほどきしています。その顔は何かしら希望に満ち輝いています。私がネパール語を話すことを知り大いに歓迎してくれました。インドにおいてはタマン族というのは極めて少数派で、何らかの形で差別を受けながら暮らしてきたそうです。

部屋は隣どうしで、いつも朝になるとコーヒーをどうぞと差し入れしてくれます。夕方には決ってネパール情勢などに話が咲きました。勿論今の所得では家庭を持って生活するには程遠く、いつかは国外へ出稼ぎに行き、ある程度の資金を貯めて故郷で商売を始めるのが夢だそうです。国籍はインドですからカトマンズから直接海外への出稼ぎは不可能です。全ての手続きはインドが基点となるので、今はじっとここで時を待っているそうです。

彼にとっての悩みの一つはラカイン料理です。一見ご飯の上に具が色々乗っかるのですが、ラカインの人々の好みはガピという海老ペーストをたっぷり使うのが特徴で、私もあまりの強烈な匂いに頭を悩ますこともしばしばです。まあたく

そういった様々な顔ぶれ、ユニークな顔ぶれに染まっていると次第に居心地は良くなるものです。次にであったのはバングラデッシュからのNGOの活動家ウ・モウン・セイン・プリュー氏でした。

8.バングラのNGO活動家

今回の僧院滞在で最も印象的な出会いはモウン・セイン氏でした。バングラデッシュのバンダルバンという地域でNGOを設立して活動されている方でした。今回の滞在は地元バンダルバンの娘と母が人身売買の憂き目をあったが国境で保護されインドの警察に身柄を拘留されているのを引き取りに来たそうです。しかし2週間たっても手続きが済まず困惑の状況です。彼はそのほかに地域発展のため様々なプログラムを実践しているそうで、私が先日ネパールでの教育支援活動の一端をになうべき現地への電撃訪問をしたばかりですから、何かと話が盛り上がりました。おそらく私にとっては初めての経験だったと思います。彼も名刺を持ち合わせません。私も名刺を持ったことはありません。それを互いに承知でいきなり談義が始まるわけです。しかも私にとっては非常に有用な内容でした。この記事の後半で記載するのですが、彼らにとっては少数派という環境の下で地域開発を続けなければなりません。貧困の原因の一つは差別化からくる圧迫も大きな要素の一つです。

彼の主張によれば、教育、衛生、収入の増加など総合的な開発をテーマにする必要があることです。

ノーベル賞を受けたバングラデッシュの経済学博士ユノス氏の発案したグラミンバンク(マイクロクレジット)も話題に上りました。実際にバングラデッシュの通常の銀行は8割の負債を抱えているのが現状で、それも実業家などが故意に返済を滞らせているそうです。所がグラミンバンクのこげつきはわずか25%ということですから、75%は成功していると評価されて良いという判断になりました。そもそも、庶民そのものの内部からの意志で融資を受けるのですから返済も順調に進んでいるのでしょう。日本の巨大銀行もこげつきがあるようですが、その多くは巨大企業が占める部分が多く、最終的には税金で棒引きにしているような部分があります。どうもこれはバングラデッシュの銀行と似ているのかもしれません。

モウン・セイン氏は時々村で会合を開くことがあるそうです。農作業に関して地元の人と話をする場合には彼らに話させることが必要とアドバイスしてくれました。上から答えを示すのではなく、上から命令を下すのではなく、彼ら自身が考えて結論を出すように誘導するのが我々の役目なのです。洪水で被害にあったとしたらどうすれば良いのか、彼らから提案を受けるようにすれば、彼ら自身が納得し実践することでしょう。

もし貴方が日本の竹製品加工でだれか知っている方があればその技術を導入する道があれば照会して欲しいということを語ってくれました。ここには大量の品質の良い竹があるのですが、技術がないので付加価値をつけることが出来ません。日本の優れた技法を導入して、外国へ販売することが出来れば、地元の経済はかなり反映するでしょう。そして衣食住が満たされるとなれば自動的に教育へも投資が進み、地域開発の起爆剤となるでしょう。これは私とほぼ同じ考えでした。

9.日本社会

さて、それではどうして日本の国は急激な成長を遂げることができたのでしょうか?これについては色々な意見が既に述べられています。日本人の勤勉性、戦後国内での内戦などが生じることなく国家開発に国民全員が一致したからとも言えるでしょう。又日本の会社組織が永久雇用で会社関係はあたかも家族関係のように従属し、会社の反映が個人への所得の増加にもつながり安定した富の蓄積が大半の人々にとって可能であったことも要素の一つでしょう。時代背景を考慮すると朝鮮戦争やベトナム戦争などの外部からの特需が生じて産業部門に大きな利益を見出した部分もあります。

こうして個々の所得向上とともに納税効果も社会の資本財の蓄積に大きな役割を果たすことになりました。ブラックマネーの社会形成をすることもなく現在に至っています。

教育との関連を探ると、教育という国家の無形の富が産学協調を持って機能的に作用したからではないでしょうか?南アジア社会を眺めると教育の成果が実社会に影響を与えても良いはずなのですが、この富が活用されない部分が多大にあるようです。一つは高学歴をしても該当する職種がないという現状があります。ネパールでは何故かマネージメントやアカウンタントの学問に専念しているのですが、それだけ多くの雇用があるとは思えません。南アジア社会では最近多くの女性も彼女達の持つ学歴が伸びつつあります。しかし、その多くは家庭の主婦として自宅にこもるケースが多いはずです。最近はこの事情は多少変化しつつあり、女性の社会進出は増加しているのは事実です。しかし、中国のように女性の進出が当然という状況には程遠いものがあります。

最近は様々な社会問題を引き起こし、飽食の世代に生きる人々が社会の中堅を担う日々となり、そのひずみを随所に見出すことが出来ます。

10.差別社会の貧困と教育

貧困には慢性的貧困と一時的貧困に区分されます。両者を同時に持つ場合もあり明確な線引きは不可能ですが、大きくわけると二つといえるでしょう。一時的貧困な災害などで財産が消失した場合に派生することが多いでしょう。又個々の人生において大きな過ちがあったとすれば経済的貧困に陥ることになります。

この慢性的貧困というのはインドやネパールなど南アジアで見ることが多いものです。日本も戦争直後は数年間にわたり慢性的な貧困が続いたのかもしれません。しかし、それは数年の間に克服することになり現在に至っています。戦争という人為的な行為が元で多くの財産が失われ一時的な貧困に陥ったと見ても支障はありません。それでは一体慢性的貧困というのはどのような状況なのでしょうか?最近日本で話題になっているワーキングプアーも慢性的貧困の一つかもしれません。

南アジア諸国ではこの慢性的貧困が蔓延しているようで、政府やNGOそして国連などが数々の努力をしているにも関わらず、改善は遅々として進んでいないのが現状です。さてどのような理由で慢性的貧困が減少しないのでしょうか?

別な観点からすると、貧困には経済的貧困と精神的貧困に分けて考えることも出来ます。インドの下層階級が経済的貧困にあえぐ反面、我々は精神的貧困に悩まされているのかも知れません。

さて、貧困はなぜ発生するのでしょうか?日本や韓国そして台湾或いはシンガポールなどでは貧困層の存在は極めて低く、皆無に近い状況になりました。タイなどでも貧困層は次第に減少しているのが過去の訪問でも明らかです。

しかし南アジアにおいてはインドを中心にして貧困層の撲滅を図ろうとしていますが、なかなか容易に事は進みません。貧困は別な表現をすると社会的弱者、経済的弱者と解釈する場合もあります。

バングラのラカイン族やチャクマ族などは国内の少数派としてレッテルを張られ社会への進出に抑制がかかっているのは間違いないでしょう。イスラム教徒が8割以上を占めるバングラデシュにおいてヒンズー教徒は15%程度を占めますが、宗教としての少数派に加えて宗教内部でのカースト制度があり、特定の集団においては二重の差別を受ける人々もいることでしょう。

スリランカにおけるタミル人の独立国家設立の動きは、こういった少数派が多数派に対しての反動と読み取れるでしょう。もしスリランカがシンガポールのように全体的に所得が向上しているならば、こういった抗争は必要ないのかもしれません。少数派が貧困を原因として抵抗している部分も見受けます。

インドやネパールの場合、貧困層の多くは低カーストに位置される人々でしょう。中には稀に高カーストでも貧困に陥るケースもありますが、これは現代の経済第一主義の観点からして従来の特権を巧みに操ることの出来なかった人々が中心かと思います。真に貧困対策を為すならば、人への差別(法的には平等となっているが・・・、現実社会では最近徐々に改善されつつある)がなくならない限り効果は上がらないでしょう。下層カーストの人々や、抑圧された人々が通常の生活を営むには我々の知らない部分で多大な犠牲を払って生活しているように思います。

これには二種類あるようで、一つ、これらを運命として委ねている人々にとっては苦痛でも何でもなく単なる日常にしか過ぎません。その代わり永遠に貧困と共に生涯を終えることになるでしょう。現代社会においては一つの国内部で生活を維持することはほぼ不可能です。

更なる一つのグループ(西洋的価値観を持ち始め生活の向上を狙う人々)は多大なる犠牲を払って生活しているのではないでしょうか?インドやネパールの人々にとってこれは奇異なことではなく、日常生活そのものですからこれらの事を重要な課題として考える余地はありません。

教育支援は、また教育を通して社会の発展を願うとしても、教育を受けた子供達の一部が現実の社会に参入した場合、どこかで行き場を失ったり、道を閉ざされたりしてしまう場合も想定できるでしょう。上位カーストのカテゴリーはこの部分で悩む必要は全くありません。彼らの理想とするままに職を得ることは比較的容易でしょう。差別化社会では教育という社会全体の富が有効に生かされないという部分を感じてしまいます。しかし差別化の少ない社会(日本など)では教育という富が有効に社会に還元され続けたのではないでしょうか?

11.最後に

簡単ですが、カルカッタ郊外にあるラカイン僧院を機軸とした物語が出来ました。前半では僧院そのものに関して。後半にはそれに関連したNGOのあり方などに触れることになりました。まだまだ不勉強ですが、私の経験した事柄を色々と組み合わせて話を進めました。今後のNGO活動の参考になれば幸いです。

平成18年12月23日

南インドマハバリプラムにて

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