インド亜大陸放浪記NO.2 インド

インド亜大陸放浪記NO.2 インド

概要

この日記は1984年前後のインドの風景を描いたものです。今から30年前は、電子メールやFBなどがなく、記録は、手書きの郵送しかありません。私が旅先から送付した資料は、金子昌彦氏の手によって、インド亜大陸放浪記として出版されました。手書きの書籍を活字化しウェブ上での再現を行っています。本編はスリランカ、インド、バングラデシュ、パキスタンの四篇からなっています。

 

 

 

 

 

 

目次

1.インドへの船旅… 2

2.インドを歩く日本人… 3

3.日本人いろいろ… 4

  1. マドライ… 5
  2. インドの話あれこれ(ボンベイ行) 1984.3.19受信分… 5

6.ボンベイ、人の波… 6

  1. 列車でスーラットへ… 7
  2. ファズルの物語… 8
  3. インドに消費ブームが登場… 10

10.グジャラートの甘い食事… 11

  1. 建築―――インドと日本… 12
  2. 南インドの友人たち… 13

13.未知への出立… 13

14.ガンジー誕生の地… 14

15.男だらけの喫茶店… 15

16.ブーム… 16

17.旅事情… 16

18.インド西東… 17

19.再び、インドの友人たち… 18

20.カンナン君病臥… 18

21.断片事情… 19

22.Diu島について… 20

23.神経痛と友人との対面… 21

24.マハバリプラムの人々… 23

25.自称ビジネスマンのKurinjirajanの話… 24

26.自称ビジネスマンの商品… 25

27.村祭り… 26

28.旅のポイント… 27

29.猛暑と酷暑… 27

30.バス・ターミナル… 28

31.カジュラホの三つのレストラン… 28

32.バラナシ(ベナレス)にて… 30

33.インドでの疑問… 31

34.久方にブタ肉を食べる… 31

35.インドでいろいろ… 31

36.India再考… 33

37.砂漠の中の街ジャイサルメール… 34

38.インド映画の勧め… 36

 

 

1.インドへの船旅

スリランカからインドへ渡る航路の切符は、接続する列車出発の5日前からコロンボ駅構内(Tourist Counter cum Railway Information Center)で求めることが出来ます。規則では25名の割り当てしかないのですが、何故か実際は60名の外人が乗車、乗船します。コロンボ発夕方の6時50分の列車に乗ることになります。当日切符を求めた日本人が二人いましたぞ・・・。料金は全部で341ルピー。2等自由席はちょっと混雑します。一人10ルピーで座席取りのダフ屋も登場。

12月20日  PM6:30 列車がホームに到着。プラットフォーム⑦番。

PM7:05  コロンボ・フォート駅出発、予定より15分遅れる。

PM7:30  マシンガンを持った兵士が五名巡回に来る。05

PM8:00頃 乗車券拝見ということで鉄道職員が来る。

その後数度にわたって鉄道公安官と兵士が巡回

12月21日 AM 0:05  アヌラダプラ到着

AM 0:45  アヌラダプラ出発

AM3:40  タライマンナール桟橋到着

ここで暫く休憩する。カンテーン(カフェテリア)は外人の溜まり場となる。銀行は6:00過ぎにオープンで使い残りのスリランカ・ルピーを交換する。

留意したいのは、再交換の場合、例えば1ドル25ルピーとして320ドル余っていたら、これを全部出して一度に両替を頼むと何故か20ルピー分が消えてしまい、12ドルしか手にはいりません。前もって計算し300ルピーを12ドルに交換して残りの20ルピーを再度交換するのがコツです。これで被害にあう人が多いようです。特に日本の人々は!

6:30 出国手続きが始まる。外人優先で、沢山のスリランカ人、インド人の列をスイスイと追い抜いて優先乗船。やはり荷物は軽いのが良いのであります。

7:00 (出国税関手続きは陸上で、出国管理は船上で)

これで全て終了、後は時間待ち。この間ゆっくりと仮眠するべし。

11:00 出港

所要時間三時間。Upper Classの喫茶店も雰囲気良し。Lower Classの飯(Meals)は3.75ルピーで11時頃より食べることが出来ます。支払いはインドルピーもしくは少額のドル札(1$=10.55IRs)

PM2:00  ラメッシュワラム(インド)到着

下船の際Upper Deck(上部甲板)の進行方向に向かって右側のロープを張ったところからはしけに乗ることになる。これもまず外人が優先。この時先に並んでいれば、入国手続きの際待つ時間を短縮できる。小生は外人部隊の終わりのほうだったので、入国手続きが終わるまで40-50分待つことになった。

外人用入国審査窓口でパスポートと入国カードを預けると20-30分後に名前が呼ばれるのです。入国カードを挟んだパスポートを目立つように高く差し上げていると、誰かがそれを引き取って、奥の偉いオッサンの所まで運んでくれるのです。それで暫く待つことになります。税関の人は、今回は意外と丁寧に検査してくれます。終わったらチョークでピーと終わった印をバッグに書き込みをして終了です。そして銀行へ

PM 3:10 無事終了です。最後に6インドルピーを港湾税として支払って終了となります。

建物の外に出ますと、例によってワイワイ・ガヤガヤと喧騒が響きます。外の闇両替屋のレートは100スリランカ・ルピーが35-38インドルピーでいた。

PM 4:00マドラス行きの列車が出発

小生は、この列車でラマナダプラム(Ramanathpuram)まで。そこで下車してバスに乗り換えてマドゥライに向かいました。

Rameshwarm ————- Ramanathpuram————Madurai

55km 1 1/4h                    100km 3h

2.インドを歩く日本人

最近、日本人旅行者に接する機会が多くなりました。その事柄に関係して感じますことを、少しばかり書いてみようと思います。殆の人に共通することは、日本語は十分理解出来るが、英語は極めて苦手(小生も似たりよったり)。勿論現地語も差パリ。まあインド社会に来て間もない人々には無理駆らぬことかもしれませぬが。現地語に関しては、数か月後には、ある程度の用が足せるのが一般的かと思いますが・・・。郷に入っては郷に従えとやらで、皆さんはドラッグ(大麻吸引)の方向に努力を傾注されているようであります。勿論言葉が全てというのではありませぬ。言葉が出来なくても、ユーモアのセンスを持って上手に旅を楽しんでいる人々も数多くいる次第です。この両者を持ち合わせない人々は、一種の硬直状態を抱えたままの旅に陥りやすいようです。

インドで生じる出来事を否定してから解釈するか、肯定した上で考えるか、或いは、どちらでもないのかも?得てして南アジア社会の悪評を論ずる時は全員の目が輝き、生色を帯びてきます。今後も、この傾向は強まるでしょうが、そんな旅はもう、終わりにしたいものです。「インドを歩く本」を指して、「インドをダマす本」と文字っています。そんなに悪口を言う人が、なぜまだインドを旅しているのだろうか?

ある人々は申します。団体客が金を沢山払いすぎるから、インド人は俺たちを見ると「タカってくるし、吹っかけてくる」と、あたかも責任を団体旅行客の仕業のようにすり替えてしまいがちです。それでは、一体そう叫ぶ人々はどれだけ、南アジア社会のことを理解しているのでしょうか?単に、長期かつ安宿にインドで過ごしただけで、他を非難する資格はあるのだろうか?インド人を蔑視する事が出来る賢人集団なのであろうか?

概して、こうした日本人の動きを観察すると、日本人コロニーに於いては、仲間どうし打ち明けて、陽気に過ごすと共に、現地の人々に対しては威圧的な態度をとりがちです。その反面、単独では陰性になりがちで、何となく満たされない感情を持つという傾向が見られます。それで持って、日本へ帰国すると偉大なインド帰りとし英雄視されてしまいます。そうなると、またインドを再訪しなければなりません。今一度、「どのようにして旅をするか、どのようにしてインドを歩くか」本当の旅の在り方を考えなければなりません。インドを歩く本をバイブル視した旅、そしてその内容を受け売りすることは、もう結構です。旅の原点をもう一度振り返ってみたいものです。

単純な例に置き換えてみるならば、九州の人が北海道を旅している道中に、大声で「悪い場所、面白くないなぁ」と大声で非難するでしょうか?情報過多、情報過大となる時代です。色メガネをしたままでのインド旅行は、遠慮したいものです。ボラれたり、吹っかけられたりの旅は、それを怒りとして感ずるか、ゲームとして感ずるか・・・。当初は誰でも怒りがちですが、慣れると何でもなくなるのです。回教社会の商売は親戚縁者と友人と一般客とで価格差が生じることが律法に定めてあるそうです。

旅を続ける中で、少しずつ様々な事を体験し、身につけていくことは、広い視野を養うことにつながります。それが真の相互理解への道につながるものと思います。

3.日本人いろいろ

A氏:下船後、入国カウンターで見かけた中年(35-45歳)。重い荷物を背負って、疲れた感じ。声をかけたが、無口で反応なし。干渉すべきかどうか迷ってします。

B君:スリランカで出会って、10日間ほど同じ宿に滞在した。いつも不平、不満をブーブー言う27歳の日本人。彼の話は最もらしく聞こえますが、内容を深く突き進むと、考え方は可成り浅薄。

C君・D嬢:学生で二人ともスパスパのタバコ好き。日本を4日前に出て、スリランカ滞在の3日間滞在後、この船でインドに渡る。「ラメッシュワラムで一泊ゆっくりと」と船上で話していたけど・・・。クタクタになりながらも、B君と一緒にマドラス行きの列車に乗り込む。

E氏:30歳前後。インドの初旅で、日本を出発して数か月。10時PMの列車に乗ってインド最南端に向かう予定が、何故か、B-E4人と一緒の行動。南インドはバスが便利と説明しても受け付けず、列車の時刻表とにらめっこしている。

F君:そして小生は、誰にもインドの旅のノウハウを説明するチャンスも持てず、疎外感に浸りきり。全員強気の旅で、皆で渡れば赤信号は怖くないという他の人々から離れて、持ち金1.5ルピーとタバコが売れることを祈って・・・。―両替が出来なかった―。別の車両で隣街へ。Make Money then Move. (お金を作ってから移動)になった次第です。

4.マドライ

1月末のマドライの陽射しは、とても強いのです。ちょっとカラリとした感も致します。朝夕は過ごしやすいのであります。マドライを見ていると、印度的だなぁと感じます。特にスリランカから来ると、尚その感じが強くなります。いつもお世話になるガネッシュ・メスなる食堂では、食事の際は、何と11人ものスタッフに面倒を見てもらうことになるのです。水を運んで持ってくる係、お皿代用のバナナの葉を配る専門家!ご飯(ライス)を給仕する係、副食を並べていく係、バケツに入れたカレー汁をかける役割の人、食事後のテーブルを掃除する係など、完璧な分業体制です。日本とは全く異なったシステムですから戸惑うことでしょう。開店そうそうに行くと、総勢10人のスタッフに見守られて食事をすることになりかねません。客の数よりも、従業員の数が多いこともしばしば!街の賑わいは、スリランカのコロンボやカンディの比ではありません。

・八百屋には総合野菜販売業は少なく、玉葱専門店、芋類専門店などと、これも分業の度合いが深いものと感じました。

・郵便局の近くに、封筒や関連した必需品が売られているものと思っていたけど、なかったのが残念。

・いんどの船会社、出入国事務所・銀行では、矢鱈と人が多いのに気が付く。よく見ると書類をあっちへ持っていったり、こっちへ持って来たりする係(ペオン=英国方式)がいます。私たちには風変りに見えますが、当人達は休む間もなく一生懸命ですから、努力は買いましょう。現地のシステムに順応することが大切です。

・マドライより、トリチィのバスは3時間。160キロの道を10ルピーの料金で走るのであります。日本に比べると馬鹿安です。図体の大きいアショカ・レイランド社の車体が、ドコドコと唸りながら走ります。その点スリランカを走る日本製のミニバスは、何と言ってもこまわりが効くようで、まるでコマネズミのようにくるくる走ります。比較すると、さしずめ象車と猫車の違いなり。道中、緑豊かなのに驚きます。4月以降のTamil Nadu州はカラカラ天気で褐色の世界に近いのに、今は緑の絨毯です。しかし、同じ南インドでも西側にあるケララ州や、スリランカ南西部のように、鬱蒼として森林やジャングルがないことに気が付きます。丘には、うっすらと低木が茂っているにしか過ぎません。しかし訪問する季節によって、こうも違うものかと印象づけられます。

・先日のラメッシュワラム到着時の話に戻ります。ある日本人旅行者が、「Change Money・・・と言っているから、スリランカ・ルピーをインドルピーに交換できるさ。」と丁寧に別の旅行者に自信を持って説明しています。私が現地語でレートを確かめてみると、100スリランカ・ルピーは35-38インドルピーでした。現実に交換した経験者は、信頼ある情報の持主なはず何ですが・・・。

5.インドの話あれこれ(ボンベイ行) 1984.3.19受信分

マドラス発13:55のボンベイ・メイル(夜間急行)は、ほぼ定刻に満席で発車しました。馴染み不快タミル・ナド州から離れるのが、少々悲しい感じです。列車内は殆どが南インド人で、とても温厚なる空気です。乗客の多くはルンギ(男性用腰巻)に着替えをし、列車内でくつろいでいます。

インドの列車は遅れるのが当たり前という言葉をよそに、帝国の9時数分過ぎにボンベイに到着しました。早速以前投宿したPopular Lodge(ポピュラー・ロッジ)に宿をとりました。翌日は政府観光案内所、東京銀行そしてエジプト航空の3か所で終え、予定の2泊を1泊に切り替えて、このGreat Bombayを脱出です。ボンベイを夕方5時の急行自由席で264キロ北に位置するスーラット(Surat)に到着したのが夜の10時ですから約5時間の旅です。

こうして思うに、矢張りボンベイとマドラスはその顔つきや空気が違ってきたようです。インドで最もインドらしい、印度的だなぁと私が感ずる土地は、どうもタミール・ナド州に集中されているように気がします。と申しますのは、南インドは極端に物価が安いのでして、もし、このタミル州がお金持ちで裕福になったらボンベイ同様インドではなくなるともいえましょう。格別に金持ちを否定したり、貧乏人を肯定したりするのではなく、一つの観点として、捉え方としての比較です。

タミール・ナド州のトリチラパッリで宿泊した宿のルームボーイ達は、一カ月約60ルピーんお手取りと年に二着の新しい制服が支給されます。それでも彼等は何となく楽しそうに、はしゃぎながら毎日を暮らしています。私自身も、彼等と共に、映画の話や村の話を聞いきながら気楽な日々を過ごしています。

それが、こちら(ボンベイ)に来ると、60ルピーはアッと言う間になくなってしまうのです。日本の品物、日本の性格にボーイ達は首を傾げながら聞いてくれました。もし、彼等がそんなは話に興味を示さないとすれば、もうインド人ではなくなるでしょう。すなわち比較すると次のような印象になります。

「貧しいから、貴方(お金持ち)と語る」 スリランカ

「楽しいから、貴方と語る」 南インド(タミール・ナド)

「関係ないから、貴方と語らない」 ボンベイ

6.ボンベイ、人の波

2月上旬のボンベイ市内は、空は澄んでいても、朝晩の冷え込みはかなり厳しく、どうしてもブランケット(毛布)が欲しい土地柄です。半袖シャツとルンギのみでは凍え死ぬ?ようにおもいます。ここで、改めて南国、スラランカや南インドの良さを知ることになるのです。ちょっと努力すれば、国力が豊かになるようでう。と言っても、何があれば、豊になるのでしょうか?スリランカは最近物質的に富んできました。タミール・ナド州は精神的に富んだ土地柄と見受けます。この両者―物質と精神を平行して進ませるのは、かなり困難でありまするぞ。

どうもボンベイは、日を追ってインドらしさから離れていくようです。ここは大都会も大都会。もう人口過剰で、都市の機能はその容量をはるかにオーバーしたような感じがしてならないのです。V.T(ビクトリア・ターミナル)駅とその周辺は、いつも人、人、人の大群が、延々と続いております。そしてタクシーの波。一体これが人間の生活なのでそうか?これを持って豊になったと思うと、ゾォーとするものがあります。

東京や大阪と何ら変わるところがありません。しかし、その相違はボンベイには沢山のスラムがあるということだろうか?巨大化するインドの象徴を、ボンベイにみることが出来ます。或いは数百年後の地球像かもしれません。幾つもの階層の人々が上下支えることもなく、相互扶助の精神がなおざりになって日々の生活を送っているという状況は、現在の国家間同志の関係にも似ています。自国の発展のみを願う、自分達の利益のみを追求する社会と似ていませんか?

南北問題が話題になっていますが、それは国家間の問題だけではなく、ボンベイという巨大都市の内部にも生じています。

不公平なる表現かもしれませんが、マドライの人がお金持ちになったら私のインドの旅も終わるかもしれません。だけど、スリランカが一つのヒントを与えてくれているかもしれません。あれだけ商品が出回り、購買力が高くなり生活水準が高くなっても、一日5ドルで十分なる旅ができるのは、何故でしょうか?南インドもそうなりますように。

価格一覧 シングル個室共同シャワーの場合

ボンベイ 50ルピー

スーラット35ルピー

マドラス 20ルピー

マドライ  8ルピー

1984年12月の宿泊料金

乗り物の関係は、ボンベイではタクシー、スーラットではオートリキシャそしてマドライでは人力車

7.列車でスーラットへ

ボンベイの宿で新しく購入したルンギ(腰巻)に火が付きまして、一部穴が開きました。35ルピーもしたのに・・・。原因は蚊取り線香の火で、直径3センチの穴が3つも・・・。悲しみ一杯なのです。

北インドでは庶民の飲み物Teaの値段が何となく高いのです。列車内でのコーヒーの価格は南から遠くなるに従い徐々に高くなり、ボンベイではマドラスの丁度倍の価格です。その反面清涼飲料水(リムカという柑橘系の炭酸入りドリンクやカンパ・コーラ=インド伴コカ・コーラ)は大きな値上がりを感じません。これはスリランカでも同様で、工場で大量生産される瓶入り飲料の価格は相対的に低下しています。「インドでチャイ(通常飲まれるミルク入りの甘い紅茶)を飲んだ」という事が語り草になるのも、時の問題かもしれません。

チャイ(Milk Tea)の価格が50パイサ(0.5ルピー)の時リムカは2ルピーで4倍の開きが、その後、チャイが1ルピーの時は、リムカが2.25ルピーでその差は2倍ちょっとで追い上げています。

今年は天候不順で南インド特産のココナツが不作で、関連する商品は高騰し異常価格です。

ボンベイよりスーラットに向かう列車は時間がなく、予約を取らずに自由席に乗車しました。一般的に、外人が大混雑する普通自由席に乗るのは至難の技を要します。まあ今回は何とか座ることが出来ましたが・・・。とにかく大変でござりました。一応列を作って並んで整列乗車なのですが、割り込み禁止で、これをやらかすとワァーワァーと非難の声が沸き上がります。いざ列車が入線すると乗車口では押し合いへし合いが続きます。全員が座れるかなぁと不審に思う、でも今回は全員着席できたような気配です。

闇の席取りポーターが、5ルピーで保証するとの事。小生4-5時間の旅で半ば立ち席を覚悟の思いで列に加わりましたが、不思議と座ることが出来ました。万歳!おめでとう。

ここでは多くの人が洋服姿。中にはジャンパー、ジーンズそしてセーターといういで立ちで決め込んでいます。その光景は南インドのバスや列車の香りとは大きく異なっていました。何となく異国にきたのだなぁと感じてなりません。

通常の外人旅行者としてのムードにかける小生は、得をすることもあれば、そうでないこともあります。これからしばらくグジャラート(Gujarat)州の旅が始まるのです。

久しぶりにヒンディー映画を見ました。役者はアミダバッチェンなれと、さしずめ彼がインド西部の映画界の横綱とすれば、東の横綱はカマラハースンといったところでしょうか!私の好みは勿論タミルアクター(タミル州の俳優)のカマラハースン(Kamala Hassan)ですぞ。映画の切符は7ルピーでしたが、記載事項を見ると、半分以上の4.3ルピーが税金です。都市部での映画館の年間売り上げは250万ルピーとか、その中で電気代が33万ルピー払っていると記事がありました。

8.ファズルの物語

自称ビジネスマンなる彼は、その名が示すように、回教徒なのです。全部で5人兄弟、姉妹の中で下から二番目なのです。彼と知り合ってから、もう三年程になるでしょう。典型的な、タミル・モスリムと言えるでしょう。貧しいながらも、楽しい日々を送っています。生まれた土地は、一寸した南インドの観光地マハバリプラムから80キロほど離れた寒村ですが、幼い頃、家族全部でここマハバリプラムに引っこしたそうです。

しかし、最近不景気と見えて、金回りが余り良くないようです。しかし、何故か良くTeaをご馳走になります。或る時、街で彼のお父さんに出逢いまして「どうして私の家にこないのかね?」と問われました。それが契機で彼の家に宿泊するという機会を得た次第です。家は至って簡素そのもの。それでも床は全面コンクリートが打ち込んであり、外見程には住み心地は、悪くありません。

彼は17歳ぐらいでしょうか?真面目で活気に満ちた善良人間と見受けました。彼が言うには、「行水(沐浴)は裏に大きなスイミングプールまがいのがあるから」と自慢した、その池で朝は歯を磨いて顔を洗う事態になりました。軟水ですから、少量の石鹸で勢いよく泡立ちます。ちょっと泥臭い水ですが、慣れると快適です。朝起きると、古びたものなれど、ちゃんと歯磨きと歯ブラシを準備してくれたのが、憎いと申しますか、有難いと申しますか!

そして、「朝は紙使うのかい、それとも水なのかい」と尋ねてから、やおらロールペーパーを家の片隅から持ってきたのには、意外です。こうして色々と気を遣ってくれます。前日の夜9時頃訪問したら、父とおじさん、そして本人と4人の弟が誠に仲良くある種のゲームをしていました。元気そうに、父親と話しをしながら・・・。勿論子供たちがはるかに上手です。父親はどうも不得手なれども、それも気にすることもなく、子供たちも父親を褒めたり、けなしたり・・・。そんな光景は、今の日本では一寸見出すことが難しくなってきたようです。ゆらゆらする油松明の下で、和やかに時が過ぎていきました。

およそ1時間後に、夕食が供されました。ご飯と魚のカレーそして野菜カレーに水がついています。それを頂いてから、ようやくお休みの時間です。ベッドメーキングはいとも簡単なもので、ゴザを一枚敷いて、布切れ一枚そして枕をポンとおいて出来上がり。布切れは実は蚊よけを兼ねているので、すっぽり全身頭までかぶって用いることになりました。準備したキンチョー(金鳥)の蚊取り線香は思ったほど効果はありません。良く見ると通風が良すぎるようです。この家にはドア(戸)というものが残念ながら見当たりません。寝る際には、家の入口に戸板を一枚立て替えておしまいです。「アレェー」と愕きです。でも、楽しいものでもありまする。

それでも、この家にはナンバーのついたスクーターが一台、居間兼食堂に鎮座していました。自転車は二台あります。少しばかりの食器類、そして旧式なれど、折り畳み式の安楽椅子があります。ちょっと便利そうなものが、何となく、ポロン、ポロンといった感じであちこちにあります。

家は村のはずれにあります。20mほど裏手には近所の人が共同で洗濯、水浴する池がありまして、中央部は結構深く、私の背が経ちません。魚も泳いて、人間も泳いでという場所です。次男のジャマルディーンは初めて会うのですが、ちょっと温和そうで、時々本を読んでいる姿を見かけます。

閑話休題

  • ファズルのお父さんは、これという定職はないけど、人に頼まれた時に羊を解体するそうです。
  • お母さんも、お人好しで私を街で見かけると「家へ来なさいよ」と誘ってくれます。
  • 長男のアリは、以前ボンベイで2年ほど仕事をしていたらしいが、これを辞めて帰ってきました。両親は息子が遠くで働くのを嫌がっていました。
  • 次男のジャマルディーンは、マドラスで仕事をしていたけれど、最近は近くでロシア人観光客を相手に土産物を販売しています。無口なれど、感じは良い。
  • 陽気なファズルですが、ブラフマン(インドのカースト制度の中で最上位=僧侶の位)出身の写真屋の息子ベンカテーサンと語る時は、ちょっとウツロになり陽気さに欠けてしまいます。身分差、学歴差などいろいろと障害になっているようです。

さて、或る日、ファズルと映画を見にいこうという約束をしました。初めは二人だけで行く予定でしたが、マドラス在住の姪が遊びに来ていました。ファズルは「マドラスから来ている姪は、毎日退屈だろう。映画にでも誘えば、喜ぶだろう。でもどうやって連れ出そうかなぁ!映画代の事は心配がないけど、お父さんは外出の許可をくれないだろうなぁ。俺達モスリムで、女の子の外出を嫌うのだから。弟のアハメッドと姪は気が合うようだから・・・。そうだ、そうだHOSHIBAとなら父さんも文句は言わないだろう」と計画が脳裏に浮かんだようです。

ちなみに、私がその姪に「ファズルと一緒に映画に行こう」と声をかけると「いや、行かない、私は此処にいる」と激しく拒否。それでは、「弟のアハメッドを連れていくから」というと、半泣きになってまで拒んでいたのが、あれまあ、大変身、にこにこしながら「行くよぉ」と返事が出てきました。

そして、勇んで出発。全員バスに乗って30キロほど離れた隣町へ出張の映画鑑賞会です。今日の映画は「Tungadee-Tambi-Tungadee」なるカマラハースン主演の人気映画です。でもかなりの銭がいるようです。結果的には、私が半分負担することになりました。彼には全くそんな積りはなかったようです。当初は全部彼が用意する気持ちだったのですが・・・。

私としては、20ルピー(450円)ほどで皆と楽しい一時を過ごせたことは、その10倍もの値打ちがあります。「ほらほら、バスが来た。ああこっち、こっち、この席取ったんだから早く、早く」などワイワイ大騒ぎの連続でした。ファズルはちょっとばかり気取って年長らしくオジサンのごとく、姪に気を配っていました。ちょっと貫禄があるようで、ないようで・・・。

さて、今まで私が訪れて宿泊した各地の田舎暮らしの友人宅のリストは!

  1. スリランカのアヌラダプラ郊外
  2. バングラデッシュのチッタゴン郊外
  3. パキスタンのタッタ郊外
  4. 南インドのマハバリプラム

異なった土地で異文化体験の旅を楽しんでいます。

 

9.インドに消費ブームが登場

  • テレビ所有者数
1965年500台
1980年1,100,000台
1984年3,000,000台
1986年10,000,000台予想」
  • テレビの生産台数
1975年97000台
1977年239,000台
1979年311,000台
1981年435,000台
1982年570,000台
  • 冷蔵庫の生産台数

1961年 11,000台

1966年 31,000台

1971年 87,000台

1976年150,000台

1981年290,000台

  • モーターサイクルの生産台数

1965年      45,000台

1970年     101,000台

1975年     172,000台

1980年     310,000台

1985年(目標)1,000,000台

  • 消費者の購買力の伸び 一人当たり10-20%
  • 経済成長率 5%
  • インドの都市部の人口は6億人、人口10万人以上の都市が150ある。
  • ボンベイの会社での最低給料は1200から1500ルピー
  • 1960年、総数575,000の村の中で22,000の村に電気が来ている。これが現在は300,000の村に電気がくるようになった。そして道路事情も良くなった。
  • 自転車生産台数は500万台で中国に次いで世界第二位
  • インドで先進州というのは、グジャラート州、マハラ・シュトラ州そしてタミール・ナド州なり。
  • 12インチの白黒テレビは1,200ルピー。VTR(ビデオレコーダー)は1,300ルピー。カラー写真は一枚5ルピー(半年前は6ルピーだった)
  • 1977年に電気ミキサーが500ルピーで、一カ月に一台販売するのが難しかったけど、今は1300ルピーでも一カ月で15台は売れる―――電気店より
  • Tourism is everyone’s business. 観光産業で潤いを!

上記は「India Today」の記事より抜粋

10.グジャラートの甘い食事

さて、印度の雑誌からの拾い書きはちょいと中断しまして、現在訪れている処は、ボンベイの北方550Kmのアハメダバッドです。とても寒く、毛布にすっぽりと包まれて、ペンを運んでいるのです。寒波襲来とは、これの事。今回の動向を大まかに期すると左図のようになります。早く暖かい土地へ行きたいものです。物価高と寒波のインドを這いながら旅を続けることになりそうです。早く暖かい土地へ、心の故郷タミール・ナドに戻りたい気持ちになりますが、これはガマン、ガマン。2月24日早朝のHowrah Express(ハウラー・イクスプレスでカルカッタ行急行列車)の予約が取れました。

グジャラートの食事、すなわちVegetarian Meals(菜食主義者用定食)は、どうも甘味が強いと感じます。それは、まるで、ご飯に砂糖やジュース、いやシロップをぶっ掛け風カレーです。インドの定食は地域によって異なります。ここでは、メインがプーリー(Puri=油で揚げた丸形の薄いパン)8枚と、ライスが一口分(1/4皿)。ボンベイでは、プーリーが4枚とハーフプレート(1/2皿)の組み合わせです。タミール・ナドではプーリーはなく、全部ライスです。

さて、ボンベイ、スーラット、アハメダバッドの人々は、何故かスプーンで食事をします。マサラ・ドーサ(南インド特有のクレープ)を食べる際にも、スプーンの人が圧倒的に多い。南インドでは、手でシャンボール(つけ汁の一種)やチャツネ(ココナッツを主体としたペースト)を本体のドーサに付けながら食べるのですが、ここでは、スプーンを使って別々に口に運んでいるのです。かけ汁を小さなスプーンですすりがなら、ドーサはドーサで口に運んでいます。こうなると、インド人の食べ方というよりも、東京や大阪のインド茶屋の光景になってくるのです。

食堂が容易に見つからないのもここアハメダバッドの特色で、日本に似ています。通常、駅前(バスや列車)には何軒もの屋台や食堂が並ぶはずなのに、ここでは見当たりません。見かけるのは繊維関係の商店ばかりです。他の都市に比べると食べ物屋の数が極めて少ないように見受けます。結局、食事は駅構内になる食堂に通わねばなるまい。その反面やたらとTeaの屋台が多く、酒屋は一軒たりともありません。グジャラート州は禁酒法が敷かれています。止む無く、人々は菓子屋で代用か?でも甘いもので酔えるのだろうか?そう申せば、“恋は甘きもの”也。それに酔うのが人間の性とすれば、共通性もあり。でも一寸違うんだよねぇ!

11.建築―――インドと日本

インドと世界、インドと日本はどう違うのだろうか?そのヒントとして建築(Construction & Buildings)についてちょっとばかし思うことがあります。

最近インドでも、近代的な目新しい洋風ビル、高層ビルが、あちこちにマッシュルームのように立ち並びます。出来上がりを外から眺めるとインドのビルも日本のビルもほとんど変わりません。

しかし、建築中の現場を比較すると、インドは竹又は木製のグラグラした足場を組んでいます。日本は鉄製のガッシリした足場を用意して作業をします。このあたりが違うのです。“人力”対“機械力”、“ゆっくり”対“早く”の開きがあります。インド社会は豊富な低賃金を駆使しているとすれば、誰かが大儲けをしているはずです。

バナナは庶民の大事な食べ物なり、貧乏人のエサなりを感ずる。この街で定食の料金とバナナ30本の値段が同じとすれば、私もバナナ好きにならざるを得ません。

空気は乾燥、衣類はすぐに埃まみれで白っぽくなる。喉も変になりそうで、うがい薬のVicksが手放せない。この地区では、Teaの価格が1ルピー。何故かカップに満タンで受け皿にこぼれています。日本で焼酎を飲むときの、あの感じで出てくるのです。南インドでは、ここの半分の価格(50パイサ)で手に入ります。

この街では、女性の苦力(荷車引き)の姿を多く見かけます。夫婦組もいます。

12.南インドの友人たち

話を元に戻しまして、南インドの友人あれこれを・・・

自称ビジネスマンのファズル少年の物語は終わっています。さて、彼等のグループなるジョンソンの実家は南インド最南端のカンニャクマリでマドライの南760キロに位置しています。話を聞くと学校を中退した後、4年間家とは音信不通で姿をくらましてしまいました。4年後にいくばくかの稼ぎを手にして久方の里帰り、現在は友人と二人で一カ月150ルピーのアパート(1DK)暮らしをしています。そんなところへ、無職の兄が遠方よりやってきて居候しながら職探しをしています。兄のスワミダースも、本人もクリスチャンです。どちらかというと典型的なドラビダ系で肌は真っ黒です。或る時彼が

「ほら、黒いだろう!俺っちアフリカ人なんだろうかねぇ」と真面目な顔を語りかけてきました。「でも毛髪は縮れていないから、そんなに気にしなくても良いじゃん」どうも肌色美肌人間へのコンプレックスが強いようです。でも弟の方はそんな気配は全く見せず、いつも、きゃあきゃあワイワイと、冗談を交えながら賑やかな日々を送っています。

対象的にスワミダースは真面目人間なのでして、学業を終えて政府の奨学金で一年間船舶の機関科を卒業したばかりです。今は卒業試験の結果待ちをしています。卒業試験の結果が出るまで半年ほどかかるのがインドの実情です。在学中は一カ月125ルピーを支給され頑張ってきました。まあ、すぐに仕事が見つからないとおもうけど、船に乗れるようになったら日本へも行ってみたいなあと語っていました。

そんな彼にちょっとした仕事の口がかかりました。4キロほど離れた所に原子力発電所があり、そこの作業員の仕事があるそうな!一カ月240ルピーですから一日約10ルピーです。「今年のクリスマスは弟と一緒に家に帰りたい。でもその場合は1000ルピーほど必要だし、土産物も持参しなくちゃいけないし・・・」

240ルピーの給料でも、ここでは自炊すれば一日一人4ルピーで足りるからねぇ。一カ月120ルピーは残るはず。俺はタバコは吸わないし、酒も飲まないし、映画も好きではないから。お茶も少し控えると何とかやりくりできる」と勘定をしています。まあ信じがたい話ですが、彼は一生懸命なのです。彼には、彼の道があるようです。

電気製品修理専門店のマノハランはいつもにやにやしています。当の本人は修理の免許なしですが、おじさんのアルナ氏はラジオやテレビの技術者認定試験に合格しています。「日本に仕事ないですかねぇ。俺ラジを修理できるんだけど、給料一杯欲しいですなぁ。一日300ルピーでどうですかいのぉ」と冗談っぽく語っていました。

13.未知への出立

久々に見知らぬ街を漂いに出かけます。でも考えてみるとインドの旅は大変だなぁと思います。特に大都市(南部を除く)はどうも物価高と人口過多で息がつまりそうです。インドの物価はトルコを上回るのではないでしょうか?

人の多い事は大都市の交通機関が麻痺状態に陥ります。オートリキシャやバス、トラックなどがひしめき合い、その間を縫うように人気上昇中のスクーターが駆け抜ける隙をみつけての道路横断は、一大事でござります。

人々はとても忙しそうにしています。もう暇人間はいないようです。ややもすると、私たち旅人は、こうした大都市巡りでノイローゼ気味になります。そうなると、対症療法としてドラッグ類に手を染める旅人も多く出現し、それが輪をかけたように拡散していきます。言葉もわからず、システムもわからない中に放置されると安易な方向に走らざるを得ないようです。そういった人々を時々見かけることがあります。

さて大都市の喧騒、表情といってもインドはそれぞれ個性があるようです。人口が同じ規模のカルカッタとボンベイ、マドラスとアハメダバッドそしてバラナシとマドライというように、規模が同程度の街を比較してみるとやはり違いが歴然としてきます。北部と西部に行くほどその考え方が物質的になりがちなるようです。

さて、見知らぬ街の一つ、ガンジーの生誕地として有名な海辺の街ポルバンダールに出かけてみました。

14.ガンジー誕生の地

人口15万人ほどの小さな町ですが、昨年6月22日に大洪水があり、随所に「HFL.22.6.83」

と記載された表示を見かけます。(HFL-Heavy Flood Line)市内の目抜き通りでも1-1.5メーター付近にマークがしてあります。当時はさぞかし大変だった事でしょう。今は乾季の真っ最中ですから、ものすごく埃っぽく私の足の裏はカサカサになりインド人のようになりました。毎日、青空が広がり、雲を見かけることはありませんでした。

さて、インドの西側は日没が遅いのです。インドの東西は2000キロ以上あります。緯度が15度ずれると60分の時差が生じてきます。東のカルカッタと西のアハメダバッドでは2時間弱の時差となるのです。トルコやイランも東西に長い国で、それぞれの国は時刻が東西に関係なく統一されています。国によってはインドネシアのように、東部時間、中部時間そして西部時間とタイムゾーンを設定している国もあるのですが・・・。ここポルバンダールでは夜8時になってもまだ明るさがたっぷり残っています。

この街をよく見ると、緑の少ない事に気が付きます。同様な位置、西海岸の諸都市ボンベ―、トリバンドラム、カルワール、マンガロール等は急峻なガーツ山脈を背後に控えていますから、インド洋からの湿った空気が山脈にぶつかり多くの雨をもたらすのでしょう。この街は暑くて、パキスタンのカラチに似た気候を呈しています。バングラデッシュのチッタゴンの街は緑にあふれていたのに・・・。

まずは、この街ポルバンダールの主要な観光スポット訪問です。最初に訪れたBaharat Mandir(インド寺)には大理石でできたインドの地図がありました。インド百景なる絵は少女趣味満載ですが、それなりに合格点でしょう。地元の観光客に人気があるのは、変形ミラーでしょう。鏡に映る自分の長身、短身を眺めて大喜びをしていました。

次に出かけたのは、Tara Mahal(星の宮殿)ですが、それはプラネタリウムの事でした。入場料はわずか50パイサで、すごく単純なショーを展開していたのですが、村人を驚かせるには十分な道具となっているのです。貸し切りバスで押しかけるグジャラートの農協さんは賑やかで楽しそうなれど、その姿が印象的でした。すなわち男性は頭にターバンを巻き、先のとがった長細い靴を履き、股引とインドパジャマを纏い、チョッキとスカートの混ざったような上着を着ています。もう形容しがたい服装でござります。

女性の方も負けず劣らずで不気味な衣装を纏っています。サリーの形式は崩れ、スカートとチャドルの組み合わせで、ブーゲンビリアの赤色系のスカートとワンピース。その上に黒のスカーフ兼肩掛け兼尻隠しの役割をする大きな布で包みこまれているという感じでした。中高年のこのグループはとても楽しそうでした。

そうそう、プラネタリウムへは、殆ど最後の方に入場したにも拘わらず、愛想の良い従業員が私の為に席を用意してくれました。

15.男だらけの喫茶店

この街にはカフェテリアというか、Tea Shopなるものが何軒もありまして、店内で新聞が読めるようになっています。日本で言えば喫茶店です。一般的にインドの茶店は飲み終えたらさっさと席を離れるのが一般的ですが、この街では、そうではなく、粘れるのです。

皆さんと言っても、男ばっかりが目につきます。アラブ社会のチャイハナ(喫茶店)のようにのんびりと語ったり、新聞に目を通したらしています。アラブ社会のそれには、たばこの紫煙がもうもう、そしてトランプでの賭け事がついて回るのとも異なっています。どちらかと言うと日本の喫茶店に近い感じです。同様な形式のお店として有名なインディアン・コーヒーハウスは南インドのケララ州にチェーン店を構え、しっかりとした設備を誇り、軽食も提供しています。

浜辺に出かけてみると、インド各地に共通する大らかなる公衆便所の状態を呈し、自転車ではるばる用を足しに来る人もいるようで、人糞が転がっています。ぷーんと匂ってきましたぞ。しかし遠くを見つめると真っ青な海が広がっています。ここで用を足すのは、勿論男ばかりです。さて女性は一体何処で用を足すのでしょうか!不思議でなりません。

この地域では外人旅行者を見かけることもなく静かなものです。どうも小生はネパール人と思われている節があるようです。レストランの会計係は私を日本人とは信じようとしませんでした。しかし最終的に認めてもらったわけですが・・・。あまりにも外人が少ないので時々、子供達や大人からもじろじろと不思議そうな顔で眺められる事が良くあります。しかし、これは気にしていてもどうにもなりません。インド旅行の鉄則の一つは、人からじろじろ見られても平気で居れるという事なのです。

今回の旅は南インドに荷物を置いてきたので、重量は3-4キロ程度です。替えのズボンもなく、ルンギ(腰巻)二枚、Yシャツが三枚の軽装です。一番重いのがオリンパスの小さなカメラという事でしょうか。

しかし、数年後のインド旅行は、ヨーロッパ同様、自炊道具、キャンピング設備一式が必要になるのでしょうか?特に北インドはそんな感じで荷物が大量になりそうです。しかし、南インドは年中暑いから大丈夫です。寝るときは外にゴザを敷いて、ルンギ一枚でゆっくり安眠できますから!

今日は2月11日そうそう日本では建国記念日です。今日のインドの新聞の主要記事は

デリー郊外で列車事故46名死亡

ソ連の書記長アンドロボフ死去

パキスタン、アフガニスタンに直接介入か!

と記事がありました。

16.ブーム

  • 最近のインドの流行は・・・感じたことを列記しましょう。
  • インド製のポケットカメラ(Hot Shot)が大ヒット。カラー写真も比較的安く入手できるようになりました。
  • アイスクリームや清涼飲料水が沢山出回るようになりました。もう高級品でもなくなりました。
  • 100円ライターインド製が登場

17.旅事情

最近のインドの旅は難関苦行の連続です。バスの事故は日常茶飯事で列車事故も時々報道されています。どうも北インドと西インドは安心して旅ができないのではないかと危惧しています。人々の心がどんどん物質的なものに取りつかれるようになり、歪みが生じて来ていると感じる場面に良く遭遇します。

そんな中でも、ここグジャラート州は一風変わった土地柄で、絶対禁酒を守り続けでいるものですから、矢鱈と甘ったるい紅茶をすすって日々憂さ晴らしをしているかのように感じます。近年のタミール・ナドでは、どんな田舎に行っても酒屋があって、赤提灯(Arrack=ヤシ、米などを発酵させて製したお酒)のお店は、白地に赤く番号を振って看板が掲げられていますから、すぐわかります。それと対照的に、ここでは酔っ払いはいないのですが、何となくギスギスした、お堅い雰囲気を感じてなりません。この州は地理的な点から考えると、少量の雨しか降らない乾燥地帯で主要な作物は綿花です。日本へもインド綿として輸出されています。この綿花を中心にして繊維産業が発達した地域です。近年に至っては北に向かうとデリー、南に向かうとボンベイという地理上の影響を受け、次第に繊維産業以外の工業も発達しつつあります。この地域は菜食主義者が多く、非菜食主義のお店を探すのは一苦労しました。南インド特有のゴプラム(塔)形式の寺院は姿を消し、北インドのベナレスやデリーそしてオリッサ州にあるプーリーの形式に近い建築になっています。私としては、見慣れた南インドの塔形式の寺院を見るとほっとするのですが・・・。

南インドのバス網は完全、安全そして快適でした。バス停付近には必ず安くて安心して泊まれるロッジと飯屋がありシステムが整っています。しかしここでは、5キロ先にある寺院にいくのに一時間半もバスを待たされました。帰りは90秒の待ちでバスを拾うことが出来ましたが・・・。

先日、ポルバンダールからウェッラバルへバスで移動しましたが、運転手はいつも脇見運転をしつつ、2-3人の同僚を運転席の近くに座らせ話をしながらの運転です。これで良く事故が起きないものです。よく見ていると乗車拒否もしばしば、車掌と言い、運転手といい役人根性丸出しです。(バスの職員は政府系のバスの場合は公務員に該当する)。やはり、バスの旅は南インドに軍配が上がるのは必至です。おまけに、バスの到着に合わせて乗客が殺到し、大量の荷物を抱えてバスに乗り込もうとします。その反面、大きなバス停でもポーターや荷物持ちを見かけることは先ずありません。何がどうなっているものか、理解に苦しむことばかりです。南インドのバスは乗り口と降り口が前と後ろにあり、整然と流れを作り出していますが、この地域のバスは入口が一か所しかなく、押し合いへし合いを続けながらの乗降が繰り返されています。

南インドでの食事は平均3ルピーですが、この地域に来ると5ルピーが平均的な食事代金になっています。更に、ご当地の食事は脂っこく、南インドのようにサラリとしたカレー汁ではありません。野菜カレーの表面には油がギラギラ光っています。甘味も強く、こちらの食文化になじむには、かなりの時間を必要とします。南インドの食事(定食)と言えば炊き立ての熱々ご飯が主食で、お店によっては、ギー(インドのバター)をスプーンでたらりと垂らしてくれる場合があります。これが結構香りも良くて風味があって、ご飯が一層美味しくなるものです。パキスタンの食事のメインはローティ(小麦粉を平にして焼いたもの)が主食となり、これに野菜カレーやチキンカレーを付けて食べるのが習慣で、飽きる事もなく、何枚でも食べる事ができました。しかしここでは、ご飯にジュースをぶっ掛けて食べるような代物に変化していました。どうも体調が狂いそうです。そういえば、カシミール料理とかパンジャビ料理というのは良く耳にすることがありますがグジャラート料理という名前は聞いたことがありません。サラダと言っても、玉ねぎをスライスしたものに、お塩を振りかけたものにしか過ぎません。こうなると南インドの定食(ミールズ)に軍配が上がってしまうのも当然でしょう。

18.インド西東

ここグジャラート州は、少々ネパールと似た部分を持ち合わせているようです。この州でもダル・バットという言葉を耳にしました。ここでも、ネパールのそれに似たものが提供されています。ここがネパールよりも暖かい事を除けば、色々と類似した部分を多く見受けます。そういえば、服装も良く似ているではありませんか!

この土地(グジャラート州)は、これと言った大きな特徴は見受けません。隣のラジャスタン州は王宮巡りで、あちこち主要都市にはマハラジャが建てた宮殿が残っています。南インドのタミール・ナドでは、各地にお寺が建立されて、お寺巡りのツアーになります。同じ南インドでもカルナタカ州の内陸部ではフォート(砦)巡りの旅になってしまいます。東のカルカッタまで行くと東南アジアが近くなり、湿潤アジア的インドと呼んでもおかしくはありません。

  • 宿の名称も地域によって色々な表示があります。
  • グジャラート州では「ゲストハウス」が一般的
  • ケララ州では「ロッジ又はツーリスト・ホーム」
  • タミール・ナド州では「ロッジ」となり、ホテルとあるのは食堂の意味
  • その他の地域はホテルが一般的

19.再び、インドの友人たち

今一度南インドの友人の事を綴りましょう。名前は忘れてしまいましたが、道端でおもちゃを販売している兄弟です。彼等と出会ってから3年の歳月が経過しています。今回も再会することができたのです。ひょろ長い脚を出して、いつもルンギ姿で張りのある声を出して商売をしています。

「時々警察官がやってきて何かとうるさいのさ。手入れがあったりすると50ルピー持っていかれるからさぁ」と路上のセールスの難しさ嘆いています。稼ぎの良い時は、早めに商売を切り上げるそうです。午前中はセントラル駅周辺で、午後はマウント通りのOTISビルの前と縄張りが決まっています。兄はいつもエグモール駅近くで商売をしています。私が片言のタミル語を話すからでしょうか?人懐っこく語りかけてくるのです。時にはお茶やさとうきびジュースをご馳走してもらう間柄になりました。少ないポケットの中身(稼いだお金)で必死に、真剣に尽くしてくれました。私が外人でお金持っているはずだから、後で何か頂けるかもしれないという期待など持ち合わせることなく、対等なるお付き合いです。「マーケットへ仕入れに行くから、一緒についておいで」と誘われ、彼の馴染みの問屋さんへ出かけてみました。バス代も彼の支払いで、バスを降りてから人混みの中を彼の誘導で一軒のおもちゃ屋さんに入りました。

なかなか堂に入ったものです。旺盛な生活力、たくましく生きていることを実感しました。住んでいるのは、ここマドラスの郊外タンバラムですが、朝晩バスで往復するとの事です。「電車賃は高いからバスを使っているんだよ。」ビニールの袋に商売道具を詰め込んで、さっさと移動します。

一緒に歩いてアイスクリーム屋に入り、今度は私がおごりました。でも彼は「ありがとう。でもあっちの店がもっとうまいんだよ。」とアドバイスをくれました。数日後、一人でその付近に出かけることがあって試してみたら、彼の言う通り、そのお店のアイスクリームがはるかに美味しかったのです。さすが、マドラス子です。目利きが良いようです。

彼等の素直さと、微笑みは常に私を幸福にしてくれます。何ら気取ったこともなく、自然な態度で接してくれ、友情が込み上げてきます。彼等と付き合っていると、その素直さと力強さに感服するばかりです。父親は彼等の小さい頃になくなったはずですが・・・。いつか又出会うことがありますように!

20.カンナン君病臥

話は変わりますが、我が常宿となっているマーマラロッジのルームボーイなるカンナン君は胃腸の調子が悪くここお20日程寝たきりの状態です。いつも愛想の良いカンナン君は見るからにやせ細り、元気が合いません。今はこの村に住む同郷の彼のおじさんの家で療養中でした。お見舞いとして金10ルピーと30ルピー相当の健康飲料を届けました。一刻も早く良くなって欲しいものです。体全体に腫物が出来て、見るからに苦しそうです。遠方より母が200キロ離れた生地から看病にやってきました。彼等の所得では病院に入る施策は考えられません。病身であっても、コンクリートの土間に、一枚のゴザを敷いて安息するのみです。元気な頃は田舎の事を自慢げに話していました。来週は少し用事があるから里帰りとか言っていたのですが・・・。大切そうに、お土産として持って帰る品物を一つ一つ説明をしてくれました。それは私たちの目からすれば、ガラクタに近いもので、ごみ箱から拾ってきたような代物が並んでいます。しかし、彼にとっては大切な財産なのです。その中に私と彼のカラー写真も混じっています。家にもってかえって飾るそうな!早く良くなりますように!そういえば、マドライのリキシャマンのセルバラージは、私が送った写真を額に入れて大切に持ち歩いているそうです。

21.断片事情

  • インドを旅行するなら、ハイデラバッドより南をお勧めします。物価も安く、人も親切です。ボンベイやデリーは私にとっては騒がしいだけとしか思えません。どこも大都会は自動車の排気ガスなど問題山積みです。政治も排気ガスが充満するごとく、澱んでいることでしょう。
  • 若者は皆大都会に憧れて出稼ぎに行きます。稼ぐのはボンベイ、使うのは田舎(実家)が若い人々の風潮になっています。そういう私も、日本で稼いでインドで使うのだから同じかもしれません。
  • しかし、この本に登場するスワミダースは学校はタミル語で近所ではケララ州の言語、マラヤラム語を使っていました。ヒンズー語が殆どできないので、ボンベイには行く気持ちは全くないようです。お隣のケララ州が生活しやすいと話しています。なるほど、ケララ州は彼がクリスチャンという事も一因です。ケララ州は6割ほどがキリスト教徒で占められています。
  • インド全体にインフレの嵐が吹いています。辛うじて南インドは、その被害を最小限にとどめているようです。まだ6-8ルピーで狭いながらも良い部屋を確保できるのです。
  • スリランカや南インドでは頻繁に石鹸を使いましたが、北へ来ると使用量が少なくなりました。ああぁ不潔!でも空気が乾いているからべとべとしない。それと水に不自由する地域でもあります。
  • アハメダバッドからのソムナート・エクスプレスと46ガンディグラム・エクスプレスは同日でも列車の予約がOKというのは不思議です。アハメダバッドからマドラスやカルカッタ方面に向かう列車は一カ月待ちという状況に比べると奇跡としかいいようがありません。インド全体が、もっと容易に列車を利用できるようになって欲しいものです。
  • この地域はSaura-Shtra(ソウラ・シュトラ)とも呼ばれています。現在のグジャラート州の一部をなす地域で、ソウラは100の意味、シュトラは王国の意味という事から推測すると、小さな王国が沢山あったことになります。ボンベイに州都を置くマハラ・シュトラは大王国の意味になります。
  • アフリカ人の血が混じったと思われるインド人を見かけました。毛髪も縮れ真っ黒な肌です。それでちゃんとグジャラート語を話します。そういえば、この地域とアフリカ東海岸は昔から交易がありました。近代史ではインド洋を挟んでケニアとインドは英国の植民地でした。当時は定期船が運行されていたそうです。
  • ウェッラバルという町で煙草を一箱買いましたが、お釣りをくれないので、粘ったらようやく出してくれました。「品物いりませんわ。お金返してくださいな!」というジェスチャーが効果的です。隣国のパキスタンでは、かような不正は神が許さないのに、改めてパキスタンの良心さに感動を思い出しました。
  • インド製歯ブラシは50ルピーで銘柄は BINACA(ビナカ)でスイスとの合弁会社でした。だけど、3日後にはブラシの先がグジャグジャになってしまいました。誠に残念。
  • 2月14日の会計は 1ドル60 ルピーで 1ルピーは22円

タバコ4.25Rp マッチ0.2Rp チップ1.0Rp 宿代12Rp 映画3Rp 間食4.5Rp  朝食3Rp 昼飯3Rp 夕食4Rp 合計35 Rp 770円でした。

22.Diu島について

とうとうDiu島にやってきました。滞在はわずか2泊3日です。グジャラート州に囲まれた面積38平方キロの島は東西15キロの細長い島で本土とは橋で結ばれています。以前はポルトガルの植民地だったことで知られています。今でもかの有名なゴア、そしてダマンとここデウの三地区を一緒にしてインド政府直轄地になっています。人口は現在の所35,000人、年間雨量が600mm足らずの平和な島です。ここではお酒が自由に飲める場所です。ちょうど、それは、タミール・ナド州に囲まれた政府直轄の統治区にあるポンディチェリに似た風情があります。数多くの教会があり、今は風化してしまった砦の碑文には30-9-922と記載がありました。ポルトガルがこの地を取得したのは、そんなに早かったかな!一度調べなくてはなりません。

勿論、ゴアの方は天然の良港にも恵まれ、その規模ははるかに大きいものがありますから、ここはリトル・ゴアとでも命名しましょう。街の中には、昔の面影を漂わせる教会あ城壁等が多く残っています。それは、デカン高原各地に残る回教の王様が建設した遺跡にも似た風格を残しています。4隅にミナレット(尖塔)を配置すれば、あたかも、回教寺院ではないかと錯覚してしまいます。なるほど、同様な風土を持った土地ですから、建築物も似てくるのが当然でしょう。

デウの中心地から8キロ離れた所にナゴダ・ビーチがありますが、ここへのバスは朝7時と11時の二本しかないとの事です。ここは、数人の外人の姿を見かけただけの閑散としたビーチでゲストハウスが一軒あるのみです。海水温はまだ冷たかったのですが、日中の陽射しはかなり強烈です。ずーと広がる砂浜は小さな湾になっているので、静かな波が押し寄せます。沖合には一艘の漁船が網を降ろしていました。ゴアに比べると誠にのどかな光景です。

この島は人口も少なく、車の台数が圧倒的に少ないので安心して道路を横切ることが出来ます。となると歩行者天国そのものです。日本では、人工的に車を締め出して一定の期間通行止めをした上での歩行者天国ですが、ここでは、何もしなくても歩行者天国なのです。

ここデウ島の中心地にはBar(バー)なる看板が7-8軒日中から営業をしています。がその割に静かなムードです。懐具合が芳しくないのでしょうか?街全体は夜の8時も過ぎると殆どが閉店しています。一軒だけ映画館があり、入ってみましたが、3割程度の客の入り具合です。上映は予定より30分遅れで10時に終了しました。足元がごぞごぞするので妙だなぁと思ったらゴキブリ君がするりと逃げていきました。

さて今日の映画も典型的なインド映画でした。病気になったり、銃で撃たれてほぼ死亡確定の画面には、西洋のドクターの服装をした医者が登場します。決まり文句として「もう私にはどうすることも出来ません。」「所で貴方の神様は誰ですか?」と問いかけます。そして無理を押して、重病人をその人の信奉する神の鎮座する場所(時には山奥)に連れていきます。そうすると、ああれ不思議!亡くなりかける人も息を吹き返すんですねぇ。

グジャラートの人々からすると、「あの島は密輸品の売買の場所です。そしてお酒を飲む場所」との返答が帰ってきました。

この島に来るにはウェッラバルからバスでウナに向かいます。バスを乗り換えてゴグラという場所から渡し船で対岸のデウ・バンダールに到着することが出来ました。道中、昨年のサイクロン(台風)の爪跡を多く見かけました。もう一つの行き方は、ウナからゴグラを経由してテッド・ブリッジという橋を渡ると直接島に渡ることが出来ます。今回バスを2度乗り換えてやってきました。何故かバス代のお釣りは、直ぐもらえなくて、一回目は20分待ち、次は60分待ちでお釣りをもらうことが出来ました。この島はゴアと同様1961年まではポルトガルの植民地でしたが、この年にインドに編入されたという歴史があります。そらから、20年ほどしか経過していないんですねぇ。

23.神経痛と友人との対面

さて、グジャラートの旅もそろそろ終わることになりました。今は寒冷、乾燥なる気候で、それは小生にとっては、ちょっとばかし苦しいところであります。それに加えて食事が甘くて油っ気が多いとなると、もう肝炎にかかりそうです。唐辛子の唐揚げに塩をたっぷりかけると美味しいそうなんですが、今一歩体調の事を考えると足踏みしてしまいます。それに比べるとタミール・ナド州の食事はバランスが取れているように思います。2月17日より約10日間体調不良なり。肋間神経痛発症という事でしょうか!

ここ、グジャラート州は工業に力を入れているようで、反面公害の規模も大きいものを見かけました。所々赤銅色の川を見ると目を伏せたくなるものです。

インドの西から東へ長距離列車(ハウラーエクスプレス)は126ルピーで2月24日6時50分発、カルカッタ到着は26日の4時00分という45時間の列車です。体調不良で乗り込んだものですから、道中も薬漬けでカルカッタに到着した時はもう、フラフラでした。今は元に戻って元気にしています。

カルカッタの東京銀行で、偶然に三年前にインドで出会った友人にばったりと遭遇しました。初めて会ったのがスリランカでした。この時は住所を知る事もなく、名前を問う事もなく別れましたが、三か月後に再度ブッダガヤの大塔の中で対面しました。そして今度は三年の空白を経てカルカッタで出会ったわけです。旅は不思議なものです。

同じインドでも東西を2000キロ以上離れると、文化の違いがはっきりとしてきます。食べ物、衣装、生活など随分異なるものです。改めて広大なインドを感じざるを得ません。一つの地域で大洪水が起きて不作となっても、他の州でカバーするという食の供給保障が出来上がるのは当然です。インドの物価は西高東低、北高南低が現状を語っているようです。

インドの蚊取り線香は、人畜無害というよりも、蚊畜無害、人間有害みたいでして、その強烈さて、人間を眠らせて蚊に刺されても気にならないのではないでしょうか?

南インドから西インドへ。そしてカルカッタへ

日時日付行動宿泊地
1S.59.1.21ランカから船でラメッシュへ。バスでマドライマドライ
2S.59.1.22休憩マドライ
3S.59.1.23映画を見るマドライ
4S.59.1.24市内観光トリチラパリ
5S.59.1.25市内観光トリチラパリ
6S.59.1.26終日移動(バス)マハバリ(友人宅)
7S.59.1.27友人達とブラブラマハバリ(ロッジ)
8S.59.1.28友人達とブラブラマハバリ(ロッジ)
9S.59.1.29友人達とブラブラマハバリ(ロッジ)
10S.59.1.30友人達とブラブラマハバリ(友人宅)
11S.59.1.31友人達とブラブラマハバリ(友人宅)
12S.59.2.01夜行列車で移動列車泊
13S.59.2.02ボンベイ泊
14S.59.2.03スーラット泊
15S.59.2.04スーラット泊
16S.59.2.05スーラット泊
17S.59.2.06アハメダバッド泊
18S.59.2.07アハメダバッド泊
19S.59.2.08夜行列車で移動列車泊
20S.59.2.09ポルバンダール泊
21S.59.2.10ポルバンダール泊
22S.59.2.11ポルバンダール泊
23S.59.2.12ウェッラバル泊
24S.59.2.13ウェッラバル泊
25S.59.2.14ウェッラバル泊
26S.59.2.15デウ泊
27S.59.2.16デウ泊
28S.59.2.17デウ泊
30S.59.2.18ジュナガート泊
31S.59.2.19ジュナガート泊
32S.59.2.20ジュナガート泊
33S.59.2.21ラジボット泊
34S.59.2.22ラジボット泊
35S.59.2.23翌日に備えて駅で待つ駅にて待ち
36S.59.2.24ハウラーエクスプレス車内で過ごす夜行列車
37S.59.2.25ハウラーエクスプレス車内で過ごす夜行列車
38S.59.2.26早朝カルカッタ到着カルカッタ着

 

24.マハバリプラムの人々

シーバーは、私が投宿している宿のルームボーイの中では年長者でちょっと格が高いようです。瘦せ型人間の特徴丸出しで、陽気な時は、とても賑やかなのですが、一度機嫌が悪くなると人が変わったように、むっとして静かになるのです。しかし多くの場合は数時間で元に戻ります。

或る日彼はカセットレコーダーを買いました。見るからに嬉しそうです。満身の笑みを浮かべガンガン音楽を聴いています。新品のカセットレコーダーにはジャスミンの花束を掛けて祭ってありました。話を聞くと、近くの宿に泊まっている外国人から800ルピーで購入したそうです。これは、本物のナショナル・パナソニックで日本製だと自慢していますが、私の目でも明らかに粗悪品でインド製なることがすぐ分かります。裏側にインド製と記載されたステッカーは剝がされています。彼に聞くと、「税関がチェックに来たら大問題だから、日本製というステッカーを消してあるんですよ」と真面目に説明してくれました。ああこれでは、何を語れましょう。意気揚々と楽しんで満足している彼に水を差すような事は出来ません。同じような製品を扱っているビジネスマンに尋ねると、にんまりとして600ルピーと答えてくれました。

彼はここから400キロ離れたタンジョウールの出身です。訳ありで、ここに流れ着きました。家出をしたようですが、他の友人達のように家に仕送りをするわけでもなく、逆に家から毎月200ルピーの小遣いが入るとの事です。どうも田舎の金持ちのぼんぼんなる身分でしょう。ベジタリアンの家系で育っているのに、夜はこっそりとマトンカレー(羊肉)を食べに出かけます。そんな彼を或る日レストランで見かけました。ケラケラ、きゃあきゃあとはしゃぎながら、ニンマリと旨そうに食べていました。確か、今働いている宿では食事が三階支給され一カ月の給料が60ルピーとチップが手に入ります。今宵もマトンをかじりながら、陽気に過ごしていることでしょう。

さて、このシーバーと仲が良く、子分みたいな存在が、先日三週間ほど病床にあったカンナン君です。クリクリとした目でいつも愛想が良く、兄貴分ほど気分屋ではなく、年の割にしっかり落ち着いた感じです。この二人はなかなか良いコンビなのかもしれません。そんな彼等から時々お茶をご馳走になることもあるのです。

従業員一同はボスの来る気配を感じると、急に全員静まり返り、親分の姿が見えなくなるまで直立不動の姿勢を崩すことはありません。ボスの姿が見えなくなると、再び元のざわめきが繰り返されるのです。

映画館は夜の部が8時半に開始となり、終了が11時を過ぎてしまいますから、帰りのバスが確保できません。となると、自転車二台で4人のメンバーが出かけることになるのです。30分で到着できるからというのが、小一時間かかってしまいました。でも月夜を眺めながらの快適なドライブです。帰りは疲れが溜まっていると見え、お茶屋さんで二度も休憩しながらの帰宅です。

  • さて、久方に、ここマハバリプラムには日本人が3名増えました。
  • インドに来て、インドを見ることなく、地球の歩き方インドを見て帰る人が多いようです。
  • 南インドの給料日は月末になっていますから、月初めの日曜日は品物が良く売れます。
  • 警察官の給料は月400ルピーで、偉くなると800ルピー。

25.自称ビジネスマンのKurinjirajanの話

年齢は17-18歳になる彼と初めて出会ったのは4年前です。今は身長も伸び別人のようです。しかし家庭内に色々と問題を抱え、実母と義母の二人の面倒を見なければなりません。ここから250キロ離れたチダンバラム郊外に実家がありますが、学校を卒業し、今はマハバリプラムで自称ビジネスマンと称して色々な品物を販売し、毎月100ルピーの送金をしているそうです。ここでは、アパートを借りて生活していますが、この、商売は季節によってムラが激しく、安定した収入を得るには難しい部分があるので、田舎に帰って自動車の免許をとりトラックの運転手になりたいと希望しています。その費用は既に積み立ててあるそうです。私がこの村をぶらぶら散歩している時に、遠くから姿を見ると「アリガトー」と明るく声をかけてくれます。「さぁお茶を飲もう、おごるから」と招いてくれます。この土地では、声をかけた側は暗黙の了解で接待を引き受けた事になります。お茶代の支払いを終えて、再び商品を満載した自転車で行商に余念がありません。

さて、彼のアパートを訪問してみました。部屋にはヒンズー教の神様の写真が一枚飾ってありました。簡単なアパートは、友人と共同の二人暮らしです。しかし、隣の家族は家族8人暮らしです。クリンジ達はいつも外食という気楽な生活をしています。数年前に初めて出会った時は、私の不確かな現地語と英語を混ぜ混ぜの会話では、お互いの事情が良く分かりません。それでも、好意を感じたのでそう。どこからか、日本の書物を持って来て貸してくれました。

小柄な彼は、いつの間にか店番から独立して自分で商売を始めるようになりました。その彼のパートナーは家出少年でクリスチャンのジョンソンです。この二人はまだ、若いけども、遠くに住む家族を想い乍ら真剣に暮らしているようです。6ルピーで仕入れた偽のソニー製カセットテープを25ルピーで売り付けようと一生懸命になっていました。

元締めのボスは通称「カンナーリ・カーレン=めがねのおっさん」の意味があります。マドラスより運んできたカルカッタ製のタルカムパウダーの底に貼ってあるラベルをむしりとるのに大忙しの姿を見かけます。全く悪びれることもなく、平静に作業は進行しています。

「最近、インドの人々も賢くなってきました。彼等の商売も曲がり角に来ています。本物がどんどん出回るようになり、人々は偽物と本物の区別が分かるようになりました。マドラスの人々(都会の人々)は彼等の商売の相手から外れ、アンドラプラデッシュかカルナタカ州の田舎人間を相手ならば商売は成立するのだとか、そして、こうした商売をしている人が多すぎて、取引が成立寸前の所で、雑音が入って上手くいかないこともあるさ。」と本音を語ってくれました。

26.自称ビジネスマンの商品

  1. スリランカ製のラックス・ソープ
  2. 東ドイツ製のカラーフイルム及び白黒フィルム
  3. ソ連のコインや絵葉書
  4. ちょっとエロっぽいトランプ
  5. チャーリーというインド製の偽香水
  6. インド製ソニー、TDKと商標のあるカセットテープ
  7. セイコー・ジャパンとシールを貼ったサングラス。
  8. インド製のホヤグレーのメガネ
  9. 鏡付きの女性用のコンパクト
  10. タルカムパウダー(日本でいうシッカロール)
  11. ソ連の鉛筆
  12. マドラス製の女性用ハンドバック
  13. 中国製のペンシル型懐中電灯
  14. タカイ印の小型ラジオ(偽物)
  15. その他ソ連製の電気カミソリやヒーターなど

浜辺では砂を盛り上げて即席の販売台を設置しています。こうした商売を手掛けているのはおよそ50人。15キロ離れたトリクラクンドラムや10キロ離れたコバラムへも出張販売しています。

所で、写真屋の息子ベンカテーサンは現在技術専門学校で冷蔵庫の修理技術を就業中です。マドラスにも家があり、二人の兄がいます。家業を継いで写真屋を経営する長男は、カメラ一式を自転車に載せての出張撮影、店番そして自分のスタジオでの撮影など忙しい日々を送っています。次男は中東オーマンの首都マスカットで職を得ています。妹は中学生です。じっと見ていると三男のベンカテーサンはまるで子供のように陽気で明るい性格です。隠れてタバコを吸うのもしばしば、「今兄貴が来る予定だから、ヤバイ。後で」と棚の隅にタバコを隠し持っています。ブラーフマン(上級カーストで神官の位)の出身なのですが、ひょろ長い彼は近所の悪友を、時にはビールやブランディーを嗜むそうです。

この街は全く平和に見えてなりません。空気がとても美味しい町です。

27.村祭り

2月3日は、ここマハバリプラムから8キロ離れた村カダムクティにあるヒンズー寺院の大祭の日です。その日は皆さん一日中そわそわしていました。お祭りの最高潮は夜の11時だそうです。ホテルのボーイシーバーに誘われて出かけることになりました。

出発は夜の10時を約束しました。直前になって彼はボスの所に出向いてお伺いを立てています。「帰りが遅くなっても、いいさ。朝6時から仕事なんだけど、そのあとは椅子に座って眠っていても平気なんだから」と妙に割り切っています。ボスの許可が出たらしく、小生を含めて4人は10時半発の超満員のますに乗り込みました。

バスを降りると、数人の顔見知りに出逢いました。バス停留所から裏道らしき場所を30分ほど歩くと、遠くに見えていたイルミネーションが次第に近づいてきます。人々は絶えることなく行き通いしています。暗い夜道に民家がぽつりぽつりと浮かびあがります。半月が隠れると先が良く見えませんが、彼等の目は鋭く、私のように物質文明に侵されえいないようで、暗がりでも識別可能なのです。

さて、寺院の境内にやってきましたが、押すな押すなのすごい人だかりです。日本の新年のお宮参りのような人混みで、先へ進むのが大変です。10ルピー以上の高額紙幣は最年長のジャガナーダンに預けることにしました。彼はお札を大事そうにポケットの奥深くにしまい込みました。私も彼に25ルピーを預けたので、Yシャツのポケットには数ルピーを残すのみとなりました。

境内には、即席の屋台がずらりと並んでいます。灯油を点しての道端の商売は結構繁盛しています。茶店、お菓子屋、バナナ屋、ココナツ屋、カバン屋、花屋など、それぞれ思い思いの場所に陣取っての商売ですが、普段より物価が高いのが気になりますが、こうしたイベントの特設会場では世界どこでも同じでしょう。我が友人のシーバーは60ルピーほど買い物をしたようです。

ようやく11時頃神様(現地ではスワミと呼ぶ)のお出ましです。院内の湖に船が浮かべてあり、その上に神様が乗っていらっしゃるというのです。その四角い形の池を一周する予定ですが、始めは発電機が正常に動かなくて松明で神様を照らしていました。10分ほどしてようやく修理が終わったと見え、インド的イルミネーションで神様は煌々と輝き始めたのです。これを拝んで帰宅の途に着きました。

真夜中の12時に帰宅準備です。バスがあるようで無いようで定かではありません。結局8キロの道のりを歩いて帰ることになりました。翌日の地元の人々の挨拶は「昨日はスワミを見ましたか?」が頻繁に繰り返されていたのです。

久しぶりに、日本人旅行者に出逢いました。ここマハバリプラムでは滅多に日本人に遭う事はないのですが、一人旅の学生と三人のグループがやってきたのです。一人旅の日本人は学生で一カ月の予定で南インドを中心に回るとの事でした。カルカッタに入り数日後にはマドラスに到着したそうで、明日はポンディチェリに向かうとの事です。漁師の家でエビ料理を食べるのを楽しみにしています。

それから男性一人と女性二人の三人組はちょっと難題が持ち上がっていました。その中の一人が病気になってマドラスの病院で4日間入院、少しは回復したようですが、まだ本格的な回復には至っていないそうで、何かしら三人組は不調和音が漂っていました。ちなみにその病とは腸チフスだったそうです。その後このグループはどうなったことでしょう。いろいろと問題が出てきたようで、最終的には一度日本に帰って出直そうという結論に達したそうです。

28.旅のポイント

  • 南インド、特にタミール・ナドを旅するヒントは
  • 冬でも暖かく寝袋は不要です。着替えも最小限度で済みます。洗濯して一時間ほどすれば乾いてしまいます。山岳地は少し冷え込みますが、毛布を借りれば良いでしょう。荷物は最小限にとどめるのがコツです。
  • ベジタリアンの食堂は兼禁煙ですから、十分気を付けましょう。またバスの車内も禁煙です。
  • 椅子に座る時は立膝をしないようにしましょう。これは現地では失礼な作法に当たります。
  • 短パンでの外出は控えましょう。インドの人の目からすると、下着のままで街を歩いている感覚に映ります。

29.猛暑と酷暑

ナグプールはインドのデカン高原のど真ん中になる都市です。ここは交通の要所でカルカッタとボンベイへの東西の鉄道、そしてデリーからマドラスへの南北の鉄道路線が交差する場所です。それにしても予想した通りの猛暑です。日中は40度を超える暑さから逃れることはできません。早くネパールに辿り着いて静養しなくてはなりません。残すところ10日余でネパールへ入る計画をたてようではないか!

ナグプールの駅に降りて朝食を済ませ、さっそうとして、と言っても方角もわからず歩きはじめました。駅周辺でウロウロしていると、悪質なリキシャやガイドの罠にかかりますから、それを避けるには、こうした奥の手があるわけです。さて、一旦、駅前周辺の安宿街を見逃したものの、遠回りをした事になりましたが、ほどほどの宿を見つけることが出来ました。暑いのはどこでも同じでしょう。シングルの部屋は18ルピーです。二日間の滞在で近くにあるさとうきびジュースの店に出かける事5回。このお店は竹で囲った簡素なものですが、手回しでさとうきびを絞るのではなく、珍しくモーターを使っています。いつも見かける光景ですが、蠅が甘い汁を狙ってブンブン徘徊しています。日本から初めて訪問するキトキトの日本人ならば、これを見るとぶっ倒れてしまうかもしれません。しかし、この冷たい一杯が元気の源になっています。ビールの爽やかさにも似ているのかも!とこ地域の暑さは格別なもので、ここで暮らす人々も大変なことでしょう。公園の日陰でゴロンとしているしかありません。

ここナグプールで有名な仏教遺跡サルナートを訪問した後、280キロ離れたジャバルプールに向かいました。名前がスーパーエクスプレスなる州政府のバスは、酷暑時間の午後2時に出発。まさしく地獄行きのバスに乗った感じです。このオンボロバスは、狭いシートに牛詰めの乗客を乗せてガタガタ言いながら疾走していきます。ここでは、日本と逆で「暑いから窓を開けましょうではなくて、暑いから窓を閉めましょう」が正しい行いになりました。

30.バス・ターミナル

最近のインドは、それぞれの都市の中心部にバス駅があったのですが、市内の交通渋滞の影響で、街の郊外に新設される事が多くなりました。これは、再びリキシャの職場が増えることになります。南インドは昔からバスでの移動が発達しているので、自然と街もバス停周辺から広がっていきます。しかし北インドでは列車の駅周辺とバス駅周辺の二極に分かれて発達しているのが大きな違いでしょう。

さて、ここジャバルプールでは相部屋の部屋に泊まりました。同室のネパール人はラジプール郊外に住みタゴール大学に勉強中の学生でした。両親は元インドの軍に勤務をし、今はネパールに帰り年金生活を送っているそうです。彼は今度の金曜日にインド軍入隊のテストを受けにはるばるやってきたそうで、軍隊と言っても、武器を持って出陣するコマンダーには身長が不足で、事務職(秘書)を狙っています。ネパール語を話す彼は、ヒンディー語も勿論話ますが、まだネパールへは行った事がないそうです。

さて、ここジャバルプールからハウラーメイルでサトナに向かいました。サトナからはエロチックな彫刻のある寺院で有名なカジュラホへのバスの始点になっています。所でこの列車はガンガン詰めの列車で通路に座るしか方法がありません。雨季に入るまで、まだ壱カ月ほどあります。とにかく暑さでデレーとしてしまいます。余りの暑さのためなのか、私の愛用の時計も時々昼寝をするようになりました。暑さに弱いQ&Qの時計なり。

31.カジュラホの三つのレストラン

久ぶりのカジュラホ村です。七年程前に訪問した土地です。酷暑期のカジュラホの日中はあたかもゴースト・タウン同様で人影もなく死んだように静まりかえっています。夜は暑さも少しは和らぎますが、厳しい熱帯夜を迎える羽目になります。寺院の敷地は公園でもあり、世界的に有名な場所で多くの観光客がやって来る土地柄です。散水をして緑青々としていますが、一歩外れると、それは荒涼と、いや荒漠としているのです。

バススタンドが新設され、政府は都市計画プランを実行中で資金を投入して理想な町づくりをしようとしていますが、うまく機能していないようです。バススタンド近辺のバラック小屋の食堂やたばこ屋は大繁盛していますが、新装なった商店街はシャッターが降りたままで、人の気配はありません。オリッサ州の州都ブハネシュワールも計画都市として設計され、今はそれなりに、成熟しほぼ計画通りに町造りが成功しているようですが・・・。

さて、ここカジュラホにはちょっと変わったレストランが3軒あります。一つはスイス人の経営する「ラージャ」です。このスイス人はここから34キロ離れたパンナという町にダイヤモンドの鉱山があり、本業のほかに、この観光地に目を付けてレストランの進出を狙ったものでしょう。それから、もう一つは「ニュー・パンジャビ・レストラン」です。ここはシーク教(頭にターバンを巻いているのですぐわかる)のおじさんが、いつも気を配りながらキッチン(外から見える)で采配を振るっているので、いつも客の出入りが絶えません。私が投宿している宿のマネージャーが言うには

「あの人はとても危険な人物だよ。パンジャビの情報を色々ともっているんだぜ!」(当時はパンジャビ州はカリカスタンという名前でインドからの独立を要求していた)

そして、もう一つは「マドラス・カフェ」で目のくりくりとしたお父さんは南インドのタミール・ナドの出身です。我が宿のマネージャー曰く

「あの人々は平和で穏やかだね。そして他の人々を助けるよ」とすこぶる高評価です。でもメニューを見てびっくり。タミール・ナド州に比べると値段は2-3倍しています。店の旦那のいわく「儲かっていますよ」と笑顔で答えています。

さて、我が投宿している宿には、全部で8-10名のスタッフがいます。その中の二人はバングラデッシュ系という事が分かりました。話を聞いている間に少しずつ納得がいきました。隣の大きな町パンナには、今から30年程前バングラデッシュは当時、東パキスタンと呼ばれていた時代です。幾組もの難民家族が定住したそうです。インドとパキスタンが分離した時の悲劇の一部分なのでしょう。今はそうした暗さもなく、いやその事を忘れ去って、のんびりと暮らしています。ヒンディー語とベンガリ語を流暢に話す彼等は、この土地では珍しい存在です。ズボンのほころびを気にも留めず、安月給も気にせず、ぶらりブラリと過ごしています。この宿の客引きラムシンは、ギョロリとした目で、たどたどしいながらも愉快な英語で私たちを楽しませてくれます。回りの人が言うには、「彼は今も愛人を抱えているんだよ。カーストが違うからその人と結婚できないんだよ。幼い頃に両親がなくなって、それから人生が全く狂ってしまったんだわさ。ハイカーストの出身なんだけどね。」いつも、助平っぽい笑みを浮かべて、にこにこ、にやにや・・・。でも悪意のない優しさが浮かんでいる。

今日は、歯が欠け落ちました。「このライス生煮えかな?おや!白い石が混じっているおかなぁ。」後で気が付いたら奥歯がスース―。

カジュラホより二達サトナそしてレワに向かいまいた。バスを乗り継いでいく予定でしたが、どうも時間がうまく合いません。結局引き返してサトナより夜行列車の二等自由席に挑戦。狭いながらも座席を確保。330キロの行程は夜9時出発で翌日の朝6時到着予定。満員列車そして料金は32ルピーなり。遅くて、満席で料金の高い乗り物は、どうも好ましくありません。それにしても、客の荷物が多すぎる、ボロボロで今にも壊れそうなトランク、何を入れているのか良くわからないけど、大きな南京袋を持ち込んでの旅です。いつになったら解消するものでしょう。

それにしても、カジュラホ村が懐かしい。すごく暑かったけど、のんびりした気分と静けさ。ちょうど南インドのマハバリプラムに似た感じがします。そして人の良さ。

32.バラナシ(ベナレス)にて

夜行列車は定刻通り早朝ベナレスに到着しました。ここは、思ったよりも涼しく、空は雲に覆われて太陽の光を遮断してくれます。それでも、日本に比べると暑いという事になりましょうが・・・・。ガンジス川の水量は非常に少なくなりました。これでは、尚一層水質汚染が目立ちます。流れる大河ではなく、澱む大河で、死体も時々浮かんでいます。インド政府はガンジス川クリーン作戦なる事業を展開しましたが、その成果は如何に。隅田川のようにきれいになるんでしょうか?

今日5月31日は暦の上では大安とかで、ここベナレスの各地でバンド(楽団)付きの結婚式パレードが目立ちます。こうした華やかな生活と裏腹に、スラム街の人々の生活を同時に眺めると何かしら複雑な心境になってしまいます。

ベナレスの北10キロほど離れた所は、ブッダが初めて説法を説いたというサルナートがあります。人々はここをシャンティナガール(平和郷)と呼んでいます。ガンジス川河畔の喧騒とは対象的で静寂そのものです。ここで日本のお坊さんに遭えるかと思って訪ねてみたのですが、今はカルカッタにいらっしゃるとか。雨季になれば帰っていらっしゃるとの事で残念な思いで引き返しました。

さてベナレスへ帰る際のバスが又一苦労です。待っても、待ってもバスが来ません。一時間半ほど待ってやってきたバスはボロボロで車体というよりも鉄屑同然の代物でした。良く観察すると、車掌は切符を発券せずに、お金だけを貰っています。ああ、あのお金はどこに消えていくものでしょうか?南インドのバスは検閲システムがしっかりしています。時々、二名一組で乗車券検査官が乗り込んで、後ろと前の入口からはさみ打ちの形で検察を行っている光景に出くわします。車掌も乗車券の発行状況を提示して不正がないか厳重に管理しているようです。この点では、ここ北インドは、野放しの状態です。しかも乗客のマナーがひどすぎる。バスが到着するや否や席取り競争に終始せざるを得ません。先に乗り込んだ一人が複数分を押さえてしまいます。しかしいざ出発してみると、意外と空席が目立ちアレーという感じがしないでもありません。

33.インドでの疑問

インドはやはり不思議な国です。原子爆弾や飛行機も自国で作ることが出来る国なんですが、大都会から100キロ離れると電気がない、品物がないわけで、これで本当に豊かな国と称するに値するのか疑問です。シンガポールは小さな島国ですが、情報や物流がスムーズに流れ全体の生活を向上させ、モダンライフに突進しています。ここインドとの違いは一目瞭然としています。ネパールへ入るには、ゴラクプールからスナウリへバスで入るのが一般的です。が、ここのバス駅も行先によって三か所に分割され不自由になりました。

先日インドの新聞にでていたのですが、6月1日がシーク教徒が大虐殺された日で、ネパール国境の街バイラワでは、シーク教徒の秘密会議が開催されようとしているとの事で、この地域はピリピリしています。インドを取り巻く周辺の国々では様々な異変が起きています。バングラデッシュでは大洪水、スリランカの民族問題は益々ややこしくなり、激化しています。インドの入国事務所では、滞在日数がぎりぎりの期限だったので、係官からは清涼飲料水をねだられました。さて手続きを終えて、近くの銀行に出向いて使い残りのインドルピーをネパールルピーに交換しようとしましたが、何故か断られてしまいました。でも、国境を越えてネパール側では何の問題もなく両替してくれました。やれやれ。

34.久方にブタ肉を食べる

今日がカルカッタ最後の日と思うや、時々出かける中華料理のお店で、とうとうあお豚肉料理を注文してしまったのです。しかし普通のインド料理に口が慣れたものでしょうか、期待していたほど、美味しいと感じなくなり、ちょっと失望しました。やはりジャガイモを食べているのが健康的なのかなぁと悩んだりしています。さて、カルカッタの中華料理店には、Pork(豚肉)はあってもBeef(牛肉)はありません。所がダッカはその真逆が成り立っているのには、お見事です。カルカッタには大勢のヒンズー教徒が住んでいます。それで逆にバングラデシュでは回教徒が沢山います。前者は牛を聖なるものと考えますが、後者は豚を汚らわしいものと解釈しています。地元の風土にあった仕組みが組み合わせてあるわけです。

ダッカとカルカッタの違いは、カルカッタの街は様々な人種で構成されているのに対し、ダッカは100%に近いベンガル人の集団です。それは、南インドのマドラスの大半がタミル人で構成されているのにも似て、単一のコミュニティから生まれる安定感が寄与し平和そのものに映ります。それで、同朋意識とやらで、観察してみると結構助け合いをしながら暮らしているんですね。そういった人々の精神的な豊かさを感じることが出来るのが、こうした地べたを這うような旅から始まるのかもしれません。

35.インドでいろいろ

  • 日本向けのビリ(安タバコ)の輸出が好調だそうで、この産地マンガロールでは家内工業として、手巻き作業が行われています。一日2000本巻いて15から20ルピーの現金収入になるそうな。でもあのビリを2000本手で巻くのは大変な仕事に見えます。
  • インディアン・エアライン(インド国内航空)の乗客の分布は

68%が会社の経費で乗る客 25%が外人旅行者 5%が政府が支払う客 2%がインド個人の金で払うお客。そんな分布になっています。 マドラスからニューデリーの料金は1,428ルピーで、マドラスからマドライは398ルピーです。後者は日本の東京と大阪の区間と等距離。ちなみに日本では895ルピーだから、インドは安さを強調しています。しかし3月16日から6.33%値上げするそうです。

  • ヴェロールという街を訪問しました。この街の名物は砦とお寺そしてインドで有名な病院があります。通称CMCと呼ばれクリスチャン・メディカル・カレッジがあり、その付属病院とか、最新の設備を誇り、インド各地からの患者や学生が押しかけるのです。街にはタミル語、ヒンズー語、テルグ語、カンナダ語が入り混じり、活気にあふれていました。
  • 久々にタミール・ナドの各地の田舎を周り続けています。中程度の街が私には一番落ち着きます。今はバナナとぶどうの安売り合戦をしています。バナナは4-6本で一ルピーですから、矢張り庶民のあべものです。ブドウは一キロで4ルピー(60円)。どうも日本に比べると一桁数字が違うように感じます。所で、インドの鋼板と日本の鋼板を比較すると、日本の商品がインド製よりも3割方安いという事実があるそうです。物価は一体どうやって比較すれば良いのでしょうか!
  • 最近、当方は純菜食主義を中止しまして、時々ノンベジタリアンのお店へと足をむけるようになりました。場所によっては、探すのに時間がかかることもありますが、矢張り日本人なのでしょうかね。それにしても、アフリカのケニアでは、焼き肉だけで食事を済ますケースもありました。これが完全肉食主義とすれば、南インドのは完全菜食主義となります。いずれにしろ違和感を感じてなりません。
  • マハバリプラムで出会ったスリランカのタミール人青年は、小柄な体にも拘わらず闘志満々でした。冗談交じりに、「一緒にスリランカに行こうよ。スピードボートで30分で着くから。ランカの政府軍が攻撃してきても大丈夫、俺に任せろよ。」とさそいを受けました。どうも、日本製の武器が、政府軍に出回っているようです。そして日本政府がスリランカの漁業公社に援助した船舶は、いとも簡単に改造されて、沿岸警備に暗躍しているそうです。彼の母親は現在シンガポールに居て、姉はロンドンそして父親は殺されたそうです。来週から一カ月ほどスリランカにでかけて活動した後、又ここで暫く休憩するそうです。「私の得意とするのは、武器を扱うことです。」ぎょっとする発言をしていました。
  • さて、このマハバリプラムは、初めて訪問したころに比べると、外人旅行者の急増でかなり変わってきました。一部の村人の眼つきが極めて鋭くなり、バスが到着すると必ず一人、二人の客引きが登場し、村に新しく始まった部屋貸に連れていかれるようです。週単位で50から70ルピーとか、外貨の闇両替、外国製品の売買を通じて利を求めようと声がかかります。私にはあまり関係がありませんが・・・。
  • ベジタリアンで通していた小生、夜はこっそり街はずれにあるノンベジタリアンのお店に通っています。体調はおかけで元気を保っています。何しろ、毎食20センチほどの焼き魚(2ルピー)を平らげていたのです。時にはエビのカレーが3ルピーで手に入ります。これらは、ミールズ(定食)のほかにエキストラとして注文する仕組みになっています。或る日友人に見つかって、他の人に言わないようにしてくださいと頼みこむ羽目になりました。話によると、この飯屋はトラック運転手や肉体労働者が出入りするお店だそうです。分かり難い場所ですが、結構繁盛しています。有名、美味、安価と三拍子揃ったお店でした。
  • マドラス市内で見かけた光景ですが・・・。背の高いやせこけた老人が、数人の人とマンホールの清掃作業をしていました。その老人は、あのドロドロの排水路に首まで漬かって作業をしていたのを目撃して、ああぁと倒れそうになりました。通りがかりの人々は全く無関心。あの泥沼特有きつい匂いの中に褌状のものを纏っただけの姿でした。それから私が泊まっていたロッジでは、トイレの排水が詰まったようで、老女が登場して、素手で糞尿の中に手を入れて作業をしていました。これが現実のインドの姿なのです。
  • 自転車全盛のインドの光景の一つとして、特に注目するのが、自転車の荷台に牛乳と砂糖の入った保温器を積み込んで走っています。人だかりのあるところで商売開始です。ぶら下がっているガラス容器にインスタントコーヒーを入れて、保温器からの牛乳兼砂糖を入れて攪拌すると出来上がりです。ハンドル部分には中ぐらいのバケツがあり、これは使用後の洗浄用。腰には小銭入れを着用して随所で活躍しています。結構採算が取れるようで、このタイプのコーヒー屋さんを何台も見かけます。一杯50から75パイサで手ごろな料金です。中には、さらにビスケットの入った一斗缶を積み込んで、スナックも併せて提供というサービスも始めています。家庭用の金物を売るのも、信じられないくらい大量のスプーンやポット、カップ等を積み込んで販売しています。高級な自転車は一台1000ルピーほどしますが、貸自転車もヒットし、一日5ルピー、一時間50パイサで人々の生活に密着しています。それにしても、この炎天下で10キロも20キロもよく走り続けるものです。
  • 最近のインドでは、各種電気製品が出回り、次第にそれらは高級化しています。電気蚊取り線香の登場、カラーテレビの増加そして、高級石鹸も現れました。様々な勝因が沢山出回るようになると、庶民の暮らしは益々圧迫されてしまいます。昔はテレビも、ラジオもなく、購入する必要はなかったけど、目前に転がっていると、財布の紐は緩くなり、結局家計は赤字となり、インド中間層の不満がくすぶり続けています。

36.India再考

さて、最近インドの旅はブームになりつつあります。精神世界の旅、多様性の国、自由なる国などキャッチフレーズが飛び交っています。多くの旅仲間の間では、「日本の管理社会から解き放たれ、鳥が空を飛ぶがごとく、自由なる空間を漂うことが出来る唯一の社会」と語っています。しかし、それは、裏を返すと「好き勝手が出来てのびのびしている国」とも読み取ることが出来ます。なるほどインドには多様性が満ち溢れています。様々な階層、様々な宗教そして文化が入り混じっています。それを熟知した上で自分の位置を見極めながら行動することが大切なのではないでしょうか?自由の権利を主張するならば、当然その義務も遂行しなければなりません。100%インド人にはなりきる事は出来ませんが、努力すれば6割ぐらいの線に到達するのではないでしょうか?

インドの王様は、王として君臨する限り下僕に、庶民に喜捨をしなければなりません。これを怠ると、似非マハラジャとして評判が悪くなり、いつかは、その王国は滅びてしまうでしょう。旅行者の中には、乞食同然の服装で、乞食の意識を持って旅を謳歌する人も見かけますが、実はカメラをぶら下げ、日本のパスポートを所持しての乞食気取りです。これでは、真の乞食生活とは程遠いものになってしまい、インド人の目からすれば、滑稽なものに見えることでしょう。それが笑いであり、蔑みでもあることに私たちが気がつかないだけなのかもしれません。

近年日本の企業が多く進出し、あちこちで合弁事業が展開されています。果たしてインドは安定した国なのでしょうか?インド各地に様々な人種問題を抱えています。インド国民の1-2割に満たない中、上流階級をターゲットにした企業進出は果たして成功するのでしょうか?スズキの車が疾走する中をトロトロと牛舎が進んでいます。高層マンションの影には、スラム街が共存しています。農村部でもテレビのアンテナが増加してきました。まさしく多様性の国です。企業の進出も、まだまだこれからでしょうが、大多数を占める農村部をどのようにして取り囲んでいくかが、これからの重要な課題になってくると思います。

37.砂漠の中の街ジャイサルメール

以前から訪れてみたいと思っていたジャイサルメールです。今は4月中旬で暑気の真っ最中で日中は熱風が吹き荒れる砂漠の中の街という感じです。そんな土地柄に多くの人々が住み、都市を形成しています。町全体が博物館のようにも見えます。ネパールのカトマンズが、木彫の華やかな装飾をそれぞれの家が誇っているのに対し、ここでは、黄色の砂岩に施した彫刻作品に代用されています。

この光景は、パキスタンのハイデラバッドという町でみかけたのと同じような景色です。(規模はこちらが大きい)カラチ周辺の遺跡は砂岩の石柱に見事な彫刻がなされたものが多く、大きな感動を得たことを覚えています。そういえば、ここから、わずか150キロも西に向かうとパキスタン領内に入ることになります。この街は軍用車両が行きかい、上空には飛行機が舞い、軍需と観光でもっているような気がします。

付近に畑が存在しないという光景は私たちにとっては異常なものに映ります。単なる高知ではなく、半砂漠が続く世界です。それで孤立したように、この都市が存続を続けてきました。この土地の住民は古くからラジプート族の故郷としても有名です。不毛の土地に住む人々は概して交易を得意とし、各地に散らばって、流浪の民がごとく渡り歩きながら生計を立てるという傾向にあるのは、いずこも同じなのかもしれません。

ラシャスタン州は恐ろしいほどに、あちこちにフォートとパレス(砦と宮殿)があり、マハラジャの居住地が都市として発展しています。ここジャイサルメールから列車で12時間東に向かうとジョドプールという城塞都市がありますが、ここは、インドでも名を馳せた悪徳商人マルワリ族(悪徳というわけではないが、通称そう呼ばれている)の本拠のある町として知られています。どうもこの辺りは、何となくギスギスした感じを受けてなりません。上司にゴマをする風習の根強さ、同族意識の高さを、ここではたっぷりと見せてもらう事が出来ました。州政府観光局の事務所でもそうでした。はじめは丁寧に説明していたのに、仲間が入って来たようで、態度は一変して不愛想になり、仲間との話に熱中する有様でした。この地域に住むラジプート族は日本でいう、武士階級に属するのに、日本と武士とは大きな違いがあるようです。その点、南インドのタミール・ナドは対象的で、雨季と乾季の違いはあるものの、緑が多く、どこに行ってもお寺だらけで、「スワミ」という言葉はタミル語で神様の意味がありますが、親しみを込めて紳士を呼ぶMrに該当し、盛んにあちこちで耳に入ってきます。

それにしても、ここは暑いのです。今年もこの地域は旱魃に襲われて生活は大変なようです。一介の旅行者には、そうした影の部分は見えないのですが、一部の農村部は大変な生活を強いられていることでしょう。

矢張り北インドは物価高を感じてなりません。屋台のTea Shopでは、お茶一杯が1ルピーが常識になっています。南インドでは、その半分の50パイサで飲むことが出来ます。

不思議な事に、この地域は1ルピー札が不足して2ルピー札ばかりが流通しています。10パイサのコインも見かけることはなく、20パイサのコインばかりです。当然の事ながら、正確にお釣りを受け取る事が難しく、値段もどさくさに紛れて上昇していくことになります。この地域では作為的なインフレが進行中です。

インド西部の鉄道ネットワークは縦横無尽に結ばれ、特急列車、急行列車や普通列車など様々なタイプの列車が運行されています。時々、この普通列車を使うことがありますが、意外と便利なものです。始発からの乗車では座席を確実にゲットできます。しかし、標定速度が30キロですから時間はかかります。途中で優等列車に追い越しされる場合は30分以上も待たされる場合もあります。時には、がら空きの場合もあり、インドの列車は混雑しているというイメージを払拭してしまいます。

グジャラート州のバロダの宿は25ルピーで木造の三階。風通しも良く、一見快適に見えたのですが、夜になって消灯すると南京虫が徘徊する始末。何度か電気を付けたり、消したりして退治してみたものの、その数が多すぎて手に負えません。一晩中格闘していた次第です。そして次に泊まったスーラットの宿は35ルピーで、大通りに面した部屋で交通機関の雑音の多い事、夜の12時頃になってようやく静まったものの、翌朝早くから再び騒音開始となりました。そしてバルサットでは15ルピーの部屋でしたが、案の定狭くて小さな部屋でした。グジャラート州での宿探しでは一汗も二汗もかいてしまったのです。南インドではこうした事は皆無だったのに。こちらでは、受付に行くと、「Full(満室)」「Kali Nahin(空部屋ないよ!)」と断られる事が何度もありました。それで、結果として1時間市内をウロウロしてしまうことになりました。

38.インド映画の勧め

統計上インドのGNP(一人当たりの国民所得)の数字で本当に生活の豊さを推測できるものでしょうか?単純にこれらの数値を比較するには無理があるように思います。例えば、開発途上国のバングラデッシュでは、一人当たり年間130ドル、そして先進国では6500ドルとなっている数値を見る限り50倍以上の開きが出てきます。

発展途上国では概して大家族制の名残を留め、一家族当たりの人数が多いのは当然です。例えば10人家族とすると、一軒当たりの収入は1300ドルとなります。他方先進国では平均的な家族構成が3人とすると一軒当たりの収入は19500ドルとなり、その差は家族単位で見ると開きは15倍に圧縮されます。さらに、発展途上国では統計に乗らないブラック経済を加味すると、最終的には10分の一から8分の一ぐらいに縮まって来ます。途上国の経済を西洋の尺度に当てはめることに無理があるようです。その他の観点からすれば、精神面の豊かさをどのように計算すれば良いのでしょうか?大家族制度のもたらす利点、宗教に律せられた心の豊かさなどを要素として考えると、一概に貧しいとは言えないのかもしれません。

バングラデッシュのチッタゴンでバングラデッシュの映画会社の作った娯楽映画を見ましたが、どうも良く理解できませんでした。インド映画同様、ドタバタ喜劇とハードボイルドの混在したものでしたが、インド映画の方がはるかに出来栄えが良かったように思います。死んだはずの人間が生き返り、暴れまくって相手を切り倒す中、ダンスを交えて喜劇を交えてのドタバタ映画です。よくぞここまで作り上げたものです。

日本では、最近は少し人気を博しているようですが・・・まだインド映画のヒット作品に関心がないようです。西洋のヒット作は軒を並べるがごとく次々と上映されている今日ですが、残念な事です。いつか、日本のテレビや映画館で、インド映画が公開されるようになることを祈っています。

タイトルとURLをコピーしました