アジア旅日記 NO.08 エベレスト街道へ
ネパールに足を運ぶようになってから20年ほど経過しました。たどたどしいながらも、現地語で意思疎通が叶うようになり、以前から切望していたトレッキングにいざ挑戦です。この時15歳だったポーターの少年は今35歳になり、ヒマラヤ登山ガイドとして活躍しています。山との出会いを確かなものにしてくれた忘れがたい旅の記録をお届けします。
目次
1998年10月28日~11月25日
参加者
高橋 初子
軍司 市代
坂東 佐和子
川田 喜美枝
保坂 久爾子
干場 悟
日程表
日時 | 滞在地 | 行動 |
10月28日 | バンコク① | 成田午後発AI便にてバンコクへ夕方到着 |
10月29日 | バンコク② | カンチャナブリ観光 |
10月30日 | カトマンズ① | 午前バンコク発、午後カトマンズ着 |
10月31日 | カトマンズ② | 休憩、王宮見学 |
11月 1日 | カトマンズ③ | パシュパテナート及びボドナート観光 |
11月 2日 | カトマンズ④ | トレッキングの食料調達など |
11月 3日 | トレック ① | カトマンズよりルクラそしてパクデンへ |
11月 4日 | トレック ② | パクデンよりナムチェ |
11月 5日 | トレック③ | ナムチェよりプンキテンガ |
11月 6日 | トレック④ | プンキテンガよりパンボジェ |
11月 7日 | トレック⑤ | パンボジェよりペリチェ |
11月 8日 | トレック⑥ | ペリチェよりドゥグラ |
11月 9日 | トレック⑦ | ドゥグラよりディンボジェ |
11月10日 | トレック⑧ | ディンボジェよりデボチェ |
11月11日 | トレック⑨ | デボチェよりサナサ |
11月12日 | トレック⑩ | サナサよりクムジュン |
11月13日 | トレック⑪ | クムジュンよりナムチェ |
11月14日 | トレック⑫ | ナムチェよりパクデン |
11月15日 | トレック⑬ | パクデンよりルクラ |
11月16日 | カトマンズ① | 午後ルクラ発 |
11月17日 | カトマンズ② | 終日休息 |
11月18日 | カトマンズ③ | 買い物など自由行動 |
11月19日 | ポカラ① | バスで移動 |
11月20日 | ポカラ② | ボートで湖周遊、デービッドの滝へ |
11月21日 | ポカラ③ | 自由行動 |
11月22日 | カトマンズ① | ポカラよりバスで移動 |
11月23日 | カトマンズ② | 終日自由行動、買い物など |
11月24日 | 機内 | 午後カトマンズ発、深夜バンコク発 |
11月25日 | 自宅 | 朝成田到着。自宅に |
第1章バンコクにて
10月28日
今日の夕方は友人達とバンコクの空港で待ち合わせることとなっています。群馬県の山好きなグループとエベレスト方面へトレッキングをしようという話が今年の夏急にまとまりました。最終的には、私を含めて5名のメンバーとなりました。私が先発としてバンコクで待ち受けることとなったのですが、私が日本を出発する際は大変忙しく事前に打ち合わせをする機会を逸してしまいました。ともかく懇意にしている高橋さんを除いて他の方々とは、バンコクの空港で初対面となる次第で、少しばかり不安が伴います。
ほぼ予定通りインド航空306便はバンコクに到着です。しばらくすると、皆さんぞろぞろと登場です。しかも莫大な荷物を抱え込んでいます。一体あの中には何が入っているのでしょうか?空港内に荷物を預けて、最小必要限の荷物で市内に入ってバンコク2日間の飛行機待ちをする予定が狂いました。皆さんは成田空港でいくばくかの超過料金を支払ったそうで、バンコクからカトマンズへのフライトで再び超過料金が請求されないように、荷物を宿へ持ち帰りパッキングしなおす予定とか。さあ大変です。あまりにも大量なる荷ですから、タクシー一台では市内へ入ることは出来ません。もちろん荷物の割増料金も請求されました。何とか宿に到着しましたが、この宿には、エレベーターなどありません。ルームボーイが必死になって、銭の為ならエンヤコーラという態度で、ようやく一見落着下のです。
いやはや先が思いやられます。これからどんなことがおきるのでしょうか?全員が典型的な日本の主婦です。子育てが終わり、それぞれ自分たちの時間を持つ余裕のある人々です。時々外国へも旅に出ることはあるのですが、パッケージツアーで、全てはリーダー任せの旅だったようです。何とかまとめなくてはいけません。予算も押さえなければなりません。かくして次々と珍事件が持ち上がったのでした。
10月29日
バンコクの10月末はちょうど乾季の始まる時期です。昨日も今日も快晴です。せっかくバンコクに寄ったのですから、何かを体験したいものです。排気ガスの充満したバンコク市内にいるのでは、楽しくありません。130キロ西に位置するカンチャナブリへの日帰り旅行を企てました。1日の間に何種類もの乗り物を体験しました。バス、列車、船など現地の人々に混じって格安の観光で、皆さんの気分は上々です。今までは観光というと冷房の効いた貸し切りバスか、観光タクシーでの旅だったでしょうが、今回は地元客に混じっての旅の連続です。帰路の列車の旅は木造の椅子で熱気がもうもうと入り込む凄まじいものでした。バンコクへ帰りついた時は街のネオンサインがこうこうと灯っていました。しめっくりは水上バスの利用です。急発進、急ブレーキの水上バスは、油断をすると川に落っこちそうになりますが、地元の人々はさすが慣れたものです。
カンチャナブリの観光ポイントなる戦場に架ける橋も見学しました。いかだの上のレストランで食事も摂りました。快適なエアコンのバスも利用しました。今回の2泊3日の出費は一人あたり2,000円を割っています。ちょっときつい場面もあったかと思いますが、ネパールでの現地適応の前準備と思えば納得がいくはずです。夜は少ししゃれたレストランにはいり、明日からの旅の成功を祈りました。
第2章カトマンズの日々
10月30日
今日は皆さん朝からドタバタした様子です。ある人は時差ぼけに対応しきれず、予定よりも早く眼を覚ました人もいます。元来、歳を取るに従い早起きとなるのですが、それ以上に早く目がさめる人もいるようです。市内から空港へは、前日予約してあったライトバンが約束の時刻きっかりに駆けつけてくれました。しかし、3階から荷物を降ろすのが一苦労です。どのトランクもずっしりと中身が詰まっています。その他に大きなリュックも背負っています。この膨大な荷物の内容は私には想像がつきません。いつも6キロから10キロ程度の総重量で旅をしている私には理解しがたいものです。
私達の便は10時半発のタイ航空です。チェックインは通常2時間前が原則なのですが、最近バンコクでのそれは、そんなに時間にこだわりません。7時半すなわち3時間前でも受付を開始していました。超過荷物のことが気がかりでしたが、それも恐れることもなく、瞬時に搭乗券を入手することが出来ました。いやはや、大らかな対応に感激してしまいます。出発までまだ時間が沢山あります。朝食は国内線ターミナルと国際線ターミナルの中間にセルフサービス方式の食堂があり、そこで取ることとしました。以外とこのレストランは穴場です。市内の屋台に近い価格で食事することが出来ます。
タイ航空は時間を守るので好評です。今回の切符の購入は計画がスタートしてすぐにバンコクの旅行代理店へ私がEメイルで予約を取り、搭乗の数日前に私がバンコクへ先着し支払いを済ませ、皆さんの切符を入手したという経緯があります。混雑しているシーズン中でも以外と希望の出発日を確保する新しい手法のひとつでもあります。
機体は予定通り現地時間で正午過ぎにカトマンズに到着しました。私は急いで6人分の査証申請用紙を埋めなければいけません。あっという間に行列が出来あがってしまいました。それでも、最後尾はまぬかれたようです。列の中程に入ることが出来ました。しかし、これからが時間がかかりそうです。入国審査の列は亀のようにゆっくりとしか進みません。
さぁて、仲間うちの誰かがマスクをしたままです。別に風邪を引いているようでもありません。周囲が排気ガスや毒ガスで充満してもいません。ここは国際空港の到着ロビーです。その人は成田やバンコクでマスクを着用したのでしょうか?理由を聞くと「病気が移るから、空気が汚いから」との返答です。さてどうすべきでしょうか?本の読み過ぎかも知れません。どう考えてもこれは、マナー違反です。「日本で同様なことが出来ますか?」の一言で意味は理解してもらえたようです。無菌状態の日本からくる人にしてみると無理はないかも知れません。しかし、この状態から抜け出すためにネパールへきたはずですが…。
大量の荷物があったにもかかわらず、税関検査では何にも咎められることもなく通過です。私のポケットには、前回使い残した現地通貨が5,000円分ほどあり、万一の対処はこのお金で充分処理できるはずです。空港の外へ出ると、我々のガイド役として指名してあったアンカミ・シェルパが家族総出で迎えに来ていました。
事前に連絡したとおりに、飛行機の切符(カトマンズとルクラ)、宿の手配、市内と空港の送迎車両の手配などすべて準備万端で何も心配することはありません。さて、ゆっくりと案を練ることとしましょう。
初めてネパールへくる人もいます。日本との時差は3時間一五分ですから、通常3日間程度は時差慣れを必要とします。今回の目的とするのは標高4000メートル以上の高所です。ともかくネパールの現地スタイルを徐々に吸収して頂きたいものです。現地順応を多くするほど快適な旅となるのは事実です。ご婦人の方々には多少時間がかかるかも知れません。
皆さんは巨大な荷物と格闘です。今日のうちに荷物が片付くけはいはありません。まだまだ日数があります。そのうちに整理がつくでしょう。高橋さんは息子同様に感じているアンカミと久しぶりに出会って大変嬉しそうです。全員花輪を首にかけて記念撮影となりました。
10月31日
今回のトレッキング許可書の取得は代理店にお任せすることとしました。多少の手数料で混雑する行列に加わると1日がつぶれてしまいます。元来、このように、混雑する列に並び忍耐を強いられて取得するのが常道なのですが、ご婦人方という特例をもってこの部分は省略しました。その分を市内観光やトレッキングの準備に当てることとました。
まずは足慣らしにタメル地区より、王宮方面へブラブラ散策です。自分達の足で歩くことが、物を観察する第一歩です。皆さんはそれぞれに何かを感じ始めたけはいです。中年のおばさんパワーは怖いものしらずです。あれこれと土産物が気になり始めたようです。「買い物の時間は後日時間を取りますから」となだめるのに当方は精一杯の努力です。歩くということで次第に地理感も身についてきたようです。
今宵はTypical Nepali Restaurantで夕食です。中級のこのレストランは陽気な親父さんがいて、ネパールの音楽を流しながら独特の雰囲気があります。今のところ、全員病気のけはいはありません。良かったね。
11月1日
昨日はわずかな時間しか散歩していません。何しろ公害天国カトマンズ市内は排気ガスと乾燥した空気がじわじわと我々の体を蝕んでくるのです。今日は郊外に足を伸ばすこととしました。カトマンズの庶民の乗り物のひとつに小型三輪乗合車があります。通称地元の人々はテンポと呼んでいる交通機関です。ルートナンバー②は、狭い車内に10人積めこんでパシュパテナートに向かって発車です。
このあたりまで来ると、少しばかり交通公害から解放され静かな環境です。ちょうどこの寺院についたときは、死者が荼毘に附されるところで、白い布に巻かれた遺体の回りで厳かに儀式が行われているところでした。写真をとるのに皆大忙しです。お墓を作る習慣のないヒンズー教の人々はこうして火葬にします。しかし彼らの思想では、魂は生き続けると信じていますから、我々のように、死者に対して畏敬の念を抱くこともなく、淡々とした一面を持っているのも事実です。日本のような悲壮感に溢れた葬儀とは大きく異なるのです。
このヒンズー教の寺院の裏手には、有名な仏教のストゥパ、ボドナートがあります。ここへは、裏道を歩くこととなり、田園風景の中を心地よいステップをきりました。遠くから見ると、周囲の建物に圧倒されてさほど大きく感じなかった仏塔ですが、すぐ近くで見ると立派なものです。周囲をぐるりと一回りして、展望の良いレストランで昼食です。レストランといってもかなりローカルっぽいいでたちです。徐々に皆さんはこの国に馴染んできたようです。現地のトイレにもさして抵抗を感じなくなったそうです。とにかく、山小屋に泊まるとなると、トイレもぽっとん式の現地スタイルしかありません。カトマンズに到着して3日目、日本を離れて5日目です。日本とは生活環境が大きくかけ離れた生活が続いています。皆さんの健康状態はまずまずの様子で、寝込む人もありません。
皆さんを案内すると同時に小生はトレッキングの具体的な打ち合わせに大忙しです。必要なレンタル商品をチェックしたり、航空券の確認をしたり、仕事が山ほど残っています。
大雑把ながら、食料計画も考えなくてはなりません。食事を全部現地方式でまかなうのはご婦人方にとっては不可能です。日本から持ち込んだ食料は沢山の在庫がありますが、持参していくものとカトマンズにキープしていくものに振り分ける配分に一苦労です。道中の嗜好品の数を増やして変化に富んだものとするには、いくつか買い足す必要もあります。終日このことで頭をひねる羽目となりました。
11月2日
1 | 乾しぶどう 100g | 1袋 |
2 | ピスタチオ 100g | 1袋 |
3 | カジューナッツ 100g | 1袋 |
4 | 乾しリンゴ 50g | 1袋 |
5 | 乾燥果物ミックス 100g | 1袋 |
6 | ビスケット | 2箱 |
7 | キャンデー | 5袋 |
8 | ガム | 5個 |
9 | チョコレート 中サイズ | 7枚 |
10 | ネスコーヒー 50g | 1袋 |
11 | ツナ缶詰 (並) | 2缶 |
12 | 粉末ジュース 100g | 6袋 |
13 | 粉末ミルク | 1袋 |
天候は最近安定しています。カトマンズとルクラの間はトレッキングのベストシーズンなので、どの航空会社も満席状態が続いているそうです。私達は2週間前から予約を入れたのが功を奏したのでしょうか?我々のスケジュールは変更することもなく順調に運ぼうとしています。
所でこの飛行機の予約はかなりずさんな面があります。私が友人を通じて切符購入の依頼をした際、ネームリストを同封しなかったのです。そうすると何と架空名義で切符が作成されているではないですか。帰路便は私達のパスポートを確認した正式な名前となっていました。行きの切符の氏名はでたらめなのです。それでいて、切符を他人に譲渡してはいけないと規則のうえでは記入してあります。シーズン中はプレミアムがついて出回ることもあるこの区間です。
そもそも外国人は地元ネパール人の4倍程度の料金を支払わなければなりません。そんなこともあって外国人に席を販売するほうが会社の大きな利益となります。また販売を引き受ける旅行代理店も手数料が多くはいります。ですから、名前が多少いや大きく異なっていても充分通用するのがこの国の国内航空券のシステムです。
トレッキング許可書も入手できました。国立公園入域料も支払済みです。後は荷物の整理です。皆さんには、個人装備の点検をいってもらうこととしました。さらに閑をもてあますようであれば、帰国の際の土産ものの下調べを兼ねて散歩を勧めておきました。
荷物は出来るだけ少なくするようにと説明しても、どうしても分量が多くなります。実際に体験してみないと何が必要で何が不要なのかピンとこないのも無理はありません。ともかくこれでスタートするしかありません。
当方は近くのスーパーマーケットで食料の調達です。合計1,900ルピー(3,800円)の出費です。今回は参加人員5名で約2週間分の嗜好品や食料計画を考えなければいけません。毎日チョコレートを1枚小出しして、それぞれに配給すると想定しても一人あたり、ほんの1口しか行き渡りません。となると、計算はやけに複雑になってきます。日本からの在庫の状況を年頭に入れながらの計算はパニックになりそうです。
第3章トレッキング
11月3日カトマンズ-ルクラーパクデン
運航を開始して間もない新設のイェティエアーウェーズは、小型セスナ機を2機保有し、カトマンズとルクラの間をピストン輸送しています。概してこの時期はカトマンズの空港は霧が立ち込めるので、早朝便は予定通りに運行することは皆無です。私たちのフライトは8時20分となっていましたが、実際に離陸したのは
10時過ぎです。外国人は現地人の4倍以上はらっていますから、名前の照合などするわけがありません。偽名の切符を手にして堂々と搭乗です。機体は16名分しか席がありますが、客の持ち込み荷物の分量によって定員が変更となります。往復ともに3,4席空いていましたが、外人優先策とかで、ネパール人は次の便に振り分けされてしまいました。かわいそうに乗せてあげれば良いのに。それにもまして、荷物の計量には大変厳しいフライトです。機内持ち込み荷物も秤にかけられるのです。いっそのこと体重によって乗客の料金を設定すれば良いのに。
幸いに私たちの総重量は持ち込み制限の15キロ×6名で90キロを少しばかりオーバーしたようで、超過料金の請求はありませんでした。さて、この便には、何とかして荷物をルクラへ届けたいという商人がうろうろとして、荷物の少なそうな乗客を探すのに目をぎらぎらさせています。「あなたの空港税と超過料金を支払うから、この荷物をルクラまで届けて欲しい。現地では引き取りする人と連絡済みだから。」という論法です。運賃を払っても物資を飛行機で送る方法が、人件費をかけて徒歩で何日もかけて運ぶよりも安上がりのようです。しかし、今は観光客の集中する時期ですから、荷物を運ぶよりも、外人を運ぶのが先決です。優しそうに微笑みを浮かべたシェルパの夫人が私たちに近づいてきました。かなりしたたかな心のもっているようです。我々は、自分たちの荷物で限界なる旨を伝えてお断りしました。
白と緑でデザインを施したセスナはわずか35分でルクラに到着しました。道中の眺めは最高です。山の塊が目前に迫ってきます。谷間を縫うようにして川が蛇行しているのが良く分かります。標高差によって作り上げられる植生分布がくっきりと浮かびあがってきます。キュッキュッキュと軽快な音を込めて傾斜の強いルクラ空港に到着となりました。
ここで、今日からお世話になるポーター2名と合流です。まずはルクラで昼食を取り、本日の目的地パクデンに向かいます。
11月4日 パクデンーナムチェバザール
昨日はルクラからパクデンへと標高を下げました。今日はいっきに標高を稼ぐことになります。パクデンの夜は谷あいの清流の音が響く中で心地よく眠りにつくことが出来ました。
快晴の中を谷沿いに道が果てしなく続いています。互いに先になったり後ろになったりしがなら進みます。この街道は中国へも続く交易のルートのひとつです。道もしっかりとしていますから迷子になることはありません。時々遠くかなたに白き峰峯が姿を忽然として現しますから、退屈することはありません。今日は標高3,000メートルを越えるナムチェバザールまでたどり着く予定です。皆さんの足は結構丈夫なようで、行程は予定通りに進んでいます。トレックの道中はどうしても、早寝早起きが習慣となり、大体誰もが、すがすがしい朝を迎えることとなるのです。空気は澄み切っていますし、眺めも良いので気分爽快が常なのです。
ここで、ポーター親子のことを紹介しておきましょう。お父さんはアンカミの遠い親戚にあたるとかで、同じ村の出身です。年齢は42歳で奥さんと2人の息子、それに4人の娘を抱えた大所帯です。長男はすでに結婚し、二人の娘がいるそうです。同じ村に住んでいるのですが、別に家を新築して住んでいます。この長男は中学校も卒業し、読み書きもしっかり出来る人物だと自慢しています。さて、その次が12歳の次男です。今回お父さんと一緒に始めてのトレッキングです。お父さんの身長は低いのですが、体重が80キロもあり、がっしりとした体格を備えています。普段は農業を営んでいるそうです。また小さいながら店ももっていて、11、7、9、4才の娘たちが学業の傍ら手伝ってくれるとの話です。本人は9歳から14歳までの間はインドのシッキムで住んでいたそうで、私がそこを昨年訪問したことを話すと懐かしそうに聞いてくれました。とうさんは大変な力持ちです。40から50キロの荷物を背負い、呼吸の乱れもなく、マイペースでトコトコと坂道を登ったり降りたりしています。新参の息子も自分の体の重みをはるかに上回る分量の荷物を平気で運んでいます。我々の目からすると、怪物的存在です。でも彼らにとってはさほど苦にならないようです。
息子の名前はミンマチュリです。幼いころは別の名前でダマイ・サルキ・シェルパを襲名していたのですが、大きな病を患って改名したそうです。これが今でも村落部に存続する病気に対しての策のひとつでしょう。その後は順調に育ち現在に至っているそうです。
さて、私たちのグループの一人が、自分の孫のような子供にあんなに大きな荷物を持たせて、自分は空身で歩いているという現実を目前にしてなき始めました。しかし、これは涙をこらえるしかないのです。彼らにとってあの程度の荷物の分量は日常茶飯事のことで、苦痛になるほど重いと感じていないのが実情です。それが証拠にすぐ動けなくなることもなく、元気で快活そのものです。質問すると、ちょっと重いかなぁという返事が返ってきました。
私たち日本での日常生活では、重量物を運ぶ作業はその多くが機械化され人力で運搬している光景を目にする機会は大変少なくなりました。所が彼らにとっては絶好の仕事の場所となっているのです。彼らの目からすると、私達がパソコンを持ち歩き、デジカメで撮影したものを本体に取り込んでいる作業のほうがはるかに苦痛を伴う仕事に映るのです。我々にとって日常茶飯事でも、彼らにとっては複雑極まりない仕事となります。もちろん私が40キロもの荷物を背負ったならば、ふらふらよろよろして、事故の元となるでしょう。
さて、一時的な感情論で彼らがかわいそうだと涙ぐんだとして、その後どうなるのでしょうか?そのような負担を即刻中止しても解決にはつながらないでしょう。私達が本当に彼らに対して人生の責任を取り続けることが出来るでしょうか?今ポーターの仕事を止めても、いつかは別の人に雇われるのは明白です。彼らはその他にどのような手段で、この地で現金収入を得ることができるでしょうか?
私達は彼が学業を続けるに充分な支援を与えることができるでしょうか?充分な勉学を積んだとしてもそれに見合う職業が確保出来るとは限りません。以外に私達の力は小さいものです。人を支援するには、それなりの資金と時間が必要と思います。
ミンマは今回、自分が通っているラマ教寺院で1月の休みがとれたのでそれを幸いにして、やって来ました。年間4,000ルピー(8,000円)の謝礼を払うことによって寄宿生として、併設されているゴンパで勉強できるとの話です。謝礼の1部を自分の力で捻出す絶好の機会です。1日150ルピーの日当ですから、親子で働けば、2週間で学費を上回る現金収入が期待できるのです。ともかくがんばらなくてはいけません。
さて、道中何度も休憩を挟みながらのチンタラ道中でしたが、夕方の4時半過ぎには、今日の終点ナムチェバザールへ到着です。ここは、昔から交易の場所として栄えた街で、斜面にへばりつくように立ち並ぶ家々が印象的です。中国へつながるルートは標高6,000メートルもナンバラ峠を超えて500年以上も前から行き来があったそうです。
ここより先にあるタンボジェの僧院は数年前に火災にあって再建されたのですが、350年前に建立された由緒あるラマ教寺院のひとつです。
今日は登り道の連続で皆さん少しばかり疲れ気味です。精神的にも疲れが生じたのでしょうか?何しろ標高3,800メーターですから、富士山に匹敵する高さです。夕方は仲間の間でちょっとした不和がありました。この不協和音はこれからも尾を引きそうです。しかし、これも旅にはつきものです。深く考えないようにしましょう。
11月5日 ナムチェープンキテンガ
今朝のミンマはご機嫌です。昨日給料を前借りして、新しいズックを買って貰ったのが理由です。ここでは中国製の商品がカトマンズよりも安く手に入ります。彼は、見よう見真似で私達の寝袋をたたんだり、モーニングティーを運んだり、あれこれとこまめに動いています。
通常のトレッキングコースの組み方としては、高所順応をかねて、ここに2泊したうえで、タンボジェへ向かうのが一般的です。昨夜は仲間の二人の体調が思わしくなかったようです。私達はいったん標高を下げる方法をとり、次の宿のある、谷間の部落プンキテンガまで進む計画を立てました。
ナムチェの町から村外れの丘を経由しなくてはなりません。実際の距離は短く、標高差もそんなにないのですが、この付近は4,000メートルに少し手前という位置です、しかも私達の体はまだ高所に順応しきっていません。足は少しずつしか進まないのです。しかし、この部分を乗り切るとほぼ水平に道が続いています。絶好の展望の連続です。サナサに近くなると、明峰アマダプラムが独特の容姿をくっきりと浮かびあがらせています。全員興奮が冷めません。昨日の不協和音は次第に萎縮していったようです。
さて、サナサで昼食です。ここでは日本人のグループが、タンボジェ方面からやって来たようです。彼らもここで昼食タイムです。日本人のリーダーが、ガイドに何やかやと指示を出しています。私達はガイド1名、ポーター2名の総計8人の構成です。対して彼らは日本人だけでも20名程度の集団ですから、リーダーはさぞかし大変なことでありましょう。彼らと我々の違いは、リーダーとガイドのコミュニケーションが現地語のネパール語を通じて対等に行われることです。また現地の事情を的確に把握したうえで出来るだけ現地方式に近づくべき努力をしているという2点ではないでしょうか?
通常のパターンは横柄なる日本人リーダーが現地ガイドをあごで使うという傾向が多いようです。最悪のケースは日本人がネパールに怒鳴り散らす場合も時として発生しているようです。その反面参加者に対してはニコニコ顔をするのです。ガイドも心得たもので、無理難題を飲み込んで、卑屈な態度で仕方なく対応しますが、ネパール人同士で、裏で多分に文句を言い合っているのでしょう。我々の基本方針はネパールの文化と伝統を尊重することが原則です。出来るだけ努力したいというのが本音です。というと少々うぬぼれているのかも知れません。
サナサからは急勾配の下り坂が続きます。ルクラを出発したときから巻きつけたテーピングが効果を発揮しています。誰も膝をいためることなく無事到着です。
このプンキテンガは小さな集落でシーンとしています。多くのトレッカーは僧院があり、眺めの良いタンボジェで宿泊するからでしょう。宿はガランとしていました。私達専用の貸し切りの宿になりそうです。主人は突然の大量の客を得て俄然張り切りました。ローソクの灯る中で夕食をとり、今日も無事1日が終了しました。
11月6日 プンキテンガ パンボジェ
いつものように、朝早く目がさめました。ベッドティーの甘味が頭の中をすっきりとさせてくれました。といっても、山で飲むミルクテーの多くは粉ミルク使用ですから、カトマンズやポカラなどの本当においしいチャイに比べると味は落ちているのですが、空気の良さがそれをカバーしてくれるようです。
目の前には急坂が待ち構えています。とにかく大変な所へやってきたというのが実感です。ともかくこの坂を乗り切らないと話は進みません。一時間ばかりかけて坂道を上り詰めると今まで見えなかったアマダプラムがくっきりと威容を現したのは感激です。ここがタンボジェなのです。真っ青な空にくっきりと雄大な風景が広がりました。苦労の後の喜びは大きいものです。ポーター親子は早速寺院へお参りにいきました。アマダプラムを前にした草原の広場では市がたっていました。
みかんが1個20ルピーですから、平地の5倍以上もの価格です。しかし、久しぶりに口にした天然果汁の味は蜜の味とでもいいましょうか、天国へ昇る気分で口の中に入っていったのです。
ここで、30分ほど休憩をして再び進行です。このあたりから皆の歩行速度に開きが出始めました。早く歩ける人が先へ進むのは大歓迎です。トレッキング開始のころは典型的な日本人方式で、全員一致で同じ歩行速度を守り、一糸乱れず一つの集団となって行動していたのですが、もうこのあたりで限界です。今までは足の速い人は先へ進むのを遠慮していました。足の遅い人はせかされているように感じていたでしょう。結局そんなことから離れてもう少し自由に歩く方法を採用です。先発のグループは私が、アンカミが最後尾につくことで結論がでました。ポーター達は完全に彼らのペースで歩いています。食事をしたり、お茶の時間にとなるときのみ一緒になります。この方法が互いに足を引っ張ることもなくベストかも知れません。
タンボジェはちょうど祭礼の最終日とかで、沢山の参拝者でごった返していました。昼食はここから30分ほど奥にあるデボチェでとることとなり。ここには立派な宿があります。食事も山奥なれど凝っています。よしよし、帰路はこの宿にとまる事としましょう、日当たりも良いし、トイレも清潔です、食事もおいしいし…。今日はまだ半日しか行動していません、もう少し先のパンボジェが目的地です。もう少しがんばりましょう。景観も徐々に変化して来ました。このあたりからは、緑も少なくなって来ました。今までとは違うところにきたことを実感させてくれます。
先発隊より半時間ほど遅れて最終グループが宿に到着しました。お湯を貰って喉を潤し、ホットひと息です。皆さんはかなり疲れた様子です。先はまだまだ長いのです。歩き始めて今日で4日目です。この先はどうなるでしょうか?
11月7日 パンボジェーペリチェ
私達のトレッキングのパターンはちょっと変則的です。現地の宿が提供する食事と持参した食事を巧く組み合わせて、経済的にかつ栄養分も充実させようというのが狙いです。元来食堂への食料持込は禁止が原則です。それを日本からのご婦人方は体が弱くて病気がちであることを理由に、毎日何杯ものお湯を貰い、和製純味噌汁やインスタントコーヒーをたしなむ結果となりました。体が参っているからということで、部屋へ食事を運び込みました。しかし、実際は元気もりもりです。申し訳ばかりの注文した現地食に種類多くの日本食品(漬物、梅ぼし、その他もろもろ)がテーブルにごっそりと並び食欲をそそります。そんな日々が続きました。標高が高くなることに、ポット1つ分のお湯にも料金がかかるようになりました。同じくして、皆さんの食欲も次第に減退していったのです。
こうした食料の調整には一番気を使います。トレッキング道中として準備した日本からの食料はどうも多すぎる感じです。一部はナムチェの宿にデポして、帰りに使用することとしました。ポーター親子の荷物は次第に軽くなっていくのです。
このあたりは。谷沿いの道です。次第に高さをましていきます。ペリチェまで後一息というところでカルカ(牧草地)が広がっています。ここで私が準備したオレンジジュースを振る舞いました。これは、この粉末ジュースは全員を相当元気づけたようで、もう少しくださいとお代わりの希望もでたほどです。所でこのジュースは毒を仕込んだものではありません。実をいうと現地人の飲む普通の水、すなわち谷からの涌き水で粉末ジュースを溶いただけなのです。いつもは煮沸した水を利用するのですが、今日は、面倒なので、普通の水を水筒にいれジュースに仕上げてしまったのです。誰もこの事実を知りません、知らぬが仏とはこのことでしょう。皆さんはそんなことをまったく気にせず、信頼しきって口にしていました。病は気からおこるものが多いと思います。ともかく先入観というのは恐ろしいものです。その後誰かが、このジュースが原因でおなかの調子が悪くなったという報告はありません。疲れが蓄積して体調が思わしくない状態はこれからもつづいたのですが…。
11月8日 ペリチェードゥグラ
朝、目を覚ますと部屋のガラスは水滴がついて曇っています。水滴を取り除いて外をみると全体が白っぽく見えます。外へ出てみると、案の定地面には霜柱がたっていました。ここまでくると朝晩かなり冷え込んでいることを感じます。食事も次第に簡素なものとなり、物価も上昇しました。そんな中で一番おいしいと感じるのは、茹でたジャガイモに塩をつけて食べることです。他の品物は胃にもたれます。最近はどんな山奥へいっても圧力鍋がありますから、このような標高の高い場所でもご飯はふっくらと炊き上がるのです。その反面、ラーメン注文すると、普通の鍋で調理するので、半生の状態で決しておいしいとは言えません。
この宿も、本日は我々で貸し切りの状態です。周囲は雄大なる山々に囲まれています。冬はここでは数メートルもの積雪を見るそうです。住民はどこへ出かけることもなく、ひっそりと数ヶ月の間、家にこもったまま生活するそうです。
皆さんの歩行ペースが大きく乱れて来ました。道は見通しも良い一本道ですから迷うこともありません。高度障害とやらは個人差がかなりあるそうですが、1部の仲間に出始めたようです。実にゆったりと一歩一歩ずつしか足を運べない人もいます。何人かは、風邪に似た症状を訴えています。ペリチェとドグラの間は、もし、平地だとしたら一時間もかからずに到着できるのですが、今はすごく時間がかかります。ドゥグラに到着した時は全員バテバテです。一刻も早く横たわりたいのが本音です。小生は元気そのもので、午後からは宿の前に見える丘を目指してもうひと頑張りです。丘の上からの眺めは抜群でした。遠くには、名峰プモリが美しい姿を誇っています。私は高度障害がでることもなく、食欲も充分あります。これならば、最終目的地なるカラパタールへの到達も夢ではありません。標高5,000メートルが近くなってきたのです。
さて、つかれきったメンバーの眼にパイナップルの缶詰が飛び込んで来ました。子供のようにそれにむしゃぶりついてしまうのも当然です。疲れたときには、甘くて口当たりの良いものが欲しくなるものです。この缶詰で心が平静になったのかも知れません。全員午後の睡眠時間に突入です。
さて、これから先への行程をどうするか、冷静な判断が必要です。カトマンズへ帰る日程からすれば、まだ余裕があるのですが、無理は出来ません。全員はかなり疲れているようです。一部の人には高度障害の症状が収まりそうにありません。これより奥へ進行すれば、万一事故が起きた場合に引き返すのが大変です。日程に余裕があるのならば、ここから別のルートでゆっくりと下山すれば良いという判断に達しました。まだ、内輪同士で何かネチネチと内輪もめが続いています。そのうちに解決するでしょう。
11月9日 ドゥグラーディンボジェ
今朝は皆さん昨日よりも体調が良いそうです。最近朝食として、おかゆを注文する回数が増えました。どうもこれが私達の口に一番合っているようです。
今日のコースが今までの中で最も快適なルートです。はるか下方には昨日苦労して歩いたペリチェの谷を見下ろしながら、なだらかな高台の上を緩やかな傾斜で下降していきます。メンバーの中には、目標とした、カラパタールへの道を断念せざるを得なかったことが、心の隅にわだかまりとして残っているのですが、そのことは、この雄大な光景に飲み込まれてしまったようです。このコースは是非とも歩きたい取って置きの部分です。皆さん、見逃さないようにしてください。
ディンボジェからは、アイランドピークがしっかりと見ることが出来ます。アマダプラムも間近かに望むことも出来ます。この集落はかなり大きなもので、いくつもゲストハウスが並んでいます。今日の宿は我々のガイド、アンカミの親族の経営する宿となりました。ここでも、他に客はいませんから、私達専用の宿となりました。主人はあれこれと気を配ってくれました。清算するときは、大幅に割引をしてくれたようで、あれこれ厄介な注文をしたにもかかわらず嫌な顔もせず引き受けてくれました。今日も午前中に到着しました。
私はポーターもメンマを引き連れて近くの丘へ探検です。彼にとっても、タンボジェから先へは来たことがありませんから、何となく嬉しそうで、はやいでいます。この地域には、路上にゴンパが祭ってあります。僧院で学んでいるからでしょうか、大変信心深い性格の持ち主です。「こうして、右回りに回ると功徳が積めるよ」と講義を受けながらの散策です。しかし、裏山の登頂はかなりきついものがありました。私もそろそろお年かも知れません。
地図とにらめっこしながら、皆さんの体力を確認しながらの作戦会議です。明日はどこまで進もうか?日本からの食料も少なくなりました。ナムチェに帰れば手に入るのですが…・食事の際には、お湯を貰って味噌汁を出すのが日課となっているのですが、在庫が少なくなって来ました。全員の士気を高めるには、食事しかありません。その切り札が底をつき始めました。
11月10日 デンボジェーデボチェ
本日は下り坂専門です。これは、山が遠ざかっていくことにもつながります。日中の天気は快晴で、ぽかぽかとしていますから、鼻歌気分で下山です。思い思いの場所でシャッターを切りながら、足取りも軽く一昨日の死にそうなけはいはどこにも見当たりません。
今回のご婦人方のトレッキングは登山隊のそれのように、各自が役割や分担を担っているわけではありません。各自が食料担当、記録係など責任をもった立場であれば、もう少しまとまったかも知れません。もしかしたら、全員は不可能でしょうが、1部の有志は目標のカラパタールまで達したかも知れません。
実際は、すべての役割が当方の身にかかってきたのです。食料の調達、ネパールの文化解説、病気に対してのアドバイス、トレッキングの進路の決定、おまけに内輪もめの仲裁にまで気を配らなければなりませんから、頭の中はパンク寸前です。
カトマンズを離れて、いや日本を離れて2週間以上も経過しています。おまけに毎日がきわめて単純な日々の連続です。(地元の人々からすると大名旅行)ですから、次第に欲求不満が高まってきます。お互いに疑心暗鬼となり始めたのです。これは、大変なことです。このままで放置するわけにはいきません。硬直した人々の心理をほぐすのは難しいことです。かろうじて、全員がもう少しでカトマンズへ帰るのだという共通意識が全員を支えていたのかも知れません。
長期のトレッキングには、メンバー同士の理解が当然のことながら必要となります。場合によっては、各自が団体行動という原則から自制しなくてはいけない場合もあります。今回のグループは少しばかりこういった面が欠落していたようです。各自が思い思いの発言をして、話はすっきりとまとまりません。思いのままの行動が、収拾のつかない場面を繰り広げていったのです。
見覚えのある橋を渡り、林の中を通過するとディンボジェに到着です。往路はここで昼食を取りました。宿の人々も我々を覚えていました。この宿は外国人にも定評ある宿で、続々とトレッカーが押し寄せ、すぐに満室となるのです。客の中に混じって一人のガイドに会いました。彼は日本にいったことがあるそうです。しかもそれは、研修という名目で日本へ出稼ぎに来ていたのです。しかも、それは、私の住んでいる場所に近いのです。1年ほど日本で生活をしていましたから、日本語は上手です。今は稼いだ金で地元に大きな家をたて、ガイドの仕事をしながら毎日を暮らしているそうです。
この研修というのは、多少本質から離れているのが多くの事例です。建設業関連の研修だったのですが、今はまったく関係のない仕事をしています。
ガイドの仕事も様々です。もう一人のガイドは総勢20名のグループですが、その中の一人が高山病にかかりました。その人を安全に低地まで下げるのが任務という場面にも参加しなくてはなりません。しかし、彼らは生まれ育った時から空気の薄い所で生活していますから、また、寒さにも適応していますから、何の苦痛もなく平気で暮らしていけるのです。体質が完全に異なるようです。
11月11日 デボチェーサナサ
デボチェからタンボジェまでは、20分ほど石楠花の林の中を歩くと、あっという間に到着します。今日も快晴で真っ青な空が広がっています。本日の予定は谷へ降りてまた谷を登る大仕事が控えています。タンボジェからは、サナサを眺めることが出来ます。直線で結ぶとすぐなのですが、自然は、我々のわがままを聞いてくれません。タンボジェから後ろを振り返ると、一昨日宿泊したディンボジェのそばにある丘が小さく遠くに見えています。あの丘の裏側で一夜を明かしたと思うと、遠くまで足を運んだものと感慨無量となります。人の足はかなり強いものです。また、いつかこのルートに足を踏み入れることを考えてしまいました。
さて、プンキテンガで昼食を済ませ、一休みです。ここまでは、今日の行程の半分です。急坂を登るとサナサですが、あっけなく到着してしまったようです。この宿では太陽発電の装置があり、夜間は数時間ですが、電灯が灯ります。自動車用のバッテリーを1基用意して、日中電気を溜め込んでいます。日常の点検に問題があるようで蒸留水のレベルがかなり下がっています。これでは、せっかくの最新設備が充分に機能しません。
さて、ここで、日本製の食料が空っぽに近い状態となりました。まだ、2時を過ぎたばかりです。ポーターのお父さんと私の二人がナムチェまでピストンして食料を取りにいくこととなりました。私がいかないと何が必要で何が不要なのか分かりません。今日と明日の2日分を上手に振り分けしなくてはならないのです。明日はガイドの村として有名なクムジュンで1泊する予定です。
かなりのピッチでナムチェに向かいました。荷物も持たず空身です、道は水平に近い状態で起伏はありません。地元の人の足では、往復2時間半との話です。ナムチェで30分間休憩したのを加えると地元の人々と同じペースで往復したことになります。帰路サナサに近くなり、日も暮れようとしているのに、何人ものトレッカーがナムチェに向かって歩いていきます。これだとナムチェに着くころは日が暮れて暗くなっているだろうに、と余計な心配をしてしまうのでした。
運び込んだインスタントのお汁粉は大好評です。余程日本の味が恋しかったのでしょう。他に話題の種となるものが何もなかったかも知れません。
対岸の山腹に野火のようなものが見えてきました。登山道のあるところではありません。断崖絶壁の孤立したところと見受けました。一体あれは何だったのでしょうか?翌日になって判明したのですが、それはどこかの登山隊のキャンプ跡だったようです。それにしても、よく道なき道を進んだものです。ここサナサは山腹の中程より少し上に位置し、眺めの良い場所です。ここから道はクムジュン、ゴーキョ、ナムチェ方面と分岐するのです。夜は星がきれいに輝いていました。
11月12日 サナサよりクムジュン
サナサの一角には「クムジュンまで30分、00小屋へどうぞ」という表示があります。どうもこの表示にはいろいろと裏があるようです。正しく解釈すると、クムジュン入り口まで30分と解釈するのが正解です。トレッカーを惹きつける策として、必要時間を出来るだけ短く表示する常套手段のひとつです。目的地とする集落が長細い場合はこの時間では到達できません。しかし街の入り口であれば、表記してある時間内で到着するのも事実です。知らない人はそれでは、もう少し進んでみようと判断する人々もいないことはないでしょう。
私達はこの区間をゆっくりと、しかも通常のペースを倍にして歩きました。それでも、あっけなく到着です。この街は盆地の中に出来あがっています。立派な家を数多く見受けることが出来ます。多分この地域から多くの人々が海外へ出稼ぎのでかけていることでしょう。毎年、莫大な資産がつぎ込まれた結果と解釈しても誤りではないでしょう。エベレストをバックにガイドの里として外国との接触の多い有名な村です。ヒラリー学校もあります。電気も供給されています。合法であれ、非合法であれ、海外で職が見つかるといっきにおお金持ちとなる可能性が高まります。この地域ではバイクや車を買っても道路がないので役に立ちません。ですから、外国からのマネーは建物に投資され、立派な家並みが続くのです。
この宿はきわめて商売上手といいますか、計算の細かい店でした。お茶のいっぱいですら、記入漏れがないような気の配りようです。他に気配りしなければならないことが沢山あるだろうに…。
クムジュン村は本当に日当たりの良い土地です。盆地ですから、強い風に吹きさらされることもなく、ぽかぽかした小春日和を感じさせる所で別荘地としては最適かも知れません。午後からはエベレストビューホテルまで散歩です。確かにここからはエベレストが遠くではありますが、はっきりと見ることが出来ます。なかなかの絶景を楽しむことが出来ました。
11月13日 クムジュンよりナムチェへ
今日の行程も易しそうです。クムジュンより飛行場のあるシャンボジェを経由して、その麓へ降りるとナムチェバザールに入ります。すなわちクムジュンの村はナムチェの背後に位置していることとなります。早速、公衆電話(いや貸し電話)を利用して日本へ無事なることを報告です。昨日までは皆さんしゅんとして気分がすぐれなかったようですが、久々の都会に出てきたものですから、顔がほころび始めました。一日々とカトマンズが近くなったのも皆を元気づけたことでしょう。
明日は、運良く週に一度開催される市の立つ日です。私達の宿泊するカラパタールロッジは今日も満室です。この地域は宿の数も多く競争しないと客は入りません。どの宿もサンルームを用意して、客が少しでも快適に過ごせるようにとサービス合戦を繰り広げます。今日はお祭りの余興として、地元の女性達が寄付を募りながら、歌とダンスを披露しながら、各家庭を回っています。夜遅くまでそのリズムが村中に響き渡っていました。
11月14日 ナムチェよりパクデン
ナムチェの朝市は週1回開かれ、午前中で終わります。近郊からの人々が押し寄せて大変活気があります。商品の種類も豊富でインド製の雑貨から中国製の衣料など何でもそろっています。新鮮な野菜もどこからともなく運び込まれています。ヤクの生肉、乾し肉も並ぶこの市場に巡り合ったのは幸運です。商人の顔ぶれはチベット系、シェルパ系、インド系、ネワール系と雑多です。狭い広場には、所狭しと商品が山積となっているのは圧巻です。そういえば、ジョムソン街道では、インド系の野菜売りが天秤棒にしこたま商品を満載して、石段を登っていたのを思い出します。
ポーター親子はかなり先に出発しています。昼食の代金も前渡ししてありますから、自分たちの気に入りの場所で食事をするでしょう。お父さんは口数も少なく黙々と荷物をかついで歩いています。息子は素直に親の指示に従っています。昨夜は、我々のメンバーから少しばかりのプレゼントをもらって大喜びです。トレッキングも終わりが近くなりました。標高も次第に低くなりました。高所用に準備してきた衣料は不要となりました。日本へもって帰っても仕方ありません。洗濯さえすればどれだけでも現地では利用できそうです。ポーター親子は自宅への土産がどっさりと増えました。
秋は日の暮れるのが早いのは、ここでも同じです。少し薄暗くなったころパクデンに到着です。ポーター親子は2時間前に現地に到着です。息子の方は我々を迎えに来てくれました。なんと足の速い人々でしょう。部屋もすっかりと準備完了です。明日もう一日歩けば、今回のトレッキングが終了です。天候が崩れませんように。事故や病人が出ませんように。
11月15日 パクデンよりルクラ
パクデンからルクラまでは緩やかな登り坂が続きます。朝ゆっくりと出発しても午前中には到達するでしょう。このあたりの標高では、作物が各種育つようです。田畑があちこちに開け、日本の山村の風景と何ら変わりはありません。トレッカーの多くはナムチェで折り返す人々が大半ですから、ここは、人通りも多く賑やかです。通称、エベレスト銀座とも呼ばれています。日本人のグループにも会いました。担架で運ばれている病人のトレッカーを目撃しました。トレッキングの思い出を皆がそれぞれの形で持ち帰っていくのでしょう。遠くにルクラの家並みが見えて来ました。歩け歩けの指令はあそこで終点となるのです。それにしても13日間良く歩き回ったものです。その間には、さまざまな出来事がありました。
ルクラの宿に着いた時は、一足先に保坂さんがカトマンズへ出発したという情報が入りました。エベレストBCへ単独で出かける予定の彼女は日本からルクラまでは我々と行動を共にしていました。ここで新たに専用のガイドを雇い無事目的を達して昨日カトマンズに飛んだそうです。彼女は10年以上前からネパールをいったり来たりしてトレッキングを楽しんでいる人です。前回のランタンに出かけたときに知り合いとなり、今回は時を同じくして日本を出発したのです。
我々も無事に旅が終わりそうです。明日のフライトを待つのみとなりました。今日はポーター親子とも最後の夜となります。いつもより夕食をリッチにして、ささやかな送別会を開くこととなりました。
11月16日 ルクラからカトマンズ
今朝は空を見上げると雲がたくさん沸いています。今までは青い空が広がっていたのですが、そろそろ季節の変わり目なのかも知れません。宿の人の話によると、今日の便はいつもより遅くなるかも知れないということです。それは構いません。何しろ空港と宿は同じ地域です。目と鼻の先に位置しています。飛行機の音が聞こえてから出発しても充分間に合います。荷物を空港に運び込み様子をさぐると、今日のイェティ航空の便は3便あるのだが、飛行機が1台不調で、残りの1機が折り返し運転をするからあなた方の搭乗予約の便は2時間程度遅れるとの話がありました。仕方がありません。待つしかないのです。先客が既に搭乗券を手にしていますが、彼らは第一便の乗客です。それが出発しないと次のチェックインは始まりません。今からカトマンズを往復すると一時間以上かかります。日本からの団体客が第一便で出発です。彼らは日本のある山小屋の主宰するツアーのグループです。1日あたりの費用は40ドル(5,000円)程度でやりくりしているそうです。もちろん飛行機代金は別計算です。かなりの大名旅行ですが、山の中での生活は我々のそれとは大きく変わることはありません。誰かが、大儲けしているのに違いありません。日本語が話せるガイドは日本の山小屋で4年間仕事をしていたそうで、来年の夏も日本へ仕事に出かける予定と張り切っていました。
私達は運良く第三便の切符が第二便に変更となりました。ルクラの空港は急な坂の上で造成されているので有名です。機体は坂道を転げ落ちながら突然ふわりと宙に浮いていくのです。機体が高度を上げるにつれて、山の気象が手に取るように分かります。標高3,000メートル以上は真っ白になって雪化粧をしています。上空には厚い雲が立ち込めています。ここへ来たときは、青い空に黒々とした山並みを見たのに、ここ2週間で様変わりです。翌日から3日間は天候不順で山岳方面へのフライトは全面中止となりました。やれやれ危機一発とはこのことなのでしょうか?
無事カトマンズに到着してほっとしました。久しぶりの大都会です。ホットシャワーと日本食の夢が実現する場所です。期待を抱きすぎたのか、宿の値段を値切りすぎたのか、勇んで宿にチェックインしたものの、シャワーの水はいつまでも熱くなりません。熱湯が出るようになったのは翌日でした。その間何度となく受付へ苦情を申し入れたことでしょう。トレッキングの料金を精算したり、借りた品物を返却したり、いつまでも忙しさに翻弄されました。しかし、これも見方を変えれば勉強のひとつです。今夜はふるさとという日本レストランで久しぶりに和食をたしなむこととなりました。
これでトレッキングは終了です。続いてポカラへの旅が待っています。
第4章再びカトマンズ
11月17日
今日は休憩の日となりました。皆さんはそれぞれに、洗濯や写真の整理そして荷物の整理に時間がかかりそうです。天候も今一つすっきりとしない肌寒いカトマンズです。聞くところによると、ナムチェは膝まで積雪があるそうです。こういった情報はシェルパ仲間では早く伝播します。カトマンズでのトレッキング情報はシェルパ系の人々の経営する店で聞くのが正確で最新の情報を持っています。今はどこが通れて、道の状況はどうなっているかを即答えてくれるのです。
私は、帰路のカトマンズからバンコクそして東京への切符の再確認をするだけで、終日のんびりと過ごすことにしました。帰国までまだ一週間ありません。それまでカトマンズでごろごろしていても仕方がありません。様子を見ながらポカラへ出かける予定でも組むことにしましょう。
皆さんは今日でカトマンズの滞在が通産6日目となりますから、それなりに土地感が身についたようで、近辺の土産物を冷やかして歩くのはベテランとなりました。カトマンズ市内では、日本語が充分通用しますから、その気になれば、何の不自由もなく生活できるのです。始めはどうしても構えてしまいがちですが、オバタリアンの集団は生き生きとし始めました。次第に彼らの行動は大胆なものと化していくのです。
私も今日は少しばかり体調が思わしくありません。少し熱があります。気候の変動と今までの精神的な疲れがどっと現れたようです。早速皆さんから手厚い慰めの言葉と薬を頂戴しました。皆さんの薬袋にはありとあらゆる薬品が大量に積めこまれているではないですか。私達の日常生活は薬品慣れし過ぎているようです。ちょっとしたことですぐに薬を服用します。飲んだ薬の副作用を押さえるために、また薬が必要となります。こうして、1回の投薬量は増大し、5~6種類に及ぶことは珍しくありません。1日これを通常3回繰り返すのですから、私達の体の中には大量の薬品が流れ込む勘定となり、これでは身体が参ってしまうのも無理はありません。自然の治癒力が次第に衰えていくのは当然です。薬は出来る限り控えて、最小限度にとどめたいものです。
11月18日
昨日は薬を飲んで早々に眠りにつきました。夜中にどっと寝汗をかいたためでしょうか、熱もぐんと下がり今日は気分良好です。明日はポカラへでも出発しようと考えが沸いて来ました。アンナプルナの山群が姿を見せてくれれば良いのですが、今日もカトマンズは肌寒く、雲の多い日です。
今日の夕食は近くの八百屋で野菜を購入し、アンカミの持ち込んだ石油コンロを利用しての日本食オンパレードとなりました。日本から持ち込んだ食料があれこれ残っています。お正月にはまだ早いのですが、雑煮が登場しました。主婦の手は慣れたもので、インスタント食品を巧みに組み合わせて器用に出来あがっていきました。やはり、日本の主婦の手にかかると、火加減と塩加減に気を配るからでしょうか?出来映えは一味違います。はるか遠方から持ち込んだ甲斐が充分あったと実感します。
食料品がなくなったスーツケースには、土産物がどんどん入り込みました。お土産天国、買い物天国のカトマンズは主婦の目にかなうものが沢山あります。また値段も手ごろで、刺繍入りのT-シャツ、ネパール和紙のカレンダー、偽ブランドの山用ジャケットなど目移りがします。ネパールでは一流ブランドのステッカーを貼ったコピー商品がまかり通っています。リュックやテント、ジャケット、防寒具などの登山関連の商品がオリジナルの4分の一程度の価格で販売されています。韓国や台湾から素材を輸入し、見よう見真似で、外人の置いていった山道具からヒントを得て、同じ製品を作成しているのです。しっかりと見ると違いは明らかですが、チラッと見るだけでは、本物との区別がつきません。むろん品質も落ちているのですが、普段着としてはまったく問題はないようです。
その他にもっと魅力のあるのは、インドのカシミールからの絨毯です。本格的な品物は、最初の言い値が50万円、次に立ち寄ると30万円と呼び込みがかかりました。今度ネパールへきた時はあれを買いたいという希望も出ました…。そろそろ皆さんの懐具合も心細くなってきたようです。
第5章ポカラへ
11月19日から21日
昨日予約してあったミニバスを利用してポカラへ向かいました。3泊4日の旅ですから、荷物はデーバッグのみという簡単な出で立ちです。ミニバスは他のバスよりも値段が高いのですが、ポカラ~カトマンズ間を6時間で疾走します。道路事情も良くなりました。
しかしこの山岳道路の修復工事は永遠に続きそうです。崖崩れが発生すると、その周囲を掘り起こして石垣やセメントで固めます。すると数ヶ月すると、その隣の地盤が緩んで連鎖反応が続きます。交通量も増加する一方です。雨季には集中豪雨となり、修復した場所で準備された排水経路が予想通りに作動せず、予期しない方向に流れ込みそれが地滑りを誘発します。
今回は事故にも遭わず予定通りポカラに到着です。オンボロ市内バスに乗り換えてダムサイドに到着です。湖に面した日当りの良い部屋でぐっすりと安眠することが出来そうです。高橋さんはこの宿が昨年に続いて2度目となりますから、宿を経営する家族はしっかりと彼女のことを覚えていました。久しぶりの対面を懐かしんでいました。ここしばらくは、山がきれいに見えなかったそうです。そろそろ天候が回復して欲しいものです。そうしないとここポカラの魅力は半減します。ここには、3日間泊まる予定ですから、そのうち1日ぐらいは晴天となって山を仰ぐことが出来るでしょう。
ポカラのダムサイドレークサイドはまったくのんびりとした場所です。市街地(バザール)へ足を伸ばすと交通量も多く人の往来も激しく騒々しいいのですが…。そんなことで旅行者が静養するのにふさわしく、溜まり場ともなっています。特に湖に映えるアンナプルナやマチャプチャレの姿は豪壮な雰囲気を保っています。観光するといってもこの街はカトマンズのように古くて由緒あるものではありません。とにかく、山を眺めるには最高の場所のひとつといえましょう。幸いに3日間の間に1日は山々が姿を見せてくれました。当方も一安心です。ともかく3日間は近くの丘へ散歩に出かけたり、滝やダムを観光したりのんびりと過ごすことに徹しました。
しかし、今回のポカラの印象はいつもよりも薄らいでしまったのです。それというのも、エベレスト街道を歩いて標高4,000メートル付近の雄大な景観を目前にして帰ったばかりですから、無理もないでしょう。いつもよりも山が小さく見えてなりません。しかも、天候が今一つ安定審査炎。朝の数時間がマチャプチャレがしっかりと見えるのですが、すぐにその姿を雲の中へ埋めてしまうのです。それにしても、我々のトレッキングは運良く好天の真っ只中を予定通りに進めることができ、本当にラッキーだったと実感せざるを得ませんでした。
第6章さようならネパール
今回の旅も無事に終了しました。当初の目的であったカラパタールには到達できませんでしたが、エベレスト街道をかなり奥まで進むことが出来ました。事前の研修や打ち合わせも不充分で、いきなり本番のトレッキングに突入したとも言えるでしょう。にわか仕立てのメンバーは50代後半を超えたご婦人達です。その中には2ヶ月前に大きな手術をした方もいます。神経質な方もいます。のんびり型の性格の人もいます。共通して言えるのは、戦前派の思考の持ち主です。若き頃は各自それなりに苦労を背負い、今は経済的余裕も生じ、孫の世話でもしようという世代の人々です。
彼女達にとって、海外旅行といえば、超一流のホテルに泊まり、観光バスに乗せられて土産物屋をはしごする概念が主体となっています。しかし、今回はそういったタイプとは大きく異なり、リーダーはいるものの、半分は個人旅行です。自分の事は自分で責任を持たなければなりません。お金さえ払えば全てが解決するのではありません。しかし、これは事実上、高齢の方々にとっては無理な部分もありました。完全なお任せツアーに比べると、私達の旅はいかに現地体験が多く含まれたことでしょう。交通機関や食事などは出来るだけ現地の人々と肩を並べたものを取り入れました。
今回の28日間の総費用は日本からの航空券を含めて一人あたり20万円丁度でした。タイランドで2泊、カトマンズからルクラへの航空運賃、ネパールの査証代金など全てが含まれています。高級ホテルの利用は皆無でしたが、それなりの中級の宿を利用しての旅でした。お湯が出なかったり、エレベーターがないので階段を4階まで登ったり、さまざまな苦労を伴いました。また、マナー違反としりながら、部屋でジャブジャブ洗濯したり、密かに自炊をするなども経験しました。今となっては、それらのひとつひとつが懐かしい思い出となり、これならば、また訪問してみようという意欲が沸くのではないでしょうか?
今回は私もたくさんの事柄を学ぶことにつながりました。今後も異文化との触れ合いをどのようにして推進していくか過去の経験を参考にして、押し進めていきたいと思います。今回この記事を書くにあたり、参加戴いたメンバーの方々に深く感謝します。
1999年3月
カトマンズ市 フジヤマゲストハウスにて、
干場 悟
富山県中新川郡立山町
千寿ケ原15