アジア旅日記 ヌワコットの旅1999年
RNACのパイロットがストライキを始めてからもう8日になります。パイロット側と管理者側ともに妥協を許さず膠着状態が続いています。ことの発端は、RNACがリースを繰り返すばかりで、何故新機の導入をしないのかという不満が噴出したようです。リースの更新や新規契約の際には多額の賄賂がま・・・・・
内容
RNACのパイロットがストライキを始めてからもう8日になります。パイロット側と管理者側ともに妥協を許さず膠着状態が続いています。ことの発端は、RNACがリースを繰り返すばかりで、何故新機の導入をしないのかという不満が噴出したようです。リースの更新や新規契約の際には多額の賄賂がまかり通っているのは事実です。これでは赤字が蓄積するばかりです。また、数年前に職務中に事故にあり、後遺症を併発したパイロットの処遇に対しての不満が残っています。現在は当人の給料は停止したままです。本社復帰で事務職の道も閉ざされています。この二点が争点となったストライキです。
さて、RNACが自国の所有機数を二機から三機へ増やしても、RNAC自身の体質がかわらない限り赤字垂れ流しの経営が続くでしょう。近隣諸国の航空会社は経営努力に努め善戦しているのをうかがいしることが出来ます。パキスタン航空の本社ビルは数年前から立派なものになっています。RNACと時を同じくして発足したタイ国際航空はその機体の数を増やしたのみではなく、信頼ある翼として地上設備やサービスを徹底して合理化に努め益々輝いています。最貧国に位置するミャンマー航空でさえ、シンガポールの資本を得て機体を一新して善戦中です。
それに比べると、RNACは20年前と同じコンピューターで操業しています。本社ビルの改築などなされる空気は全くありません。建物はボロボロでどこもかも埃だらけというのが現実です。飛行場のターミナルビルは外国の援助で新築となりました。本社ビルも外国の援助がないと新築できないのでしょうか?古びた航空会社の本部ですが、そこに勤務する職員や重役の家のみが何故か立派になって行きます。援助漬けが生み出した縮図といえるでしょう。
ネパールの人々は、RNACをフラッグキャリアとして自慢しています。しかし、その価値を既に失っているのにも拘わらずそれを失わんまいと必死です。ネパール唯一の航空会社がネパールの恥じの象徴と化しているのが実情です。よしんば、徹底的な改革がなされ、人事を刷新しても、今まで同様に汚職の体質に変化の兆しはなく、同様な方針が踏襲されるのではないでしょうか?さもなくば、RNACは独立独歩を達成していたはずです。
さらに事態を複雑にしているのは、総選挙が近くなりそれが絡んでいることです。政府は今進行中のストライキの対策として、公共サービスのストを禁止の発令をしました。理由は選挙期間中は生活の基本的なサービスの低下を招いてはならないという原則論です。国際線のサービスは生活の基本要素の一つなのでしょうか?市内バスや長距離バス、トラック輸送、電力供給、水道事業などが停止すれば国民の生活を脅かすものとなり、これらのストライキに待ったをかけるのであればその趣旨は理解できます。国際線のフライトが大衆の生活に直結しているとは思えません。
選挙が近づくと候補者の理想は高く、地元に道路を作りましょう、飛行場の設置を実現しましょう、医療施設を充実させますという類のスローガンで夢物語は拡大の一歩をたどります。ずべての地方からの議員候補がそれぞれの理想を高く掲げてもすべてが実現するわけがありません。目の前のパイは大きくありません。しかもそれは国外からの援助に頼っています。結局地方選出議員の役目は、個人的に自分たちの親族をカトマンズに住ませることで大任を終わることとなります。最終的に村人の生活に対して何の策も講じることはありません。国家のファンダメンタルの改善は遅々として進むことがないようです。
先週、ある山岳地域にインフルエンザが流行し既に300人以上の死者を出しています。そんなことはお構いなしに、カトマンズのFM局はデスクジョッキーが陽気に放送を続けています。医学生の頃は僻地医療の情熱に燃えていても、現実には誰も実践しないのがネパールの医療現場です。これを補佐するのに、外人医師が僻地の医療事情改善に必死となっています。何かが矛盾していませんか?
誰もが国家を考えず、個人の生活の安定のみを考えているのがこの国の実情です。二機あるRNACのジェット機のひとつは臨時的措置として、ロシアの乗組員で構成されて、アジア界隈を飛行中です。
カトマンズのバスターミナルからトリスリ行きのバスは午前中にほぼ一時間ごとに出発しています。ヌワコット行きの直行バスはカトマンズを12時半に出発しおよそ4時間後には終点ヌワコットに到着します。料金は格安で55ルピー(100円)程度です。
今回は友人のヒマールを同行してのヌワコット一泊2日の小旅行です。私の投宿しているカトマンズの宿で9時に合流することとなりました。バスターミナルへは、9時半少しばかり前に到着しました。偶然にトリスリ行きのバスが発車寸前です。バスの客引きに連れられてここが空いているよという事で座席を確認してみると後ろから2番目です。この座席で山道を三時間以上も揺られるとなると大変です。しかも我々はまだ朝食を済ませていません。次のバスは10時半出発です。このバスの席を今キープすれば前の方に席を割り当ててもらえます。という事でゆっくりとネパール式で10時がブランチいう現地方式を採用しての出発と決定したのです。
トリスリへの道はまぁまぁ整備されています。まずはカカニの丘へむかてバスは蛇行しながらゆっくりと登っていきます。峠まで登りつめればヒマラヤが見えるはずですが、最近はカラカラ天気が続き、極めて埃っぽい日々が続いています。期待は無残に裏切られて前方はボーともやがかかったきりでした。カトマンズからこの峠まで一時間少々要します。乗務員はここで昼食です。30分程度休憩をして12時ちょうどの出発となりました。バスはこれから標高2000メートル付近から標高500メートル付近のトリスリまでを、2時間かけて1500メートルの標高差を、カーブを切りながら下降する連続です。ともかくだらだらと坂道を下っていくのです。
今日はバスターミナルで共産党系の政治集会が開催される予定です。のぼり旗をたて屋根の上まで乗客を満載したバスに数台出くわしす。定員50人のバスにはその三倍以上の人が乗っていることでしょう。バスは息をきらせなら登っていくのです。さぁて今日は村の中はガランとした事でしょう。本日は特別過疎化デーです。女性と老人と子供だけは残っています。誰も働き手はなくなってしまうのです。と言っても、普段でも村では青年が畑仕事に精をだしているのは見たことがないし、見かけても大概は茶店でぶらぶらしているのが目に入るだけですから、生産性に大きな変化はないようです。
ネパールは、今未来を担う子供たちに勉学の機会を与えるがためにあらゆる政策が試行錯誤されています。学用品の不備を訴えれば世界中からどっかりと紙や鉛筆が援助という名目で手に入るます。それでは、実際にネパールでは紙が不足しているのでしょうか?それではどうしてこんなに大量のポスターが巷に氾濫するのでしょうか?それぞれの政党を問わずにカトマンズ市内は政党宣伝のチラシやパンフレットが多色刷りで溢れ返っています。このエネルギーを、この資金力を即教育の分野に生かされてこそ、真の国家建設へとつながるのではないかと思います。選挙というお祭りのために国家の基本がおろそかになっているのは悲しい出来事です。
しなければなりません。現在の上位カーストの人々は従来の特権を剥奪されても生存できるのでしょうか?伝統に根ざした恩恵に必死にしがみつきながら民主主義を叫ぶのは単なる欺瞞にしか過ぎません。ネパールの国際化を促進するうえで何らかの足かせになっているのではないでしょうか?ことに上流階級の坊ちゃま族は非常に甘やかされているのが現状で、かなり見苦しい行動が目につきます。国際ビジネスにおいて彼らの実力がないのは、過去から引き継いだ特権に甘んじて自分たちの努力を怠った結果と言えましょう。
国外旅行をするとしても、それは自分自身の力で確固たる目的意識を持って出かける人々の数はどのくらいいるのでしょうか?彼らの多くは、交際している外国人からの招待があるから出かけるのであり、またビジネスを通じで経済的利益が追求できるから出かけるのでありましょう。見聞を広め、自己発見の旅に何人の人が出かけることでしょう。我々平均的日本人以上に裕福な人々でさえ、彼らの目は西洋や日本に向いてばかりいます。同様な社会構造や経済水準を持った近隣諸国への旅などは眼中に浮かばないのが現実です。
ネパールにおいて真に民主主義を育もうとするならば、民主主義とヒンズー教は互いに相反するものであることを認識する必要があると思います。そう言った前提を認識したうえで進展させなければ、行き詰まるのではないでしょうか?
話は横道にそれました。本筋に戻しましょう。トリスリには、ほぼ予定通り2時過ぎに到着しました。ここで、テータイムを設けて一休みです。2時半頃から急坂を登り始めました。最初は足取りも軽くスイスイと進みましたが、次第にフーフーと息切れが激しくなって来ました。だらだらと石段が続いています。それでも何とか一時間後にはヌワコットに到着です。
ここは、今から350年前に王様が住んでいたとのことで、立派な宮殿の跡が残っています。修復保存がなされ当時の面影をくっきりと浮かびあがらせています。尾根に立つレンガと木造の小さな宮殿ですが、一部は七階建てで、あちこちに細密な彫刻が施してあり、当時の文化水準の高さを示しています。
現在のネパール王国の出身がポカラとカトマンズの中程に位置するゴルカから発し、ヌワコットへと住を移し、カトマンズ盆地へ進行したという史実があります。現在のバスルートではカトマンズからトリスリへ行くとすれば、北の方向へ4時間進まなければなりません。ゴルカへは、西の方向へ4時間要します。この観点からすると、2つの都(ゴルカとヌワコット)は方角違いにあると言えますが、古い地図を見ると、カトマンズとポカラへの道はゴルカとトリスリを経由しています。今でもトレッキングの地図には、旧街道としてのルートが残っています。遺跡の散策にはこうした当時の交易図を念頭に置けば、いっそう分かりやすくなるでしょう。
宮殿内も見学することが出来ました。ビジターブックをみると一日平均4~5人が訪問しています。その多くはネパール人で外国人は年に50名程度です。周囲には古い寺院もあり、政教一致を見ることが出来ます。今日は大変な砂嵐に見舞われました。遠くに砂埃を巻き上げながらバスが一台登って来ました。こんな田舎にまでも、カトマンズからの直行バスが運行し始めたのです。
現在ネパール各地は道路建設のラッシュが続いています。あちこちが掘り起こされヘアピンカーブの車道が出来あがっていくのです。しかし、この資金はどこからくるのでしょうか?完成した道路の維持管理は誰がするのでしょうか?道路が開通すると、その村は過疎化していきます。若い人々は近くなったカトマンズへ移動し、農村には働き手が不足し生産性が低下するという悪循環がついて回ります。道路というインフラストラクチャーを整備してもそれが地域振興につながるかは疑問です。その他の生活基盤の整備も平行してなされないと人々は村から離脱していくばかりでしょう。一般大衆も単に道路が開通してバスが走るようにるという便利さのみに目が向き、その結果、何がもたらされるのかを考えることはありません。背後に潜む文明の利器の別な一面を知ることなく、落とし穴に入ってしまうようです。
さて我が友人も山間部からの出身です。現在25歳、カトマンズの法科大学を卒業したのですが、容易に就職口は見つかりません。彼の住む村落はバス道路へ出るまでに8時間歩かなくてはなりません。もちろん電気、ガス、水道などが存在するわけはありません。典型的な山村の生活で、自給自足ですべてをまかなっています。これといった娯楽があるわけではありません。食事のバラエティーもなく、単調なる日々の連続です。一日に数度ラジオを聞くのが外界との接触を持つひとときとなります。
この地域では生産性も極端に低下しているようです。農作物の収穫を上げる化学肥料の入手には、必要以上の費用を要します。よしんば豊作となってもそれらを捌くマーケットは遠方にしかなく、他地域との競争力には負けてしまいます。こう言った状況を打破してくれるのが、車道の整備という結論に達するのでしょう。
多くの村から夢と期待を抱いて村落部の青年達はカトマンズへ出て勉学をしています。自宅からの仕送りは数年から10数年後の出世という目標を持って続きます。しかし、過当競争のカトマンズという巨大都市では、容易に就職口が見つかるわけがありません。体に染み込んだ都会の生活から農村への復帰は不可能と化しています。本人たちは時々里帰りをしますが、それは親の自慢の種となっています。例え息子たちが無職の身分であっても、カトマンズに住んでいるというだけで誇るべき存在となるのです。親としては、カトマンズの学校へ入れたこと自体で満足しています、しかし、両親も最近は自分達の方針の欠陥に気づいたようです。里帰りした息子たちは、最初の一ヶ月はお客様待遇なのですが、それを経過すると邪魔者扱いとなります。もちろん本人は小さい頃から村を離れていたので、農作業の知識などは少しもありません。村にいても労働力とはなりません。また体力的にも長時間に単純作業など出来きなくなっています。こうして路頭に迷う青年達の数が日増しに増加していきます。
さて、カトマンズはこうした人種がたくさん集まっている場所ですから、仕事は、簡単に見つかるわけはありません。なまじっか学問をしたが故に、就職口がないのです。毎年5,000人以上もの大学生を実社会に送り出しているものの、その一割が就職できれば良いほうです。高等教育を受けなかった人々のほうが、まだまだ就職率は高いのです。学生が良い就職口を見つけるには、有力なコネクションを必要とします。ですから。これらの条件に合致した人々は限られてくるのが現実です。またこの国の学生が勉学を終えたとし、その学力を国際比較すれば、決して上位とは言えません。実際のプラクテカル(実技面)が皆無であり、応用力にも欠けているのが現実です。
カトマンズやポカラには、星の数に等しいコンピューターの専修学校が多くの修了者を出しているのにもかかわらず、ごく少数の人々しか、コンピューターによる情報処理が出来ません。それは、専修学校自身が単なるビジネス(金儲け)のみが目的であり、真の教育に熱心ではないから、そのレベルが低下するのではないでしょうか?この国でも何かが狂い始めているようです。修復はいつになるのでしょうか?
ここトリスリもネワール系の人々が多く住む町です。一般的にネパールという言葉とネワールという言葉を混同しがちですが、ネパール人というのは、現在のネパール及び過去のテリトリーを含めてそこに住む人々の総称であり、その中にチベッタン、タマン、グルン、ネワール等各民族が混同しているといえるでしょう。
概してネワールの人々はカトマンズを中心に現在のネパール各地で商人階級として、居住を構え現在に至っています。中部ネパールのタンセンやパルパなどはネワール族支配する地域です。ポカラも以前はネワール色が強かったのですが、現在は高地から移住してきたタカリ、タマン、グルン族などが進出して現在の状況を作り上げています。グルカやヌワコット、ダーラン、オカルドンガ、ダンクタなどネパール各地にネワール族優位に状態をみることが出来ます。これらの地域のボスや大商人はネワール族で占められている場合が多いのです。ネパールを語るには、ネワールと混同しないように、しなければなりません。またネワール抜きでは語れない背景をここで知ることが出来ます。
しかし、このネワール系商人の守備範囲は限られたものであり、インド系のマルワリ族などは、はるか東インドのラジャスタン方面からカトマンズにやってきて商売の実権を握っているのですから、彼等の組織といい規模といい格段に大きいものを抱えています。新体系の交通網の整備は大きく歴史の地図を塗り替えてしまいます。
そんな、過去の歴史を振り返りながら、トリスリへの石段を帰路につきました。今日は少し疲れました。お蔭でぐっすりと眠ることが出来ました。
ネパールに限らず発展途上国の援助には、教育の普及が前提という認識が高まっています。そう言った背景を基に、日本のある団体がネパールの子供たちに学用品を送ろうとう運動を続けています。が、はたしてこれらの動きは的を得ているのでしょうか?今一度この活動を検討してみたいと思います。
実例として、北海道のある団体が地域で大きなキャンペーンを展開し、日本から各種の文具、教材を集めたそうで、その分量がコンテナ一個分に匹敵したようです。10,000人のネパールの生徒を対象に学用品を配布中との話です。
日本側からすれば、使わなくなった学用品のごみ捨て場として利用されていると言えます。あるいは、粗大ゴミの再利用の場が提供されているとも言えましょう。コンテナ一台分の大量な荷物を整理し、カトマンズへ上陸させるには、莫大な運賃と人手がかかっているのは事実です。その中には、故障した楽器や、不良品としての文具類も数多く含まれているでしょう。誰がこの何万点という大量の商品を完全にチェックするのでしょうか?ここに、ボランテアの作業で無償でなされたという条件を加えることは、援助活動の意義をいっそう大きなものとして評価される格好の道具となります。
さて、それらを受け入れるネパール側の状況はどうなっているでしょうか?日本の文化に依存した教育システムの中で必要とされる器具が現地で有効に活用が可能なものでしょうか?もしかすると、パソコンのゲームソフトも入っていたかも知れません。ここで、我々は今一歩深く現地の教育事情を理解する必要があるのではないでしょうか?
日本製に上質のノートやボールペンなどは子供たちが普段使っているインド製やネパール製に比べると、例え中古品といえどもその品質は格段に違います。学校で援助として授与されても、多くは本人が使用するよりも、大人の手に渡るケースが多いと思います。また、一度高品質の良さを知れば、地元の製品を使うことに抵抗も生じてくるでしょう。日本側では、繰り返し当事者に配布する予定なのでしょうか?
また、こうした配布は全員に行き渡るものではなく、特定の生徒を選別したうえで授与されています。同じクラスの中でさえ貰える子供と貰えない子供が同席するという結果を生み出し、それは、子供達を差別することにつながり兼ねません。
日本から真心を込めて送り込まれたギフトから生徒たちの勉学心が向上するものでしょうか?現在のネパールの教育現場はどちらかというと、暗記一本の方式で、日本のようにノートを頻繁に利用するのとは、形態が異なります。イラスト入りのかっこ良いノートは大切に保存されて、いつかは、恋文専用となるでしょう。社会のシステムが違いますから、どのようにして、文具を使うかという検討も加味されなければいけません。
さて、日本側でもネパール側でも、莫大な費用と時間がかかったのは事実です。とくに、ネパール側での税関の問題にもひっかかったようです。はっきりとした金額は不明ですが、コンテナの運賃だけでも50万円は必要でしょう。その他、無償のボランテアを費用に組み入れて試算すると、送付に関する作業のみで100万円以上の出費があったと思います。
さらに、この活動の一環として、日本から友好訪問と称して16名が一週間の大名旅行が含まれています。大名旅行の経費を削減して、中規模の宿を利用することにより、莫大な費用が浮きます。ボランテア活動と称して費やした時間を仮に総合すると、延べ数百時間となるでしょう。この総時間数を何らかの形で就業から収入を得れると仮定し、それを寄付したとすると数百万円の資金を集めることも可能です。
視点を変えてこの問題に取り組むならば、ともかく一定の資金を捻出し、現地の製品を購入して配布するのも方法ではないかと思います。これによって現地企業も潤うことでしょう。ネパール人がネパールを信頼する心を培う一環ともなります。
ネパールは貧しい国だからということで、学用品を届けにきた日本の生徒たちは、現地の学校訪問で硬く握手を交わして、一見国際親善を果たしているかのように見えますが、実際は高級ホテルを住まいとしています。日本の子供たちは形式的な訪問と観光旅行に専念する限り、現地の生徒たちとの相互理解の接点をどこに見出すのでしょうか?
本当に勉強したい子供もいますが、中には勉強嫌いな子供もいます。これは、世界共通です。日本の小学校で、選別する基準を持たずに、特定クラスの一部の子供たちにのみ、特典を与えて「しっかりと勉強してください。」といっても勉学意欲が高まるものでしょうか?今後の課題は大きいと思います。施設の拡充とともに教育の質を高めなくてはいけません。
教育の必要性は充分あるのですが、どのような教育をなすべきかについては、議論されていません。その多くは西洋式の水準を保つことに必死です。現在のネパールの教育事情はヒンズーイズムという社会基盤のうえに、欧米の教育システムを持ち込み、それが消化不良の状態で現在に至って混乱を招いていると言えます。一例を挙げるならば、上級カーストの人々が高等教育へ自然と導かれ、その結果からネパール自身失業する羽目に陥っています。こうした現実は社会のシステムと教育のシステムが融合していないことを如実に物語っています。今後どのようにして、調整をしていくかによって国家の発展も異なってくるでしょう。
東南アジアの多くの仏教国では、昔から寺院が教育機関の一端をにない、現在も多少なり形を変えながらも、社会のシステムと教育のそれとが、融合しているように見受けます。またイスラム社会では回教寺院に併設されたマドレッサという学院が共存しました。
教育はまた学校内のみで行われるものではありません。社会のモラルが歪んでいれば、どれだけ高等な教育を受けても社会の機能は麻痺し、将来の発展に寄与することは不可能です。子供のころは「医者になって貧しい人々を助ける。」という情熱を持ち、卒業して医師の資格を取れば、無医村への派遣を拒否しているのが実情です。どうもネパールには、国家自身の発展を望むというよりも、個々の発展に関心があるようです。これは、この国のみではないと思いますが…。
ネパールを訪問する人々の第一印象は好意的な目で見られているようです。その多くは日本語を自由に操るガイド諸氏の接触から始まるようです。彼らがあまりにも巧みに日本語を話すので、始めてこの国を訪問した人々には、ネパールの人全員が賢くて、すばらしいと褒めちぎってしまうのが落ちです。しかし、我々は本当に実態を理解しているのでしょうか?今やネパールにおいて日本語を話すことは特別なことではなくなりました。日本語が話せるということで結論を急いではいけません。どのような内容が話されているのか、何を考えているのかを知るのが重要です。概して、ガイド諸氏の多くは外国人と接触し、観光案内を繰り返してきたのですから最近は思考自体も欧米的になり始めたようです。
もし、ネパールでの第一印象がそんなにすばらしく、賢い人々の集団であるならば、現在この国が抱えている問題は処理できるはずです。所が現在のネパールの問題は肥大化するばかりで、どれも解決していません。上層部から下層部まで援助漬けの生活で、この様式が当然として社会に受け入れられていますから、人々はますます自立する心も消失してしまいます。
要するに、各個人が自分達の生活をいかに維持していくかが先行し、国家としての共通意識は外国から援助を受けるときのみ一致するようです。都市の生活環境は悪化する一方です。カトマンズ市の税収は減速する一方です。カトマンズ盆地には、毎日大量の物資が流れ込んできますが、その際盆地の入り口で一定の税金が徴収されています。2ヶ月前は一日あたり、200万円だったのが、今は40万円に下落したと新聞は報道しています。流入している絶対量に変動はないのですが、ここでも、誰かが何処かで公金着服しているとしか思えません。この習慣は少しぐらいのことで止まるものではありません。
日常発生する大量のごみ処理もこの国の悩みのひとつです。もう捨てる場所がありません。新たにごみの廃棄場所を作ろうにもたちどころにして、住民運動が高まり実行には時間が必要となります。人々はそんなことに気をくばることもなく、アチコチにごみを投げ捨てています。
国外から多大なる援助で教育を先行させようとしていますが、自らのごみの処理について誰も教育しようとしません。挙げ句の果ては国外からごみ対策の援助を青く自体を招いています。何処かが静かに狂い始めたネパールです。それは、この国だけではなく、日本もそうかも知れません。
新聞紙上では、アメリカや英国への留学斡旋の広告が毎日掲載されています。これは、すなわちそれだけの需要があるから広告が載るのでしょう。とすると、こう言った商品を購入できる特定の金持ちも数多く存在しているのは事実です。
はたしてネパールでの教育の今後はどうなるのでしょうか?精神世界のネパールと言われたこの国も次第にその影を落とし始めたようです。教育と援助も大きな曲がり角に来ているのではないでしょうか?
カトマンズ発14時半のバスは荷物を積みこんだり、乗客を待ったりしながら約一時間の送れて出発しました。後部の数席を残してほぼ満杯です。屋根に上には大量の荷を積みこんでいます。インド製の古いバスは、これで大丈夫なのだろうかと心配になるほどの時代物です。今から600キロメートルの距離を15~16時間かけての運行予定です。無事故でありますようにと祈るしかありません。
近年このネパールの東西幹線道路は修復が終わり快適に走行が可能となりました。数年前にこの道路を利用してカトマンズから同距離にあるカッカルビッタを経由してインドに入国した時には、なんと20時間以上かかったことを覚えています。当時はその道路が建設されてから何十年も経過し、その上洪水に見舞われて道はあちこちずたずたに寸断された状態でした。そこを補修中でしたから、一方通行や徐行を余儀なくされたものです。しかし、今回はまったく問題なく快適な走行で気分良好です。
しかし、この街道は月に四~五回はチャッカジャムと称して、交通事故が発生するたびに地元住民の抗議運動をかねて道路封鎖がしかれます。これには、誰もなすすべがないという事態に陥るのです。人々はじっと待つのみです。時には、数時間で解決しますが、場合によっては数日間道路がブロックされることも珍しくありません。今回はこんな悲惨な状況に会わず予定よりも早く7時過ぎには目的地のダンクタに到着です。この個所を私はぼんやりと寝過ごしてしまったようです。13キロ先の終点ヒレまで進んでしまったのです。
ヒレはダンクタ同様尾根伝いに街が発達したところで結構眺めの良い場所です。標高は1600メートル前後す。ダンクタは標高1000メートルで暑くもなく寒くもなく年間を通じて気候が温和です。それを語るかのように、ここはみかんの産地なのです。ヒレへは8時半に到着です。それではということで、13キロの道のりを歩くこととしました。つづらおりの坂が続き、かなりの勾配があります。翌日、ダンクタからヒレまで現地のバスで往復しました。バスは満員で結局屋根の上に乗ることとなりました。180度いや360度の視界が広がり、眺めは最高です。しかもバスは急勾配のいろは坂を登るのですから、速度はあがりません。一時間に15キロ程度のゆっくり運転です。バスの特別席には先客が30名ほど乗っかっていました。カーブを曲がるたびに冷や汗が湧き上がってきます。しかし、これで事故が起きても、走行速度が遅いので大きな事故にはならないでしょう。13キロの道のりを40分程度で進んで10ルピーの料金です。とれに比べると日本の山岳部を走るバスの料金は異常に高いではありませんか?日本では、500円はするでしょう。その差はざっと30倍以上あるようです。もちろん設備や安全対策は万全を期しているからなのでしょう。しかし、現地でも大きな事故は起きていないようです。
ダンクタからヒレへは、所々近道がありますから、予定より早く到着することが出来ました。旧道の石垣を積んだ休憩所で一休みして、後ろを振り返ると宿の看板が目に入りました。比較的清潔そうです。今日の宿は決定です。蒲団カバーは清潔そのものです。料金は一泊75ルピーです。宿の主人も温和な人柄で夕方は一緒にこの街を案内してくれました。また、秘蔵のコインや紙幣のコレクションも披露してくれたのです。その中には数百年前(300年以上)の貴重なものも含まれていました。ネパール統一の王様として知られるプリテビナラヤンシャーの時代物が含まれています。先祖の宝物のひとつとして家にあったそうですが、一部は文字が擦り減っています。彼の名前はシュレスタ氏ですからネワールの血を引いていることになります。
この主人は昔サウジアラビアへ出稼ぎにいった経験の持ち主です。子供のころから集めていたコインに2年間の滞在で得たアラブ社会のコインも数多く含まれていました。しかし、残念なことに、コインの多くは雑多にフィルムの空きケースに詰め込まれています、紙幣は本の間に挟まれています。せっかくの貴重品がこれでは台無しになります。何とかしてあげたいものです。
この街には、以前英国の兵隊が駐屯していた歴史を持っていますから、ミッション系の学校や教会など、今でもその名残を感じさせる一面があります。家の壁の色は白を基調に黒をあしらって何となく英国の片田舎を思わせ、今までの村々では見かけない色彩です。いくつものNGOの機関が農村開発、婦人の意識高揚、社会的地位の向上などを掲げた事務所が5箇所も目に入りました。
さて、こう言った女性解放運動の結果はどうなったものでしょうか?町を散策すると仕立屋を多く見受けます、しかし、ミシンの前に座って仕事をしているのは女性ばかりです。その反面男性はぶらぶらするか、カレムボードに熱中しているのです。ここでは、外国援助による女性の地位向上の動きは、男性を逆に甘やかす結果となったようです。援助の歪みが表出していないでしょうか?西洋の基本原理がここではヒンズー化して、理想どおりにことは進展しないのが現実です。
このダンクタへ道路が開通してから15年の歳月が流れました。昔の若者にとって隣町へ映画を見に行くのが最大の娯楽だったようです。一日歩き続けて8時間の肯定でダーランという最大の町に到着です。映画を見るには、一泊二日に行程が必要でした。今はこの町には映画館もあります。それにまして、テレビの普及で自宅にいながらにして、世界中の映像を楽しむことが出来るようになりました。
この村にも、現在の王様の宮殿があったのですが、1990年の民主化以降政府の手に没収されたとの話です。時代とともにこの町の姿も徐々に変化しています。何故かしゃれた生バンドの入る店(茶店)もあります。今は春霞で周囲は何となくくすんでいますが、雨季明けや秋はさぞかし景観も良いことでしょう。
それぞれの村には、それぞれの歴史が積み重なっています。先日訪れたヌワコットも規模は小さいながらも、古都のイメージがじんわりと伝わってきました。ここ、ダンクタも異色の存在かも知れません。それなりに趣のある町のひとつです。
今日は土曜日です。ネパールでは休日となります。平日は大変混雑するバスですが、今日は席をぽつりぽつりと空けたまま走っています。乗降客が少ないから早く目的地につくと思うととんでもない間違いです。その分休憩をたっぷりと取って走りますから、所要時間はいつもと変わることなく、定時運行で2時間半後にダーランに到着しました。次々とバスを乗り換えてビルタモードに向かいました。所が途中でバスは選挙運動の衝突という煽りを受け、道路封鎖となり、途中で運行中止となりました。やむなく2キロほど歩いて区間折り返しのバスで本日の目的地に着いたのは日が暮れるころとなりました。
ここビルタモードは外国人がごくまれにしか立ち寄らない場所です。国境のカッカルビッタはバスで30分程度の距離です。イラムやタペルジュン方面の基点となりますが、タライ地区特有の雰囲気でむんむんしています。暑い、埃っぽい、ごみが散乱するという有り難くない三拍子そろった町です。
さて、ここの宿の次男坊にやたらと日本へ連れていって欲しいとせがまれました・現実には、そんな簡単に日本へ出稼ぎに行くことは出来ないと説明するのですが、夢を追うばかりです。中学校を卒業したものの、仕事がありません。狭いネパールの事ですから、どこそこの誰がどこへ出稼ぎに行って莫大な財産を築き上げたという成功物語を頑なに信じ込み心が傾くばかりです。
韓国への出稼ぎは60万円が相場とか。一月10万円の給料で半年分が手数料として必要になる系さんです。頭金はネパールの庶民にとっては高額です。地下組織を通じての方法ですから、場合によっては強制送還もあり得るわけです。これでは、金はかかるし、リスクも多いので結局信頼おける日本人にすがりつくのが、当然です。
日本へ行く難しさ、日本での生活の厳しさを説明しても、納得できません。ちなみにこの兄ちゃんはカトマンズへ行ったこともありません。生まれ育った地元の周囲30キロが行動範囲とか。自分でも世間知らずなることを認めていました。
翌朝はイラムへ向けて出発です。はたしてどんな町なのでしょうか?イラムテーとしての知識しかありません。30分ほどバスは平地を走り、山道にさしかかりました。いやこの街道もすごいもので、ヘヤピンカーブの連続です。峠を超えて谷に降り、また峠を登る繰り返しです。標高1,300メートルのイラムへの山岳道路はスリルの連続でもありました。85キロの距離を4時間かけての旅は圧巻そのものです。道中所々紅茶畑も広がっています。ネパールで高品質とされるイラムティーとはこれのことかと納得です。ここから東へ30キロ、車で2時間移動すると、知らない間にインド領に入ってしまうそうで、ここは、ネパールの最東部に位置しています。
このイラムへ道路が開通したのは40年前だそうです。20年前は大改修され、現在のような道幅になったそうです。何となく隣のダージリンをうんと小さくしたような感じがしないでもありません。20年前からバスが一日4~5本運行するようになったそうです。今はカトマンズから乗り換えなしの直行便も運行しています。
隣の谷にあるダンクタは数百年も前から栄えていたのに対して、ここは、紅茶の栽培を契機として発展した町と言えましょう。バザールに沿った家並みは何となく英国調をかもし出しています。
もし、この場所からヒマラヤが一望できるのであれば、もっと観光客が入り込み第二のダージリンとなるのでしょうが、残念ながらここからは、ヒマラヤを眺めることは出来ません。
しかし、このようにして、東ネパール各地はどんどん整備されていくのに対し、西ネパールはまだまだ開発が送れているのが実情です。次回のネパールは西に眼を向けてみたいと思います。
フジヤマゲストハウスの子供達は皆さん年頃です。長女はお嫁に行きましたが、長男は一見物静かに見えますが、バイクを乗り回し、いつも音楽を聴いてばかりいます。それでいて、ブリテッシュカウンシルで英語を学んでいるのですが、今一つ英語が通じない部分が多いのです。勉強らしきことをしている姿を見かけたことがありません。いつもMTV(ミュージック系の衛星放送)にかじりついている現代っ子です。日本語を習いに行っても三日坊主。あれもこれも中途半端で終わる中産階級のお坊ちゃんの典型です。親の前では糞まじめな態度を表明していますが、家を離れて不良っぽくなりたいのですが、完全なる悪に染まることも出来なく、ヤバイことは避けてとおるという一般的な青年です。話をしていても、今一つピンとくるものがありません。日本の若者同様、信念や哲学を持ち合わせていないのが原因かと思います。
さて、次女は毎晩彼氏と長々と電話で話し込んでいるものですから、お父さんは頭が痛いのです。一時間でも二時間でも、ぼそぼそと話しを続けています。一体それほど話の中身は恋づくめなのでしょうか?どの国も似たような問題を抱えるものです。それでも彼女は毎朝「ホシバさんお茶をどうぞ」とサービスしてくれるのです。
いとも不思議な人々です。何しろこの地区の地主でもあり、大家さんですから、食うには不自由しません。しかし、商才はゼロといっても良いでしょう。先祖代代の資産でおっとりと暮らしている家族です。しかし、子孫が増えると資産は分割され、一人あたりの分配が少なくなるのも気にせず、のんきな日々を送っています。
それとも資産が資産を生み出すという資本主義の原則が永遠に回りつづけるものでしょうか?
日本の失業率は5%を超えたと報道されていますが、ネパールに比べると格段に良いのです。こちらでは就職率が10%です。100人の中d10人しか仕事をしていないのですから、失業率は90%?(必ずしも的を得ていないかもしれない)特に高学歴の人々がこの部類に入るのですから、街角で若い兄ちゃんたちがごろごろしているのは当然です。もっとも手っ取り早い道は日本娘の口説き落とし作戦にあこがれています。かなりの成功率を確保しているようです。ネパールの就職率が低いのは、今後いっそう加速するでしょう。山ほどできた英語で授業をする学校からの卒業生が増加することにより今以上に就職は難しくなるのは目に見えています。
ネパールの卒業認定試験は65年前と同じ方式が採用されているとかで、これではまったくの時代錯誤もはなはだしいのです。社会、産業構造が急速に変化を遂げたのに、教育のシステムを放置した結果現在のひずみが肥大化したと言えましょう。英語もネパール語も不完全な自称エリートが増加しつつあります。これらの問題に対してどう取り組むのでしょうか?
今回のネパール30日間は、あっという間に終わりました。ネパールでの日々の生活を振り返ると、様々な人々との出会いがありました。時には共に喜び、時には不満や苛立ちをぶっつけながらの日々でした。今回はネパールの悪口を垂れ流しすがたかも知れません。ネパール人の思考回路は政府間の関係から家族のつながりにいたるまで何かしら似たような一面をもっています。一体これは何が起因しているのか今後の観察にポイントとなりましょう。
ネパールの東端の国境カッカルビッタで出国手続きを済ませ、長さ500メートルほどのメチ川の橋を渡るときは何となく悲しくなって来ました。「また必ず来るよ」と大声で叫びたい気持ちでいっぱいになりました。
嫌気のさしたネパールでも一歩離れてインドに入るとまた帰りたくなる気持ちになります。朝日を浴びながらガーデンの中でとる朝食は優雅です。排気ガスの充満しているカトマンズ市内です。そこに住む人々の顔には喜びと苦しみが共存しているのが見えます。
コンピューターにウイルスを持ちながら、何の手立てを加えることもなく平気で使いまくり、ばい菌を撒き散らしていても、そのことはまったく気にとめない人々です。貧しい貧しいと言いながらも、十分食べていくことの出来る人々です。それではまた会う日まで、さようならネパール。
―完―
1999年4月5日