インド亜大陸放浪記No.3パキスタン

ハイデラバード郊外の遺跡

インド亜大陸放浪記No.3パキスタン

さて、パキスタン最大の商業都市カラチに到着しました。YMCAに値段を聞きに行き、受付で立ち話しをしていると、すぐに仲良くなりました。そこへ丁度やって来たアラブ人とも親しくなり、サンダルの喜捨を受けました。長年愛用していたサンダルがダメになった所でしたから、絶妙なタイミングです。

 

内容

  1. パキスタンの話あれこれ… 2
  2. 航空会社番付… 3
  3. お茶を飲むかい!OK… 3
  4. イメージは緑… 4
  5. カラカラの食事… 5
  6. カラチ市街… 5
  7. 小さな町タッタ… 6
  8. 墓地村… 6
  9. コップの水について… 7
  10. 友人は大地主… 7
  11. 仏滅… 8
  12. 肉食の便は臭い… 9
  13. それこそ、残りの話題… 9
  14. 日野のバス平坦路を快走… 10
  15. コカ・コーラか人命救助か… 10
  16. 羊の脳味噌… 10
  17. 数字だけでは分からない貿易… 11
  18. 天候不順… 11
  19. 日本は真の友人… 12
  20. 乾きすぎた空気… 14
  21. 女性はどこにいるのだろう… 14
  22. 外人割引列車の旅… 15
  23. 貧困な食文化… 15
  24. 誇り高きクエッタ… 15
  25. はるかなるメッカへ… 16
  26. 道路があれば走れる… 17
  27. 南アジアの旅は安い… 17
  28. パキスタンとバングラデッシュ… 18
  29. 車はそんなに早くない… 18
  30. エジプト女性が最高… 20
  31. 日本で働きたいよぉ… 21
  32. 大パンジャビの人口は一億人… 21
  33. パキスタン的な一日… 22
  34. 乾燥地域での生活… 22
  35. パキスタンは強いんだ… 23
  36. パシュトーン語… 23
  37. 回教国と言えども様々… 24
  38. 交通事故で絞首刑… 25

 

 

1.     パキスタンの話あれこれ

ハイデラバード郊外の遺跡

さて、パキスタン最大の商業都市カラチに到着しました。YMCAに値段を聞きに行き、受付で立ち話しをしていると、すぐに仲良くなりました。そこへ丁度やって来たアラブ人とも親しくなり、サンダルの喜捨を受けました。長年愛用していたサンダルがダメになった所でしたから、絶妙なタイミングです。

その後、近くの茶店で一休みしているとパキスタン人がおごって

くれました。彼等はイランで日本の会社の下で働いていたそうで、すごく親日的です。この国はエジプトよりもはるかに、英語が通じますから、旅行はしやすいのです。また、昔は西パキスタンと東パキスタンの一つの国でしたが、これが、パキスタンとバングラデッシュに分かれてしまいました。この両国の比較をするのも楽しみの一つです。

パキスタン バングラデッシュ
1ドル=13ルピー 1ドル=26タカ
緑が基調 青が基調
庶民のお茶は1ルピー 庶民のお茶は1タカ
カラチの宿はシングル25ルピー ダッカの宿はシングル20タカ
パキスタンの旅行手引き25ルピー バングラデッシュの旅行手引き20タカ
日本への封書 4-5ルピー 日本への封書は4-5タカ
バスの市内料金 0.6ルピーから バスの市内料金 0.75タカから

 

パキスタンは、元英国の植民地だった事もあり、郵便局でも、銀行でも英語がしっかりと通じます。しかし、前回旅行したエジプトでは大変苦労をしました。

さて、航空券の安売りに関して解説しましょう。エジプト航空は何故かしら世界的に格安の航空会社として定評があります。さて、その理由は一体どうしてなのでしょうか?

航空会社のダンピング競争があるのでしょうが、もう一つはその国の通貨の実勢と公式レートの差に注目してみましょう。例えば、エジプト航空の100ドルの航空券を購入する場合、公式レートで交換したエジプト通貨で支払うと100ドル分必要なのですが、闇両替というものがあり、これで交換した現地通貨で支払うと60ドルで済む場合があります。他方、同じく格安フライトで有名なエアー・ランカやバングラデッシュ・ビーマン等は毎月数%づつ現地通貨が切り下げになっていますが、闇の交換レートとの差は少ないので影響は大きくありません。日本円で支払う場合を想定すると、一ドル250円」と200円では2割以上割引になります。中南米の或る国では、何と4分の一の値段で正規の切符が販売されています。闇レートがまかり通る国で、航空券購入の際に両替証明が必要ないとすれば、世界一周の100万円の切符が25万円で購入できることになります。ちなみに私が購入した切符は1100ドル(264,000円)でした。ともかく深い霧に包まれた航空運賃の世界です。

 

2.     航空会社番付

今日はパキスタン航空のオフイスに出かけてびっくりしました。まるで一流ホテルのロビーに来たような感じで愕きです。立派というか、金持ちを思わせます。新装開店の空港は広々として、シンガポールの空港と変わりがありません。勿論私の知る限りでは、シンガポールの空港は最も豪華でモダンで快適です。

これをゆっくり考えてみると、元英国植民地だった国は、斜陽のイギリス航空(ブリテッシュ・エアーにとって代わって、その翼をどんどん広げていきます。例えば、パキスタンからは年間15万人の人が出稼ぎの為に出国し、同じ数の乗客が帰省します。一日平均すると400人が出発、到着することになります。

スリランカの国際空港はコロンボに一つあるだけです。年間40万人の観光客が訪問するということは、毎日1000人の外人が出発し、同数が到着します。更に、スリランカ人の出稼ぎ組がこれに加わると、便数をどれだけ増やしでも足りません。

さて、アジア諸国の航空会社の番付を発表してみましょう。シンガポール航空とタイ航空が東西の横綱で、インド航空が大関、そしてPIAは関取、スリランカ航空は前頭筆頭そしてバングラデッシュ航空は幕内か十両という順序でしょうか。JALはさしずめ高砂親方かもしれません。

3.     お茶を飲むかい!OK

今日は、いつものように、市場をうろうろしえいると、店員に呼び止められました。それは、土産物屋ではなく、呉服商とでも申しましょうか、高級ショッピングセンターの一画にある一軒です。私の正体(国籍)がなかなか分かたず、フィリピン、タイランド、コリア、ベトナムそして日本の順になりました。気のよさそうな図体の大きなオッちゃんに早速チャイ(ミルクティー)のご馳走になりました。

そして、同じ日に、私が投宿していうる通称アミン・ハウスの帰路に位置する茶店のおじさんが、「お茶を飲んでいなかない?」と誘われ「はいはい」とついて行きました。飲み終えてお金を支払おうとしたら、これが全くどういうわけか、銭を」受け取らないのです。元来、この地域では、お茶を誘った側が支払いを受け持つという暗黙の了解があります。日本のような割り勘主義は、ここでは通用しないのです。

彼等が話をしている言葉はパタンの言葉だそうです、アラビア語のアクセントにすごく似ています。地理上の位置を考えてみると、成程と納得が行きました。アラビアとウルドゥの真ん中はペルシャ文化を基盤としてアラビアの文化とインドの文化が混在したもので形成されているのでしょう。

4.     イメージは緑

今日はちょっと大変な事が起こりました。いつものように安飯屋で食事をとるわけですが、この国も「ゴキブリハエハエ」の典型で、テーブルの上は真っ黒です。カレーライスを食べていたら、ちょっとの隙に隣のオジサンが私の食べかけの四分の一をさっとネコババ、いや分捕られました。素早い事、それはまるで猫のようで、一瞬ポカーンです。しかもこれは大衆の面前で発生した出来事です。店のオヤジも手のつけようがないと見てか、私には新しいものに取り換えてくれました。さすが二杯目は全部食べ切ることが出来ませんでした。飯泥棒はそそくさと姿を消していなくなりましたが、恐れ入りました。川魚を市場で見かけたのですが、どうも不気味で今一、食する気分にはなりません。

さて、食事を終えてから国立博物館に出向きました。詳しくはわかりませんが、パキスタンという国は、歴史の流れがコロリ、コロリとその姿を変えているように思うのです。と申しますのは、タイやスリランカ等は二千年も前から伝わった仏教の中で今も人々は暮らしています。インドも数先年前から続くヒンズー教の教えが今も生きています。

パキスタンはモヘンジョダロという古代文明が栄え、それがいつしか消滅しました。又一時期広まった仏教文化はタクシラに今は遺跡として残っているだけで、現在に引き継がれている気配は全くありません。インドを中心に広範囲に支配を広めたムガール帝国の名残は、今は色あせています。一時期の英国支配の面影と言っても、インドのボンベイやカルカッタのように現在に引き継がれているとは思えません。今はアラブ化とアメリカ化に専念しているようです。一体この国のオリジンは何だったのでしょうか?どうも捉えがたいのです。同じアラブの国でも、今回訪問したエジプトの場合、古来の文化は単なる偉大なる過去の象徴だったとしても、飛行機のロゴにはエジプトの神様の横顔を飾っています。バングラデッシュの飛行機会社は鳥のマークをあしらっています。インド航空は神話に出てくる、馬にまたがった半身半鳥をロゴとして使っています。その点、パキスタン航空は何もなく、ローマ字でPIAと表記されているのみです。こうして考えてみると、パキスタンという国は、その過去がとぎれとぎれで構成された国ではないでしょうか!

所でパキスタンのイメージは緑です。乾燥地帯が少ないので人々の希望につながる色でしょう。列車は緑とクリーム色のツートンカラーです。勿論パキスタン航空は緑いろ、航空書簡も緑色の配色を多く使っています。公園の椰子の木の下部は緑の縞模様に塗ってあります。国旗も緑です。すなわち、緑はナショナルカラーなのです。対してバングラデッシュのそれは、ブルーと言えましょう。

最新の人口統計

スリランカ 1,450万人 アフガニスタン 1,400万人
バングラデッシュ 9,300万人 インド 68,000万人
パキスタン 8,270万人

 

5.     カラカラの食事

この国の休日は回教徒に共通した金曜日が休みで、酒は飲めない国で、何となくオカタイイメージです。全てがイスラム色を帯び窮屈でゆーうつを感じる方が多いかもしれません。

パキスタンの食事は毎食がローティ(小麦粉を焼いた丸いクレープのようなもの)で、これはインドのチャパティに似ています。更に西に行くとアフガニスタンやイランです。ここは、ナンが主食になり、パキスタンのローティは、その中間に位置した食べ物です。この国の食事は、米飯食のような水分を含んだものではなく、いわゆるカラカラ食物なのです。

慣れるまでには時間がかかります。良く噛んで水で流し込むとでも言いましょうか!とにかく水分が少ないので米飯に慣れた私たちにとっては、抵抗ある食文化です。そろそろ、飯が恋しくなりました。

この国の食生活は意外と質素です。薄焼きのローティと他に一品サブジー(野菜の煮込み)、キーマ(挽肉の煮込み)タール(豆のスープ)のいずれかでおしまいです。スリランカや南インドでは少なくても3-4種類の副食を並べているのに比べると、ランクが落ちます。野菜が少ない乾燥地にありますから、その反面肉は沢山食べるようです。ローティ一枚は50パイサ(0.5ルピー)で、二枚で米に換算して一回分の量です。早くバングラデッシュでご飯を食べたいものです。

 

6.     カラチ市街

この国でお茶の飲み方は面白いものがあります。紅茶の葉はスリランカから輸入されています。これが中級レストランやカフェと名の付く所にいくと、急須に似たポットで出てくるのですが、それが物凄く濃いのです。通常日本で紅茶のティーポッドを頼んだのに比較すると5倍ぐらい強烈です。これに、ミルクと砂糖を加えて自分でお好みの風味に仕立てて飲む方式です。スリランカでも、こうした方法で提供される場合がありますが、気品高い英国調を守り、白い陶磁器セットが好まれています。しかし、ここでは、ペルシャ風というか、中国や日本で良く見かける湯飲茶碗に似た容器が使われています。トルコでも、同様にポットで提供される場合があります。果たして、英国が本場なのか、中央アジアが本場なのでしょうか?

パキスタンのマッチを見て驚いています。マッチの品質を評価すると、次のようになります。1位パキスタン、2位トルコ、3位スリランカ、4位インド、5位ネパール・バングラデッシュです。

蚊取り線香は中国製が出回っています。明治、森永の乳児用ミルクも多く出回っています。インドの査証を取りにいったら、係官に日本のコインはないかと聞かれました。その時私の財布にドル札が入っていたのをチラ見したものですから、ドルで払ってくれと頼まれました。こちらとしては、何の問題もありません。5ドル札で支払い、ルピーでお釣りをもらいました。最後に係官は嬉しそうに、手を差し伸べて「シュクリアー(ありがとう)」。インドもドル不足なのでしょうか?

カラチ市内はホテルラッシュです。ヒルトン、シェラトン、ホリデーインそしてインターコンチネンタルなど世界の巨大ホテルチェーンが押しかけています。何となく米国の黒い翼に覆われている気分です。

7.     小さな町タッタ

タッタ(Thatta)にやってきました。人口は僅か25000人の小さな可愛い街です。巨大なカラチよりも風情があります。ムガール帝国の史跡の残るこの街は私のお気にいりです。人々も親切で、市内の端から端まで歩いても30分しかかかりません。宿はバザールの中心に位置していますから何かと便利です。しかも、カラチに比べると物価も安く快適に過ごせそうです。欧米のガイドブックには、カラチやタッタでは安宿の確保が難しく、利用しにくいと記載してありますが、幸いに当方は何の問題もなく、この地域では安宿を簡単にゲットすることが出来ました。

この街にあるシャー・ジャハン・モスクは見事なものです。新しく造成されたカラチとは違い、情緒が漂っています。規模は小さいから落ち着いた雰囲気を味わうことが出来ます。是非、この街を訪問してみてください。但し、お茶屋のテーブルにはいつも50~100匹の蠅が付着していても気にならない人におすすめです。

街について、宿はどこにあるのかと気軽に人々に尋ねることが出来る土地柄で、いわゆる観光地っぽくはないのが嬉しい部分です。私は高い山に登るとか、人の滅多に足の踏み入れない砂漠地帯とか、船で3泊4日のナイル川上流の町へ行く等という冒険には踏み込めませんが、マドラス郊外にある遺跡の残る寒村や、ここタッタのようなカラチ郊外の古都と言った場所ならば足を向けることが出来ます。旅は人それぞれで、個々のスタイルを

積み重ねる事で完成されて行くものです。

早速この街を散歩していると、煙草屋の兄ちゃんに呼び止められホイホイと厚かましくも、お茶をご馳走になりました。更に歩き続けると高校生二人組と仲良くなり、一緒に有名はシャー・ジャハン・モスクを見学することになりました。とても素直で純真な彼等の英語とウルドゥー語の混ぜこぜ会話で説明を聞きながら退屈しない日となりました。

 

8.     墓地村

今回のパキスタンは大きく移動することを避けまして、三都市のみに限っての滞在になります。当初はクエッタ(バルチスタンの州都)も予定に入れていましたが、今はとても寒く、現地では雪が降っているとの事で中止となりました。良くて、安い宿を見つけることが長い旅を続けるコツの一つです。

所で現在のカラチの人口は700万人で、冬季の気候は8.3度から31.9度ですから、一日の寒暖の差は大きく、夜は布団をかぶって寝ることになります。年間降雨量がわずか150~300㎜ですから砂漠地帯の都です。樹木はいつも埃で覆われ、日本の新緑のような爽やかさとは大きくかけ離れた世界です。

今日はタッタ郊外にあるマカリの丘にある広大な墓地群を見学に行きました。立派なものが残っています。すごい、すごい。少しばかりインドのデカン高原のどこかに似た光景です。さて、ここタッタを始め、古代遺跡の一つモヘンジョダロといい、仏教遺跡のタクシラといいい、パキスタンの歴史の中では突如、消滅してしまうのであります。

日中の陽射しはとてもきついので、寒暖の差を大きく感じさせます。入場料は無料です。おまけに、近くの茶店でお茶を頼んだら二杯目は無料となりました。この遺跡へは、全く外国人の訪問者はないそうです。エジプトやスリランカ等ではさしずめ5ドルばかしの入場料を要求されるでしょう。しかもインドのデカン高原で見かかる遺跡よりも壮大に見えるのです。

タッタの遺跡:この遺跡は特殊なもので、タッタの墓地群と呼ばれ、インド各地にある砦や城とは形態が異なるものです。1600年代のムガール帝国時代のもので16平方キロの古代共同墓地の一つで100万もの墓石があることで有名

さて、墓地群を散歩していると中学生の五人組がノートと本を手にブラブラしています。多分に授業をさぼってきた感がします。隠れてタバコを吸うのは、どこも同じです。11歳と15歳の彼等に「明日、学校に行って告げ口しようかなぁ」というと「ああ、それは止してくれ!」だとさ。

 

9.     コップの水について

レストランでの水の出し方も、国によって様々です。

トルコ グラス 洗わない 口付けない コップと水差し
エジプト ポットより 洗わない 口付けない 水差しのみ
パキスタン グラス 洗わない 口付けない コップと水差し
ネパール ステンレス 洗う 口付けない 水入りコップ
バングラデッシュ グラス 洗ったつもり 口付けない 水入りコップ
南インド ステンレス 洗ったつもり 口付け 水入りコップ

多くの国では、人が使ったコップはそのままで次の人が飲むものです。概して直接口を付けることはなく、器用に飲んでいます。飲み慣れると当たり前の事でしょうが、小さい頃からの習慣になっているので、難しい作法ではないようです。

 

10.  友人は大地主

今日も又奇妙な場所を訪問しました。投宿している宿の一階は商店街となっています。その一軒から声がかかりまして、村を見学に出かけようと誘われました。こうした経験はバングラデッシュでも体験したことがあるので、即同意しました。話では20-30分で到着するとの事でしたが、実際は1時間半の行程でした。

主要幹線を離れて走る田舎のバスは、いずれもガタガタの車両で想像を絶する乗り物でした。シートはボロボロ、背もたれは外れたまま、天井はエンジンの軋みに合わせてグラグラと動きます。窓ガラスは半分以上消失し、車体の後方は鉄がすり減ってボロボロかけています。床からは砂埃が舞い上がるという凄まじさを秘めた乗り物でした。

しかし、ここは、パキスタンですから、全面の塗装は満艦飾で派手なデザインを誇っています。カーステレオのみが新品で乗客へのサービスを誇っています。そんな乗合バスで凡そ30-40分、料金が1ルピーの世界です。バスを降りてからは歩くしかありません。友人の家はここから歩いて40分という話です。さて、このバス停は、だだっ広い野原のど真ん中で、周囲には建物すら見当たりません。果たして、こんな所に人が住んでいるものでしょうか?

歩き始めると、まさしくカラカラの大地ですが、所々にサトウキビ畑が広がっています。歩くこと40分でようやくパプラ(Papra)という村に到着しました。この村は人口が約1000人、200軒ほどの人家があるそうで、主としてサトウキビ、小麦、コメ等を栽培していますが、最近はトマト、唐辛子、大根、にんにくなども作るようになったそうで、これらは、より良い収入をもたらすそうです。

友人の話を聞くと、彼の家はザミンダール(Zaimindar=地主)だそうで、100エーカー(1エーカーは40.5アール)の土地を所有しています。この村にはモスクが5箇所と小学校が2つ(男子用と女子用で男女別学)でそれぞれ30名と15名の生徒を抱えて居ます。お店は歩いて30-40分の距離に2軒あるとの話です。さて、ようやく町憧れた昼食の時間です。

ダル(豆のスープ)と赤い米粉を加えたチャパティの至極簡単なものです。これは問題なく私の喉を通過しましたが、次が問題です。水・・・。よく見ると濁って居ます。緑色かかって居ます。予期していた事が現実になりました。少し前に私が「飲水はどこから?井戸からですか?」と質問したら「いいえ,川の水です」と答えが返ってきたのです。

この村に到達する途中、運河沿いを歩きました。水はきれいなのですが、魚が泳いでいて、水牛も水浴びをしていました。ああ、その水をほんのわずかですが、お世話になりました。インシャラー(神の思し召しを)。村のゲストハウスはものすごくシンプルな掘っ立て小屋です。そこに木製のベッドが一台置かれて食事となりました。まあ村の生活はどこも同じようなものかもしれません。でもバングラデッシュの方が設備も整い快適みたいです。

この村で茶店兼タバコ屋へも出かけましたが、全く何もないといって良いほど陳列棚はガランとしています。タッタから15キロ離れると、それはもう原始の生活と殆ど変わらないのです。そんな気の遠くなる時間と世界でした。バングラデッシュの場合は、全土で水が豊富ですから良いものの、ここでは水不足で乾燥気候です。これが決定的な違いでしょう。静かなもので、鳥の声しか聞こえません。しかし大地は所々塩が吹き出し白くなっていました。この土地の雨季は6-8月だそうです。

 

11.  仏滅

12月7日今日は仏滅で運の悪い日でした。

銀行に行ったけど両替できませんでした。

メガネのレンズが割れました。カメラが故障しました。シャッターの具合が悪い。

どうも、不運の連続です。

パキスタン全体の印象ですが、回教色の強い国の一つです。慣れないと不気味に感じるものです。ハードで硬い、硬い感じがし、マイルドさには欠けて居ます。握手するのは、男ばかりで可愛いお姉ちゃんがブラブラしている姿は全く見かけません。お酒も飲めないし、他の規律も結構厳しいようで、何となく欲求不満という爆弾を抱えているような気配です。癒しの観点からするとタイランドとは大違いです。

同じ回教徒の国エジプトでは、さほど窮屈さを感じませんでしたが、どうも、この国はキュウクツそのものです。小学生ぐらいの可愛いボンボンがいつの間にか毛むくじゃらのいかつい大人になってしまうのです。ですから、上品さというものを期待してはいけません。良し悪しの判断は別として、これでは、旅行者もあまり寄り付きません。

国としては特異体質でしょう、その点インドは何となく伸び伸びとしているように感じます。モスリムの国で東パキスタン(バングラデッシュ)は、その点まだ穏やかさを感じます。主食は米とお魚。西パキスタン(現パキスタン)は小麦粉と肉という大きな文化の差異がありますから、国の色彩も異なるのは当然でしょう。

今日は休息の日ですから、何もしないことになっています。しかし何となく憂鬱な一日でした。海も遠いですからねぇ。

 

12.  肉食の便は臭い

ああ、臭い。インドよりもトイレ事情は悪いのです。人間は肉食になると、その便が猛烈に臭って来ます。しかもこの土地では垂れ流し方式ですから、家の隅っこに便の塊がコロリと残ったままの光景に出くわします。カラチ市内は一応水洗便所ですが、それでも匂いは強く残ります。それに比べると南インドはあまり気になりません。宿ではトイレの掃除人が毎日、トイレをきれいにしてくれます。また菜食主義者が多いのも、その匂いが薄められていくようです。パキスタンのトイレでは、二階で便をすると、コロコロスットンと固形物が下のほうに落ちていく音がします。

市内を散策すると、埃で肌が真っ白になり、洗っても全く無駄なようで、洗濯も中止です。そうそう、トルコのトイレも匂いました。美食は匂いの元凶なのでしょう。明日はいよいよハイデラバッドに向けて出発です。どのような街でしょうか?

 

13.  それこそ、残りの話題

  • 日陰は、とても寒く、陽に当たると暑いのです。ここでも昼は蠅、夜は蚊の登板です。
  • ロバ・駱駝・牛・馬・犬・猫・鶏・水牛がいます。
  • 久々にバドミントンをしました。ああ疲れた。
  • Memon Hotelでの5日間の宿代は100ルピーと割引してくれました。
  • 特別に見るものはありませんが、ゆっくり、のんびりするには良いでしょう。

12月7日のタッタ最終日は、宿の階下にある呉服商のオーナー、他店員から夕食の差し入れがありました。その後、オーナーの父親の家にでかけました。立派な家で、敬虔な回教徒です。

 

14.  日野のバス平坦路を快走

デカン高原の中央部にハイデラバッドという都市がありますが、同じ名前の都市がここ、パキスタンにもあります。パキスタンは前回の訪問には、ペシャワール、ラワルピンディ、ラホールを周りました。今回はカラチとハイデラバッドが加わることになります。

ハイデラバッドとタッタはSRTC(Sind Road Transport Corporation)シンド州道路運輸公社のバスが3時間で結んで居ます。所要時間は3時間で料金が9ルピーです。車内は物凄い混雑でしたが、「HINO」のバスは平原を快走していきました。単調な光景が続いて眠くなってきます。

15.  コカ・コーラか人命救助か

さて、先日パキスタンの新聞にコカ・コーラの現地法人(パキスタンコカ・コーラ社)の30周年を祝って8ページにわたって大特集がありました。同日の記事には、一人10セントの予防注射が出来るならば、地球上の乳幼児死亡率を低くすることが出来、飲料水の確保が出来るなら多くの子供達が救われるというユニセフの発表があり、相反するこの記事に関心を持ちました。

一体コカ・コーラは何をしたのでしょうか?何億もの子供達を救うことが出来たのでしょうか?コーラに使う総額が飲料水確保に充当されるならば、この国での飲料水のトラブルは解決するであろうに。しかし人類は愚かなもので、普通の水より何十倍も高いコーラにお金を払います。そして、そのお金はアメリカに吸い取られてしまうわけです。何となく腹ただしく感じてしまいます。

まあ、回教国ですから当然の事禁酒国家ですから、他の飲料産業は発達することはありません。どうしてもコカ・コーラになってしまいます。これは日本でいうと ビールやお酒の感覚です。いわゆる日常生活の一環にしみついてしまいました。特集記事では賛辞が並び嫌気を感じてしまいます。勿論コカ・コーラの害などは一かけらもでるわけがありません。

こうして眺めるとパキスタンは我々の目から見ると不自由極まりないキュウクツな国に見えます。飲酒は禁止、男女の交際も自由がありません、インドではインド製のスクーターで親子三人が仲睦まじく市内を駆け巡っていますが、パキスタンのそれは、野郎が二人、パキスタンのモンペ姿でダダァと疾走するのみで、どうしても冴えません。しかも、毎日の事のように新聞記事には凶悪犯罪が登場します。

16.  羊の脳味噌

ああ、今日は恐ろしいものを食べました。食堂で分からずに注文したのが間違いの元でして、登場したのは「羊の脳味噌料理」だったのです。ぶくぶく、ぽちゃぽちゃ、ねっとりの食べ物で、思い出してもぞくぞくしてしまいます。毎日ローティ(パキスタン風のパン)キマ(挽肉カレー)バナナ、ティーの定番から離れて違うものに手を出した結果とでも言いましょうか!

パキスタンの食事でローティは欠かせません。日本で言うならばご飯、西洋ではパンと申しましょうか、いわゆる主食となるものです。かまどから出来立てのローティを出すのが礼儀のようです。また、子供達や父親がローティのみを買いに飯屋にやってきます。それはパン屋を兼用していることになります。

そのローティに各種カレー汁をちょびり、ちょびりと付けながら食事をするのは、西洋やトルコの感覚にも似ています。何しろここから西へ西へと進めばイラン、トルコそしてヨーロッパへと結ばれていますから。味はインドカレーと似ていますが、スパイスの使い方はインドより控え目です。どの料理も油っぽく、コレステロールがたっぷりと蓄積していく感じがします。

どうも最近の生活に侘しいものを感じます。早く太陽ギラギラの熱帯が恋しくなりました。ここカラチ周辺も日毎に気温が下がり

最高29度 最低12度、湿度50% 日没5時42分 日出7時5分の環境です。足の裏や踵がカサカサになってきます。湿気のあるなしで、こうも人間の生理的現象が異なってくるものですね。

17.  数字だけでは分からない貿易

話はいろいろ転じます。世界の貿易に関した話をしましょう。日本の貿易は近年輸出超過について話題になっています。現在の世界貿易の構造は複雑で、がんじがらめです。対米黒字と言っても、日本が中近東より原油を輸入する限り、日本からの輸出代金の何割かは、中東原油を牛耳る米国大手メジャー(石油資本の会社エッソやシェルなど)の手元に渡る仕組みになっています。その点を含めて考えると、対米黒字と言っても、とんとんになるような気がします。

さて、日本とパキスタンの貿易は日本からの輸入は91億3000万ルピーで輸出は28億2000万ルピーとかで、この格差是正に必死となるのですが、良い方法は見つかりません。第一次産品を輸出して、付加価値の高い第二次産品を輸入する限り、その国は赤字の連続となってしまいます。しかし、この貿易収支を間接的の補完するのが、観光収入や海外への出稼ぎによる送金です。中近東は石油販売で得た収入で様々なプロジェクトが進行中で人手が足りません。そこへ、パキスタンやバングラデッシュなどから大量の出稼ぎが派遣され、お金は還流していきます。二国間の貿易収支のみで捕らわれてはいけません。貿易赤字となっても、国家には運営していく多くの選択肢が残されています。外国からの資金援助やローン、出稼ぎによる送金などで収支のバランスを保つ国も多くあります。

18.  天候不順

ここカラチの一等地で歩行者を観測してみました。

民族衣装 洋服 民族衣装 洋服
上り 22 77 1 0
下り 21 20 4 0

こんな感じですから、如何に男系社会か一瞥です。

今日は有名な市場に出かけました。情報を仕入れると今年は天候不順で玉ねぎが大不作。市場に出回らず、一時期はキロ当たり14ルピーに高騰したとか、今は少し下がって8ルピーの価格です。ジャガイモも日常生活に欠かせません。これも不作でインドより緊急輸入をしています。10キロ入りの袋にはMade In Indiaと記載され、Dubai 行きと表示があります。現在はキロ当たり8ルピーですが、それでも高級品です。今年はパキスタン全土で雨が少なく綿花の収穫も3割減で小麦も不作です。

庶民の飲料なる紅茶は、スリランカ産がキロ当たり42ルピー、ケニア産が54ルピーで出回って居ます。お砂糖はキロあたり7.5ルピーですから、高級品の部類に入って居ます。果物は何と言っても、バナナが大安売りで店じまいの時刻になると1ダースで2ルピーまで下がります。

お米は5-8ルピー(Kg)トマトは4ルピー、ダニヤン(香味野菜)が4束で0.50パイサ

八百屋に並んでいるのは、じゃがいも、玉葱、トマト、えんどう豆、蕪、レタス、大根、人参、キャベツ、カリフラワー、かぼちゃ、長ネギ等と豊富です。勿論ニンニク、生姜も並んでいます。

市場では生きたままの鶏を量り売りしています。鶏は自らの運命を知るがごとくクォクォと鳴きながらキョトンとしています。マーケットの入り口には、ボッカともうしますか、ヤシの葉で編んだカゴを肩にかけた荷物運び人が待ち構えて居ます。

 

19.  日本は真の友人

パキスタンではビデオが流行しています。これを見る時には、部屋に鍵を欠けて、電気を消して、密かに楽しむものですと、ホテルの副マネージャーがニヤニヤしながら話してくれました。それから、山奥のスワット出身の18歳の青年は、日中はここで仕事をし、夕方5時から9時まで学校で勉強しています。全くの真面目青年で酒もタバコもやりません。

「タバコを吸うと、40歳過ぎたら死んでしまう。パン(ビンロージュの葉)をクチャクチャやする40歳過ぎたら歯がボロボロになってだめになる」と彼は固く信じているようです。

宿の副マネージャーの説によると、日本と中国は真の友好国でアメリカはビジネスをしている国。インド・パキスタン戦争の時、アメリカはインドに武器を売っていたのに、今度は我々に武器を売っている。あの国は女友達みたいで信用ならない、日本こそ真の男同士の交際ができる良い国だと褒めこんでいます。

 

Dallas 豆の煮たもの
Sabzi 野菜煮
Qima ひき肉煮込み
Gosht 肉料理
Liver 肝臓の炒め物
Halin これがうまい
Anda

等を注文して最後にTeaを頼むのが一般的なようです。Teaはカップで単品を頼むと0.75~1ルピーですが、セット(ポット)だと1.75ルピーで2杯強あります。

そのほかバナナやオレンジを買っての日々で一日5ドルの生活が続いて居ます。

カラチでは三軒の宿に宿泊しました。

名前 ホッとシャワー メモ 料金
アミンハウス なし ちょっと郊外 S30 D50
YMCA 朝のみ 建物OK部屋普通 S30 D60
Khybr Hotel 24時間 町の中心にある S40 D50

S シングル D ダブル 。アミン・ハウスはユースホステルでドミトリー(大部屋の場合は15ルピー

空港から市内はミニバスの便があり、料金は1.75から2ルピー。市内のミニバスは1ルピー均一でした。普通バスは行き先によって0.60から1.20ルピーとなって居ます。

パキスタンで人と目があったら、タイミングよくサラマレコンを言えば良いのです。誰かが、サラマレコンと言えば、ワーレコム・サラームと言い返すのがしきたりです。挨拶が終わると、握手を交わすのが習慣です。こうしてお互いにハッピーになるというのが、この国の習慣です。そして別れる時には、ホダ・フェーズと言って、右手を胸に当てると、もうパキスタン人の仲間入りです。どこか、辺境に住む同志かなぁと思われているかもしれません。

市内バスに乗ったら、50歳ぐらいのオッチャンが私に座席を譲って暮れました。何故?と現地語で聞いたら、

「あなたが座ってくれたら、私は幸せなんです」と答えがありました。

この国では、遠慮しないのがいいのかもしれません。

カラチの安飯屋のメニュー

Tea 1.00 ミルクティ
Roti 0.50 パキスタンブレッド
Qima 3.50 ひき肉カレー
Anda 5.00 卵カレー
Dall 3.00 豆スープ
Choshut 8.00 マトンカレー
Murgi 10.00 チキンカレー
Alu Matar 3.50 じゃがいもと豆カレー

その他の価格

英字新聞 2.00 洗濯石鹸 1.50
タバコ 2-6.00 リンゴ1キロ 12.00
マッチ 0.25 バナナ12本 4-6.00
ビタミン剤30粒 15.00 みかん1キロ 4-6.00

 

 

20.  乾きすぎた空気

バンコクからカラチへの飛行機は所要時間がおよそ5時間、ガラリとその風土が異なります。カルチャーショックも大きく戸惑ってしまいます。食べ物、服装、人の動き、店の構えなど全部が異なってしまいます。

文字は左から右に書くものと信じていると、この国では右から左に書いて居ます。湿潤な熱帯性の気候と乾燥気候。いずれも対照的な違いで混乱してしまいます。

空気が乾いているのは、健康に良いのでしょうか?いや衛生に良いのでしょうか?レストランに入ると各テーブルにはコップが一つしかありません。儀式程度にそれを洗って次の客が使いまわしをします。タイでは、いつも氷の入った清潔なガラスのカップでお水が提供されます。ここでは、洗ったものか、どうか不明なアルミニウムかステンレスのグラスで提供されます。食事と言っても水分の少ないものばかりが登場します。汁と具が沢山はいった麺類など登場するはずがありません。水分の少ないパキスタンのパン(ローティ)を胃に流し込むにはかなりの時間を要します。米食文化と麦食文化の差異を痛感します。

飯屋に入ってもウェイトレスの存在はご法度で、デリカシーに欠けている気がします。タイ料理はシンデレラ姫が繊細なセンスを込めて作られるものとすれば、パキスタン料理は山男達の作るむさ苦しい料理に対比出来ましょう。ここの料理は外見はどうでも良いのです。お腹に入ればそれで十分という土地です。

所で、この食事の供され方も、大きな違いがあります。タイでは、白魚のような手で可愛い娘たちが提供されてくれますが、ここでは、カサカサのいかつい兄ちゃん達の手で運ばれ、テーブルの上にボンと置かれるわけです。インドのマハラジャの生活から一気に刑務所暮らしに落ち込んだような開きを感じます。

21.  女性はどこにいるのだろう

どうもこの国では、バスガイド、デパートガールという存在は浮かびようがありませえん。ところで、この男ばかりの世界ですが、立派に髭を生やした兄ちゃん達のおしゃれは、その帽子とサンダルです。サンダルの先には、真っ赤な香港フラワーをあしらって、何となく華やかさを競って居ます。

それでは、女性達は一体何をしているのでそうか?家事と言っても、庶民の場合は大邸宅でない限り家事と言っても限られて居ます。結局ゴロリと休んで、おしゃべりの連続なのでしょうか?何人かのパキスタン人に聞いてみても要領を得た答えが出てきません。

東南アジアに比べると、経済の発展は一見力強そうに見えますが、実態は以外と伸びていないようです。改めて、東南アジア諸国での女性の貢献を実感します。東南アジアではおばちゃん達が市場を取り仕切り、工場でも女性工員が活躍しています。となると、どんなに頑張っても引き離されてしまいます。

22.  外人割引列車の旅

カラチより約880キロ離れたクエッタへは、22時間の列車の旅でボラン・メイル(Bolan Mail)という急行列車がカラチ発午後12時半でクエッタ到着は翌日の9時50分です。外人割引とやらで一等寝台が115ルピー(1500円)で定員4名のコンパートメントが割り当てられ快適な旅です。列車は定時出発、定時到着で時刻を守っています。しかし、窓から入り込む埃を防ぐわけには行きません。夜になると内陸性気候とやらで、冷気が入り込みます。カラチの古着屋で求めた15ルピー(200円)のスキー用アノラック=難民の支援物資の一部が役立ちました。6ヶ月前にアフガニスタンから引っ越してきたという店番のど子供たちと話をしながら、ついでに10ルピー出してジョギング用のタイツの中古品もゲットしました。

クエッタという町は標高1600メートルでアフガニスタンのカンダハールが近く、また西へイランへと向かう重要地点でもあります。政府観光局のおじさん達は1935年に起きた地震の話をしてくれました。概して国境地区は無政府状態の僻地もあるようで、武器、弾薬の店や製造所があるそうです。この赤茶けた山を超え、丘を超えての生活は私達農耕の民とは完全に異なる生活が待って居ます。銃や剣を片手にラクダにまたがって、アレクサンダーの末裔か、ジンギス・カンの末裔という風土です。どの家を見ても、屋根には勾配がなく、石造りか土造りの掘っ建て小屋が並びます。外見はみすぼらしいのですが、中を覗くとクーラーがあり、テレビがあったりするのが現在の彼らの生活です。

 

23.  貧困な食文化

この国の食文化は、やたらと量は多く、主食となる小麦粉を焼いたローティなるものは、直径20センチ以上もあります。朝食のパロータは、バングラデッシュの二枚分の大きさです。昼食は小さめの洗面器状の食器に肉のシチューが入っていて、それを4-5人で囲んで巨大なローティをちぎって汁をつけては、ムシャムシャと食べて居ます。時々スライスした玉葱をかじりながら・・・・。

この点からすれば、東南アジアの食文化は、材料、器具、種類、調理法など断然豊かで軍配が上がります。

 

24.  誇り高きクエッタ

ここ、クエッタの光景は何となくトルコに似た部分を感じます。パキスタン人の服装を洋風にすれば益々近くなります。ただし、こちらではビールやお酒が全面禁止、この点が大きく異なります。それを除くとトルコの一地方都市と寸分代わりません。ここバルチスタン州の言語はバルチ語でペルシャ語に似ているそうです。ここから西へ西へと向かうとイラン高原を経由し、アナトリア高原を経由しイスタンブールに通じて居ます。

東パキスタン(バングラデッシュ)は水が豊富でじゃぶじゃぶの世界です。バングラデッシュの地方都市チッタゴンは緑豊かな土地でしたが、ここクエッタはモノカラーの世界です。僅かな街路樹も乾ききり、周囲の赤茶けた岩山が目に入ります。どうも、東と西のパキスタンを一つの国としてまとめることは無理だったようです。

乾燥地帯で水に不自由していますから、お風呂やシャワーとは縁が遠いのでしょう。足は真っ黒で垢がこびりついている人も見かけます。女性は、あのベールとかを被って顔を見せることはありません。

 

25.  はるかなるメッカへ

イラン、アフガニスタンへの基点でもあるこのクエッタの街は半分砂漠の中にひっそりとたたずんでいます。緑が消失した世界では、昆虫の類も住みにくいのでありましょう。緑多いタイ国の島々ではアリ、クモ、ムカデ、ハチ等に悩まされていました。こちらでは、日中の暑さでハエの姿を見受ける程度です。野良犬も、猫も姿を見かけません。

街で見かける乗り物は、駱駝、ロバ、馬そしてオートリキシャとぎんぎらぎんの装飾を施したミニバスがあります。そんな中、右を見ても、左を見ても、図体の大きなもじゃもじゃ髭の男達ばかりの社会です。私たちの1.5倍から2倍の容積を持つ人々がミニバスに押しかけますから、車内の混雑は甚だしいものがあります。

不愛想な果物売りのお父さん達は、日没になると、屋台を放ったままにして、西に向かってお祈りを始めます。この時間帯は完全に経済活動が停止してしまうのです。

我が投宿しているモスリムホテルの併設レストランは、テレビを見に来るおっちゃん達で盛況です。お茶を啜りながら紫煙をくゆらせる男たちの社会です。まさしく、湿潤東南アジアとかけ離れた世界で、私の足の裏もカサカサになってきました。

この地域ではバスの前部が女性席、後部が男性席で、両者の間は分厚いカーテンで仕切られていますから、我々男性は、今どこを通過しているのか前部を見ることが出来ません。

回教徒の祈りは一種の自己暗示なのかもしれません。毎日「神は偉大なり、アッラーの他に神は無し・・・・」と五回唱えると、そう信じてしまわざるを得ないのでしょう。

Fajr   5:25AM  Sunset 5:47PM  Sunrise 6:43AM

Zohar  12:15PM

Asr    04:16PM

Magrid 05:48PM

Isha   07:06PM

新聞には、最寄りの土地でのお祈り時刻が掲載されて居ます。

 

26.  道路があれば走れる

クエッタのモスリムホテル前には16台のフォード社のライトバン(7-8年前)が駐車しています。英国より、通称パキスタンブリティッシュ(英国籍を持ったパキスタン出身の人々)が運んできたようで、家財道具などを詰めて一週間の行程で到着するとの話です。ここで税関審査が行われるという話です。中古車は一台15000ルピーから20000ルピーで取引されます。すなわち1000ドル程度で取引されるわけです。勿論別途100%税金がかかるそうです。古くてもまだまだ動きが良さそうです。

そう言えば、先日、郊外に行くのに乗ったミニバスもこの旧式フォードでした。陸続きという事は、私達島国出身にとっては、予期し得ない現象に遭遇します。「道路があるから、走れば良い。ロンドンとパキスタンはそんなに遠くはない」そんな認識を新たにしてくれました。クエッタからロンドまで9872キロという道標がありました。

東西パキスタン

物価比較

バングラデッシュTaka パキスタン

Rp

備考
お茶 1 1 屋台の茶店
宿代 25-30 25-35 地方の町
バス代 20 10 100キロ基準
市内ミニバス 1 1 最低運賃
エアログラム 5 3 日本へ
食事 10-15 8-12 一食平均
タバコ 7 5 フィルター付き20本
1 US 32 16

1ドル=260円

 

27.  南アジアの旅は安い

国名 滞在期間 日数 使用額 平均
タイ 1984/11/7-11/24 16 115 7.2
スリランカ 11/25-1985/2/16 85 360 4.2
インド 2/17-4/22 65 190 2.9
バングラ 4/23-5/15 23 90 3.9
インド 5/16-6/2 17 77 4.5
ネパール 6/2-7/1 29 94 3.1
インド 7/1-8/8 39 111 2.9
バングラ 8/8-9/9 32 150 4.7
ビルマ 9/9-9/15 7 36 5.1
タイ 9/16-10/31 46 257 5.6
パキスタン 11/1-11/21 21 100 4.8
合計 378日 1580ドル 4,2ドル

他に航空券が

大阪―バンコク:58,000円 242ドル

バンコクーコロンボーマドラス:42,000円 175ドル

カルカッターダッカーラングーンーバンコク:43,000円 185ドル

合計 281,000円=1242ドル

約30万円の飛行機代金と35万円程度の滞在費で一年の放浪をしている計算になります。

 

28.  パキスタンとバングラデッシュ

中東に出稼ぎに行った人に、又働きに行くのか質問すると、「最近はバングラデッシュの人々が俺達の半分の給与で働いているから、あまりいい稼ぎにはならないのさ」

クエッタの駅には1935年の大地震で亡くなった鉄道員176名の慰霊碑がありますが、その四分の三以上がヒンズー教徒の名前が刻まれています。英国植民地時代には、はるばるやって来たインド人が技術者や工夫として、ここクエッタに住んでいたのでしょう。今でも、その子孫がヒンズー教徒の集落がわずかながら続いているようです。そうそう、マレーシアの鉄道員は、南インドのタミール人が多く、その図式は同じようなものがあります。

クエッタも密輸品が横行する土地柄です。アフガニスタンへの物資はカラチ港に陸揚げされ、封印されて通過扱いでアフガニスタンに到着します。さて到着すると即Uターンしてパキスタンで販売されるわけです。ちなみにサンヨー・カラーテレビ14インチはおよそ4500ルピー(300ドル)で出回っています。

通常外国製品には100%の税金が上乗せになりますが、どうもうやむやになっています。日本製の布地も人気があり、偽物のメード・イン・ジャパンが時々出回っているとの話です。陸続きという事は、私たちの感覚をはるかに超え、理解しがたい状況を作っています。

さて、ここでバングラデッシュとパキスタンを比べてみると、同じ回教国でも、大きな違いを発見します。バングラデッシュでは、小柄なルンギ姿の兄さんが、こせこせ店番をしています。水浴を欠かさず清潔好きなバングラデッシュですが、パキスタンでは、髭もじゃでターバンを巻いた大男が店番をする。ラクダがのろり、のろりシャンシャンと鈴を鳴らしながら砂漠を闊歩するパキスタンの光景と、チリンチリンと人力車が水田の中を、田舎道をゆっくり進む光景があまりにも対象的です。

 

29.  車はそんなに早くない

クエッタより朝7時出発のPTDC(パキスタン政府観光局)の運行するバスはビカピカの車体で定刻に発車しました。切符を購入するときに、現地語で簡単な挨拶を交わして少しばかりお話をしていると、外人割引があるのかどうか定かではありませんが、150ルピーから100ルピーへと値下がりしていきました。所要時間は12時間という事で、合意に至り切符を購入したわけです。

そういえば、カラチを朝出発した車両が夕方6時半から7時半頃、クエッタに到着する車両を見かけました。外装はピカピカし、シートも快適そうです。しかし、タイヤをみたら、ギクリとします。皮の剥けたタイヤか、ツルツルのタイヤで動いています。パンク等で2時間ほど遅れたとしても夜9時にはカラチに到着するものと踏んでいました。

しかし、この日は最悪です。パンクは五回発生しました。この地域は映画に出てくるアメリカ大陸西部の大平原に似た土地で、次のガソリンスタンドまで200キロ離れています。止む無く、低速で片輪のまま2時間走ってパンクの修理に入ります。それが治ると時速100キロで快走していきますが、一時間もしない内にまたパンク発生で、災難に見舞われっぱなしの日でした。結局カラチに到着したのは、深夜の零時半になってしまいました。

ところで、クエッタからカラチに向かう750キロの景観は見事なもので、スレイマン山脈の谷間に沿った道路を車はビュンビュン飛ばします。緑という色彩を失った岩盤地帯に黒いアスファルトの道が延びています。所々舗装が途切れた箇所は砂塵が舞い上がります。山に木がないという事は、保水力がなく、比較的平坦な山地でも、道路はすぐ壊れてしまうものです。治山、治水事業はこの国では以外な一面を見せてくれます。平地だからがけ崩れは起こさないだろうと考えるのは、素人の考えで、こうした石ころ、岩だらけの地形は意外と脆く、ちょっとした刺激でパチャンと崩れてしまうものです。所々、水の流れていない川の橋梁工事をやっています。そんな道路をシャンシャンと駱駝の隊列と行違う場面もあります。

途中休憩した茶店は、肉屋を兼ねています。こちらの肉屋は、日本の八百屋的感です。周囲を見渡せば、野菜などの収穫は期待できません。羊やヤギを点々と見かけるのみです。この地域では、日本のように畑から大根を引き抜いて店先に並べるというよりも、羊を一匹捕まえて、首を跳ねて店先にブラリと下げてしまいます。すぐそばに目を閉じた羊の頭部と臓物が無造作に放置してあります。店先では、4-5人の客(男)が肉の塊をハトロン紙に包んで家に帰るところでした。

立ち寄った集落は、四角い土の家が並んでいます。入口と小さな窓のみが黒い色になって、似たような家が何十軒と並んでいます。その中で目立つのが簡素ながらもモスクです。ほとんど人影もなく、水の恵に溢れた日本とは全くの別世界です。

道中立ち寄ったドライブ・インはトルコ内陸部をバスで回った時の印象とよく似ています。インド社会から、遠く離れたことを改めて感じさせます。

クエッタで5日目を迎えました。いつものように事務所でお茶を飲んだり話をしたりしていると「今日は日本の旅行者が一人いるよ」と告げてくれました。名簿を見せてもらうと確かにJapanese、そして聞き覚えのある名前です。そうです。再会です。6月下旬にネパールのポカラからインドの国境まで同じバスに乗った通称「振ちゃん」でした。

名古屋の出身で、高校を出てすぐにインド方面の旅を始め、スペインまで出かけて、再びシルクロードを経由してネパールに帰る途中との事です。ポカラで出会った時は、彼は旅にでて二ヶ月目、今は七ヶ月を経過しています。18歳の素直な好青年です。5ヶ月後の出会いは、何となく大きくなったように感じます。

旅行は生きた学びの場かもしれません。生きた歴史を学ぶ絶好の機会です。地学の標本を手にとるように観察することが出来ます。学校での英文法ではなく、話せる、通じる英語を鍛える場にもなっています。勿論体力修練の場ともなって居ます。こうした積み重ねで総合力も身についてくるものです。

しかし、旅行者の中には、若さ故、麻薬などのドラッグに引き込まれる人々も居ます。幸いに、当方はそうしたこともなく、伸び伸びと思いのまま世界を見続けることができたのでしょう。大学を出た人や中退した人々の多くは、関心がこうした部分に向けられ、インドに来てインドを見ないで帰る人も数多く居ます。

18歳になる振ちゃんこと松井さんの語るには、イスタンブールには日本人の長期旅行者が多くいて、どのくらいすごい体験をしてきたかの自慢話に花が咲く社会だったそうで、本人は、あまりこうした傾向が好きになれなかったそうです。

 

30.  エジプト女性が最高

今日は友人の松井さんと郊外の工業地帯を訪れることになりました。早朝7時半集合が約束の時間で、ギリギリまで寝ていたので数分間で葉を磨き、着替えをして出発です。ミニバスと市営バスを乗り継いで、早朝の涼しい間に煉瓦工場、いやブロック製造所に到着しました。およそ10マイル(16キロ)の道をボロボロの市営バスは、今にも天井が外れそうな状態で車体をゆすりながら、整備された広い道を猛速度で走ります。

この郊外はさしずめ新工業地帯とやらで、各種大小の製造所が連なり、活気を呈して居ます。そんな工業地帯の中に今回案内してくれた友人の小さいながらも、100坪ほどの敷地にブロック製造所があるのです。

セメントと砂そして水を混ぜて天日干し、2日毎に800~1000個の商品が完成します。一個の価格は0.75ルピーで、専用のブロック職人とロバを操る運び役の16歳の少年アブドル、それに夜警のおっちゃん4人を抱えて居ます。ちなみに、最年少のアブドルは一ヶ月700ルピーの給料をもらっているそうです。この新興工業地区の住民は同じ地区からの出身者が多く、皆が顔見知りです。

案内をかってくれたムサデック氏はペシャワール近くの小ハットの出身で、訪問する人々も同じコハットの人々です。彼らは地元のパシュート語で話をしていますから、私には全然わかりません。学生(高校生)の一人に、なぜカラチに引っ越してきたのかを質問すると、「あちらでは、畑仕事ばかりで勉強に行けないから」と返答が来ました。ここカラチはまさしく寄り合い所帯で各地からの人々が集まって来ます。

広大なインダス川下流の低草原地に出現するカラチは700万人に膨れ上がって居ます。他の土地に比べると気候も良く、まだまだ人口を吸収する余地を残して居ます。町を清掃する仕事はヒンズー教徒、洗濯屋はベンガル人が多く、友人の属するパタン人は運転手や車のメカニックが多い事に気が付きます。パキスタン最大の都市カラチの豪商の多くはインド系のファーシー教徒だと聞いてびっくりしました。

パキスタン人の女性の好みは何故かエジプト女性が世界一の美人だと信じて次はレバノン女性というのが定石になって居ます。敵対するインドが東にあるので、それは無視しています。そうなると、東南アジアは遥か彼方の存在です。

彼らは、魚を食べると体が温まって精がつくと信じ切って居ます。お魚が普段の食事に出される日本人としては、否定したのですが・・・。

韓国人が犬の肉を食べるのは精力をつけるためなのですか?カラチに住む中国人(歯医者の多くは中国人)の体格が大きいのは何故?等と妙な質問が湧き上がり、いつまでも退屈することなく、時間が過ぎて行きました。

 

31.  日本で働きたいよぉ

長らく同じ宿に滞在していると、私が日本人ということで時々誰かが訪ねてくるようになります。そんな中でアフガニスタンの人がいました。国境周辺には沢山いるとの事で、彼等はどうもゲリラ(ムジャヒディン)の勇士です。2か月前からここにやってきたそうで、あと一カ月ほどしたら、アフガンに帰って戦いに参加するとの事です。

「日本にアフガニスタン人いるのかね!何か仕事ないかなぁ?」

と質問を受けました。「日本は最近何でも機械化してボタン一つで何でもやっちゃうから、仕事はどんどんなくなってきたんだよ!」と答えると

「それじゃあ、ボタン一つでルース(ロシア人)をやっつける機械があるかもしれん、送ってくれませんか」と真剣な顔つきでした。

どうも彼等のマインドは深くソ連が敵として映っています。彼等はアメリカ、日本、デイ国など西側諸国の援助で生計を立てているのが事実で、米ソの二大国のエゴイズムに引き回され犠牲となっている国情を知るわけもなく、2人の子供を抱えた20歳の青年は、いずれはアフガニスタンに帰ると無表情で語ってくれました。

彼等の服装、顔つきはパキスタン人と何ら変わるところはありません。しかし心の隅には、」何等かの不安を感ぜずにはいられないようです。改めて日本の社会との差異を考えさせられてしまいます。

 

32.  大パンジャビの人口は一億人

所で、パキスタンの人口は一億人に達しています。その50%がパンジャビ州の人々です。インドとは陸続きで、インドのパンジャビ州と似たような風土を持ち、混同しがちです。整理してみると、パキスタンのパンジャビ州の人口は5000万人で大半が回教徒です。他方インドのパンジャビ州は人口1800万人でシーク教徒が多く住んでいます。隣接するハリアナ州は元パンジャビ州でしたが、分離して新しい名前になりました。そのハリアナ州の人口が1800万人です。

数十年前に戻って、この大パンジャビ州を考えると、現在のパキスタンのパンジャビ、インドのパンジャビ州そしてハリアナ州の3つの地域を指すことになり、総人口は一億人に近く、回教徒、シーク教徒そしてヒンズー教徒が混在した地域となります。

さてパキスタンとインド間は時々緊張した状況が発生し決して仲が良いとは言えません。シーク教開祖の師グルー・ナナクはパキスタンのパンジャビが生地で、毎年11月彼の誕生祭には、国際間の緊張は解かれ、インドとパキスタンの間には特別列車が運行されます。商業都市カラチにもかなりのシーク教徒が住んでいます。

 

33.  パキスタン的な一日

バルチスタン地方の国境はどのようにして定められたのでしょうか?バルチ人は現在のアフガニスタンの一部、イランの東部そしてパキスタン西部にまたがる広大な地域に住んでいます。そして国境線がひかれて土地は分断されてしまいました。パキスタン領土内でも、無政府状態の地域もあるそうです。

パキスタンでは、禁止されているはずのヒンズー映画を観たり、ブルー・フィルムが出回ったりします。彼等の話題は若者から老人までセックスの事に真剣な興味を持っているようで、欲求不満が高まっているのは明らかです。

今日も一日、いろんな人に出逢って、いろんな話を聞いて、いつしか陽もくれました。午後7時に郊外の作業所を去り、途中で夕食を済ませて宿へは午後9時の到着となりました。今日は本当にパキスタン的な一日でした。

 

34.  乾燥地域での生活

クエッタを州都とするバルチスタン州の半砂漠的な光景にぴったりとくるのが、回教の教えなのでしょうか!延々と続く乾燥地帯を放浪する人々にとって、仏教や儒教の協議は無意味かもしれません。何しろ、努力や工夫をしながら生きるという方法は通用しません。もう神の思し召しに従うしかありません?湿潤アジア諸国では農業が発達して人々は定着することになりました。それぞれの家庭には神棚や祭壇を設置するようになりました。文化の違いは大きなものがあります。

さて、回教徒にとって、聖地メッカ巡りは重要な使命の一つとされています。さて重要な指針として

  • パキスタン人は白のシャルワール・カミズを纏い、胸にバッジを付けて参加するべき。
  • 外貨持ち出しは50USドルを許可するべきである。
  • 妊娠6か月以上の女性は参加できない。
  • 国内各地から出発の場合、鉄道運賃を25%割引するべし。
  • PIA特別機を各州都より発着させよう。

この国の人々は政治的な話になると、静まり返ってしまいます。現政権への批判は許されないようで、インドを除いた周辺諸国も同様な空気を感じます。インドの民主主義は金権政治、暴力政治の要素を含んだ特殊なものですが、反対党が存在することで、民主主義の基本を失わずに済んでいるのでしょう。或る国では、対する政党がいない単一政党の国家も存在していますから・・・。

 

35.  パキスタンは強いんだ

所で、一か所に長く居続けると、近所の人々とは、いつか顔見知りになるものです。そうなるとパキスタン的は接待を受けることになります。今日の昼食はチャイワラ(紅茶の出前屋さん)のパタン青年におごってもらうことになりました。話を聞くと、カラチのこの地区(スルタンアバッド)には、ペシャワール地方特にコハットからの出身者が多いそうです。それで、彼等の名前の最後には○○・カン(Khan)とつくのが特徴です。アフガニスタンと国境を接するパシュート族はかの有名なジンギス・カンの流れを汲んでいるのかもしれません。

バス停の前にある自動車部品販売店で店番をしているリクアット・カンと握手するのも日課になってしまいました。いつかは、彼等の村に出かけてみたいものです。

自転車修理の兄ちゃんは、時刻になると一日五回のお祈りを始めます。勿論この時間、仕事は中断です。自動車部品販売をしているリアクアットは一日4度は店から姿を消して、マスジッド(回教寺院)に出かけます。隣のパイプ屋のお父さんはお店の片隅にゴザを敷いて、ハンカチを被って祈ります。今日も平和でありますように。

あるパキスタン人は、「アフガンの人々は弱いからすぐにソ連に乗っ取られたけれども、パキスタンは強い軍隊を持っているから、そう簡単には取られないさ」と息巻いていました。しかしソ連にとっては、パシュトーン族の多く住むバルチスタンの南方に向かうとペルシア湾につながりますから、喉から手が出るほどに欲しいだろうに!

今日は暇つぶしに、パシュトン語を習ってみました。数字の呼び方がドイツ語に似ているのに驚きです。また複数形の概念が強かったり、次のページに少し記載しておきます。

自動車整備の見習い工は無給で朝7時から夕方5時まで。時には真夜中まで続くことがあるそうです。2-3年勤務し、仕事に慣れると一カ月800ルピー(食事別途支給)になるそうです。バスの運転手は2000から3000ルピーの月収があるようです。

 

36.  パシュトーン語

数字の言い方

245をドイツ語では:Zwai Hunderts und funf und furzeigh(2,100+(5+40))

245 をパシュート語では:Dua Sawa-Pinzo-Salwkht (2,100+(5+40))

245をヒンズー語では: Dui Saw Paathiris(2100+5・40)

英語 ウルドゥ語 パシュトン語
Morning Shuba Sabay
Daytime Dupur Gharma
Evening Saam Mazighar
Night Raat Shpee
What time Kittna baje So baje di
What date Kon tarhiki Sa tarhik de
Whtat is this Yo kya hai Digachi she
What is that Vo kya hai Agachi she
OK Thik hain Tik da

*我が友人達のパシュート人の多くは幾つもの言葉を話せる人た多く、主にアラビア語、ペルシャ語、ウルドゥ語そして母国語のパシュート語です。

*最後から二番目の音にアクセントを置くのがパシュトン語の特徴でしょう!

*語彙はアラビア語、サンスクリット語の影響を受けて居ます。

*発音はKHの音が強く、喉の奥から締め上げるような響きがあります。

 

37.  回教国と言えども様々

こうしてゆっくりとパキスタンの日々に浸っていると、時には西洋を感じることがあります。主食のローティと生野菜にケバブやキマ(挽肉カレー)の組み合わせは、さしずめサンドイッチやハンバーガーに似ています。彼等の顔立ちはどことなく西洋的な雰囲気を醸し出しています。アジアは広いもので、その東と西では表情が大きく異なってきます。インドを挟んでの東西、ひと昔前の西パキスタンと東パキスタンの差異に改めて突き当たってしまいます。

パキスタンの新聞(英語版)はどうも統制色を感じてなりません。インドやバングラデッシュに比べると国際的なニュースはほんのわずかで、経済欄が中心となっています。敵対する隣国のインドに関した記事は皆無に等しい状況です。回教国と言っても、様々な形態があり、2億のイスラム人口を持つインドネシアはさしずめ熱帯雨林に住む回教徒ですから、そのライフスタイルや信仰の方法にも変化が見られます。いわゆる、パキスタンの場合はギンギラの極めて保守的なイスラム教徒ともいえるでしょう。となると益々外界との距離が遠くなり、国際社会から離れていくようにも見えます。パキスタンの子供の就学率は五年前に比べると7%低下したとの記事があります。いわゆる職業青年(少年)の数が増大したそうで、子供達の繊細な手先は絨毯工場やその他では貴重な役割を担っているようです。通常繊維工場や絨毯工場等の分野では、日本を含めた西洋諸国では女性達が活躍しているわけですが、この国は回教国ですから女性が外に出て働くことは殆どありません。その代用として少年たちが活躍するという社会構造を持っています。

今日はミニバスがストライキを行っていますから、市内バスはごく一部の路線しか運行していません。不自由そのものです。代用として馬車がお出まししています。そんな中、カラチ郊外の海岸なるクリフトン・ビーチに出かけてみました。

ここで出会ったパシュート人は、その話を聞くと猛者そのものです。以前1キロのハッシッシ(麻薬)をサンダルの底に埋めて運んだことがあるそうです。今は取り締まりが厳しく1キロみつかると25年の刑期になるからヤバイとか。イタリアでは、しこたま稼ぐことが出来たそうです。どうもマフィアとのつながりをにおわせています。出身地のペシャワールでひと騒動起こしたので、ほとぼりが冷めるまで、ここカラチで一カ月ほど滞在しているそうです。さて、彼等の目からすると、東洋的な顔つきを見ると、タイ人かフィリピン人に見えるようで、なかなか日本人という答えは出てきません。成程、フィリピンは多くの出稼ぎを排出し中近東で活躍しています。

ここパキスタンでもビニール袋の使用が氾濫しています。バナナを6本かってもビニール袋に入れてくれません。かようにしてライフスタイルはどんどん変化していきます。ただここパキスタンの特色は、やたらとEnglishという言葉が並びます。English Biscuite, English Medicine, English BootsなどやたらとENGLISHを被せて居ます。路上に出ると「古」と名の付く市場が目立ちます。古着、古本、古レコード、古カセット、古食器(主として航空会社の使い古しの食器)路上には並びませんが、古タイヤの市場も活気を呈しています。

 

38.  交通事故で絞首刑

パキスタンのテレビっは、普段は午後4時半より始まります。まずはニュースが流れますが、ウルドゥ語、シンド語、アラビア語そして英語の四か国語がそれぞれ5分間づ放送されます。夜は12時10分に国歌、国旗と共に終了します。

パキスタンで交通事故が起きた場合どうなるのか、友人に聞いてみました。交通事故が起きて人命が失われると、その車両は民衆によって放火され、運転手は絞首刑になるという厳しい掟の社会です。バスの場合は車掌は責任を問われることはないそうで、運転手のみが生死の間をさまよっているようです。それで、今日は、その事に対してのストライキが行われ交通機関は麻痺状態です。パキスタンの刑務所も評判が悪く「汚い、臭い、食事が不味い」と評判は悪く、どの世界も同じようです。

 

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