インド亜大陸放浪記 No.1スリランカ

スリランカ南西海岸の街ゴール

インド亜大陸放浪記 No.1スリランカ

ヒンズー、ウルドゥ、ベンガリ語を学びながらのインド亜大陸なんでも考現学

リポーター紹介

干場 悟

Satoru Hoshiba

スリランカ南西海岸の街ゴール

秋も深くなって仕事が一段落すると「寒さ嫌いの彼はブラリと海外に出かけるのです。7カ月、年によっては19カ月の放浪ですが、これがまた徹底した貧乏旅行、だから欧米なんどには、興味をもたない。そんな旅がもう10年以上続いているのです。

計算能力、記憶力に優れるが、語学の才能も豊かである。ヒンズー語、シンハリ、ウルドゥー、ベンガリをはじめ、インド亜大陸から東南アジア・アフリカの言葉を身に着け、それをもとに現地人との交流を深めるという、質素すぎる服装の民間大使というわけなのです。

独創的な考えと鋭い観察眼から、独自の比較文明論を展開していく、旅のノウハウにも触れたり・・・・。まあ、インド亜大陸なんでも考現学といったリポートなのでありまする。

では見山・見山_____

内容

インド亜大陸放浪記 No.1スリランカ… 1

Satoru Hoshiba. 1

ビザ入手情報… 1

コロンボ空港… 2

美女との会話… 2

ガイド・葬式・ローソク・ブラブラ… 3

ガイド… 3

葬式… 4

ローソク… 4

ブラブラ… 4

多数派対少数派… 5

豊かさとは一体なんなのでしょうか?… 6

太陽の国(雑感)… 6

出パキスタン記… 7

そしてスリランカへ… 8

湿潤・軟弱… 9

古都カンディ… 10

シンハリ人とタミール人の対立… 10

ムールティ君の話… 11

衝突は政治的対立(ムールティ君より)… 12

対立の影響さまざま(ムールティ君より)… 12

小さな事件ではない(ムールティ君より)… 13

経済援助や企業進出について… 14

食事にも変化… 15

来年は俺たちの番さ… 16

レストラン不繁盛記… 18

続きまして観光地の物語… 19

ランカ最新情報おしまいに!… 19

スリランカ物語… 21

どこへ行くスリランカ… 21

安い、安い物価… 22

民族問題が・・・… 23

だまされた… 24

藪医竹庵… 24

私見カースト制… 25

19か月支出総額100万円… 26

庶民は不景気… 26

いざこざ・トラブル… 27

ランカ人根性物語… 29

さて、どうなるか民族抗争… 29

 

 

スリ・ランカ

1984年12月8日 受信分

ビザ入手情報

1984年11月21日バンコクにて

待望のスリランカのビザを受け取りに行く日です。結局は待たされて、待たされて、少し偉い人の所へも回されました。最初は一カ月のビザしか出せませんということでしたが、少々得意とするシンハリ語を駆使しまして・・・・ もう後は詳しく理由を申す必要もなく、秘書官が上司に話をつけてくれました。

小生の主張は「ビザなしで一カ月滞在がOKというのは知っている。だけど一カ月を過ぎてしますと、一日30ドル分のバンクレシート(両替証明)が要るよ。貴方の国でどうして一日30ドルかかるのかね?私が友人の家に行ったら、食べるも寝るも全部ただですよ。それは、使う時には使いますけどねぇ。英国籍(UK)の人々は三カ月、半年ずぅーといれるのにさぁ」

秘書氏は、私の言い分を全部上司に語っていました。「この人は2500ドル以上っもっているんだって。前にもビザを取ってスリランカへ行っている人だよ。何とかしてあげなくっちゃ・・・・。」

待たされたけど好印象で、バッチリと三カ月の査証をいただきました。昨日と今日と二度足を運んだ甲斐あり、そして夕方バンコクのドンムアン空港へMr.Tsujiを迎えに行きました。無事再会を楽しんでいます。本当に良かった、良かった。

さて、これからはどのような旅が始まるものやら・・・・。旅は道連れ、仲々と楽しくなりそうです。

 

1984年11月25日

コロンボ空港

タイのバンコクを午後10時に出発した便は深夜にスリランカの首都コロンボ・カトナヤケ空港に到着です。今夜も色々な人々に出逢う日となりそうです。と共に、私の内部は、様々な言葉がミックスしてしまいました。さていろいろと紹介しましょう。まずはインドからボンベイ出身のレディ Miss Bella Mathuss. 彼女はこの便の始発香港から乗り込みました。私たちは経由地のバンコクから乗機でした。

入国管理事務所(イミグレーション)のカウンターで、彼女とチラリと会話をしました。香港で13カ月仕事をしていたという彼女は、その浅黒い顔つきを除いてインドを感じさせません。皮製のピッタリとくるジーンズを装った勇猛さを、そして女としての艶っぽさを兼ね合わせた彼女とは再び待合室で会話が始まりました。まずは、彼女が

「Are you going outside and get accommodation?」

「No, We are staying here until morning. Then catch the bus for the downtown. And you?」

という事から始まり、結局夜の1時半から明け方の6時半ごろまでペチャクチャ語り合った次第です。

元来、彼女は翌日のスリランカ航空(Air Lanka)でボンベイに向かうのだから24時間以内のトランジット(通過客)になるはずです。元来、こうした通過客に対してほとんどの航空会社は付加サービスとして食事や宿の手配をするのが原則なのですが・・・。UL(エアー・ランカ)はその点をルーズにしているようで、他人事ながらちょっと悔しいのです。

 

美女との会話

その間、様々な人間模様を眺めることもできました。二人のパキスタンからの紳士達は密輸関係の仕事で友人を迎えに来ていました。およそ10人ほどの南ンンドからの旅行団は、深夜に到着。翌日の12時半のエアー・ランカで故郷に帰るのに時間待ち。彼らは明け方コロンボ市内の見学にでかけたようです。空港内の警備員の一人は出身がスリランカ中部のカンディ出身で、私の常宿ムナシンハ家(Munashinge Family)から10軒隣に、彼の息子が住んでいたりして・・・。その他に自称 CID(Central Investigation Department)と申すもの。ともかく飽きることなく人生模様を観察するには絶好の場所です。深夜にも拘らず全然眠くならず、我ながら興奮のスリランカ第一夜でした。

ボンベイからの彼女はインドルピー(インドの通貨)を沢山持っているのですが、他の通貨(国際的に信用あるドルやポンドなど)は持ち合わせがなく、両替できずに困っていました。そっと僅かながら、私は前回訪問時の使い残りの中から30ルピーの寄進。空港外のCanteen(簡易食堂)でティーをご馳走して別れました。うっすらと微笑んだ姿は、忘れることができません。彼女は昨日は急なる旅立ちで十分な睡眠をとっていないとのこと。そして今日も眠れず。ボンベイの自宅へカラーテレビのセットを持ち帰るところなんですけど税関がちょっと問題と悩んでいました。

そんな中で独りぼっちの彼女とは何故か気が合い、次回は彼女の土地なるボンベイで会いましょうと住所を交換し固く握手してしまったのです。果たして彼女は無事家に帰ったものだろうか・・・・。我々二人が話している間、友人のMr.Tstujiはグーグー安眠をむさぼっていました。我々二人のヒンズー語と英語のチャンポン会話を盗み聞きしていた後ろの席のパキスタン人も加わりました。どういうわけだか、10人程のタミール人グループまでもが、じわりじわりと集団移住し、和やかなムードが漂ってきました。しかし、彼女のインド訛りの英語は早口です。もう少しゆっくり話してくれたらいいのに・・・・。こじんまりとした愛嬌のある良きMissでありました。

さて、朝食を済ませてから、彼女と別れて市内に向かうミニバスに乗り込みました。我が友人はサーフボードをもっていたので、最初から一人分余計に料金を支払う算段でした。それですんなりと交渉は成立。これは良いとして、コロンボに到着してから、サーファーのメッカなるヒッカドワ向かおうとして、ミニバスと交渉したところ、何と一人分プラスサーフボードの荷物代が125ルピー!シンハリ語でいろいろと応酬したものの、解決には至らず。何とこの料金は10人分の料金です。全く話にならず。車掌も強気に出ていました。

これには、もうカチンと来たけれど、なす方法はなく、それならGovernment Bus(政府の公営バス)でいくからとたんかを切ったものの、これだけの荷物をもってウロウロするのは大変です。結局、列車で移動することになりました。

バスの乗客の呼び込みを職としている若衆の一人が我が腕をつかんで「今列車があるからそれで行ったら良いさ」とつぶやいてくれました。でも確か彼が真っ先に我々のサーフボードをバスの中に運びこもうとしたはずです。もう、仕方がないのと癪にさわるのと・・・。もう少し冷静で時間があれば、反逆を試みたであろうに。そんなわけで彼はヒッカドワ、小生は、カンディへと再会を約束して別れました。

今あ、半袖シャツの上にウィンドブレーカーを着ております。時々雨が降りまして肌寒い日々です。11月30日よりコロンボ市内には夜間外出禁止令(PM10:00からAM5:00)が発令されました。

 

ガイド・葬式・ローソク・ブラブラ

ガイド

カンディの悪質なるガイドの一人と雨宿りの為休んでいた時の話。彼の話によると、先日ガンジャ(大麻)売買の現行犯で妻と一緒に逮捕され、一人2000ルピーの罰金を科せられたそうな。二人なので合計4000ルピー。その書類を見せてくれました。おまけに銀行の預金通帳を見せて、「これだけしかない(47ルピー)」てなことで、お茶をご馳走してほしいんだが、」と言いよってきました。

「お茶を飲むよりも、こうして話し相手が見つかったんだから、お互いを知り合うことが、お茶をおごることよりも、もっと偉大なGIFT(おもてなし)なのさ」とごまかしました。

翌日我がランカの友人とDevonなる中級レストランでTeaを飲もうと入ったら、例のガイドがちゃっかりと洋風スープなどをすすっているではないですか!にやりとお互いに相手を見合わせた次第。

葬式

私が居候しているMunasinge家の奥さんの母親が、先日亡くなりました。孫のAjithの話を総合すると、以下のようです。死後すぐに、彼女の目は医師の手によって取り去られました。その他に、彼女の遺言によれば、3日間は死体を家に置くようにと。勿論亡骸の内臓は全部取り出され、綿を詰め込まれ(専門の人が必要)ました。それから3日後にはあっという間(45分間)で焼かれ、先祖代々のお墓に灰が埋められた。

この3日間には、1200人が参列。15人の僧侶が出席という可也盛大なものでした。火曜日と金曜日は死体を燃やさない日と決められています。彼女は600ルピーから販売されている棺桶の中でも7000ルピーのお棺に。火葬場の管理は市役所に属し、450ルピーで引き受けてくれたとの事でした。

彼女は周囲からは、かなり人望も厚かったようです。生前、この日の為に25000ルピーの預金がしてあったそうな!

人々は175ルピー、300ルピー程度の値のする花輪がいくつも積み上げられたそうな。

その後7日目と三か月目には、自宅に僧侶が来訪し、その家で午後8時から翌朝6時まで夜通しで読経をするのだと言っていました。

Mrs.Munasingheはカンディーのペラデニヤの病院に入院しています。沢山の患者がいます。最新の設備も用意されているようです。変わっているのは、全館ラジオが入りっぱなしです。ボリュームは大きくはないけれど、BGMが流れていると思えばよいでしょう。音楽付きの病院とはちょっと羨ましいですなぁ

ローソク

Ajithの従妹にあたるAthura家はSmall Industry(家内工業)としえローソクを作っています。その工場を拝見したけれど、それはどうも日本の明治か大正時代の産物です。キャンドル製造マシーンの凄いこと。部屋の片隅に設置されたメイド・イン・スリランカ。「今度新しく機械を欲するとの事。日本製はどんなものか検討中」という話が進んでいました。原料のワックスは政府から供給を受けることが出来、現在注文が沢山きているので新しい機械が欲しいのだと!今の装置は機能がイマイチ上手に作動しないようです。ワックスは中国製です。

ブラブラ

職なしのブラブラ人間が、先日交通事故にあって片足を切り落として松葉杖。そんな彼に文無しのブラブラ人間が付き添って、結局二人で以前と同様にブラブラしているのです。この先とうなることでしょうか?

多数派対少数派

以前と打って変わって、様々な事件が頻繁に起きています。今回のテロ事件は拡大する一方で、収まりそうにもありません。まさしく武力と武力の衝突といったところです。事情を私なりに分析すると・・・・

近年急速に展開されてきたゲリラ戦術もインディラ・ガンジー亡き後のインドの政治体制が絡んでいるようです。

インドとスリランカに住むタミル系住民は同じ民族で昔から強い絆で結ばれています。現職の南インドタミール・ナド州政府MGR(州政府の首相は元映画俳優でM.G ラーマ・チャンドランを略してMGRと呼ばれている)は穏健派として知られ話し合いで、この民族問題を解決しようという穏健派です。しかし、これに反感を持った人々を抑え込むことができず、新年の1月14日(タミール人の大祭)までに、大攻撃をしかけようという戦法になったようです。インドの総選挙を控えて、票獲得のために、反MGR派は大衆の目をスリランカにむけ、勝利を得ようとしたことが丸見えです。

もう一方、これに対するのはスリランカのジャヤワルディネ政権です。諸外国(現在は可也米国よりとなっています)との外交を巧みに渡り歩いて、タミル・タイガー(通称テロリスト)を完全な悪者としてレッテルを貼り、世界に、社会に認めさせようと必死です。しかし、こうした抑え込み戦法はいつまで続くものでしょうか?世界の政治の様々な争点を凝縮して考えさせる問題ともいえるでしょう。

シンガポールは、小さいながらもマレーシアから分離独立を果たしました。パレスチナとイスラエルは今も若いをしていません。もし現在のスリランカ政府が全土を抑えてしまうなら、スリランカ北部はいつまでも火の粉がくすぶり続け、アジアのパレスチナになるのではないだろうか?米国は、北ベトナムのゲリラ戦法に完敗してしまいました。地中海にあるキプロスは国を二分したままで、政治の混乱が続いています。このスリランカを一つの国家としてまとめるにはマレーシアのような連邦制を持った複合他民族国家の例をとるべきではなかっただろうか!

しかし、時は既に遅しで機会を失ってしまいました。国全体が貧しければ、或るいは、豊であれば、こうもならなかったであろうに。今はその過渡期なのかもしれません。フィリピンのモロ回教徒解放戦線、カンボジアのクメール・ルージュそしてアイルランドのIRAなどと似たような経過をたどるのかもしれません。

背後に控えるインドの存在はその規模こそ異なるが、アフガニスタンの背後を操るソ連に似たものを感じるのは私だけだろうか?

さらに付け加えると1972年のバングラデッシュ独立戦争の例も引き出しておきたい。状況が当時とは異なっているので一概には言えないが、言語と宗教が異なる民族が共存する社会は極めて少ないといえよう。チベット難民60万人がインドに流れ込んだという史実を見落とすことはできません。事情は極めて複雑そして今後の成り行きは不透明なのです。

豊かさとは一体なんなのでしょうか?

両者(独立を求めてゲリラ活動を行うタミル系スリランカ人のグループと仏教系100%のシンハラ人グループ)とも、今まで過大なる犠牲者を生んで得たものは一体何でしょうか?

元来スリランカは、「私たちは貧しい国なのさ」とブラブラし、笑いながら過ごしてきた「インド洋の真珠の島」はふとしたことで急にお金持ちになりました。在る者は国外へ出稼ぎに、ある人々は今までの社会主義体制を180度転換した資本主義社会の恩恵を受けてビジネスの先鋭に、そしてある人々は観光関連産業へと傾き、人々の欲望はとどまることなく拡がり続けました。

あまりの急速な時代の流れに一般大衆も浮かれてしまい、近代化の波に飲み込まれてしまいました。気がついた時には、自分達の墓穴を掘っていたのでした。

どんなに工業化をしても、各種の新しいシステムが導入されても、人間の心の中に潜む人種間抗争は消すことが出来ず、その輪を広げていくばかりです。

国営テレビ局も盛んに「近代化」という政策の正当性のみを主張し、人々の心の奥に潜む本質的な面について考えようとしません。そのストーリーは新作の1985年の正月映画「GRIMLIS」にあるように、“You are not ready”というセリフに当てはまるようです。豊かさになり過ぎたスリランカ自身が、いろいろな意味で不幸を招いたのではないかというのが結論です。

それを考えると、タイは安定しておりますねぇ。改めてタイ国の貧しいながらの穏やかさというのをつくづく感じます。こういった問題を暇に任せて現場で分析してみるのは、まるでクイズを解いているようで、興味津々となります。

では皆さんお元気で。

1984年11月30日 Kandyにて

太陽の国(雑感)

太陽の国スリランカ、のんびりずむの島国。長く滞在すると一つの大発見。それはダラシナイズム蔓延の人々。どうも、シンハラ族の目玉はギョロリと大きく丸っこい。白い歯をむき出しにして、ニタニタウハウハ笑って騒ぎ立てる。そんな陽気さを、天性的に持ち合わせている。

他方、インドから移住したとわれるタミル人は険悪そうな細い目をしている。見かけはちょっとニヒルだか、誰かれかまわずウィンクして見せる。話をすると以外と愛想も良い。一緒にお茶を飲んで、サヨウナラをする。

物を乞うのは乞食の仕事だか、スリランカでは誰もかれも試みているようだ。何とまあ厚かましい。何かをゲットできれば儲けもの!

しかし、彼らは無断で人のものを盗ることはない。また取ることもしない。我の私物を一般公開した場合は、ハイコレ、ハイコレというふうに丁寧に後片付けを手伝って、さも「私は品物をちゃんと返しましたよ」という手つき、動作が伴ってきます。なるほど当然のことなのだが・・・。

スリランカ滞在で気づいた項目を列挙してみると

  1. 日差しの強い海辺では、若者がゴロリ、ゴロリ。ツーリストに負けじと、とスケコマシ組が行ったり、来たりし。観光地で外人もダラシナクなってくるもの。しかし、ここは、南国スリランカ。釣れそうで、釣れない西洋女をいうムードで今日もヒッカドワではセイロン人が外人客を口説いているであろう。マイッタ、マイッタ。
  2. 隅々まで行き届いた英国イズムをしっかりと拝見する。ある中級レストランにでは、セイロン人の夫婦がしきりと英語をしゃべる。どうもこれは一つのステータス(地位、身分)シンボルになるらしい。上、中流の家庭では、英語しか用いないらしい。となれば、私のにわかシンハリ語は彼らより勝る場合があるのです。勿論大半の下流?大衆はシンハラ語かタミル語が日常会話です。
  3. Hill Country(丘陵地帯)にはトコトコ列車が走ります。何故か日立製の車両がほとんどで、なかなか人気があります。だけど、手入れが悪いのか、ギシギシ軋み、ゴロン、ゴロンとわめきながら列車は進みます。勿論バスだって必ずどこかのガラスが破れています。路上ではエンジンはかろうじて動くのであろうが、立ち往生している車両をよく見かけます。
  4. ホテルやレストランの入り口には私営のガードマン氏が見張っています。その数は隣国インドよりも多く感じます。それほど、食い逃げやドロボーが多いものでしょうか?まあ失対事業の一つなのかもしれません。
  5. スリランカも三度目となると、好きな国になるのですかねぇ。好きな国のタイプと聞かれた場合、行った事がないから好きー。行ってみたいという事でありましょう。小生はもちろん、前者に該当します。
  6. タミル映画は、花と王子とお姫様のメルヘンの世界でした。Action少々、それにミュージカルを加えて完成に近づきます。インド映画見て歩きで気づくのは入水自殺が多いのと、階段から派手に転げ落ちるシーンを良く見かけます。やはりエンタメの世界は受けを狙っているのでしょうか?
  7. 農産物は自給自足で安いけど、工業製品はべらぼーに高い国です。庶民の皆さんは、それを無理して買っていらっしゃるのかなぁ?

出パキスタン記

この話はパキスタンのカラチからコロンボへ向かった時の物語です。

どうもカラチ空港で見るスリランカ人は穏やかさに欠けています。眼つきがインド人以上に険悪さを漂わせています。パキスタン人が穏やかに見えてなりません。特に北方のアフガン系の人はすごくおとなしく見えます。

12月21日夕方カラチを出発。パキスタンのミニバスもこれで乗り納めであります。夕食を安くて良心的なカンテーン(簡易食堂)で済ませ、残ったお金で煙草を七箱求めました。それでも残ったお金で切手と航空書簡を購入しました。暇そうな空港内の郵便局の窓口で延々と60分、お茶を頂いたり、おしゃべりをしたり楽しむことが出来ました。我としてもあきれましたなぁ。

局内のカウンターの中に入れてもらって、お茶とお菓子のもてなしを受けるのは初めてです。空港職員やスチュワーデス、その他色々な人々がやってくるのに、平気で座って話をしていたのです。

待合室には怪しげなスリランカ人の団体が20人程いました。彼らとも少しばかり話をしまして、まあ退屈することなく時間が過ぎました。免税店に出かけてもすごく友好的な感じで愛想が良いのです。チェック・インは第一番となりました。チェック・インを終えてトイレに出かけたら、トイレの番人が手拭きをくれました。当方ぼそぼそと、

「もうお金はないだよ。俺ハンカチもっているから」と現地語で言うと、

「まあ、いいから使えよ」

というので、好意に甘えて使わせて戴きました。最後にキチンとトイレの番人と固く握手を交わして用を終えました。まあこうなると一種の儀式めいたものになるのです。そんな楽しい風変りなパキスタンの旅も終えようとしています。全く別な社会を訪れたともいえるようで、大陸的でおおらかで、男らしい世界がパキスタンかもしれません。バスの車内で切符を売る兄ちゃん達の節太の手が記憶に残ります。そうすると、スリランカはどうもアラビア社会と比較するに女々しくも思うのです。

私の次にチェック・インした商社マン風日本ジは、ツーンとしていらっしゃいました。いつも日本の小説を読んでいらっしゃる。そんな人を見ると当方は何となくヒケ目を感じ、ああ別なるタイプの人々だなぁーと思うのです。これも記憶に残っています。

この国では男女別学が当然で、地元の人々は、これについて全く不審に思わないようです。だけど、雑誌の記事には、「男女共学こそ必要」という論調がありました。英語を話す人と話さない人の間には、こうも考え方の相違があるものかと驚いています。

カラチの夜景も綺麗でした。いろんな旅行者が混じる国際空港です。といえども、ローカルな部分も残っています。モルジブの人、スリランカ人、パキスタン人そしてヨーロッパ人に交じって日本人。久しぶりに見るスリランカ美人は爽やかさを漂わせとてもキレイに見えました。それもそうです。ギリシャは別として、トルコ、エジプト、パキスタン、バングラデッシュと男ばかりの社会にこうも長くいると、とても光って見えるのです。感激そのものです。

旅はゆっくり、のんびりと。それでも、ここ最近ちょっと忙しいのです。同じ深夜のフライトでも、やはりスリランカの飛行機はエジプト・エアーに比べると格段に良いと思います。ジュース・コーヒー・ブランデーのお代わりは気軽に頼めるし、食事も「上」と「並」の差がありました。エアー・ランカに感謝感謝。

そしてスリランカへ

KHI (カラチ)____BOM(ボンベイ)______CMB(コロンボ)

100分          140分

出発 13:00―――――――――――――――――――――到着18:30

この間時差30分 ボンベイにて60分機内待ち

無事飛行機は、コロンボのカタナヤケ空港に到着しまいした。何の苦労もなく、入国、税関の手続きを終えました。数多い乗客の中で第一番にゲートから出たようです。さて、軽い荷物を持って、バスを待ちました。

どこからともなく、「Can I help you?」とミニバスの車掌、ぎょろ目でルンギ姿のフテブテしい兄ちゃんが声をかけてきました。その勢いで私も「Yes, I am going to Colombo. How much?」と言うと、涼し気にあっさりと「25ルピー」と申します。確か空港のインフォメーションでは4.5ルピーと表示があったのに・・・・。

ちょっとばかり粘って交渉、現地語で問うと、

「仕方ないな。実はその―・・・とても安く、4.5ルピーで行けるんだよ」と本音を白状です。

「あの人は25ルピーと言っていたけど、嘘だよなぁ。あの人の宗教は何だろう、仏教徒かい?仏様はどう言ってるか知っているかい?嘘ついてはいかんちゅうでるのヨ!わかるかなぁ?」と現地語でまくし立てました。

隣の車掌(現地の乗り合いバスは運転手、車掌そして車掌券ヘルパー(安全及び客の呼び込み役の三人体制)も、じぃっと聞いていました。後に、その彼が社内で料金を集めに来た時は、何となくニンマリとしていました。集金を終えて、私にわざわざ「今、何時」と尋ねてきたので、即シンハラ語で回答。彼は周りの人々に聞こえるように、

「あの人は俺っちの言葉知っているんだよ。全部分かっているんだなぁー」

と、にこにここぼしていました。得意そうに触れ回っているような感じを受け、ちょっとむずかゆくもあったのでした。

湿潤・軟弱

パキスタンから直接スリランカに入ると、文化の異質さがをはっきり感じることが出来ます。パキスタンの男系社会の親切さに慣れると、結構快適なる国で、何となく純粋な気分になります。酒は飲めない、女性は街をウロウロしない等と制約が多く日常生活は回教の規則に律されていますが、これがスリランカにくると、

「ああ、乱れている。だらしない」という印象になります。パキスタン的観点で見ると

乗物の臨席におばちゃん・姉ちゃんがでっかいお尻で割り込んでくる。

新聞にお酒の宣伝が満載。

女性が一人で街に出かける。

等と彼らにとっては、恐怖とも思える信じ難いことが沢山あるのです。

こうなると、善し悪しの判断はできません。どちらが進んでいるのか、遅れているのかと感がるのも次元がことなり、禁物のように思います。西洋的尺度で見ると、スリランカははるかに近代的と言えますが、それを善と決めることはできますまい。パキスタンが回教共和国と名称を変えイスラム法にのっとった政策に変更したことは、時代の逆行だと言えるのでしょうか?彼らには彼らの道があるようです。

ここスリランカでは、自動車会社のプラント工場(組み立て)が稼働を始めました。スリランカの財閥ウパリとイタリアのフィアットでできたウパリ・フィアット社という合弁会社です。何となく似たような国同志の合併で大丈夫なのかなぁ。

湿気の多い国だなぁと感じています。パキスタンのカラチで風邪気味が2週間続いていたのですが、ここに来たら2日で治りました。インドの雨季ほどの不快さはありません。しかし、パキスタンは日中の寒暖差は大きく、ここスリランカでは、今文章を書いているペラペラの航空便箋は適当な湿気を吸い込み書きやすいく、紙の中央を手にするとしなってくるのです。しかしパキスタンではカラカラ天気で、こんな薄い用紙すらもパリパリしちゃいます。お蔭様で、私の肌に潤いが出てみずみずしくなってきました。

古都カンディ

カンディには沢山の私塾があります。ムナシンハ家の次男は今ホテル・スクール(ホテル業務を勉強する専門学校)に通学中です。一週間に一度朝8時から午後3時半の間に三科目(House Keeping, Food and Beverage, Reception=清掃、レストラン、受付)を学ぶそうです。これは半年(延べ25日)のコースで設定され、授業料は1200ルピーです。この講座は金曜日組、土曜日組そして日曜日組の三シフト制で毎回200人の受講生を抱えるという大人気のコースです。1月14日に国家試験があるそうです。周辺諸国(パキスタンやインド)からも、受講の希望があるそうですが、現在断っているそうです。

当家の娘は、製図を学んでいるようです。他に彼女は料理学校も終了し、お菓子づくりの学校にも通っているのです。最も多いのが日本同様に見かける受験用の学習塾です。

カンディ湖畔にアメリカ人経営の、少々洒落た感じのカフェが閉店しました。他に貸自転車、クリーニング業、土産物なども扱っていたのですが・・・。

シンハリ人とタミル人の対立

今年夏の暴動の話を聞くと、今回の事件はまだ小規模なもので1971年の時は市民戦争にまで発展し、2-3カ月の長期にわたって外出禁止令が敷かれたそうです。今回は数週間外出禁止となっただけで、比較的穏やかだったといいます。しかし、シンハラ系の人々は現在の大統領が徹底抗戦・ゲリラ一掃をしなかったのに対して不満を抱えているそうです。

多くの街が焼き討ちにあって被害を受けました。タミル系の住民二割近くがインドへ引き上げたとも言われています。今でもまだくすぶり続けています。その影響でヒッカドワ等の観光地は客の入りが極めて少ないそうで、幾つも店を閉めています。まあこれで折角上昇気味の国民生活や工業、商業等は再び振り出しに戻ることになるようです。

1982年のスリランカの外貨獲得の順位は次の通りです。

  • 紅茶輸出 3億ルピー
  • 海外よりの送金 5億ルピー
  • 既製服輸出 5億ルピー
  • 石油関連製品輸出 3億ルピー
  • 観光収入 1億ルピー
  • ゴム 3億ルピー
  • ココナツ 5億ルピー
  • 宝石 7億ルピー

一ドルは25ルピー 1ルピーは10円(当時)の計算です。

観光客の推移

1982年(1-12月)407,000人

1983年(1-6月) 227,592人

1983年(1-12月)337,500人(推定)

1984年        410,000人を期待

1983年12月は30,000人で1982年12月は40,500人となっています。しかし実際はこれよりはるかに少ないように感じます。というのは、滞在日数の多少にも左右され、長期滞在が増えれば観光客の数も目に入りやすくなります。地元の多くは昨年の半分にしか満たないと言っています。延べ滞在日数を掛け算すると、実際に街角で目にする外人の数値はうんと下がるでしょう。

ぺラヘラ(Perahera)祭りの時は外人客がわずか2000人程だったと言われています。さて、今回のぺラヘラ祭は経済不安、暴動などスリランカ前代未聞の状況のなか、銃を構えた兵士が固く警護する中で開催されたそうです。

ムールティ君の話

12月25日はクリスマスの日です。久しぶりにカンディのマーケットをのぞきました。以前から店員連中となんだかんだと世間話をして時が過ぎていきます。マーケットの中でも、9か所暴動の被害を受けた爪痕を残しています。親友のムールティ君は、このマーケットの一角でおじさんのお店を切り回しています。彼の所に立ち寄って、夕方自宅を訪問することになりました。彼の住まいは私の常宿となっているムナシンハ家の3軒隣ですからすぐ訪問することが出来ます。

その時の話を記載しましょう。私の記憶が薄れない間に、そして少しでもスリランカの実情を知ってもらえれば幸いかと思います。

タミル語、シンハラ語そして英語を駆使しての会話でした。彼も真剣、私も真剣になったのです。一つの文章としてまとめるには、難しいので次の章で少しづつ記載していきます。

尚地名や人名などはカタカナ表記となり実際の発音とは異なる場合もありますが、予めご了承ください。

さて、ムールティ君はまだ25歳の好青年です。典型的なヒンズー教徒で家族は人柄のやさしさが溢れるお母さんと18歳の妹がいます。妹は目がクリクリとした美人で、小学校の頃父親が亡くなり、それ以前に弟も病気で亡くなったとの事です。商人育ちで小柄な体格で陽気な性格を持って客の対応に当たる第一級の販売員としてカンディのマーケットで活躍しています。

そんな人の良い彼も「1月にはインドに行って、向こうの国で住むように準備するのだ。もうスリランカは俺たちにはダメなんだよなぁ。でもここは気候も良いし水も良い、とても住みやすい国なのに・・・」とぼそぼそ語ってくれました。「家も家具も全部売り払って、始めからやり直しなんだわさ。向こうに行っても、仕事も商売も難しいだろうなぁ」と話してくれたのです。彼から聞いた話の要点を、幾つか記しておきます。

衝突は政治的対立(ムールティ君より)

インド政府は、インド押しかけたタミル人難民に、一人当たり3000インドルピーのローンを与えたそうである。

インドより色々な救援物資が届いたけれど、スリランカ政府からの品物は・・・。すなわちスリランカ各地の難民キャンプに送られる予定のユニセフ・赤十字の物資はスリランカ政府の手を経ているので、僅か20%相当しか出回りません。残りは政府高官の手に入ったのであろう。

大工場や商店などタミル系のものは破壊されたけど、政府はこれらの保険金の支払いに頭を悩ます結果となりました。生命保険も同様で、保険会社及び政府は大赤字。こんな状況だと、発展はさらに10年遅れることでしょう。

大きな暴動は、1956年のシンハリ語公用語法制定の時に、北方の街ジャフナ(Jafna)で、タミル人(ヒンズー教徒)対シンハラ人(仏教徒)の大きな衝突があったそうです。その後はずっと小競り合いが続いていたものの、1971年には、シンハラ人対シンハラ人の対立。その後1977、1979、1981年と連続して騒動が生じていた中で、今回が最大の闘争になっているそうです。

例えばスリランカ中央部に位置するバドゥラの街は3-4万人の規模ですが、8割がタミル人。その街は今、タミル人がいなくなってしまいました。そんな中で或る店主は従業員3人を殺したうえで自分も自殺を図ったそうです。何千人と押し寄せる群衆と軍及び警察の武器に対抗できないと悟ったそうです。

ココナツが0.75ルピーから5ルピーに値上がりしました。天候不順もあろうけど、作物を管理する人々の多くはタミル人で、その人達がいなくなったことも大きな原因なのです。

シンハラ系の財閥で大企業でもあるウパリ・ダーサは全く被害がなかったけれども、シンガポール、インド・英国に工場をもつ大手繊維産業の(シンテックス=タミル系)は完全にアウトになり、社長は英国に引き上げたそうで、10年後でないと再開しないと宣言したそうです。

対立の影響さまざま(ムールティ君より)

それで、「シンハリ人が代わりに商売をやって儲けるだろう。シンハラ人が得をするのではないか?」と問うと「いいや、あの人達はあんまり頭がよくないのさ。お金があったらすぐ酒飲んで、博打やる。商売の方法あまりよく知らないからなぁ。輸出入なんてのは、我々のほうがはるかに上手にやってのけるさ。教育も高いし、我々はサインすること知っているけど、ランカ(シンハリ人)人は指紋を押すことを知っているだけだもん」

この話が出た時に、ふっと日本の実情とも似ているなぁと思ったものです。だって我が国だって武器輸出をしないけれども、経済戦争の真只中。スケープゴートになっているのだから。実際は叩かれた。出る杭は打たれるに似た感じがしないでもありません。「こんな大きな暴動は1977年まで殆どなかったけど、貿易自由化等の政策転換で、それまで両者ともに貧しかったのが近年グングン水を開けて差が開いた。これが不孝の原因なのさ」

ここで少々変わっているのは、1978年の回教徒と仏教徒の対立が起きた時、中近東諸国のアラブ中枢のサダト氏は「スリランカの回教徒を我が国に受け入れて、スリランカへは石油の供給を行わない」と発言したそうです。今の大統領はタミル人が有能であることを充分認識してくれたけど、首相はダメなんだ。あの人は洗濯屋あがりの人で、教育はあまり受けていないんだもん。回教徒は今回は混乱しているよ。あっちの家、こっちの家で話をする内容が違うんだもん。カンディではタミル人を支持し、難民キャンプへの差し入れもやってくれるんだけど、コロンボではシンハリ人を支持しているんだもん」

当時のムールティ氏はカンディの難民キャンプに約一カ月半。「キャンプと言っても、学校の教室に200人だよ。水なし、トイレなしで飯は少々。それで学校も二カ月の間休校していたよ。推定では2000人から3000人が死んだろう。よく聞き取れなかったけれども、仏教界もタミル人追い出しに参加したようです。

カンディは全島で被害が最も少ない地区だったんですよ。ヌワラエリア(Nuwara Eliya)、ナワラピティヤ (Nawalapitiya)、」バドッラ(Badulla)等が大変だったんだよ。スムドラ(Sumdra)ではヒンズー寺院が壊されて、インドからの贈り物(数ラーク・ルピー:ラークは10万)もダメになったよ」

女性が額にポド(赤い丸印)をつけていると、何されるかわからない。多分犯されるのさ。今は我々には自由がないのさ」と語ってくれました。

彼の家にはガンパハ(Ganpaha)から逃れてきた親戚の叔母さんも居ました。ムールティ君の話によると「現在マドラスでタミル人が軍事訓練を受けているのさ」

電話はタミル人の家の回線のみ切られたというか、繋がらなかったそうです。これは電話局の仕事さ。病院へ行っても医師は全部シンハラ人で、我々の面倒はみないさ。どんなに大きなケガをしていても、追い出されますよ。ただシンハラ人の患者なら問題ないんだけど。タミル人の医者は大体お金持ちだからさぁ、すぐに外国に逃げちゃった。難民キャンプでも見かける医者もいるけどねぇ。結局市内にはタミル人の医者がなくなってさぁ。消防も動けず、働いたとしても、類焼を食い止める事しか考えないよ!

 

小さな事件ではない(ムールティ君より)

まだ色々と話しを聞きたかったけど、あまり長く此の家にいて話をすると、寄留先のムナシンハ家が心配するので、切り上げることにしました。帰り際に優しい目つきで、「帰るまでにもう一度家によってください。夕食をご馳走しますから」ということで別れました。一体彼らに何の罪があるのでしょうか?あったのでしょうか?平凡に平和に人生を送る機械をも失わんとしている彼ら、また新たにゼロからのスタートとなる家族。単一民族国家なる日本との違いは、あまりにも大きいものがあります。この事を少しでも知ってもらえればと思い記録しておきましょう。

昭和58年12月25日。皆様へのクリスマスプレゼントでもあります。Merry X’mas and A Happy New Year.

以下は私の主観が中心になります。親愛なるムールティ君の好意で、こうした事実を捉えることが出来るのは嬉しいことです。現在住んでいるムナシンハ家では、こうした話は殆ど出てきません。その意味で、今一度この問題に挑戦してみたいと思います。残りの日数で、コロンボの友人、ヒッカドワのMr,Sisil等から色々な話を聞いてみる予定です。

被害者側、加害者側と立場によって捉えかたは大きくことなってきますが、事実は事実として眺めることが大切だとおもうのです。英字新聞やラジオ等の報道はコントロールされているようで、事実とは異なる場合がしばしばあります。極端な例でいうと、亡くなった人々の数は公称400人と数千人の違いが生じています。

誰も知ろうとしないこの世界の中での小さな事件かもしれません。小さいというのは、イラン・イラク戦争、PLO(パレスチナ)の問題、北アイルランドの暴動などに比べると、ここスリランカの問題は小さな事件としか記されていないようです。しかし、その本質はいくつかの共通点を見出すことが出来るかと思います。20年、50年と経過しても果てしなく続くものなのか?時代が進むにつれてテロリストに関した事件はその手法も巧妙で精巧になり、パリやローマですら、先進国だろうが何だろうが発生する時代です。一刻も早く解決しますように!

経済援助や企業進出について

開発途上国への援助や企業の進出ということに関して、最近思う事が一つあります。

一般的に、日本企業や商社の海外進出の評判を観察すると、金儲け主義だとか、現地に何も還元しない、或は文化的交流に欠けるという声を聴きますが、この事に関係する話を少しばかり致しましょう。

私自身詳しくわかりませんが、思いつく点を幾つか。

一般的に欧州系企業の評判が良いのですが、それを解釈するにはいくつかの点を修正して判断する必要がありと思うのです。すなわち、現在の瑠璃ランカ或いは、この国同様に元大英帝国だった一部の国では、全くと言って良いほど英国式の文化が浸透しています。それらの影響は政治形態、教育制度、土地制度、食文化等幅広く及んでいます。現地の人々の考えからも、英国方式しかないと考えているようで、海外進出に対しては絶対的優位にあります。

しかし、スリランカにとって、そこに到達するには、元来の自国のオリジナルを大きく後退せざるを得ません。教育界では英語という武器に隷属したからこそ、そのシステムが確立したのでしょう。また当初においては、現地との経済的摩擦は現在以上に大きく、その被害も大きかった事と想像します。現在ならばマスコミを通じて瞬時に世界の出来事が伝わるのですが・・・。

今は当時の事を知る由もありません。格別日本を支持しようという積りはありません。勿論日本がも各種の注意を払う箇所が出てきましょう。現地の日本企業に不満が生じたと仮定します。その不満を消す一つの方法は、極論すると、その国のオリジナル性を全滅させて、日本のシステムを植え付ける事でしょう。しかし、そんな事は不可能です。

でも英国はスラランカに対して、こうした方針を5割程度実施したと言えるでしょう。それが、経済であり、歴史なのかもしれません。何もキングス・イングリッシュが世界で最高のものとは決め難いのでして、要するに通じる英語で十分なのではないでしょうか?

スリランカを例にしてみると、元来この国の考え方は仏教の要素が浸透していますが、社会のシステムには英国風が蔓延しています。ここに矛盾も数多く見受けることになります。パキスタンが回教化を進める中でも、西欧的社会システム(殊に経済の分野)が広範に行き亘っていかざるを得ません。一つの国を理解する事は大変な事で、日本企業の金儲け主義うんぬんの表向きの批判のみではなく、他国との比較や現地の社会的な歴史的な背景を踏まえた上での考察をとも立ってこそ、今後の相互理解への道が開けるのではないかと考えます。如何でしょうか?

働きものの日本人、せっかちな日本人、これも頷けます。旅行者を観察していてもよく分かることです。日本人のみが農協団体的旅行者ではないはずです。アメリカからも、ドイツからも似たようなグループが押し寄せているのです。旅行者の場合と現地の滞在者とでは、見方も異なります。この点を踏まえて、今後もゆっくりと考察を深めて今後の動向を探っていきたいと思います。

食事にも変化

12月28日、カンディを出発してコロンボに入りました。途中、商店・人家などの焼け落ちた跡が可成り見受けられます。日本で報道されているよりも、もっと酷いものだったようです。一寸話は変わりますが、ヒッカドワなる観光地では現在500人の失業者が出ているそうです。土産物店、バテック工場、レストラン等の大半は閉めたままです。大手のホテルも今の所全く再開の見通しが立っていないとの報告がシンハラ語の新聞に掲載されていました。英字新聞には景気の良さそうな事柄が多く載っているのとは対象的でした。

コロンボ市内をよく観察すると、何となく以前とは異なります。例えばいつも気軽に出かけていたタミル人経営の飯屋が姿を消し、代わりにシンハラ系の食堂になっていたのです。これは以前より食事代が割高になってしまいます。料金もそうなんですが、それにも増して、ヒンズー的清潔さが失われてしまったという事も大問題なのです。ヒンズー的清潔というのは、南インドでよく見かける純採食料理店の伝統は、食べ物そのものに臭みがなく、気分的にも潔癖さを感じます。

何しろ、これらの多くの店はバナナの葉をお皿の代用にして営業していますから。こんな良き伝統を持つお店が無残にも焼き討ちに遭い、止む無く営業中止、若しくは引っ越しの破目に陥ったのは悔しいことです。それでシンハリ人も今になってようやく安い食物がないことに気づくのです。

一般的にシンハリ系の食堂では、ライス(米飯)・ブレッド(パン)・ホッパークレイプ)が中心となり、どちらかというとタミル系の食堂に比べて割高感があります。庶民は止む無くハーフプレート・ミールズ(半人分)のシステムで6-7ルピーを支払って空腹を耐えなければならなくなったのです。

映画館も焼き討ちに遭い、無残な姿が残されたままです。庶民はこれにも不自由を感じざるを得ないわけです。

来年は俺たちの番さ

スリランカで今年の流行語は「フラット」と「セーフ」に尽きたようでして、英語そのものが定着したようです。前者は商店(街)の建物が壊され平坦になった事、後者は無事生き残ったことを意味するそうです。私も皆に交じってこの言葉を盛んに使いました。

コロンボの常宿としているユースホステルのあるヘイグロードの住民(半スラム的生活をしている人が多い)の勇士の何人かがポリスに指名されたそうでして・・・。でも話を聞くと「無給で棒切れ一本貰った臨時のお巡りさんだった」という事。この地区に住むガンジャ中毒のラーマン君とも懐かしく話をしました。話をしてみると、気も良く、話の筋も通っています。ただガンジャの好きな事が彼の将来に難点を加えることでしょう。でもこのことは、日本人の飲酒ということに置き換えることとも似ていますから、非難はできませぬ。

以前にも増して、ガンジャの量が増えたようでもありまして、夜になるといつも眼が赤く充血しています。彼の語ることによると、

「来年は俺たちの番さ、死んじゃうんだよ。もうホシバとは会えないんだよなぁ」レストランで大声で、いや大声ではないけども、彼の話声は意外と透ったのです。

それから友人の一人のラージャ君は、今は失業中なれど、久しぶりの対面で、本当に喜んでいました。ちょうど一週間前に私の国内十祖宛に便りを出したそうです。無事届いていますように。そのほかの友人たちも皆私の名前を憶えていたようで、向こうから気楽に声をかけてくれました。

以前このユースホステルを溜まり場としていた軟派の若い連中、当時は高校生位だったけど、今は卒業若しくは中退の肩書で職なし人間でブラブラ中。その中の一人が

「シンハリ人はバカなんだよなぁ、もうおしまいさ。折角うまくいっていたのに、破ってしまったのさ。全部やり直ししなくちゃいけない。本当にシンハリ人は馬鹿さ」と軽く言ってのけたのが印象的でした。

直接に影響したのかどうかは疑問ですが、12月1日おり郵便局の内国封書は50銭とから70セントへ、外国向けのエアログラムは3.5ルピーより5ルピー。鉄道料金は11月中旬より約45%の値上げ。諸物価の値上げも目白押しなれど、今回のインフレでは、高級品は安くなりつつあるようです。

車、テレビ、電気製品などの価格は日本と大差がなくなりつつあるのです。庶民にしてみれば、「安い自動車・テレビの値下げはもう結構。それよりも安い飯をたらふく食べたい」のが本音ではないでしょうか?経済の自由化政策(閉鎖掲載からオープン経済へ)が急すぎて、一寸息切れという気配。何かと弊害が伴うものなんですが、肝心用心というカンフル注射が必要だったのかもしれません。

しかしこの国の様子を見ると、何となく将来はエジプトにも似たような金持ちと貧乏人の二極高大蔵に陥りやすい性質が見受けられます。まだ国土面積が小さいからよいでしょう。修正は比較的容易かもしれません。但し、テロリストの問題はまだまだ尾を引くことでありましょう。以下には、私の親友たるタミル系のスリランカ人セルバラージャ君の語ってくれた話です。

  1. タミル人の問題といっても、タミル人同志でもちょっと入り組んでいるのさ。過激派のタミル・タイガーをはじめとし、ジャフナ・タミル、コロンボ・タミル、カンディ・タミル、エステート・タミルそしてインディアン・タミルとセイロン・タミルと複雑に分かれているのさ。その中でもちょっとでもタイガーに関係したら、俺たちもおわりなのさ。
  2. 俺たちタミルの女性の間では、結婚の処女性がとても大切なのに、多くの人が強姦されてしまう。その後、彼女達は自殺するんだよ。シンハリ人はどうもやることが汚いよ。だって、若い女の子は平気でディスコ・ゴーゴーに出入りしているよ。コロンボの浜辺で
  3. ミル人の売春婦もいるよ。これはビジネスだから、止むを得ないのさ。だから、何もない人々はそんな乱れたことをしちゃいけないのだよ。
  4. 国内のニュースは本当の事を知らせなかったさ。事実は全てインド側に入っているんだわさ。それからフィリピンのニュースも正確だったんだよ。(小生思うに、ミンダナオ島のモロ回教徒解放戦線を通じてと思われる)
  5. 今回の内紛の発端は、アーミー(陸軍兵士)がタミル人の女性教師した報復として、13人の兵士の乗ったジープをタミル・タイガーが襲ったことに始まって、その後はインドの新聞に報じられた通りなんだよ。
  6. 今は600人のゲリラが訓練のため、リビヤ・レバノン・北朝鮮そしてドイツに派遣されているそうな。
  7. 車に乗っていても危ない、入り口をふさがれて油をかけて点火。もう逃げることはできずオダブツさ。
  8. タイガーのリーダーがポリスに捉えられて目玉を抉り抜かれたのさ。この眼は見えない人の為にアイバンクへとたのんだけども、両方とも踏み潰されたとさ。
  9. 戦いがすううだけど、ゴール・ロードや大通りは応急措置、すなわちボロ隠しをしたのさ。政府はもみ消しに必死なんだ。
  10. 旅行者(白人)が写真を盗ったら、その場で没収され燃やされて、痛い目にあったんだよ。
  11. お店や工場は潰れたのさ。経営者はタミル人だけど、労働者はシンハリ人。彼らは今は失業中だよ。馬鹿だねぇ。
  12. 前のシリマバンダラナイケ(前大統領)の政策は、まずマニオカ(主食となる菓子やパンの材料)とポテト。それで余裕がでたら、テレビという政策も良かった。ジャヤワルディネ政権の政策も良いのだが、部下が悪い。特に首相は能無し人間さ。
  13. 最後に老舎とも良い人も悪い人もいるんだけど。・・・。話は一転して、サボイ・シネマで上映されている「チャタレー婦人の恋人」(カット版多しの成人向け映画)の話に夢中になりました。

 

レストラン不繁盛記

さて、ヒッカドワ(海水浴場・観光地)にやって来ましたが、意外と静かなのです。しかし、パキスタンのように回教に縛られた規律正しい国とは大違い。ああ乱れているなぁ!と深く感じるのであります。それは、この土地柄は強く文化汚染を受けているからなのです。西洋から中流、上流階層がドバーと押し寄せると、元からあった仏教的しとやかさは姿を消しまして、西洋、特に北欧のフリーセッnクス的思考が激しくぶつかるのでして、寛容な仏教徒はその波に巻き込まれ易い性質があるのではないでしょうか?

レストラン不繁盛記。昨年とは大違い。どうもスリランカ方式は解せません。蛍光灯に黄色や緑色のセロハンをかぶせてしまうと、折角の食事が不味くなるのが分からないのであろうか?外人客がは入店するや否や、わざとらしく、音楽を西洋風に切り替えたり、音量を最大に上げてみたり・・・。いろいろと悩ましいことが多いのです。

麺類(ヌードル)を茹でるにも、魚をボイルするにも、全て水から為そうとするこの不可解さ。料理のファンダメンタルズの欠陥は、もう救いようがありません。表向きのみ西洋風なれど、中味はズタズタになっています。

そういえば、浜辺に紳士風の身なりをしたバナナ売りがいて、あまりにもしつこいので、

「Do you know English?」

「Yes I know good.」

と答えたけれど、さてどこまで本当やら。

どうも、この人々は、その時だけ金が入ればそれで良いという思想の持主でしょう。もう、私はついていけないのでもあります。レストランの話に戻りますが、彼らの原価計算の方法はあまりにも単純なのに驚きます。野菜二切れ載せたから1ルピー追加(キュウリが一本が1ルピーで市場で販売されていました。)という数字を出すような感覚にはついていけません。

話は転じますが、スッドウ(Mr,Suddu)は、このヒッカドワで民芸品の店を営んでいます。以前は尾坂を飲んで、大麻を吸って派手に遊び歩いていたのですが、今は妻帯者となって、ガラリと心変わりというか、真面目なる仏教的精神に満ち溢れた生活をしているのが不思議です。しかし、彼の父は、もうここ、ヒッカドワに姿を見せることはないそうです。この土地の醜さを十分知っているからでしょう。

彼の奥さんも、同じ仕事場(お店)に勤務し夕方5時に帰宅します。ちなみに、この奥さんは数年前に初めての旦那さんを交通事故でなくしての再婚との事です。

Sudduの弟はスウェーデンに行っているとの事で、尾登ウトから衣料品が80点届いたそうです。しかし、Sudduは自分のものとして2点だけ残して、他は全部村人に配ったとの事です。そして、最近家を新築したことなどを話してくれました。

一日の売り上げの中から6ルピーを夕食代として残して他は家に持ち帰る、タバコは一日4本のみ、そうした色々な事を逐一語ってくれる誠実な青年なのであります。

スリランカの物価高は異常そのもののようです。頻繁に発生する暴動、IMF(International Monetary Fund=国際通貨基金)からの借金返せのクレームといい、急激な経済自由化の反動が大きく生じてきたようです。経済がめちゃめちゃに暴走しているともいえるでしょう。例えば、エビが国外で高値で売れることが分かれば、輸出しすぎて国内での価格は高騰しました。紅茶の値上がりも同様の気配です。国際相場よりも先に、国内価格が倍に近くなったのです。

 

続きまして観光地の物語

この観光地は、どうも狂い始めたようです。これは世界的な傾向、アジアの観光地はどこへ出かけても物価高、白人に対してのおべんちゃら、金に対しての執着心の強さにまみれてしまうと、心が狂うのも当然です。

ヒッカドワではなく、それは、南に20キロほど離れた少し寒村じみた観光地ウナワトゥナでの出来事でした。一人の老人が、ヨボヨボと杖をついて物乞いに来ました。現地の青年はコカ・コーラを飲みながら大声で「Go!(あっち行け)」ときつい調子で叫びました。もうこれは恐るべきことです。高齢者を労うことを徳とする社会回教徒の視点からすると、その青年は舌を抜かれても仕方ありませんぞ。

店主も「今はお金がないから後で来ておくれ」と現地語で返答していました。どう考えても、それは嘘、戯言にしかすぎません。5円、10円のお金がないという事はないはずです。パキスタンやインドでは、店主は決まって、5パイサ、10パイサを必ず渡していました。あたかも、それが義務でもあるかのように・・・。誰も、乞食や弱者を追い払おうとはしなかった。今まで見て歩いた社会とは大きなる違いです。何となく、観光地の弱点をありありと目前にして寂しい思いをしました。

ランカ最新情報おしまいに!

さて、ここヒッカドワでは今回のタミル系スリランカ人との抗争についての話は、あまりなされることはありません。理由としては、紛争地が遠く離れた場所にあり、この地域は99.9%の住民はシンハリ系に属しています。直接の利害関係がなく、至って平静で他人事として済んでいるようです。しかし、ここで伝わるニュース源は政府系の統率色の強い記事に頼っているのも事実です。観光地という事もあって、外人を追っかける事に夢中になり、国全体が直面している問題を捉える眼を失ったようです。

ここで、彼らの主張の誤りは次のように見出すことが出来るのです。

彼ら(シンハリ系住民)は「スリランカは俺たちの国」と主張しながらも、スリランカ北東部(タミル系住民が大半を占める)へは、絶対に出かけられないのです。いや出かけないのです。自分達の土地だと言いながら、自分達がいかないのは、他から見るとどうしても矛盾しているとしか言いようがありません。

さて、一般的にシンハリ人はタミル人を第二級国民として考えているようでして、それは、日本人の対韓国人への態度と似たような部分があります。彼らが言うには、そんなに区別していないと否定はするのですが、私の思うところ、かなり根深いものがあります。

機会があって、カンディ公害40キロほど離れた土地へバスで出かけた際、数軒しかない商店のいくつかが焼き討ちにあった跡を見受けました。道中ぽつんとした一軒家も壊されていました。察するに小さな部落やコミュニティにおいても抗争の爪痕を大きく見いだせるということは、如何に、この対立が深いものなのかを知らせてくれます。

コロンボ郊外のウェラワッタ(Wellawatta)やデヒワラ(Dehiwala)等の地区はやられているなぁと感じます。ただ初めて訪れる人には、「あれ、工事中なのかなぁ。閉店なのかなぁ。」と感じるのみかもしれません。様々な要因が重なり一気に暴発したかのようです。我々日本人の知らない異質なる社会なのです。逆説的には、日本が不思議な国なのであります。

以上でもって「第一部スリランカ最新情報」を終わります。後日私のスリランカに対しての総合編を別便で届けようと思います。加えるに、旅そのもの、インドの歩き方、その他感じた事などをまとめて同封する予定です。

1月21日船で無事インド入りを果たしました。2月末にはカルカッタに帰りますので、連絡事項がありましたら、GPO Post Restance(中央郵便局気付)でよろしく。それから3月はバングラデッシュ(Bangladesh)となる予定です。

1/20  3/20 India

3/20  4/20 Bangladesh

4/20  4/30 India

5/01  5/15 Sri Lanka

5/15  5/25Thai

5/25  6/10Bgankok

果たして、こううまくいきますかなぁ。

残金を数えたら18万(720ドル)あります。一カ月150ドルとして4か月分で600ドル。残りの20日間を一日6ドルで何とか予算がぎりぎり。先日銀行に勤める友人に依頼して1000ドルの送金を依頼しました。やはり所持金が少なくなると心細くなりますなぁ。先日ちょっとばかり焦りましたぞ。失敗はつきものです。旅にはいろいろな出来事が生じるものなんですね。

しれでは今回はこれで失礼をば・・・。

 

スリランカ物語

1985年1月の出来事

場所:ヒッカドワ

日本人村が出来上がりました。この海辺の観光地では、正月の休みをとって旅に出たサーファー連中を主体として集まりました。今日は仲間達が集ってパーティーを開く事となりました。皆で手分けをし買い物をしてから天ぷらオンパレードを開くことに決定したのです。朝の9時頃から夜の9時まで楽しいひと時を過ごすことになりました。

全員で買い物に出かけ、その後は下準備。午後4時から6時頃までは調理の時間。そして6時から10時が本番。できたものは、各種天ぷら、野菜サラダ、牛肉の炒め物、そしてジャガイモのドイツ風煮込み。場所は繁盛していないレストラン(全館を借り切って・・・。使用料は全部含めて70ルピーでした。

参考資料:

玉ねぎ      12Rs/Kg    ピーマン     10Rs/500g

キャベツ    4Rs/500g    レモン      2RS/6個

ポテト         16Rs/Kg      パイナップル6.5Rs/中一個

いんげん豆    2.5Rs/200g    サラダオイル105Rs/750ml 3本

キュウリ        4Rs/500g    米           19Rs/2Kg

なすび          5Rs/500g    小麦粉        9Rs/Kg

ネギ            2Rs/3本     卵           16Rs/6個

ニンジン       6Rs/500g    マーガリン 10.5Rs/225g

ニンニク      1.5Rs/200g    いわし       20Rs/Kg

蕪            3.5Rs/500g    いか         30Rs/Kg

ショウガ       5Rs/200g     牛肉        30Rs/Kg

かぼちゃ       3Rs/200g     牛乳         5Rs/400ml

この買い物リストは、場所が観光地であるため、幾分値段が高い(1-2割高)。コロンボやカンディが安いのは当然でありましょう。

材料費     330ルピー

お店レンタル料 70ルピー

ビールは別料金で一本20Rsなり。

合計440ルピー。これを参加人員11名で割ると一人当たり40Rsとなりました。

どこへ行くスリランカ

さて、久方のスリランカです。およそ一年振り、懐かしの我が故郷に帰宅です。どうも、ここでは、言葉が通じすぎて、全てのストレスは吹っ飛んでしまします。例によって怪しげなるガイド群が付きまといますが、難なくスラリと交わしておしまいです。

先ずは、前回の訪問地ヒッカドワに到着しましたが、全く不調、不景気そしてドン底という感じです。一昨年、昨年と打って変わって静寂そのものです。聞くところによると、大きなホテルのみ利用者増減なしで現状維持をしているものの、中小のゲストハウスは軒並み利用者が減り、部屋代も下がる一方です。前シーズン50ルピーの部屋は現在30ルピー。且つ我は友人割引とか称してシャワー、トイレそして庭付きの結構良い部屋を15ルピーで利用している次第です。

浜辺にブラブラしていた不良グループの数もめっきり減り、通称ヒッピー族も数割方の落ち込みを見せています。と同時に外人と地元青年の傷害事件や、ドラッグ所持のタレコミ(通報)による拘置事件などが頻繁に発生しているようで、どうもギスギスした感じはぬぐい切れません。聞くところによると、現政権はお金持ちにとっては非常に好ましいようですが、貧しい人々にとっては不利な状況においこまれているそうです。

それは、まあ資本主義政策の当然の結果なのですが、スリランカの行き詰まりは、根本的な問題を抱えているようです。しなわり、数年前までは、庶民は現政権を支持信頼し、新しく資本の自由化、個人所得の拡大に全員浮き浮きしていたのですが、今はお金持ちのみが、微笑み、大衆は再び不満を強く主張し始めたようです。

スリランカの政治の歴史を眺めると、数年間で右と左の政権が交代しながら続いていたようです。勿論インド文化の影響も大きく、カースト制度(身分制)の名残りを維持しています。親インド派の政治になったり、反インドになったりの繰り返しです。今の首相は人気があるけれども、身分が低いから大統領にはなれないと呟かれています。回教国のように背景に強い宗教感を持った強権政治も出来ず、いつまでも宙ぶらりんの状態が続いています。

現在のインドのラジブ新首相の政策は随所に資本主義の要素を取り入れて近代化に取り組んでいますが、完全な自由主義経済になるのは、殆ど不可能かもしれません。あくまでも、インド式社会主義を継承しながら、徐々に経済的には自由主義への道を歩むものと感じます。

食べるものに不自由もない豊な国とも思えるスリランカは、自分達のその豊かさに気がつかず、永遠に物乞いをしながら(国そのものは海外援助、国民は外人からのチップを狙う)続けていくのだろうか?それに比べるとやはりインドは大国を感じてなりません。

スリランカでは、政府軍とタミール戦線のいざこざが膠着状態が続いています。世界的な麻薬密輸事業はここ、スリランカにも蔓延し、我がカンディの愚連隊なる友人達の中にも、通称ブラウンシュガーの中毒に陥る者も数多くいます。一見平静なように見えますが、多難な問題が蓄積し、物価上昇が庶民を襲っています。品物(車やバイク)が氾濫すると同時に事故も増大し、それらに対して為すすべもなく、歯車は回り続けています。こうした混沌とした状況が今のスリランカかもしれません。

安い、安い物価

確かに、スリランカの気候、風土は素晴らしいと思います。「緑したたるインド洋の真珠」はその呼称にふさわしいのですが、人々の顔はどうもせせこましく映ります。同程度の人口で8倍程の国土を有するアフリカのケニアは、ゆったりとして素朴さを感じます。国民全体に経済感覚がないというか、社会のシステムが異質であり、個人差もあるだろうが、人間の本性をまざまざと示してくれているようで、人の良さを感じてなりません。アフリカの出来事ですが、レストランの従業員が私をわざわざ500mも離れた宿まで案内してくれたことがありました。庶民の素直さを感じてなりません。あの時、同行してくれたアフリカ人(ケニア人)を怪しげなるガイドと疑った自分が恥ずかしくなります。何故かスリランカでは、怪しげなるガイドが多すぎる。

いずれにしても、カンディとヒッカドワは私の良き休息の場所となりました。前回の訪問は民族問題の取材?の意味もあって、ちょっと緊張しましたが、今回はそれが日常化し、かつ激化するでもなく、人々はマンネリ化したようで、最近は格別変わったこともなく、私も気分的には楽になっています。やはりスリランカへは又訪問しそうなのです。物価の上昇も落ち着きはじめ、ドルとルピーの交換レートも以前と大差なく円の急騰を反映して円建てで計算すると昨年よりも大幅に値下げになり、旅人には嬉しい悲鳴です。そして通称ガイドなる数も激減しています。これは警察の取り締まりが厳しくなった事が原因と聞きました。

  • スリランカでは、シンハリ系の家族は毎月初めに、朝食としてキリ・バット(ミルク・ライス)を食す風習があります。当ムナシンハ家でも、2月1日の朝はミルク・ライスにチャツネの組み合わせでした。どうもこの味は南インドのベジタリアン(菜食主義)のタユル・サーダム(ヨーグルト・ライス)に似た味がしました。
  • 山間部(ヌワラ・エリヤ、ハットン=アダムスピークの玄関口)にも外出禁止令がでました。依然として、状況は好転せず。もうこの問題は日常化したように見受けます。
  • 近年の著しい円の上昇で一日500円の優雅な生活が実現しています。果たして皆さんは信じるでしょうか?まあ悪くはありませぬ。物価安のスリランカ、南インドもそうだと思いますが・・・・。南アジアの通貨は切り下がったようです。
  • 南アジア国別の通貨

スリランカ     1ルピー   7.1円

バングラデッシュ  1タカ    5.8円

インド       1ルピー  15.7円

パキスタン     1ルピー  12.2円

ネパール      1ルピー   9.2円

  • それにしても通貨のイタズラは大きいものです。昨年は1000円で104スリランカルピー。本年は同じ千円札一枚で143ルピーも貰う事ができます。国内物価はあまり変動がないのです。いやはや愕きでもあります。

民族問題が・・・

タミル人との民族問題を反映して、近年シンハラ人の仏跡巡りは、スリランカからネパールへ飛び、そこからインドに入国して北インドの仏跡を回るルートに変更になりました。今までは南インドのマドラス経由で旅をしたのが、ルート変更です。これに伴って飛行機代金がおよそ400ドル上積みになりました。

多少のデマや流言があり、南インドでは嫌がらせを受けるとか、生きて帰れないとか、出国の際、係官に多額のワイロを要求されるとか・・・。デマを信じやすいスリランカ人にとっては尚更大きく心にのしかかって来るようで、仏跡巡礼をあきらめて、一週間程度のバンコクへのパッケージ・ツアーに参加する人々が増えたようです。

所でパキスタンとの関係は極めて良いようで、先日パキスタンの大統領がコロンボを訪問し、カンディ公害のモスリム地区(AKURUNA)とう街にZIA Hospital(ジア・ホスピタル)の建設を約束しています。カラチからの機内には、数人のパキスタンの商売人も同乗していました。どうも彼らの中には、パキスタン国籍なれど、一年の殆どをスリランカに暮らしている人々もいるようです。彼ら同志のウルドゥー語の会話はそういった簡単な部分は私でもスラスラ解読できたのであります。ウーン。面白いものです。

だまされた

ある日本人旅行者の話。彼はインドのベナレスでサリー(インドの婦人用外衣)を求めました。高級品一枚50ドルの商品を6枚、すなわち計300ドルを投資したわけです。購入の時に商品が倍に売れる事を聞いて即実行です。船便にてスリランカに発送しましたさて、無事郵便局から通知がド時、税金40ルピー(300円)を払って小包は自分のものとなりました。中を開けると、何と古着が出てきました。インドでは直接郵便局へ品物を持参しスタンプを確認したそうだが、例のワックス(ロウ)でシールをするのは忘れたそうな。何処ですり替えが為されたものか・・・?皆様ご用心、ご用心。所持金はおよそ200ドルとCCU-BKK-TYO(カルカッターバンコクー東京)の航空券しかない彼にとっては、可也のショックだったようです。

さて、我がムナシンハ家の次男は空港近くにあるFTZ(Free Trade Zone)にある縫製工場の機械管理の部署に職を見つけて8か月になります。スリランカの給与体系は、次のようになっています。基本給は一日30ルピー、皆勤手当てとして75ルピーです。しかし一回欠勤で50ルピー、二回欠勤で25ルピーと減額になります。結婚祝いは3000ルピー、父母の死亡に際しては5000ルピーの見舞金が出ます。産児有給休暇は2か月半、年次有給休暇は14日。朝食は無料で一日二回のTeaも無料でコカ・コーラは飲み放題。年に一度の慰安旅行、ボーナスはおよそ2.5カ月分但し初年度は100ルピー。残業は一時間6ルピーで食事付き、休日出勤は間あたり。18ルピー。退職時には天引き預金の毎月75ルピーの累計を支給。その他Festival Loanとかがあり、お祭りの時には事前に前借ができるそうです。無料の健康診断そして、必要な投薬も無料になっているとの事でした。

 

藪医竹庵

カンディに移って3日目。次第に体調が思わしくなくなりました。不調の始まりです。悪寒が始まり、それに続いて39度以上の熱でぐったり。勿論解熱剤を服用しているので食欲不振、それに加えて間接と腰のだるさ。果たしてこれは単なる風か、ひょっとするとマラリアの一種なのか?以前にもこれに似た経験があったので、数日もすれば快方に向かうものと、たかをくくって辛抱していたのだが・・・。結局は医師に診てもらうことになりました。

体温計で熱を見て、聴診器をあてて、私がケニヤやインドを旅したこと、症状を説明すると、「アンタ、マラリア」と即決。6種類もの薬を渡して「これを飲め」と各々2錠ずつですから一度に12粒もの薬品を胃に放り込まなければなりません。その為か一向に回復の兆しはありません。逆に吐き気を伴い、もうメチャクチャです。

食欲不振、吐き気、熱、気だるさの四悪が全部押し寄せてきたのです。それで当日の夕刻薬局に出かけ、自分の経験で抗生物質なるアンピシリン(Ampicilin)を求めて服用を始めました。すると、徐々にではあるが、良くなる気配を感じました。即医者からの薬を停止しました。それでもまだマラリアの恐れを感じでいたので、今度は別のドクターの所に出かけて血液検査を受けました。結果は白です。となると最初にかかった医者はどうみても藪医者。60ルピーも払い込んで、病人に毒を飲まそうとした凶悪な犯罪者ダゾ。マラリアと風の区別も出来ないなら、免許取り上げを願いたい。人をこうも不幸に陥れて・・・。

まあ誤診という事もあるかもしれませんが、初歩的なミスかとも思います。どうもスリランカの医学水準はまだまだ低いのでは?以前南インドのマドライで診てもらった先生のほうがはるかに信頼がおけて、安くて水準が高い。この点についても、何となくスリランカのダラシナサと南インドの豊かさを感じてならない。

 

私見カースト制

あらゆる部門において水準が高まれば、支配階級の地位と必然的に確保してしまうのは当然の帰結かもしれません。それに抗する多数派による地位の奪回は、早急であってはならない。それを急ぐのは暴挙に等しく、害悪を伴うのではないだろうか。単なる宗教による大小、多少が即民主主義とすることが出来ようか?

歴史を通して、ローマ・ギリシャ時代においても奴隷制があったと同時に、それが民主主義と呼ばれていました。特定民族の優位論を味方にするわけではないが、その社会構造が平均化し、ある程度の水準に達した時点で、初めて民主主義が芽生えるのではないだろうか?すなわち、ギリシャ社会の民主主義はギリシャの上流階級の枠内では完全な民主化を保っていただろうが、奴隷階級を含めたギリシャ全体を考えると民主主義の色彩はなくなり、専制政治だったということになるであろう。こう考えると改めてインド社会のカースト制度を再考してみよう。

果たして、人間には地位向上、地位平等が必ず「幸福」を与えてくれるのだろうか?それを求めるが故に、人は苦しみ、悲しみ、戦い、悩む。そして人生の末期に幸福が訪れるのだろうか?インド社会はカースト制度で前もって律されているように思う。分相応の生き方や暮らしが最善の道だとするのである。そこには安定したものを感じる。・・・となrと、日本の機関車的人間はどうなるのでしょう・

 

19か月支出総額100万円

何度も何度も足を運び、同じ土地を飽きる事もなく漂っています。年に数回病気で寝込み、弱気になることもあります。そろそろ齢かなぁと感じたり、ああ、無駄な暮らしをしているのかなぁと弱気になることもあります。が、病から回復すると脳の働きもまた活発になるようで、しきりに次の開拓地を探ることになります。しかし新天地への道は遅々として進みません。でもそれが私にとってのマイペースかもしれません。アラブ社会の幾つかの国々を、半年ほどかけてゆっくりと見学をするのが、ここ数年近未来の計画です。

旅行者の間では、もう我らの」年代になるとオジン組。時には「お父さん」と呼ばれる始末です。まあそれなりに、私なりの世界観と庶民感覚を持ち得たことに満足しています。どうも放浪の星の下に生まれたようで、ちょっとやそっとで、人生は変わらないようです。新しい人との出会いを求めて延々と旅は続くようです。

我がマラリア騒動も一件落着で、塞ぎ込んだ状態から脱し、次は何を見ようか、体験しようかとプラン中です。まあ100件程思う事があっても、その中で2つか3つ実行できるなら十分と自分で信じている今日この頃です。ざっと一年半が過ぎ19か月のウロウロで実質使った金額は、これまた前回同様、約60万円の地上費と40万円程度の飛行機代ということになるでしょう。

従って、出発時に残した金額は、殆ど変わることがないようです。途中の資金追加も受け取り利息分と相殺され、変動なしというのが現状です。いや、少しは増えているかもしれません。この48か月は私にとっても不思議なものです。

2月20日はインドに飛びます。およそ一カ月は南インドです。暖かくなったら、北インド・ラジャスタン州のジャイサルメール(Jaisalmer)を訪ねてみようと思います。では、お元気で!

 

庶民は不景気

近年の石油価格の低落をスリランカにはあてはめると、非常に不利な材料があまりにも多いようです。すなわり、今後は大幅に中近東での求職が困難となり、推定される給与の減額によって、海外からの送金が減少するのは間違いありません。ちなみに1985年の出稼ぎによる海外からの年間受け取り額は91億ルピーとなっていますから、これをスリランカの人口で割ると一人当たり年間600ルピー(US23ドル)ということになります。

所で、この年間一人当たり600ルピーの海外出稼ぎによる収入の意味は大きなものがあります。五人家族だと一軒当たり年間3000ルピーになります。何しろ公立病院の医師、学校の校長の一カ月の給料が2500ルピー前後です。このことから考えてみると、スリランカ人は平均的に一年の中で1/12=一カ月は海外出稼ぎ組によって養われていることになります。或いは、12家族の中で一家族では、一人の出稼ぎを排出していれば、それで年中暮らしていける結果になるのです。

この大切なる外貨獲得、収入の道が横ばいもしくは下降するのは間違いありません。今更生活を切り詰めることもできず・・・。こうして中近東への紅茶の輸出が不振を招き、加えて石油価格の下落は、不景気を伴い自動車生産に欠かせない天然ゴムの輸出に大きなブレーキがかかり暗い事ばかりです。そして不調なる観光収入。これで、天候不順で紅茶の収穫が狂うとなれば・・・・最悪の事態となってしまいましょう。

さて南西海岸の観光地ヒッカドワで親しくしていた小さな土産物商のダヤナーダン(Dayanathan)氏は、売上の激減を嘆いていました。何しろ82年から83年のシーズン(この地区では観光シーズンは乾季の11月から3月)で40,000ルピーだったのが、翌年の83年から84年では20,000ルピー。そして84年から85年のシーズンでは10,000ルピーに落ち込んだとの事です。そして今シーズンは現在まで(85年11月から86年1月)は4000ルピーにしかなりません。小さなお店は灯が消えたり、転業したりという状態です。

それに引き換え、高級ホテルの投機熱はいまだに高いようで、コロンボでは世界的なホテル・チェーンを持つヒルトン・ホテル、ラマダH、タジHの拡張が続いています。勿論ここヒッカドワでも全室390室のホテルは90室を完成させて第一次オープンをしています。このホテルは10キロ先からでも望むことが出来るのです。

 

いざこざ・トラブル

さて、急増している日本人旅行者との間に各種のトラブルが発生しています。次の物語は、実際にあった話です。伝聞ですので多少違っているところがあるかもしれませんが・・・。

一人のスラランカの青年がいました。彼は19歳で浜育ち、サーフィンを日本人から習いました。その事件が起きたのは数年も前の事です。当時彼は日本人と西洋人の考え方の差を知り、特に日本人に対して好感を持つようになっていました。すなわちアジア的マインドが気にいっていました。従来の西洋人の方法は、どうも我々スリランカ人を人間扱いしていないのではないかいう空気を感じていました。それに比べると日本人は我々を同等に見てくれていると・・・。昔の日本人はドラッグ(麻薬)もやらず、サーフィン一本で見ていても気持ちがよかったとか。ともかく彼は日本人贔屓だったのです。

そして半年前にちょっとした事件が起きました。結果として、彼の日本人贔屓が不孝をもたらしたともいえましょう。その事件とは・・・。

二人組の日本人旅行者が、この街ヒッカドワにやってきました。彼は全く面識がなかったのです。ただ彼らがインドから1.2キロものハッシッシ(樹脂製のインド大麻、固形エキス又は液状で、催眠効果がある)を運んで、このヒッピーの集まる街で派手に売り捌いている事が、小さな街では、すぐ話題になり、現地のチンピラがオマワリに通報しました。

彼等二人がコロンボに用事に出かけた際、留守を狙って家宅捜索が為され、現t実に彼等の絵やから品物が発見され、後は夕刻に彼等が帰ってくるのを待つばかり、宿の周囲には大勢の警官が配置されました。

さて、この事を聞きつけたスリランカの青年は、これは一大事と勇敢にも彼等の救出作戦を試みたのです。その計画は万全だったのですが・・・・。

まず、彼はヒッカドワからバスで20分ほど手前の街で、コロンボ方面からやって来るすべてのミニバスをのぞきました。例の二人の日本人を必死に探そうとしたのです。次々とやってくるバスを調べましたが、彼等はまだ到着しません。一度家に帰って食事を済ませ、夕方はヒッカドワの入り口で待ってみました。とその時数台目で見かけたその日本人は、オマワリさんのパスポートチェックを受けているところでした。彼等は中国人と称してパスポートを示し難なく通過することが出来ました。すかさず、そのスリランカの青年はミニバスに乗り、彼等と連絡を取って、「宿へ帰るな、我が君たちをかくまう」となって、ジャングルの中の誰にも分らない家に連れていくことになりました。それから全員で協議して国外脱出の方法を案じました。幸いなることに、警察側では、単なる日本人というだけしか知らず、名前も、顔も、パスポート番号も把握していない状況です。(民宿の場合はお金さえ払えば良く、宿帳など記載するシステムがない)早急に大韓航空と連絡を取って、スリランカの青年は3-4日後の便を取りに出かけました。最終日あコロンボの高級ホテルに滞在し、外へ出歩かない限りほぼ完全に事態は推移したはずです。飛行機に乗れば安心。出国チェックと言っても、これも何の問題もなく通過できる状態だったのです。

所がこの二人組は、ちょっと気を許しコロンボ市内を散歩したのです。これがコロンボ市内まで出張いているヒッカドワのガイド(客引き)の目に入り、即警察に通報。あっと言う間に全てがおじゃんになりました。ヒッカドワに連れ戻され宿で検証。勿論彼を助けようとしたスリランカの好青年も御用となりました。引き合わせがあっても、当初はお互いに知らぬ存ぜずで頑張ったんですが、結局は三名とも刑務所暮らしとなりました。

さて、大変です。こうした場合、在外公館は殆ど関わりをもたないそうな。それでも、スラランカの青年は面会に来た実の兄に、重要な紙切れを着替えのズボンの折り目に挟んで渡したそうです。その紙切れには日本大使館向けで現状を訴える内容が記されていました。兄はそれを、何とか日本大使館に届け・・・。既に二週間が経ちました。

ようやく、日本大使館より弁護士と係官がやってきました。例によって色々と交渉が始まり、日本人一人当たり10,000ルピー(7万円)の罰金と国外追放という処分が決まりました。しかし後に残ったこの好青年は、さらに二カ月の間刑務所暮らしをつつけたそうです。もっと早く出るにはお金が必要だったのです。或る日本の友人が以前送ってくれた800ドル(日本への招待費用として)で訪日を楽しみにしていたのですが、その一部をつぎ込んで半年の刑期を二カ月にしてもらい・・・。結局ドル札はその後いろんな事で出費し再び文無しになったのです。

毎日魚やタコを採っていた生活は、今年は大きくリズムが狂ってしまったのです。今の所、その二人組の日本人からは何も連絡が届いていないそうです。それでも彼は日焼けした黒い顔に白く輝く歯を見せて明るく振舞っています。今日も日本人の旅仲間と楽しそうに話し合っています。

その他に彼はオーストラリアのサーファーと一寸問題があったのです。その白人が波乗りをしている日本人をコケにしたのが原因でオーストラリア人と傷害事件を起こしたのです。その後、しばらくの間、この地域からはオーストラリア人が姿を消したそうですが・・・。

直接話を聞いてみると本当に日本を好む、心優しい硬骨漢という印象を持つ青年です。偉い!そのあたりのゴロツキ・チンピラとは大違いでした。

ランカ人根性物語

スリランカに出入りを初めてあら6-7年は経過したでしょう。人によってその印象は百人百様かと思います。短期間の一カ月以内の旅で且つ一日10ドル以上の費用で旅をする分には、スリランカ航空(Air Lanka)が言うように「パラダイス」かもしれません。それが7ドルから下がると、旅はみじめ?となる感が強いのです。

こうして何度も出入りをしてみると、時には良く、時には悪く、その印象が異なってくるものです。さて近年は、この各種なる意味での小悪魔たちの住む国を何となく愛するようになりました。それは、我々人間のどこか奥に潜む悪魔的存在を否定できないように・・・。そこにスリランカに対しての最終的な答えのようです。いつかは、また訪れたいと思います。逆に言うと、そこに住む人々は如何に忠実に育っているかをも教えてくれるようです。

  1. スリランカ人は島国根性丸出しで、極めてせこい。
  2. 彼らはインド文化圏に属していながら全くインドの事をしらない。
  3. 親切な人があれば、99%何か裏があるに違いない。
  4. 最終的には徳地な泣き落としでタカリをする。
  5. 上から下まで乞食国家に見えてならない。
  6. スリランカ人はプラクティカル(実務経験)が少なく机上の軽薄な理論のみ知っている。
  7. 医師や病院もいい加減が多く、外人患者は特別価格が多い。
  8. 男も女もあの微笑みには注意すべき。
  9. 母系社会の傾向が強く、男権は強そうで弱い。
  10. 全体的に英国調、西洋流を絶対的なものとして信じている。
  11. ローカル食は、恐ろしく辛い。
  12. 殆どの場合、乗り物は超満員で突っ走る。
  13. 殆どの旅行者は、宝石と土産物でダマサレル。

などなど、悪口が続きますと、旅への足もすくみましょう。全部がこうでもありませぬ。でもこの人々に付き合ってみると、また楽しくもなるのです。

 

さて、どうなるか民族抗争

さて、タミル人とシンハリ人の抗争は一向に終わるようには見えませんが、どうもスリランカ政府の武力による根絶方針は長期にわたり、失敗に終わるような気配を感じてならない。すなわち、スリランカ政府の台所は大火事で、大蔵大臣が先ず悲鳴をあげた模様です。何しろ、ここ8カ月間の軍事費用は通常の20倍に膨らみ300クロール・ルピー。これを日本円に換算すると一カ月で30億円。すなわち一日あたり1億円を投じている勘定になります。間接的損害はこれ以上になっていることでしょう。

軍隊の数は、公称14,000人。こうして考えてみると、タミール人はしぶとく張り付いているようであります。さらに又、スリランカの外貨事情は悪化する一方です。以前にも述べたように観光収入のジリ貧、紅茶の生産高は例年の40%に低下し、国際市場ではインド産・中国産のTeaに押され気味。しかも近年アラブ諸国はスリランカ人の雇用を控え始めあとか。スリランカ政府軍は、イスラエルの後方支援を受けているという噂もうなづける次第です。更に石油価格の低下で中東諸国の通貨が弱くなり、海外からの送金も激減しそうです。世界的に民間の海外援助の中止も出始めています。どうもマイナスの材料ばかり続きます。

現在のスリランカの借金額は300億ドル=6兆円にのぼっているそうです。スリランカの兵士はどうも弱体のようで、これに反してゲリラ側は思想をもって立ち上がっている点で、少数とは言っても根絶はできません。結局、一般市民を痛めつけてゲリラ退治と報告する有様です。インドの新聞によると、通称タミル・タイガーはかなりの回数をもって政府軍を撃退し、地雷を使っての暗殺作戦を展開していることを、在マドラスのゲリラ本部を通じて刻名に報道しています。しかしスリランカの新聞では情報統制がしかれ一切報じられていません。果たしてこの抗争の行方はどうなるものでしょうか?そろそろ下火のようにも感ずるが・・・。スリランカ政府の内部から崩壊するのか、まだまだ長期化するのか未だに不透明です。

現大統領の発言の一つに「ラジブ・ガンディには政治の経験が全くないのです。でも私は40年以上にわたって、この道を歩んできたのです。」と現地の新聞に掲載されていました。隣国同志でありながら、各国首脳の相互訪問というのは、世界中どこも難題になっているのが現状です。

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