アジア旅日記 キナバル登頂2001年

キナバル

キナバル登頂2001年

キナバル

この記事は2001年友人と東マレーシアのキナバル登山に出かけた記録を再編したものです。登頂後、急坂を一日で下り温泉に入ったのが原因で足が突っ張り地獄の行程が数日続きました。今も変わらず東南アジア最高峰4013mのキナバル山は人々の暮らしをも守るかのように威容を誇ってそびえています。

 

 

キナバル登頂 2001.. 1

日程表… 1

メンバー紹介… 2

行動概要… 2

第1日目 待ち合わせ… 2

第2日目 テノムへの列車の旅… 4

第3日目 マヌカン島… 5

第4日目 国立公園入り口… 5

第5日目 ラバンラタ(3300メートル)… 6

第6日目 頂上往復そして温泉… 8

第7日目 滝への観光… 9

第8日目 サンダカン… 11

第9日目 コタキナバル… 12

第10日目コタキナバル… 12

第11日目 出発(機内泊)… 14

最後に… 15

旅のヒント… 15

日程表

日時行動宿泊地
01日目2001/11/01成田よりコタキナバルへコタキナバル
02日目2001/11/02サバ鉄道試乗コタキナバル
03日目2001/11/03マヌカン島国立公園コタキナバル
04日目2001/11/04キナバル登山口へ登山口
05日目2001/11/05標高3,300メートルの山小屋ラバンラタ
06日目2001/11/06頂上ピストン後温泉へポーリン温泉
07日目2001/11/07ポーリン温泉で終日過ごすポーリン温泉
08日目2001/11/08サバ第2の都サンダカンへサンダカン
09日目2001/11/09サンダカンからコタキナバルへコタキナバル
10日目2001/11/10コタキナバル市内観光コタキナバル
11日目2001/11/11終日買い物機内
12日目2001/11/12早朝成田到着自宅

メンバー紹介

 

中原 整夫

干場 悟

行動概要

今回は東南アジア最高峰のキナバル登山を計画しました。まず飛行機はインターネットを利用して、直接マレーシア航空に連絡をしてゲットです。最近はネット上で買い物をするなどは日常茶飯事となりました。初めての試みでどのような過程を経るものかも興味の対象です。本番の出発は10月下旬でしたが、早々に切符を確保することとなりました。ほとんどの航空会社ホームページを出しています。その中を覗くと飛行機の出発時刻や料金などの詳細を知ることが出来ます。勿論その国の観光案内の記事も載せています。そんな中でマレーシア航空はJIMATという早期申し込みの特別割引航空券の販売ページもあります。これが結構安いので驚きです。今回の成田からコタキナバルの往復は54,000円でした。ネット上での申し込みは意外と簡単なものです。搭乗希望の日時、便名などを送付すると数時間後には、本人に確認のメイルが届きます。メイルの内容は貴方の希望する日の空席状況と価格です。3日以内に指定の銀行送金をすれば後日切符を宅配便にて届けるという方式です。利用してみるとなかなか便利な仕組みです。従来の航空券の取得は旅行代理店を通して行いましたが、便によっては出発ぎりぎりにならないと席が取れるかどうかわからないという不便がありました。でもこの方法ならば即決です。しかも、銀行送金ですから、クレジットカードの番号などをネット上に記入する必要もなく安全性も高いのです。銀行送金をすると直ぐに航空券の発券そして送付となりました。もし我々がネットバンキングをしていると銀行に出向いて送金しなくても、直接パソコン上から操作が出来極めて効率もよく便利なことと思います。

第1日目 待ち合わせ

日本からの客人を迎えるために当方は一週間早く現地入りをしました。マレーシアはIT産業が盛んです。教育水準も高くインターネットや電子メイルの送受信には不自由しません。日本の友人とはほぼ一日置きに現地情報を流すことが出来ました。今は雨季で毎日スコールがやってくること、キナバル山の朝は天候がよく午後は雨になるので要注意。そんなホットなメイルを交換しながらあっという間に1週間が過ぎました。

成田からコタキナバルまでは週一便の直行便があります。季節によっては2便になる場合もあります。同じマレーシアでも半島部とはかなり空気が違います。ボルネオ島は世界で3番目に大きな島と定義され、東マレーシア、インドネシアそしてボルネオという3つの国で構成されています。概してこの地域は人口過疎で、大きな町は数えるほどしかありません。

それにしても、マレーシアという国も不思議な国です。東シナ海をはさんで1500キロ以上離れていても同じ国なのです。その道中は単に海が広がるのみです。フィリピンやインドネシアなどは島峡国家と呼ばれています。島が連続していますから、領土が続いているといえるでしょう。スマトラ島とジャワ島は船で3時間移動すると対岸に到着します。ルソン島とミンダナオ島の間には連続して無数の島が点在します。ところが、ここは全く別の体系を抱えているのです。

さて、どのようにしてここはマレーシアという国に属することになったのでしょうか?昔の地図を見ると、この地域はブルネイの王様の支配下にありました。ブルネイの人々はマレー語を国語とし、イスラム教を信仰するという文化基盤があります。ここも同じ文化基盤を持っていますが、英国の植民地時代の影響を強く受け継いだサバ州は、第2次大戦後の独立運動の中でインドネシアに属するか、マレーシアに属するかが、問題になったそうです。この地域は現地に入ると実感しますが、誠に人口が少なく、行けども行けども荒野、山地が広がり人の気配は全く感じることがありません。この地域が一つの国家として成り立つにも無理があったように思います。最終的にはマレーシアの一部分という地位を得ることになりました。政府は人口過疎脱却のため、人口が密集しているマレー半島部からの移民を促進しているとの話です。

さて、日本からの直行便は予定より10分早く到着しました。送迎をする人々がちらほら姿をみせ、その中には日本人の姿を見受けます。直行便ということで直接ここコタキナバルに乗りつける人もいるようです。元来お客さんの送迎という場合はタクシーを借り切って乗りつけるのですが、今回の旅は地元のライフ・スタイルに親しむ方針ですから、市内バスで乗りつけることになりました。乗客がチラホラと姿を見せました。その中に見覚えのある友人が見えてきました。どうも荷物が出てくるのに時間がかかった様子です。税関や出入国の審査も無事終了し、汗をたらたらさせながら久しぶりの対面です。成田という巨大な空港に比べるとここコタキナバル空港はまさしく田舎のバス停留所といった様相を呈しています。でも、時刻表をみると、ここから直行でフィリピンのセブや台湾などへの便も運行されています。しかし、この空港ののんびりした環境が最高にお気に入りです。空港の周囲は椰子の木と熱帯の花に覆われて明るく光っています。そんな中をまずは歩いてバス停留所に向かうことにしました。大通りに出ると乗合バンが頻繁に走りキナバル市内にいくには不自由を感じません。料金もタクシーに比べると格段に安く、わずか1RM(30円)で市内に入ることが出来ます。

庶民の生活を知るには、こうした方法がベストなのかも知れません。がら空きの乗合バンは軽快にマレー音楽をかけながらあっと言う間に市内の目抜き通りに到着しました。既に宿は2人部屋を確保してあります。2人で朝食付き28RMという料金です。冷房付きの部屋もあったのですが、窓がなく、ドアを締め切ると真っ暗な部屋ですから、これは遠慮することになりました。日中はかなり蒸し暑いのですが、夕方はそれほどでもありません。嬉しいことにここはお茶(コーヒーや紅茶)が24時間セルフサービスで飲み放題なのです。

第2日目 テノムへの列車の旅

ここサバ州の安宿では料金の中に朝食が含まれています。朝食は、トーストにバターとジャムそしてコーヒーか紅茶という簡単なものですが、朝眠い眼をこすりながらのコーヒーは格別美味しいものです。昨夜はスコールに見舞われました。経費節約で扇風機の設置した部屋は少々暑かったようです。でも、このスコールのお陰デ一気に気温が低下しました。もうこれだと冷房は要りません。第一日目は日本からの長旅の疲れもほぐれた様子です。

簡単な朝食を済ませ、サバ鉄道とやらに乗ることになりました。この鉄道は英国の植民地時代から運行していますから、歴史的遺産?めいたものがあります。80キロの区間を4時間で走ります。車両も小さく狭軌のオモチャ鉄道といった感じでした。列車は定刻通りに出発ですが、残念なことに終点テノムまで運行していません。雨で土砂崩れが発生し、先週以来途中のビューフォーで折り返し運転です。地図で見ると、ビューフォーとテノムの間は川に沿って鉄路が走っています。写真で見ると風光明媚な地域です。時間つぶしを兼ね、閑に任せて4時間の列車の旅を味わうことになりました。駅に駆けつけると20名ほどの年配外人グループを見かけました。彼らも我々同様サバ鉄道の体験乗車組みでしょう。料金は一人7.5RMですから、日本円に換算すると250円です。80キロでこの料金は格安でしょう。日本では市内バスに乗るだけでも最低200円かかります。

車両は木造でまさしく簡便車体といった感じです。わずか2両を連結したオモチャ鉄道がホームで待っていました。20名近くの外人の団体で席は満杯です。ぼつりぼつりと現地の人々も乗っています。列車は草ぼうぼうの線路をゆっくりと走ります。コタキナバルから離れると人気はほとんどありません。所々小川をわたり、熱帯の湿地帯を走行します。こんなところに人が住んでいるのでしょうか?いくつかの駅を経由しましたが、駅周辺はひっそりかんとしています。場所によっては無人駅もあります。車掌さんは切符の車内販売に大忙しです。この国でも鉄道は斜陽化しています。同じルートでは整備された道路を車が疾走しています。帰路は乗合バンを利用しました。これだと半分以下の時間で到着、料金は2割高いのですが、客が集まり次第順次出発しますから、極めて便利なのです。とにかく、交通量の少ないサバ州ですから、最高速度100キロでぶっ飛ばしていました。

到着したビューフォーという町はこじんまりとしたたずまいでした。さて、列車を降りて駅前に立つと駅前広場は水浸しです。向かい側に食堂があるのですが、ぐるりと遠回りをしないとなりません。数人の客は靴を脱いで、ズボンを捲り上げ、膝まで水に浸りながら歩いています。昨日の雨で川の水が流れ込んだようです。すぐ側には大きな川が流れていますが、その川はやけにだだっ広く、赤土色の濁流がとうとうと流れていました。水位は道路とほとんど変わりません。これだとちっとしたことで町中が水没するのもやむを得ません。

マレーシアでは、地方にいっても中国系の人々は熱心に商売をしています。インドネシアでも同様です。田舎で一番立派な店を抱えているのは大概中国系の人々です。田舎町で美味しいレストランというとこれも中国系のボスが取り仕切っています。ここビューフォーでも同様です。10分もすれば一周出来る小さな町の中華料理店で昼食です。まずはお疲れさまでした。真っ昼間から乾杯!

第3日目 マヌカン島

コタキナバルの沖合には幾つかの小島が点在し、国立公園となっています。どの島も自然に恵まれた景色の良いところです。今日はその一つマヌカン島に行くことになりました。桟橋から島へのスピードボートが往復一人10RMで運航しています。そのうちの一つSUTIMA Expressを利用することになりました。この会社のボスは以前日本人と一緒にあるプロジェクトで働いていたことがあり、大の日本人ひいきのおっさんです。他に外人観光客が4人で合計8人の客を乗せて出発です。沖合にある島をいくつか経由して目的地のマヌカン島までは20分の所要時間です。高性能エンジン搭載と見え、スピードはぐんぐん上昇していきます。と同時にゆれも激しくなり波飛沫が飛び込んできました。まるでジェットコースターに乗っている感じです。

国立公園の中ですから、島内手入れが行き届いています。限られた宿泊施設しかありません。2時間もあれば一周することが出来ます。日帰り客で賑わうビーチでは皆が思い思いの姿で水と戯れています。透き通った水が空の色を映してコバルトブルーに変化しています。今は10時半ですから迎えの船がくるまで十分時間があります。あちこち島内探検が始まりました。ここでは、単にのんびりすることが最大の良さだといえるでしょう。ここへくるには思い切り食料や飲み物を持参するべきです。島の中にも売店やレストランがあるのですが、割高になっていますぞ。

第4日目 国立公園入り口

いつもの簡易な朝食を済ませて長距離バス駅に向かいました。宿からバス乗り場までは歩いて5分の距離です。コタキナバルからサンダカンは数社のバスが競合して、発車時間も同じような時刻に設定してありますから、よほどのことがない限り満員で席が取れないということはありません。発車寸前でも席が確保できるので便利です。冷房付きの大型バスは快適にキナバル山に向かって出発しました。

はじめの1時間ほどは平地を走りましたが、それからはジグザグの山道になります。しかし、山道になっても道路はしっかりと整備されているのがここマレーシアです。石油という資源を抱える国は政府予算が豊富と見え、インフラの整備や教育に熱心です。国を支えるリーダーがどのような方針で対処するかも問題です。周辺諸国を見ると、インドネシアも石油が豊富なのですが、その富は極めて一部の政府関係者のポケットに入り込み国土の整備に資金を投入しなかった面を見ることが出来ます。タイやフィリピンなどは自国の資金でまかなえ切れず、結局は海外援助に頼っているのが実情かと思います。マレーシアで目立つのは、どんな田舎にいっても道路がしっかりと整備されていることです。

2時間程乗ったでしょうか?バスは国立公園の入り口で停車しました。ここは標高1600メートルですから、気温も下がり快適です。大きくキナバルナショナルパークと書かれた看板をくぐって事務所で入園の手続きをしました。事前にコタキナバルの事務所で申し込みをし、宿代金を払っているのでスムーズにことが運びます。ここでは、入山料が一人当たり50RM(1500円)そして、ガイド料金、発電所までの往復の交通費などを支払いました。あっと言う間に手続きを終え、指定された宿舎に向かいました。本部の建物から歩いて10分ほどのところにあります。ここは広大な敷地の中に庭園や自然遊歩道、食堂、ビジターセンターなどの建物が点在しています。私たちの宿は4人部屋でした。欧米人男性が2人先着です。彼らも明日から登山の計画だそうです。

昼食を済ませてから広い園内を散策です。あちこちに花が咲き乱れています。園内では車はめったに通りませんから、閑静そのもので絶好の自然探索を楽しむことが出来ます。幸いに天気は雲空で写真の撮影には最適です。受付でもらった地図を頼りに自然観察路を満喫しました。印象的なのは熱帯の緑です。午後3時ごろには激しいスコールに見舞われましたが、スコール明けの森の色は冴えるばかりです。

宿に帰ってみると、地元の高校生のグループが隣の大部屋を占領していました。若い連中はさすがに元気はつらつとしています。何やら賑やかしそうに自炊をしています。宿舎の一階は台所があり、食器やガスを自由に利用することが出来ます。我々も持参したマレーシア味のカップヌードルを試食です。威勢の良い高校生グループは好奇心の眼差しで我々を見ています。その中の一人が話しかけてきました。私がマレーシア語で応対すると、それに続いて次々と人が集まり取り囲まれ、あれこれと話が弾んでいったのです。彼らは総勢16人のグループで学期末を利用しての就学旅行にやってきたようです。話をしていても、屈託のない青年達でした。

第5日目 ラバンラタ(3300メートル)

昨日もぐっすりと眠ることが出来ました。大自然の中に囲まれた環境は人の心をほっとさせてくれます。昨夜であった16人の高校生グループも朝早くから張り切っていました。彼らも頂上を目指しています。果たしてどちらが先に頂上を極めるのでしょうか?朝早起きをして外を眺めるときキナバル山の頂上が見えているではありませんか!そして、今日の目的地なるラバンラタの山小屋も花崗岩の中腹にしっかりとその姿を確かめることができます。今日の予定は2000メートル付近から歩き始めて3,300メートルまで達する必要があります。一日の行動としてはどちらかというと中級者以上のコースかも知れません。

朝7時半に公園事務所に出かけると8時に発電所行きのバスが出るからしばらく待つようにとの指示があり、その間に朝食を済ませました。この時間帯には数本のバスが出発しますが、私たちが一番乗りということになりました。さて、10分もしない間に途中で土砂崩れの現場に到着です。乗客は全員下車をして危険回避です。昨日の雨でにわかに崖崩れが発生した気配です。道路は赤土に埋もれ乗合バンはスリップをして前進できません。丁度通りかかったジープの助けを借り、ロープを使って引いてもらうことになりました。彼らはこんなことには手馴れているようです。10分もしない間に無事難所を通過です。こうして、登山口にたどりついたのは丁度朝の8時です。さて、ここからがスタートです。ここでも名簿に氏名を記入して入山することになりました。ガイドの話によると、ゆっくり歩けば6時間程度のコースということです。幸いに天候は曇りでまだ雨の気配はありません。

このコースは行けども行けども登りの連続です。なかなか厳しいものがあります。しかし、道中雨宿りをする場所が合計6箇所設置してあります。水場、ゴミ箱、トイレが設置され、歩道もしっかりと整備されていますから、安心して歩くことが出来ます。また歩道は一本道ですから迷うことはありません。おまけに非常事態に備えてガイドが同行しています。ガイドはナップザックに雨傘、そしてズックという簡単な装備です。珍しい木々を眺め、鳥のさえずりやジャングルの神秘的なサウンドを満喫しながらのトレッキングはネパールのトレッキングとは異なった良さがあります。急斜面は必ず段が組んであり、手すりが設置してあるので安心して進むことが出来ます。時々下山組みと顔を合わすことがありますが、彼らは以外と軽装です。熱帯雨林キナバルトレッキングでは重装備は不要です。多くの人々は普通のズックとかスニーカーで登山をしています。気温が零度に下がることはなく、標高3,300メートルのラバンラタ付近で雨に会うと気温が低下するのですが、そこに行くまでは何箇所も休憩所があります。熱帯の雨は長く続くことはありません。早ければ30分で雨があがります。長くても2時間も待てば太陽の日差しを見ることが出来ます。私たちは幸いに最後の30分を間小雨の中を進行しました。12時半頃ラバンラタについて暖をとり、昼食をとっていた時に、後続の部隊がやって来ました。昨日の宿で同じだった高校生のグループです。彼らはずぶ濡れの状態でした。手足はかなり冷え切っています。でも若さで勝負でしょうか、疲労困憊の気配は感じません。注意する箇所はこういった場合の装備をどうするかということでしょう。

概して、キナバル山付近は一年を通して、早朝から朝にかけて雨が降ることは皆無だそうです。午後からは決まってスコールがやってくるという話です。ですから、早朝に頂上を目指す場合は大体晴れ上がっていると言えるでしょう。

ここラバンラタの宿は快適そのものです。レストランは登山者を配慮して早朝2時半から営業しています。物価もこの標高、この設備からして高いものではありません。私たちの宿泊した部屋は2段ベッドが2組あり、電気ヒーターが設置され安眠が保障されています。食堂のテラスからは天候がよければはるか東シナ海を望むことが出来ます。今日の夕方は雲海です。そして、雲海に沈む夕日は格段の味がします。反対側のキナバル山の断崖絶壁は夕日が反射されて、真っ赤に染まっています。今日半日の苦労もここでしっかりと報いてくれました。今までの疲れも吹っ飛び明日の行動に意欲が沸いてくるものです。

さて、夕食の時間には他に日本人のグループが4名いました。彼女たちはどこかの旅行代理店を通してのパッケージツアーのようです。夕食は豪勢そのものです。食べきれないほど皿が並んでいます。サラダ、メインデッシュ、そしてデザートにコーヒー、紅茶とフルコースの食事を楽しんでいます。でも、あれは大体一日1万円コースなのでしょう。それに比べると当方の食事は粗食なのであります。腹八部目は医者要らずという諺があります。ましてや、疲れているときはそんなに食欲が湧くものではありません。おまけに、彼女たちは他に日本食を沢山持ち込んでいます。郷に入っても郷に従えない人々もいるようです。それに反して、地元の高校生グループはインスタントラーメンを自分たちでここまで担ぎ上げての自炊作戦です。登山にも人それぞれのパターンがあるようです。これは、あまりにも対照的なのです。

今日は満足度100%で睡眠に入ることが出来ました。これでもか、これでもかと登りつめたことが夢でうなされそうです。しかし、きれいな夕日を見ることが出来ました。部屋は暖房が気持ちよく働き、清潔で快適そのものです。さて明日に備えて今日は早く休むことにしましょう。ガイドは明日早朝の3時に私たちを迎えにくるそうです。

第6日目 頂上往復そして温泉

早朝3時に出発するには2時半に起きなければなりません。昨夜は9時過ぎには眠りに入ったので目覚まし時計さえ正常に動作すれば起きることが出来るでしょう。早朝こんなに早く起きるのは何年ぶりのことでしょうか?体調も分も良好です。これなら何の心配もなく、一人で体内時計も動いてくれると思います。

案の定体内時計が働いて、目覚ましの利用も必要なく清々しい朝を迎えることが出来ました。起きたばかりですから、食欲はそんなにありませんが、今からの活動を考えると少しでも体内に固形物を流し込むのが得策です。周囲には早朝登山をめがけて何人かが既に食事を終えて待機中です。さて、まだ外は暗闇ですが、月明かりを見ることが出来ます。そんな中をヘッドランプに頼りながら行動開始です。道は次第に険しくなって行き、所々鎖やロープがはりめぐされています。昨夜の雨で足元は少し滑りやすくなっていますが、ゆっくり登れば問題はありません。30分も進めば足元にラバンラタの小屋を見ることが出来ます。そして、頂上を目指す登山者のトーチライトがまばらに点滅して同じ方向に進んできます。果たして頂上へな何時に到着できるのでしょうか?ガイドの話によると大体3時間の所要時間ということです。となると、夜明けが6時過ぎですから、ご来光には間に合うことになります。まだまだ時間は十分あります。

5時を過ぎると周囲は明るさを増して来ました。これだと、懐中電灯も必要がありません。と同時に今まで見えなかった山の全容を見ることが出来ました。そして、その巨大さと特殊な形に感嘆の声をあげてしまうのです。道は益々勾配を険しくしていきます。ガイドは慎重に我々の一挙一動を見守りながら前になり後ろになりついてきます。頂上が近くなると展望が開け足取りも軽やかになります。4000メートル付近ですから、富士山の高さをはるかに追い抜いています。幸いに我々には高山病の症状はまだ現れていません。これだと頂上制覇も目前です。でも、瓦礫が多くなってきました。足取りは丁寧に一歩一歩確実に運ばなければなりません。さて、何とか頂上に到着しましたが、まだご来光には時間があるようです。私たちがどうも一番乗りのようでした。小屋から頂上までは2時間15分で到着です。歩いているときは感じなかった寒さが頂上では身にしみてきました。ここはどこにも冷たい夜風を遮る場所がありません。頂上からは暗闇の中を所々町の灯をみることができます。そんな中をじっと震えながら太陽の昇るのを待つばかりです。

待つこと30分、ようやくうっすら雲の中から赤みを帯びた線が走りました。刻々と空の色が変化していきます。東を見ると東シナ海の姿もくっきりと見え始めました。次第に今まで見えなかった周囲の景色もはっきりしました。巨大な岩石の塊が聳え立っている光景を目の前にすると、誰もが感激してしまうことでしょう。6時半にはすっかりと夜が明けてしまいました。私たちが下山を開始してまもなく、昨日から顔見知りになった高校生のグループが頂上を目がけてもう一息のところでふうふうあえぎながらやってきました。彼らは昨夜早く寝付かれなかったのでしょうか?朝の出発が大幅に遅れたようで、列もまばらで早い組と遅い組ではかなりの開きがあります。それでも、元気良く彼らは鼻歌まじりで陽気に登っています。彼らの登りは、登山という深刻な部分は切り捨て、まさしく楽しんでいるかのようです。登りは2時間半でしたが、帰りは2時間足らずで基地に到着です。ここでもう一度朝食を食べてから下山をすることになりました。

登った時には気がつきませんが、下山の時ははっきりとその急勾配を感じることがしばしばあります。今回も同様です。登るときには、とにかく前に進むことで必死になり、気がつかないのですが、帰りの道は余裕があり、そのことを始めて知ることにもなるのです。下りの道は急ぐと足を痛める原因となりますから、出来る限りゆっくりと降りるつもりが、つい急勾配でスピードがついてしまいます。休憩をはさんで降りたのですが、結局3時間で下山です。もう、こうなると足はふらふらです。多分に筋肉が痛んできたようです。まあ温泉にでも入れば回復が早いものと睨んで温泉に直行です。12時過ぎには公園事務所でラフレシアがデザインされた登頂証明書をもらい、他の外人2名と相乗りで温泉に向かいました。

この温泉も同じ国立公園の事務所の管轄になっています。建物や公園としての配置は似たようなものがあります。ここの中心は何といっても温泉です。温泉といっても日本人好みの熱い露天風呂とは異なります。原泉はかなり熱いのですが、地元の人々は私たちのように熱湯風呂は肌にあわないようで、水着姿で生暖かいプールに飛び込んでいます。石鹸の使用も禁止されていますから、単にバスタブの中に浸る程度です。それでも、地元の日帰り観光客などで賑わっていました。タイル張りの浴槽(4~5人用)がいくつも並んでいるのです。早朝3時からの活動は一日を長く感じさせてくれました。今日も満足なる日々ですが、どうも足が重く階段を歩く時には不様な姿になってしまうのであります。

夕方になると、キナバル登山で一緒だった地元の高校生グループもやってきました。彼らは小型のバンを貸しきって移動しています。今日が旅の最終日となり、明日は自宅に帰るとの話です。夜になるとバーベキューパーテーを始めました。彼らの中の一人が誕生日だそうで、にぎやかに演出しています。どこから準備したものかバースデーケーキもテーブルに並んでいます。彼らの多くは18歳とかで青春謳歌の日々です。そんな陽気な彼らの仲間に加わり、最後の一日の〆が終わりました。

第7日目 滝への観光

ここポーリン温泉は森の中にあります。朝のすがすがしさはまた格別なものがあります。部屋は二段ベッドが2組あり定員は4人でしたが、私たちの他に誰も客はいませんから貸し切りの状態です。昨夜はぐっすり眠ることが出来ました。さて、今日は付近の散策です。受付でもらった地図を頼りにジャングル放浪が始まります。少しばかり朝食を張り込んで元気をつけて出発です。

地図によると、?往復4時間程度で300メートルの雄大な滝へ行くことが出来る。但しこの滝に出かける人は事務所に出発と帰着の報告をしてくださいとありました。我々はこれに挑戦です。10時に出かけても2時過ぎにはことが出来ると信じたのが甘かったのです。はじめは快調な足取りでしたが、次第に足が重くなってきました。道も細くなってきました。それでも道標が適当な区間を置いて見出すことが出来ました。さて、ジャングルの中で三叉路に出くわしましたが、この道標がぐらぐらしていて、一体どちらの方向に進めば良いのか定かではありません。誰かが意地悪をして道標の向きを変えたような節もあります。多少不安が残りましたが、50%の確立で正解がでるのは当然です。10分ほど前進して踏み跡がなくなたり、道標が見当たらなければ間違いです。どちらに進んでも後悔はありません。幸いに判断は正しかったようで、数分するうちに道標を発見することが出来ました。しかし、行けども行けども滝らしいものは登場しません。川のせせらぎも聞こえなくなり、シーンと静まり返る熱帯雨林の散策です。道は益々険しくなり、勾配もきつく感じてきました。ここで引き返すとなると、今までの労苦が報われません。あとは前進するのみです。まるで、太平洋戦争に駆り出された兵士のような悲惨な気持ちで右足と左足を交互に動かすという作業を繰り返しました。

我々が滝に到着したのは延々3時間の歩行後でした。森の茂みの中から突如として現れた滝は印象深いものがあります。あまりにも大きすぎて全景をみることが出来ません。滝というものは直ぐ側で見るとそうかも知れません。しばし呆然とするばかりです。写真を撮るにも飛沫でカメラが濡れないように気を配らなければなりません。ああこんなに時間がかかるのならば、もう少し食料と飲み物を持参すればよかったのにと後悔しました。次回は食料持参が鉄則でしょう。この滝を訪問する人は多くはありません。今日は行き帰り誰にも会いませんでした。結局夕方4時過ぎに事務所に届けを出して無事帰還です。コメントブックにはとても良いところで印象的と書き残しました。予定が大幅に遅れて昼食は抜きとなりました。その分は夕食でカバーすることになりましょう。

せっかく回復しかけた足がまたまたダウンしたようです。本日は安静を保つべきなのに、無理をした結果回復が遅れてしまいました。筋肉の疲れは年齢を重ねると発症が遅れ回復も遅れると聞いています。昔は一晩休むと直ぐに回復したはずなのに?今日も沢山の花をみることが出来ました。この温泉の設備自体あちこちに花壇をつくり、しっかりと手入れをしています。そもそも、熱帯地域は気候温暖かつ高湿度ですから、ほっておいても草木は生長していくのが常です。それに比べると寒い場所では花壇の手入れが大変なものになって行きます。もしかして、人間もそうなのかもしれません。熱帯への憧れはそのような心理を見越しているようです。

第8日目 サンダカン

ようやく足の痛いのが回復しかけました。それでも、急な階段を昇り降りするときには無様な姿態を見せることになります。ゆっくりと朝食を済ませ、昨日車の手配を依頼してあったので9時前にフロントに向かいました。ここでは、ラナウに向かう乗合タクシーの手配をしています。幸いにもう一人外人観光客と同席です。これで一人6RMと当初の予定より値段が安くなりました。私たちの顔を見ると直ぐに出発です。所要時間は40分ほどですが、道中懐かしきキナバル山頂が見えているではありませんか?遠くから眺めてみると結構険しいところを登ったものだという感激が湧き上がってきます。整備された道路を快走してあっという間にラナウのバス停留所に到着しました。ちょうどコタキナバル始発のバスが入ったところです。この時間帯には数本のバスがここを経由してサンダカンに向かいます。バスの乗務員がしきりに席があるから乗りなさいと勧めてくれました。それではという事で車内に入ったのですが、何と最後部の席しかありません。サービスとして水とあんパンの提供があるのですが、どうやら最後の人は水だけしかあたりません。在庫が底をついた模様です。マレーシアのバスサービスは定評があります。この路線は数社が運行していますが、料金は同じですから質の良いサービスを提供する競争が始まります。この会社では水とパンを提供してくれます。ほかにビデオのサービスもあります。無事故で到着しますように。

午後の3時過ぎにサバ州第2の都会サンダカンに到着しました。宿は市内中心部にある倫敦酒店(ロンドンホテル)です。料金は冷房と朝食がついて2人で40RMですから設備の割には良心的です。ほかに客はいないようで、ホテルはガランとしています。時々外国人も利用するようです。宿の受付係りの話によると、先日外人が6泊して最後に宿代金を踏み倒して逃げたということです。ですから宿代金を先払いして頂きたいと説明付きで申し出ていました。さぁと宿帳に住所氏名を記入して早速散歩です。しかし、この町には観光するものなどほとんどありません。

市内の外れにある中国寺院を見学にいきました。高台にあり、キナバル市街と港を見下ろす風光明媚な場所に巨大な仏教寺院が建立されています。周囲の家々は仏教徒が住むと見え、中国語で書かれたお札が各家庭の玄関に貼り付けてありました。丘の上で写真を撮影していると少しばかり雨がぱらついてきました。でも、大降りになる気配はありません。聞くところによると、このお寺は材木商が財をなし、建立されたものと見え、寺院内の壁には寄進した人々の名前を連ねた碑文がありました。その筆頭は材木商です。その他台湾やミャンマー、シンガポールなどの人々の名前があがっています。日本人の名前も見出すことができました。とにかく、この広大な敷地は整備が行き届き、きれいに花が咲き乱れています。

夕方はインターネット屋を探しまわりました。市内バスターミナルが併設されているビルの一角にありました。早速覗いてみると、周囲が薄暗くてどうも怪しげな雰囲気です。それぞれのパソコンはしっかりと仕切りがしてあり、ほかの人からは見えにくい構造になっています。係りの兄さんが画像をみるのですか?と質問してきました。なるほど納得です。どうも、この地域でインターネットということはHな画像を楽しむことを目的としたものであることを知りました。もう一つのネットカフェもほぼ同じ仕組みでしたが、ここが変わっているのは、受付の壁には大きなビンラデン氏の写真が張ってあったことです。さすが回教国家です。

日も暮れましたから、夕食をということで適当な食堂探しですが、簡単に見つかりません。この町は夜も結構早く店を閉めてしまうようです。探し回った挙句結論はケンタッキーフライドチキンのテイクアウト(持ち帰り)でした。勿論缶ビールも忘れることなく買いだめで。ビールがぬるくならない間に、チキンが冷めない間に部屋に帰り早速乾杯です。サンダカンの町も回教徒が多く、市内を歩いても自由にアルコールを出している店を見つけるには苦労します。さて、膨大な量のケンタッキーです。二人で食べるには分量が多過ぎたかも知れませんこれだけ大量に鶏のから揚げを口にしたのは生まれて初めてです。もう明日からはチキンの顔を見るのも嫌というほど胃の中に流し込んだのです。

所でこのサンダカンという町は外務省の海外危険度情報によると要注意の場所なのです。そのためでしょうか、夜は早く静まり返っています。大体港町は世界どこでも共通したものがあります。昔から交易の場として栄えた場所は裏を返すと色々な人々が集まり暗黒の世界という共通項目があります。香港などはマフィアが暗躍するにふさわしい場所でしょう。バングラデッシュでは、首都のダッカよりも最大の貿易港チッタゴンが危険とされています。ここサンダカンも例にもれずに物騒な場所としての位置をしめているようです。

地図でみると、この町を中心にすると、フィリピンの南ミンダナオが近く、インドネシアの町もそんなに遠くありません。地元の人の話では、この町の一角にはブラックゾーンがあり、警察の管轄外だそうです。サンダカン郊外のサンプルナという町はフィリピン人の町、タワウはインドネシア人の町という定説があります。

第9日目 コタキナバル

その土地というのは来てみれば良く分かります。サンダカンは、これという観光の目玉もなく開発も遅れているようです。しかし、この町には昔日本人も沢山住んでいたとの話があります。小説にもカラユキさんとしてサンダカンが登場してきます。しかし、その面影も今は全くありません。市内中心部は大火災の後区画整理がなされて碁盤の目のように商店街が並び、ブロック制で番号が振付けられています。朝起きて優雅にホテルの屋上で朝食ですが、誰も他に客はいません。我々2人が貸しきりの状態で広々とした屋上のガーデンレストランで朝食をとりました。

他に見るものもないようですから、10時のバスでコタキナバルに向かうことにしました。今日はどうも夕方スコールがやってきそうです。

第10日目コタキナバル

日曜の朝は宿の前の通りにマーケットが開催となります。路上には新鮮な魚介類や野菜が並びます。山菜や見慣れない果物も店頭を賑やかにしてくれます。海草も並んでいます。変わったものとしては、宇宙からやってきたSF小説に登場しそうな甲カニを買って帰る客も見かけました。地元の音楽がガンガン鳴り響き、雰囲気をいっそう盛り上げています。こうしたお祭り気分はお昼まで続くそうです。

朝市の喧騒を眺めていると、何かしら私たちはほっとしたものを感じます。同じようにお祭り気分はデパートなどでも、時々イベントとして開催されるのですが、一定の空間の中で、工夫を凝らし、電気ピカピカ、音楽ジャラジャラと巨大スピーカーで最大の音量で客を弾きつけようとするのですが、野外マーケットには勝つことが出来ません。やはり、自然の中での対決がお祭りには最適なのかも知れません。ここには、決まった形式的な挨拶などは抜きで、様々な人々が素顔で登場します。ここに、企画された建物の中での演出と大きく異なる部分があります。即席の屋台も制約がありませんから、自由にその芳香を漂わせています。日本では人工的にビルの内部に観葉植物を配置して自然に触れ合うやさしいビルと銘打って宣伝しているところもありますが、大自然の中は演出も不要で、私達が真に待っていたものではないでしょうか?

さて、帰国も近くなりましたから、近くのネットカフェで日本へ連絡を取ることになりました。事前に調べておいたメイル屋さんは大通りの裏手にあり分かりにくいのですが、コイン投入方式で20分30円という良心的な価格です。しかも、ISDNの回線を利用していますから結構速度も速く、快適に操作することが出来ます。日本語のフォントもありますから申し分ありません。まずは無事登頂の旨を友人に報告です。なるほど久しぶりのメイルですから、受信簿にも幾つか手紙が届いています。これも、旅の楽しみの一つなのです。

しかし、最近はこのITの進化というもの疑問を感じつつあります。ネットカフェに行くと各人がデスプレーに対面しながら、キーボードを打ち込んでいます。ここでは、人と人とが語りあうことはありません。画面に映し出される文字を、或いは画像を読み取って作業が進んでいます。隣の人が何をする人であろうと興味の対象にはなりません。自分たちの目の前にある箱から送られている情報のみが対象となっているのです。一瞬この光景は私達が何と不幸なのかを物語っているのではないでしょうか?情報化の社会はこれほどまでに我々旅人の内面を大きく変えようとしています。ITに頼ることで全ての的確な情報が得られると錯覚してしまいます。インターネットの功罪がここに大きく潜んでいるのです。そして、この傾向は益々強まっていくのも現実です。旅人同士の意見の交換や情報の交換を要することなく、ネット上で情報を仕入れることにとらわれすぎていないでしょうか?その多くの情報が真なるものか、価値あるものかの判断はこうした情報過多の世界ではそれを見分ける時間がありません。電話というものが普及した当時、使用料金が高額という部分もあり、必要なときに必要な情報を伝達することに重点的に利用されてきましたが、最近の携帯電話の普及は料金の高いや安いは問題ではなく、常時それを利用しないと気分が静まらないという状況に達しました。さほど重要でもない情報をだらだらと流していることが、現代社会のIT機器の現場と言えるでしょう。完全に我々は情報化社会に振り回されて暮らしているのを感じてなりません。

旅に出るとカメラを手に写真を取るのが一般的です。最近はデジタルカメラの普及でその画像数はいっきに増加しました。しかし、これらの画像は最後にはどうなるのでしょうか?何十年も先に誰かがそれを見ることがあるのでしょうか?答えは否でしょう。近年は8ミリビデオやデジタルビデオカメラなども普及し、私達個人として情報を所持する分量は膨大なものになりました。が、その膨大な情報は個人が人生を終えると同時に消失していくことになります。昔は、先祖伝来の白黒写真が数枚次の世代に引き継がれるというのが一般的でした。それも、特別なことがない限り、日常生活では眺めることがありません。これからは一体どうなるのでしょうか?地球のごみが増加しているのは事実ですが、文明の進歩と生活環境の破壊はどこかで表裏一体となっているようです。

午後からは、博物館の見学ですが、ここは入場料金が外人と地元の人では値段が違います。勿論のこと友人は外人料金として5RM、当方は地元人間として3RMの切符を購入しての入場です。施設内は整備が行き届き、野外博物館としてサバ州の典型的な住居が広い園内に点在しています。歴史的なもの、宗教的なもの、人々の生活様式に関連したもの、そして、地元に生息する動植物の紹介など総合した博物館です。これを丁寧にみると3時間はたっぷり必要でしょう。その中で際立って立派な設備をしたのが、別棟にある石油関連の博物館です。これはSell石油がスポンサーになったもので、他の展示に比べると垢抜けしたものです。資金力で勝負しているようで、マレーシア国内での原油産業の実態を詳しく紹介しています。マルチメデアを駆使し、分かりやすく解説しているのがポイントです。石油がどのように人類に役立っているかを力説していますが、石油産業から出る廃棄物やプラスチック類の行き先、化石燃料が原因とされる地球温暖化現象などに関しては一切の説明がありませんでした。でも、エンターテーメントとしては優秀な作品がずらりとならび感心してしまいました。

第11日目 出発(機内泊)

今日が旅の最終日です。格別な予定もなく、買い物デーとなりました。まずはすぐ近くのフィリピンマーケットです。ここには原産がフィリピンやインドネシアの商品が沢山並んでいます。大体、ここサバ州は人口が過疎で観光開発が周囲の国に遅れていますから、これといった名産はその多くをインドネシアやフィリピンに頼っています。注意深く民芸品の裏側をみるとMade In Indonesiaなどとなっています。日本で土産として配る友人達は、サバ州がどこなのか全く理解がないのですから、南方系の土産を持参していけば喜ばれることは間違いありません。特に観光先進地のバリ島の民芸品などは売れ行きが良いらしく、どの店にも並んでいます。値段は最初の言い値の3割程度は落ちるようです。ここは交渉次第というところです。しかし、これといった決め手となる商品が少ないのがサバ州です。ろうけつ染の布地はマレーシア半島部の東海岸の製品で、錫製品は西海岸の出品です。こうして市内の土産物店を歩き回るのは結構時間と体力を必要とします。友人は好物の紅茶を大量に買い付けました。少々かさ張りますが、同僚に配るにはパッケージといい分量といい価格といい最適です。スーパーマーケットに入ると庶民の生活を肌に感じることが出来、物価水準も知ることが出来重宝します。そんな店を利用して紅茶をたっぷりと仕込むことになりました。

土産物は大体予想したとおり調達することが出来、出発の準備は完了しました。いつもの中華系の食堂で最後の夕食です。しかし、この店はほぼ毎夜出かけましたからウエイターなども顔見知りとなってしまったのです。別名経済飯店とも呼ばれるこの店は注文が至って簡単です。好みの惣菜を3種類選べばそれでよいのです。これに、ご飯がついて3RMという料金です。二人で6RM(180円)で6種類もの異なった副食を味わうことが出来ますから経済的そのもので、味も悪くありません。品数も多く、毎回異なったおかずを注文できますから飽きることはありません。

飛行機は深夜の出発です。チェックインは10時ということでしたが、予定より早くタクシーで空港に向かいました。この時間帯では、出発2時間前のチェックインなどは関係ないようで、もう既に受付を始めていました。今回の旅もお疲れさまでした。キナバル登山はちょっと苦しかったかもしれませんが、楽しい思い出を残すことが出来たようです。次回はどこを回ることにしましょうか?

最後に

今回の旅も無事終わることが出来ました。庶民の生活に出来る限り近いパターンで旅をするのも楽しいものです。日本の国は冬の足音が近づいていることでしょう。しかし、ここ南国ではあせらず、急がずのんびりと時間が経過していきます。寒さに対する防御や蓄えを必要としない地域です。それが、人々を穏やかなものに、屈託のない笑顔で示されているようです。今度生まれ変わるとしたら南国育ちも良いかも知れません。さて、次はどちらに出かけることになるでしょうか?

旅のヒント

キナバル登山での必要な道具は懐中電灯と雨具。どちらも現地で安く入手でき、日本から特別な登山装備は必要ないと思います。

個人差はありますが、人によっては杖があれば下山の時に足を痛めずにすみます。杖は登山口の売店にて入手可能です。

キナバル山は入場制限をしていますから、事前に宿泊の予約が必要です。これはネットを通して予約することも可能。2002年1月から各種入場料金などが改正になるとの掲示がありました。

本格的なヒマラヤのトレッキングなどとは異なったもので以外と気軽に出入りできます。ルート的には頂上往復という一本立てですから単調ともいえます。山自体は単独峰ですから、色々なルートの設定は不可能です。

熱帯の低地から高地までを一日で観察できる特殊な場所ともいえます。歩道は完全に整備され、十分な管理のもとにあります。

サバ州の旅は自然との触れ合いが主体となります。キナバル登山の他にオランウータン保護区や国立公園の管理にある島などを訪問するのも変化があると思います。

この地域の治安は良く、英語も通じますから、旅行はしやすい地区に該当します。物価は平均して日本の五分の一程度と考えてください。必要なものは全て揃います。

日本食などは現地では高いので登山に備えて少しばかりあれば良いでしょうが、多くは必要ありません。実際に入山している日々は短期間です。他はマレー料理や中華料理などが市内に豊富に出回り、私たちの口にも十分馴染んだものばかりです。

旅の費用は日本からの往復切符は54,000円。他に現地での滞在費用は一日平均2500円程度で十分です。これに登山関連の諸費用が10,000円です。1週間の滞在であれば、総費用8万円で十分でしょう。10日間となれば、9万円以内でかなり豪勢な旅を演出することが出来ます。

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