アジア旅日記No.5ゴールデンランド

シュエダゴンパゴダ

アジア旅日記No.05 ゴールデンランド ミャンマー1998年

シュエダゴンパゴダ

ミャンマーに入国すると何となくホットした心の安らぎを感じるのは私だけでしょうか?インドからネパールへ入国すると多くの旅行者が安堵感を持ちます。北インドから南インドへ入っても同様な安らぎを感じます。この土地の人々の顔つきは極めて穏やかな表情を示しています。

 

 

 

 

目次

1.仏教の影響… 4

1.1人々は大変穏やかです。. 4

1.2栄え続ける仏教… 5

1.3宗教は麻薬?. 6

1.4宗教あれこれ… 7

1.5二つの道… 8

2.悩める経済… 8

2.01国内の大動脈は何なのか?. 8

2.02各地域で都市が独立して存在している。. 9

2.03経済は瀬死の状態でもありそうでもないのです。. 10

2.04チャットの急騰… 10

2.05バブルの弾けたヤンゴンの経済… 11

2.06多くを輸入に頼る現状… 13

2.07経済封鎖でもびくともしない現状。. 13

2.08経済の支配は中国系とインド系に握られています。. 14

2.09アグリビジネスで栄えるラーマンさん… 15

2.10アジアの富み、隠し資産の金の目減り… 16

2.11列車と船とトラックの輸送… 17

2,12煙草の価格はこうも違う(パイン銘柄). 18

2.13個人の直接送金は不可能… 18

2.14今後の発展はどうなるのか?. 18

3観光産業の発展… 19

3.1旅行者の数は年間約10万人… 19

3.2観光の目玉はあるのでしょうか?. 20

3.3盗難などの厳しい措置は96年の観光年より… 21

3.4何でも外人価格… 21

3,5弗現金とFECの差違… 22

3.6観光産業とGNP.. 23

3.7観光客からの影響… 24

4.教育… 25

4.1悩む大学生… 25

4.2初等教育の充実… 26

4.3.教育昨今… 27

5.軍事政権… 27

5.1汚職天国、プレゼントという表現… 27

5.2インドの軍事力の強大さ… 28

5.3回教徒と仏教徒の抗争… 29

5.4ミャンマーの坊ちゃんとの会話(元活動家). 29

5.5軍事政権への道… 30

5.5アウンサン女史とダライラマ・. 31

5.6陸路の国境は開くのか?. 32

6.インドとミャンマー… 33

6.1ミルクテ-とモヒンガ… 33

6.2インド人の憂鬱… 33

6,3丁寧な言葉使い… 34

6.4インドの数回にわたる文化侵攻… 35

6.5インドの偉大さを再認識… 36

7.英国とビルマ… 37

7.1植民地風のカラオホテル… 37

7.2近代史への流れ(列国の植民地化). 37

7.3イギリスの統治と政策… 38

8.日本との関係… 41

8.1第二次世界大戦… 41

8.2新しい訪問者… 41

9.乗り物あれこれ… 43

9.1パガンへの船の旅… 43

9.2レオイクスプレス… 44

9.3バス、ラインカー… 45

9.4ピー行き急行バス… 45

9.5カラオの列車はすごいおんぼろ… 46

9.6ヤンゴン~マンダレーの列車は?. 47

9.7チャリンコタクシー… 48

9.8サイカー… 48

10.都市と農村… 49

10.1ヒンヅー寺院とモスクが並ぶ… 49

10.2都市の個性… 49

10.3今日も停電… 50

10.4都会と田舎… 51

11.庶民の暮らし… 51

11.1給料あれこれ… 51

11.2ファッションあれこれ… 52

11.3清潔の概念… 53

11.4夢あれこれ… 54

11.5映画とビデオl 55

11.6男女交際… 57

11.7闇価格… 58

12 .トピックあれこれ… 59

12.1ミャンマーの謎… 59

12.2落っこちたトマト… 60

12.3ガラクタ屋… 60

12.4再びミャンマーを考える… 61

13.名勝地… 62

13.1マンダレーヒルと周辺… 62

13.2パガンの夕日(遺跡と夕日). 63

13.3インレーの市場の活気は5日に一回… 63

13.4ピーから眺めるイラワジ川… 64

13.5ゴールデンロック(落ちそうで落ちない金の石). 64

最後に… 65

付録… 65

ビルマ旅行事情… 65

経路… 65

査証… 66

空港から市内へそして宿へ… 66

強制両替FECについて… 66

宿泊施設… 67

食べ物事情… 67

交通機関… 68

国情及び人柄… 68

見所… 68

その他… 69

1.仏教の影響

    1. アジア旅日記No.05 ゴールデンランド ミャンマー1998年
  1. 1.1人々は大変穏やかです。
  2. 1.2栄え続ける仏教
  3. 1.3宗教は麻薬?
  4. 1.4宗教あれこれ
  5. 1.5二つの道
  6. 2.01国内の大動脈は何なのか?・
  7. 2.02各地域で都市が独立して存在している。
  8. 2.03経済は瀬死の状態でもありそうでもないのです。
  9. 2.04チャットの急騰
  10. 2.05バブルの弾けたヤンゴンの経済
  11. 2.06多くを輸入に頼る現状
  12. 2.07経済封鎖でもびくともしない現状。
  13. 2.08経済の支配は中国系とインド系に握られています。
  14. 2.09アグリビジネスで栄えるラーマンさん
  15. 2.10アジアの富み、隠し資産の金の目減り
  16. 2.11列車と船とトラックの輸送
  17. 2,12煙草の価格はこうも違う(パイン銘柄)
  18. 2.13個人の直接送金は不可能
  19. 2.14今後の発展はどうなるのか?
  20. 3.1旅行者の数は年間約10万人
  21. 3.2観光の目玉はあるのでしょうか?
  22. 3.3盗難などの厳しい措置は96年の観光年より
  23. 3.4何でも外人価格
  24. 3,5弗現金とFECの差違
  25. 3.6観光産業とGNP
  26. 3.7観光客からの影響
  27. 4.1悩む大学生
  28. 4.2初等教育の充実
  29. 4.3.教育昨今
  30. 5.1汚職天国、プレゼントという表現
  31. 5.2インドの軍事力の強大さ
  32. 5.3回教徒と仏教徒の抗争
  33. 5.4ミャンマーの坊ちゃんとの会話(元活動家)
  34. 5.5軍事政権への道
  35. 5.5アウンサン女史とダライラマ・
  36. 5.6陸路の国境は開くのか?
  37. 6.1ミルクテ-とモヒンガ
  38. 6.2インド人の憂鬱
  39. 6,3丁寧な言葉使い
  40. 6.4インドの数回にわたる文化侵攻
  41. 6.5インドの偉大さを再認識
  42. 7.1植民地風のカラオホテル
  43. 7.2近代史への流れ(列国の植民地化)
  44. 7.3イギリスの統治と政策
  45. 8.1第二次世界大戦
  46. 8.2新しい訪問者
  47. 9.1パガンへの船の旅
  48. 9.2レオイクスプレス
  49. 9.3バス、ラインカー
  50. 9.4ピー行き急行バス
  51. 9.5カラオの列車はすごいおんぼろ
  52. 9.6ヤンゴン~マンダレーの列車は?
  53. 9.7チャリンコタクシー
  54. 9.8サイカー
  55. 10.1ヒンヅー寺院とモスクが並ぶ
  56. 10.2都市の個性
  57. 10.3今日も停電
  58. 10.4都会と田舎
  59. 11.1給料あれこれ
  60. 11.2ファッションあれこれ
  61. 11.3清潔の概念
  62. 11.4夢あれこれ
  63. 11.5映画とビデオ
  64. 11.6男女交際
  65. 11.7闇価格
  66. 12.1ミャンマーの謎
  67. 12.2落っこちたトマト
  68. 12.3ガラクタ屋
  69. 12.4再びミャンマーを考える
  70. 13.1マンダレーヒルと周辺
  71. 13.2パガンの夕日(遺跡と夕日)
  72. 13.3インレーの市場の活気は5日に一回
  73. 13.4ピーから眺めるイラワジ川
  74. 13.5ゴールデンロック(落ちそうで落ちない金の石)
  75. 最後に
  76. ビルマ旅行事情
    1. ② 査証
    2. ③ 空港から市内へそして宿へ
    3. ④ 強制両替FECについて
    4. ⑤ 宿泊施設
    5. ⑥ 食べ物事情
    6. ⑦ 交通機関
    7. ⑧ 国情及び人柄
    8. ⑨ 見所
    9. ⑩その他

1.1人々は大変穏やかです。

ミャンマーに入国すると何となくホットした心の安らぎを感じるのは私だけでしょうか?インドからネパールへ入国すると多くの旅行者が安堵感を持ちます。北インドから南インドへ入っても同様な安らぎを感じます。この土地の人々の顔つきは極めて穏やかな表情を示しています。

人々が身につけているものの多くは男女共昔からの現地スタイルなるロンジーというものです。今でも早朝にはお坊さんや尼さんが托鉢に回っている光景を頻繁に見かけます。人々は何のためらいもなく寄進をしています。ある人は少額なれどもお札を、ある人はご飯を、ある人は煙草を捧げています。ヤンゴンからマンダレーを夜行バスで移動すると、朝食はメッテラ付近となります。まだ夜が明けきらない薄暗やみの中を托鉢する僧や尼僧達の行列が延々と続くのを見かけました。これは一体いつ頃から始まったものでしょうか?そして今後も永遠に続くのでしょうか?この光景は何千年の間も止む事なくこの国では続いた日常生活の一環なのではないでしょうか?聞く所によると自分達の食べ物を削ってでも僧侶には自由をかけないのが美徳とされるミャンマーです。

最近のヤンゴン市内は車の洪水や高層建築の増加で何となく騒がしく感じますが、それはアジア諸国のバンコクやクアラルンプールそしてジャカルタ等のような巨大首都に比べるとまだまだ静かです。今でも外界から取り残されているのではないかと錯覚すら感じる事もしばしばです。寸ヤンゴンの市内を外れると広大なる田圃地帯が広がります。勿論ヤンゴン自身も緑の多い町となって感ずる事でしょう。市内や郊外を問わずにあちこちに仏塔(パゴダ)がさんさんと輝いています。通称ゴールデンランドとも呼ばれるこの国の由縁です。

パゴダと並んであちこちに僧院が数多く存在します。大変に信仰熱心な国民である事を痛切に感じます。仏教徒の男子は生涯の中で最低7日間を修行僧として暮らし仏教の教えを実践するのが義務とされています。男性の僧侶だけではなく女性の尼さんの姿をも時々みかけます。この期間を通じて人々は仏教を学び、それぞれに寄進を受ける身分と寄進をする身分の双方を休験する事が可能となります。国内外を問わず聖地の巡礼も盛んなようです。インド各地の仏跡には必ずといって良いほどビルマ寺があります。ピンク色の袈裟を纏ったミャンマーからの尼僧さんをしばしば見かける事があります。

バゴーで小さいモナストリ(僧院)を訪ねて見ました。木造のひなびた僧院です。電気もなく質素な小屋で3人の僧侶が共同生活をしています。彼らの生活は喜捨でまかなわれています。

夕方訪問したのですが、お茶とビスケットの接待を受けました。其の中の一人の僧は45歳を過ぎていますが未だに独身だそうです。どうやって勉強したものか、彼はきれいな英語を話します。ともかく静寂が漂い清く正しい暮らしぶりです。この雰囲気がビルマ全一体を象徴しているかのようでした。

白常生活に於いて仏教の教えが浸透しているこの園の光景は我々に大きなインパクトを与えてくれます。人間が穏やかであれば、そこに住む動物までも穏やかに見えて来るものです。仏陀の五つの教えを尊び、

盗難等の犯罪も殆ど無く今も平和そのものを感じさせる風土です。この’地上にこれと類似した土地があるのでしょうか? この国を旅していると、近代化する事が進歩であると我々が勝手に判断していた事に大きな戸惑いを感じさせてくれます。停電が多くても、TVが無くても、バスの運行回数が一日に数本しか無くても人々の生活が成り立つ事を教えてくれます。ミャンマーに於いて政権の交代が過去の歴史に何度かあったにせよ、人々は仏陀の教えを忘れることなく伝え続けた証ではないでしょうか?

この国の最盛期はパガン王の栄えた1044年~1287年迄の約240年間といわれています。最終的にはクビライハンの軍隊が侵入して滅びたと言われています。しかしパガンの寺院は線香の灯が絶える事無く参拝者が続いているのでしょう。その事を想像するだけで感動せざるを得ません。

さて一体何故ミャンマーでは極めて穏健な空気を感じるのでしょう。ミャンマーは決して単一民族国家とはいえません。この国の国旗が示すようにシャン族、カレン族、ビルマ族など主要なる6つの民族からなっています。宗教を考えても日本のように95%が仏教徒ではありません。都市部へ行くと回教寺院や教会を見る事が出来ます。 マンダレーでは回教徒は2割以上と言われています。しかしミャンマーの場合民族が別れていてもその差違はインド国内においてのベンガリ人とタミル人のような極端な開きはありません。宗教の分布も大都会をのぞいて農村部ではほぼ100%に近い仏教の普及率です。ミャンマーを強いて表現するならば、疑似単一民族国家といってもよいのではないでしょうか?それが穏やかな社会を構成してきたように思います。

アジア地域をこの視点から眺めると、タイランドでは南部にかなり数の回教徒がいるそうで

すが、大半が民族はタイ人で宗教は仏教徒で構成されています。そこに一種の穏やかさを感じます。バングラデッシュは一見人口が過度に集中した強烈な国というイメージがあります。しかしこの園も実際には以外と穏やかな国と映ります。厳密にいえばバングラデッシュは単一とはいえません。仏教徒の人

口も東部ではかなりの数字です。ヒンズー教徒も全国で10数%占めています。しかし国民の大半が回教徒であり且つバングラ人である事は単一民族、単一宗教の環境が社会の安定化に寄与しているのを裏付けています。バングラデッシュの場合は経済的な貧困がその社会に緊張感をもたらしている様に感じます。

複合民族国家で色々な宗教と言語が入り交じっているインドでも地方の田舎に入り込むとホットする事があります。その地域には文化の混在が少なくそれが原因で何となく安らぎを感じるのではないでしょうか?カルカッタは様々な人種で構成されている街です。しかしこれは市街に於いての話であり、一歩郊外へ行くとほぼ100%ベンガル人で且つヒンヅー教徒で構成されています。これが穏やかさの源なのかもしれません。

 

1.2栄え続ける仏教

この国では長く仏教が栄え続けました。今でも国民の大半は仏教徒です’.インドで発祥した仏教の教えはインドで根を張る事はなく他の国に伝播しました。東は日本、南はスリランカ、北はモンゴル-と広がりました。今でも多くのアジア諸国で深く信仰されています。パキスタンを眺めて見ると今は遺跡となっていますが、一時期ガンダーラという地で栄えた事が知られています。仏教の教えは当時現在のアフガニスタンの中央部まで拡大しました。東に眼を向けるとインドネシアの中央部のポロブドールにも巨大な仏教遺跡があります。しかしこれらの両国の現在は圧倒的に回教徒に支配されている土地です。両地域とも現在は、単なる遺跡となり当時栄えた仏教が現在に受け継がれていないのが現実です。

数千年を通じて仏教の教えが受け継がれて来た国としてはタイやラオス、カンボジア等があげられましょう。最近の仏教と園内情勢の関係を眺めてみるとタイランドはベトナム戦争以降急激に生活がアメリカ化し徐々にそのライフスタイルを変えてしまいました。ハンバーガーとコークをほおばりながら仏教の聖典を読んでいるように見えます。カンボジアは内戦に明け暮れ国のあちこちの地雷がいつ爆発するのか恐れながらのお寺参りとなります。ベトナムは昔から中国と国境を接し対立関係にあり中華思想の影響を強く受けているのではないでしょうか?

共産主義政権下にあったり資本主義政権の下にあったり、どうもこれらの国の人々は金の勘定をしながら寄進しているのではないでしょうか?

スリランカの仏教は、その歴史的経過から眺めると、併存するキリスト教や回教と張り合う形で展開したのではないでしょうか?スリランカの古都キャンデーに親しい友人がいますが、この家の隣りの家族はヒンズー教徒です。向いの家は回教徒です。3軒降りはキリスト教徒です。それぞれに考え方が異なるようで、異教徒同士の交際は殆どありません。私が喋りのヒンズー教徒の家へ遊びに行くと我が友人の家族は何となく不機嫌になります。このような環境では自己主弓長を強くしないと暮らしていけません。

同じイスラム教でも中近東の砂漠地帯で育った回教と、インドネシアのように熱帯雨林に気候の下で発展した回教は、その内容が若干異なるはずです。或る宗教は土着の信仰と結びついた形で発展する場合も多く見うけます。それぞれの土地に於いて宗教は風土環境に左右され変化しつつ現在に至っているようです。

インドではヒンズー教に押され今は極めて僅かな人々が仏教を信仰しています。ネパールでは仏教とヒンズー教が融合した形が一部で見られます。チベットでも仏教が信仰されていますが、これは基本的にかなり異なるものとされています。こうして眺めて見ると純粋に仏教の教義を長期間に渡り守り続けた土地はどうもミャンマーにあるように思います。

 

1.3宗教は麻薬?

オーム真理教の事件は数年前に話題にならない日がなかった程センセーションを巻き起こしました。この宗教団体は信者を完全にマインドコントロールしていた事も明るみに出ました。宗教は麻薬であるという言葉が証明されたようです。

これをミャンマーに置き換えて見ましょう。オーム教での上層部の指導者達が軍事政権だとすれば両者の共通性が見出されるのではないでしょうか。ミャンマーで、これ程迄に熱心に信仰心を持ち続ける事が出来るのは何故でしょうか?外部の社会の目からすれば人々は一種のマインドコントロールを受けているのではないかという印象を受けます。ミャンマーの軍事政権が日本のオーム真理教の幹部世界征服な

る野望を持って殺人等を唆しているわけではありません。逆にミャンマーは人間の欲望が去勢

されたが如く穏やかな道を歩んでいます。しかしミャンマー国民の全てを支配下に置く手段とし

て宗教を利用したマインドコントロールが入り込んでいないでしょうか?

数十年間続いた半鎖国政策に依って外部の社会を知る事なく時間が経過し、人々の思考や価値観は我々のそれとは大きく開きを生じたようです。オーム真理教の信者達はコントロールを受けたとは感じていないでしょう。同様にミャンマーの仏教徒もそれは感じていないと思います。指導者層に依って国家の体制がこのように変化出来るのはどうも宗教を利用したマインドコントロールにあるのかもしれません。

仏教が浸透しその教義に従えば従うほど種、社会の近代化が阻害されている現象が沢山あります。回教の社会には一年に29日間の期間を設けて断食の月があります。この期間に入るとたちまちにして生産性がダウンするという話は良く耳にします。ネパールでは毎月お祭りがありますが、その多くは宗教に関連しています。ネパールの人々はお祭りが好きで仕事をしない怠け者の国民という評価も一部では在るぐらいです。産業の発展を優先として考えている社会に於いては宗教の浸透は産業拡大の障壁となっているようです。

しかし大きい視野に立って考えて見ると宗教というものは、人類が物質的にならない様にブレーキを架ける役目も担っているのではないでしょうか?宗教の浸透はすなわち精神性の発展とも読み替える事が出来ましょう。ですから現代の物質優先の価値観の中で育った我々が宗教に浸っている国に異様さを感じるのであって、それを信仰している社会にとっては何ら疑問も持たず健全な精神の発展が進行しているのかもしれません。

仏教の教えはそんな意味で全てを包み込んでしまうような何かを持っているのではないでしょうか?ここミャンマーの托鉢姿を見ていると僧侶はその家が仏教徒であろうと回教徒であろうとヒンズー教徒の家であろうと関係なしに立ち寄って行きます。そして異教徒の人々も何ら疑問を挟む事もなく寄進をしている光景が目に入ります。

 

1.4宗教あれこれ

ミャンマーではお坊さんの事をポンジーと呼ばれています。まだあどけない顔つきをしているやんちゃ小坊主が沢山います。彼らの多くは田舎育ちです。政府の学校へ通うに不便な場合や家庭が貧しくて学校へ行く事の出来ない子供たちは、僧院で読み書きの訓練や仏教の勉強の機会を持つ事が出来ます。この事はチベット仏教でも似たようなシステムがあります。師となる僧侶から色々な事を学ぶと同時に寺院内での雑用を引き受けます。托鉢にも廻る事もあるようです。・最近マンダレー一等の観光地のゲストハウス前に陣取り観光客専門で喜捨をせがむませた小坊主も登場しました。僧院での生活を通じて人はどのように生きるべきなのかを学ぶ事が出来ます。少しばかりうらやましいと思いませんか?現在の日本では算数や理科や英語等を教えてくれる所は沢山あるのですが、人はどうやって生きるべきかについて誰も教えてくれないのが現実ではないでしょうか?

ある友人との話ですが、この国での仏教界の影響はすごく大きいとの事です。人々は自分たちの食べる物を削ってもポンジー(僧侶)には、捧げ物をする習慣が強いそうです。その見返りとして、僧侶は人生如何に生きるべきかを説教する義務があるそうです。自分たちの家では、おかずは1品しかないけども、お寺には必ず2品あるそうです。とにかくお寺の財産は莫大な物があるように見受けられます。この事を考えて見るとまさしく宗教は麻薬にも似た性格を持つのではないでしょうか?

多くの乗り物は僧侶には、使先的に席を与えられています。超満員の乗り合いトラックにしろ市内バスの混雑ですら僧侶に取っては何ら不自由なく移動出来るのがこの国の光景です。先日乗船したマンダレーからパガンへ行く船では庶民は下部デッキでごった返していましたが、僧侶のグループは上部デッキの一角を利用し混雑に巻き込まれる事なく悠々と船の旅をしていました。そういえば同じ仏教国のスリランカのバスでは前部の2席は僧侶席と明記してありました。・

庶民の家は木造で極めて簡素ですが、お寺は立派です。仏教遺跡は石造りでしっかりしたものとなっています。一体どこからあのような材料を用意したものでしょう?最近日本のお寺も立派になりましたが、一時期は荒れ寺とか古寺などという存在があってまるでスラム地区の建物と何ら変わらない寺もあったのではないでしょうか?ここミャンマーでは、何処の町や村でも一番目立つ建物はパゴダか寺院です。これがその町のシンボルであり、道に迷っても仏塔を目印に歩けばわかり易いのです。日本だと一時期は生命保険会社のビルか銀行が立派な建物でした。最近バブルの崩壊で何かと影の薄い存在となりつつあります。今はNTTの中経塔が町の目印となる場合が多いようです。この国での仏教優先主義は何かしら徹底したものを感じてしまいます。

寄進の熱心な国です。私も今回カラオという所で小さな寺院を参拝しました。高額ではないのですが、比較的まとまったお金を寄進したら何かしら台帳に氏名を書き込まれ「貴方の資金で当寺院はタイルを一枚買う事になりました。」という領収書をもらいました。そういえば寺院のあちこちに誰がいつ・だれが・どれだけ寄付したかをべたべたと書いてあるのを見かけます。

20年程前の話ですが、これはお隣のタイランドでの出来事です。日本の農業指導が奏をなして収穫が伸びたのはよかったのですが、その農民は所得のあがった部分を全ていつも世話になっている寺院へ寄進をしたという事です。我々の考えでは過剰所得の部分を次の生産性をあげる為に投資するのが当然と考えがちです。タイの農民の思考が不可解に思えます。

しかし立場を変えて眺めるとこれでも良い気もします。常に我々は生産性の向上とか効率等を考えがちですが、これらの行動が次第にエスカレートして際限がありません。我々は益々その深みにはまって抜け出す事が出来なくなるのではないでしょうか?果たして生産性の向上を追い求めた結果として人類は幸福になれるのでしょうか?最新の高性能の機器を利用した高品質、高水準なる社会に住む人々にとって、心の悩みを解きほぐしてくれる装置や薬は見当たらないようです。ここに仏教の定義の奥深さがあるのではないかと思います。

 

1.5二つの道

インドの有名な哲学者のクリシュナムールティという人が二つの道という本を出版し、現在進行している人間の物質欲に警告を与えています。現代社会で発展という概念は一体何を意味するのでしょうか?科学技術の発展は永遠にそれを追求し続けて終点は存在するのでしょうか? 発展の意味には物質的な面における発展と精神的な面に於いての発展という二つの道が存在する事を書いています。インド社会はこの両者が混在して成り立つ社会であり、日本は物質的発展に重点が置かれた社会、そしてミャンマーは精神的発展に重きを置いた社会と見るのは間違いでしょうか?

 

2.悩める経済

2.01国内の大動脈は何なのか?・

ヤンゴンから深夜の特急バスを利用して道中気がついたのですが、道路状況が極めて悪いのです。ヤンゴンからパゴーまでの80キロは8車線の幅広い道なのですが、それから先は、2車線しかなくしかも舗装の状況がとても悪くでこぼこ道の連続です。途中、橋のある所は車同士がすれ違いできなく待機しなくてはなりません。高速バスが疾走する中、牛車の集団が列をなして深夜にも拘わらず作物を運んでいます。さらにこの国の交通規則は右側通行なのに日本からの中古のバスは右ハンドルです。危曝極まりない状況です。幸い多くの車両には必ず安全係りが同乗し左側の交通状況を逐一連絡する役目を引き受けています。元来大概の国では必ず大動脈的な道路網があるのですが、これではヤンゴン~マンダレーが大動脈といえるのでしょうか?

隣国のタイでは全ての道はバンコクに通じているといっても過言ではありません。東西南北に立派な道路網が整備されました。西隣のバングラデッシュでも全ての地方都市と首都ダッカとはしっかりと結ばれています。ネパールでもインドの国境と首都カトマンズを結ぶ路線は重要視されネパールにとっては死活問題ともなる重要な道路網です。日本でも一昔前は東京から大阪の間の道路が幹線として整備されました。列車も新幹線が走り年毎に交通量や物流が活発になって行きます。

どうもこの国は様子が違います。前回の旅で、日中の列車に乗ってタ-ジからパゴーまで行きましたが、どうもこの国の不思議さを感じてなりません。都市の発達と鉄道とは密接な関係が成立するのが普通です。鉄路の拡張に沿って都市が発達して行くのが常識です。所に依っては鉄道の駅が郊外に設置され市街部へ入り込む事を極力避けている場合もありますが、数年後には鉄道駅を核として都市が発達しています。鉄道は都会と都会を結ぶ手段として物資や人々の交流に大きな役割を果たしている事を多くの旅で経験出来ます。

ここではどう見ても、村と村を結ぶ鉄道網にしか映りません。となれば河川交通はどうなのでしようか?

この国では古くから河川交通を手段として都市や市場が発達した経緯があり今もそれが生きているとも言えましょう。ヤンゴンとマンダレー一間の物資の輸送は今もこの方法に頼っているのが現状です。河川を利用した物流は古来の生活の知恵なのかも知れません。水上輸送は各種交通機関の中で最も摩擦抵抗が少なく燃費効率も良く大量の物資を運ぶのに適しています。その場合河川は適当な規模であり、洪水が頻発しては水上輸送の方法は不適でしょう。しかしこの総延長1250マイル(2000キロ)のイラワジ川は理想的な水量と川幅を昔から受け継ついできたのではないでしょうか?ゆったりとした川の流れと共に人の流れそして文化の交流が何千年と続いたのではないでしょうか?

パガンやピーはこの河川に支えられて豊かな文明が栄えたように思います。古代から豊かな川に接した地域には文明が発達するという事を学びましたが、それを実感させてくれる地域の一つかも知れません。ナイル川のエジプト文明、中国の黄河流域、インダス川流域に開けたインダス文明など多くの例が見られます。高度に発達した物質文明が真に豊かなものと断定できるのでしょうか? 2000年という長い歴史の眼で捕らえると日本の工業化は明治以降僅か100 年程度の事にしか過ぎません。しかも日本で急速な経済発展が加速されたのは、つい最近になってからの出来事です。経済発展が文明の進化と言う事に一致するとは限りません。

急速に発展した物質文明の社会での生活は秒刻みとなります。フラストレーションも蓄積されて来ます。各種の社会問題が深刻化していきます。精神の豊かさをも伴ってこそ文明の進歩と呼べるのではないでしょうか? 国家の大動脈があろうがなかろうがミャンマーはイラワジ川の流れにも似て悠々と流れているように思えてなりません。

 

2.02各地域で都市が独立して存在している。

どうもこの国ではそれぞれの地方都市が別個に経済圏を設定して成り立っている様子が伺えます。国内間に於いての物資の交流が必要以上に少ない様子です。裏を返せば経済的に貧しいから物を買う事が出来ないので物流が少ないという答えも出るでしょう。出回る商品の種類は、近隣諸国よりも圧倒的に少なく感じます。国内に於いて工業製品の生産量が少なく多くは国外からの輸入に頼っています。商品の調達はヤンゴンと直結する必要がなく国境を通じて流れる事で充分その機能を果たしています。現在でもバングラデッシュとの国境付近の都市へ行くには飛行機以外は大変時間がかかります。道路は通じておらず、船の輸送となり、しかも3日以上かかります。必要な物資は隣国のバングラデッシュから大量に海のルートを利用して物資が入り込むのも当然の事でしょう。闇貿易で成り立つ経済であれば、国境を接した地点との交流が首都との交流よりも優先するのが現実です。ミャンマーの経済はそう言った構造を長年継続してきました。マンダレー一には最近ミャンマー語が話せない人が増加したそうです。

国境付近の中国人は、その時の状況に応じて経済難民として両国を秘密裏に住み分けていると言われています。昔はインド系の人々が国境を越えてインドへ密出入国したそうです。これはかなり危険を伴ったようです。麻薬王として知られるクンサー氏は、現在政府と協調路線を歩んでいますが、当時はシャン州の一角で独自の軍隊を持ち、教育設備や医療施設を完備していたと言われています。現在紛争が続いているカレン地区にはゲリラ部隊なる開放戦線が暗躍しています。

彼らは国境との交易を通じて武器弾薬や日常の生活物資を容易に確保する事が出来ます。このように国境貿易はヤンゴンの中央政府の目から遠くに存在し、国家の統一を阻害する要因の一つでしょう。

 

2.03経済は瀬死の状態でもありそうでもないのです。

ミャンマーの工業化は全くと言って良いほど遅れています。先日友人の紹介でマンダレーの製粉所を見学する機会がありました。その設備の古めかしさはどう表現して良いものか混乱してしまいます。まず建物自体は木造堀立て小屋に近いものです。

製粉機はビルマ製で、これでも稼動するのかと思われる程旧式な装置です。しかしインド系のビルマ人であるオーナーは製品を国外へ輸出してかなり金を稼いでいる様子です。自宅には衛星放送のアンテナが立っていました。最近鼠が増えたので工場を改装中とかで、床をセメントで固めている最中でした。どうもキツネに包まれた感じがしないでもありませんが、これも現実なのでしょう。

旅の道中で会った日本の会社役員の人によれば、ミャンマーで工場を見学したそうですが、全く驚いてしまったそうです。あまりにも基本技術の無さで手の施しようがない事を強く感じたとの事です。

ここでは先進国からの技術の移入には程遠き状態なのです。もしかしたら何処の国からも見捨てられる方向にあるのではないでしょうか?また近隣諸国に於いては技術移転をするよりも付加価値の高い商品を売りつける事が自国の利益に繋がるとして、一向にその気配は出てきません。

この国では第一次産品のみが輸出の対象です。其の外の工業製品の多くは隣国からの輸入に頼るしかありません。近年資本の自由化を推し進め幾分か工業化に乗り出したようですが、道は大変遠くにしか見えてきません。ビルマとの合弁事業をするにあたり現地を視察した日本人はインフラの悪さや現在操業中の工場のあまりにもその古めかしい設備に嘆いて帰ったそうです。

工業製品の殆ど全てを諸外国から頼らなければいけない現状は我々日本の経済から見ると異常です。この国の人々からすれば最近の日本の食料自給率が60%程度しかなく、その多くを輸入に頼っている事を知って驚いています。これは彼らの日からすれば異常な事に映ります。果たしてどちらが幸せなのでしょうか? この国の経済の動きはどうなっているのでしょうか?

ネパールに於いては最近、隣国インドの力を借りて自国の工業化を始めたようで、その成果は着実にあがってきました。食品加工産業もある程度進展しました。 薬品の一部もネパール製が登場しました。

工業化の意図はその国が充分な労働力を吸収できない場合の切り札ともなります。国全体が農業だけで成立しないから必然的に工業化を計り産業構造の転換を始めようとします。また観光産業のようにサービス産業へ目を向ける国もあります。多くの国が工業化に熱中している中でこの国は特殊な状況に置かれているようです。しかし工業化が進まない事は無公害国家とも呼べるでしょう。産業廃棄物の心配もなく公害にも悩まされる事もなく人々は平和に暮らせるのかも知れません。最近はヤンゴン市内での排気ガスが増えて来たようですが、乾季の真っ青な空に金色のパゴダが堂々と輝いているのがミャンマーの姿ではないでしょうか?

 

2.04チャットの急騰

今回一ケ月の滞在の間にミャンマーの通貨も大きく変動しました。どちらかというとチャット高に触れたのです。数ヶ月前は-ドルの値が350チャットを越えた事があるそうです。現在は対ドルのレートで250チャット前後に落ちついています。パガンにいた時には一ドル200チャットを割った事もありました。地方都市では何処でもそうですが、首都に比べるとかなりレートが落ちることがあります。このレートでは昨年とあまり開きは出ていないではないですか? 私は一ドル260チャットのレートで交換したミャンマーの貨幣を20,000チャット分準備していたので何とかこれで獲りの滞在日数を過ごせる勘定です。手持ちのチャットを使い果たして新規に買おうとする人にとって畔かなりの痛手です。現地の物価が一気に3割から4割上昇した事となります。

どうもこの事情は隣のタイランドやインドネシアの通貨回復の影響を受けての高騰と思えます。国境での交易の実態はよく解りませんが、私の推測では隣国のタイランドの通貨とかなり連動しているのではないかと感じています。アセアン入りをした影響なのでしょうか? それにもまして両国の密接な経済的なつながりは昔からあるように思います。

 

2.05バブルの弾けたヤンゴンの経済

お隣のタイのバブルが崩壊した事を受けてミャンマーもまた同様な現象が発生したそうです。最近のヤンゴン市内でのビルの乱立がそれを物語って居るでしょう。ここ数年前から急激に国外からの資本が流入しそれらを利用してヤンゴン市内では盛んにビルの建設工事がはじまりました。

今はその価格が高騰した時の3割程度ダウンしました。各地にがら空きのビルが増えてきました。今後も経済の活性化がなされないと立ち並んだ巨大高層ビル群の価値は下落を続ける一方でしょう。

マレーシアのペナン島のジョージタウンにはコムターという有名な高層ビルがあります。これはずいぶん前に国家のプロジェクトとして建設されたのですが、未だに60階建ての円形のビルは今も空室だらけの施設です。これが計画された時から不評でした。この地域の経済規模を無視した巨大な商業ビルの存在もバブルの崩壊と共通したものがあると思います。

さて話は余談となりますが、タイのバブルの崩壊及び通貨危機は一体どのような経過を追ったのでしょうか? 第一の理由としてタイの政府が対ドルのレートを過去13年間の間固定していた事があげられるでしょう。もし米国とタイランドのインフレ率が全く同一であれば購買力平価は同じに進行し問題は起きなかったでしょう。しかしタイランドは年率7-8%のインフレ率を、ときには2桁で進行した年度もありました。勿論この事は自動的にドル換算で計算すると国民総生産の金額が統計上跳ね上がる結果となりました。賃金も上昇を続けドル表示では倍増しました。訪問するたびに物価上昇を肌で感じました。すなわち、先日迄の通貨のレート(一ドル=25バーツ)はタイランドの実際の国力を反映していなかったわけです。

第二に一旦工業化に拍車がかかったように見えたのですが、よく観察してみるとこの国では自国の目玉商品として一体何が生産できたでしょうか?どうも単なる組み立て産業のみに頼っていたのが本音かと思います。盛んに技術移転等という言葉が横行し、あたかもそれらが進行したように見えましたが、実際は何も技術移転はなく空白のまま現在に至ったのでしょう。日本で出回るキヤノンのコピーの機械の多くはタイランドでの組み立てによる販売です。よく考えてみるとコピー機器は、その部品の多くを日本から輸入し現地での単なる組み立てをしているのみです。この機器は大きさとか精密度に関して検討すると超精密捜器でもなく構造も比較的単純な商品です。 現地部品の構成率を高めるとしてもその部品自体も単純なものが殆どです。

カメラや時計等の生産も国内で可能なのですが、国際的な競争力は果たしてあるのでしょうか?香港製やマレーシア製のように競争力があるのでしょうか?しかもこれらの工業製品を製造する為の装置や器材等の資本財の輸入が必要な筈です。部品も輸入しなければなりません。こうして貿易収支は常に赤字を続けていたようです.その赤字を埋める政策として資本収支で帳尻を合わせる事が続きました。通貨を実勢より高く保つ事に依って見かけ上は平静を装う事ができました。この反面対外債務もかさむ一方となり現在に至ったようです。

ここにそれぞれの国の実力というか真の経済力、工業力、科学水準が表出してくるのではないでしょうか。例えば電子レンジは日本が長年の間特許権を得てマイクロウェーブの発生装置を独自ものとして世界にヒットした商品です。数年前にこの特許がきれて韓国が独自で製造し世界中に格安の商品が出回る事となりました。韓国は例えそれが模倣であっても、自国で一式を製造出来る技術があった事の証明です。日本の経済力の根源は石ころを輸入して極めて付加価値の高い商品に転化出来る知識と技術に在るのではないでしょうか?

隣のマレーシアは昔から教育にも重点を置き知抜集約型の産業の育成に国家は取り組みました。その効力があったとみえて昨年度のPC関連商品の輸出額は過去最高に達したと新聞では報じられていました。さてタイランドでは現在何が輸出できるのでしょうか?何となく振り出しに逆戻りしたような印象をぬぐいきれません。結局繊維関係しかないのではないでしょうか?これらに関しても対ドル25バーツのレートではその外の発展途上国例えばバングラデッシュやインドの製品のほうが遥かに安く交易されているという事実があります。(現在のレート45バーツであれば晶質等を勘案すると競争力があるように見受けられます)

第3の理由として国外から流入した資本が土地や建物の投機に回り実際の再生産の為に使用されなかった事ではないでしょうか?土地や建物、株価等はそれらが実際に売買され資金が移動すれば再循環するのでしょうが、それらは売買される事はなく単にその会社の資産の一部として帳簿価格という架空の数値が膨張したのみで終わっています。流入した資本が正常に利用されず、真の目的は何処かに置き忘れていたようです。もしこれらの資金がインフラの整備や将来の発展の為の基礎技術の開発として利用されていたならば国家の経済力はその実力を増す事が出来たものと思います。

わかり易く説明すると或るパン屋さんが将来の発展を期待して銀行から借金をして巨大なマンションを造り経営に乗り出した事にも似ています。元来借りた資金をパンの製造に関した研究開発やコストダウンの実施に用いるのであれば、そのパン屋さんはバブルの崩壊を経験する事なく事業は順調に運営される筈です。ここで投機という心理が人々を惑わせたのではないでしょうか?

さてインドに於いてはバブルの崩壊という現象が発生するものでしょうか?インドの主要都市の構造を眺めると英国の残した植民地時代の建物群という巨大な社会資本の充実がありますから現在発生した東南アジアのそれとは異なった状況を呈するのではないでしょうか?土地価格の上昇は当然の結果として存在しますが、建物の新築ラッシュはごく一部の地域を除いて現れていないようです。バブル崩壊の現象を示したアジア諸国での都市の構造は近年になって人口増加をになった土地です。′

戦後の時点では、これらの都市の規模はそれぞれに小さかったはずです。近年になって世界経済が拡大し自由化を推し進められるにあたり急速に資本も移動し始めました。平地で木造建築の多かった東南アジアの諸都市は絶好の資本投下の機会を得る事となりました。外からの投資に依って将来の発展性を先取りした形で建築ラッシュが続いたように感じます。

その点インドの市街には、既に英国に依って建立された多くの超ロングライフの石造りの巨大な構築物が多く残っています。一部の手直しのみで現在も利用する事が可能です。従って他の国の様に建築ブームが広がらない要素を抱きかかえているのではないでしょうか?

 

2.06多くを輸入に頼る現状

ミャンマーでは一体工業製品を自国で作れるのでしょうか?市場を覗くとその多くの商品は外国からの交易に頼っています。農産物は豊富に取れるのですが、それらを加工する力に欠けているのが現状です。トマトが取れてもトマトソースやケチャップが作れないのです。みかんが取れてもオレンジジュースが作れないのです。魚が沢山取れてもカンズメが作れないのです。

簡単なプラスチック製品すら輸入に頼っています。建築資材の中で地元が準備出来るものは木材のみではないでしょうか?セメントは一応工場があるようですが晶質は期待できないそうです。中級以上のレストランに座ると一体この国で生産出来るものは何であろうか眺め回して見ると殆どが外国製品で埋め尽くされているのが分かります。調味料や醤油なども隣国のタイや中国の製品となっています。純粋なこの国の品物といえば農産物しか無いように見受けます。しかし農産物の収穫を上げるには肥料や虫除けの薬等が必要になります。これらも輸入に頼るしかありません。レストランの内装も完全に外国産の資材がない事には、成り立たないようです。

こうして眺めて見るとインドや中国の豊かさを改めて実感せざるを得ません。喫茶店に置いてあるマッチ箱を見るとこれは中国製という事が一目僚然です。ミャンマーを走っている車の多くは日本製の中古車です。インドネシア産のビスケットがシンガポールの商社の手を経由して店頭に並んでいます。台所ではかなりの量の味の素が利用されています。粉石鹸や化粧石鹸そして歯磨き等もビルマ製ではありません。食器や鍋等の調理器具も中国やタイそしてインドからの輸入に頼っています。市場をのぞいて現地で入手出来るものといえば炭ぐらいな物でしょう。とにかく一風変った経済の仕組みがここでは成り立っているのです。

余談ですが、店頚ではインド製や中国製、等世界各国からの薬品がならんでいます。私が購入した風邪薬はインドネシア製の商品でした。まるで薬品国際見本市と呼んでもおかしくない現状です。友人にミャンマーでは薬を造っているのかと質問したらビルマ製もありますが、高価ですから庶民の手に届きません。しかし晶質は国際規格なのですよと胸を張っていました。何故でしょう?

 

2.07経済封鎖でもびくともしない現状。

さて、ミャンマーの最近の情勢はこの様に多くの工業製品を隣国からの輸入に頼っているわけです。民主化を求めて時々不穏な動きが発生します。同時に、西洋諸国からの経済的制裁を部分的に受ける訳です。アメリカの企業が投資を始めたかと思うとすぐに引き上げをします。民主化の要求に歩調を併せて政治的背景を配慮しての行動でしょう。そう言った事で容易に工業化への道は進まず、一進一退を繰り返しています。しかしこの国をゆっくりと旅をすると国境を通じての交易の重要性が、はっきりと見えて来ます。マンダレーと中国の国境はバスで12時間の距離にあります。トラックでは一日で充分物資を運ぶ事が容易です。タウンジーからはチャイントンそしてタチレクを通じてタイランドのチェンマイに通じる道路があります。南部のモールメインからはこれもタイランドの国境メ-ソツトへは6時間程の距離にあります。それぞれの国境へは毎日数多くのトラック軍団が往来し、物資の供給を可能にしているわけです。米

国がミャンマーを経済的に封鎖しようとしてもその効力が現れないのは明白です。一時南アフリカの人種差別に対して国連が経済制裁をした事があります。この措置も実際には思った程に効果を発揮出来なかったのが実状でした。医薬品等も卿裁の一部に入っていたようですが、大量にインド製の薬品がアフリカの近隣諸国を通じて国境貿易として流れ込み困る事はなかったそうです。ある中近東の国では諸外国から武器の禁輸を受けたのですが、実際は国連に加盟していない北朝鮮から多くの武器が流れ込みその国はあまり不自由をしなかったそうです。どうも現在のミャンマーはそれらに近い側面を持っているようです。′

この国は、食料自給が可能である限り、原料や工業製品を輸入してさらに付加価値を付けて国外へ輸出しなければ国家の経済が成り立たないという根拠は全く今の所ありません。なければないで済むという開き直りの風土を感じないわけでもありません。元来我々の学んできた経済論によると国家の運営には当初第一次産業からスタートをし徐々に軽工業から次第に知識集約型の産業に移行する事に依って国力を高める事に繋がると学びました。最終的に第三次産業へと移行するものという定義が為されました。

しかしこの経済学も最近はその方程式を変更せざるを得なくなりました。第一次産業から第二次へそして第三次産業へと順序を追って変化するのではなく、例えばネパールのように第二次産業部門を飛び越して観光産業に重点を置き中間の段階を飛びこそうとして.いる国もあります。また中近東の石油国家は昔から一次産業がなく、鞍舵を使っての高菜を基本として発展した国です。それらの国家は原油の輸出と武器の販売という一次、二次産業ともに欠落したままで現代の世界で国家として成り立っています。ミャンマーを観察していると国民が幸せであれば国家がどのような形態をとっていても良いのではないかと感じる事があります。

 

2.08経済の支配は中国系とインド系に握られています。

ミャンマーの経済は主として中国系やインド系の住民に握られているようです。かろうじて政府直接の企業すなわち石油公社や森林資源の開発、宝石の採掘等はミャンマー政府の官僚の手に委ねられているものと思われます。しかしそれらも最近は半官半民となる部類が増えたそうです。

もし現在経済が全て自由化された場合には、現段階ではビルマ人が経済面で実権を握るという事が可能でしょうか?答えは不可能ではないかと感じます。この実例は近辺諸国の例で眺めるとよくわかります。マレーシアの経済は人口の2割程度を占める中国系マレー人の手に依って支配されています。また二億を超す人口を抱えるインドネシアでもその経済力は3%に満たない500万人の中国系の人々によって支配されている事実があります。

何しろ現在の軍事政権の下でもインド系や中国系の商人階級の活動は極めて活発です。各種の情報コントロールや規制が敷かれる中に置いても彼らはその独自のネットワークを駆使して生存しています。ましてや商売の規模が拡大し国際ビジネスともなれば、大きな情報網を抱える華僑や印僑の出番です。他の国の例を挙げてこの事を眺めて見ましょう。

スリランカに住んでいるタミル系の人々は降りのマドラスの大学で高等教育を受ける機会に恵まれました。昔はこの国での医者や弁護士大きな商人の多くはタミル系の人々でした。最近ようやくスリランカは木半を占めるシンハリ人の中にも多くの実業家が出て来るようになりました。ここ迄来るには致十年もの時間を必要としたのです。スリランカでは最近まで経済の実権はインド系(タミル系)の住民に支配されていたのですが、徐々に様子を変えていきました。マレーシアの場合も中国系の人々は台湾やシンガポールの大学へ留学をして実力を貯え経済を支配するようになりました。

一般的に土着の人々は怠惰な性格を持っているケースが多いようです。それも産業発展を拒む大きな要因の一つなのかも知れません。外部からの移民の場合、入国時は自分達が所有する土地を持たないのが常です。そう言った環境で生存して行く為には商売しか道は残されていません。また移民した人々は最低2力国語を話す事ができます。この事も商人としての立場を一層強固なものにして行きます。ひいては経済を支配する事につながります。マレーシアの政策の一つとしてブミプトラと呼ばれているマレー人優遇政策があります。土着のマレー人の力を高める為にあらゆる優遇策が講じられましたが、効果は左程あがらず、徐々にその政策は変更となっていきました。この政策が逆にマレー人を過保護にして実力の向上には大きな成果が上がらなかったそうです。

現在のミャンマーの体制を観察してみると何となく日本の江戸時代に類似した面を感じてなりません。今の軍事政権を徳川幕府に置き換え、商人階級をインド系や中国系住民に置き換えましょう。大半のミャンマー人が農民に該当するものとすればどうでしょうか? 日本の農民にとっての楽しみは時々催される祭事や伊勢参りだったとしましょう。それは、現在ミャンマーでもバスを貸し切っての寺院参拝ツアーが流行しています。商人磨級は巧みに政府と賄賂の授受を通じて肥大化し経済的支配を固めて行きます。まさしく江戸末期の商人階級の台頭と読み替えてもおかしく無いように感じます。情報コントロールのし過ぎでミャンマー国内の社会構造は日本の江戸時代と共通していないでしょうか?

マンダレーをミャンマーの人々に言わせると中国人の町とも呼ばれます.国境が近い事も

あって非合法的に移住するケースもかなりあるようです。この町で比較的大きな商売は中国系の住民により運営されています。中国との関連は国境線が近い事もあって極めて密接です。 隣りのタイランドでもそうですが、タイの経済は数百年も前から移り住んだ中国系タイ人の財閥で成り立っていると言われます。歴史を通じて何度となく人々の交流が続いた事でしょう。或る時は飢健で食べる事が出来ず異国へ流れて来ます。或る時は政治的な難民として、例えば中華民国の蒋介石の賛同者が台湾だけではなく、印度やタイランドやベトナム等へ多く流れていった事を見れば明白です。しかし、そこで民族がナショナリズムを主張すると必ずそこには血生臭い事件が発生します。ミャンマーの今後は果たしてどの様に変化していくのでしょうか?

 

2.09アグリビジネスで栄えるラーマンさん

今回も10年前に知り合ったインド系ミャンマー人なるラーマンさんのお世話になりました。当時は一週間しか滞在許可がなく、ひょんな事で知り合った友人とは今もしっかりと繋がっています。

以前は地元の市場で食料品屋を営んでいましたが、数年前から同じインド系の友人を募って合同で農産物の輸出事業に乗り出しました。最近はかなり景気も良いようです。何しろパジェロなる四輪駆動の豪華な車を事業の接待用として準備してあります。時々私もこれに便乗する事もがあるのです。会社の資金でマンダレー一には支店を開き2エーカーの土地を150万円で取得、ヤンゴン郊外には投機を兼ねて1500万円の別荘を買い込みました。が現在この評価額はバブルの崩壊で1000万円の値打ちしかなく500万円の損害をだしているとの事です。ヤンゴンの目抜き通りに新しく市内事務所を買い求めました。土地別で建物は会社名義で350万円したとの事です。

、時々夕食をご馳走になるのですが、今回はビルの屋上にある有名な中華料理屋で招待を受けました。3人でビールを2本、伊勢海老一皿、やきそば一皿、さらにうなぎのから揚げと地元のウイスキーを一本注文しての豪華版です。この会計はざっと600 チャットすなわち日本円にして3,000円の出費でした。最後に食べ放題の口直しとしてコーヒー紅茶そしてデザートもついての値段です。

ともかく人柄が良く気性の明るいラーマンさんです。10年前に会った時は一週間の滞在でしたが食事は大概彼のおごりで済ませた記憶があります。ある時は竹の掘っ建て小屋のような設備のレストランで極上の北京ダックをご馳走になりました。当時は現在の様にインテリアの整ったレストラン等ない時代でした。当時を振り替えると彼らはそれなりに収入があったのですが、品物を買うにも商品が無くお金の使う場所がなかったという現実があったと思います。

ラーマン氏とは南印度からの旅行者を通じて知り合いとなりました。バングラデッシュの空港で一緒になったハシムさんはラングーン生まれですが、家族一同引き揚げをしてマドラスへ移住しました。久しぶりに友人の訪問を兼ねてヤンゴンへ向う所でした。私が南印度のタミル語を話す事を知って急速に親しくなりました。これがきっかけで彼の友人であるラーマン氏を紹介されたわけです。ラーマンさんは当時私がタミル語を話すのを知り大変喜びました。或る時、何故そんなに親切なのかと聞いたら、貴方が私達の言葉を話すからと答えてくれました。

10年前に彼は空港まで見送りに来てくれましたが、すぐに空港から離れて掃って行きました。ここで余り長くいると秘密替察がいて後日厄介な事となり兼ねないので失礼しますという言葉を残して別れた記憶があります。その時の彼の顔は何かしら寂しそうな表情がにじんでいました。私の察する所、彼はいつの日になったら我々の様に自由に海外へ出かける事ができるのか祖先の母国の印度に細愁を感じていたのではないかと思います。

最近のミャンマーでは商人の地位も高くなりました。観光旅行にはまだ規制があるようですが、商用は推進しています。彼は同じ商売をしている仲間と共に昨年はシンガポールやインド等を商用目的で視察と観光してきました。今年の6月には友人の結婚式に参加する為に南インドに出かける予定だそうです。彼の家には5人の息子がいてそれぞれ小学校に通っています。お父さんも健在で家中、仲むつまじく暮らしていますが、家そのものは決して豪邸ではありません。

最近郊外に別途に家を購入したそうです。インドやマレーシア等から商用の客を迎えて取引をしている光景を見かけます。時々彼の事務所へ涼みにいくと外のスタッフも歓迎してくれます。ラーマンさんはミヤンマー-語の外にタミル語そしてヒンズー語にも堪能です。これが強い武器になっているようです。まさしく商人階級の典型のような気がします。

我々の目からすると奇妙な経済体制にあるミャンマーで迂しく活動を続けるラ-マンさん一家との関係は今後とも長く続けて行きたいと思います。彼の一家の繁栄と幸福を祈りましょう。

 

2.10アジアの富み、隠し資産の金の目減り

アジアの通貨危機の進行と共に国際的な金の価格ががたんと落ちてしまいました。インドでも庶民は自分たちの所有する金の値打ちが下落した事に嘆いている話を聞きました。資金に余裕のある階層では今が買い時なのかと私に相談を持ち掛ける友人もいます。

これらの国では個人の財産の保持の手段として金製品の所有が盛んです。装飾品としての日的のみではありません。特にミャンマーの様に自国の通貨に信頼のない園では当然の結果として銀行業務等は発達するわけはありません。

ミャンマーの通貨には我々が信じられない金額の紙幣が見られます。現在流通している種類でも5、10、20、45、50、100、20、500チャットの札があります。以前90チャットの札もあったのですが、これはブラックマネーの一掃の手段として突然流通廃止となり紙屑同然となった事があるそうです。金の価格は今まで多少の乱高下はあったもののこれほど迄に下落した事はなかったはずです。しかし庶民はやはり金を所有する事でその値打ちが現在の評価でたとえ3割下落したとしても何かと安心感をもっているのも実際の話です。ミャンマーでは外に資産を運用する手段を持たないという背景を加味すれば庶民は以外と平静にいれるのではないでしょうか。日本では、一部の人々が株を所有してその価格が壊滅的に下落し単なる紙切れとなり嘆き悲しむ人もいるのです。今回の東南アジアの通貨危機や金の価格の暴落は世界中に悲

喜こもごもを残したようです。

多くの寺院は寄付金でまかなわれています。熱心な信者からによる寄付金の総額は莫大な富みを蓄積しているのではないでしょうか?国民は貧しいかも知れませんが寺院は金持ちという皮肉な現象が登場します。恐らくこの国に存在している寺院に眠っている金を評価するととてつもない金療となりましょう。佐川急便を通じて100億の賄賂を受け取ったとされる元国会議員金丸氏の話と比較すると容易な面もありましょう。宅急便一個について10円天引きするだけで年間100億の金を捻出する事等は極めて容易なのではないでしょうか?国民一人当たり10個の荷物を取り扱うとすれば年間10億の宅急便を取り扱う事となります。それぞれ10円ずつピンはねすればいとも簡単に100億円の資金が捻出される計算となります。

4500万人のミャンマーの人口が一人2円出す事に依って一億円に近い金が集まるのも事実です。ラーマンさんのグループとこの事について話をしました。「もしミャンマーの寺院に眠る金が生産設備等各種投資に回るものであればこの園の経済は目覚しい進展を遂げるでしょう」と。彼らはそれも全く同感なのですが、「そんな事を公言したら政府から狙われで刑務所行きとなり出られなくなりますよ」という事でした。

しかしこの事は我々が経済至上主義の前提に立っての発想です。現在にミャンマーの状況に於いて経済の活性化がすぐに民衆の幸福に直結するとは限りません。長く仏教の栄える国は滅びる事がないとも言われています。金色に輝くパゴダの方が同様な金額を投資した石油コンビナートやシリコンバレーそして現在の科学技術の粋を集積した原発よりも遥かに精神的豊かさを与えてくれるのかも知れません。

 

2.11列車と船とトラックの輸送

先日マンダレーの友人にヤンゴン~マンダレーの輸送には何を利用しているのかと訪ねて見ました。この区間はトラックでは2日間、列車では一週間、船では2週間から3週間要するとの事です。価格からしてもその順に並びます。鉄道輸送は-ピアス(688グラム)当たり3.5チャット、トラックではそれより1チャット程度高くなるそうです。さらに計算してみると1トン当たりの輸送コストは、ヤンゴン~マンダレー700キロは2500円程度の料金に該当するのではないでしょうか? 水上輸送だとそれよりも4割程度安くなるようです。かくして友人の貿易商は鉄道輸送に頼っているそうです。

しかしこの大河に恵まれたミャンマーは水上輸送も活発です。今にも沈みそうなおんぼろ船も活躍しています。何しろ水上交通は一番摩擦の少ない運送手段ですから燃料の効率が大変良い事で知られています。マンダレー-の船着き場では多くの水瓶や焼き物が陸揚げされる光景をみかけました。古くからの水上輸送は今もゆったりと続いているようです。ミャンマーの政府の運行する定期船の運行も各地を結んでいます。一部の地域では今でも重要な交通手段としての役割を占めています。しかし最近は道路網の整備により、徐々にその役割をバスやトラヅク等に譲り始めたようです。でも当分の間両者ともに平行してその役割を担うものと思われます。現実に隣のタイランドのように、充分に道路網の発達した地域でもチャオプラヤ川には盛んに貨物船が行き来します。

 

2,12煙草の価格はこうも違う(パイン銘柄)

先月インドのカルカッタでパインという銘柄の煙草を入手しました。始めは何処の国の製造なのか正体不明でしたが、それが韓国製だと言う事をミャンマーで発見しました。カルカッタでの価格は25ルピーすなわち円換算すると75円程度です。これがヤンゴンにきて販売されている価格は何と45チャットでした。これを円で換算すると23円という数字になります。カルカッタでの販売は煙草屋さんなのですが、店頭に並んではいません。銘柄を口頭で言うと、やおら売り場の隅からポソツと出してくれます。価格も人と場合により多少の変動はあります。店頭に堂々と陳列されないという事は一種の非合法なる商品とも言えましょう。

それにしてもどうしてこのように値段がちがうのでしょうか?どうも通貨のからくりが作用している気がしてなりません。特に今回のような通貨の混乱を生じた時期に於いてはうまく立ち回ると極端に安価で品物を入手出来る事ができるようです。

ミャンマーに於いての商取引は何かしら我々の眼からすれば大変良心的な商行為で成り立っているように感じます。イスラム諸国の一つであるインドネシア等で買物をすればそれは多くの場合は変動相場制という感じがしないでもありません。身内価格、友人価格、そして見知らぬ人への価格という具合にイスラム法に乗っ取った正しい商行為は相手に依って価格の違いを付ける事です。ですから人に依って価格が異なる事には格別悪事ではないという感覚があります。

ミャンマーに於いてはまだ詳しく解りませんが実に穏やかに商売が営まれています。黙ってお金を漉すと黙って誰も同じようにお釣が戻ってくるのです。タイの田舎もそれに似た光景にぶつかります。

もの不足等になると日本等ではパニックに近い状況が発生し商人の買い溜め等が横行し価格を釣り上げて誰かがぼろ儲けをする様会に恵まれます。しかしここでは商売までもが仏教の教義にのっとリ極めて穏やかに流れている気が致します。また地方と都市部に於いてもタイムラグが存在するような印象を受けます。すなわち都市部で何らかの事情で物価が上昇しているにも拘わらず農村部に於いては依然として旧価格で取引が為されているような感じを受けています。この事は今後の課題の一つとなりそうです。いわゆる悪徳商人の致少ない国なのでしょうか?

 

2.13個人の直接送金は不可能

この話は、まだ未確認の情報ですが、以前に聞いた話ですと、ビルマ人の船員等が本国に送金した場合には政府が4割を税金として徴収するという規則があるそうです。日本で就学生をしながらアルバイトをしているミャンマー人も確かそれに似た話をしていたように思います。

そう言った隙間を縫って中国系のミャンマー人の送金組織を使う事により安全にかつ政府への納税をする手も無く.家族の手に入るという話を最近耳にしました。

 

2.14今後の発展はどうなるのか?

ミャンマーにはまだ豊かな地下資源が沢山眠っている筈です。石油や天然ガス等が掘れば湧き出てくるのですが、その技術と人材がありません。農産物を作る事が出来るのですが、それを加工する産業も育っていません。折角の収穫がときには傷んでしまったリ、鼠等に食い荒らされその損害も決して小さいものではないと思います。現在の状況では農産物の加工等に関連した産業の育成が必要なのではないでしょうか?

地下資源のみではありません。豊かな肥沃なる大地と巨大な水資源をも持っています。外に森林資源にも恵まれています。海や川は魚を豊富に供給してくれる源泉です。大地からは豊富な作物を得る事が出来ます。余りにも豊かなこの国の資源に驚きを感じてしまいます。

一応石油精製の事業は、国家が管理運営していますので自給出来る状態ですが、何しろその製品はかなりの粗悪品として出回っているのです。最近聞いた話によると軽油はインドネシアからの輸入に頼っているそうです。どの程度の依存度なのかよく解らないのがこの国の事情の一つでもあります。

他に地下資源としての宝石類はルビーが有名です。これを掘り当てると生涯楽をして過ごせるのかも知れません。

国家の発展は国民が決めるものかと思います。この地上に経済発展のみを追いかけてきた結末は一体なんだったのでしょうか? 一見人類の光り輝く知恵の集結かの様に見えた日本の近代化も何かしら暗雲が立ち込め始めたのではないでしょうか?

 

3観光産業の発展

3.1旅行者の数は年間約10万人

ミャンマーは1996年に観光年の企画を行いました。この年度には、約11万人程度の客の入り込みがあったように報告が為されています。1992年には、僅かに11.000人それ以降26.000人(93年度)、95年度に

は81.000人の数に増加しました。過去4年間にその数は10倍程度に膨れ上がっています。

これだと観光ブームの典型と言えましょう。現在もあちこちに旅行者用の施設が増えつつあります。これらは我々に多大な恩恵をもたらせてくれます。前回の訪問よりも宿代金が安くなって来るのです。1995年と1996年を比較しても当時2度に渡って同じ宿に宿泊したフランス人の旅行者によると以前は一泊6ドルだったのが今回はその半分の3ドルで済みましたという話をしていました。ミャンマーに於いてのホテルビジネスは政府の観光面での振興策及び外貨獲得の手段として一石二鳥を狙って益々膨れ上がって行きます。

これを国別の訪問者数で比較してみると一番多いのが日本人で19,000人、次がフランス人で12,000人、ドイツが第三番目で6,000人となっています。英国人は以外と少なく4,400人にとどまっています。日本の隣の韓国の人にも人気があるようで、其の数は:4,000人に達しています。日本人旅行者の数は圧倒的の多いようです。ネパールへの日本時観光客の数は20,00人程度ですからミャンマーのそれは結構な割合かと思います。今後も日本からの客数は伸びるのではないでしょうか?

さてこの宿泊施設は外人観光客の利用出来る場所には必ず許可書が明示されています。概して外人専用フロアというのがあり、こちらは設備に一定の基準があるようでトイレや部屋等は非常に清潔で納得の行く料金です。他方現地人専用のフロアとなると一応基本的な設備を確保しているのみで少々インドの安宿的な雰囲気を漂わせています。場所に依ってはこれらが混同されて殆ど区別のない施設もあります。以前ヤンゴンのYMCAを利用した時には外人が8ドルでしたが現地人はその四分の-の2ドル程度の料金で宿泊していた事が記憶にあります。どうもここでも全く同一の部屋を利用しても外人用の価格と現地人用の価格ではかなりの開きがあるのが事実です。

ある宿のオーナーの話によると1996年にはミャンマー観光年の為にそれぞれの宿(外人利用の許可を持つ場合)3000 チャット(当時の金でおよそ400ドル)を政府に納めたそうです。

また外国人の利用客があるとその都度税金なども払わなくてはならないそうです。以外と経費がかかるのですが、これだけ多くの人々がホテルの商売を始めている事はそれなりにかなり儲かるからなのかも知れません。過当競争のあおりを受けてパガンの宿などは大変清潔で日当たりの良い部屋がトイレとシャワーがついてなんと3ドルの料金で利用出来ます。勿論これには朝食を含んでいます。ヤンゴンは首都でもあり部屋代は割高なのですが、地方都市なるマンダレーやパゴー等では容易に値段相応な部屋を見出す事が可能です。

この3ドル(750チャット)という料金も地元の物価水準からいくと決して安いものではないようです。喫茶店でのコーヒーの価格が12円とか屋台での食事が25円を切って楽しめる国です。

現在のミャンマーの社会構造から見る限り外貨の獲得にはこれしか方法がないのも現実でしょう。ある程度の資本を抱えた人々は一体何に投資が可能でしょうか? それはネパールの山奥に於いてロッジの経営が増加しつつある事と共通した経済の流れを組んでいるようです。インフラの悪さで工業化が一向に進展しない中でのミャンマーの小資本の流れは行き場を失った末に、ホテル関連産業に眼が向き政府の思惑と一致したのではないでしょうか?ネパールの山奥でトレッキングが始まり多量の資金が循環し始めました。外界からの経済文化から遮断された山奥ではお金の使い道がありません。車を購入するにも道路はありません。TVを買うにも電気の供給がありません。かくして一度手にしたトレックマネーは再びロッジの経営に回り続けているのが現実です。

 

3.2観光の目玉はあるのでしょうか?

さてこの国の観光客の数は一挙にここ数年の間で膨れ上がりました。今後も特別な事情のない限り増加の傾向を辿っていくものと思われます。しかし真に観光資源としての魅力はあるのでしょうか?ネパール

では年間インド人を含めて30万人以上の人々が昨年訪れました。今年98年はネパール観光年と称して50万人の観光客の誘致に懸命です。ネパールの場合は実際にインド人の観光客数を除外すれば実数としての外人観光客の数はおよそ三分の一程度に落ち込んで行きます。1996年度では約20万人を超える外人の訪問を経鼓しています。お隣のタイランドでは年間700万人程度の観光客の数です。ミャンマーの数字と比べると大きく開きがあります。インドでは確か近年になって200万人程度の数だったと記憶しています。スリランカは国内での内紛が続いている割に結構な客が出かけるようで西暦2000年度の目標は10万人にしようと意気込んでいます。

このように諸外国と比較するとまだまだ観光客の数は増加する可能性はあります。しかしこの国で多くの観光資源はあるのでしょうか?何が魅力でこの園を訪問するのでしょうか?ネパールに於いては世界の屋根と呼ばれるヒマラヤを抱えています。インドは歴史と遺跡そしてユニークな文化の混沌性を売り物にする事ができます。自然の景観も山あり海あり川ありと各種取り揃え、一度では見切れないマサラ(混合の意味)的な背景を持っています。降りのタイランドでは以前使われた観光の目玉としての3Sすなわち太陽と海とセックスが代名詞となって客を呼び込む事がスタートしました。最近は従来の3Sが観光の絶対条件とは言えなくなったようですが観光国として根強く世界の注目を浴び続けました。今年からは2年間昨年の経済不況を吹き飛ばすが為に何としてもアメージングタイランドのキャンペーンで観光振興策を打ち出しました。

ミャンマーを考えるとパガンの遺跡を除いて世界的な観光資源はあるのでしょうか?西隣りのバングラデッシュには殆ど観光資源として目玉に残るものはありません。.ミャンマーでは最近あちこちに外資を導入したゴルフクラブ等が目に付く様になりました。しかしこの国の魅力はその人々の穏やかさ或いはホスピタリティにあるような気もします。格別に目玉はなくてもこの国には足を踏み入れたくなる何かを秘めた土地というのが現在の評価なのかも知れません。

 

3.3盗難などの厳しい措置は96年の観光年より

ミャンマーでは観光年を契機として盗難等の犯罪に対しての処罰が厳しくなりました。自転車泥棒をすると半年の刑務所行きが即決、900チャットすなわち450円のスリを働くと3ケ月の懲役になる等地

元の新聞が実例をあげて報じているようです。

しかしそう言った規則がなくても昔からの仏教国としての教義がそのまま実践されているような状態です。人々は無造作にポケットに札束をほうり込んでいます。財布はロンジーの後ろにチョコつと差し込んだままで歩きます。人込みの多い中でも殆ど警戒心がありません。極端にいうと、時計やカメラを宿のロビーに置きっぱなしにしたままでも何ら心配する必要はありません。ましてやインドやタイランド等で聞くような引ったくりや置き引き等の巧妙な事件は皆無に等しい治安の良さを保っています。

10年程前に始めてシンガポールへ行きました。その時は深夜に飛行機が到着し最終の市内バスで安宿のあるベンコーレン通り-行った記憶があります。通りかかりの人に道を訪ねながら宿-チェックインしたのは夜中の12時を過ぎていました。ここヤンゴンも同様でしょう。空港から市内へタクシーで来ると運転手は客の宿が決まるまで、幾つも宿を回り面倒を見てくれます。空港からのタクシーの料金は大概FEC払いとなるので流しのタクシーに比べると若干割高です。しかし他の国のぼったくりタクシーとは違います。料金も多めに支払わされ置き去りにされたのでは目も当てられません。ミャンマーはまさしく紳士の国ではないでしょうか?

現地では情報が余りにも少ないのでどのような社会的な事件が発生しているのか知りたいのですが読み取る事が出来ません。恐らく我々の知らない部分で凶悪な犯罪は少ないと思いますが、ミャンマーの特性を担った事件が存在していると思います。しかし絶対に言える事は今回の旅を通じてもそうなのですが、犯罪の話を聞いた事は一度もありません。私自身安心して旅を続ける事ができました。夜遅く新しい町に入る事があっても何ら不安がなかったのが事実です。一度だけマンダレーで激しい口論を見紛ました。

 

3.4何でも外人価格

この国でも色々な面で外人価格の適用があります。前述の宿泊料金もその一例です。飛行機代金阜外人は特別高く設定されています。有名な寺院に入る際に埠必ず外貨払いで拝観料を払う事となります。列車の料金等は6倍程度の超較差を持っています。区間に依ってバス料金は地元業者が結託し外人は約倍程を払わせられる事があります。仏教の教えからいくと非常に不合理な話になるのではないでしょうか?タージからインレーへ行く時に宿でホテルのマスターが「あなた方は外人なので特別料金を請求されるでしょう。地元の人は300チャットなのですが、多分600チャットとなるでしょう。多少値切りが可能でしょう。こんな事は困りますね」

と説明してくれました。.しかしこの宿自身、外人料金と地元の人々の、料金と2段階に分けて設定してあるのにはなはだ御都合主義の発言ではないでしょうか?

勿論この方式はここミャンマーだけではありません。典型はエジプトではないかと思います。ここでの遺跡の入場料金は全てがUSドル表示です。10数年前に訪問した時にあれーと思ったぐらいです。当時偽学生証を提示してようやく半銭となりました。それでも一回の遺跡見学には数ドルの支出を余儀なくされました。スリランカでも遺跡の観光には多額を払わなければなりません。地元の人々はただ同然なのですが。ネパールに於いてもこのシステムが幅を効かせています。バクタプールという古都への入場料金が300ルピーで地元の人々の一日分の日当を遥かに上回っています。インドを除いて多くの由では遺跡や航空券に現地人価格と外人価格の適用という二重制度を課しているのが一般的です。しかしこれらの国々は一休いつまでこの体制を維持するのでしょうか?国力が上がり日本と同様な所得水準となっても外人価格として現地の人々に対して10倍以上もの開きを容認するのでしょうか?

 

3,5弗現金とFECの差違

ミャンマー入国の際には規則として強制両替をしなければなりません。短期間の滞在を予定している旅行者や我々のような経済的な旅をしている者にとっては頭痛の種です。色々とコツがあるようで、係官の眼をごまかして来た人や強制両替の額を割引して貰ったり皆必死で対策を講じているようです。最終的には旅行者同士でFECをドルの現金と交換したり、マーケットで差損を覚悟で闇での再両替をしたり方法は各種あるようです。

今回は2月1日にミャンマーに入国しました。当日早速ホテルでFECを現地通貨に両替をしたのですが、FECとドルでは値打ちが違って来ています。しかしFECの表面に、しっかりとこれはミャンマー国内に於いてドルと等価のものである事が明記されているのに拘わらずこの事態が発生したのです。・これはヤンゴンだけではなく、何処でも誰に聞いても同様な答えです。明らかにFECとドルの値打ちが違っています。最近はFECが余り始めたのではないでしょうか?いつもFECは新品の札ばかりが流通しています。政府としては単に印刷すれば良いだけです。どうも納得のいかない状況です。地方に依ってはその差も大きく開き、ある所ではFECは170チャット他方ドルキャッシュは200チャットで交換という現象も生じました。さてこれらの交換されたFECは再びどのように還流するのでしょうか?

一般的に闇両替という言葉がミャンマーの国内で使われていますが、この言葉を誤解しているケースが多いのではないかと思います。現在の政府はFECからチャットの交換を認めているのですから、FECをチャットにする事は違法ではない訳です。ですからこの行為は闇両替でも何でもないのです。ただ公式な許可を持った両替商を通じて交換するのか、無免許の人を通じて両替するのかが違いで、後者が闇両替と呼ばれる性格でしょう。街角では大きく看板をあげて公認FEC両替商と言う場所があり,そこでは決してレートは悪くありません。しかしここでは今だにドルと現地通貨の交換率は一ドルが6チャットと銀行の店頭にはっきりと記されています。この事を読み替えるとドルキャッシュを直接チャットにしないでくださいとも見られます。

形式上貴方の持っているドルをFECに交換してください。FECはチャットに交換可能です。と言う事でしょうか?FECからチャットは合法でドル札からチャットは違法で取り締まりの対象となるようです。

最近は日々の変動が大きくなりました。東南アジアの通貨混乱の影響があるように見うけます。闇両替の取り締まりが厳しくなったからチャットの値打ちがあがった等という話しがささやかれ、あたかも真実の様に聞こえますが、どうもこの説は胡散臭くてなりません。アジア各国では闇両替が全く存在しない国でも時によって大きく変動するのは何故か考えてみれば答えは明確かと思います。FECとドルキャッシュの開きが何割も生じればその差が闇取引取り締まりの影響を受けたものと考えられるでしょう。ミャンマーでの闇両替は色々な解釈が横行しています。

いずれにしろお金を使う人は使って帰ります。この政策を実施してもしなくても外貨収入には大きく開きが出てこないと思います。ネパールが一時期査証の延長時に両替証明を要求した事がありました。一日の延長に付き20ドルの証明を必要としました。これでは貧しいお客さんお断りと看板に書いたも同然です。極めて不評なるこの方針はすぐにすたれてしまいました。

出来る限り早くこの方式が解消される事を期待しましょう。

 

3.6観光産業とGNP

さて現在進行している観光産業は一体この国でどの程度GNP に貢献しているものでしょうか?単純に試算をして見ましょう。年間10万人の観光客が一人平均300ドルを使うとすれば、総金額として3,000万ドルの金が外部から流入する事となります。これをミャンマーの人口は約4500万人と仮定し国民一人当たりに換算すると70¢すなわち100円しか配分がない事となります。タイの様に年間700万人の頼光客が入り込む事となればその金額も莫大なものとなります。観光客の数から言っても現在のミャンマーはタイランドの70分の1という数字です。しかも一人当たりの観光客の消費金額を2倍と仮定して計算するとタイ人一人当たり70ドルという金額になってきます。これだと大きな数字となり、タイランドの各

家庭にテレビやその外の電気製品等が普及するのも当然の事でしょう。

ネパールに関して同様に試算をしてみましょう。観光客の数を20万人として-人当たりの落とす金を500ドルとすれば、20×500=10,000万ドルです。これを2.000万人の人口で割ると一人当たりわずか5ドルの金が国外から流れ込む計算となります。ネパールの場合はその外に外国からの援助資金が大量に流れ込んで行きます。昨年の統計によると96年度はネパール人一人あたり外国から20ドル分借金をしている勘定になるそうです。その外のNGOからの資金や統計に現れない闇のルートを使っての資金などが観光産業の副産物として入り込み生活水準を押し上げている国でしょう。

しかし観光収入が実際にその国のGNPにどの程度寄与するのかに関しては様々な見方があります。ネパールの場合は実際には国家のGNPの4-5%程度しか寄与しないと言われています。すなわち一旦入り込んだ外貨はホテルの設備関連の為にすぐに流出してしまいます。自国で設備一式が生産される条件が整えばその金額がすぐにGNPに反映するのでしょうが、ネパールの様に自国での工業生産割合の少ない国.では折角入り込んだ外部からの投資や資本も資本財の購入にその多くは国外へ還流してしまいます。また観光客が外国製の煙草や食事を取る事となればそれらの多くは輸入に頼る事となり、その園の経済構造に何らの影響を与えずに終結する結果となりましょう。この事はミャンマーに於いても少なからず発生しているのではないでしょうか?この国での主要産業はあくまでも農業と、森林資源によって外貨を稼ぐ事しかないのが実状です。一見華やかに見える概光産業も現段階ではまだまだ充分とは言えません。ホテルを建設したらその為には沢山外国から買物をしなくてはいけません。入った金はすぐに支払いに回さなければ行けません。手元には一体どれだけの財産が残るのでしょうか?

さて外部からの資金の流入の一例として多くの発展途上国に於いては国外への出稼ぎが主要なる位置を占めている場合もあります。先日インドで見た新聞ヒンドスタンタイムスにでていた記事に依るとランカからは毎年60万人の出稼ぎがあり、その送金金額はこの国に於いて第一位の外貨収入源になっているそうです。年間の受取金額は886百万ドルと言う数字になりました。この事は出稼ぎ者一人当たり1400ドル程年間に送金している勘定になります。国全体でみると、一人当たり40トドル程GNPを押し上げている事となります。出稼ぎの影響は大きいものであります。スリランカの航空会社は順調にその翼を広げて行く事が出来る秘密がここにある訳です。60万人の出稼ぎが2年ごとに休暇を貰い一時帰国をすれば一日800人の出発する人と帰国者が空港へ押し寄せる事となります。出稼ぎ専用便としてジヤシポ棟が3台必要になる規模です。

 

3.7観光客からの影響

さて観光客の増加に依っていわゆる文化汚染というものも付随していくのが各国の実状です。ここでアジア各国に於いての近年の流れを眺めて見る事としましょう。

スリランカは1979年に社会主義体制が大きく変化し当時のジヤヤワルデネ政権の誕生で一気に経済の自由化に移行してから順調に所得の増加を計ってきました。勿論観光産業を通じての外貨獲得の位置も常に上位3番目近辺を漂っていきました。1984年から北部でタミル人ゲリラの活動が活発化しても毎年一定の観光客が訪問しています。この国では外に主要な外貨獲得の位置づけとして前述の海外への出稼ぎがあります。

同じ系統の仏教国でありながらそれぞれの国家としての生き方もかなり異なって来ました。スリランカの場合は島国という環境にあり、16世紀のパスコダガマの世界一周以前から対外との交渉を多く持った地域です。ここにミャンマーのような比較的外部との接触が少なかった地域との差違を見出す事ができるのではではないでしょうか?スリランカはインドの影響を受けた仏教国ながらも身分制度の一面を抱えています。仏教徒の総数は約65%といわれビルマのそれよりも遥かに低い数字です。スリランカではミャンマーのように仏教の教義を基本として生活するのでは民族のアイデンテティが成り立たないという側面を持っているように見えます。スリランカの古都キャンデーに友人がいますが、その家庭の隣別まヒンズー教徒,向いの家は回教徒、I数軒離れた家はキリスト教を信仰しているという複合所帯です。そうすると宗教に関しても・自ずと自己主張をする必要となって来ます。基本的にはミャンマーのような穏健な仏教的風土が築き上げられる要素とは言えなかったように見えます。様々なシステムが混合した社会でもありましょう。

教育制度や行政組織は英国の方式をそのまま引継ぎ現在に至っています。観光客の増加に伴って各地で様々な被害が横行し始めました。昔は南国的で陽気な仏教徒のイメージでしたが、観光客の増加や国外への出稼ぎの増加と共にその文化自身も年毎に変遷を続けて行きました。80年代初頭までは首都コロンボでもルンギ(現地の腰巻き)姿の人々が多かったのですが、これらは最近では殆ど家庭の中のみで使用されているに過ぎません。

さてお隣のタイランドはどのように変化して行ったのでしょうか?この国の外交上手は世界的に評判がありますこヨーロッパ各国のアジアの植民地化が始まろうとした時にも幸いにこの国は外国からの支配をまぬがれ独立を保ち続けた事は有名です。最近急激にこの国が経済的に発展した背景にはベトナム戦争での特殊な位置づけにあるように感じます。もしこれがなかったとしたらタイランドの進展はかなり遅れたのではないでしょうか?急激にアメリカナイズしたタイランドへどっと押し寄せる観光客の波はこの国での観光公害を肥大化させていったのではないでしょうか?全ての国民がそのように変化したのではありませんが、近年の都市部における観光客の被害の増大がそれを証明していると思います。国民の大半が仏教徒でありながら隣のミャンマーとは社会事情を大きく変えてしまう結果となりました。しかしタイランドの地方へ行けば今でもミャンマーに似た平穏さを感じる事ができるのも事実です。どれだけ観光客が増えようが自国の仏教文化を根底としたタイランドとしてのアイデンテティを失っていない面を見落としてはなりません。しかし70万人の観光客を迎えるこの国は次第に外部からの影響を気づかないうちに受けてきているのではないかと思います。

一方ネパールはどうなのでしょうか?この国が一般の観光客を受け入れるようになったのは1960年の後半からだったと思います。観光客を受け入れるようになってからそろそろ30年を迎える時期です。国土の狭い場所にしかも特定の観光地に集中するのでその客の数は実際のそれよりも多く感じてしまいます。昨年度当たりでおよそ25万人程度の外人観光客を迎え入れているものと思います。国外からの影響を受けざるを得ません。英語を話す事が国際的な人種への道という錯覚すら起きています。自国の文化を失う事もやむを得ないと考える面も見えて来ます。特に観光産業に携わる人々の多くはその影響を強く受けているように見うけます。自国の文化の跨りを忘れ相手が金持ち国家であればそれに同調するのが鉄則かの様に会話が進んで行きます。互いに双方の欠点を語る事なくむなしい国際化が今もカトマンズ市内

のあちこちで行われているのが現状かと思います。この国はインドとの関連も多くタイランドやミャンマー等に比べて英語の普及が発達し彼らとのコミュニケーションが比較的容易である事から外国文化の普及度も高くなったのではないでしょうか?

さて南アジアの大国インドではどのような経過をとっているのでしょうか?つい5年程前迄は観光客の数は年間100 万人程度でしたが近年は200万人程度の外国人を受け入れるようになりました。徐々にではありますが、観光客の増加を見る事が出来ます。この国では観光客の増加が国家の体質を変える様には見うけられません。.東南アジア諸国の様な軍事政権とは体質が違います。.元来からの複合民族国家の一つLです。総人口が.10,億を越えたものとされています。ここへ数百万人の客が押し寄せた所で何ら大きい変化をかもし出す可能性は低いのではないでしょうか?民主主義国家の筆頭として言論や表現の自由が保証されています。取りたてて外人の訪問は珍しくも何ともないのが真相ではないでしょうか?多くの国では外人を的にして騙しをする場合があります。インドの場合、それは_外人に限らずインド人自身も観光客として違う場所を訪問すると騙される事がしばしば起きています。

 

4.教育

4.1悩む大学生

ミャンマーの大学が封鎖されてからかれこれ2年を経過しようとしています。今の所、再開の兆しはまだ明確ではありません。これに困っているのが多くの学生です。残念な事に彼らは学びたくてもその機会を持つ事無く人生を終わらなければなりません。この国では過去10年間に半分程授業があれば良い方だそうです。すなわち現在の年齢が20歳前後とすれば大学が2年間休講する事によって卒業前に結婚適齢期を迎えてお嫁に行く手になるので心配だという話しをタージの宿で聞きました。彼女は現在マンダレー大学に籍をおいている女学生です。これだと私が母親となった時に子供たちに勉強を教える事が出来なくなるから大変困ると語っていました。

その外あちこちでこれに類似した話を聴く事があります。勿論教師の給与は一ケ月150 チャット程度ですから日常の生活が遅れる訳はありません。そこで学生を集めての個人教授の学習塾を設けて小遣い稼ぎが始まる事となります。お祭り等機会があるごとに生徒は先生に対してプレゼントと称してロンジー等を贈呈する習慣になっているそうです。一方現在の政権にしてみると何としても学生運動から盛り上がる民主化の要求を封じ込める事が最優先です。しかし別の面で考えてみると今の状況では人材が育たないという将来のハンデを負う事となり兼ねません。

特定の軍関係の師弟は得点が低くても甘い採点で優先的に取り扱われている気配を感じました。彼らの中から何人かの留学生が国外で勉学に励んでいるようです。教育の機会均等は名ばかりで、少々程遠い現状を物括っています。この国では産業が乏しく大学と言っても多くは文科系の学部で占められているようです。

インドと比較してみるとインドはタゴールなる有名な詩人を排出しました。世界的にも定評のある医師や科学者も結構います。最近のインドの頭脳は、世界中のコンピューターのソフトウ土アの作成に数多く雇用されています。果たしてミャンマーには世界に誇る著名な文化人や技術者がいるのでしょうか?大学や専門学校を卒業したとしても現在の社会構成の中ではその学んだ知識を生かす職場が不足しているという事実もあります。産業国家をめざそうとするならば、産業界と学会が一体となった体系を持つ必要があります。インドは意識的にその政策を実施しましたが、時には医学生の過剰で再び預を悩ましたそうです。産学合同作戦をしように`もミャンマーでは産業がないのですから仕方ありません。

しかしミヤンマーには我々の知り得ない部分ですなわち仏教の学問に於いて優れた何か保持しているような気がしてなりません。ミャンマーは、学問は科学が全てではない事を既に承知しているのかも知れません。或いは単に軍事政権の延命策として規制を続けているのでしょうか?

ある本に米国における黒人の人権復活をめぐる議論で徐々に差別廃止をしないと急激にこれを行うと危険であるという主張が掲げられましたが、それは支配する側がその特権を失いたくないが為の単なる理由を隠れみのとした詭弁であると説明されています。

1960年代に軍事政権に交代してから徹底した国有化をはかり、高等教育もそれまでの英語による授業からミャンマー語に変更となり、ミッション系の学校が次第に閉鎖に追い込まれ、多くの外国からの教師達がミャンマーを離れた事実もあります。高等教育の場は長い間混乱を続け今もそれが尾をひいています。果たして今後のミャンマーの高等教育はどのように進展していくのでしょうか?

今回も何人かの大学生や元大学生と話しをする機会がありました。全体的な印象としては、彼らの多くは極めて真面目なのに驚きました。授業が封鎖されている状態に於いても何かを学び取ろうという気運で目が輝いていました。

 

4.2初等教育の充実

この国では大学や専門学校に於いては現在の所何かとくすぶり続けていますが、初等教育すなわち小学校から高等学校迄は現在授業が行われています。政府もこれにはかなり熱心に力を注いでいる様子です。おまけに大人の為の補助教育にも重点が置かれ時々看板を見かける事があります。大体小中学生の制服は白のシャツに緑色のロンジーを縫っている事ですぐに分かります。都会ではこのように政府の学校で、田舎など通学不可能な地域では子供たちを僧院に送り込む事で最低の読み書きを習得出来るシステムが構築されています。僧院は大休無料で、お金はかかりません。中には何年もここでミャンマー語の読み書きと仏教に関する学問を収める僧侶もいるようです。

僧院ではメデテーションも盛んなようで、これに精通すれば人の運命を見抜く事が出来るとされています。

そう言った事でこの国では識字率は、他の発展途上国に比べて異常に高いのに驚きます。インドの田舎では30%前後とみて良いでしょう。これに比べるとミャンマーのそれはただ驚くのみです。ですからインドの町並みを歩くのと違って看板や標識に図案や具象画を書き込んだものを殆ど見かける事がありません。常に我々の眼に入るのは特徴のあるカタツムリ文字(丸文字.)なのです。識字率の低いアフリカ諸国等では店の特色を示すのに必ずといって良いほど絵を用いて表示する事があります。さてこのミャンマー文字の普及は何時頃から大衆へと広まったの.でしょうか?日本でも江戸時代には寺小屋制度があり庶民の間に急速に読み書きが広まりました。ミヤンマー-での僧院の果たす役割は大きいものがあるようです。

 

4.3.教育昨今

昔はタミル語で全ての授業をする学校があったそうです。パゴー在_住のタミル系ミャンマー人は学生の頃はタミル語での学校で勉強をし、全くビルマ語の読み書きは出来なかったそうです。それが後にビルマ

語の習得が義務付けられて本人は必死になって勉強したそうです。今ではこの国ではインド系同士でも南インド人と北インド人は文化圏が全く異なり言語もタミル語とヒンズー語という大きな開きがあるので両者が話をする時の共通語はビルマ語(ミャンマー語)となっています。ちなみにインド本国で、北インドの人と南インドの人が会話する時には英語を介して行われます。始めの頃は異様な感じをうけました。

マレーシアやスリランカ等では一応複合民族国家としての道を歩みそれぞれの民族の言語を用いた教育が認められています。ミャンマーはその規模からしても総人口に占める割合は極めて低くインド系や中国系の住民は都市部のみに集中していた結果もありましょう。また当時の政権担当のネ・ウイン氏の打ち出したビルマ人国家としての民族主義の強い主張があった事も肯けます。英語がすたれる反面ミャンマー語が急速に普及していきました。時々年配のミャンマー人で流暢な英語を話す人に出会います。その老人は今の人々は英語が話せなくなったと嘆いていました。若い人々は全くのミャンマー耽りの英語となり、理解に苦しむ事があります。しかも彼らの英語はミャンマーの会話を直訳したような英語の用法となります。日本人が英語を使うと頻繁にソーリーとイェスが出るように、文化の背景を伴った用法で以外と驚く表現があります。

最近ブームになっているのはヤンゴンでは最先端の部類としてPCの教習所が人気を浴びています。また外国語のレッスンもかなり人気を博しているようです。日本語もその中で人気ある科目の一つです。これらは大体一時間25~30チャットが相場のようです。一ケ月30時間程度の教習で1000チャット程度の謝礼を渡すそうな話を耳にしました。

 

5.軍事政権

5.1汚職天国、プレゼントという表現

ヤンゴンの空港で強制両替をしている時に金額を値切った観光客に対して、上品そうな女性の係官がプレゼントという言葉を発して闇に何らかの賄賂を請求している光景を見かけました。インドではもっと直接的にバクシーシ(喜捨)という言葉で表現されます。ミャンマーの場合はかなり控えめな表現です。実態は良く分かりませんが公務員の給料は多くはありません。彼らは現在の給料で生活できる訳がありません。従って何処かでブラックマネーが動いている事は確かです。これは、ミャンマーに限った事ではないようです。日本でもそうでしょうが、ブラックマネーを拡大解釈すると、お歳暮や中元等もそう言った部類に入ります。会社の接待ゴルフや招待旅行もこの区分に入るのではないでしょうか?人々は当然の事として考え罪悪感は全く生じません。インドネシアのメダンという町で郵便局から小包を発送した時にお客がそれとなく職員に小額でしたが、チップを渡すのを目撃しました。それらの行為は、別の意味では相互扶助にもつながり社会の潤滑油として機能しているとも解釈出来ましょう。場所によっては、現金での金銭の授受よりも何らかの品物が喜ばれる風潮もあります。

昨年のミャンマーの出来事を追っかけていくと半年程前に大量の閣僚が解雇された事が浮かび上がって来ます。どうも彼らは賄賂のとりすぎで失脚したのが真相のようです。我が友人のラーマン氏は当時の運輸大臣と密接な関係を持ちかなりの金猿をばら撒いたそうですが、大臣の失脚に依って会社はかなりの打撃を受けたそうです。しかし国の経済力が小さいと言えども4500万人という人口を抱える国での政局担当者は矢張り莫大な財産を築き上げる事が可能なようです。例えそれが軍事政権であろうとなかろうと政権担当者に富が集中するのは何処の国でも同じではないでしょうか?

ミャンマーの人々の間には今の軍事政権は賄賂で入った金を湯水のように使っているという批判が高まっています。彼らはドル札とミャンマーの通貨チャット札を置き換えての暮らしだと批判します。

宿代は庶民の使用する限界が100チャット(50¢)の安宿だとすれば、官僚クラスは10 ドルの部屋を利用するという違いを意識してかと思います。しかしこの事実は日本にも存在しているのではないでしょうか?築地とかいう料亭では我々がフアミレスで食事代する料金とは桁違いの金額が支払われています。ミャンマーが軍事政権だろうが、そうでなかろうが、これらは存在するのではないでしょうか?北朝鮮のように庶民が飢えで苦しんでいる傍ら現体制を維持している政治家の腹は常に満腹なのではないでしょう。

 

5.2インドの軍事力の強大さ

軍事力を周辺諸国と比較すると矢張りインドの強大さを感じざるを得ません。インドのそれは、軍事力だけではないのでしょうが。国力や経済規模から眺めてもミャンマー自身はインドに於いては一つの州程度の大きさしか抱えていません。南インドのタミールナード州の人口はミャンマーの総人口と同様な数字です。

インドでは国境周辺の隅々まで軍事道路を作りがっちりと固めています。その中でも北インドのマナリから中国の国境へ向けて標高5.000メートルを超える峠にまでも道路を貫通させました。兵器産業も発達しています。武器弾薬等も自国で充分調達可能です。ミサイルも自国製をもち、原子爆弾の実験も行ったとも言われています。第二次世界大戦後も隣のパキスタンとは3度に渡り戦争をしています。今でもパキスタンとの国境付近カシミールの地域で小競り合いが散発しています。

ミャンマーの軍隊をみているとどうもちぐはぐな印象を受けます。温和なる仏教徒集団には似つかわしくありません。この国では情熱的に行動をするという意識は希薄なのではないでしょうか?仏教の教

義を考えると殺し合い等は御法度なる行為です。お互いに譲り合い物事を分かち合う社会です。兵士の顔つきもどちらかというと穏やかな表情をしています。実際には良く分かりませんが兵士の戦闘意欲等はあるのでしょうか? 隣国のタイはアメリカの影響を受けて軍隊自身を訓練したからなのでしょう。きりっとし精倖なる印象を受けます。それがここではだらりとした兵士のイメージしかわきません。

インド洋に浮かぶスリランカはタミル人ゲリラの手を焼き地元シンハリ人の兵士の不甲斐なさに困り

はて、数年前からイスラエルや英国等の手を借りて軍隊の教育を始めてようやく士気が高まったそうです。半鎖国政策を取り続けたミャンマーではそれも出来ず現在に及んでいるのではないでしょうか? 軍隊の構成を観察してもその国の実状を的確に表しているのではないかと思います。

 

5.3回教徒と仏教徒の抗争

昨年の春にミャンマーではかなり大きな暴動が発生しました。この事は日本の新聞にも報道されました。事件の発端はある回教徒が仏教徒の娘を強姦した事から始まりました。マンダレーでの事件は各地に飛び火をし、回教徒の商店や車等が焼き討ちの的となりました。この事件が収まるには2週間以上必要だったという事です。当時マンダレーでは夜間外出禁止令が発動され、3人以上での歩行は即取り締まりの対象となったそうです。寺院に対しても軍が僧侶の行動を規制する動きとなりました。この国の伝統なる早朝の托鍬に代わって軍が寺院に食物を差し入れしたとも言われています。

時々散発的に回教徒と仏教徒との抗争が起きる事がありますが、今回は今までにはない大きなものとなったようです。バングラデッシュとの国境付近の州ではかなりの数の回教徒がミャンマー人として住んでいます。数年前にはこの地域の住民ロヒニヤンなる回教徒のグループが大量に隣のバングラデッシュへ追い出される言う事件が起き日本からもNGO がバングラデッシュの国境付近で支援活動を続けた事は記憶に新しい筈です.ミャンマー政府の発表によると彼らはミャンマーの市民権を持たずにいつのまにかバングラデッシュから経済難民として不法に引越しをした人々というのを主張していました。事の真意は定かではありませんが、ヒンズー教徒と仏教徒の間の抗争は殆ど聞いた事はありません。しかし仏教徒と回教徒とはどうもなじみにくいようです。

今回の事件がおきる数ヶ月前に、学生運動の気運が高まったそうです。どうも政府の意図はこれを封じ込める為の作戦で現政権自身が事件を大きくしたと思われる節がないでもありません。暴動に加わった僧侶の中には軍服の上に袈裟を纏った人も混じっていたとも言われます。

国内の不満が高まった時に、何らかの事件を巻き起こして大衆の眼をそらす方法として多くの国がこの方法を採用しています。今回も同様な性格を持った事件に思えてなりません。この事件で明らかな事は宗教自身が真にその教義をめぐって争いをしているのではなく外部からの要因で対立が拡大したに過ぎないのです。宗教の説く理念は殆ど変る事はありません。

日常の生活に於いてもミャンマーの場合は摩擦もなく僧侶が異教徒の家から寄進を受ける社

会です。多くのケースが歴史の中で宗教上の対立とされますが、抗争そのものには、政治の介入が存在するのではないでしょうか?

 

5.4ミャンマーの坊ちゃんとの会話(元活動家)

先日ピーのゲストハウスに宿泊していた時にヤンゴンの青年と話をしました。英語もかなり話すので色々な意見を聴く事が出来ました。家はヤンゴン市内にあり、家族はあの有名なスコットマーケットで宝石屋をしているとの事です。本人は大学時代に知り合った彼女に合いにきたそうで、今回は一週間の滞在の予定とか、彼女の家は地元では有名なレストランを経営していて、かなりのお金持ちだそうです。新婚旅行で彼女はアメリカのダラスへ行きたいといっているのだけとも沢山お金がかかるから私はインドネシアのバリ島にしたいと噴いていました。在学時代は、民主化の選挙が行われた時で武器を持って活動した事もあると話していました。両方ともかなりの金持ちです。ヤンゴンの自宅には車もあるそうです。これから叔父さんのコネクションを利用して船員となり海外で働く予定でいるそうです。

彼は現在の軍事政権にかなり批判的な態度を示していました。最初の会話が「何も心配する事はないから率直に意見を述べて下さい」という事から始まりました。彼の生活では毎日自宅で衛星放送を通じて外の世界に何が起きているのか我々以上に知っています。しかし彼のような立場にある人々はごく僅かなのではないでしょうか? 当然のことながら彼の発言には、国外のマスコミを通じたミャンマー批判と似た点を感じます。報道の自由がないのもこの国の現状です。新聞は政府御用達で内容には批判的な面は登場する事がありません。

庶民の間には政府批判の声がくすぶっていて単に我慢しているだけという空気もあるそうです。変な事をいえば逮捕されてしまうから黙っているというのが実状なのでしょうか? こういった話は数人の人から今回の旅で聴く事が出来ました。しかしその会話は彼のような特殊な立場の人を通じての話です。真のミャンマー人の大衆の声はどうなっているのでしょうか? 不満はあるのかも知れませんが、庶民の日常生活に於いてこの事は何かしらの影響があるのでしょうか? もし民主化となっても人々の生活は大きくは変らないように思うのです。今後この点についてもっと深く観察して行きたいと思います。

彼の説によると国外にいる有能なさヤンマーの学者は現在帰国したくても出来ないのが現状でもし民主化が実現したら彼らは国の発展の為に帰国して活躍するだろうと話を続けました。しかしこれは本当に実現するのでしょうか? 理想論としては納得いきますが、多くの諸外国の例ではこの事は否定的ではないのでしょうか? 例えばイシド人は世界各地に散らばって住んでいます。彼らが母国へ眼を向けるのは極端にいえば経済的なうまみが熟したし時であり、真の愛国心から帰国の動機が生じないような気がします。

長期にわたり西欧での生活は完全に彼らの思考を洗脳していくのではないでしょうか? 母国インドで貧しい生活を送っていたのが何らかのきっかけでアメリカで医者の勉強をする事ができ、個人としての生活が安定した場合に果たして当の本人は愛国心に燃えて祖国インドの為に身を注ぐ事が出来るでしょうか? ネパール等でもこの縮図と似た事が起きています政府が折角、奨学金を提供して国外留学をさせて国家の発展に寄与して貰おうとしても、多くはそのまま異国の地に移住したままとなる状態が多くあるそうです。これに業を煮やしたネパール政府は卒業後4年間は本国で就職する事を義務づけました。果たしてミャンマーの国外に住む人々の行動は今後どうなるのでしょうか?

 

5.5軍事政権への道

1947年に英国から独立したミャンマーは暫くの間ウ・ヌーの指揮の下に民主主義の道を歩み始めました。しかし1962年にはネ・ウィンが政権をとりその流れが現在に至っています。ネ・ウィンは次々と産業の国有化をはかりビルマ人国家の建設を目的としたようです。この時には10万人を超えるインド人が本国へ帰還したとも言われています。1988年年頃に民主主義の要求が高まり、当時一週間で6,000人もの死亡者をだしたとされています。これを受けてネ・ウィン氏は引退をしました。国名もビルマ社会主義連邦共和国からミャンマー連邦と変更しました。翌年選挙が実施されNLD(即ちナショナルリーグオブデモクラシ)が過半数を占めたのですが、政権の移行は為される事なく現在の軍事政権が継続されています。高齢のネ・ウィン耳は現在でも影の政治家として国家を左右する力があるとされています。

さてアジア諸国での政治体系の動きはどうなっているでしょうか?タイランドは現在でも半分は軍人で構成される政治を行っています。インドネシアも軍事政権がスハルノからスハルトへと移行しただけです。ベトナムもフランスから独立を勝ち得た後民主主義国家となったと思いきや、ソ連の支援で共産主義の指導の下で軍人による政治が長くつづきました。フィリピンは長い間軍人出身のマルコス大統領が統治を続けました。パキスタンもジアウルハクが軍部を統括して強権政治を長い間続けました。バングラデッシュでは一時期、軍部のリーダー、エルシャド氏が政治の実権を握りました。ネパールでは1990年に現在の国王制が民主主義へ移行しましたが、強力な軍を背景として国王による独裁政治が長く続きました。こうして眺めて見るとアジア社会に共通した特色が見られるのではないでしょうか?国家の発展を計るには或る程度の強権政治が必要だったのではないでしょうか?

 

5.5アウンサン女史とダライラマ・

所で現在ミャンマーでは、1989年に選挙が為されその結果NLDなる民主主義要求のグループが勝利を収めたのですが、現在の軍事政権はその権力の移行をのびのびにし、現在に至っているわけです。その台頭としてアンサンスーチー女史が活躍しているわけです。彼女にはその後かなり長期に渡って軟禁状態が続いています。

ここでチベットの独立を要求しているダライラマ氏との比較をしてみると何らかの共通点を発見出来るのではないでしょうか?両者共にノーベル平和賞の受賞者です。どちらも現在の属する国家体制を批判する事で大衆の支持を受けています。ダライラマ氏は彼の人生に於いてチベットそのものへ足を踏み入れているのでしょうか?また、アンサン女史は長期に渡り英国で学び生活を続けてきたという背景が潜んでいます。或意味で捕らえるならば、どの程度その国の実状を把握しているのか疑問なる点があります。

チベットの例にとれば、チベットの独立及び民主化の動きはダライラマ氏自身の発想から生じたものでしょうか? 数十年前に遡るチベット難民の大量脱出をきっかけに、各国の支援を受けた上での独立要求の或いは自治権獲得の活動が育っているわけです。ここで各国の支援の意味はチベットに眠る膨大なる地下資源の利権獲得の動きも絡んでいるような気がします。真にチベットに住む人々の心を反映しての動きなのでしょうか? .

この種の問題は日本国内でも類似したケースが見られるのではないでしょうか?すなわち或地方都市で過疎化対策の一環として地方住民の一部は原子力発電所の誘致を名乗り上げますが、東京や大阪等の自然保護団体なる知識人の一派に依って撹乱されている事があります。しかしその都会の知識人グループ自身は大豊の電力を使用している大都会での生活を認識する事を忘れての活動です.多少の矛盾を感じてしまいます。勿論今は原発の善し悪しについて語るのではなく、地元住民の総意が概して外部の御都合主義に左右される場合が存在するように思います。

現在のチベットの艶民の多くは世界中に散らばっています。一人当たりの援助授与額もかなりの金額になる筈です。インドやネパールに住むチベット難民は容易に生活をする事が出来、高等教育を受ける機会も平均的なインド人よりも遥かに恵まれているのではないでしょうか?

ネパール人の庶民の間にはネパールはチベット人に乗っ取られて行くのではないかと危慎する意見がないでもありません。将来に於いて、ダライラマ氏がチベット復帰をなし政治を自ら行う事が出来るとしたら果たしてチベットは真に豊かな土地となりうるのでしょうか? 単に宗教的カリスマ性だけで国家の運営が正常に為されるものセしょうか?ことに現在の様に各国の支援を受けている限りは、後日その清算が必ず待ち受けているのではないでしょうか?そこには、必ず内政干渉として影響を受けざるを得ないのではないかと思います。そしてそれらは必ずその地域の資源をめぐる取得戦争に巻き込まれるのではないかと思います。

この様にミャンマーの場合、もしアンサン女史が政権を担当した場合

にミヤンマー-の現状は変化を遂げる事が可能なのでしょうか?逆に混乱が増加しないとも限りません。権利を主張する串が出来る代償として責任を果たす必要もあります。民主主義の素地が固まらない時期に

これを持ち出すと人々は概して勝手な行動に走り易いものです。ミヤンマーの場合は仏教国という背景が基本となっていますから心配がないのかも知れません。しかし同じ仏教国のカンボジアやタイには、真のデモクラシーが芽生えてくるのでしょうか? 民主化の復活は資本主義の導入を伴う筈です。資本主義の原則に従えば貧富の差は拡大する一方です。1990年以降民主化に移行したネパールでは最近以前のような国王の強権政治を望む声も出始めています。政治体系が変っても国民の生活は決して有利に働く事はないのです。

相変わらず汚職や音みの偏在を防ぐ事は出来ないのが事実です。また国外からの支援が集まれば集まる程、後日内政干渉を受け易くなるのも事実でしょう。へたをすると資源と富をめぐって各国の争奪戦の舞台とならないとも限りません。民主化にも各国の事情に応じた体系をとっても良いのではないでしょうか? アジア型民主主義、インド型民主主義、日本型民主主義等と幾つもの流れが存在します。西洋型民主主義が必ずしも絶対的なものとは限りません。その国に応じて人々が平和に暮らせるならばそれも一つの民主主義かもしれません。

 

5.6陸路の国境は開くのか?

さて現在ミャンマーはアセアン諸国連合に加入しました。日本の国際化の歴史でも解るようにその手順としては、第一に物資の交流が始まり大量に全世界へめがけて日本商品が送り込まれました。そう言った過程を終えて次は人と人との交流が始まりました。多くのビジネス関係者や観光客が今や世界各地に流れて行きます。それから文化の交流へと熟成して行くのではないでしょう。ミャンマーも次第にその政策に変更せざるを得なくなりつつあります。

1995年の統計では観光客の入り込み数は国境近辺のボーダー地区を往復する数を含めて20万人を越えたようです。しかし空路でのヤンゴン到達組みはその半分の10万人程度となっています。いずれは陸路の国境の開放へと向う事になると思いますが、現在の状況では当分の間不可能ではないかと感じます。大量の観光客の増加が情報を一気にもたらしてしまいます。現在の政権にとっては命取りとなる可能性が大きくなり兼ねません。国境近辺の住民は相互に出入りをする事は比較的容易なのですが、ヤンゴン市民がバンコクへ買い出しに行ったり観光に出かけたりする事はまだまだ容易ではないようです。ここに現政権のジレンマがあるのではないでしょうか?現在のままでは世界から取り残されつつある事を首脳部は充分承知していると思います。かといって急激な開放策をすれば一気に外界からの風が現体制を一気に崩壊へと導く危険も抱え込んでいます。しかしいつかはこの国の人々が個人の意志で自由に情報を遮択する事ができ世界各地を訪問する機会が来る事を祈っています。且つ彼らが常に敬度なる仏教徒であり、従来のミャンマーとしての誇りを強く保ち続け、今にも増して精神性の高い人々となっていく事を念じています。科学や技術の分野に於いて日本は先進国かも知れませんが、精神面に於いての進歩は見られるのでしょうか?子供たちがお互いに殺し合いをする社会体制が現在の日本の姿ではないでしょうか?個人的には、いつかはミャンマーの人々から精神面の教えを授かっても良いのではないかと考え始めています。

 

6.インドとミャンマー

6.1ミルクテ-とモヒンガ

ミャンマーの街角で足の短い椅子に座って街角の喫茶店て、お茶の時間にしている時が最もミャンマーらしい瞬間だと感じるのは私だけでしょうか? 茶店に入ると必ず中国茶の入ったやかんかポットが紅茶やミルクコーヒーと一緒に出されて来ます。どうもこの組み合わせはインド文化と中国文化を併せた物として映ります。地理的にも両国に影響され易い地形です。

国民食の一つにモヒンガと呼ばれる簡易カレーヌードルスープがあります。これもまるでインドと中国の合作という感じがしないでもありません。ヌードル本体は中国の食品です。スープはどちらかと言うとカレー味でこれはインドの食品です。これらを同時に食するのがこの国の国民食なのです。日常朝ご飯の代用となったリ、夜食にも適当な食べ物で町のあちこちに屋台が朝早くから遅くまで提供してくれます。この食品について付け加えるとその味付けは魚の出し味の効いたものでもあります。マレーシアのペナンにはこれに類似したラクサという食べ物がありますが、これはカレー味が薄くそのスープは黄色くありません。しかし魚の出し汁の風味はアジアの島狭国を思い出させます。これから類推すると、モヒンガは3種の文化混合の味とも言えるでしょう。

ビルマでカレーを注文すると沢山の品が並んで来ます。インドで普通カレーセットを頼むとカレー本体にダールという豆のスープと唐辛子を利かせたアチヤールという漬物、そして玉ねぎのスライスをサラダと称して登場して来ます。ミャンマーのそれはもっと豊かでご飯は錦ごとボンとテーブルに置かれます。カレー本体の他にキャベツやレタス、香味野菜、キュウリや人参、玉ねぎのスライス等を盛り合わせた山盛りのビルマサラダも付きます。ターマリンドの利いた爽やかな野菜スープもお代わり自由です。そして魚のパウダーと唐辛子を混合したふりかけのような物も登場します。おまけに、魚醤に手を加えた特別ソースも出て来るのです。極めて豊かな食事光景です。時々私もこのお世話になります。何しろ腹一杯食べても80円から100円程度の金額です。いつかは3杯もお代わりをして食べた記憶もあります。カレー本体はインド料理なのでしょうが、スープがついたり生野菜や香草が提供されるのは中国の影響ではないかと思います。やはりインドと中国の影響はぬぐいきれないようです。

 

6.2インド人の憂鬱

ミャンマーに住むインド系の人々は近郊の町へ行くにも警察の許可書がいるそうです。掃ったときには地元の警察に報告する義務があるとの事です。いわゆる外人登録扱いで正式などルマ人にはなれないと言う事を開きました。毎年2000チャット払って書き換えをしているそうです。何人かはビルマ国籍すなわちピンク色のカードを取得できる事になったのは最近の話です。現在はミャンマーで生まれた子供達はミャンマーの市民権を持つことになるそうですが、詳しい事は次回の報告までお待ち下さい。

タージとインレーの間にカラオという小さな町があります。今でも英国風の建物が並び植民地当時の面影を覗かせています。ここでシーク教徒のホテル経営者が向こう側から自転車でやってきました。少し立ち話をしたのですが-彼はきれいな英語を話します。何処で習ったのですか?と聞いたらお父さんが必要だから勉強するように進められたそうです。勿論学校でも勉強したそうです。そのお父さんは、7年前に亡くなったとの事です。昔日本軍が駐留したころは自動車のメカニックをしていたそうで、彼は父が「日本人はよい人だった」と言って事を繰り返しました。以前は8台トラックを持っていたのですが、

それを売り払って今はホテル集を始めたそうです。ここ2、3年前から観光客が増えたそうで、彼の英語力が今後発揮される事となりましょう。

彼の妹もゲストハウスの経営に参加しています。妹はインドのアムリッツアーのゴールデンテンプルへいったことがあるという私の話を聞いてあそこは私たちの巡礼の聖なる場所ですよ!と自慢していました。心の中に両親の祖国であるインドに対して憧れが沸くのでしょうか? 私がヒンデー語を少し話す事を知ると周囲の人々はびっくりです。ネパール喫茶店のラクチュミのおばちゃんがしきりにネパール語で話し掛けてきはじめました。何しろこの近辺には、およそ200家族のネパール人が住んでいるそうです。いわゆる彼らはグルカと呼ばれています。英国の植民地化には数多くの移民が伴いました。英国の傭兵として勇敢な彼らはミャンマーだけではありません。近隣諸国のマレーシアや香港そして遠く東アフリカ諸国やフィジーに迄その影響が点在しました。この店の看板には気を付けて見なければ良く分からないのですが小さくヒンデー語でオームと記されていました。それが眼に入って私も吸い込まれるようにこの茶店を利用するきっかけとなったのです。最近のネパール事情を得々と語ったらママさんは大変ご機嫌でした。

そういえばマンダレーのエヴェレストレストランのおかみさんも両親はネパールから移民して来た子孫です。昔はマンダレーの郊外に住んでいましたが、10年前からここ市内に引越しをしネパール寺院の近くで食堂を経営し始めました。最近は外国人旅行者の間でも有名な場所となってきました。商売は順調に進んでいるようです。何処から入手出来たものかネパールのカレンダーも飾ってありました。彼女もカトマンズに対して同様な思いをもって居るのかも知れません。この国の人々にとっては我々のように簡単に国外へ出かける事は出来ません。先祖から語り続けられた先祖の母国に対しての夢が今も残って居るのでしょう。

パゴーのサンフランシスコゲストハウスの回りには外国人観光客専門のガイド兼サイドカーの運転手が待ち構えています.その中でインド系のマニさんがどうも人気があるようです。私がタミル語で話したら

本当にうれしそうでした。彼の身の上話によると、彼が子供の頃、今から30年程前にミャンマーでおきた事業の国有化政策の時に、お父さんに置いてきぼりにされたそうです。当時ヤンゴンからマドラスへ向けて何万人もの帰還者が出たことは有名です。ある人々は母国へ帰り、ある人々はミャンマーに残りました。マニさんの父はインド-帰ってしまったそうです。さて一体どちらが幸せになれるのでしょうか?インド社会と違ってここにはカースト制度と言う束縛がありません。それによる圧迫観を感じる事なく素直にのびのびと暮らせる一面を持っています。また気候的にもホット、ホッタ-、ホッテストと表現され

るマドラス近辺に比べると天国です。どうもこの国には暗さを感じさせない何かがあるようです。自称44歳のマニさんは、比較的穏やかな感じであります。明日は親戚の結婚式があって半日ヤンゴンへ出かけるとの事でした。

現在でもミャンマーにおけるタミル人の数は50万人以上いるとされています。英国がインドを利用して

この国を植民地化した時にはインド系の住民はミャンマーの人口が1600万人の中で100万人を越えたとされています。

 

6,3丁寧な言葉使い

マンダレーで仕事をしている北インド系の友人を訪ねました。彼が話せるのはミャンマー語とヒンズー語の2種類です。同じ職場にタミル系の人もいますが彼ら同士が語り合う共通語はミャンマー語となります。さて彼のヒンズー語はとても穏やかな響きを持って耳に入りました。まるでこれがインド人なのかと疑いたくなるような丁寧な教科書通りの言い回しです。ミャンマーという仏教文化がかくもインド人を穏やかな人々に作り直したように思えてなりません。その背景を考えて見ると北インドでの実際の生活はストラグル(闘争)の連続です。あの社会に生きていく為にはあらゆる場合にも自己主張をしないといけないという強烈さを持っています。それに応じた言葉使いが派生したのではないでしょうか?スラングが生じるのもその国の文化の基盤に依って左右されます。このミャンマーという穏やかなる国に於いてはヒンズー語も全く異なった生き方をしたのではないかと思います。強いて言うならば仏教の穏やかさにインド人が去勢され、インド人らしさを失ったのではないかと思えるほどです。

本国に於いてよりも国外に於いて言語が正しく受け継がれている例がまだ他にもあります。以前スリランカを訪問した時に聞いた話ですが、マドラスのタミル語は外来語が多く交わり正しいタミル語を話す人は少なくなったのに引き換え、お隣りのスリランカの北部の人々は正統なタミル語を継承しているという説も納得が行きます。

ミャンマー語についてはまだまだ私は勉強不足ですが今後の大きな課題として取り組んで行きたいものと考えています。人々の行動の奥ゆかしさはそのまま言語にも反映されているのではないかと思います。

余談ですが、マンダレーで仕事をしている友人クマールはパゴーから2時間ぐらい離れた村の出身です。両親はまだ健在です。彼の住む近くの村でサドゥガオンという村があるそうです。ここは村人全員が北インドからの出身だそうです。ここにも英国の植民地化の一面を見る事ができるようです。昔から精糖所があってここへの労働力の供給源として大量に北インドからの移民が始まったという話です。

 

6.4インドの数回にわたる文化侵攻

仏陀はネパールのルンビニに生まれ、インドのブッダガヤで悟りを開き次第にそれが近隣諸国に広まって言うたといわれています。東は日本、北はモンゴル、南はスリランカにまで広まりました。西を見るとパキスタンのガンダーラやアフガニスタンの中央部にまで一時広まったのは事実です。何世紀もかけてそこには文化の交流が為されていたのです。

パガンの遺跡を眺めていると何処となくインドの遺跡に共通した空気を感じる事があります。寺院建築のデザインも何処とはなくインドのそれと似通っています。幾つかはインドの寺院建築を模倣したものもあるようです。この影響はミャンマーだけではなくカンボジアのクメール文化もインドの影響を受けています。8世紀から12世紀といえばインドの王国は遥かインドネシア方面にまで足を延ばし、スマトラのスリヴィジヤヤ王国や中部ジャワのマジャバヒト王国等を作り上げお互いに影響し合った場所ともいえましょう。ミャンマー語の文字は南インドのパッラパン王国の文字の影響を受けているといわれます。そういえば私の知る限t)でもタミル語と幾つかはその表記法が一致する文字もあります。今から数百年も前に季節風を利用しインド洋を渡って数々の文化の交流があった事を思うと不思議な感じをうけます。一般的に我々は歴史の一駒してシルクロードなる東西の文化交流のことにのみ捕らわれがちでその他の文明の交流については以外と知られていないのが実状です。環インド洋の文化の伝播にも注目してもよいのではないでしょうか?

英国がインドを利用しての植民地化政策でミャンマーは又新しく大きくインド文化の影響を受ける事となりました。近代国家としての体制は英国のシステムをインド人の手によってここミャンマーに持ち込まれました。この事は数多くの移民を伴う一種の民族大移動にも似た形跡もあったのではないでしょうか?これだと影響を受けない筈はありません。このようにして文化の伝達は時には時間をかけて時には急速に進むものではないでしょうか?ミャンマーが近年になって半鎖国政策を取り続けているのが問題という意見もありますが、歴史の大局にたつならば現在の政府の政策は僅か致年間もしくは数十年の事にしか過ぎません。過去に振り返って眺めると何処の国に於いても永遠に鎖国状態を続ける国家は存在しません。国際関係を見るにあたり現状の分析も大切でしょうが、ここに歴史観を加える事に依って一層の深みを知る事が出来るのではないでしょうか?

 

6.5インドの偉大さを再認識

日本を離れて見ると日本の良さが解ると言われます。同様にインドを離れてみるとインドの良さを再認識するのも事実かも知れません。長年インドやネパール等を重点的に観察してきた私にとってミャンマー内部から見えてくるインドは大変偉大な国に感じる事がしばしばあります。

インドの産業の規模には改めて感心せざるを得ません。インドの強さは自国で全てのものが生産出来るという一面があります。また色々な地下資源も豊富です。経済活動も活発化しています。人口や国土の大きさがミャンマーのそれに比べて大きいという事だけではなく、文化面でもその音楽や芸能は世界の舞台で華やかに公演されて拍手を受けています。たとえマサラ映画でバターンが決まっているといえどもインド映画は発展途上国へ娯楽作品としてばらまかれ好評を得ています。

産業や文化の面だけではなく、政治や法律等の分野でも近代国家としての頭脳を発揮しています。インド自身が我が国は民主主義の国で世界の見本ともなろうという事を時々ぶち上げています。ミャンマーの国内情勢から判断するとインドの民主主義自身極めてインド的な性格のものであるとしてもこの説は肯定せざるを得ません。法律の上では言論の自由や報道の自由が保証されています。しかし直接目に映らない昔からの慣習やカースト制度などからの軋轢で実際にその近代国家としての制度が充分発揮出来るとは限りませんが、本音と建前の二本だての制度は日本でも見かける事です。我々はインドの貧困や賄賂に満ちた社会等の面だけで本当の民主主義国家ではないと判断するのは危険な事ではないでしょうか?日本は本当の民主主義国家なのでしょか?インドネシアの回教文化圏では近代国家としての西洋の影響を

受けた法律と昔から存在する慣習を起源とする法律(アダート)の二本だてで法治している場所もあります。

そのことは英語が世界の共通語として使用される今日ですが、それぞれの国民にとって必ず靴りを伴って使用されています。インド人の言毒す英語、日本人の話す英語、フランス靴りの英語等世界中には色々なタイプの英語が存在するのと同じです。それにたいして我々は一体どれが絶対的なものなのか決め付ける事ができるでしょうか? 結論としていうならば通じれば良いというのが答えではないでしょうか? ,.

インドを眺めると以外と無法地帯でアウトロー的な地域もミックスされているのは事実ですが、アメリカと並んで世界有数な民主主義国家であると答える事が出来るでしょう。インドの戦後の歴史の中で我々はここが軍事政権の下で統治された時代を見ることが出来たでしょうか? 多くの発展途上国はその発展段階で強力な軍事力を有したリーダーの指導である程度成長を遂げる事ができました。しかしインドの歴史には軍事政権が誕生しなかったのが事実です。その代行者としてガンジー家が長期に渡って

政権を担当したのではないでしょうか?

 

7.英国とビルマ

7.1植民地風のカラオホテル

マンダレーからインレー湖へ向こう道中に標高1500メーター種の高原にカラオという町があります。別名パインランドとも呼ばれ周辺の丘には松ノ木が茂り何処となく日本の景色に似通っている所です。元英国の植民地の避暑地として造られたこの町には、今でも数多くのコロニアル風な建物が残っています。当時鉄道もラングーンからここ迄伸びていたそうです。白い壁と黒い材木のコントラストは何処となく英国の田舎町の風情です。

その中で最も英国らしい建物は今から100年程前に出来たカラオホテルでしょう。機会があって内部を見学させて貰う事ができました。家具は重厚な作りでどれもどっしりとしたものです。日本のデパート等で販売されている現代風のデザインで機能的に造られた製品とは全くその質が違います。当時のパン塊の釜も現在そのまま使用されていました。この建物は政府の所有物なのですが、数年前から民間の企業が政府に家賃を払ってホテル業を始めました。物凄く賛沢な作りです。広い庭を持ち色々な花が競いあって咲いています。日本では栽培禁止の芥子の花が見事に赤く咲き誇っています。一度は泊ってみたいカラオホテルです。ちなみに料金は一番良い部屋で二人で45ドルという事です。戦時中この建物が日本軍の医療施設として利用されたと言われる由緒ある建物です。

この宿で支配人をしているのがウラ・ミンさんです。話によると幼少の頃日本の兵士がやってきてその人たちから日本語を習ったそうです。当時はマンダレーの近くのサガインという町に住んでいたとの事。半年程前から彼はこのホテルにてマネージャーとして仕事を始めてから急激にお客さんの数が増え、宿に泊る泊まらないは別としても日本人で面会に来る方も増加したそうです。ちなみに彼の給料がおよそ10,000チャットという事を彼の友人から聞きました。ホテルの勤務ですから勿論食事付きです。いつでも食事が自由に取れます。自宅へは歩いて10分程の距離ですが、お客さんのある時はホテルで寝泊まりをするという責任感の強い性格です。家には3人の娘と一人息子がいます。今は皆学生の身分でまだ当分の間、現役で仕事に精を出す体制が続きそうです。日本語は堪能ですから何度か日本へ行った事もあるそうです。娘たちは自宅で日本語の看板をあげて喫茶店を経営していました。それが眼に入って飛び込んだのがきっかけでウラミンさんを知る事となりました。

その後何かと親切にして貰う事となるわけです。このホテルのもう一つの良さはスタッフの微笑みにあるのではないでしょうか?全員それはとても穏やかで優しい微笑みを浮かべて仕事をしています。概してミャンマー全体はこんな雰囲気が当たり前なのですが、ここはさらにその上をいっている感じを受けます。一寸えこひいきかも知れませんが、百聞は一見にしかずです。機会がありましたら是非皆さんも訪ねてみて下さい。

 

7.2近代史への流れ(列国の植民地化)

昔からの仏教の浸透に依ってこの国の特異性が保たれているのではないかと思います。中世に於いてビルマはパガンの遺跡が示すように強大な王国を形成していたようです。歴史の中で数度も隣りのタイ国と戦争をし何度も勝利を治めています。ミャンマーは1824年、1852年、そして1883年の3度に渡り英国と戦いました。英国がヤンゴンに進出したのは1855年とされています。この国が第二次世界大戦後に独立したのは1947年ですから実質英国領インドの支配下にあったのは僅か、100年にも満たない期間です。英国の植民地化はインドより約100年間程遅れて始まった事となります。この事はカルカッタやボンベイのような巨大なシステムを構築するにはあまりにも時間が短かったように思います。また人口や国の規模からすればインドの10分の1以下のサイズです。

この国の土地の豊かさは充分に英国も未知していた事でしょう。地下資源や水資源に恵まれ、また森林資源にも恵まれ、まさしく黄金の国を発見したのではないでしょうか?過去3回のビルマ戦争を通じてようやく英国はこの他を支配する事となりました。まもなくスエズ運河が開通し本国との行き来は一層容易となり、フランスがインドシナ半島を手中に収める等列強の進出が盛んとなった時代です。インドネシアはオランダによって支配され、マレー半島は英国の支配下に置かれアジア地区は外交手腕にたけたタイランドを除いてヨーロッパ列強国の手中に落ちました。

しかしミヤンマー民衆との開きがあまりにも大きく、インド人の手を借りる事でようやく統治にこぎつけたと言う側面もあるようです。すなわち仏教文化とキリスト教文化の差違も大きかったのではないでしょうか? 当時の英国の政策は多くの行政部門の実務はインド人に任せ、本人達は単なる監督の立場として君臨していたようです。カラオやメイミヨ等の元イギリスの所轄した都市(町)の規模や作りはインドのそれに比べて遥かに小さく映ります。タイと同様に非常に不可解な民族だったに違いありません。

インドの場合でも英国は全く異質の文化に遭遇したわけですが、この園に残るカースト制度の利点をフルに活用する事でインドの統治を容易にしたものと思われます。 新大陸の発見とかで英国から移民した人々の集団はアメリカの独立までの間は、言うなれば英国の植民地同様な状況におかれました。

独立したアメリカに対しては、自由平等を保証し、インドに於いては自由平等の思想を全く無視し逆に差別的な行政を助長した事実がしっかりと残っているのではないでしょうか? どうも支配者階級の御都合主義を感じてなりません。勿論同じ人種に属していますから、あまり強硬な政策は取れません。

ビルマという国を考えて見ると国民は常に誰が統治していても仏教があればそれで満足し得たのかも知れません。当時英国の支配下にあったとしてもそれは全く点を統治したのにしか過ぎません。広大などルマ全体を面として捕らえて統治出来る筈がありません。インドに於いてもあくまでも拠点を押さえたにしか過ぎず、インド全体を面として統治する迄にはかなりの長い時間が必要だったのではないでしょうか?

英国はビルマで大量に生産される米の利権をめぐってかなり暗躍した気配があります。まだまだ勉強不足なのですが、歴史の本をひも解いて見るとビルマは世界中へ米を輸出する事で当時の国際社会での地位を築きあげたようです。植民地政策は本国の利益のみを追求するのが常です。米以外の商品の生産や輸出への道は全く考えること無く支配を続けました。単一商品のみの輸出では現在の国家は成り立ちません。英国にとっては自分の領土の一部でしか過ぎません。そこに住む人々の為の政策を実行した列強国途いうのは聞いた事がないのが歴史の常でもありましょう。ここに現在の経済の行き詰まりの一因が残っているかとも思えます。

さて30年前にはタイの外交官がヤンゴンへ買物に足を運んだそうです。それほどに経済の較差があったのですが現在は逆転してしまいました。当時はビルマには物資が豊富にあったようです。 考えてみるとタイはやはりベトナムの特需により急激に米国の影響をうけ経済的に拡大し続ける事ができたのではないでしょうか?

 

7.3イギリスの統治と政策

英国がミャンマーを支配したのは1855年という革になっています。この事は英国のインドへの進出や香港-の支配等に比べると10 年間程遅れて居るのです。従ってその影響はインドにおける支配よりも少

ないように見受けます。其の中で大きな位置を占めたのがヤンゴンではないでしょうか?市内には数多くの旧植民地時代の建物が残っています。しかしこの規模はインドのカルカッタやボンベイそしてマドラスのような規模までは発展しなかったようです。勿論当初は僅かに点として主要なる都市を押さえた事から始まると思います。英国の植民地化はミャンマーの土地と水(イラワヂ川)を押さえたのでしょうが、

人々の心までは統治する事ができなかったようです。

現在も仏教が根強く信仰されています。古来から続いたこの文化を捨て切る事は出来る訳がありません。一つには統治した期間が約100年間程しかなかったという事もあります。また農村部に散在する敬虚なる仏教徒にとっては植民地化されたといっても生活が変るわけではありません。農村部の隅々まで英国の統治が及ぶ事が不可能です。最終目的として英国はこの国からの経済的利益を生み出す事が出

来ればそれでよかったのかも知れません。

ここミャンマーでも英国は避暑地として高原地帯に通称ヒルステーションなる基地を幾つか設定しました.マンダレーより北に位置するメイミョウもその.一つです。またインレーとタージの中間にあるカラオもその一つです。この二つの避暑地をインド各地に点在する高原都市、すなわちダージリンやシムラ、南インドのウーティ等と比べるとその規模は極めて小さく映ります。人口の規模もインドに比べて小さかったでしょう。ミャンマー全体を考えるとその国の大きさ及び人口の規模はインドの一つの州に該当する程度とも言えます。

またこの国では石材建築を見かける事が殆どありません。たいていは木造の住居が一般的です。かろうじてヤンゴンのみが英国風の天井の高い石造建築を幾つか残しているのにしか過ぎません。当時の英国にとってはこの国も不思議な魔法の国だったかも知れません。

大英帝国の知恵は、インドに於いての古来からのカースト制度を廃止する事なく、それを促進する事に依って統治をより一層強固なものとする事ができました。所がミャンマーにはそのような制度はありません。あまりにも従順な人々にさぞかし驚いたのではないでしょうか? 従って多くのインド系の移民を伴って統治に一役買ったという事がうなづけます。この事は英国がスリランカを植民地化した時やマレーシアを支配下に収めた時も同様に数多くの移民を伴って支配の道を歩んだ事と共通しています。遠くはケニヤに鉄道を敷設したのもポンペイからモンパサへ船で渡ったインド人と言われています。英国にとって、あまりにもそのカルチャーショックが大きくてコントロールする事が難しかったのかも知れません。

ミャンマーの場合は支配されていた期間が短かったのも要因の一つではないでしょうか? 外来語としての英語の定着は大変少ないように感じます。例えばインドに於いてはポリス、ホスピタル、レール、ステーション等インド的な発音で完全に外来語として定着しています。またスリランカでも外来語として英語が数多く取り入れています。この事は我々が現地語を学ぶ際に単語力を増やすのに大きな助けとなっています。しかし外国との接触の少なかったタイやビルマの言葉は語源が現地語から構成されていますから多くは新語ばかりで面倒な言葉です。例えばインドネシア語はオランダ語とサンスクリット(インド語に関連)等が国語として混ざり合っていますから比較的容易にその詩集を増やす事が出来ました。どうも仏教国はその国の文化を揺るぎないものとして庶民の心を支えてきたのではないでしょうか?

それでもミャンマーは英国の影響を受けて独立後、近代国家として英国の行政方式や制度を導入してきたようです。一説には当時の英国政府はミャンマー人には高等教育の機会を与えなかったともいわれています。ミャンマー同様に当時鎖国政策をとっていたネパールの場合は英国の影響を数多く受けています。それはインドを経由しての文化の移入があります。

また世界各地に傭兵として散らばったグルカ兵が外部から新しい文化や思想を持ち帰った影響も大きいのではないでしょうか?1940年代に発したラナ家の専制の終結に端を発した民主主義の要求は英国で教育を受けた元グルカ兵達といわれています。ネパール国民会議派の結成は元グルカ兵から始まったとされています。ミャンマーからも多くの人々が英国にて教育を受・けた筈ですが、歴史の長さから言うと英国の支配が短期間であった事からその影響は低かったとも言えましょう。また多くのミャンマー人が英国へ出かけた形跡もありません。あくまでもインドを経由した英国との関係とみるのが妥当ではないでしょうか?

現在のミャンマーと英国の関係は悪くもなく良くもないという状態でしょう。しかし統計によると英国からの投資が今でも総額で一番大きくなっています。この国での投資で一番金額の大きいのは石油資源の開発に関連した部分です。英国の狙いは、この当たりにあるのではないでしょうか?

最近インドネシアでは通貨の混乱を引き金として暴動が発生しています。こういった際にスケープゴートとなるのが中国系の商店が的となるのが常です。最近のタイムに載っていた記事を要約すると、現在のインドネシアでは二億の総人口の中で500万人の中国系移民が存在し彼らに経済は握られているのが実状のようです。中国人の入植は古くは13世紀から海を越えて流入して来た人々から始まったと言われています。それ以降オランダの植民地化が始まる迄は地元の人々との協調で何ら大きな問題もなく過ぎたようです。しかしオランダの植民地化政策の一環として、中国人が現地のインドネシア人との仲介役や、中間管理織的存在となり、またオランダ人に代わって税金の徴収役を引き受けたりした事から次第にインドネシア人との溝が深まったようです。1959年にインドネシアの軍事政権が村落部に於いての中国人の出入り禁止策を講じた結果都市部に於いての中国人の経済的力は逆に増大したそうです。続いて1966、年には共産主義の弾圧という名目で中国人が数千人死亡したのも歴史の中で記載されています。常にスケープゴートとして中国人は迫害を受ける立場に追い込まれています。今回もそれに類似したものでしょう。しかし今直の通貨不安で大量の資金すなわち400億ドルの資金の大半が中国人の手によってインドネシアから香港などの国外へ流出し過去三十年間の富みの蓄積がふっ飛んで行ったそうです。

すなわち国家に於いてはまさしく危機感が高まるばかりの悪循環となった訳です。単に庶民の不満のはけ口として中国系インドネシア人を叩いても結果的には国家の経済が破綻する事に人々は気が付いていないようです。インドネシア政府も今回の経済危機には為す策もなく今も混乱が続いています。この現象をミャンマーと比較するとかなり面白い発見ができるのではないでしょうか? 歴史の中でミャンマーの位置づけは英国鎖インドの属国として1855年から統治が始まりました。当時はインドから多くの技術者や医師、会計官や鉄道技術関係等の人々は流入し其の数は1943年の日本軍進出の前に最帯数に達し約当時の人口1600万人中100万人のインド系移民が居たそうです。現在でも50万人以上のインド系ミャンマー人が存在しています。外に中国系移民もそれ以上に数を増やしているようです。

かなり長期の間に渡ってインド系移民に依って主要なる行政部門が支配され続けてきたのがここミャンマーの近年の歴史かと思います。其の過程の中で1966年にミヤン寸一政府による産業の国有化政策で、当時15万人以上がインドへの帰還者した事は有名です。今でも南インドのマドラスにはビルマ・バザールと呼ばれている有名な密輸品専門の商店街が堂々と軒先を並べています。その店のオーナーの多くは元ビルマ在住者だった事から来ています。ミャンマーでは、現在でもある程度の圧迫や差別等があるようですが、前述のインドネシアのように険悪な状態には至らなかったようです。1960年代といえば東南アジア諸国は共産主義化の懸念から多くの国が軍事政権の元で反共主義を打ち出した時代です。また同時に民族主義の高まりで自国民による政治、経済の運営を担うべき必死に各国は動いたのではないでしょうか? 政治的権力を手にしても、経済の実権を握るには余りにもその道は程遠かったようです。 近年の

スリランカ等は、ようやくランカ人の実業家や経済人の登場で政治部門だけではなく経済部門に於いても頭角を表し始めました。マレーシアもブミプトラ政策をもって自国のマレー人優先策でマレー系の人々の力を押し上げるべき政策を続けようやくマーレ一人の経済界も力をつけたようです。しかしマレーシアに於いてはいまだに中国系のマレー人に経済は支配されているのが実状です。

こうして眺めるとミャンマーもこの先経済の発展には時間がたっぷりと必要な感じがします。 他国に習うべき点が数多く残されているのではないでしょうか? 移民を帰還させる事は国外への莫大な資産の逃避と頭脳流出が伴います。

 

8.日本との関係

8.1第二次世界大戦

戦時中の日本人兵士は諸外国へ足を踏み入れる前に文化の相違については全く知る事なく放り出されたのが現実でした。多くの兵士にとっては始めての国外の体験です。自国の文化にたっぷりと浸った人々が大量に派遣されたのは事実です。すなわち他国の文化を知る事なく踏み入ってきた日本人の集団はさぞかしビルマにとっては迷惑だったかも知れません。

当時の様子は私にとっては詳しく解りませんが、確か日本軍はインドのインパールへ向けてトの進行作戦を打ち立て、それは余りの無謀さで有名になりました。当時のミャンマーの指導者でもあるアウンサン氏との約束であったビルマの独立を保証する事すら実行せずに単に占領の形を継続したようです。同様な事はインドネシアのスマトラ島の北先端部に位置するアチェ王国の関係にも似ていました。アチエ王国は当初は日本軍に対して好意的でしたが最終的には反日感情が高まり日本軍は終戦を迎える前に撤退を余儀なくされたという記述があります。

さてビルマは戦後の賠償を日本から殆ど受け取ろうとしませんでした。日本は韓国や中国そしてインドネシア等へは巨額の賠償を支払った筈です。勿論このビルマに於いての日本軍の侵攻は時間的に極めて短いものであったと思います。1942年から僅か数年間統治にした過ぎません。それに比べると韓国や中国に対しては長期間に及ぶ占領期がありました。勿論これは占有期間が短かったから補償は少なくて良い等と言う意味は全くありません。他人の畑へ無断で足を踏み入れた事に変わりはない筈です。ビルマ人の感覚からするとそれは、戦争だったから仕方がないという表現で終わってしまうようです。ここに仏教国としての寛大さが現れているのではないでしょうか? 同様にアジアの仏教国であったスリランカも直接の利害関係は持たなかったのですが、サンフランシスコ講和条約の会議の席で元大統領のジヤヤワルデネ氏が率先して日本の立場を理解した発言をした事で有名です。

 

8.2新しい訪問者

最近近日本の人が多くがミャンマーを訪問するようになりました。戦没者の慰霊を兼ねた年配の人々もいます。ミャンマー観光年以来観光客やビジネス客は増加の一方をたどっています。太平洋戦争当時喝役であった人々はかなりの高齢に達しています。今はその子息達やお孫さんに当たる人々が慰霊を兼ねた旅に加わっているとも聞きます。NGO を兼ねて訪問する動きも多少活発化して来ました。多くの学生が卒業旅行と称して外国へ足を踏み入れます。ミヤンマーもまだ数は少ないのですが、一部の学生のあこがれをそそっています。多くのパッケージ・ツアーの人々が日本からビルマに観光に来ます。年金/叫カーとか称する中高年の長期滞在の人々も増えて来ました。様々な人々が謎の国ミャンマーを一日見ようと乗り込んで来ました。 最近の統計では日本人の訪問者の数は年間2万人程度となっています。しかしその多くの人々はミャンマーをどのような目で捕らえて帰国するのでしょうか? 彼らに共通するのはなんでしょうか?

最近の我々の生活に於いては異国の文化を国外で生の体験を通じて知る事が極めて容易になりましたd何しろ昨年度は1300万人の日本人が国外へ出かけています。 異国の文化を国外での生の体験で知る事ができるのです。しかし文化を共有するということまでは発展していないように見受けます。彼らの結論は、日本はやはり良い国という印象を持って帰ります。日本の国が一番優れているという認識を発見して帰国する人々が多いようです。 他国の文化についてもガイドブックに記載してあることを確認しただけにしか過ぎません。 何故もっと深く異国の文化を各人がそれなりに考察しないのでしょうか?多くの日本人が殆ど同様な答えを見出して結論を述べています。 文化の相違イコール単に風変わりである事のみで済ませてはいないでしょうか?表面のみを眺めて帰る旅行はそろそろ終わりにしても良いのではないでしょうか?

異なった気候や風土に於いては異なった文化の基盤が存在している事は事実です。さらにその基盤が人為的な環境で育まれ周囲の影響をうけあい独自の文化圏を形成してきたのではないでしょうか?日本の文化が決して優れているとは言い切れません。気候や風土が変ればそれに応じた文化の発展が存在しています。そう言った事実を認識し、考える事から真の理解が得れるのではないでしょうか?

ミャンマーを旅した人の意見を聞くと大概は良い国だったと答えが返ります。しかしどういった点が良いのか? 何故良いのかに関しては答えが見つかりません。 単に遺跡はすごかったとか、物価は安かったとか、ミャンマー料理は油っぽい、人々は素直で安心して旅が出来た、パゴダが素晴らしい、等と述べています。そしセミヤンマーは矢張りまだまだ遅れていて貧しい園というイメージで終わっています。本当にミャンマーは遅れているのでしょうか? 本当にミャンマーは貧しいのでしょうか?その国を表面的に眺めるだけではその文化を真に理解できないと思います。あらゆる視点から常に疑問を持って旅を続けて行きたいものです。

第2時世界大戦は日本の軍隊はアジア共栄圏というスローガンを掲げて南洋やアジア諸国の侵攻を始めました。それは経済的利益の確保を理由としての行為だったと思います。そして最近再び、多くの大量の日本人が押しかけるようになりました。さてその目的は一体何でしょうか? それは以前と同様に経済的利益の確保が出発地点となっていないでしょうか? 商人やビジネス関係の人々は当然の事でしょう。 我々自体の生活が完全に資本主義の枠組みに縛られている限り利益を生み出す可能性があるからこそ、そこへやって来るのが現実です。

また観光旅行社の主催するNGOツアーにも疑問点が沢山残ります。 彼らの行動はどうも現状を真に理解していないように見えます。 賛沢三昧を兼ねた観光ツアーを何故何々NGO ツアーと名前をつけるのでしょう。国との関係に於いて我々はすぐに経済的な尺度をもってその国の豊かさを決めがちです。そこからは真の文化理解が得れるでしょうか? 「ビルマは矢張り貧しい国ですね」という反応しか見られないのは残念な事です。今後の国際関係を見るにあたり精神の豊かさを必ず加味する必要があると思います。単に貧しいから援助を差し伸べるという発想はそろそろ転換すべき時代になって来るのではないでしょうか? いつかは精神的に豊かな国が、物質的に豊かであっても精神的に貧しい国に対して援助を与える時が来るのかも知れません。簡素な生活を営むミャンマーの僧侶が日本の国家のアドバイサーとして登場する日がくるのでしょうか?そういえば日本の経済評論家の大前研一氏はマレーシアのマハテール首相の要請でマレーシアのアドバイサーとして起用されたと聞きます。

 

9.乗り物あれこれ

9.1パガンへの船の旅

5:00 マンダレー出港
10:00 バナナ村到着
12:30 スイカ村到着
13:30 普通の村到着
14:30 ひまわりと菊の村到着
18:30 客引き乗り込み
20:10 終点パガン到着

 

今日は待望のパガンへの船の旅の始まりです。宿の手配で朝の4時半にタクシーを予約したのですが、時間を過ぎてもタクシーはやって来ません。しかしここは真心で応対するのをモットーとするミャンマーです。宿の番頭さんが機転を利かせてサイカー(リキシャ)を調達してくれました。 「タクシーは来ないようだからこれを利用して下さい」としっかりとケアをしてくれます。 船着き場に着いたのはまだ夜の明けない5時前です。 周囲は薄暗い中に侘びしく蛍光灯や裸電球がまばらに周囲を照らし出しています。

今日の朝は5時半にパガン行き、そして6時にはメッチナ方面へ行く船が運行される予定です。 かくして大金の10FECを窓口で買い求め乗船です。 事前に、政府観光局で切符を買うと何故か1ドル分多く払う事となります。しかも観光局の窓口では、予約しておかないと席が取れないかもしれません」としきりに切符の購入を迫って来るのでした。

2月の早朝マンダレーの朝は寒いぐらいで、準備していた防寒具が役立ちました。船体は今にも沈没しそうな程におんぼろ船です。 上部デッキと下部デッキに別れています。地元住民の多くは下部のデッキを使用しています。デッキですから皆思い思いの場所を陣取って座り込みをするだけです。 乗客も多いのですがそれにも増して荷物も大量に積み込まれています。 船内には、それなりにも食堂が併設されています。 紅茶やコーヒーそして食事の不自由もなさそうです。

船はほぼ定刻に出港です。まだ肌寒い空気の中をエンジン始動面舵一杯いざ出港という感じです。目的地-の到着予定は午後7時となっています。時間通りに運行出来ないのは何処の国も同じようです。最近これを利用した旅行者の話では9時に着いたという報告もあります。暫く進むと次第に夜が明け始めました。 丁度、サガインという町を通過する所です。 丘にそびえたつパゴダと夜明けは絵になる風景です。

船は器用にジグザグ走行を続けます。所々に浅瀬があるのでしょう。川幅は広いのですが座礁しないように安全通行です。 殆ど何にもない広大な川を船はゆっくりと下ります。 上部デッキには30個程の藤椅子が準備されていました。のどかそのものです。道中5回の寄港地を経て終点のパガンには夜の8時10

分の到着でした。 途中色々な所に寄港し荷物と乗客を乗せたり降ろしたりの連続です。 多くの船着き場近辺には建物も何も見えませんが、船が着くと何処からともなく人々が集まって来ます。小船もやって来ます。 船着き場からさらに対岸の自宅へ向うのか少しばかり川下に家があるのか、買込んだ品物を積み替えて彼らはまた船の旅をするようです。 船といっても手漕ぎ船です。 寄港地では地元の人たちが食べ物の販売に精をだしています。 眺めていても厭きの来ない風景です。これでも人々の生活が成り立つのかと感慨深くなります。 イラワジ川の船旅を満喫する事となりました。 終点の一つ前の寄港地からはどっと20人ばかりの若い衆が乗り込みました。彼らはどうも客引きグループのようです。 利用

客からのお褒めの言葉が満載されているノートブックを抱えて集客に懸命です。 どの宿も料金は、3ドルで朝食付きが相場のようです。 さて何処にしょうかな?

船が終点パガンに到着すると待っていましたとばかりに岸辺には政府の事務所が開店します。ここで我々はパガン遺跡の入城料金10ドルを徴収される事になるのです。それぞれの切符には氏名とパスポート番号が明記され他人への転用が出来ないように配慮されています。看板を見ると頼光客は10ドルなのですが、観光日的以外の外人すなわち留学生や公務で訪間する人々は50チャット払って下さいと書いてあったように思います。それにしてもこの旅は筆舌し得ない何かを感じさせてくれました。まるでお伽話しの世界ではないでしょうか?

 

9.2レオイクスプレス

時刻 内容
16:00 ヤンゴン出発
17:30-18:10 パゴーを過ぎて夕食
23:00-23:40 タウンゴーで夜食
4:00-4:30 メッテラで朝食
7:30 万たれ―到着

 

ヤンゴンからマンダレーへは高速バスの競争が激しいようです。 以前トップの座を誇っていたレオイクスプレスは最近評判を落としました。人々に聞くとチャウイクスプレスが良いという噂が広まっています。最近この会社は日本から使い古したハイデッカータイプのバスを導入しました。これが大当たりしたように見受けます。

さてさてこの区間のバスサービスは安くてしっかりとしていて定評があります。 料金は一人1800チャットで外人も現地の人も同一料金となっています。 いわゆる深夜特急バスとでも言いましょうか?日本からの比較的新しい中古品を利用したサ―ビスです。完全予約制で安心して利用する事が出来ます。 しかしこの国の交通システムは右側通行なのですが、殆どの日本車は右ハンドルですから乗っていると何となく恐い感じもしない訳ではありません。 しかしこの深夜便は乗務員が4名程乗り込みます。交代の運転手は勿論安全係りとでもいいましょうか、いわゆるナビーゲーター役をする人は、運転手の盲点と

なっている部分を補佐して突っ走っています。 深夜と言えどもこの国では国道には牛車が出没する状況です。そんな時はゆっくりと徐行せざるを得ません。 ヤンゴンからマンダレーの間は約700キロ程あります。この区間を15時間程度で進むのは以外と早いのかも知れません。

無論会社に依っては食事なしで価格の安いのもあります。 お客様の懐次第で選択の幅がありますから心配は無用です。 この国では長距離バスは基本的には何処から乗車しても料金に違いはありません。ヤンゴン~マンダレーの間をパゴーで降りてもメッテラで下車しても同一料金です。タウンジーからのヤンゴン行きは道中半分しか乗らなくても全区間の料金が適用されます。ヤンゴンからパガンの路線に関しても同様で道中の半分弱まで進んだピーからの乗車、下車でもピーからヤンゴンの区間の料金を払う事となります。それが嫌ならば区間ごとにバスやラインカー(ピックアップタイプの乗合トラック)を乗り継ぐしかありません。しかしこの方法ではいつ目的地にたどり着く事になるかは不明です。幸運であれば早く到着します。通常8時間で着く区間も不運であれば道中2泊3日という事態も発生します。

 

9.3バス、ラインカー

ヤンゴン市内を走るエアコンバスはスーレーパゴダから郊外のバスターミナルまで20チャットの料金です。 しかしこのバスの車内にはビニール袋が沢山ぶら下がっています。他の国には見られない奇妙な光景です。 良く考えてみるとこれはミャンマー人の大好物であるビートルナッツで作られたチュウインガムの吐き出しを目的として準備されている事に気がつきました。インドでは別名パンという名称で出回っています。 始めてこれを見る人にとっては彼らの口から真っ赤な液汁を吐き出すのを見て病人が血を吐いているのではないかと不安に感じる人も居るでしょう。 ミヤンマー人で真っ白な歯を備えた人は少ないようです。 そういえばピー行きのバスの座席にもこれが準備されていました。始めは高速バスで揺れが多いから気分が悪くなった時にお使い下さいと同じものかと思いましたが、この国では逆で気分が良くなったらお使い下さいという事なのでしょう。

大体に於いてミャンマーの長距離バスは市内へ乗り入れる事なく郊外のバスターミナルで終点をなります。これと市内を結ぶのが市内バスでもあり、時には軽トラック改造のトラックバス。現地語ではラインカーと呼ばれています。 時にはこのラインカーはヤンゴンからパゴーまでの80キロ程度の距離を移動する事もあります。 多くは満鼻になり次第発車となる乗り物です。 大体日本製のトヨタハイラックスの機種に20人から30人種乗ります。地方では屋根の上に荷物をたっぷりと積み込みさらに乗客も楽しむかのように屋根を選んで座ります。日本で言われている道路交通の安全基準等というのは此処では全く通用しません。対向車がいないと屋根の上に乗客がいてもかまわずにスピードをあげて走ります。もしかして遊園地のジェットコースターに似た快感が味わえるのではないでしょうか? 彼らにとっては大変な刺激となるのかも知れません。 世界共通で市街地に入ると屋根への乗車は規制されているのでしょう。 郊外に出てしまうと待っていたかのように若い連中は屋根の上に登って行きます。

以外とこの国の交通機関は、朝は早くから運行しますが夕方は早くから終了してしまいます。ミャンマーだけの話ではありません。インドネシアでも市内と空港を結ぶ市内バスは、朝は4時前から運行しますが夜は6時が最終という経験があります。早起の苦手な人にはミャンマー観光はむきません。マンダレーからインレーへ向う直通バスは朝の5時発の一本だけです。 パガンからインレーへ向うバスも朝5時発です。 マンダレーからパガンの船は朝の5時半か6時の出港です。 極めて健全な自然と共生した人生を送る事が出来るかも知れません。

 

9.4ピー行き急行バス

ヤンゴンとピーの間は立派な道路が出来上がっています。ミャンマーの独立に力を尽くしたアンサン将軍の出身地がここです。そういえばここはどちらかと言うと地形的には行き詰まりの場所です。ここを経由して海につながり世界へと通じる事もありません。交易の中心として中国やインドへの国境に通じているのでもありません。かくして考えると政治的な配慮で作られた道路と見なせるでしょう。

この路線を運行するバス会社は数社あり、競争しているようで何処の会社もサービス合戦を繰り広げています。ヤンゴンのバスターミナルではほぼ同時刻に3から4本のピー行きのバスが発車します。その多くの車両は最近まで日本の高速道路で使われていたバスがそのまま充てられています。車体にはしっかりと西日本JRバス等と書き込まれたまま運行しています。内部には東武鉄道、関東バス株式会社等という表示も残したままです。 非常口とか、お降りの方はこのブザーを・・.等と残っています。何となく懐かしい気持ちで利用する事が出来ます。 今回はこのバスの乗客の中で外人は私一人です。

運転手と車掌と安全係りの3人のスタッフで運行されるピー行急行は250キロ短の道を6時間程の所要でぶっ飛ばします。今回はラッキーな事に道中夜の7時過ぎに夕食タイムとかでドライブインに休憩に入った時にスタッフが私を夕食に招待してくれました。丁度お腹も空いていた時間です。遠慮する事無く彼与と同席して一寸秦華に腹一杯詰め込みました。バスの乗車券は300チャット(150円)です。食事をまともに食べると150-200チャットの金額に匹赦します。 これで良いのでしょうか。スタッフの食事はそのドライブインからのプレゼントになるのがこの国での慣習のようです。私もそのおこぼれに預かったわけであります。 ご馳走様でした。

 

9.5カラオの列車はすごいおんぼろ

さて今日の列車は大変古い車両です。下り列車は数時間遅れての運行です。 駅員の話によると線路の上に材木が倒壊して今それを除去作業中でそれには2時間程要するという説明でした。 果たして今日の列車は定刻通りに出発し無事終点に到着出来るのだろうかと少し不安を伴って乗りました。 何しろこの駅では一日上り列車が3本下り列車が3本しか運行されません。列車の料金は同じ車両に同じような椅子に座るのに外人1.000チャットと現地人60チャットという価格の開きが存在します。 暫く待っていると定刻より半時間程遅れて予定されている列車が入線してきました。 駅員は親切に私の座る席まで案内をしてくれました。

列車は定刻より30分権遅れて午後1時30分過ぎの出発となりました。しかし線路の状態はとても悪くてスピードを出す事が出来ません。縦揺れ、横揺れJ斜め揺れとあらゆる方向から我々を揺さぶってくれました。 のろのろ運転の路線です。言うなれば動く木の箱とでも言いましょうか? 日が暮れると勿論の事電灯も着きません。 暗がりの中を乗客は只列車が目的地に着く事を待っているのみでした。 時々鉄道公安官が懐中電灯を数秒間照らしながら下車する客の荷物に間違いのないようにI光をあてかけています。勤務中なのか、休憩中なのかよくわかりませんが、私の前の席には制服姿の鉄道公塵官が横になっていました。どうもミヤ.ンマーのレールウェイポリスはだらんとした感じです。タイのような規律正しさは全く感じられません。

車窓からの風景は旅の心を和ませてくれます。この区間は山岳路線です。日本のような景色も登場しました.所々併せて3個所のスイッチバック方式で急坂を登り下りする区間もあります。 ひなびた山村の合間をぬって列車はカーブを曲がり、森林地帯を縦横に揺れながら走っていきました。すごくビルマを感じさせる乗り物の一つです。 乗客はそれぞれに大量な荷物を持ち込んでいます。 あれれ隅っこへ鼠が走っていきました。 終点のタ-ジには、7時過ぎの到着でした。

 

9.6ヤンゴン~マンダレーの列車は?

今日も昨日に続いて列車の旅です。ミャンマーの中ほどに位置するタージという所からヤンゴン郊外のパゴーまでおよそ500キロの鉄道の旅が始まります。昨日の列車は、景観はよかったもののその設備には多少うんざりしていた所です。今日はどのような車両に乗り込む事となるのでしょうか? このタージの駅は丁度交差点です。 東へいくとインレーへ、西へいくとパガンへ、 北-進むとマンダレーへと鉄道は伸びています。勿論南はヤンゴンへと通じているのです。

列車は予定より一時間程の遅れでマンダレー方面からやって乗ました。ここでも親切に駅員が「貴方の座席はここですよと」案内してくれました。列車を待つ間は駅構内の喫茶店が陽気に私を歓待してくれました。 なんら退屈する事なくあっという間に時間が過ぎて行きます。

さてこの列車は昨日とは大きく異なり普通車両と言えどもしっかりとした設備です。 ペンキのはげている所などは殆どありません。 座席もしっかりとしています。 おまけに電灯もついています。それも蛍光燈の明かりです。さすが幹線だからでしょう。 何処の国でもそうですが主要路線では最新の車両を投入して運行しています。 列車は大平原の中を疾走して行きます。 丁度乾季の真っ最中ですから、車窓からの眺めは壌っぽい印象です。 所々標高の低い土地や川の近くは青々とした景色を楽しむ事ができます。

インドと同様に車内では色々な品物を販売しています。果物や飲み物おまけにご飯ものも駕龍に入れて売り子さん達が何度となく行ったり来たりして商売に励んでいます。 列車が停車するごとに地元の人々がまたまた食べ物の販売に声を掛けて来ます。 僅かの停車時間を利用しての一儲けでしょう。

その中にはお茶の販売という特殊な分野もあります。 やかんを一個ぶら下げて歩いています。 私の向い側に座っていたミャンマー人が売り手からそのやかんを受取り、自分の水筒にお茶を詰めています。支払った料金は5チャットでした。すなわち2円50銭という金額です。これでも商売となる社会です。 茄卵は一つ15チャットから20チャット(10円)で売っています。 何でも無茶安のー世界です。 インドの列車と同様に車内販売が沢山います。 駅に到着すると競いあって声を張り上げ地元勢が商売に精を出しています。 インド社会ではこの仕事をしているのは全部男ですが、ここミヤンマーでは男女性別不問でこの世界に入れるようです。 ですから私たちはすぐに可愛い娘さんから品物を買ってしまいがちなのであります。

列車は幾つもの村や町を通り抜けして行きます。ある所ではサトウキビを満載した貨物車が

ずらりと並んでいました。牛車がそれの積み込みをする風景も日に入ります。 何となくインド的

な光景です。 タイの園を表す動物は水牛になっていると思います。 インドといえば牛が神様の

ように君臨出来る土地です。 インドネシアの水郷地帯でも牛を見かける事があります。こうして

見ると牛イコール水田耕作地域といえましょう。 砂漠の動物といえばラクダ。 草原地帯といえば

馬が似合うのではないでしょうか? さしづめネパールの山間部での動物のイメージといえばロ

バなのかも知れません。

車内では検札が4回行われました。結構頻繁に行われています。マンダレーからさらに北に位置するメッチーナへ列車で旅をした人の話によると、列車内では乗車券を調べる鉄道係員、荷物検査をする税関の係りの人、そして不審人物をチェックする官憲(軍人)という具合に誰が誰なのかわからなる具合に入り交じっていたとの話です。 辺境地区へ向う列車という特殊な条件があるからでしょう。 この区間は鉄道員と私服の警官が乗り込んでいたように見うけます。

車内は全て座席指定制となっていますから立ち席はありません。乗車券には必ず座席番号が振ってあります。 それもミャンマー数字で記されていますからなれないうちは何処なのか良く分かりません。 時々窓口の係りが親切心で切符の座席番号を世界共通なる算用数字で書いてくれるのは嬉しいのですが、実際にその車両に乗り込むと表示が現地の数字で書かれていて逆に混乱する事があります。

現地の数字を使う国は結構あるようです。バングラデッシュでもそうです。ネパールもそうです。 アラブ諸国の多くは独特のアラビア数字を日常生活に用いています。 自動車のナンバープレートの表記は自国の数字で示している国がまだ数多くあります。その国の人々にとっては使いなれた自国の表記法ならすぐに理解できるのも当然です。

逆に我々にとっては悩みの種となるのです。 ある園に於いてはこれをよいことにして我々旅行者をたぶらかす場面も時々発生します。 しかしミャンマーにおいてはそのような話はあまり耳にしません。

 

9.7チャリンコタクシー

タイランドではバイクタクシー等と呼ばれる公共交通機関があります。渋滞を器用にくぐり抜け町の隅々まで我々をバイクの後ろに乗せて走る一種のタクシーです。 バス停等にこの軍団がたむろしています。 さてパゴーでもこれに似た乗り物を発見しました。 しかしこれはバイクではなく自転車でした。町の交差点に自転車で客待ちをしている姿が見うけられます。 側を通ろうとするとささやきかけてきます。 距離に依って料金も違うのでしょうが、一寸あそこのお寺迄という時には便利な乗り物です。歩いて30分ぐらいの距離を乗って20チャット(10円)ですから、タクシーの代用にもなります。感心した事に極めて安全運転です。 座席いや荷台も普通の自転車よりも大き目に出来ており、心持ち前方の勾配が低く快適な乗り心地でした。 私の利用した自転車が偶然にそうだったからでしょうか? ともかく機会がありましたら是非試してみて下さい。

 

9.8サイカー

最近公害問題が世界の大きな話題になっています。昨年12月には京都で排気ガスの規制に関する国際会議が開かれました。 化石燃料を利用する運送方法は何かと排気ガスを伴い地球温暖化や温室効果等で地球の気候を大きく変動させる要因となっているようです。

そう言った中でアジア社会のあちこちに全く無公害の交通機関があります。 国に依って名称が違います。インドではリキシャと呼ばれ、町や村での大切な交通機関となっています。カルカッタのリキシャは車輪の大きな日本の明治時代の型と同じです。マレーシアのペナン島のリキシャは観光化しましたが、リヤカータイプで乗客は前に座り運転手が後ろからペダルを踏みます。タイでも地方へ行くと見かける事が出来ます。インドネシアやミャンマーの無公害車はサイドカータイプです。最近はこの種類の乗り物の良さが再び脚光を浴びて来ました。ネパールのカトマンズ等では車体の後ろに大きく英語で無公害車と誇らしげに書き込んで市内を走り回っています。

ミャンマーもそのリキシャすなわち現地語ではサイカーと呼ばれる乗り物ですが、インドのそれは重量超過をものともせずに汗をたらたらと流しながらやせ細ったじいさんが運転している光景が浮かびます。 それとは対象的なのがここミヤシマーではないでしょうか? 食料に恵まれた国を象徴するかの様に体格が良く血色の良い兄ちゃん達が、客があっても無くてもどうでもいいやという雰囲気の中で客待ちをしています。じっくりと自分のサイカーに腰掛けて一日中読書にふけっている運転手もいます。これぞまさしく低公害車の中の低公害車ではないでしょうか? 参った!参った!ミャンマーでは大きく社会観を変えざるを得なくなりませんか?

 

10.都市と農村

10.1ヒンヅー寺院とモスクが並ぶ

ミャンマーでマンダレーとヤンゴンだけを眺めて帰国するとその印象は本当にミャンマー

は仏教の国なのだろうかと不審に思うのではないでしょうか? ヤンゴン市内には教会もあ

ります。回教寺院も沢山あります。 ユダヤ教の教会もあります。マンダレーも同様です。概して何処の国でも都市部には色々な人種が集まるのが常です。それを象徴するかのように都会のあちこちには教会や寺院がその種類を異にて乱立するようです。

しかし多くの農村部に住む殆どの人は仏教徒で彼らが全体の数字を押し上げているのですが、時にはその事を見失う場合もあります。 インドネシアのバリ島は多くがバリヒンズーを信仰しています。スマトラのトバ湖周辺は圧倒的にクリスチャンの住む地域です。 しかしインドネシアの国教は回教となっています。マレーシアに於いてもこの国が本当に回教国なのかと信じられないくらいに異教徒が西海岸に住んでいます。 ペナン島等はその典型でしょう。しかし東海岸を旅すると矢張りこの国はイスラム教の国だと再認識する事があります。

ミャンマーでも北部へ行くとキリスト教信者はかなりいるそうです。 インドのビルマ国境周辺の州では早くからミッション系の学校が建設されて住民の多くはキリスト教信者だという話も聞きます。 そういえば以前宿泊したYMCAの受け付けの姉さんはミツチーナの出身でクリスチャンでした。国を観察する時はマクロとミクロの二つの眼鏡を準備して探検に出かける事としましょう。

 

10.2都市の個性

今回の旅で幾つかの主要な町を訪問する事が出来ました。それぞれの町のポイントを列記してみたいと思います.まずヤンゴンは矢張り首都としての風格及び活気があります。 そのエネルギーは隣りのバンコクに比べると規模の点では小さいのでしょうが、人口は周辺を加えると500万人とも言われています。今後急速に人口も増大していく可能性があるでしょう。しかし他のアジアの巨大都市と違う点はスラム地区がないという事ではないでしょうか? 今後2015年にはボンベイの人口は3千万を超える可能性があると懸念されています。果たして将来のヤンゴンの人口はどの位に増加するのでしょう。

マンダレーは別名中国人の町とも呼ばれています。この都市の仏教徒の数は7割しかいないという話を聞いた事があります。 最近はミャンマー語の話せない人々の数が急激に増えたと話しています。お隣り中国からの経済難民の流入でしょうか?市街は碁盤の目のような作りになり住所を示す時には何番通りと何番通りの間とか何番街と何番街のコーナー等という表現が為され大変わかり易いのが特徴です。いわゆるアッパービルマの中心都市なのですが、その規模は日本の何処かの人口10万人程度の地方都市という雰囲気がしないでもありません。

パゴーには有名な寺院が幾つかあります。ヤンゴンの衛星都市みたいな感じもします。市場はいつも賑わっています。どちらかというと喧騒の町とでも言いましょうか?ヤンゴン市内は最近ビジネスライクになったようで、大変忙しさを感じます。ここは、まだ田舎町の雰囲気が残っています。茶店のマスター相手にのんびりと世間話しをする余裕があります。町の中心部には回教寺院やヒンズー寺院があり、ヤンゴンほどではありませんが、ここも雑多な人種の集合地帯です。 この駅では今でも蒸気機関車を見る事が出来ます。 宿も安くて清潔で親切です。つい滞在が延びてしまいそうです。

パガンはほぼ100%仏教徒の住む遺跡の町です。 ですから極めてビルマ的雰囲気を感じる地域です。 その空気といのは、別の言い方をすればだらしなさ、いいかげんさ、怠惰な性格という意味合いも持っています。良い意味で表現すると寛大でこせこせしなく、ゆったりとした性格とも言えましょう。 ボヘミアン的空気の漂う町でした。 インド系住民や中国系住民からあなた方は怠け者だから発展しないと指摘されても平然として人生を送れる性格ではないでしょうか? 我々も少しなりともあやかりたいものです。

タウンジーは高原の町です。ここにも大学が設置されていますから、この地域での重要な地位にあります。ここには、ちらほらとインド系ミャンマー人も多く住んでいます。 何処かタイランドの北方の町に似た感じを受けます。 何処からともなく首長族みたいな少数民族が買物に来てもよさそうな町です。シャン州の州都としての繁栄は今後も続くの でしょう。何しろここはシャンプレートと呼ばれる大高原を抱えています。雨季の頃にくればさぞかし青々とした大地を見る事が出来るのでしょう。 高原野菜が沢山取れそうな感じがします。ジャガイモが美味しいのではないでしょうか?

ピーはミャンマーの中でもっともミャンマーらしい都市だといわれています。 ミャンマーの誇るイラワジ川に面して可愛い町です。7から8世紀に建立された仏教遺跡も修復作業が始まっています。ミャンマーの大半を構成しているビルマ族の根城ともなっています。ここもどちらかと言うと殆どが仏教徒です。典型的なミャンマー人の空気が漂います。しかもオリジナル的存在である事を誇れる町とも言えるでしょう。国家のヒーロー、アウンサン将軍は、ここが出身地ですからね。

カラオは別途詳細が述べてあるので重複するかも知れません。 英国人に依って造られた町でしょう。昔は何もなかったジャングルに近い所を切り開いて、よくも町に仕立てあげたものです。高原に位置していますから、気候的にかなり朝晩冷え込みますので厚手のセーターが欲しい所です。 そういった事でネパールのグルカ兵やその子孫が好んで住むようになったのではないでしょうか? インド系の住民やネパール系の人々も結構住んでいます。 ゴールデンカラオゲストハウスの大将はインドのパンジャビ州のシーク教徒がルーツです。彼の義理のお兄さんも同じくパンジヤビ人ですがネパール語はとても流暢なのです。 以前メイミヨウに住んでいたそうです。 今はここで木材商売をしているそうです。 彼らはインドのアムリッツアーにあるシーク教徒の総本山ゴールデンテンプルの事が大変気になる様子でした。 インドや世界の話をすると彼らの眼は生き生きとしてきました。

ニヤウンシェはミャンマーのベニスというのは大袈裟かも知れませんが運河に囲まれいつもカタカタと船のエンジンの音が響きます。近 くのインレー湖には少数民族も住みこの市場を見学するとそれが良く分かります。 町自体はそんなに大きくはありません。 2キロ四方程ですから、歩いて何処へでも行く事が出来ます。といってもインレー湖巡りを除いて特別に見るべきものはないのですが、旅の疲れを癒すのに、のんびりを決め込むのにふさわしいかもしれません。

 

10.3今日も停電

地方では電気の事情が極めて悪いのが現状です。さてこの電気料金は政府の下で管理されていますから極めてその料金は安いのです。1KW当たり3チャットすなわち1円50銭の料金です。ですからどんな田舎のゲストハウスに泊っても惜しげも無く電気温水器でホットシャワーを利用する事が出来ます。エアコン付きの部屋が4から5ドルでどうして泊れるのか考え直してみるとどうもその秘密は電気代の安さにあるのではないでしょうか?しかし停電が続くのではエアコン付きの部屋は蒸し風呂になるのではないでしょうか?

ネパールでは電気料金は比較的高いので、通常太陽熱を利用した温水給湯システムが広く出回っています。 トレッキングの道中でホットシャワーが利用出来る場所には必ずこれが備えてあります。

パゴーでも頻繁に停電が発生しました。どうもこれは慢性的な現象です。多くの商店や家庭では自動車用の蓄電池とインバーターを併用して非常時に備えています。電気器具の店ではバッテリーも各種並んでいます。これは生活必需品の一部なのでしょう。ここパゴーの電気の供給ははるか500キロ以上も離れたタウンジーの近くの水力発電所から配電されているとの話です。日本では信じられない出来事です。送電ロスもかなり大きいでしょう。これだけの規模の町が存在するのなら普通はこの近くに火力発電所なるものが建設されそこから供給されるのが常識なのでしょうけども-。ミャンマーの感覚からすれば何ら疑問を挟む余地はないようです。

 

10.4都会と田舎

首都ヤンゴンでは最近はナイトクラブの営業も認められ次第に華やかさを増してきました。非合法なのですがある程度の娼婦も活躍しているそうです。高層ビルも沢山並び高級ホテルも幾つか開業しています。しかし一般商店の閉店は以外と早いものです。マンダレーでは夕方6時を過ぎると多くの商店は閉店してしまいます。その後はあちこちで屋台が営業を始めます。どうもこれが庶民の夕方の楽しみの一つなのかも知れません。 一杯のお茶で何かと雑談をして噂話に花を咲かせているようです。 映画館もあるのですが、最近は家庭でビデオが普及し、ここでも他の国と同様に斜陽産業の一つとなり始めました。 ヤンゴン市内は時間と共に次第に住みにくくなるのかも知れません。

他方農村部の生活はどうなのでしょうか? 何の娯楽もなく電気もないのですから彼らの生活は早寝早起きとなっているのでしょう。 自然と共生した素直な生活を体験する事が出来ます。

現代人の我々はそれを真似る事ができるでしょうか? 時々お寺-出かけてお坊さんから有り難いお話を拝聴する事が唯一なる楽しみなのかも知れません。農村と言ってもミャンマーの場合は低地の豊かな土地を抱えるデルタ地区とタウンジーのような山岳地帯では形態が異なるでしょう。 行けども、行けども大平原という場所もあります。 海辺の漁村もある筈です。次回は、こういった人々の生活がどのようになっているのかしっかり見学してみたいと思います。

 

11.庶民の暮らし

11.1給料あれこれ

パゴーのサンフランシスコゲストハウスの隣の家は内職としてシガー(葉巻煙草)をセロハンでくるむ作業をしていましたが1000本巻いて12チャットの収入とか、一日平均7000本の作業をするそうです。一日の日当は12×7=84チャット即ち40円と言う事になりましょう。矢張り如何に賃金が安いか解ります。何故こんなに賃金が安いのでしょうか?この国の不思議の一つです。

ピーのパンガバ・ゲストハウスで半年前から住み込みで働いている20歳の青年は一ケ月1000チャットの給料です。いつも明るく我々を迎えてくれます。インドのホテルで働く人々も結構明るいのですが、マネージャーとルームボーイそして掃除の係りという具合に厳格な階級制度が根底にあり、何となく陰湿なイメージをぬぐいきれません。しかしここではそう言った制約を余り感じる事なくおおらかに生活している感じがします。

地方の喫茶店等で働いている少年達の給料が一ケ月700チャット程度という話です。勿論食事と住居は与えてもらえます。お祭りの時等は別途200チャット程お小遣いが頂けるそうです。 また年に一度はロンジー等が支給されると言います。一日の手取りが20から30チャットすなわち円で換算すると15円という事でしょうか? これがヤンゴンになるとかなり跳ね上がって一日の平均賃金は150チャットを超えるようです。しかしここから食事代を自分で払う事となれば手元には殆ど残りません。マンダレーの日雇

労働者で、大体100チャットと言われています。

銀行の支配人の給料は一ケ月2,000チャットと言われています。しかしこの給料で家族を養う事が出来るのでしょうか?学校の先生は一ケ月1500チャットとなっているそうです。 しかし彼らの表現は過小評価とも言えましょう。公務員は米と住居が別途支給されています。その他に我々の目に見えぬ所で色々な余録が回って来る事と思います。この闇の経済の支配が浮き彫りになって来ました。彼らはそれを何の惨めさを示す事なく明るい表情で説明してくれます。不思議だと思いませんか?

ミャンマー鉄道の管理が悪いのはどうも職員の安月給にあるようです。彼らの給料は月に900チャットだそうです。 これでは他の仕事をした方がましでしょう。 ある鉄道員は偽の診断書を提出して辞職し、2万チャットの資本金で自分で商売を始めたら一ケ月20000チャットの収入が確保出来たそうです。 鉄道の保守管理をするよりもジャングルで薪を集めて売る方がよほど収入がよいのが現状です。今後のミャンマーレイルウェイはどうなるんでしょうか?

これだと何らかの方法で小遣いを稼ぐ事が大はやりになるようです。一寸英語を知っていればすぐ家庭教師が勤まります。 白タクならぬ白自転車運送業等も立派なお小遣い稼ぎなのかも知れません。しかし人々は何と仲睦まじく暮らしている事でしょう。

 

11.2ファッションあれこれ

ミャンマーのファッションは何でしょうか?道行く人々お顔を見ると黄色い粉で塗りたくっているではないですか? 通称これは現地語でタナカと呼ばれています。原料はサンダルウッドの粉をといた一種の天花粉です。香りが良くて肌にも良いそうで超人気の商品です。

その塗り方も百人百様で、顔全体を塗る人もあれば頬の部分に丸く可愛く塗ったリ、更にその上を刷毛でなぞって模様を付けたり、色々と工夫が為されています。 もしも、彼らミャンマー人の顔がアフリカ人同様に黒いものであれば、まるで人食い人種が施しているファッションと似ていませんか? 或いはパプアニューギニアの現地人の化粧法に近いものがあるように思えてなりません。

ヤンゴンの宿に泊っていてタミル系の掃除のおばちゃんに「明日からマンダレーの方面へ旅にいくから」とさようならをしたら、是非サンダルウッドを買ってきて欲しいと頼まれました。向こうではヤンゴンに比べて五分の一ぐらいで買う事が出来るから忘れないでと念を押されました。

適当にはいと返事をして3週間後に帰って彼女達の顔を見たら即買って来てくれたのかと質問責めになりました。 あちこち旅をして帰ったので荷物になるから買えなかったと言うとたちまち彼女達の態度は豹変しました。 冗談交じりに、「もう貴方とは口を聴かない」とぷりぷりしていましす。タナカにかける情熱はすごい何かがあるように思います。実際に私もそのタナカなる実物に触れて見ると不思議な爽やかさを感じました。魅惑のタナカは今日もミャンマーの国に何かセンセーションを巻き起こしているのではないでしょうか?

この国の服装を見ると男女共に腰巻き姿です。男性は前の部分を一寸織り込んでフリルがつくようにしてから臍の当たりで最後の巻き込みをします。この巻き込んだ部分が時には財布代わりになったりします。

女性は横の部分で巻き込みますから正面から見ても折り目も無くフラットに仕上げています。南国ではこの服装が一番手軽で便利なのでしょう。このパターンは、南インドやスリランカ、そしてインドネシアへと広まっています。 若い人々はこれを捲し上げて褌のような形にしてからセピックという竹製の小さな玉蹴りに興じています。何処へ行くのも何をするにしてもこのロンジーはミャンマーの国民服の一つなのです。

これにも値段はピンからきりまであり、高級品は矢張り品が違います。 絹で出来ていますから滑らかな光沢があります。 私の財布では一寸手が出ません。 市場で480チャットの純綿の品を求めました。 ちなみに絹入りは綿の五倍以上しています。 日本では絹の下着が人気の的ですが、下着の習慣のないミャンマーの人々は昔から絹の下着の肌触りの良さを直接ロンジーから楽しんでいた事となりませんか?男性女性共この服装では座り小便をしている姿をよく見かけます。 いやはや文化の違いは同じアジアでも大きく異なります。

足元は矢張りサンダルが主流です。 友人がスコットマーケットで靴屋さんをしているのですが、靴というものは、上流階級の人々が結婚式等の儀式のある時に利用するのに買うだけで実生活では、矢張り蒸

れるし、快適さがないのは事実です。サンダルという自然に近い履物が一番良いのではないでしょうか?

小学生から大人まで通称シャンバックを肩からぶら下げています。これにも色々なファッションがあり店を冷やかして歩いても楽しいものがあります。このバッグは大変簡素に出来ておりバッグとしての機能を挙げるならばチャックとかがついていると思うでしょうが、残念でした。何にもないただ2枚併せてあるだけです。 日常生活の些細な事柄からもその国の文化をじっくりと伺う事ができます。

 

11.3清潔の概念

以外とこの国は清潔好きな国のようです。インドの町や村を歩くとどこかで人糞を踏みつけそうになる事がしばしばあるのですが、ここの国では殆どそれは見掛ません。車窓から見える人家には必ず本屋(母屋)の他に別棟でトイレと思われる一角があります。市場やバス停等でもトイレの設備は整っています。こうして眺めて見ると衛生思想はすごく発達していると言えましょう。それは、昔訪問したスリランカと似た家の作りとなっています。

話はカラオの事に戻りますが、夕方再びウラミンさんを訪問しました。マネージャーという要職にありますから客がいると夜はホテルの一室で宿泊です。運良く彼の部屋に招いて頂ました。丁度夕食が終わった所です。ビルマの感覚では他人が箸をつけたものでも何の抵抗もなく食べる感覚があります。彼のテーブルにあった鶏肉の洋風の味付けとバターポテトを頂戴しました。 複数でミャンマーカレーを食べる時は、3人いてもスープは一皿でレンゲが人数分置かれて出てきます。中国料理の場合も皆で同じ皿のものに箸をつける事に疑問は感じません。

どうもインド人と日本人がそれぞれの立場からこれは不潔だと感じているのではないでしょうか? ミャンマーで喫茶店に入ると中国茶の入ったやかんかポットが置かれている事は話をしました。さらにテーブルには数個の一口茶碗も置かれています。 大概は直径20センチ程のボールに水が入りその中に沈められています。中には茶渋で真っ黒に近いものもあります。 終日この茶碗は流水で洗われる事無く何度も人の口元に接触します。 始めは、何となく不気味に感じる

でしょうが、慣れとは恐ろしいものです。 数日後には何の抵抗もなくなりました。 新しいお茶を少量注いで右手人差し指でチョコチョコと洗いそのお茶を床に捨てればもう洗った気分がしてスッキリします。さてさて、その後は、美味しいコーヒーとお茶が待っています。

 

11.4夢あれこれ

ここ、ミャンマーでは、タイの宝くじがはやっています。一発当たると300万バーツ(一億円)の夢が実現します。 規則からするとこれは御法度なのですが、人々は一向に気にせずにせっせと次回は何番にすれ

ば良いか、数人集まって研究会らしき事を始めています。それに引き換えミャンマー国営宝くじ販売所はどう見ても活気がありません。やたらスピーカーで宣伝していますが、売り上げ不振です。

ジャパニーズ・ドリームも彼らのあこがれとなっています。ネパールの様に出稼ぎ経験者がもつと増加すれば、この話しは庶民にとって、一層身近な物となるのでしょうが、現段階では庶民が外国へ行く事を想像すらした事のない人々ばかりです。 極めて一部の人からの又聞きの又聞きで、外国の給料がどの程度なのか知っても驚きはしますが現実にはどうなのかピンと来ない人が大半なのではないでしょうか? 果たしてこの国の人々は、もし海外旅行がもっと自由になったら、多くのネパール人が始めたように、ジャパニーズ・ドリーム実現の為にはあらゆる手段を講じても構わないという気風になるのでしょうか?

パゴーのミヤナンダゲストハウスのマネージャーは最近までタイランドに住んでいました。何しろ7年間の滞在ですからタイ話も堪能です。私との会話はもっぱらタイ語を通じてとなりました。 バンコクやチェンマイ等あちこち転々として過ごしたそうですが、最近タイランドの経済不況と通貨の落ち込みで祖国ミャンマーへ帰ってきたとの話しです。 勿論タイランドのほうが遥かに給料も良かったのは事実です。今は一ケ月3000チャットの給料でこの宿の支配人をしています。 3人の子供を持ち5人家族で暮らしていますから何かと生活は大変ですよと嘆いていました。 英語が話せる事はこの国では貴重な事なのかも知れません。

他にもタイランドへ出稼ぎに行った人々の話しを聴く事があります。これも彼らにとっては一つの夢なのかも知れません。またまた出稼ぎの話しが続きます。これはミャンマーの事ではなくお隣のバングラデッシュの話しです。 現在バングラデッシュの人口は1億を越えています。その中で、国外で働いている人々の数は180万人程度と発表されているのです。この他に日本への出稼ぎの様にもぐりで仕事をしている数を含めると200万人となりましょう。という事は人口の2%に匹赦します。この数字は50人に一人という事です。平均的な家族数を5人とすれば10軒の家庭で一人は外国へ出稼ぎに行っている計算となります。 バングラデッシュやスリランカ等ではどんな田舎へ行ってもその村には豪邸の一つや二つが目に入ります。これらの家はジャパンマネーやオイルマネーの還元によって建設されたのではないでしょうか?

パゴーの町で夕方寝仏寺へお参りに行きました。その帰り道にミャンマー人が声をかけてきました。 たどたどしい片言の日本語が耳に入って来ます。 何の警戒心もなく一寸お詩をする事となりました。立ち止まった所は家の新築現場です。皆にこにこと笑顔をしています。 二階建ての新築工事は3分の2程終了し、あと一息という所です。 母親らしき人が現場の前に座っていました。 後から来たお兄さんが財布の中から何かしらの-ドル札を数枚母親に渡しています。母親の財布にもお札がドルとチャットと混ざって入っているのが見えました。 彼は寝仏寺で働いているそうです。 貴方は2ドル拝観料を払いましたかと質問してきます。「この家は誰の家?」と聞くと、「私達のですよ」と答えました。 費用はざっと200万円程かかると話しています。 家の規模からすると納得の行く金額です。 簡素なミャンマーで見かける竹と木で出来たものではありません。 しっかりとセメントと煉瓦を用いた本格的な作りです。さてこの資金は一体何処から生じたものでしょうか? 推測するに寺院に拝観料をくすねたとしか思えません。 彼らは矢張りラッキーな人たちだったようです。このミャンマーでは何事が発生しても許せるような風を感じてしまいます。

 

11.5映画とビデオ

貸しビデオ屋さんが繁盛しています。 場所に依っては一回のレンタル料金が20チャットから50チャットですから手軽に借りる事が出来ます。 ホテルやゲストハウス等ではお客さんがテープを用意すればホテル側はデッキとTV一式を利用させてくれます。全く有り難い方法です。長距離バスの車内でも何本か上映される事があります。 それらは全くバラバラのマサラ貸しテープ屋さんとでも表現しましょうか、卑猥なものを除いて世界各地からの海賊版が集まっています。 香港作成で日本語の字幕の入ったやくざもの 映画から、洋画の最新作、インドのアクション映画、中国のオカルト映画などが店頭に並びその無秩序さに感激さえ覚えます。 地元の人々は言語がわからなくてもとにかく画面が派手に動いていればそれで良いみたいでミャンマー語への吹き替え作品や字幕の出るものは殆どありません。 字幕がでても日本語か中国語か英語に限られています。

奇妙な現象です。インドの場合北インドでヒットするとその作品はスターを南インドの人に置き換えて再ロケをして作り直します。この事はタッピングと呼ばれています。一体この国の実状はどうなんでしょうか? どうも人々は言葉など理解するのは二の次でそのアクションや風変わりな行動に目を奪われて陶酔しているように見うけます。 ストーリーはどうでも良いのが本音のようです。

ミャンマー映画を始めて見ました。友人に連れられての鑑賞です。この映画は1995.年度のミャンマー映画大賞受賞作晶です。 約2時間半のパガンの人形使いと上流階級の娘が恋に落ちたのですが、親から無理に離別を余儀なくさせられたのです。その女性は1人娘をお産しました。 その後両親は事故でなくなりその事が原因で女性は、半狂人の生活が続きました。他方捨てられた娘は、元愛人なる男性が実の娘とは知らずに育てあげました。 運良く有名な舞踏家に成長し、最後のシーンで父親は実の娘であった事をしり、母親も正気に帰る事ができ3人で一緒に暮らすというクライマックスを迎えてのハッピーエンドでした。 大変清楚な恋物語でミャンマー的というのがこれかなあと感じました。

映像技術等はインドのそれに比べると遥かに見劣りがしますがストーリー性は充分あったと思います。 歴史的遺産のパガンが舞台というのもなかなかセッテンゲもよく、ミャンマー映画大賞受賞の一つの理由かも知れません。 最終のショーで見学したので観客の数は殆どいませんでした。これからも機会を見つけてミャンマー映画を楽しむ事にしましょう。 次回の訪問は何かと忙しくなりそうです。

マンダレ~には10軒程映画館がありますがその半分程はインド映画専門で上映しています。 さすがインドは文化大国です。 ストーリーは誰が見ても理解し易い事、アクションが派手で音楽も脳みそに気持ちよく働くからかも知れません。多くのインドの映画はストーリーが単純である事から文学的見地からすれば子供騙しなのかも知れませんが、一つの映画に音楽とスリルとラブとアクション等多くの要素を混ぜ合わせ、少々色っぽい個所を加えたりして観衆を楽しませてくれます。 映像文化論の見地からすると表彰ものかもしれません。 世界中にインド映画はばらまかれています。 インドネシアへ行った時には国民的歌手がインドのヒットソングをインドネシア語で歌いそれが大ヒットしていました。

補足ですが、ミャンマーの映画館では一応始まる前に国家と国旗が放映されます。 しかし多くの人々の表情は仕方なしに起立しているようでした。お国が変ってタイランドでは上映の前には必ず国歌が流れ同時にタイランド国王のドキュメンダリーが暫く紹介されます。この国ではそれが始まると待っていましたとばかり皆がスーと起立しています。 もしこれを怠ると不敬罪が摘要されるそうです。

大概の国では必ずコマーシャルのフイルムが入ってから本番上映ですが、ここでは全く宣伝映画がありません。 これはどういった事なのでしょうか? 経済の自由化をしてまだ時間が経過していません。国内での工業製品が殆ど生産されないのですから、宣伝を買ってでる企業もありません。 インドでは華やかに煙草の宣伝が数本、それから石鹸と歯磨きの宣伝等が主体となります。 タイでも石鹸やシャンプー等の宣伝が映画館で行われています。 ここで風変わりなのは男性の下着が派手やかにその一部を担って宣伝されている事です。宣伝の一部として地元の広告会社作成の単純なスライドショウも上映されています。宣伝(コマーシャル)なれしている我々の日からするとあっけない感じもします。

ミャンマーの街角では最近になってようやく煙草等の広告らしき看板を見掛るようになりました。しかし郊外を車で走ると広告や看板がないので大変スッキリとした感じを受けます。 目立つのは寺院のパゴダだけと言っても過言ではないでしょう。 日本のようにごちゃごちゃしなくてすむのです。 また別の意味で捕らえると、ミャンマーの人々は、我々のように情報に振り回される事なく過ごせる利点があるのではないでしょうか? いちいちブランドを気にし、どの商品にするか悩まなくてすみます。 基本的には宣伝は資本主義の産物ですから用いられ方次第で消費者が餌食となり犠牲を強いられる場合があります。そんな不幸もここでは少ないのではないでしょうか?

街角には必ず貸し本屋さんを見かけます。この国の人々はどうも読書も好きなのでしょう。 新聞は皆穴があくほど熱心に目を通しています。 貸し本屋の本はその多くはプラスチックのカバーを付けて長持ちするように工夫されています。 列車内でも本を抱えて売り子さんが行ったり来たりしていました。 車内移動図書館ともいうべきシステムもあるようです。 終着駅が近づくと回収して廻る貸本屋も登場です。 さて一体皆どんな本を読んでいるのでしょうか? ホーラーでしょうか? オカルト物でしょうか? それとも仏教経典でしょうかね? でも恋愛物語が一番多いのではないでしょうか?

喫茶店が2軒並ぶと大変不愉快な思いに刈られます。何故かと言うとどちらも集客作戦で朝から晩まで西洋音楽をガンガンと鳴らして居るからなのです。 最近の若い人たちは音楽喫茶にたむろしています。 一寸西洋っぽいポスターが貼られ何となくハイカラな気分を味わわせてくれるのが最高の楽しみなのでしょう。 一昔前に日本だって明治時代か大正時代かよくわかりませんが、カフェショップと名前を付けてモーツアルトかなんかの音楽を流してハイカラぶった時代もあった筈です。 比較は無理かも知れませんが、どちらかと言うと似た者同士ではないでしょうか? それにしても結構賑わっています。 案の定音楽のない店はガラーンとしています。それにしても若い人々は一体何を話題にして延々とここで時間を過ごしているのでしょうか? 幸せは喫茶店からやって来るのでしょうか?

さてこの喫茶店でたむろしているのは殆どが男性です。 これはミャンマーだけの話しではありません。インドネシアやマレーシア等イスラム諸国でも多くみかけます。 男性はなにもしなくてもよいのがミャンマーでは風潮となっているそうです。 亭主をぶらぶらと遊ばせておくのが良き妻の象徴らしく、女性が朝早くから旦那の飯を用意して野良仕事に出かけ戻ってきてから夕食の準備をします。 その間亭主は何にもしないで茶店でゴシップ話しに熱中していればよいのです。 それで家内は満足だそうな。 一年で男は4ケ月仕事をし、後は寝て暮らすのがこの国の粋な暮らしだそうです。 しかしこの風潮は次第に変化しつつあるようです。 それにしても大変うらやましい話しではありませんか?

 

11.6男女交際

ナウい喫茶店でたむろしている青年達は一体どのような話溝をして時間をつぶしているのでしょうか? 多分あの娘はどうだとか卑猿なる話しもかなり混じって来るのではないでしょうか? 反対に女の子同士でもあの子と付き合うとどうだとかなんだのかんだの噂話しをしているようです。或る日本人の青年の話しによると、ミャンマーの女の子はミャンマーの男の子はどうも粗暴だから良くありません。 付き合うなら外人だよねといった感覚をもっているそうです。 外国人と言うのは-体誰の事でしょう?そんなに沢山外人が住んでいる訳がないでしょうに! 町で時々手をつないで歩いているカップルがいますが、これは多分若い夫婦でしょう。 インドや回教社会のように小さい頃から既に全く男女別々の環境で育つ事はありません。 よくインド等で話題になるのですが、彼らの目からすれば男女共学等は持っての他。何しろバスの座席でさえ気を配って女性専用席など存在する社会です。パキスタンの市内バスは完全に男性と女性の席が鉄格子でしきられています。南インドの長距離バスでは車掌さんが見知らぬ男性と女性が隣同士にならないように子供を挟み込む等して調整してからスタートします。

その点東南アジアの社会では全くそんな事を意識せずに育っています。 ただ思春期を迎える頃から

次第に男女に壁が出来特定の相手と付き合いを始め結婚に至るというのが一般的です。 ミャンマーも多分そう言った傾向にあると思います。 一体どうしてインド人達は男女関係でそんなにワイワイ騒ぎ立てるのでしょうか。 こちらからインド社会を眺めてみると極めて性的に抑圧された社会のように見えて来ます。 抑圧されすぎるから過剰反応をおこして性犯罪が増加するのではないでしょうか? インド人の心理からすれば男女同席すると大変危険だから分けなくてはいけないという話しが真面目に持ち込まれます。一体何が危険なのでしょうか?

インド社会では、男性が浮気をしても許されるのですが、女性がそれをすると大問題となります。どうも不平等な感じがします。 果たしてミャンマーの.場合はどうなっているのでしょうか?

ミャンマーやタイのそれは非常におおらかな感じを与えてくれます。 成る程インドに入ってから

西に向うとギリシャに入るまでウエートレスなる姿を見掛る事はありません。 回教国の多くでは女性の素顔等を見る機会は皆無です。スリランカではアンブレララバーという言葉を聴く事がありますが、これは未婚のカップルが密かにデートをしている光景をさして生まれたものです。灼熱の太陽の下ではデートも大変です。 大概このデートに利用される場所はコロンボ市内のゴールフェイスから鉄道線路ぞいのガルキッサという8キロ程の海岸線に沿って日除け傘持参で出没です。 幸いに傘が日差しをよける働きと正体を隠す役割を兼ねてくれます。

ここミャンマーではどう呼ぶのかわかりませんが、ヤンゴン市内の公園は逢い引きの格好の場所を提供してくれているようです。おまけがついて覗き組みも出没するそうです。 結構ミャンマー人はむっつりすけべなのかも知れません。街角の屋台でも公然とコンドームが販売されています。 若い兄ちゃんがにやにやとして私に「叔父さんいらない」といった感じで声をかけてきます。とすると私も結構むっつり組みに見られているのでしょうか?

結婚は恋愛の末双方の家族の同意を得た上で式をあげるのが一般的なようです。 中には幼いころからの許婚をもつ人々もいるとかききました。インドの言葉を探してみるとボーイフレンドとかガールフレンドとか言う言葉を耳にする事は皆無です。しかしここミャンマー語の学習テキストには現地語の使用の優先順位の高い部類としてこの言葉が加わります。 インドで使われる場合はボンベイ等に住むハイカラ族のお嬢さん達の会話で英語として使われているのが現実です。

時々宿泊している宿の一室に数名の女性が集団で住み着いている場合を見掛ますが、彼女たちはその道のお人なのでしょう。 若い兄ちゃん達の一部ではあけすけに誰か相手はいないかな話しをもらしている連中もいます。 見る限り何となくこの国の性愛文化には明るさを感じます。これらについても今後の課題かとも思います。

 

11.7闇価格

社会主義特有の政策として配給制度があります。ミャンマーも例外ではありません。 そしてこの配給制度が次第に闇価格の発生源となっているのです。 諸外国からこの制度を撤廃するように圧力を受けているのですが現在もしっかりと二重価格の下で人々の生活が成り立っています。

この現状を紹介しましょう。 昨年の話しとなりますが、ガソリンは配給制での価格即ち公定価格は1ガロン(4.5リッター)当たり25チャットですが、一週間を超えると配給制の枠を越えて別途買い求めしなくてはなりません。この時の価格が何と10倍近くの270チャットとなります。この数字は計算し直すとリッター当たり40円程度となりますから、世界の標準価格に近いものです。 かくして闇商品は軍部の倉庫から大量に出回り社会の秩序を保っているわけです。 パガンからインレーへ向う道中でバスが民家に入っていきました。 何が始まるのか当初は不可解に思っていたのですが、やおら兄ちゃん達がでてきてポリタンを使って車への給油を始めました。メーター付き’の給油ポンプ等ありません。全て人海戦術です。 旧式なる漏斗とバケツ(ポリタンク)の原始的方法です。これだと停電でも心配がありません。 スタッフはお金を支払い何事もなかったように次の目的地に向って疾走をはじめました。これで一石三島とでもいいましょうか。 軍人も生活安泰、乗客も無事目的地に到着出来ます。 闇ガソリンスタンドも経営が成り立ち、誰も不都合を感ずる事なく社会の歯車が回る、それがミャンマーの一面です。しかし木造バラックの簡易ガソリンスタンドと煙草好きなミャンマー人の組み合わせは大変危険では?

最近ヤンゴンのビジネスマンの新兵器は携帯電話です。これも割り当てを越えた部分は闇

販売で購入しなくてはなりません。  現在一台あたり3,000ドルで取り引きされているそうです。

商売をしている人にはかなり便利な機器で何処にいてもヤンゴン市内では連絡が取れる便利さがあります。通話料金は一回当たり受信で2チャット、発信で3チャットです。一ケ月に1,000-2,000チャットの請求書が回って来るそうです。 本体の価格と通話料金は余りにもかけ離れていると思いませんか?

郵便料金は最近値上げとなりましたも一気に6倍に上昇です。 以前日本へは封書が5チャットでしたが今は30チャットです。 それでも日本円で換算し直しても15円です。 電気料金は政府の統制価格とかで他の国に比べると格段に安いのです。-ユニットあたり2.5チャットです。 即ち1円25銭という数字になります。

ネパールの宿は最近太陽熱利用の温水器を導入して電気代の節約に懸命ですが、ここミャンマーでは安宿に泊ってもホットシャワーをふんだんに利用出来ます。 但し停電でない限りですが。こうした二重価格は多くの商品に摘要されているそうです。 この国の物価体系は我々の知る範囲を大きく越えています。 しかし庶民は公定価格と闇価格の二重構造を巧みに混ぜ合わせながら生活しています。

 

12 .トピックあれこれ

12.1ミャンマーの謎

ミャンマーに暫く滞在して不思議に思う事があります。その一つとしてこの国の人口増加率です。 他の発展途上国からすればかなり低い数字に収まっているのは何故でしょうか? 政府の統計によると1991年から95年迄の5年間に4078万人の人口が314万増えて4392万人にしか達していません。この事は年率にして1.83%の増加です。 国連の統計によると通常2.3%を超えると危険で何らかの人口抑制策を講じないと大変な車となると大騒ぎします。 インド等は必死になって政府が宣伝しても今は10億を超える人口になってしまいました。 中国は厳しい政策で一人一子制度に踏み切りました。 所がここミャンマーでは政府がそのような指導をしているとは聞いていません。さてどうしてでしょうか?

幾つか考えられる点はインドに比べて結婚年齢が高いのもその要因の一つではないでしょうか? 通常20歳未満で結婚をするという事は人間の生殖活動の最も活発な時期を選んでいますから、当然の事として子供の数は多くなります。 晩婚であれば、或る程子供の数少なくなるのが自然の摂理です。 その外の要因として僧侶や尼さん等生涯を独身で過ごす人々の数がかなりに占め、それらも数%寄与しているように思います。 医療設備の不備で幼児の死亡率が高いのかと聞いてもどうもその気配も薄いようです。 実際の乳幼児死亡率がどうなっているのか実態は定かではありません。

識字率の高い国は概して人口増加率は低くなります。 この国では殆どの人が読み書きできますから、その点も影響を与えて居るのでしょう。 町にはエイズ追放の宣伝板が貼ってあり何かとミャンマー語で説明が加えられています。 こういった事から避妊具の使用率も高いのかも知れません。

この国では老人の数が左程目立ちません。 お年寄りは一体何処へ行ったのでしょうか? 同様に発展途上国では高齢な人々も貴重な労働力として外で働いている光景を見ます。 インドでよく見かけるよぼよぼのじいちゃんの引く人力車もその典型でしょう。 この国では年寄りは早死にするのでしょうか? でもこれだけ環境の良いストレスの溜まりにくい場所に住んで早死にするとは思えません。 若い頃の放蕩がたたって早死にするとも考えられません。 老いても、若く見えるのでしょうか? 人口増加率が低い事についてピーという町で元活動家の坊ちゃんに訪ねたら「その質問は一寸ワイルド過ぎるので答えられません」と話しはストップしてしまいました。 しかし不可解な現象です。 各家庭の子供の数も多い人は5-6人抱えています。

さてこのミャンマーという国家では能力があれば伸びる社会なのでしょうか? それとも伸びる事を必要としない社会体質を持っているからなのでしょうか? 我々の道徳観では努力すれば必ず報われるという諺にもあるように.、こつこつと努力する事を美徳としています。 石の上にも3年という諺もあります。 ミャンマーの場合は努力すれば幸運が舞い込んで来るかも知れないよという哲学(仏教思想)の上で成り立っている気がしないでもありません。この当たりの事柄についても謎だらけです。 現在の政権が周囲の動きに左右されずに真に豊かな仏教に根ざした国造りに励んでいくのか、矢張り隣のタイランドの様に近代化を推し進めて行きたいのかよくわかりません。仏教の発展と産業の発展を今後どのような方式で基本的な矛盾点を乗り越えて行くのか観察を続けて行きたいと思います。

タイランドから或るいは、インドから、国名を問わずに国外からミャンマーに足を踏み入れるとカルチャーショックは大きいものがあります。 それはインドのそれとも異なります。 極論するとミャンマーという国が「国家全体が精神世界の発展に努力をしている反面、物質的な面で大変遅れている」と単純に判断して良いものなのかどうか迷います。 もう一つ不思議なことに、この国では貧しいのに何故物をねだらないのでしょうか? インドやスリランカ等を訪問するとあなた方は金持ちだから私たちに何かを恵むのが当然という態度を示されて呆然とする事があります。 ミャンマーでは時々強制両替の場所で銀行の職員がちらりと呟き、暗におねだりの態度を示される程度で終わってしまいます。 同じ仏教国のスリランカでは長年に渡ってこの習慣が体に染み込んでいるようです。 外人と見ればすぐにお金持ちと解釈し金品をねだられるのは多くの人が体験しています。 回教徒の考えでは金持ちは貧しい人に対して収入の1割を寄付しなければならないと回教の教科書(アル・コーラン)に明記してあるそうです。 ミャンマーの場合、彼らは食べてさえいければ、それで満足だからなのでしょうか? ねだるという習慣もないのかも知れません。 しかしこうなると逆に何かを差し上げたくなる気持ちがじんわりと沸き上がって来ないでもありません。

 

12.2落っこちたトマト

遅れていると言う事は一体どのような意味を持つのでしょうか? 単に教育水準が低いと言う発言もこの国の尺度では通用しません。ましてや科学水準が低いと言ってもそれは彼らの実生活とかけ離れた存在です。このレベルで人が優れているとかを語るべきではありません。その人々の行動がどのようになされるのかが真の人生の尺度ではないでしょうか? 今日のトラックバスの荷台からトマトが-駕寵落ちました。 15キロ種詰まった寵です。 皆協力して路上に散乱したトマトを拾うのに協力していました。 はつらつとした光景を眺める事となりました。ここに真に仏教徒としての悟りがあるように思えてなりません。誰一人この事件に関して良いとか悪いとか批判はしません。 起きてしまった事象に対しての決着を付けるのではなく、それをどのように処理するかを決めるのが先のようです。 こうして考えると我々はまだまだ教えて貰うべき事が沢山ある気が致します。ここピーの街へは又来年も訪ねてみたいと思います。季節を選んでビルマにはまる事と致しましょう。

ミャンマーの人々の移動する姿を見ているとインドやネパール等とは全く異なった感覚になって来ます。列車で旅をしても、バスで旅をしても彼ら荷物には鍵がついていた試しはありません。他の国では大概厳重に南京錠がかけてあります。インドの列車等は座席の下に置いた荷物には更に金属のチェーンをかけて防御するのは格別異常な行為ではありません。インドの街角では鍵屋さんがあらゆる種類の鍵を販売しています。 ネパールでは国内生産が出来ないので多くは中国製かインド製が並びます。 如何にこの国は平和なのか改めて感じます。

今回ミャンマーの旅で人々が口論している光景を一度だけ見掛ました。 インドでは日常茶飯事で人々のわめきが聞こえてならないのですが、ミャンマーは別天地なのでしょうか? インドやネパールの映画館で封切りともなると人々が切符を確保する為に我先にと窓口に押しかけ時には警官出動で事態収拾するのに必死となる事もあります。それに比べるとどうもこの社会は何故でしょう。 何処かが違っているのです。

 

12.3ガラクタ屋

ミャンマーの現状を見ていると何かしら20年前のスリランカと似た所を多く発見出来ます。当時のランカは時の大統領ジヤヤワルデネ氏の指導の下で社会主義国から経済の自由化を始めたばかりでした。モノは非常に大切にされ修理に修理を重ねた商品が出回っていました。ここでは、様々な修理屋さんがあり、とても忙しそうです。ガラクタショップ大繁盛です。カバーのなくなった扇風棟だとか、ペンキを塗り替えただけの新品に見える冷蔵庫とかが出回っていました。こんなものは何に使うのかと首をかしげるような品物も路上で販売されています。

ミャンマーでは特に自動車の部品と思われる鉄製品が所狭しと並んでいます。 一体これらは何に使うのでしょうか? 店の親父は景気のよい証として大概お腹が出っ張っています。いつもにこやかな顔をしています。 最近外貨不足とかで、乗用車の輸入が規制されました。 彼らの出番が回ってきたようです。マンダレーでは**消防庁と記された車の左側のドアだけが店先に並んでいました。 スリランカと異なる面もあります。すなわち修理屋の種類が限られいます。ミャンマーでの日常生活を観察してみると、靴は殆ど履きません。かばんはシャンバッグを肩に引っかけて終わりです。服装も至って簡単ですから、仕立屋の数も南アジア社会に比べると発達すする訳がありません。電気の供給事情が悪い国ですから電気製品の普及は令-で扇風機よりもうちわが便利な社会です。資源の再利用の方法はその国の事情に依って普及する商品が異なり再生技術に違いはあっても活発に為されているようです。 ここでは日本の粗大ゴミが再び有効に活用できるのではないでしょうか?

先日ピーの宿に泊った時にロビーに設置してあるテレビとビデオデッキの調子が悪くなりました。 貴方は日本人でこのセットは日本製品だから何とかしっかりと映るようにして欲しいという注文がでました。 TVの技術屋でもない私にははなはだ短絡した要求でしたが私もそのビデオを楽しみたかったので放置するわけにも行かずちょっかいをだしました。彼らの弄くり方はもう無茶苦茶です。 何でも何処でも関係ないスイッチやボタンを押してみたり回して見たりの作戦です。 最近のTV等はデジタルシステムが多く装置そのものの調整は画面を見ながら行う機種が増えています。 所がこのメイドインジャパンは英語でしか表示が出ません。 これではミャンマーの人にとっては何の事かさっぱりわかりません。こうしてどんどんあらゆるボタンに手を出して取り返しのつかない結果に成る事もあるようです。 装置をはずして裏側を眺めてみるとゴミだらけです。これでは異常が発生しても仕方がありません。ビデオやラジオ等はまだまだ普及率が低いようです。従って修理屋も少ないのでしょう。 ミャンマーの人には購買力がないから商品が出回らないのか、物質欲が少ないから商品が出回らないのか、さて一体どちらでしょうか?

 

12.4再びミャンマーを考える

現在の方法で半鎖国政策を続けて行くと国際社会の中で孤立して行く様に思います。 それは望んで孤立するのではなく、何処の国も相手にしなくなるのではないかという意味も含まれます。 産業の育成や国家の近代化への道を考えるにあたり、時既に遅しに近い響きがあります。 何とか今年はアセアンの仲間に加入する事が出来ました。 今までのスタートの遅れで外国の企業は投資意欲を失いかけています。望むと望まないに拘わらず孤立への一面も背負いこんでいる気もします。

ミャンマーは確かに自然の環境に恵まれた土地です。 隣のバングラデッシュのようにサイクロンに見舞われる事もなく、ヒマラヤの山岳地帯の様に寒くもなく、タイランドの東北地方(イサーン)のように半乾燥した台地が続く事もありません。フィリピンのような台風銀座でもありません。矢張り宣伝のとおりゴールデンランドと呼ばれるにふさわしい自然環境と資源に恵まれた大地と解釈しても良いのではないでしょうか? 今後これらの資源がどのように利用され、人々の生活はどのように変化していくものでしょか?

勿論この国は連邦制度の国家です。 幾つかの主要な民族の集合国家の一つでもありましょう。 インドでは州が異なるごとに大きく習慣や使用される言語も異なりそれを一手に取りまとめているのが現在のインド中央政府の歩んできた道です。パキスタンは人口と国の大きさ(面積)は、丁度ミャンマーの2倍程あるかと思います。 今このパキスタン自身もシンド、バルチスタン、パンジヤビ、北西国境地帯に住むパキタンの主要4部族からなる連邦制度が敷かれていますが、最近これらの部族間の対立が高まってきました。人口が増大化し産業が発達し経済的繁栄が高まると、それぞれの州が一つの国家の規模に達し民族主義が高揚されます。 結果として分離独立の要求につながります。ミャンマーも同様な問題に向うのではないでしょうか? 今後似通った問題が派生しないとも限りません。仏教の理念が何処まで生かされてこの国の繁栄に貢献していくものか、今後のミャンマーの歴史も追いかけて行きたいと思います。

ミャンマーを他の国と比較して眺める際、感じたのは国家と国民を分けて考えると答えが出し易い事に気が付きました。 国際社会には様々な形態を持った国がありますが、国家イコール国民という発想をするよりも両者は別々の場合があるようです。 例えば日本の場合国民は日常の生活にピービー言って貧しいけども国家はあちこちへ海外援助を与える事の出来る金持ち国家と言えるでしょう。ネパール政府は貧しいけども国民の中には富みを抱え込んでいる人が沢山います。ミャンマーはどのような位置づけでしょうか? 国家が貧しいから国民も貧しいのでしょうか? ここで貧しいとか豊かだと言う解釈は経済的貧困と精神的貧困の2本だてで眺めてはどうでしょうか。さらに国家と国民が別個に活動している場合もあり、これも2本だてで眺めてみてはどうでしょう。そうすると、様々な形態なる世界が存在する事がはっきりしませんか?

 

13.名勝地

13.1マンダレーヒルと周辺

センダレーヒルのてっぺんにはきれいな寺院があります。参道に当たる部分は屋根付きです。 雨季には雨除けに暑い時には日除けの役割を果たしてくれます。 熱心に信者がお参りしています。 境内には食堂もあり土産物もある巨大コンプレックスとなっています。もう少し閑静な所が良ければ一寸離れてバスで行く事の出来るヤンギン・ヒルへ出かけるのも良いでしょう。この寺院群もマンダレーヒルと同様な造りとなっています。マンダレーヒルのような混雑はありません。マンダレーヒルは3$の入場料が必要ですが、ヤンギン・ヒルは入場料金不要です。どちらも頂上からは肥沃なミャンマーの大地をじっくりと眺める事が出来ます。

他にマンダレーに郊外にはアマラプラのウービン橋という木造の橋がありま。ウービン橋付近の景色は本当にのどかなものです。日本ではどんな田舎に足を踏み入れても大きな広告板や送電塔マイクロウェーブ中継基地等が視野入り込んで耗粋な自然の姿を写真に収めようとするとかなり難しくなっています。ここではただカメラを向けるだけで自然そのものを記録する事ができます。 ウ-ビン付近は別名アヴァとか呼ばれ一時期には王朝が栄えた町で、今も遺跡が幾つか残り、当時の名残を感じさせてくれます。 巨大な湖を横断する木造の橋は所々休憩所があります。あちこちに金色に輝く仏塔が目にはいります。付近の田園では牛車が活羅しています。この世界には金属製のものが見当たりません。それらが何となく心の安らぎを与えてくれるのかもしれません。

 

13.2パガンの夕日(遺跡と夕日)

パガンの夕日はいつ見ても素晴らしさを感じます。少し小高いパゴダの中腹まで出かけて眺めるのが最高です。ここで真っ赤に沈みゆく夕日をみながらパガン王朝の歴史を案じてみると空想はどんどんと広がって行きます。 最終的にはこの王朝はモンゴルのクビライハンの軍団に征服されて滅びてしまったとされていますが、それにしても誰が一休何の為にこのように数多くの寺院群を造ったのでしょうか? 世界の七不思議の一つではないでしょうか? カンボジアぽアンコールワットはまだ出かけた事はありませんがインドネシアのジャワ島の中央部にあるポロブドールは行きました。 比較してみるとこちらのほうが圧倒的に賑やかです。かたや、ポロブドールは、単体としてメインが一個しかありません。大平原の中に構築物があるのではなく山陰に隠れてひっそりと存在していました。周囲の山の大きさが相対的に遺跡自身を小さくしてしまいます。 歴史を掘り下げながら遺跡を見学する事はいつまで経っても興味の尽きない事です。 これでご飯が食べていけるのならばなぁ。

遺跡と呼ばれるものは世界各地に沢山あります。仏教遺跡として有名なパキスタンのガンダーラはその繁栄した時期があまりにも古いので現在は殆ど遺跡が風化してイメージが沸きにくい難点があります。 インドのベナレス郊外のサルナートやラジギール郊外のナーランダに残る仏教大学の跡を見学しても礎石が残るだけで本体は風化していまい、今一つ実感が出ません。インドの遺跡も雄大です。 例えばカジュラホやエローラそしてハンピーの遺跡、或いは中部インドにあるマンドゥの宮殿跡等驚きの深いものがあります。しかしこれらはかなり最近になって建造された建物ですから比較的原形をとどめています。そういうことで、何となくイメージがしっかりとつかむ事が出来るのです。

お隣タイランドのスコタイの遺跡で見る夕日もここパガンと同様な雰囲気を持っています。これらの都が栄えたのは、ほぼ同期ですが規模からすればパガンがはるかに大きく感じます。

地理上では同じような場所ですから、遺跡の景観には似た所が沢山あるのは当然です。しか.し不思議なパガンの景概であります。すぐ側にあるイラワジ川が一層その趣を高めてくれます。

 

13.3インレーの市場の活気は5日に一回

インレー湖周囲で最大の町がニヤウンシェです。ここは水郷地帯で常に水が豊富に在る所は自然と我々に安らぎを与えてくれます。バングラデッシュのように水害が起こる程に水が豊富であれば単に我々は自然に対して恨みをもつのですが、ここの水は一年じゅう程々の分量で我々を歓待してくれます。矢張りベニスかな?

人口が少ない地域の流通機構の原則として市場は毎日開催されるものではありません。日本でもその昔が四日市とか八日市とかの地名は指定されたその日に市が立つ事から名前ができたのでしょう。 インドネシアのスマトラ島のパダン州にマニンジヤオと呼ばれる小さな湖があります。湖を一周する道路は完成しているのですが、村々は輪番で市場が開催されていま

ここインレーでは五日間ごとの持ち回りで市場が開催されます。まるでその日はお祭りがあるかの様に市場はあらゆる種類の商品でうめつくされ活気が沸いて来ます。カラフルな市の開催となります。 朝から船のエンジンの音が心地良くこだまします。 夕方は商売を終えて沢山品物を買込んだ農民が同じ船で自宅へ帰ります。ここではまだナイロン袋の使用は一般的ではありません。自然の恵みのバナナの葉等が代用されるという世界です。

このインレー最大の町シュエニヤンの町の隅っこに回教寺院があります。ヒンヅー教の寺院もあります。寺院を守っているインド系の老人が案内役を買ってくれました。白髪の混じったインド人は懐かしそうに私のインドの土産話しに熱中してくれました。彼にとっては今後ともインドの土を踏む事なく生涯を終える事となりましょう。しかしインドへの夢は長く持ち続けているのに違いありません。

 

13.4ピーから眺めるイラワジ川

ピーからのイラワジ川の眺めも最高です。町の対岸は小高い山で峰々が連なっています。夕日が山陰に隠れようとする瞬間に太陽は川面をも照らしだし最高の景色を与えてくれます。小船がその夕暮れの中を通過します。絶好のシャターチャンスがやって来ます。何処かの入り江にでも佇んでいる雰囲気です。地元の人々は停電で悩まされるのですが、そんなことおかまいなしで我々の目を楽しませてくれるものがあります。夜になると新しくできた橋にはこうこうと電気で照らされ、橋は浮き立って見えます。自転車でこの橋を横断してみました。橋の区間は走行禁止で歩道の部分を押して通過する事となります。ゆっくり歩いて30分の距離です。橋の両側には兵士が見張りをしています。成る程、橋の中央部は晴天でもかなり風が強くちょっと危ない感じがしないでもありません。この川は雨季になると水位がうんと増すそうです。と言う事は現在のライトエメラルドブルーの川面が濁流となるのでしょうか? きれいな思い出のみ抱えて歩きたいのですが、人生は運命とやらに操られながらで様々な重荷を担いで生きて行かなければならないのかも知れません。 川は時として穏やかに流れ、時には狂ったように流れる事もしばしばです。しかし大河とはよいものです。私もこれからの人生をこの川に習って生きる事にしましょう。と言うときざでしょうか?

 

13.5ゴールデンロック(落ちそうで落ちない金の石)

ゴールデンロックはミャンマー人の間にも人気のある寺院です。地震があっても何事があってもあの宙ぶらりんでバランスを保っている岩は、落ちる事がないと強く信じられています。ヤンゴンやパゴーから直通の乗合トラックやバスが運行されています。この記事は一年程前に訪問した時の記録より抜粋しました。

“今朝はとても早く起きました。とにかく山に行くのだからと言う事で張り切りました。 6時の一番バスはとても早いので第2便の7時を使う事としました。 軽い朝食を済ませてバス乗り場に行きました。さてこれは完全なるトラック改造乗り物です。 山道専用のすごい車でした。車体は比較的新しい日本の中古の軽トラックです。三菱やトヨタダイナの型式ですが、その荷台の部分に横に板切れを6枚並べて大体5人ずつ座らされての出発でした。一人100チャットの料金はまあ仕方がないでしょう。いわゆる登山バスならぬ登山トラックと言う言葉がふさわしいようです。およそ10マイルの距離を45分で走ります。標高差はおよそ1000メ⊥トル以上在りましょう。ゴールデンロックのあるチャイトーヒルは3600フィートとなっていました。さすが海抜1200メーターあれば眺めが最高です。お寺の回りにはたくさん茶屋や食堂が並んでにぎやかです。我らのバスは発車してしばらくしたらエンジン不調で15分間程修理をしての再出発でした。現地の乗り物には定刻という言葉があるのかどうか、はっきりしないのがミャンマーの地方の交通機関なのかも知れません。あまり古い車を利用すると昨日の様に終点まで到着できない事があります。さてキンプンからヤンゴンへは12時に4-5台のバスが同時に出発します。これもしっかり車体そのものを確かめた上で切符をかいましょう。パゴーで降りてもヤンゴンまで行っても料金は同じ250チャットです。

さて我々を乗せたトラックバスは全くの悪路、すなわち日本のどこか山奥の建設現場の仮設道路とも思える道を右-ぐらり左へぐらりとよろめきながら進みます。出発地キンボンから頂上へ行く道中で奇妙な光景を見かけました。いわゆる水撒き屋といいますか。 路上に水をなげうっている人々を所々にで見掛る事が出来ます。 そういえばトラックバスは舗装してない個所はもうもうと境をあげて走ります。 帰路の話しですが、私の前に座った婦人は細かい札を何度も車から放りなげていました。多分100チャット程は散在したように思います。トラックから放り投げられたお金は水撒き屋さんが通過後に拾いに行きます。適当な感覚を置いて50人程がこの役割を担っていました。風変わりな仕事があるものです。ともかくすごい赤土の挨だらけの道を険しい山道をぎゆんぎゆんと登って行くのは頼もしいのですが、疲れは相当なものでした。聖地巡礼で安易な道をとってはいけません。落ちそうで落ちないゴールデンロックへ遂に到達出来ました。

頂上からの眺めは最高です。山全体は標高が1.000メーターちょいですから我々山国育ちにとっては格別珍しい事ではないのですが、空気はそれとはなくひんやりとしています。 幾層にも連山が重なって向こう側に見る事が出来ます。青々とした森のヰのあちこちに寺院や仏塔が見え隠れしています。 圧巻はミャンマー人の誇りとするゴールデンロックです。

この石には不思議なパワーが存在するものと信じられています。地震が来ても、台風がきても落ちないとされている丸い巨石が断崖の隅にちょこんと乗っかっています。 人々は熱心にそこへ一枚また一枚金箔を貼り付けて帰ります。 勿論乗り物(乗合トラック)を使わずに深夜から歩いて頂上のご来光の参拝を兼ねた登山道もあるそうです。 次回は歩いて頂上に行く事としましょう。多くの参拝者が押し寄せる一大聖地としての雰囲気はたっぷりありました。

 

最後に

3月1日にヤンゴンの空港を離れバンコクのドンムアン空港に降り立ったのはその日の夕方4時半頃でした。一気に別の世界へ飛び込んだ事にすぐ気が付きました。今回は僅か26日間の旅でしたが色々な事を感じさせてくれる旅でした。情報によるとミャンマーの観光査証の延長は現在のところ、3ケ月で72ドル支払えば容易に取得出来る事を知りました。次回はミャンマー語を片言にもっと庶民に近づいてその社会の現実を探りたいと言う欲が出てきました。本当に今回の旅も感謝しております。

この記事は3月3日から7日までの5日間バンコク郊外のカンチャナブリのニータ・ラフトハウスにこもって原文を作成する事ができました。その後カトマンズのフジヤマゲストハウスにて写真挿入や読み返しなどをして、ほぼ完成に近いものとなりました。独断と偏見でミャンマーのレポートを作成してみました。 まだ多くの個所で文章の難解な部分や誤字脱字があるかもしれませんが、あらかじめ御了解下さい。今回の旅に出会った方々に深く感謝致します。

 

Saturday,March28,1998

 

 

 

付録

ビルマ旅行事情

1998年2

経路

通常BKKより一番安いフライトはバングラデシュピーマンで毎週火曜週一便。火曜日の午後出発し、夕方の4時頃がヤンゴン到着予定で料金は往復約120US$タイランド通貨で5000バーツ。他にミャンマーエアーエウェイズは、6500Bすなわち150USSで往復こちらは便数が毎日2往復あります。 また、日本からは、全日空の直行便が関西新空港からありますが、料金は未確認です、噂によるとおよそ8-9万円、ヤンゴン市内が荒れている時には、5万円程度まで、値下がりするとか? ピーマンの便は遅れる事もあります。ここの機種はエアーバスですから座席数も多く、直前でも余程でない限り席が取れます。一時間のフライトですが機内で軽いスナック類と飲み物があわただしく提供されます。ピーマンの便でBKK-RGN-CCU或いはBKK-RGN-KTMと各地を途中下車しながらのコースも楽しみです。この逆コースは高くなります。尚ヤンゴン到着が遅くなっても心配はいりません。別項に空港から市内へのアクセスを参照して下さい。

② 査証

現在ビルマの査証はわずか10$で各国のミャンマー在外公館で取得が容易となりました。ミャンマー観光年の意識高揚でしょうか? BKKのミャンマー大使館はサトン北通り(シロム通りの南側でインド寺院の筋を南に下った所)で非常にわかり易い場所にあります。 早ければ、10分種で発給してくれます。 旅行代理店を遺しますとコミッションが入り割高になります。写実が2枚必要。

③ 空港から市内へそして宿へ

空港から市内へは、殆どの場合乗合タクシーか集合バンの利用となります。最初は一人当たり2FECといいますが、交渉している内に人数も集まり結局一人1FECで乗れる事となります。

逆に市内から、空港迄は500-600チャットすなわち2-3$で行けるのですから、空港からの値段は、初めての人にとっては高くついてもしかたないでしょう。大体MTTのお姉さん達が政府認定のヤンゴン市内の宿泊施設の料金表を示しながらガイダンスしてくれます。今何処に空室があるのかも把握してくれます。尚タクシーは比較的良心的で市内から目的の宿へ部屋が確保出来るまで付き合ってくれるようです。これらも料金の中に含まれているとみて良いでしょう。

我々が宿へチェックイン出来たのは、夜の9時半過ぎでしたが、運転手は部屋が決まるまで待

機してくれました。 勿論タクシーの運転手も両替商を兼ねていますが、これは急ぐことはないで

しょう。

④ 強制両替FECについて

外貨交換の方法ですが、これはどうもザル法に近くなりました。一応入国審査が終わった後、両替のカウンターで規定の300ドルを両替する事となりますが、一部の人々は列に並んだふりをしてから、税関のカウンターへ行き問題なくすり抜けるパターンを取ります。また、滞在日数が短い場合はそれを理由に200$100$と減額してもらう人もいます。この場合は、大概プレゼントを要求されます。 両替した中から1FECがねらい目でしょう。彼らの所得からすると大金です。

さてこのFEC なる存在はUSS$と全く等価と表示してありますが、チャットに交換する際FECはレートが下がります。宿の代金はFEC払い、飛行横の切符や列車の切符等もFEC払いです。お寺の入場料金や遺跡の入城料もこれを使います。 現地通貨で支払いの効くのは、バス料金や食事代そしてお土産等の購入費用、日常の買い物分が充当される訳です。 一ケ月の旅行の場合は大体使いきるようです。 私の場合はおよそ1/3をチャットに換えて利用しました。また、使い残ったFECは一割から2割り目減りしますがUSSに替える事も出来ます。 従ってあまり神経質になる必要はありません。 田舎の宿では、FECの高額紙幣の場合お釣りを$キャッシュでくれる場合もあります。 お金が残りそうなら、ここで日用品や薬や雑貨類そしてフイルム等を貫い込んで置くのも一案でしょう。 何故かこの国は輸入しているのにも関わらず物が安いのです。空港税の6$もFECで支払い可能です。この国では、銀行の一年定期が14%の利息ですから、一ケ月に1%程度チャットの価値が下がって行く事となります。

1996年12月24日は1$が167チャットだったのが一ケ月後には170チャットになりました。そして1998年の2月では260から280チャットです。一時期350チャットになった事があるそうです。 両替する場所としては、殆どの宿で交換してくれます。中でもスーレーパゴダの近くのUSAカフェが有利なようです。それからスコットマーケットも有名です。 MTT(ミャンマー政府観光局)の事務所内の両替カウンターもアルバイトとして、公式のハードカレンシー($や¥)からFECへ、FECからチャットの両替サービスも非公式にしてくれます。 概して手渡されるのは500チャット札の束となります。 高頼紙幣がこの金額ですから一挙にお金持ちになった感じがします。1チャットが約0、5円と言う事になります。 YMCAの近くに公式のFECからチャットに両替する場所があるそうです。では良い両替を。

⑤ 宿泊施設

一般的にビルマの宿は見かけが立派そうに見えても以外と中身は安っぽいのが、実状です。 形式だけはエアコンの設備があっても稼動しなかったり、フロントはかなりゴージャスに見えても料金が以外と安いわけです。 大体数ドルで泊れるのが現状です。 この場合はFEC払いかUS払いとなります。 殆どの場合朝食がついています。 宿によって中身は違いますが、一般的にパン、ジャム、バター、ジュース、卵、果物、コーヒーまたは紅茶が一般的です。 簡略化した場合もあります。 概してあちこちにホテルやゲストハウスの乱立で価格は急下降中です。 最近ヤンゴンで人気のあるのがホワイトハウスゲストハウスです。ここにはドミトリーの設備があって朝食付きで3$です。

外人の払う料金と現地人の払う料金はどうもここでは、3-4倍違うようです。 ちなみにYMCAのビルマ人価格は一泊500チャットです。外人は朝食付きで8$すなわち2000チャットになります。

有名な観光地では高級な宿から安宿まで完備しています。旅行者の出かける場所は、限られています。

人気のある宿としては

  • ヤシゴン———-ホワイトハウス、東京GH、YMCA等
  • マンダレー——-ロイヤル、ナイロン等
  • パガン————オアシス、ラッキーセブン等
  • パゴー一————ミヤナンダ
  • シュエニヤン(インレー湖) ————ジョイゲストハウス
  • ピー—————パンガバ
  • カラオ————パインランド、ゴールデンカラオ等

⑥ 食べ物事情

さて、町中の喫茶店はいつも人々がごろごろしています。コーヒーは一杯およそ15から20チャットです。概しておやつも適当に登場しますがこれは食べた分だけ数えて料金を徴収するシステムです。勿論中国茶は無料サービスです。この中国茶の容器は他の人の飲み終わった物を洗わずに只伏せるのみで初めての人々には、かなり抵抗があるかと思いますが、これを利用する前に軽くゆすいで使う人々も見かけます。あまり気にしなくて良いと思います。

現地の食堂でビルマカレーを注文するとご飯はお櫃かなべで山ほど持って来てくれますのでお代わり自由です。 更に嬉しい事にスープも付き、サラダも付いてきます。 これは一般的に生野菜の盛り合わせで魚醤いりのソースを付けて食べると旨いのですが一寸生臭いかも知れません。 鶏肉や牛肉や魚そして豚肉のカレーが主流です。いずれも油がべっとりと浮いていまして初めてこれを見る人にとってはすごく油っぽいと思うでしょうが、パンにべっとりとマーガリンやバターを塗ると同じ感覚でこのビルマ米に不思議とお似合いです。 付随してくるスープや生野菜をふんだんに摂取すればバランスの取れた食事になるでしょう。 平均的にカレーは150チャットが相場のようです。

またインドでよく見受けるローティも焼き立てを食べる事が出来ます。これも20-30チャットで軽食として好まれています。 中華侵頭の類いも沢山あります。 またこの国の飯屋や御茶屋さんでは必ず手拭きと言うかタオル或いはナプキンの類いが用意されています。 店に入ってもぼられる事はまずないでしょう。 安心して食事が出来るのがビルマの良さかも知れません。 高級レストランもここでは意外と割安です。

水は最近ミネラルウオーターが出回り1リッター入りが30-40チャットと手ごろな価格で販売されています。 経済的な旅をする人は喫茶店の中国茶で済ませる手もあります。

いつでも何処でも手軽に食べられる国民食モヒンガをお試し下さい。詳しい事は食べれば解りますから割愛します。

⑦ 交通機関

列車や飛行機そして船はFECもしくはドル払いとなります。列車には普通車とアッパー・クラス(上級車両)の2種類あります。長距離列車は全席指定です。事前に駅で購入出来ます。しかし現地の人はもっと安い料金で乗っています。私の乗車したカラオ~タジ間は普通で3$アッパークラスで5$でした。乗車時間はおよそ5時間です。

ヤンゴンとマンダレーの間は何社も夜行バスが運行されており1800チャットで夕食と朝食が付いています。バスや乗合トラックは現地通過のチャットが利用出来ます。料金も大変安いのですが、路線に依っては本数が少なかったり、早朝しか便がなかったりします。詳しい事は泊った宿で的確な情報を入手して下さい。

即ち交通機関に関してはちょっと不便ですが、全く心配する事がありません。

⑧ 国情及び人柄

人口は約4500万人、農業が中心で工業製品の多くは輸入に頼る国です。 一人当たりの年間所得は多分200ドル前後と思われます。 水資源、森林資源、地下資源に恵まれています。肥沃な大地があり、この国では飢徒で悩む事はないそうです。 国民の85%が仏教徒で構成され気質は至って穏やかでのんびりとしている国です。 犯罪が少ないのもこの国の特色でしょう。安心して旅が由乗る地域です。お釣がごまかされる事もなく、物がなくなる心配もなく、至って平和そのものです。

軍事政権の下にあるのですが、緊張感は全くありません。 民主化の動きで政治的に不安定な面があるように国外で報適されていますが、ミャンマー国内に入ってみると以外とその空気は感じません。

⑨ 見所

主要な見所としては、マンダレー、パガン、インレー湖、パゴー等があります。 その外にモールメインや高原の町カラオ、イラワジ州に面したブローム(ピー)、そしてゴールデンロックのあるチャイティヨ等も訪問したい街です。いずれ も比較的アクセスは容易です。 詳しくは別途ガイドブックを参照すれば良いでしょう。或は旅行者から直接話しを聞く事としましょう。 最新の情報を各自的確につかむように努力して下さい。

⑩その他

旅行の季節は雨季明けの10月頃から暑さの始まる3月末迄がベストではないでしょうか?

日常品は殆どが現地で準備出来ます。電源は200ボルトです。

郵便料金が安いので、荷物を送るのも良いでしょう。

民族衣装のロンジーをトライして見ましょう。中々便利なものです。

英語は全国的に通じにくいのですが、観光地の宿では何とか話が通じます。

 

旅の期間:1998年2月1日~2月26日

干場悟 S.HOSHIBA

DZSO2465@niftysorve.or.jp

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