アジア旅日記No.7ミャンマー珍道中

パガンの遺跡

アジア旅日記No.7ミャンマー珍道中

1998年10月17日から27日

パガンの遺跡

10月17日は、友人とバンコクの空港で待ち合わせの予定が入っています。バンコクの空港で待ち合わせをして一緒にミャンマーの旅をというドッキング作戦は、成功するのでしょうか?今回の旅立ちは、私にとって、大変忙しい日々の連続でした。事情は複雑です。

中原整夫、干場悟

 

 

 

内容

出発まで… 1

10月17日無事ドッキング… 2

10月18日ヤンゴン市内… 4

10月19日マンダレー到着… 6

10月20日メイミョウへ… 8

10月21日 パガンへの船旅… 10

10月22日パガンの遺跡… 12

10月23日パガンよ、さようなら… 13

10月24日パゴーにて… 14

10月25日再びヤンゴンへ… 15

10月26日バンコク寄り道… 17

行程表… 18

収支報告… 19

出発まで

10月17日は、友人とバンコクの空港で待ち合わせの予定が入っています。バンコクの空港で待ち合わせをして一緒にミャンマーの旅をというドッキング作戦は、成功するのでしょうか?今回の旅立ちは、私にとって、大変忙しい日々の連続でした。事情は複雑です。

当初私の日本出発は10月15日となっていました。友人との約束でミャンマーへの旅を企画していました。日本では何かと仕事が忙しく、出発前の準備はまだ終わっていません。ミャンマーの査証はバンコクで取る予定でいました。木曜の夕方日本を出発すれば金曜日は一日余裕があるので、バンコクでのミャンマービザの取得は可能と読み取りました。ミャンマーもタイ王国ともに、休日に該当しないことを確認して、安堵の胸をなでおろしていました。

でも、ちょっと心配です。万が一に備えて、東京でミャンマーのビザを取得した上で日本出発するという案も浮かぎました。今日は10月14日です。今から(静岡から)東京を経由し群馬の友人宅で一泊し翌日15日に東京へ出てから成田に向かうのだから、日本でも取得可能と想定していざ実行です。

さて、実際は大変な事でして、大使館の窓口に来てみると、雑誌やインターネットで得た情報とは大きくこと異なります。当日発給の制度は廃止、翌日発給の制度も変更となり午後4時にならないと受け取りが出来ません。今申請しても発給は10月15日以降になります。以前はバンコクの大使館で15分後には取得できたのですが・・・。この事を訪ねても「管轄外ですから、」どうなっているものやら回答はありません。

これでは、私の出発には間に合いません。一瞬途方に暮れて小雨の中を有楽町に向かってトボトボと歩き始めました。

以前から連絡を取っていたパキスタン航空の事務所に出向いて航空券の振り替えが必要なのです。今回私が手にしている航空券バンコク―東京―バンコクの便は、パキスタン航空が都合で運行を中止したので、バンコクから東京へは、タイ航空の振替便を利用しました。当時の価格で計算すると、往復20,000円を割っています。

(***アジア通貨危機に襲われて、アジア各国の通貨が5割ほど値下がりになった***)。帰路の東京からバンコクへは、どの航空会社を利用しても良いとかで、以前から全日空の10月15日夕方の便に予約をいれておきましたが、事情が変更したのです。ミャンマーの査証の件で躓いてしまいました。

さて、突然ひらめいた知恵は、「今日出発すれば大丈夫かもしれない。」という事で、早速受付で「今日出発できるものかどうどうか」問い合わせると、嬉しい事にOKが出ました。しかし、残す所4時間しかありません。何とか間に合いそうです。本日の予定なる、群馬の友人を訪問してエベレスト街道を歩く企画の打ち合わせを取り消し、まっしぐらに空港に向かうこととなりました。成田空港でも大忙しでした。予定変更につき、あちこちに電話をし、パソコンと公衆電話をつないでメールの送受信に大童でした。ハガキも投函しなくてはなりません。アッと言う間に時間が過ぎていきました。こんな忙しい出発は初めてです。

機内はほぼ満席です。でもこの便はいつも利用しているパキスタン航空やバングラデッシュ・ビーマン、インド航空とは違います。真新しい機体で、手入れが行き届いています。スチュワーデスは、跪いて、灰皿の掃除をしてくれます。乗客の表情を読み取りながら、背中のかゆい所に手が届くようなキメの細かい世話をしてくれます。料金は割高ですから、客層も異なります。ビジネス客が多いようで、中高年が圧倒的です。格調高いとは、この事なのでしょうか?6時間の機内サービスを堪能し、夕方9時過ぎにはバンコクのドンムアン空港に降り立つ身となりました。

翌日は木曜日です。旅行代理店に駆け込んでミャンマーのビザ情報を確認したところ、その返事はおぞましいもので、背筋がゾーとするものでした。一週間要するとか?それって本当でしょうか?もしそれが事実だとすると、我が友人は単独でミャンマーに侵攻し、挙句の果ては露頭に迷う一介の旅行者となって、折角のリフレッシュ休暇が地獄の10日間になりまねません。

何としてもビルマ(ミャンマー)大使館で、強硬策を演じてもビザの取得はしなければなりません。泣き落とし作戦を覚悟でミャンマー大使館に向かいました。ところが、これは全て空振りとなり、今まで抱えていた心配は吹っ飛んでしまったのです。窓口で代金を払う「夕方4時にビザを受け取りに来てください」の一言でした。ああラッキー。一度宿に引き返し、第二陣のエベレスト街道組の航空券の手配に奔走しました。再びミャンマー大使館に到着したのは、閉館の5分前です。バンコクの渋滞に巻き込まれた結果、ぎりぎりの到着で、冷や汗のかきっ放しでした。翌日は街角のインターネットカフェから、早速友人に連絡を取り、最終打ち合わせの電話を入れて、万全を期しました。

ここ数日間は緊張の連続でした。これで明日は友人を待つのみです。当企画としては、始めから貴重な体験でした。しかし、冷静に対処すれは、もの事は解決するものです。或るあらゆる角度から検討すれば、良いアイデァが浮かぶものです。さて、今回のビルマ紀行は、いかなる道中が展開するものでしょうか?

 

10月17日無事ドッキング

最近バンコクでのタイ航空のサービスには定評があります。出発の3時間前にカウンターに入っても、チェック・インを受付しています。しかも、何便のXX行き等とカウンターの指定もありません。どこでも良いからTGのロゴのマークのあるカウンダ―へ行くと処理してくれるのも嬉しいものです。こうして私は、予定よりも早く搭乗券を手にし。出国手筒気を終わらせ出国ロビー(待合室)に身を置く事になりました。早速到着ラウンジに向かい、関空からの到着ゲートを・・・・となりました。ここで待てば、必ず友人と再会出来るという確信で張り込みを続けました。待つ事5分、関空からの便が到着です。ぞろぞろと乗客が吐き出されてきます。その中でサングラスをかけたニヒルな見慣れた風体の紳士が一人、ふっと嘆息の出る瞬間でした。出発までにまだ、2時間以上もあります。久しぶりに話に花が咲いたのは勿論でした。

彼の話によると、日本を出る前から季節外れの台風が接近し、一時封鎖という情報が流れ、遅延の可能性もあったそうです。もしそうなると、今のようにドッキングは不可能です。まあ神様とか仏様が数日間我々を守ってくれたのかもしれません。

万一、バンコクからヤンゴンへ同一便に乗れないとしたら、友人の折角の休暇が台無しになります。悪徳ガイドの言いなりで、バンバンお金が消えていったかもしれません。今回の台風接近とかで友人もかなり心配したそうです。

さて、バンコク発ヤンゴン行きは、定刻18時10分発で、現地時間の18時40分到着です。洗練された機内サービスには定評があり、快適な1時間の旅でした。

ヤンゴンのミンガラドン国際空港は丁度インド国内航空の到着と重なり入国審査のカウンターはごった返していました。待つこと40分、ようやく我々の番が回ってきました。ここは難なく終了。続いて強制両替のカウンターが待ち受けています。これは個人旅行者対象に、一人当たり300ドルの両替を強要するものです。通常の観光旅行では一カ月150ドルから200ドルあれば十分ですから、我々のように低予算で旅をしている仲間には全く不評です。

カウンターで少し趣向を変えて、我々は100ドル札5枚の中に1ドル札をませて二人で合計500ドルでごまかそうと試みました。一瞬、係官の目はほくそえんで、すこし考え込みました。しかし、周囲を見渡して、我々の条件を突き返してきました。どうも上級係官が更なるチェックをしいているようです。それともプレゼントの額が少なかったのかもしれません。結局この作戦は不発となりました。何だかんだで、手続きが終了したのは、午後7時30分でした。結局一時間以上かかったことになります。

最後の窓口は政府観光局のお姉さん方に囲まれてタクシーの交渉です。当初は二人でタクシー一台4ドル、すなわち一人当たり2ドルでしたが、もう一人外人客と抱き合わせにして、一人1ドルで折り合いが付きました(一台3ドル)。これは、タクシーと言っても名ばかりで実際は白タクです。ワゴンタイプで8人分のシートがあり、広々としています。車両そのものがセダンタイプではなく、多分政府高官の私用車か、政府機関の車両を転用し、アルバイトに精を出しているのではないでしょうか?不思議な経済の循環というものを感じ取ることが出来ます。この国の人々にとっては極めて当然なのかもしれません。

10月と言えども、まだ蒸し暑く、冷房の効いた18ドルの部屋はヒンヤリとし、料金から見ても快適そうです。トイレも清潔、ベッドも清潔、友人は、昨夜夜行列車を利用したとの事です。さぞかしお疲れの事と思います。今日はご苦労様でした。

 

10月18日ヤンゴン市内

昨日の疲れも何のその・・・。今朝は7時きっかりに眼が覚めました。昨夜の間に宿を通じてマンダレー行きの手配をしてもらいました。料金は一人2000チャット。すなわち6ドル程度です。出発までヤンゴン市内探訪の予定です。宿の無料朝食はパンとコーヒーそれに果物の三点セットです。顔見知りのインド系のメイド達は何度も私に勧めくれましたので、結局一人で二人分を頂く事になりました。

そうこうしている間に9時となり、約束通り友人のラーマンさんが迎えに来ました。前回もお世話になったピカピカの中古車4WDのトヨタ・ハイラックスの登場です。今日はこれで半日ほど市内をぐるぐる回ることになりそうです。

ビルマの人々は、モヒンガーという魚のダシの効いたヌードルスープが好物で、朝食にこれを食す光景を良く見かけます。まずは、この街で一番人気のある下町のレストランで再び二度目の朝食です。さすが、流行っているお店と申しましょうか、日本の人気あるランチのお店という雰囲気で客の回転がやけに良いではありませんか!安くて旨い、そして栄養価の高いミャンマーの国民食と言っても過言ではありません。

続いてヤンゴンで一番有名なシュエダゴン寺院の見学です。ここは、外人観光客は5ドルの入場券が必要です。私は現地のロンジー(腰巻)にはきかえて入場です。うまくカムフラージュ出来たようで、中原氏のみが5ドル支払い、彼の胸には「この人は5ドル払いました。どうぞよろしく」といわんばかりに、ワッペンが胸に輝いています。

沢山の信者でにぎわっています。皆それぞれに、「幸運が舞い込みますように」と祈っているのでしょうか、お祭りでもないのに、にぎわっています。日本の神社が賑わうのは年末年始と祭礼の日だけがごった返しますが、ここでは年中活気があります。

続いては、英語名ではスコット・マーケットですが、現地名では、ビルマ独立を勝ち取り後に暗殺されたアウンサン・ボージョーの名前を冠したアウンサンーボージョー・マーケットの省略のボージョー・ゼイとも呼ばれています。

まずは友人の表敬訪問です。この市場の一角に靴屋を営む友人の店前で、ミャンマー風のかき氷をご馳走になり、ついでに、FECから現地通貨に両替を依頼しました。今は1ドルが360チャットですから、150ドル分を両替すると54000チャットになります。500チャット札がこの国では最大の高額紙幣ですから、100枚以上の分厚い札束が新聞紙にくるまれて、運ばれました。何しろ喫茶店でのコーヒー一杯の価格が30チャット、飯屋で200チャットも出せばおなかが一杯になる国です。日本では、さしずめ20-30万円分の札束を手にしたと同じ感覚がします。

宿代や列車代はFEC(ミャンマー国内で流通するドルと等価と記した紙幣)払い、もしくは弗払いが義務付けられています。バスや食事代金は現地通貨で良いという二重方式が採用されています。他に150ドル分のFECは宿代の支払いに充当です。これでもまだ300FECが残ります。二人で600ドル分の強制両替を余儀なくされたのですから・・・・。

にわかに大金持ちになってしまいました。大雑把に土産物の下見をしました。今日の夕方は夜行バスで発ちますから、帰り際に買い物の時間を組みこむことにしましょう。さて、昼食はラーマンさんの自宅で奥さんの手作り料理をご馳走になりました。南インド方式でバナナの葉の上に料理がのっかり、胡坐をかいて床に直接座っての完全インド式の接待でした。大型エビやら、マトン(羊肉)やら盛り沢山の豪勢な食事です。

さて、いつのまにか、スコールがやってきました。ヤンゴンでは、今の時期は週に二度程スコールに見舞われるそうです。雨季が徐々に遠のいているのでしょう。回数も次第に減っているそうです。このスコールに子供達は大喜びで外に飛び出し、石鹸を塗りたくって、はしゃぎ回っています。雨樋を伝わって流れ落ちる滝のような雨だれに打たれて、気持ちよさそうです。激しかったスコールも、一時間ほどすると再び青空が戻り、何事もなかったかのような平静さを取り戻しています。

ちょっと早いけど、そろそろバスセンターに向かう事としました。途中、次回の為に何か所かホテルの下調べをしましたが、いずこも値段相応です。今はまだシーズンオフなのでしょうか、どの宿も人影がなく、シーンとしています。従業員が手持ち無沙汰で、ボーっとしている所が多いようです。それでも、気持ち良く部屋を案内してくれました。安宿と家でも外人向けの宿は設備が一応しっかりしています。いずこも安心して宿泊できるのがミャンマーの宿事情なのかもしれません。

ラーマンさんが「バスセンターまで送りましょう」という好意を丁寧に断って、我々は現地密着型の旅に固執して、現地の庶民の足なるローカルバスを利用する事となりました。ミャンマーの市内バスは、その型式、製造国が混在しています。同系統を走る車両の中にも、右ハンドルの日本製、左ハンドルの韓国製、トラックの荷台を改造した変形オープンカータイプ等・・・・。いずれも思いのまま走っています。勿論中古車の再利用で、必要最低限しか塗り替えはしてありません。ですから、あちこちに日本文字を見出すことが出来るのです。

我々がありついたバスは、車体の両側のドアが開閉します。両側と言っても、日本のような前乗り、後ろ降りなる両側ではなく、車体の左右の両側です。出発地点では、この両ドアが開き、一斉に人々の乗車が始まります。右側走行の車が左側に停車した場合、非常口も乗降可能となり、一番乗りをして席を確保すると思いきや、逆からも人が乗り込み、あっと言う間に満席になります。これは意外な事でした。

非常口からの乗降がこんなに優れているものとは思いませんでした。<発想の転換ここにあり>の一言です。40分の走行後車掌の兄さんは、親切にも、ここで下車ですよという合図をしてくれました。

と言っても、道路走行中も、安全対策も十分なるようです。この国では、日本のように完全停止、安全確認、出発進行等まどろっしいことはしません。低速状態のまま、お客さんはジャンプして下車します。乗り込む場合は、車掌が客の体を捕まえて車内へ放り込んでくれるとも表現しましょうか?もう一人の車掌がその間に車内を行ったり来たりして料金を徴収していきます。切符の授受などは皆無ですから、彼等は記憶力が相当良いのでしょう。これは発展途上国に共通しています。

さて、これに比べて日本の市内バスはどうでしょうか?エンドレステープで、お世辞が空しく流れます。無言で支払いをしてボタンを押して所定の停留所に止まるまで絶対ドアは開きません。自動化は便利ですが、反面、人と人との対話をもぎ取ってしまいました。ミャンマーの市内バスは、生きた人を運ぶ生きた乗物です。日本の市内バスは霊柩車に該当すると判断するのは、誇張でしょうか・

ともかく、事故もなく、バスから飛び降りて、ヤンゴンの長距離バスターミナルに到着です。出発までまだ1時間半程あります。本日乗り込むレオイクスプレスの事務所に荷物を預けて、ちょっと周囲の散策です。殆どのバスは日本製の中古車です。エンジンというのは結構強いものなんですね。行先によっては、超老巧化した車体もありますが、そういったバスに限って、大量の荷物を屋根の上に高く積み上げています。人間も似たようなものかもしれません。いつまでたっても、高齢者が働かなくてはなりません・・・・。

お茶の時間を楽しんンで、いよいよバスは出発です。事故が起きませんように!!

 

10月19日マンダレー到着

バスはきっかりと15時間後にマンダレー郊外のバスターミナルに到着しました。その時オヤッと思う光景が目に入りました。「Welcome to Mr.Hoshiba」と書かれたプラカードを持った人が出迎えにきているではありませんか。その下には小さく、<AD-Guest House>と記載されています。一体どこで我らの情報を仕入れたのでしょうか?

我々は出迎えを依頼した覚えはありません。看板の持主に尋ねて事情は判明しました。どうもヤンゴンのGuest Houseとマンダレーのゲストハウスが結託していて、バスの切符を手配すると、客が拾えるか拾えないに関係なく出迎えるという新商法の登場です。多分何割かの客はホロリと流れ込んでいくのでしょう。更に日本人のお兄さんからも声がかかりました。この人物は地元の安宿に滞在していて、臨時に客引きをしているのでしょう。しきりにAD-1を褒め称え我々を引き込もうとしています。

軍事政権とやらで、情報の漏洩には敏感で何かと規制の厳しいミャンマーですが、意外な所に抜け道があります。ミャンマーのハイテク利用で昨日の情報が無断で流れているのです。これでは、個人情報の保護などあったものではありません。

さて、客引きの皆さんにはお断りを申し出て、バス駅の入口付近にある市内行きの乗り合いトラック利用で出発進行です。外人料金を請求される事もなく、平穏に市内入場です。今日はガーデンゲストハウスの利用を予定しています。我々がガイド、客引きなしてやってきたのをしってか、即低価格を提示してくれました。これでは、値引き交渉も何もあったものではありません。二人で10ドルテレビ・冷房付きという好条件です。まあ悪くはないでしょう。果たしてこの料金で大丈夫なのでしょうか?矢張り心配事は的中しました。

カラーテレビはあるものの、今一つ調整がうまくいかず、雑音だらけです。これでは折角の衛星放送も楽しみは半減します。エアコンは装備されているものの電力事情が悪いものですから、エアコン用のプラグに電気が通じていません。余分な電力は消費しないように極力抑えているようです。

夜になると、これが又大変です。隣にもホテルがあるのですが、巨大な自家発電装置が隣合わせで、ガンガンと大合唱をしています。表通りに面した部屋は眠れるものではありませえん。急遽部屋変えをお願いして引っ越しです。新しい部屋と言っても、天井からぶら下がっている扇風機もパワー不足なのでしょうか?最強にしても、ゆっくりと空気を攪拌しているだけです。これで安眠出来るものでしょうか?

ともかくチェック・インを済ませて、すぐ近くにあるナイロンコーヒーハウスで、私は名物のプリンを、友人はバナナ・サンデーで乾杯です。

腹ごしらえをして、今日はサイクリングと行きましょう。これもすぐ近くに雑貨屋兼自転車屋があり、一日200チャット(約60円)で利用できます。ブレーキ、乗り心地もまあまあです。この中国製の自転車はちょっとブレーキがあまいのが難点ですが、安さで勝負です。少しは我慢しましょう。

マネージャーのインド系(南インドのタミル系)のお父さんは、私がある程度タミル語を話すのを知って、大変懐かしそうでした。これで何事があっても意思疎通は大丈夫です。お父さんは、鍵の束を持ち出して、この部屋は、あの部屋は・・・と応対に勤めてくれました。

マンダレーから古都アマラプラへ通じる道路はサガインとい隣町を結ぶ主要幹線道路の途中ですから、交通量が多く走行には十分注意しなくてはなりません。おまけに、日本とは交通規則が車両は右側通行ですから、最初の数分間は戸惑ってしまいます。昨日は夜行バスですから、かなり疲れが残っています。加わるに、日本の初夏の気候ですあら、我々の体力に頼るしかありません。かなり強硬な一日の始まりです。

幹線道路を離れて、田園風景の中を走行し、木造の古い橋ウービンに到着したのはお昼前でした。岸辺の木陰にある茶店での一杯のコーヒーは格別です。観光名所の一つですから、地元の客もぼつりぼつりと見えます。ミャンマー的というか、商売っ気のない茶店や食堂が並んでいます。それにしても、皆悠々と商売をしています。他の国の観光地のようにせせこましくはなく、赤字なのか儲かっているのかお構いなく、お店を開けています。

マンダレーの観光ポイントの一つが終了しました。再び市内に戻り、ネパール・レストランで昼食です。店の名前は「エベレスト」ミャンマーには今も多くのネパール系住民がいます。その多くは英国統治時代に入植したゴルカ兵の名残なのでしょう。ここではネパール語が飛び交っています。ネパール系住民のたまり場になっているようです。このレストランの味は本場ネパールのそれとは異なりますが、ここに通う人々にとっては、その雰囲気―郷愁を誘うにはふさわしい場所でもあるのです。

だだっ広いマンダレーの街の北端に位置するマンダレーの丘は目の前に見えているのですが、自転車ではなかなか到着しません。この街は道路が碁盤の目のように四角く区切ってあり、地名表示は○○番通りと△△通りの間とか角という事になっています。

ようやく、麓に到着しました。自転車を預け、丘の上にある寺院を目指して行動開始です。わずか、標高差200メートルほどの丘ですが、全山お寺という事でしょうか途中何か所か外人専用の料金徴収所があります。止む無く一人三ドルの料金を払っての入場です。中腹にあるレストランで一休みです。冷えたビールが五臓六腑にしみわたります。マンダレーの街並みが眼下に広がっています。見上げると頂上にある寺院は誠に立派なものです。ガラス細工が全体にはめ込まれて、どこから見てもキンキラキンとしています。敬虔なる仏教徒が熱心にお祈りをささげています。うーん、仏教国ミャンマーのイメージが、ここでは力強く根付いています。

寺院の観光も終了し、これで、マンダレーの二大イベントを制覇したわけです。所で今日はミャンマーでは、デーパワリという灯の祭りの日です。偶然に出くわした貴重な祭日です。英国領インドの属国として統治されていた時代には、大量の移民が居住し、今でも10万人ほどのインド系の人々が住んでいると言われています。その名残でしょうか?カレンダーの上でも休日となっています。これは灯明祭りとでもいうのでしょうか?このお祭りは特にインド街では、賑やかで、1キロほどの距離に夜店が延々と続きます。勿論ハイテク商品、ハイテク装置はありません。素朴そのものです。それでも道路は歩行者天国と化し、家族連れや友人同士で押すな押すなの大盛況です。ヒンズー寺院の周りには、特別ステージが設定され、懐かしのインドのヒットソングが、生バントを背にして流れていきます。メリーゴーランドも設置され、人々は心から楽しんでいます。

この国の観覧車は、人力で勝負です。モーターで動くのではありません。電気がありません。若い元気の良い青年達5-6人が巨大な車輪のあちこちにぶら下がって、全員歩調を合わせ、体重をかけて一斉に始動です。見ていると危険極まりなにのですが、当事者は慣れたものです。勢いよく回っている観覧車を止めるのも人間の力に頼るしかありません。全く見ている側が冷や汗をかいてしまいます。

そんな楽しいマンダレーの夜でした。それにしてもインド系移民のたくましさを感じさせます。彼等は近世の歴史の中で、様々な重圧がかかり、人それぞれに悲哀を背負ったのです。高齢の人々は母国語を流暢に話せるのですが、世代を重ねる毎にその影は薄くなってきます。それは、宗教を通してしっかりと生きることを学んできたのかもしれません。日本の社会に欠けている何かを発見できそうです。人々は着飾って、家族が和気あいあいと楽しんでいる光景は、今でも目に焼き付いています。

 

10月20日メイミョウへ

朝食はホテルでゆっくりと済ませ、今日はマンダレーの避暑地メイミョウへ出かける事としました。昨日は自転車でたっぷりと観光をしましたから、今もまだ、股の下が少しばかりギスギスしています。この街は昨夜も停電で街は何と薄暗いのですが、ミャンマーは世界でも安心して歩ける国の一つですから心配はいりません。地方のゲリラ戦が展開されている地域は別として!

メイミョウ行の乗り合いトラックは街の中心部から出発します。バス亭に到着するとすかさず声がかかってきます。今は、乗り合いトラックと乗合タクシーの二本立てで運行しています。我々は安価なオープン座席の乗り合いトラックの利用です。例によってミャンマー方式とやらで、荷台は牛詰めとなってから出発です。料金は一人100チャットで60キロ離れた高原までぶっ飛ばします。

荷台に長椅子を設置したこのタイプは、外圧がもろにかかり、エンジンの唸りが全身に響き渡るすごい乗り物です。日本の完成された自動車というものは、完全密閉型ですから、外気が伝わらず、高速で走っても乗客はスピード感を味わうことはできません。窓の外から流れ行く景色の速さで「ああ速い」と感じるのが精いっぱいです。所がこうして荷台に陣取ると迫力満点です。多分、これは屋根に座ると尚一層迫力を増すことでしょう。

前半の一時間は平地を、後半の一時間はヘアピン・カーブのある中をギュンギューンとうなりを上げて登っていきます。途中で15分の小休止を挟んでの快適なドライブでした。元英国人が夏の別荘を持っていたと言われる高原の街は、所々に幾つかの名残をとどめる建物や教会が残っています。11時過ぎに到着しました。ちょうど昼飯のラーメン屋さんは、乗り合いトラックの終点の前にありました。具もたっぷりで、ダシも聞いた美味を味わってから、市街をぶらぶら散策です。この街は中国国境に通じているので、市場にはメイド・イン・チャイナが沢山登場します。簡素な木造屋外マーケットには、商品がドバっと無造作に積み上げられて、活気に満ちています。

日本も消費文明とやらで、デパートやスーパーマーケットには沢山の商品が並んでいます。しかし、最近の日本は耐久消費財すら買っては捨て、買っては捨てで消耗品扱いになりました。それに比べると、この国では、そういった品物は、まだまだ高級品で10年でも20年でも利用可能です。果たして一時華やかに叫ばれた「消費は美徳」というキャッチ・フレーズに後ろめたさを感じながら生きているのが日本の社会でしょう。

ミャンマーでの最大の商取引は、食なのでしょう。エンゲル係数が高いから生活水準が低いというのは、西洋の尺度でアジア社会には当てはめてはいけません。新鮮な食料を、あらゆる種類にわたって食べることの出来る社会も、豊かさのシンボルではないでしょうか?金満国日本では、何が欲しいのか、何を求めたら良いのか、迷わざるを得ない不幸な暮らしです。一度このワナに陥った経済の枠組みからは、容易に脱却できそうにありません。

高原の冷気をたっぷりと吸い込んで、そろそろ帰宅です。乗り合いトラックは、行きは100チャットでしたが、帰りは外人価格とやらで、倍額を請求されました。人相の悪い兄さん達が、頑として値引きに応じません。これはちょっと悲しい事でもあります。ちょっと奮発して帰りは荷台ではなく助手席利用で300チャットとなりました。ああ、荒っぽい運転です。

サンダルを脱いでルンギ(現地の腰巻)姿で威勢よくハンドルを握っています。交通量が少ないので事故は少ないのでしょう。心得たもので、市内に入るとゆっくりと運転します。郊外はスピード制限なしで、車の性能が唯一の上限(おんぼろ車ですから70キロも出れば良い方です)に左右されます。これがミャンマーの交通規則の実例でしょう。

 

10月21日 パガンへの船旅

今朝は、早起きをしなくてはいけません。パガン行きの船は5時半に出港です。宿から船着場までは、およそ4キロの距離があります。早朝、まだ暗がりの中をごそごそと起きて出発です。前日予約しておいたサイカー(リキシャ)は約束通り宿の前で待ち構えていました。いずれにしても、ミャンマーは早起きの国です。

日本も以前は早起きの国だったのでしょうが、文明の進化?で夜更かしの国へと一転しました。テレビは夜遅くまで放映しています。最近はどこにでも24時間営業のコンビニが幅を利かせています。次第に自然と乖離した生活にはまり込んでしまいます。発展途上国の田舎は、太陽の昇る前から活動を開始します。新鮮な食料を一刻も早く流通ルートにのせんがために、日本では高速道路にトラック軍団が列をなして疾走します。東京をめがけて地方の特産品が流れていくのです。生ものは保冷車、冷凍車に積み込まれ、厳重な管理の下で利益を求めて、人々が右往左往しています。

それに比べるとミャンマーのシステムも負けずに活気があります。人々は早朝暗い中を胎動し始めています。大量の荷物を抱えた人々が市場に向かいます。ここでは、冷凍品なし。薬品処理した食品(野菜等)は皆無です。視点を変えると我々が発展途上国。もしかすると、我々が時代に逆行していたのではないでしょうか?結果として、利便性の追求とともに、生活コストが膨大となり、ブヨブヨしたブロイラーチキン、水っぽい卵、薬害のしのびよる野菜を口にしているのが現状です。こうして考えてみると、発展途上国と先進国という既成概念を改めて見つめ直す必要があります。一体豊かさとは何でしょうか?心身ともに疲労困憊し続ける日本が、先進国の見本ではないでしょうか・・・。

さて、話を元に戻しましょう。15分ほどサイカーに揺られて船着き場に到着です。まだ夜は明けていませんが、人でごった返しています。一体どこに切符売り場があるのか良くわかりません。薄暗い裸電球があちこちで点灯しています。何かしらお祭りの夜店の中に迷い込んだ気分です。ちらほらと外国人の姿も見えます。二艘の船が出港の準備をしています。さて、我々も朝食をここで調達して出発まで待つことにしました。

出港予定は5時半となっていますが、なかなか出発しようとはしません。そのうち、夜も次第に開けてきました。木造のこの平底船は日本製です。船に表示してある標識板は確か戦前のものです。察するに日本の瀬戸内海を航行していた船が中古となって、今でもミャンマーで堂々と活躍していると・・・・・。

数年前インドネシアのスマトラ島とジャワ島を船で渡った時も日本の中古船で、まだ随所に非常口とか救命具という文字を残したままで運行していました。マレーシアのランカウイ島と本土を結ぶ高速船(水上艇)は日本の瀬戸内海を走っていた名残を留めています。かようにして、バスやトラックの類だけではなく船は言うまでもなく、飛行機までもが中古はあちこちで利用されているのです。

20分ほど遅れて船はエンジン全開でスタートしました。この木造おんぼろ船は果たして大丈夫かな?途中で沈むのではないかという危惧に陥ります。何しろあちこち傷だらけです。それでも一応レストラン、いやスナックコーナーもあります。トイレもあります。二階建ての愛らしき船です。その上部デッキの前方に20脚籐椅子が用意してあるのですが、ここが、いわゆる外人専用コーナーとなっています。当日はフランスのグループが10名ほど、それから個々の外人が我々を含めて10名程、そして多くの現地人は直接布切れを敷いて場所を陣取りひしめきあっています。無事到着しますように。

幸いに雨季があけたばかりですから、水量はまだ多いのですが、流れはそんなに急ではありません。とうとうと水が移動しています。多分ここは、巨大な魚も住んでいることでしょう。行けども、行けども何の変哲もなく船は前進していきます。

このイラワジ川は全長1400キロメートルと言いますから、日本の川に比べるとスケールが違います。いや、川そのもののイメージも大きく異なり、どちらかと言うと極端に細長い湖と言う感じです。現地到着予定は夜の7時半です。太陽が昇り始めました。今回は絶妙なクルージングの日となりそうです。道中何か所かで客を降ろしながら南下していきます。街影も何も見えないだだっ広い所には、いつの間にか人々が集まってきます。埠頭から更に対岸へ行くのでしょうか?手漕ぎの船が群がってきます。ともかくここでは我々の想像をはるかに超えた空間が形成されています。

束の間の停船を利用して、様々な品を売りに来ます。外人観光客を目当てにビールも登場です。最初は500チャットと言いますが、結局300チャットに値下がりです。このビールはどちらかと言うと温暖ビールとでも申しましょうか!ミャンマーの事ですから、氷がありません。冷蔵庫がありません。日中の暑さで次第に瓶の中味も暖かくなっていきます。果たしてお味の方はいかがなものでしょうか?

驚いた事に栓抜きがありません。普通インドやタイでの路上販売人は、たとえそれが粗悪品でも、栓抜きというものを持参しています。さあ!我々の販売嬢は、すぐ近くにいた見ず知らずのお兄さんに瓶を渡しました。受け取った兄ちゃんは、瓶を口にくわえて、歯でカッキンと栓を開けてしまいました。いやはや、我々はこの一連の光景を唖然として眺めるしかなす術はなし。ミャンマー式サバイバル戦法にまいったわけです。

昼の陽射しは可なりきつく、船の振動が心地よく響いてきます。今朝は早起きしていますから、睡魔が襲ってきます。皆それぞれうとうとしています。流れゆく川面を見ながら、船尾にある喫茶店で現地の甘ったるいコーヒーを飲むのは風情があります。

さて、ようやく日も暮れてきました。遠い彼方にパガンの灯が見え始めました。水流の関係で予定よりも早く到着したようです。下船後この街に入るには10USドルを支払わなくてはなりません。外人のために設けられた料金徴収所で遺跡入場料を払って、今日の宿オアシス・ゲストハウスにむかいます。以前投宿して気持ちの良かったこのゲストハウスは船着き場から歩いて20分。船を降りると何度か客引きから声がかかりましたが、そんなことはお構いなしに、宿へと直行したわけです。いやはや長旅お疲れ様でした。

「船着き場から宿へは10分程ですョ、ちょっと歩くだけ」という私のいい加減な表現に、友人は「まだか、まだか」といった思いで、さぞかし恨んでいるのでは・・・。このちょっとだけの定義は私の場合、徐々に現地化してきたようです。

ネパールの山奥の民にとってちょっと歩いてという意味は3-5時間の距離、バングラデッシュの農村部では2時間、タイの田舎では1時間、日本では5分以内と定義されているようです。車社会にどっぷりと浸った日本人の足腰は、見事なぐらいに退化してしまったようです。

 

10月22日パガンの遺跡

ここパガンは宿が沢山あって競争が激しいので、二人で6ドルの部屋でも冷房も効いています。街はずれにありますから、ひっそりと静かで閑静な佇まいです。夜は静寂そのもので何となく心が安らぎます。昨日はぐっすりと眠ることが出来ました。

朝は爽やかに、ガーデンレストランでの食事です。ビルマの宿は多くが朝食込みお値段です。6ドルというと、およそ2000チャットです。この国の物価水準からすると高額です。レストラン(屋台)で働いている子供達の一カ月分の給料に匹敵します。ちょっと申し訳ないからという気持ちからでしょうか、このサービスにはわけがありそうです。

今は観光客も少なく、ゲストは我々のみで全くひっそりとしたものです。宿のマネージャーは実直そうな学生です。朝食を庭で取りたいと申し出ると、早速椅子とテーブル、そして古式豊かなパラソルまで準備してくれます。パンのお代わりは勧めるし、中国茶の差し入れはするし、サービス満点です。心がこもっていて、いつも明るく振舞っています。

さて、陽も大分高くなってきました。今日一日は自転車を借り切っての遺跡観光です。雨季が明けて間もないので、青い空に緑の大地が広がっています。その中に遺跡がにょきにょきと点在します。赤れんが色のストゥパ(パゴダ)の名残りが周囲に溶け込んで優雅なたたずまいを見せています。これが仏教の三大遺跡(アンコール・ワット、ボロブドール、パガン)と呼ばれるにふさわしいと納得がいきました。

普段車社会に浸りきっている友人は、ちょっとバテ気味です。途中、茶店でお茶をすすりながらの強行軍です。昼食を兼ねて再び街の中心地ニャウンウーに帰る事としました。結構長い時間自転車を乗り回したものです。朝9時にスタートして宿に帰ったのが午後3時でした。途中で1時間休んだのですが、何しろ日本の初夏を思わせる気候の中です。久しぶりに冷房をガンガン効かせて昼寝と決め込んだのです。もう一度日没にひと走りして、サンセット・ツアーにあやかろうという気持ちを抱いて、うとうとしてしまいました。

熟睡から眼が覚めたのは5時です。当たりは少しばかり日没間近です。我々は必至になって自転車を漕いでいるのに、外人カップルは優雅に馬車に揺られて同方向へ向かうではありませんか。ああ、計画に反省あり!次回の夕日ツアーはもう少し格調高く駒を進めなければなりません。

さて、夕日を眺めるにふさわしいベストな場所は、遅刻している為に手前の近くで済ませることにしました。一つ目はどうもムードが盛り上がりません。一度塔の上まで登りましたが、即刻折り返して、もう少し先のパゴダに向かいました。ここは、名所観光地でもあるのでしょう。観光バスや乗用車が先着しています。

ようやく理想の場所にありつくことが出来ました。しかし残念な事に今日は雲が残りインパクトは少ししかありません。しかし一応荘厳な感銘を受けたのは事実です。今から1000年程前の栄枯盛衰の物語が何となく伝わってくるようでもあります。

夕食を済ませて宿でビールをお願いしました。安楽椅子を庭に設定して、ビアガーデンに早変わりです。おまけとしてピーナッツをサービスしてくれました。日中は暑いのですが、日陰に入るとカラッとします。日が暮れると爽やかな冷気に包まれて快適です。そんな優雅な一日が終えました。

 

10月23日パガンよ、さようなら

昨日も快適でした。今日は夜行バスでヤンゴン方面に帰る日です。例のごとくゆっくりと朝食を済ませ、市場見学でもしましょう。ここは小さな村ですから、市場に活気があるのは午前中までです。あらゆる商品が並びます。野菜、肉、衣料、薬品、雑貨そして土産物がひしめき合っています。例によって土産物屋から日本語がカタコトで響いてきます。誘われるままに、ひやかしに行きました。何軒か回っている間に時間はあっという間に過ぎていきます。宿は通常12時がチェック・アウトですが、大らかなものです。予約したバスが迎えに来るまで利用可能となっています。お蔭で冷房の効いた部屋で一休みを楽しみながら体力を充電することになりました。

バスは16時半出発で2000チャットでした。15時半にはオンボロ・ピックアップが迎えに来ました。この時刻には、ヤンゴンに向けて3社のバスがそれぞれ出発します。バス駅に到着すると、日本のひと昔前のバスが各々の会社名を書き加えて待機しています。エアコンの効いたデラックスバスが我が社(予約したバス会社)のものでした。

さて、バスは快適に進みます。しかし2時間ほど走ってチョウパダンという町についたら全員下車させられました。暫く待っていると、同じ会社のバスがやってきました。こちらは天然冷房という事です。すなわちエアコンなしの車両です。座席もかなりくたびれかけています。羊頭狗肉とはこの事なのでしょうか?全行程15時間の中で最初の2時間だけは、ピカピカの車両で、残りの13時間はくたびれた車両。そんな奇妙なバスの旅でした。

さて、バスは動き出してから再び停車です。今度はどうも、ガソリンスタンドに立ち寄って油の補給が始まったようです。周囲は真っ暗で、どうも停電の気配です。所が何のお構いもなしに、給油が始まりました。極めて原始的な方法です。ブリキ缶とじょうごで、次々とタンク内に軽油がドバっとドバっと注がれています。ともかくバケツに換算して20杯分ほど入ったものでしょうか?この光景もビルマならではの必見です。

給油も完了、さてエンジンの唸りも高らかに出発進行です。我々もしっかりと食料を買い込んでの出発です。幸いに夜は暑くもなく涼しくもなく、しかも満月が近いので、何も見えないけれども、夜景を眺めることは出来ました。

我々の座席は中ほどで、事故があっても比較的安全な場所で揺れも少ないのです。幸いに道路は平坦な部分が大半です。熟睡とは言えませんが、ウトウトしている間に夜が明けできました。どこまでも広く続く肥沃な大地をバスは駆け抜けていきます。食料自給率100%の国というものは羨ましい限りです。何事があっても揺らぐ事のない豊かな生活なのかもしれません。電気がなくても、テレビがなくても、世界に何が発生していようが、淡々として人々は生活の営みを続けているのかもしれません。

ここまで時代に遅れてきたからには、ジタバタしても始まりません。周辺のASEAN諸国が各種のプロジェクトに突進していくのに比べると、乾季のイラワジ川のようにとうとうとながれています。一寸ばかし誇張かもしれませんが、ユートピアがここに存在するのかもしれません。

今までの経済発展が、日本にとって何であったのでしょうか?社会が肥大化すればするほど精神の発展とのバランスを失い、不幸へのパスポートを手にすることになります。最近の日本の漫画の多くは、哲学や思想が欠落しているのではないでしょうか?末端の技法にこだわり過ぎて本質を持たない旅人の増加がそれを裏付けているようです。

 

10月24日パゴーにて

バスは緑の絨毯の中を走っていきます。次第に人家も増えてきました。ヤンゴンが近くなったのでしょう。8時頃に大きな交差点に差し掛かります。予め車掌さんに

「我々はヤンゴンに行くのではなく、パゴーに行くのだから・・・」と何度も伝えておいたからでしょう。声をかけてくれました。

ヤンゴンとペグーの間は人の往来が活発です。道路幅も上下10車線で高速道路なみのしっかりとした道が延々と60キロ連なっています。これでもミャンマーかなぁと疑わしくなります。パゴーを過ぎるとマンダレーまでは、再び道路は貧弱なものになるのですが・・・。前記の区間は乗り合いトラックがひっきりなしにビュンビュン吹っ飛ばして行きます。

バスからトラックへの乗り換えは簡単です。100メートルほど離れた場所ですが、人々がぞろぞろすすむ方向に行けば良いだけです。念のために、通りすがりの人に聞きながらが、旅の基本なのです。

このトラック改造乗合車は、日本の中古ピックアップの荷台が改造された公共交通機関です。時間帯によっては30人ほど積み込みます。それでも希望者殺到の場合は、屋根の上にも乗車可能です。地方ではこの光景を良く見かけます。特にこの区間はスリル満点でしょう。車体をグラグラさせながら80キロ以上のスピードで走る車の屋根に乗るのは、ジェットコースター波の快感をもたらせてくれるのでしょう。

暫く進むと、乗合トラックは給油のためMPPEというガソリンスタンドに入場しました。ここでは婦女子を除いて全員下車です。何故でしょうか?今度人に問うてみましょう。待つこと15分、ようやく給油を終えて乗客は再乗車です。こうした光景は日常茶飯事です。ともかく、ミャンマーの旅は謎めいたミステリーの多いのが我々を楽しませてくれるのです。

パゴーの市内中心部のミャナンダ・ゲスト・ハウスに宿を取りました。三階が外人専用フロアで設備はしっかりとしています。しかし停電が多く、扇風機も回らず、うだるような暑さを経験する羽目となりました。料金は二人で6ドルですから、低料金です。概してミャンマーの都会は複合民族、複合宗教のモザイク模様を形成しています。交易の中心となる場所は必然的にそれぞれの居住区が形成されていきます。

日本でも長崎は特殊な場所で、外字居住区がありました。お隣のタイ王国のアユタヤには日本人村があり、ポルトガル居住区があり・・・。

こうしてパゴーには、ビルマ系、インド系、中国系等多くの人々が住んで商業の中心地として町は活気を帯びています。

この街は確か日本軍に一時占領されていたこともあり、ある老人はたどたどしく軍隊用語を話してくれました。又寝仏のあることで有名です。午前中は市場見学、ちょっと休んで夕方は寺院参拝と予定を組みました。ヤンゴンのような高層ビルの建つ気配はありませんが、朝から晩まで車、人、車、人でごった返しています。それに比べるとパガンの静かなこと。車の通行量も少なく、日中はまるで、ゴーストタウンのようにシーンとしていました。

サイカー(人力車)で寝仏のあるお寺に向かいました。茶目っ気のある少年が私たちを迎えてくれます。盛んに絵葉書のセールスです。14歳のぼんぼんは片言の日本語が上手です。この寺院を訪れる観光客から少しずつ教わったのでしょう。底抜けに明るいこのボンボンは別れ際に我々にジュースをおごってくれました。今でも彼の笑顔が浮かびます。

お寺の入口には幾つもの土産屋が並んでいます。お寺の入口には、<ほんもののビャクダン>と看板をあげている店もあります。

 

10月25日再びヤンゴンへ

今日はミャンマー最終日です。昨夜からヤンゴンへは乗り合いトラックで行こうか、列車で行こうか悩みました。地元の人に聞くと、列車は時間通りに運行しないし、概して2時間は遅れるということです。駅にいくと9時に列車があるというので、一人3ドル支払って切符を買う羽目になりました。

この列車に乗ろうとする人々でしょうか、構内はにぎわっています。所が列車はなかなかやってきません。駅員に尋ねると、手前の駅でエンジンが不調。今修理中だから暫く待つように説明がありました。一体どのくらいまつのでしょうか?今日は出来るだけ早くヤンゴンに入って、買い物をしなくてはと気が焦るばかりです。

列車は予定より2時間遅れて到着です。我々の席は指定席ですから確実に座れます。何とかこれで無事帰れると思うと、ほっと一安心です。一時はどうなる事かと焦っていましたが・・・。現地人に交じって、ほぼ満席のおんぼろ列車は2時間少々でヤンゴン中央駅に到着です。ヤンゴンが近づくにつれて、車窓からはいわゆるスラム街が目に入ります。

これは、インドや東南アジアに共通してみられる現象なのですが、線路沿いの住居は、今まで見た中では、最も驚くべき様相を呈しています。タイの場合、家屋は木造で家がひしめきあっていますが、屋根にはテレビのアンテナが立っています。スリランカの場合も質は落ちますが、住居は板で囲まれています。

さて、ミャンマーの場合は隙間だらけです。竹を骨組みに組み立てた家屋はボロ布やビニールの継ぎ接ぎで覆われているのみで、いとも簡単です。よくもまあ、こんな所に人が住んでいるものです。これだと家財道具も最低限必要なものしかないでしょう。列車に乗って以外な発見をすることになりました。このスラム人口は経済の自由化と共にどんどん増えていくのでしょうか?

列車はのろのろ運転で午後3時前に到着です。早速駅から歩いて友人ラーマンさんの事務所に向かいました。今日は日曜日ですから、唯一のショッピングセンターである。ボージョー・マーケットは午後4時半で閉店という話です。不要な荷物と航空券はラーマンさんの所に預けておきましたので、ミャンマー周遊は軽装で難なく回ることが出来ました。出来るものなら5キロ以内で押さえたいものです。

事務所に到着すると、ラーマン氏は私たちを招き寄せて、お土産セットを差し出してくれました。丁度2セットあります。ミャンマーの木工製品が主体ですが、様々なものを準備してくれたようで、持ちきれないほどあります。思わぬ接待に驚いてしまいます。

さて、一緒にマーケットまでご足労願って買い物です。前回目星をつけておいた漆器が狙いです。刻々と閉店時刻が近づいてきます。ここでの買い物は意外と静かなもので、インドやネパールの土産物屋のように2倍―3倍と吹っかけてくることはないようです。控え目な商法と申しましょうか。時には例外もあるようですが、概してトラブルめいた話は少ないようです。とにかく短時間で適当に品物を揃える事が出来ました。次はラーマンさんの招待でマッサージ兼シャンプーエステの訪問です。

ちょっとわかりにくい場所なのですが、コロニアル風の建物の二階にあるエステは、優しく上半身をマッサージして耳掃除をして気分を爽やかにしてくれます。私についたマッサージガールは一つ覚えの英語なのでしょう・「ユーアーハンサム」と手を握ってくれるのです!!!!

聞くところによると、ミャンマー風、タイ風そして中国風とエステも何通りかあるようで、元来上半身のみは問題ないのですが、更に進歩的なものもあるそうです。それでもここは有名処らしく何人かの先客がいました。マネージャーはインド系のおばちゃんで彼女が取り仕切っています。無料のソフトドリンクの提供があり、ロビーには6台のベッドが並び、ツボを心得たお姉さま達が、それぞれの客にサービスをしています。丁寧そのもので50分ほど要して心身共にすっきりしました。

夕食は、これもラーマンさんの驕りで、ヤンゴン唯一の屋上オープンレストラン(中国飯店)です。ここはいつ行ってもにぎわっています。生け簀の中に飼われている魚類を注文しても良いわけです。亀やスッポンもゴロゴロしています。生きの良いイグアナも子熊も、いつ注文が来ても良いかの如く待ち構えています。ヘビやムカデの死骸の入ったアルコール漬けのガラス瓶も並んでいます。まさしく中華料理オンパレードは圧巻です。ラーマン氏も家族連れで月に数度、ここに来るそうです。

ビルの屋上は夜ともなると爽やかなかぜが吹き抜けていきます。ともかく海の幸、山の幸が豊富で、一皿注文してもどっかりと乗っかってきます。今宵もたっぷりと食べて、たっぷりと休んで明日の出発に備えましょう。ちょっとばかし荷物の整理がありますが、何とかなるでしょう。宿に到着したのは、夜の9時半過ぎです。友人は、明日はいよいよバンコク経由で深夜の大阪行きに乗る予定です。

同じタイ航空の乗り継ぎですから、トラブルはないでしょう。明日のフライトは10時半ですから2時間前に空港に到着すれば良いわけです。朝はラーマンさんが空港まで送ってくれるそうです。途中で朝食もご馳走してくれるとか・・・。

夜も更けてきました。常宿となったホワイトハウスも慣れてきたので快適です。奮発して冷房付きの部屋にしたのは正解です。大きな宿では発電機を用意していますから、停電となっても安心です。昨日のパゴーに比べると天国と地獄の差があるようです。今回の旅の経緯がどっと脳裏をかすめていきました。

あわただしかった10日間が、次々と浮かんでは沈み、浮いては沈みしています。不思議な日々でした。名付けてタイムスリップの旅とでも表現しましょうか!

極論するとミャンマーの人々の思考回路は日本の江戸時代なのかもしれません。元禄文化に通じたものがあるのではないでしょうか!

 

10月26日バンコク寄り道

今朝は目覚まし時計が鳴る前に起きることが出来ました。手早く朝の恒例の行事を済ませると、もう7時半です。10分遅れてラーマンさん氏はピカピカのトヨタ・ハイラックスなる4WDで登場です。中級レストランで軽い食事を済ませ、空港についたのは、8時半ちょっと前です。既にチェック・インは始まっていました。空港税は値上がりとなって、今は10ドルです。出国も税関も至って簡単に終了です。

タイ航空の機体は、時間に遅れることなく出発です。エアー・バス300は250名程の席がありますが、乗客は100人ほどでガランとしています。当初の予定では、夕方の便で出国予定でしたが、満席とかで結局午前の便となってしまったのです。これだとバンコクの空港で12時間以上も待たなければなりません。定刻通り11時半にはバンコク到着です。

さて、バンコクの空港はちょっと手続きをすれば12時間以内のトランジット客は空港外にでても再び空港税を払わなくても良いという特典を設けています。私たちの場合は12時間と5分という、この5分の超過で条件に合致せず。500バーツ浮けば、かなり豪華な食事を楽しむことが出来るのに、残念でもあり、悔しくもあり、もう、これはあきらめるしかありません。

早速市内へ繰り出して、買い物ツアーとなりました。私は宿を確保して荷物を預け同行です。空港へは夜の9時頃までに到着すれば良いわけです。たっぷりと時間はありますが、バンコクの悪名高い渋滞が気になります。友人はジムトンプソンの絹製品の一つを仕入れました。続いてバンコクの秋葉原とも言われるパンティープ・プラザでパソコン関係の商品を少し仕入れました。

旅の総決算という事で、東急デパートの4階にある日本レストランで思い出話に花を咲かせると共に、次回の行先を練ることになりました。

本当にお疲れ様でした。我が友人は日本の情報産業の担い手である大企業のプログラムエンジニアの職にあります。連続10日間のリフレッシュ休暇を利用しての旅行でした。現在の職業と全くかけ離れた社会事情に触れることとなりました。その一つ一つが強いインパクトをもたらしたに違いありません。日本とは社会構造が大きく異なるミャンマーです。

日本社会で、通年椅子に座って仕事をしていると、どうしても発想の転換がはかれません。今回の旅は大きな起爆剤となり得たでしょうか?真の異文化理解を求めて新たな企画は終了しました。次回は南インドかインドネシアが・・・。また数年後に、リフレッシュ休暇を利用して出かけることにしましょう。と申しても、当方は常にリフレッシュ休暇を繰り返しているのかもしれません。常に探求心と好奇心を忘れることなく、中道の道を歩んでいきたいと思います。

1998年12月吉日 干場 悟

 

行程表

月日天候行動内容宿泊地
10月17日晴れバンコクで合流、ヤンゴンへヤンゴン(ホワイトハウス
10月18日晴れ時々雨ヤンゴン市内観光及び土産下調夜行バス(レオ)
10月19日晴れアバの橋とマンダレーヒルマンダレー(ガーデン)
10月20日曇りメイミョウへ同上
10月21日晴れバガンへの船旅パガン(オアシス)
10月22日晴れ自転車で遺跡見学同上
10月23日晴れ本日は休憩なり夜行バス(パガンExp)
10月24日晴れ寝仏のあるパゴーへパゴー(ミャナンダ)
10月25日晴れ無事ヤンゴンへ帰着ヤンゴン(ホワイトハウス)
10月26日晴れバンコクへ寄り道機内(TG)

 

 

収支報告

月日宿代(二人)交通費入場料食事代
10月17日YGN    18$空港―市内2$シュエダゴン 5$
10月18日-BUS-YGN-MDL 2PAX  12$
10月19日MDL   10$マンダレーヒル 6$
10月20日MDL   10$MDL-MYO        3$
10月21日PGN    5$MDL-PGN 20$パガン入域    20$
10月22日PGN    5$
10月23日-BUS-PGN-YGN-PGO   10$
10月24日PGO    6$寝仏寺      4$
10月25日YGN   18$PGO-YGN         4$
10月26日 TG空港税      20$
小計          74$                  51$55$70$

 

総合計 250US$ 2PAX

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