アジア旅日記No.9Nさんと別れて
ヤンゴンの宿を9時過ぎに出発し、乗合バス34番のピックアップに乗り、チャウンタ方面に向かうバスセンターのセンマライへは20分後に到着しました。黙って10チャットを車掌に渡しただけで、終点まで行けば良いのです。・・・・・
内容
第一章 チャウンタ・ビーチへ向けて
ヤンゴンの宿を9時過ぎに出発し、乗合バス34番のピックアップに乗り、チャウンタ方面に向かうバスセンターのセンマライへは20分後に到着しました。黙って10チャットを車掌に渡しただけで、終点まで行けば良いのです。
ヤンゴンのバスセンターからパセイン迄のバス料金は500~800チャットというのが事前に政府観光局から入手した情報です。・・・が実際は350~400チャットで運行されています。数社がほぼ同時刻に出発ですから、客引き合戦が行われているのでしょう。当方は何にもわからないまま、客引きに連れられてエアコンバスで400チャットという事で合意成立となりました。
バスは10時出発と切符に明示してあります。定刻になってバスに乗り込んでもなかなか出発しません。結局30分遅れて10時半過ぎにほぼ満席となり出発です。
残念ながら、このバスは元エアコンバスで、現在はエアコンが動かない韓国製の中古車でした。客引きの話は眉唾ものです。本当に3時に到着するのでしょうか?
バスは車体をぶるぶると言わせながら西に向かって突進です。電力供給事情の悪い巨大工業団地を通過します。1時間半程でバスはイラワジ川の岸辺に到着しました。ここでバスを乗り換え、対岸に待機している同じバス会社の車両を使う仕組みです。この船は30分ほどかけて対岸に到着ですが、その間茹でトウモロコシ屋さんも同乗して、一本15チャットで手に入ります。車のデザインや形式が異なるのですが、乗客名簿を手にした車掌が手際良く乗客の世話をします。
こうしてスムーズに乗り換え作業は終了です。その後、バスはおよそ2時間広大なデルタ地帯を軽快に走ってきます。確かに、ここは、豊な緑の大地の連続です。これならば、食べることに不自由しません。ミャンマーの豊かさを感じさせます。
たくましい唸りをあげるバスは○○福祉学園と記された日本製の車両です。パセイン郊外のバスターミナルに到着です。さて、乗客は再び乗り換えです。
今度はトヨタ・ダイナを改造した乗り合いトラックで、市内の市場まで運行しています。乗客は途中で都合の良いところで下車が可能になっています。当方は終点までです。街の中心部の市場付近で皆が降りたので、それに合わせて下車。到着時刻は3時20分でした。バスがヤンゴンを出発したのが10時半ですから、5時間でヤンゴンからパセインというのは事実なるようです。
さて、宿探しが始まります。荷物は軽くて小さいものですから、散歩気分で喉を潤すとしましょう。茶店の人に「デルタ・ゲストハウスはどこですか?」と聞くと「あっち」と親切に答えてくれます。こうして宿も難なく決まり、早速市内探訪となりました。
このパセインは港街で、一種独特な雰囲気の漂う所です。川辺に面したウォーターフロントは行き交う船でにぎわっています。大小様々な海上運搬手段の見本市みたいなものです。しかもちょっと視線を上にあげてみると、椰子の木が広々とその葉を広げています。この雰囲気は隣国バングラデッシュのチッタゴンのそれに似ています。
市内を散歩すると<人種のルツボ>という感じを受けます。回教寺院、仏教寺院そしてキリスト教会と乱立しています。英国の植民地となってから急速に交易地となり、様々な人々が定住し始めたようです。漢字も、市内の中心部では見かける事があります。
宿で働いている兄さんはキリスト教徒だとか・・・。ともかく、様々な要素が混じり合った混沌とした社会です。ここでも交易の担い手
は中国系とアラブ系(回教徒)が多いようです。船着き場の活気は、いつで見ていても飽きることがありません。
さて、今日の夜はインド映画をみに行くこととしました。この国では映画も人気があります。停電となっても自家発電装置があるのが強みです。マンダレーの街では4日間に18時間しか電気の供給がありません。カラオの街は夜10時から翌日朝までしか送電されません。ヤンゴンにしても然り。したがってヤマハホンダそして中国製、韓国製の発電機が、あちこちで一斉に唸り始めるのです。
ですから、ビデオホールも発達するのですが、矢張り大画面には迫力があります。10年以上も前の古いインドの作品がスクリーンに雨が降るごとくかすれてすり減っていても、人々は楽しんでいます。
料金は地方では20-35チャットです。人々はインド映画の奇抜な画面に満足しています。言葉が分からなくてもインド映画独特の何でもありのシーンの連続に、ミャンマーの観衆は興奮しています。
この国で、この場でインド映画を見ると、インド社会のシステムがいかに英国の影響を受けているのかをはっきりと知ることが出来ます。映画の事ですから、多少誇張されているシーンもあります。しかし英語の単語がポンポンと入り込んでいます。また決まったように西洋のドレスを纏って子供の誕生バーティーが催され、キャンドルの灯と共にハッピーバースデーの歌を合唱するという典型をまざまざと見せつけてくれます。
裁判所のシーンとなれば、黒の背広(タキシード)を身に着け、中世の音楽家風のカツラをかぶった人が登場します。音楽には、西洋のロックやデスコ風なるものが沢山盛り込まれています。
こうして考えてみると、改めてインド社会は英国の文化が深く浸透していることが読み取れます。
インド国内でも何本も映画を観ましたが、その時そこでは感じとれなかった事を発見できたわけです。裏を返せば、ミャンマーの生活が極めて独自なものである事を証明しています。政治、経済の形態がいかに、現代社会とかけ離れているかという事にもなりましょう。矢張り、<何かが異なるミャンマー>の一語に尽きるのかもしれません。
ミャンマーを鎖国状態だから、孤立した文化圏と見るのは誤りです。何故なら、パセインやマンダレーそしてヤンゴンを見れば容易に答えが出るでしょう。ともかく雑多な人種が混在しています。その割合も大きく、色々な宗教、人種が大きな構成比を占めています。
都市の構造を観察すると、例えばバンコクでは街のあちこちに仏教寺院を見かけます。他にモスクもあるのですが、極めて少数です。強いてゆうならば、通称チャイナタウンと呼ばれる地域がちょっと別世界という空間を作り上げています。タイは95%が仏教徒で構成されている国です。
また隣のバングラデッシュの首都ダッカは回教の街と呼ばれるでしょう。街のあちこちにモスクが建ち朝晩はあちこちからアザーン(祈り)の唱和が流れてきます。
こうして考えるとミャンマー自体は孤立しているわけでも、鎖国しているわけでもありません。人種の混在はそれなりの人の交流と物流をもたらします。政府の管理を潜り抜け、あらゆる形で経済活動が進行していきます。こうした人々を通じて交易の道は確実に温存され、あちこちから商品が供給されます。
反面、入り込む商品と等価の商品がミャンマーから流出しなければなりません。且つ、一部の人々とはいえ。購買力があるという事をどのように説明すれば良いのでしょうか?
テレビやパソコンそして自動車との交換対象は、単に農作物だけなのでしょうか?もっと付加価値の高い商品がないとバランスが取れません。となると、宝石でしょうか!きな臭い感じがしますが、ナルコテック(麻薬)も関与しているように思えます。これなら1キロ売れば、中古のモーターバイクと引き換えが可能かもしれません。
話が横道にはずれましたが、ミャンマーの特殊性は1960年代からおよそ30年にわたって公的には外部との連絡が絶えたという条件を考慮に入れると多くの謎は説明がつくでしょう。それ以前においては、歴史の流れの中に、世界の一部として身を置いていたわけです。
何先年という歴史の中での30年は短いようでもあり、長いようでもあります。この30年という特別な期間があったからこそ、現代の世界の中で安らかな国の一つとして存在している面もあります。しかし、外部との道を封じた(鎖国)といってもそれはあくまでも表向きのことであり。裏の社会=我々の見えない部分では、ビルマはオープンだったのだともいえるでしょう。
例えば現在のブータンを取り上げる場合、この国の外人は入国に際して一日200ドル以上も費用が必要とされます。一部の人々は、これはブータンが鎖国政策をしていると非難します。或る人々は、これぞ真の国家建設の為の最善の道だと称賛しています。
果たしてそうでしょうか?どちらも現実を直視していないようです。現代社会で鎖国政策を維持出来うるでしょうか?一見そのように見える北朝鮮でさえ、武器弾薬を中東諸国へ売却しています。キューバはソ連が健在であったので、近隣諸国とは断絶はしていたものの、モスクワとは太いパイプがあったはずです。
さて、ブータンは国境が中国に接していますから、小国ブータン自身の力では防御できないということで、インドの傘のしたに入っています。インドに対しては完全に開かれています。ブータン国内には大量のインド商品が出回り、インド商人が堂々と営業しているはずです。
こうした事実から、ブータンは決して鎖国をしているとは言えますまい。単に直接入り込む西洋文化を出来る限り少なくしようとしているにすぎません。西洋諸国にとっても、この地が資源豊富であるとすれば争奪戦の舞台になったことでしょう。山間の国であるが故に、どの国も食指を伸ばそうとしません。あたかもインドの一つの州であるかのような存在です。
このような例からも明らかなように、ミャンマー自身も過去何百年、何千年もの間、外部と交流があり、都市部においては、多大な異文化の浸透が継続していたと読むべきでしょう。そんな事が、パセインの街を散歩しているときに思い浮かびました。
ミャンマーは農村部では鎖国状態(ミャンマーに限らない)で都市部では、近隣諸国に対してオープンであったともいえるのではないでしょうか?
パセインの街で何度も通った茶店があります。お父さんはインド系、お母さんはミャンマー系と言っていました。現代の彼等はもうインド系の言葉を話すことはできません。ヤンゴンやマンダレーの家族だと、家の中では、それぞれの祖国の言葉を使っているのです。しかしここ、パセインの場合は何世代も経て次第にミャンマー化していくようです。
<混血が語る歴史感>
こうしてミャンマーを考えてみると美男美女のオンパレードというのは大げさかもしれませんが、スラリとして恰好良い人が多いようです。じっくりと観察するとモンゴロイド系、ドラビダ系、アーリア系そしてオーストロイド(マレー・インドネシア系)が混ざりあったような気分です。昔からゆっくりと混ざりあったように思います。ヤンゴンのボージョーマーケットの靴屋さんの店員は、おじいさんがイラン系で祖母がビルマ人だとか。ともかく平野部では様々なタイプの顔立ちを見る事が出来ます。しかも、それらは、○○系が少し混じった△△計という表現が適切でありましょう。隣国のタイ人の顔立ちはほぼ一定しているようですが、ミャンマーの場合は実に驚きです。しかし、同じミャンマーでもシャン州の山岳民族は、その交通の便の悪さや交易区域の狭さからでしょうか、同族との婚姻が主流となり、独特の顔立ちとなってきます。ミャンマーの謎は、まだまだ続きそうです。
概してインド系や中国系の人々は結婚相手を同系に求めるのが常ですが、ミャンマーの人々はその事をさほど意識しないのではないでしょうか?
パガンの栄華の跡でもあるパゴダの建立には、遠くインドから技術者を呼び寄せたと言われています。隣のバングラデッシュからは、船を使うと簡単に出入りが出来ます。チャウンタ・ビーチから海流に乗って西へ進むとインドのオリッサ州やアンドラ州に入ることが出来ます。
北部に視点を向けると、中国雲南省との国境は古くから開けています。南部はマレー半島の一部を形成しています。古代においては、その土地での移動が容易であったかどかが、歴史を読む鍵の一つでしょう。
インドのムガール帝国が或いはアショカ、モーリア王朝が拡張できたのはインドのデカン高原が意外と移動しやすい土地だったのではないでしょうか!険しい山がそびえることもなく、熱帯のジャングルが行く手を遮ることもなく、可なり頻繁に人の交流があったように思えます。アレクサンダー大王も乾燥地帯(イラン、パキスタン、トルコ、イラン等)を単にどんどん進めば良かったのでしょう。
ミャンマーの地形を考えると平原部では英国領インドの支配に置かれる以前から、海洋と河川を利用して人と物資の交換が広くなされていたのです。こうして美人の国にもなっていったのでしょう。
もう一つの要因として、ビルマの風土とビルマ人の食生活が彼等を更に美しくしているようです。気候は適当な湿気があり、極端に寒くはありません。寒い国というとロシアが浮かびますが、皮下脂肪を大量に蓄えなければ寒さに対抗できません。そのため大量の強いお酒をあおり、現在の体形となったのでしょう。
また南太平洋の国々では食生活が急激にアメリカ化し肥満体が増加したのは事実です。近年の日本人の体型も食生活との関係が大きく、長身の若年層と中年のビール腹が増加の傾向にあります。インド人でも上流階級の坊ちゃま族は肥満体となっています。ということは、粗食と自然食を常に維持すれば、病い知らずに元気に過ごせるのではないでしょうか。
ビルマの食生活で注目すべきものは、独特のスープが常に出されることです。ハーブ・スープとでも申しましょうか。日本のダシ味でもなく、西洋の鶏ガラスープでもなく、インドの菜食主義者が好むスープに似ています。ショウガのぶつ切り、ターマリンド、コリアンダール等の薬草スープ、いや薬草汁に近いと言えましょう。
そして頻繁に中国茶を嗜みます。味は全般的に塩分控え目です。元来暑い国では塩分を大量に必要とするのですが、ここでは塩分控えめです。何故こうなったものでしょうか!またネパールやインドほどではありませんが、唐辛子が食卓を飾ります。こうしたバランスの摂れた伝統食の影響で美人が育まれていくのでしょうか?
またこの国の女性は頭の上に物を載せて歩く姿を良く見かけます。背筋をシャンとさせて、体のスタイルが良くなるのかもしれません。そしてまた、下着の類を着用せず腰巻のみで日常生活が足りるというもの不必要に身体の特定部分を圧迫しないので、すんなりと心も体も伸びると考えるのは早計でしょうか?
ともかく、美人となる秘訣は様々な要因があり、日本では美人造りの為には、高額な金が動きます。今度生まれる時ミャンマー人となれば、莫大な金を使わずに済むのですが・・・。
もう一度人種混血の話に戻りましょう。例えばミャンマーの隣国であるバングラデッシュから毎年50-100人が移り済んだとしたらどうなるでしょう。これが1000年続いたとすれば、単純に100,000万人と100,000万人の血が混じる事態になります。そして平均寿命を40歳とし、平均寿命を40歳お仮定し、平均5人の孫を残すとすれば、ベンガルの血を持った人々の数は天文学的なものになります。例えそれが毎年10人であっても、その影響は多大なものがあります。
さて、このお気に入りのパセインには二日間滞在しました。続いて海辺の街チャウンタに出かけることにしました。デルタ・ゲストハウスでバスの切符を手配してもらいました。宿には多少のコミッションが入るようです。
注:パセインの宿デルタ・ゲストハウスは昨年1000人の外人客の利用があったそうです。今年1998年は不調で昨年の半分とか。果たしてこれで採算が取れるのでしょうか?一人平均3ドルの宿代で1000人を掛けると3000ドル、すなわち年間、外人利用客からの売り上げは40万円となります。雇っている従業員の給与は一カ月一人当たり10ドルという国です。物価水準の格差を平均1:20と置換すると、800万円の売り上げに相当します。粗利益という事を考えるとまんざらでもありません。金沢から京都への高速バス代金が4000円という日本と、同距離のヤンゴンからピーが100円と言う格差です。車両が7-10年前の古いものを割り引いても、この開きは説明しようがありません。
翌朝は6時半に起きて朝食を終えると約束通り宿の前までマイクロバスが迎えに来ました。結構サービスが良いようです。こうして次々と客を拾いながらいよいよ出発です。
40分ほど走って大きな河に出ました。バスもそのままフェリーに積んで対岸に移動です。その後は、アラカン山脈の末端をジグザグに細い道を上ったり、下ったりの連続です。こうして10時過ぎに、予想よりも早くチャウンタ・ビーチに到着しました。
ここも初めての土地ですから、事情は良く分かりません。バスを降りると若い兄ちゃん達が客引きに来ています。ぼつり、ぽつりと安宿情報を提供してくれます。
当初彼等は私をミャンマー人と勘違いしていたようで、300チャット(1ドル)で部屋があると声をかけてくれました。“ようし”という事で次第に話をしていると、私が外人であることがばれて3ドルの所へご案内。
シャワー・トイレ付で3ドルのChancellor Guest Houseで部屋を観ましたが、今一つ納得が来ません。ちょっと見ると、ここ一帯には5-6軒のゲストハウスが並んでいます。一緒にやって来たガイド氏にはお引き取り願って隣のチャーメ・ゲスト・ハウスに飛び込みました。2ドルということで部屋を見ると、大変小奇麗で窓が二方向にあります。しかも日本で6年間仕事をしていたという姉妹の経営とあって、これを見逃すわけにはいきません。
所で、このチャウンタという海辺の村は急速に発展したようで、ゲスト・ハウスの新築ラッシュです。狭い一角に20軒ほどの食堂と10軒ほどの宿が2-3年前からバタバタできたようです。
自由化の波がここまで押し寄せてきます。ヤンゴンからバスを乗り継いで、その日のうちに到着できるようになりました。自家用車なら5時間でここまで来れるとの話です。あと一年ほどするとイラワジ川の橋が完成し、もっと時間短縮されるでしょう。道路もあちこち補修しています。いずれは一大リゾートの地となることでしょう。
この街へ来るパセインからのマイクロバスは三社が同時に運行しています。面白いことに、行きと帰りでは荷物の分量が全く違うのです。チャウンタに向かう車両は、足の踏み場も無いほど荷物と人を満載しての出発でしたが、帰りは荷物が殆どありません。成程と思うふしがあります。即ち、ここは単なる観光地であり、物品を消費する所です。物を作ったり、物が取れる場所であれば、往復共に物資の輸送が必要なのですが・・・。それは、日本の観光地(特に山小屋)でも同様でしょう。行きの荷物は大量で帰りは空っぽというヘリコプターでの荷揚げに似ています。
夜と言わず、昼といわず、この地の人々は何かしら、だらんと時間を過ごしています。一体資金はどこから回ってくるものでしょうか。ある外国人は、どうもこの街は宗教に無関心でミャンマーらしくないと憤慨していました。どうも、内外を問わず外国人が落としていくお金が、現地の若者達の飲み食いへと流出しているようです。でも、ここは、インドの観光地のようなしつこさも、悪賢さも感じることはありません。やはり、ミャンマーの優しさをたっぷりと残しています。
私の利用したゲストハウスは、雨季になると商売を休んでヤンゴンに引っ越すそうです。お父さんの静養地を兼ねてのゲストハウス経営とは、余裕があってなかなか洒落たものです。
ここの海岸はブラックサンドで粒子が細かいので、思ったほどきれいではありませえん。しかしのんびりとした雰囲気を満喫できるのは間違いありませ遠。食事は通常のカレーセット(チキンかビーフか魚の一品とサラダ、スープ、ご飯食べ放題が200チャットですから財布にも優しく、いつまでも薄くペラペラになりません。
椰子の木がひょろながく伸びる木陰が延々と続いています。真っ赤な夕日が遠くの島影に沈んでいくと、周囲は一斉に発電機がコトコトうなり始めます。村中、およそ30台の発電機の大合唱は10時過ぎまで続き、再び静寂が甦ってくるのです。
さぁて、帰路のバスは乗り換えが必要なのですが、切符の価格は750と記入してあっても、実際は何故か700チャットです。
朝7時の出発でパセインに到着すると、車掌が乗継ぎ契約をしえいる代理店の前で降ろしてくれました。10時前にパセインに到着です。ヤンゴン行きは12時にここから出発するので、食事でもしてくるようにとお店のおっちゃんに言われて、ともかく市内をぐるりと一回りしてきました。
なんだかんだと12時前に戻ってきたのですが、待つことさらに1時間、結局迎えのトラックバスは12時半過ぎにやってきました。パセインのバスターミナルを出たのが午後1時でした。マイクロバスはエンジン好調でヤンゴンに向けて軽やかに出発したのです。
チャウンタからヤンゴンに向かう途中で又新しい発見をしました。今回はバスの最前部に席を取りましたから、景色が良く見えます。チャウンタ周辺は観光収入で潤っているのでしょう、立派なモルタル造りの家が並びますが、一歩この村を外れると建物は簡素で、竹と藁のみで構成されています。農村部で出回る商品は、彼等の購買力に見合った商品が並びます。都会と田舎の購買力の差は日本以上に大きいのです。
注:
チャウンタで、ここチャーミー・ゲストハウスおすすめの食堂に出かけてみました。何とテレビが二台並んでいます。一つは白黒17インチ、もう一つはカラー14インチと言った所でしょうか。それでいて二台とも同じ放送を流しています。これがミャンマーの究極の集客作戦でしょう。
注:
日本に6年間いたチャーミー・ゲストハウスの彼女達は収入の有無にかかわらず、東京のミャンマー大使館に毎月1000円支払う義務があるとの事でした。また彼女達の場合、公的に送金すれば対ドルレートで8チャットしか本国の家族に届きませんから、全く別の方法で実勢レートで受け取りが出来る操作をして送り続けたそうです。
第二章 物価の謎解き
ミャンマーの物価は近隣諸国に比べて格段に安く感じます。さて、これは何故でしょうか?単に賃金か低いからとだけでは説明しきれません。様々な要素が絡みあって現状を生み出したものでしょう。大きくその理由を挙げるならば
- 近隣諸国から中古品や二流品、売れ残り製品が流入する。
- 誰もが税金を払うことのないシステムになっている
- 仕入れから販売までのタイムラグがある。
- 統制社会主義経済の余韻が存在する。
この国では、工業製品の自給は現状では不可能でしょう。極めて一部の商品がミャンマー製として出回っています。自国で生産するよりも、国外から入手するのが手っ取りっ早いのも事実です。
例えば電気製品等は、新品であっても型落ちであったり、売れ残りであったり。どうもスーパーのバッタ商法的感覚です。衣類にしても最新のファッションとは縁遠いと言えましょう。本物のピエールカルダンやグッチ等関係なしに過ごしている人々です。
インド社会では、溢れる商品の中で、どれが本物なのか見分けるのに神経を使わなければなりません。しかし、ここはそういった社会とは異なっています。ロンジー姿でイタリア製の皮靴は似合わないでしょう。ミャンマーの上着(エインジー)にジム・トンプソンのシルクのネクタイは不要です。必要だとすれば、偽グッチの長方形の財布をロンジーの中に差し込む程度です。
車は時々ビカピカの四輪駆動のパジェロを見かけますが、これとで新製品の99年モデルではなく、90年代初頭のモデルです。となるとその他の雑貨も旧タイプや近隣諸国で売れなくなった商品を捌くには絶好の市場なのです。
そもそも、ミャンマーの人々の生活は極めて簡素ですから、あれもこれも高度なものは必要がないようです。あったとしても、最新版でなくても良いのです。これが物価を押し下げているのでしょう。
従って交通機関は地方へ行くほどボロボロとなっていきます。ヤンゴン・マンダレー間を走る最新のバスは、いずれ座席を取り外したり、ドアを付け替えたりして市内バスに転進するか、地方路線を走る運命となるでしょう。ともかく、動けば充分です。減価償却などは一体どうなっているのでしょう。
更に、この国では税金徴収のシステムが確立していないようです。過去30年に及んだ社会主義政策も影響しているのでしょう。近年になって、国境貿易に関しては寛容で、現政権は10%の税金を払えば、自由に物資の輸入が可能となっています。ところがこの10%の納入と言っても商人と役人の関係がなあなあであれば、実際はその半分程度で終わっているのではないでしょうか。日本は現在消費税が5%。タイランドは10%物価指数は一気に上昇しました。
インドでは、大企業が出荷時に何等かの税金を払っています。また購入時には品物によってセールスタックス(売上税)が加算されます。企業自身が製造する場合、原材料の輸入には関税がかかり、人件費には所得税が含まれ、実際の商品には多額の税金が含まれ、それから逃れる事は出来ません。
こうした意味では、この国はタックス・フリーに近いのではないかと思います。自国での生産は電力事情が悪いので殆ど操業不可能です。となれば、税金の取りようがありません。しかも人件費についても、食事支給、衣類支給などが一般的で、日本のように、現物支給を評価して税金の対象とする等は、ここでは考える余地がありません。
その他のチップや特別お小遣などは非課税で、闇から闇へと消えていきます。ある意味では和気合いあいで、せこせこしなくても良いという大雑把な一面があります。
その他のチップや特別お小遣いの支給があり、お金の流れは垂れ流し状態が続いています。或る意味では和気藹藹で、こせこせしなくても良いという一面があります。ミャンマーの風土は、仏教社会の流れをくむお布施的思考で動いているようです。
ヤンゴン最大の市場アウンサン市場の靴屋の青年(19歳)の雇用条件は、一カ月4800チャットの基本給で、毎週月曜日は休み、一日平均200チャットの給料です。朝7時半から夕方5時半までの勤務で、時々店の旦那の家事を手伝う残業があれば、その都度50-100チャットの残業手当。昼食は支給されます。年に一度回教徒のお祭り(ラマダン)の時は、ボーナスとして5000チャットと衣類が支給されるそうです。
現在彼の親に100,000チャットを貸し付けがあるので、毎月1000チャットを差し引いているそうです。
彼は、なかなか実直そうな人柄です。以前は兄がこの仕事をしていたようですが、兄は工場で働き口を見つけたので、弟が代役としてここに来て2年目になるとか。全部で7人兄弟のイラン系の血の混じったアリはコツコツと商売の道を習い始めているようです。
また私が頻繁に利用しているヤンゴンのゲストハウスの青年は日給が200チャット。どうも本人達は外人相手の両替の商売もしているので別途収入があるようです。レストランや食堂で仕事をしている兄さん達は、食事付きで一カ月1500から2000チャットが相場のようです。
さて、話が横道へ行ってしまいました。このようにして観察してみると、ミャンマーの社会は、もしかしてそれは、日本の江戸時代かもしれません。現代社会の蜘蛛の巣を張り巡らしたような日本の社会、いや先進国のシステムが大きな歪みを伴っているのも事実です。遅れているという言葉の絶対性はなく、あくまでも、それは相対的なものではないでしょうか?
このようにして、ミャンマーの経済はある意味では中世そのものと言えましょう。この体質は、たとえ政権が交代しても、同様な形をとり続けることになります。プレゼントという英語が一般的になっていますが、それは明らかにワイロでもあり、お布施でもあると言えます。
物価を押し下げる第三の理由は販売と仕入れのタイムラグが存在することです。すなわち時間のずれを調整せずに、販売されているという事です。その間、現地通貨は下がり続けます。したがって、一年後の価格も変化はありません。しかし我々は通貨の下落によって安く購入することが出来るのです。
日本では情報が氾濫していますから、商社が買い為をして超低価格で仕入れた商品は値上がりの時期を待って一気に放出すれば誰かが大儲けすることになります。しかし、ここミャンマーでは実直な商法が採られているようです。
ともかく、個人の商売が自由化されて間もない国ですから、特定のインド系や中国系の昔からの商人を除いて大半は素人商法です。先入れ先出し法による販売ですから、たばこの値段等は地方でも、店によっては、ヤンゴンと同じだったり、二割も高かったりしています。ヤンゴンからマンダレーのバスは、ここ三年間同じ料金で2000チャットです。三年前は一ドルが260チャット、今回(98年12月)は340チャットです。こうしたタイムラグが我々外国人にとって旅行物価指数をどんどん下げていくようです。
又ホテルやゲストハウスの料金も96年と現在の99年も平均3ドルで、時には2ドルとなる場合もあります。某ゲストハウスの話ですが、現地の人々の利用は300から400チャットで、外人は現在のレート320×3でおよそ1000チャット。まあ朝食をつけてくれるのですが、それでも十分採算が取れるのでしょう。
ここにも闇の機能が働いているようで、レシート不要というと宿は大喜びします。多分節税が目的なのでしょう。
そして最後に以前の社会主義政策の余波が未だに響き、物価低落の道を歩んでいます。ガソリンや軽油の価格は政府が支給する公定価格ならただ同然です。ヤンゴンとピーの間のバス代が100チャットという謎は、日本から超安値で中古バスを入手し、公定価格のデーゼルで運行するとすれば、ただ同然で他にかかるのは人件費だけとなります。
現在の銀行レートが対ドルで8チャットという不可解な格差があります。実勢320チャットの40倍の格差があり、誰かがどこかで甘い汁を吸っているわけです。
先日日本大使館(在ヤンゴン)でパスポートの増補を行いましたが、その料金は130チャット。確か日本では2000円のはずですが、ここではわずか40円前後です。
パスポートの作成は5年物で530チャット、10年もので790チャット、とにかく40分の一の価格で出来上がってしまうのです。これを目当てにヤンゴン入りする旅行者も増えたと聞きます。パスポートの残存期間が一年未満となれば戸籍抄本を抱えてヤンゴンに行けば、ヤンゴンとバンコクの飛行機代金が無料になるわけです。
更にヤンゴンから船便ではなく、航空便で10キロの荷物を送る費用は何と手数料込で1200チャットすなわち400円もかかりません。まだまだ不可解なミャンマーの旅でもあります。
<追記>
この国の物価体系で、誰が税金を払っているのかを考えてみましょう。例えば日本で酒やたばこを買うと、その半分以上の金額が税金として国家の収入になっていきます。しかしここミャンマーで人気のある外国製タバコ「555」はバンコク空港の免税店よりも安く市中で販売されています。その時のドル交換レートにもよりますが、90セント程です。日本円に換算すると100円と言う」価格です。
製造コストに少しばかりのマージンを加えただけで市中に流れていると考えるしかありません。ネパールも外国産たばこが安く、私の好みなるマイルドセブンライトなどは、60ルピー程度で円換算だと120円です。ということはタバコ税抜きで流通しているとしか考えられません。いやはや不思議。日本はどんどん税金が高くなっていくようです。早急に国外退去して外地で生活する方法を考えたいものです。
さらにもう一つ、この国で物価安定を生み出す理由があります。これはどの程度寄与しているのか判断がつかないのですが、ミャンマー人の性格からして、秘密がすぐばれてしまう点が挙げられます。ミャンマー人は至って正直なる人々です。物事を隠しだてするのは得意ではないようです。宿の人と親しくなると、「ここで両替するよりも、○○商店に行きなさい。もっとレートが良いですよ」とか、ミネラルウォーターは当店よりも隣が安いよ」とすんなり白状してしまうのです。
こんな有様ですから、日本の企業が結託して闇カルテルで価格を吊り上げるのとは、逆の現象が広がり、価格安定を促しているように思います。ですから、中国系やインド系の商人が、故国に比べていとも優しく商売が続けられるのです。インドに入り込むと周囲の厳しい競争に神経をピリピリさせなければなりません。矢張りビルマは江戸時代なのかもしれません。
第三章 ンガパリへの旅
インド大使館でVISAを発給してもらうためには、日本大使館から推薦状を取り寄せ、添付しなければなりません。まずはFAXで本国紹介の手続きをして、その後4日間をあけて5営業日が発給日です。この日より6ヶ月間有効となるマルチビザが入手できます。
さて、丁度4日間の待ちとなり、ヤンゴンに居ても仕方がありません。ちょっと気分を変えるのに、海辺へ出かける予定を組んで見ました。まずは、ピー(プロームとも言う)を目指します。確かここからンガパリへ行けるという話は聞いていました。
前回滞在したパンガバ(意味は花の世界)ゲストハウスに、今回も厄介になりまいた。翌日は市内を流れるイラワジ川をたんのうして、さて向かうはンガパリです。パンガバゲストハウスの人に聞くと、バスは午前11時と夜の9時にあるとの事です。所要時間を聞くと、宿の人は10―12時間、同席していたラカイン州からの客は6-7時間と答えが返ってきます。さて、どちらが正解なのでしょうか?ンガパリで安い宿はリンターウーという宿が4-5ドルでバス停から近いそうです。それだけの情報を持ってンガパリに向かいました。
ピーの列車駅からハイウェイバスセンターまでは、乗り合いトラックで10チャットです。更にピーからンガパリへの切符は1500チャットです。ちょっと高いようですが、バスの一番前のVIP席です。大体、この国では前の席の幾つかはVIP席としてキープされ、最終段階で我々外人が入手するという場合が多いようです。チャウンタ・ビーチからヤンゴンに向かうバスもこの席だったのでしょう。
ピーの町から新しくできた橋を渡って対岸に行きます。西へ西へと道が続いています。ピーでは夕日を眺める絶好のポイントです。いつもあの先はどんなふうになっているのかと気がかりでした。いよいよ実地に探索が始まるのです。
丘を超えると、赤茶けた丘陵地帯が南北に、そして西に広がっています。暫くすると、ちょっとした山脈が目に入ります。30キロほど進むと平坦部が終わり、徐々に高度を上げて行きます。それと共に、周囲が青々としてきました。これがいわゆるアラカン山脈の末端なのでしょう。
うっそうとして半密林の中を一本の細い道が、迂回しながら西へ西へと続いているのです。飽きることなく森林地帯が続いています。途中に検問所があり、全員下車でそれぞれが所持している身分証明書と照合です。この州は最近外人旅行者がバスを使っての移動が認められるようになりました。
いけども行けども樹海の中をバスは進んで行きます。一車線しかないので、曲がり角では徐行です。右ハンドル車の右側走行ですから、運転手と車掌が声をかけながら進んで行きます。
ともかく、すごく大変な山奥にやってきたものです。この山を超えると海があって、・・・。と想像すると楽しい気分に浸りながら、初めてのルートを物珍しげに眺続けること5時間。道中で集落らしきところは一箇所のみ。本当にポツリポツリとしか民家は目に入りません。ヤンゴンからは、地図で見る限りは近いのですが、この山越えは難関です。昔に比べると大変よくなったのかもしれません。
この地域では、人々の移動が厳重にチェックされています。どうもお隣のバングラデッシュからの不法入国者を対象に取締を行っているそうで、長距離の移動には、必ず身分証明書の携帯が義務付けられています。
でも、何かと裏技があるようで、ニセの証明書が横行したりするそうです。或るミャンマー系のインド人は、シンガポールに数年住んでから、シンガポール人になりすまして日本入国を果たしたとか。とにかく様々な、嘘のような本当のおうな話が数多くあるのです。
バスは夕方6時前にタングップに到着しました。車掌が言うには、ここでバスを乗り換えるとの事で、食事をして7時まで待つことになりました。
日が暮れました。周囲は暗くなってしまいました。7時になってもバスはやって来ません。結局他社のバスの乗車券を配ってもらい。7時半のバスでタンドウェに向かうことになり、まずは一安心です。その安心もつかの間で、ンガパリへの道はまだまだ険しかったのです。
9時半過ぎに終点に到着です。宿はバス停の近くにあると聞いたのですが、ここタンドウェからンガバリ迄はまだ10キロ程あることがわかりました。結局タクシーを、いや車をチャーターして、いや車をチャーターしてリンターウー・ゲスト・ハウスを目指すことになりました。このタクシー代金の高かったこと、何と800チャットも払うことになりました。
これで宿に到着しチェックインをしてホッと一安心です。何しろ海がすぐ側にあるバンガロータイプの建物の一つにはいったので、ベッドに横たわっていても、静かに波の音が響いて来ます。空を見上げると星が沢山輝きを放っています。明朝どんな光景が目に入るか楽しみです。
期待通りに、翌朝は真っ青な海と白い砂浜の続く海岸が目に飛び込んできました。昨夜はぐっすりと休む事もできました。
少しばかり物価が高いのですが、と言っても一日1000円もあれば快適に過ごせます。読書をしたり、海岸を散歩したり心身共にリラックスできる場所でもあるのです。
日本の生活からは想像できない豊かさに遭遇して大満足でした。インドの査証発給の都合で僅か2泊でしたが、今度はもう少しゆっくりと滞在したいものです。
ヤンゴンへのバスは午後3時頃宿の前を通過するというので1500チャットで切符を購入しました。翌朝7時にヤンゴンに到着するそうです。韓国製のバスは、ほぼ定刻に宿の前にやってきました。途中少しずつ集客をするサービスも含まれていますから、その点は便利な交通機関のシステムです。
大都会のヤンゴンやマンダレーを除くと、市内のどこへでも出張して客集めのサービスをしています。パガンでもバスの切符を購入すると、時間前に乗り合いトラックが小さい町を一周して、バスターミナルまで連れて行って暮れました。ミャンマーの旅は全く成り行きに任せる事になるのです。安心して利用できます。ある意味では至れり尽くせりなのです。
さて、バスはタングップという町に6時前に到着しました。ここで夕食を挟んで一時間の休憩です。ところが予定の7時になっても、バスはまだ出発しません。スタッフが一生懸命にバスの通路に木箱を積み上げています。その作業中に木箱がガタンと落っこちてポッコリと蓋が空いてしまいました。箱の中から数匹のカニが這い出してしまいました。人々は急いで捕まえてまた蓋をしてバスの中に積み込んでしまいました。
ともかく車内の通路は腰の高さまでズラリとカニの箱が積まれ、乗客はカニのように這いながら座席へ辿りつく始末です。バスの乗客も名簿と照らし合わせ、点呼を受けた順に乗り込むという方法です。
カニの木箱の他にも、何かしらどっさりと積み込んでいます。50人の乗客、カニが50箱、乗客はそれぞれ大量の荷物を持ち込んで乗りますから、総重量は6-7トンの荷重となるので、エンジンの音が高いわりにスピードが出ないのは当然です。山道に差し掛かると、のうノロノロ運転です。こんな状態で本当にアラカン山脈を超えることができるのでしょうか?ピーの町に到着したのが、午前4時、ヤンゴンへは、予定より2時間半遅れて9時半に到着しました。本当にお疲れ様でした。車内は干し魚の匂いでムンムンしっぱなしです。誰かの荷物の角から大きな干し魚の尻尾がのぞいています。ところで、箱の中に入ったままのカニさんは、バンコクやシンガポールへ飛行機で飛ぶという話です。では、カニさんさようなら。
ミャンマーの交通機関は、バスと言えども、トラックでもあるのです。トラックの型をしていてもバスなのです。貨客根菜が常識で、田舎を走るピックアップは屋根に10-16人そして荷物が乗っかります。トラックも、バスも屋根には1メートル以上も荷物を積み上げて走っています。日本も昔はそうだったのでしょうが・・・・。
ミャンマーの交通機関はインドのように、貨客分離は遅れているようです。どこへ行くのも15-18時間と考えるのが正解です。料金は距離にあまり関係なく、占有する席に対して計算されるので、どこから乗ってもどこで降りても、始発から終点までの料金を払うのが一般的です。
カニ運搬バスは迫力満点でした。チャンタからヤンゴンのバスは荷重が少なかったのに、この区間は往復とも荷物満載です。交易の原則はここにあり。
第四章 ヤンゴンの日々
ヤンゴンの常宿はホワイト・ハウス(現地名ではエイン・ピュー・ドウ)です。ドミトリーが3ドルで朝食付きで格安なのです。ロケーションも良くどこへ行くにも便利です。98年も終わりに近づいた12月27日バンコクからヤンゴンに向かったBG061便から10人程の日本人乗客がヤンゴンのミンガラドン空港に降り立ちました。その中の二人はダッデイズ・ホームへ8人は一つのグループとなってタクシーを借り切り、値切りまくって此処ホワイト・ハウスに到着したようです。
当方は、もう一人の日本人と共に市内バスでヤンゴン市内入りです。その中では、どうも私が一番年長のようで、変な中年のオッサンと映ったものでしょう。その後何度かここを基地として、地方に出かけ、又戻ってくるというパターンが続きました。
最近の若い人々を見ると、日本の社会事情がすごく変化した事に気が付きます。ひと昔前の義理人情という日本人堅気が大きく失われつつ会います。ミャンマーの人々は我々に対して大変親切なのですが、お世話になったお返しというのが日本の従来からの典型的な行動パターンでしたが、最近の若い人はお世話になりっぱなしの傾向に向かっているようです。
それは、日本人同士であっても、同様でこちらが何かとお世話しても当然と受け止められているようで、時には名前を名乗ることもなく、事が進んでいきます。全く淡々としたものですが、これも新しい価値観の相違なのかもしれません。
また、若い人々の話の内容も単に表向きの事柄に終始し、深く追求される事はありません。皆が同じガイドブックを読み漁り、記載通りの宿に滞在し、レストランで食事をするという日々が過ぎていきます。勿論旅への目的意識などは存在するはずがありません。
折角ミャンマーにやってきたのに、ヤンゴンで大半を過ごしている青年の乾燥は、単に<居心地が良いから>という理由で、3週間のうち、2週間を、ホワイト・ハウスのドミで毎日ごろごろしています。
多くの青年達は、現地の服装ロンジーをまとうようになりました。あたかも現地人のように見えますが、それは、外見だけであり、中味は随分違います。
」????????
月曜日をのぞいていつもにぎわっているアウンサン市場の一角で靴屋を営むお兄さんはバリバリの回教徒です。時々立ち寄って世間話をし、お茶を飲んで帰るのです。ウルドゥ語、タミル語、英語そしてミャンマー語を交えた会話を楽しんでいます。今のところ子供が5人いるそうです。
彼の説によると、我々モスリムはインドの人やビルマ人とは違って産児制限はしないとの事。子供を授かるのは神様からのものであって、避妊薬は使わないし、手術もしないと話しています。こうして人々の話を聞くと、回教系の人々は結構子沢山なのです。モスリムの人口がじわじわと増加しています。インド等ではこれに危機感抱いて火種の元となるのですが、意外とミャンマーは平静に事が過ぎていきます。従業員のアリは7人兄弟だそうです。
最近のヤンゴン市内は風紀が乱れ始めているようです。近郊の村から若い娘たちが娼婦として暗躍しはじめているそうです。川向うの町からやってきて、ヤンゴン市内をウロウロしていると外人の客がとれ、今まで一日100チャットで仕事をしていたのが、一夜で15000チャットもらえるとなれば、やみつきになってしまいます。政府も頭を悩ましているのではないでしょうか?
時々ラーマンさんの事務所にも出かけてインド系グループの話をすることがあります。私がミャンマーの良さ、即ち平和さ、仏教思想に根差した豊な精神を過大に評価します。それに対して、彼等は日本の科学技術の発展を過大評価し、いつも平行線をたどります。
彼等の目には、あくまでも日本が輝いているのです。反面私の心にはミャンマーが輝いています。日本の医療過剰が、ひ弱な日本人を生み出している反面、悪品不足で四苦八苦のミャンマー人は強靭な人間を育てているのです。説明してもすんなりとわかってもらえません。彼等は自宅に衛星テレビを置き、結構世界への目は広いのですが、日本の暗い部分を見ると驚くに違いありません。
ここで、言語についての話です。ミャンマー語も多少簡単な会話が出来るようになりました。スリランカやネパール語少しずつ話せるようになった頃、彼等の口から出るのは「私たちは貧しいのです」という言葉を何度も聞きました。しかし、ミャンマーでは、このセリフが登場しませんでした。
多分にこれは、彼等が外界との接触が余りにも少なく、貧富の格差を意識させない状態にあるからでしょう。それだけに、今まで訪問した国とは異なった社会なのです。
先日はヤンゴン郊外のパゴーに出かけました。この街もインド系、中国系の多い雑多な街です。宿のすぐ下はインドからの鉄くずや部品を売り捌く店です。夕方イキの良いリキシャの兄さんに会いました。7時頃で帰宅の途中です。リキシャの前には野菜や食料を買い込んだナイロン袋がぶら下がっています。彼の方からお茶屋さんに行こうと誘われました。
今日は収入がたんまりあったそうです。外人客が貸し切りしてくれて5ドルの収入との事。普段は一日200~300チャットあれば良いほうです。そこから75チャットの借り賃を払うと手元には100~200チャットしか残りません。今日は1500チャットの売り上げです。数か月前に女の子が生まれたそうで、毎日元気を出して仕事をしているのだそうです。
中華料理の店に入ると、停電です。10歳ぐらいのボーイ(ウェイター)が団扇を持ってあおぎに来ました。時々、気持ち良い風が伝わってきます。他の雑用もしながら、我々のテーブルへ巡回してくるのです。どうも平和としか言いようがありません。いかにもミャンマー的な光景です。お礼に10チャット差し出すとにっこりと喜んでいました。
さて、ここパゴーの宿の斜め向かいにモスクがあります。通りがかりに呼び留められました。私が日本人であると分かったのでしょうか!またタミル語が話せる事を知ってなのでしょうか!ちょっとした役割を果たす羽目になりました。
このモスクは信者からの寄付を募り600,000チャットで大型の日本製中古発電機を導入しました。しかし油の消費量が激しく、使い方が今ひとつ良く分かりません。日本語が沢山書いてあるので説明してほしいとの事でした。それにしても良くお金が集まるものです。ミャンマー人の宗教に対する情熱には感服してしまいます。
発電機については、私は専門外ですから、わかる部分のみを説明して終わりました。結論としては、油代が高くつくから、他へ売り飛ばして別なものを買うという事になりました。それにしても回教寺院の皆さま丁重に私を迎えてくれました。寺院の長老が、私の説明を一語一語かみしめてメモを取るという仰々しいものでした。
最近ホテルでミャンマー語会話の耳慣らしを兼ねてテレビを見る事が良くあります。主なるものは、ミャンマー国営テレビですが、やたらと広告がおおいのです。その中でも主流を占めるのが洗濯石鹸や化粧石鹸等、美しくなることに関連した商品です。
第五章 国際村カラオ
ヤンゴンからマンダレーまでは夜行バスを利用し、二日間滞在し、その後カラオに向かう事としました。道中のミッチーナは外国人観光客には評判の悪い所です。大体においてこの付近の公共交通機関は外人とわかると料金が倍になる土地柄です。
マンダレーのバスターミナルでミッチーラ行のマイクロバスはすんなりと見つかり座席に座っていると、車掌が「あなたの名前は?」私は「ホシバ」車掌が手持ちの座席表に書き込む。私が200チャット払う。50チャットのお釣りが戻ってくる。これだと現地価格です。前回は300チャットだったのに・・・。
続いてミッチーラからカラオへの乗り合いトラックも後部の席でしたが、現地人価格の299チャットを払って終わりです。乗り込み時には各々名前を呼ばれての着席です。私の名前も呼ばれて一安心。地元の人々に囲まれて超満員のピックアップは、夕方6時過ぎにカラオに到着しまいた。
前回宿泊したパインランドは私の事を覚えていたようで、笑顔で迎えてくれました。おまけに、今回はトイレ・シャワー付きの部屋を昨年と同様の価格で提供してくれました。快適な旅が続きます。シャワー付きといってもホッとウォーターは、昼間は電気が来ないものですから、夜間しか利用できません。
スタッフは本当に陽気な人々です。<タンダソー>という可愛いお嬢さんが掃除や選択を取り仕切っています。結局は住み心地が良いので合計3泊しました。チェックアウトは12時などと硬い事はなく、適当なところがミャンマー的です。しかも支払いなどは信頼関係を前提にして後払いとなります。お釣りも急いで貰うこともなく、時には数時間後になる事もしばしばあります。全くこの町はゆったりとした土地です。
カラオは大変不思議な町です。標高1500メートルの高原の町は松林の中に、処々英国風の建物が残っています。今は1月ですが、桜の木がピンクの花をつけています。回教寺院と仏教寺院そしてヒンズー教寺院が混在する町です。中国△△会館もペンキが薄くなりましたが、残っています。ゴルカ(ネパール系)協会の看板もあります。全く人種のルツボが濃縮された町と言えましょう。
そもそも、このカラオの語源はKALOから来ているようで、その意味はインドの事なのです。その例としてマレー語でKLANGと言えばインド人の事を指します。マレーシア西海岸のKULANGという町には昔から多くのインド人が漂着したことは有名です。それが何故かインドの呼称となったかについては、古代インドの歴史に登場するKALINGA王国に由来するとの説が定着しています。
西マレーシアの対岸はインドのオリッサ州と々緯度となりましょう。言葉の変化を辿っていくと、KALINGA→KLANG→KALOとなることが容易に頷けます。英国領インドの支配下の時は、この町が多くのインド系移民の新興居住地として発展したわけで、英語に訳するとさしずめLittle Indiaなのでしょうが、ミャンマー語ではインドの事をカローと呼びます。そして、これを英語式に発音するとカラオとなって現在に至ったのでしょう。
まさしく現代の歴史、近世の歴史をプンプンと感じさせる不思議な町なのです。これだけ雑多な人種の構成であっても全く平和そのものなるカラオです。
ここ数日間にカラオで出会った人々、私の知っている人々を数えると10人以上になるのではないでしょうか?人それぞれの生き方が、様々なところで絡みあっていることを感じてなりません。人々と話をしていると、興味がとめどもなく湧き上がって来ます。
町の中心部をぐるり一周するのに一時間もかからないのに、何と多数の異なった家族が住んでいることでしょう。ネパールから、カルカッタから、中国雲南省から、今のパキスタンのペシャワールから、南インドのマドラスから、そしてシーク教の人々も住んでいます。同じミャンマーでもシャン族、ビルマ族も同居しています。とにかく驚きの連続です。
一家族ですが、イランに祖先を持つ家族もいます。日本人を父として生まれた軍人さんもいます。それぞれの人がそれぞれの思いを込めて暮らし続けています。過去30年間の歴史の空白から眠りが冷めて(長期に渡る半鎖国政策の終焉)何かを伝えたい情熱が満ち溢れています。その多くは高齢の方々なのですが・・・。この町の人は妙に長寿が多いようです。この町は魔法の空間であり、人種のルツボのユートピアなのでしょう。
第一話
79歳になるインドのウッタープラデッシュからのお爺さんは、今も元気で毎日散歩しています。全く高齢を感じさせません。背筋もシャンとして健康そのものです。昔は仕立屋をしていたそうです。今は息子たちがその仕事を引き継いているので、悠々とした生活です。ちょっとばかし片目が不自由なのですが、それに甘えることなくシャキとしています。昔から菜食主義者で、今も一日2回はローティ(インド風のパン)そして一回は御飯を食べる毎日です。今日もにこやかに散歩をしています。別れ際に一枚の住所を書いた上をもらいました。ネパールのカトマンズに息子がいるんだけれど、ここしばらく連絡がないとの事です。私がしばらくしてからネパールへ行く事を知って、もし出来たら寄って欲しいとの事でした。しっかりとした口調で
Don’t Forget Parent!(親の事を忘れないで)というメッセージを預かりました。
第二話
夕方8時頃ラクチュミ・テー・センター(喫茶店)でお茶を飲んでいました。メッテーラから住み込みで働きに来ている18歳の陽気な青年Mr,ウインとミャンマー語で話をしていると、隣にいたインド系のお祖母ちゃんが座っているのに気が付きました。それとなく話をヒンズー語に切り替えて挨拶をすると反応ありです。これを契機に話がはずみました。彼女はパキスタンのペシャワールに祖先を持つパシュトン族の血を引いた婦人でした。背も高くスラリとした美人です。品のある顔立ちです。彼女は私が日本人であることを知りビックリしています。初めはネパール人かと思っていたようです。敬虔なる回教徒ですが、何の隔てもなくネパール系の神様の祀ってあるお店に出入りしています。
「親族の中にはスイスに住んでいる人もいるそうです。今はその住所もなくなって、連絡も取れません。連絡がつけば、何か送り物が届くだろうに・・・。」とちょっと寂しそうです。私はここで生まれて、ここで死ぬことになるでしょう。お金があれば、あちこち行くことができるだろうに。しかしこれはすべて神様が知りなさっている事です。「それで良かろう」と自分の心を納得させているようでした。「悪事をせず、生きていればそれで良い」とゆったりと、しっかりと語ってくれました。
第三話
旅行代理店でいつも英文の工学書を読んでいる中国系ビルマ人は13年間米国でコンピューターの勉強をして2年前に帰国したそうです。しかし全く仕事がないので、ここで時間つぶしをしているそうです。英語は堪能です。世間話やビルマの将来の事を英語で語り会いました。「ミャンマーに食品加工産業があれば、もっと国は栄えるだろうに。国内に缶詰工場が一つしかないのが残念です。まだまだ先5年か10年の時間が必要でしょう。だけど、徐々に良くなっているのも事実」とか、この兄さんはシンガポールに親戚があるそうです。
第四話
そして、同じこの旅行代理店のボスはタミル・クリスチャンを祖先n持っているおっさんです。なかなかしたたかなる性格です。5年間マレーシアで働いていたそうで、今度はマレー語が主流になりました。私も久しぶりのマレー語です。でも話をしている間に徐々に昔の勘が戻ってきました。始めはたわいもない話から初めていましたが、波に乗るに連れ英語、タミル語、ヒンズー語、マレー語、ミャンマー語のちゃんぽんが始まり。周囲の人は唖然としていました。
明日はフランス人のグループがヤンゴンから飛行機でく来るので、ガイドを引き受けるのだそうです。色黒の典型的なタミル系ミャンマー人です。それなりに苦労をしながらたくましく生きてきたようで、現在38歳とか。弟も同じ事務所で仕事をしていますが、ちょっと甘やかされて育った感じがします。何やかやと雑用を引き受けています。
第五話
皆さんと何やかやと話をしていると、また一人のお父さんが参加しました。彼の先祖はカルカッタ出身のベンガル人です。まずはベンガリ語でご挨拶をし、互いに気分がほぐれたところで英語に切り替えて話が進みました。
彼が子供の頃に日本の兵隊がこの町に居たそうで、彼のお父さんとタミル系の旅行代理店を営んでいる兄弟の倒産が一緒に日本軍への物資供給の仕事をしていたそうです。今も子供同士仲良くしているようです。
彼は子供の頃、駐屯地へよく遊びに出かけたそうです。かまどの中へ木を放り込んで燃やしていたら、「この、バッキャロー」と叱られたと思い出話をしてくれました。当時の日本軍は、この土地へもフィリピン女性を送り込んでいたとの話もしてくれました。
そんな中で、今はMr.ジャパンと呼ばれている日系ビルマ人の話もありました。当時生き別れとなり、後になって日本人が父であることがわかり、当時ビルマの軍隊で仕事をしていた時に運良く発見されて、日本から多額の援助を受けて、今はビジネスマンとして生活している話など、数多くのエピソードが続きました。
第六話
ヤンゴン行きの切符を販売しながら茶店を営んでいるのは、ヒンズー教徒の家族です。私のヒンズー語にびっくりしています。かなりネパール語訛のヒンズー語ですが、確かに話は通じます。ここでも大歓迎を受けました。
今から20年程前の彼らが幼い頃、日本人の団体がカラオにやってきたそうです。これは、多分戦没者慰霊墓参団でしょう。当時、彼らはそれらの日本人を相手にお菓子を売っていたそうです。その時写真を取ってもらった写真が三年後に手元に届いたそうで、今もそれを大切にしているとか。
そんな話をしてから、現代日本事情へと話題が移行しました。ここへ来るとインド系の人々もまろやか、さわやかになります。この店へも時々足を運ばねばなりますまい。
第七話
行きつけの喫茶店ラクシュミのおかみさんは、まだネパール語が話せます。しかし、ここに集う多くの若いネパール系住民は次第にネパール語を忘れ初めて居ます。それに引き換え、年配の人はバイリンガルなのです。
女将さんの弟が三ヶ月前に結婚したとかで、その写真を見せてくれました。メイド・イン・ミャンマーの製品ですから仕上がりには、ちょっと問題があります。しかし、多分に高価なものでしょう。大事そうに、もとの場所に仕舞い込んでいました。彼女はいつも陽気に仕事をしています。
ここでお手伝いをしている18歳のビルマ系の青年は平地のメッテーラから来て居ます。いつも鼻歌を歌いながら、古いロンジーを前掛けに利用して元気に働いて居ます。給料は一ヶ月1500チャットとか、全部で7人兄弟だそうです。
第八話
私の泊まっているパインランドインは、中国系の若主人です。カラオでは現在4家族しか中国系がいないと寂しそうです。
1963年にミャンマーが社会主義の路線をとった時におじさんは中国の雲南省へ移ったそうで、今も中国にいるそうです。このグループは、レストランや高級ホテルを経営しえいまして、なかなかの商売人です。
98年のインドの天候不順で玉葱がインドでは10倍に跳ね上がり、ここミャンマーでも三倍になったとの事。友人からの進めで買い溜めをしようと持ちかけられたけど、手を出さずにも受け損なったと悔やんでいました。今は価格が低下し始めたとか。
やはり、中国系は家族単位の団結が強く、何かと資本も大きいようです。先日、このカラオから50キロ離れたビンダヤで1泊してきました。そこでも中国系の人が経営する宿に泊まったのですが、その時の発見!
夕方6時頃には、使用人を含めて全員同じテーブルで従業員、家族の別け隔てなく食事をしている光景を見ました。インド的マインドで見るならば
天と地がひっくり返った感じがするでしょう。
第九話
この宿パンランドに出入りしているガイドは年齢40歳のビルマ人です。と言ってもここに昔から住んでいるグループです。言葉使いが大変丁寧です。ビルマ語を話す時には、他の言語のように簡略かしないで、長々とお礼を言ったりします。そんな感じのパパなのです。
夕方出会ったこともあって、プンプン酒臭かったけど、意外と仏教徒は酒が好きなようでして、仕事上、片言のフランス語も話します。外人観光客を対象に、近くの村々を案内するガイドとして生計を立てているようです。昔からジャングルに住んでいたような風采をした優しいガイドなのでしょう。
第十話
この町のガイドには異色の人が沢山居ます。その中の一人回教徒の兄さんはウルドゥ語、タイ語そして英語が堪能です。
隣のタイへは仕事の関係で頻繁に出入りをしています。彼の最も尊敬しているのは、40歳ほど年齢の開きのある88歳のモスリムの長老です。
酒もタバコもやらない長老は今も元気です。この長老が45歳の頃は、ガイド氏はまだ4-5歳の子供だったそうで、今もチャチャ(ウルドゥ語でおじさんの意味)と呼んで今もまるで、親子のように仲が良いのです。
エピローグ
カラオは人生のモザイクのたまり場なのでしょう。いつまでも飽きることはありません。カラオで再びウラミンさんに会いました。これで三回目ですが、今もまだ元気でカローホテルの支配人をしています。久しぶりに様々な話に花が咲きました。政府の話もあれこれ出てきました。ある観点からすると、一人の女性のために政府の政策が思い通りにならない面もあるそうです。
世界の銀行のどこからも融資が受けれず、資本がないから思うように経済が発展せず、取り残されてしまいます。さらなる自由を認めるならば、その引き換えとして、今の平和と静けさが崩れ去りそうです。
ヤンゴンには一気に農村部から人々が都会へ流入し定住するようになり、スラム化が進むのは当然でしょう。貧富の差が拡大し、犯罪が多発するのは、どこの国も経験しています。過去数十年間玄関を閉ざしていたからこそ、現在の静けさがあるのかもしれません。
インドは「民族は一つ、宗教上の差別もなく自由がある」とスローガンを掲げて居ます。スリランカも憲法上は宗教の自由を認めて居ます。インドネシアでは、パンチャット・シーラという平和五原則が教育に組み込まれて居ます。
しかし、こうしたスローガンを掲げる国ほど、社会的に宗教上の差別、対立が激しくなっています。対立するからこそ、協調のスローガンが必要になるのでしょう。すなわち、こうしたスローガンは社会の実情の裏返しともいえます。
となると、ミャンマー政府の掲げるスローガンの中には宗教の事は含まれていません。以下に宗教の対立が少ないかがわかります。1997年の仏教徒と回教徒の対立の事件は、全く別の事として取り上げたいと思います。
第六章 さようならミャンマー
今回のミャンマーの旅も神秘的な出来事の連続で数多くの発見が続きました。今日はいよいよミャンマーとお別れの日です。しかし今回のミャンマーの旅には余録が付きました。
ヤンゴンからダッカ行のフライトは約30名の乗客でした。その中で日本人は6名、ミャンマー人が5名そして20名程の西洋人が乗り込みました。
全員ダッカ空港近くのプラザ・インというホテルで一泊お世話になって、翌日それぞれの目的地に振り分けられて出発します。トランジットですが、少しばかりバングラデッシュの空気を味わうことが出来ます。
ミャンマー人のグループの中で高齢の祖母と娘はパキスタン系のビルマ人で、ロンドンの親族を訪ねての遠出です。多くの西洋人旅行者や日本人の客はカトマンズ行を目的としています。
ほぼ定刻の運行で、トランジットの手続きで一時間ほどまたされました。全員がパスポートを預けたままでホテルに直行です。今日は同じくカルカッタへ向かう天マークからのエンジニアと同室です。
彼もミャンマーが大変気に入ったようです。デンマークは税金天国で所得税は55%とか。日本と同様で、様々な社会問題が大きくのしかかり、何かと大変そうです。
翌朝は5時半起床で、6時にはホテルが空港行きのバスを手配していました。もう朝食どころではありません。ゆっくりと朝食を摂ってから一日が始まるはずでしたが、時には仕方がありません。何しろ無料なのですから。
翌朝になって、ミャンマー人のグループの中の一人がお坊さんで、彼は単独でカルカッタへ行くことが分かりました。他の五人はロンドン行きです。他のミャンマー人と別れを惜しんでいます。
ここでは、回教徒のミャンマー人がバングラデッシュの空港やホテルで仏教徒のお坊さんに敬意を表して、何かと世話をしています。なるほど日常生活の一端を覗いしることが出来ます。
お坊さんが単身でカルカッタ入りすることがわかってからが、私の出番です。その後、わずか半日でしたが、ミャンマー僧との出会いが始まりました。片言のミャンマー語で話が続きました。
聞くところによると、これからインドのカルカッタに行き、ブッダガヤの大学に2年間留学する予定だそうです。英語はたどたどしく、ビルマ式の発音でボツリポツリと単語を羅列するのみです。インド入国時での審査や税関検査等をてほどきして、共に何事もなく通過することが出来ました。それぞれ10ドルずつ両替をして、さあどうでしょう・・・。
話ではカルカッタの空港にミャンマーのお坊さんがいて迎えに来る手はずがしてあったのですが、それらしき姿はありません。お坊さんの大事な手帳にカルカッタの知人の電話番号が記されていたので、ともかく電話をしてみることになりました。
運良く連絡がとれたようで、坊さんが受話器を手にして、何やら早口のミャンマー語で話をしていました。ともかく、これで私も一安心。何しろ6個も荷物を抱えた僧侶にとっては、初めての外国旅行で、右も左もわかりません。何かしら高貴な王子様がスラム街の片隅に置き去りになったような感じです。
ともかく出口で迎えの人がくるまで一緒にまつことになりました。それがなかなかやってきません。でも、これで一安心です。お坊さんはミャンマーから持ってきた品物の袋を早速開けて、“朝飯を食べましょう”とりんごを差し出して暮れました。“ミャンマーのりんごです。どうぞ”さて、良くみると、小さくNEWZEELANDとステッカーが張ってありました。お坊さんはあくまでもミャンマーのリンゴだと自慢していましたが・・・。
でも一緒に食べたリンゴの味は格別でした。
空港周辺にたむろしているタクシーの運転手達が、もの珍しそうに声をかけたり、冷やかしに来ましたが、何時もの彼らとは違って、中には、インドっぽさが消えていたようにも思えました。僧職に対して尊敬の念を抱いているかのようにも見えます。或いは、ミャンマーという経済的に貧しい国から来たという理由で、関心を持たなかったのかもしれません。
それにしても、このお坊さんは常ににこやかで、何事にも動じず、淡々と微笑みを浮かべていました。まるで仏様のような表情が、私をこの場から引き離すことを抑えていたのでしょう。
ぼつりぼつりとミャンマーの話が続きました。自国では僧院を所持し、数多くの学生を抱えているとの事です。生まれはラカイン州のンガパリだそうで、そこについ最近私も出かけて来たばかりです。等々。
待つこと1時間。いっこうにそれらしい人の姿が見えません。ということで、もう一度電話をすることになりました。「一度迎えにいったが、みつからなかったです。では、もう一度今から出かけるので待っているように」という返事をもらいました。
結局12時少し前に大柄な体格で袈裟をまとったミャンマーのお坊さんが登場です。これからインドに住むというお坊さんも、その顔に明るさが増してきました。目出度し、目出度し。これで私も安心して市内に入れます。
彼らの住むお寺は、空港の北10キロにあるそうで、私とは方向が真逆です。兄貴分のお坊さんも事情を察したようで、“私のお寺で寝泊まりを”と声をかけてくれたのですが、丁寧に断って別れました。無事ブダガヤに行けますように!
さて、私の方は、市内バスと地下鉄を乗り継いで、市内の安宿街に向いました。どうも町の雰囲気が違います。此処は、やはりインド社会なのです。目的地に行くのに地下鉄を利用しましたが、一車両100人ほどの乗客の中、女性は数人です。ミャンマーの交通機関とは雲泥の差です。
しかも、乗客の多くは、しかめっ面をしています。大きなカルチャーショックに襲われたカルカッタの初日です。心の中では、今もミャンマーの余韻が続いています。
注:ダッカ空港でのトランジット
PKF(国連平和維持軍)部隊でわんさとごった返しているダッカのジア国際空港。彼らに聞くと、これから1年間クウェートで勤務するとか。
注:ダッカのホテル
男性ばかりのスタッフで何ともぎこちありません。到着が8時過ぎだったからかもしれませんが。どうもタイやミャンマーが懐かしくなって来ます。
付録
編集後記
今回のミャンマーの旅も無事終わりました。あっと言う間の4週間でした。バンコクで数日間ミャンマー語の本とにらめっこした甲斐があって現地語がかなり耳に入るようになりました。同時にぼつりぼつりながら、庶民の声も届き始め好奇心が踊り始めています。特にカラオという街は国際色豊かで様々なエピソードが登場して来ます。
そんな庶民との会話を寄せ集め、周辺諸国と対比させながらまとめてみました。知る限りの言語をフルに使って沢山の発見をしながら、延々と旅が続いています。
ビルマ(ミャンマー)旅のシリーズ第三弾はいかかでしたか?次回は一年後を予定しています。それではミャンマー語を忘れないように努力を続けていきたいと思います。
最後に、このシリーズに登場する現地の方々に深く感謝の意を表して終わりにしたいと思います。
1999年1月24日 干場 悟