アジア旅日記No.13 ミヤンマーの日々

ミャンマーの子供達

アジア旅日記No.13 ミヤンマーの日々

1999年11月21日~12月19日

ミャンマーの子供達

ヤンゴンに来ると、決まってこの宿を利用することが多くなりました。この宿のスタッフを見ているだけでも、楽しくて飽きがきません。今回も通算して6泊の利用となりました。ヤンゴン市内の目抜き通りに位置し、交通の便も至極便利です。おまけにシングルの部屋は4ドルで簡単な朝食が付いています。部屋はよりどりみどりで、冷房の効いた部屋から、大部屋に至るまで各種揃っています。荷物も無料で預かってくれます。そんな事で外人旅行者の人気を集めている宿です。6階建てのビルが次第に増築され、屋上にはガーデンを造成し、ハンモックを置きました。これがオーナーの自慢の種で、いずれは、ここをビアー・ガーデンにするそうですが、果たしていつの事になるやら。・・・・・

干場悟

内容

初めに… 2

ホワイトハウス(YANGON… 3

20November,1999 (バンコクにて). 5

21November 1999. 6

22November 1999. 6

スット・リン・イン(PINWOOLIN). 7

25November 1999. 7

チャールズ・ゲストハウス(HSIPOW). 9

26November 1999. 9

27November 1999. 10

28November 1999. 11

29November 1999. 12

モ二ユワ・ゲストハウス(MONYWA). 13

30November 1999. 13

01December 1999. 14

ホワイトハウス(YANGON). 16

03December 1999. 16

04December 1999. 16

パンガバー・ゲストハウス(PYE). 17

5December 1999. 17

6December 1999. 18

リンターウー・ゲストハウス(NGAPALl). 19

07December 1999. 19

08December 1999. 21

09December 1999. 22

10December 1999. 23

11December 1999. 24

タガ一・ゲストハウス(GWA). 25

11December 1999. 25

デルタ・ゲストハウス(PATHEIN). 26

12December 1999. 26

13December 1999. 28

チャンメ一・ゲストハウス(CHAUNTAH). 29

14December 1999. 29

15December 1999. 29

16December 1999. 30

ミヤナンダ・ゲストハウス(PAGO). 31

17December 1999. 31

ホワイトハウス(YANGON). 32

18December 1999. 32

19December 1999. 33

ヤンゴン発ダッカ行き… 33

ラジオネパールのおばちゃんアナウンサー… 34

マドラスからの商売人のグループ… 34

日本人カップル(これからインドのグラムシャラヘ行く). 35

80歳の高齢バングラデッシュの尼さん… 35

アッサムのお坊さん… 35

ボンベイへ機械の調達に行くタミル系ミャンマー実業家… 36

ミャンマー系の回教徒で巡礼の旅にでる2人連れ(農業家). 37

バングラデッシュからの人々… 37

2ケ月の休暇を終えて帰国するイタリア人… 38

さようならミャンマー… 38

 

 

初めに

1999年11月21日から12月19日の間再度ミャンマーを訪問しました。前回の訪問に続き、現地の人々との密着した旅のスタイルを展開しながらの楽しい日々を過ごすことができました。

日程

11月21日SUNYGN12月06日MONBUS
11月22日MONYGN12月07日TUENGAPALI
11月23日TUEBUS12月08日WEDNGAPALI
11月24日WEDMANDALAY12月09日THUNGAPALI
11月25日THUMEIMYO12月10日FRINGAPALI
11月26日FRISHIBO12月11日SATGUA
11月27日SATSHIBO12月12日SUNPATHEIN
11月28日SUNSHIBO12月13日MONPATHEIN
11月29日MONMANDALAY12月14日TUECHAUNTA
11月30日TUEMONYUWA12月15日WEDCHAUNTA
12月01日WEDMONYUWA12月16日THUYGN
12月02日THUBUS12月17日FRIPAGO
12月03日FRIYGN12月18日SATYGN
12月04日SATYGN12月19日SUNDACCA
12月05日SUNPYE12月20日MONKATMANDU

 

ホワイトハウス(YANGON)

ヤンゴンに来ると、決まってこの宿を利用することが多くなりました。この宿のスタッフを見ているだけでも、楽しくて飽きがきません。今回も通算して6泊の利用となりました。ヤンゴン市内の目抜き通りに位置し、交通の便も至極便利です。おまけにシングルの部屋は4ドルで簡単な朝食が付いています。部屋はよりどりみどりで、冷房の効いた部屋から、大部屋に至るまで各種揃っています。荷物も無料で預かってくれます。そんな事で外人旅行者の人気を集めている宿です。6階建てのビルが次第に増築され、屋上にはガーデンを造成し、ハンモックを置きました。これがオーナーの自慢の種で、いずれは、ここをビアー・ガーデンにするそうですが、果たしていつの事になるやら。

この宿のオーナーはモニユワの出身で、いつも愛想が良くニコニコしている敬度な仏教徒です。 数万点の写真を集めているのも自慢です。あわよくば、この写真集に感激し車を借り切ってミャンマー1周する客がいないかと狙っている部分もあります。従業員にはかなり厳しいお父さんと見えて、従業員はボスがいると、静かにおとなしくしていますが、ボスが帰ればとたんに元の陽気さを取り戻します。大体ボスは9時過ぎに自宅に帰るのですが、最近は10時になることもあるようです。

従業員の一人でインド系のラージャンは、日中は静かに振る舞っていますが、ボスが帰ってしまうと、元気そのものです。宿の雑用をしながら暮らしている彼は年齢23歳、肌は南インド人特有で真っ黒ですが、人なつっこい顔立ちをして、ハンサムです。時々食事を奢ったりする間柄となりました。毎週水曜日が休みで、1日働いて200チャットの日当と食事の提供という条件で、1年半ほど過ぎようとしています。 あるとき、日本の友人と3人で食事に出かけました。 ラージャんは酒は強くないのですが、ビールが大好物です。 私と顔を合わせると「行こうよ!行こう!」とねだってきます。 瓶ビール1本で足元がふらふらとなり、何でも楽しく喋りまくる性格で、これがまた見ているだけで、こちらも楽しくなってくるのです。「お父さんは食べ物の屋台を経営していたのですが、2年前に突然病気でなくなり、ここで仕事をしている」との話です。 インド本国でこのような身の上話を聞くと、何となく哀れさ、悲しさが伴いますが、ここミャンマーではそのような空気を感じることは皆無です。あくまでも陽気で明るいムードが充満しています。

ミャンマーと外国人の経済的格差はネパール同様大きな開きがあります。ですからこうして外人と接触する職業の場合は幸運が舞い込むことがしばしばあります。外国の姉さんたちと親密になる機会にも恵まれ、悪くはありません。酒に酔った勢いでいくつかのノロケ話をしてくれます。しかし、彼の場合は「好きですと愛しています。」の言葉をしっかりと区分けしています。 今、友人が10万円ほど準備してくれるから、それで自分の商売を始める予定を語ってくれました。ミャンマー国内に数多く見受けるビデオホールを経営する構想です。テレビとビデオのセットを買いこんで、掘っ建て小屋で上映すれば日銭が確実に入ってきます。本人は1年で元が取れる確実な商売だと信じきっていますが、彼らの頭の中には、機器の減価償却という概念があるとは思えません。使用回数が多いから数年後に一式を買い換えなければなりません.また修理の費用もばかにならないでしょう。そう言った細部に渡った考えはどこかに隠れてしまい、毎日の売り上げを累計すれば、莫大な収入となることにのみ注目して、ウハウハと浮かれてしまい、採算がとれると信じきっています。

インドと違ってここでは、カースト制度という階級制度がありませんから従業員も雇用

主も対等です。強いて言うならば、職務怠慢で首を切られるのを恐れているくらいで、

これは日本でも同様でしょう。仕事といっても、この宿には若い兄ちゃんが3人24時間

体制で勤務しています。 ラージャンが日中ベッドで眠っている姿をよく見かけます。夜

になってボスが帰ってしまうと、ほぼ毎晩酒盛りが始まります。日本の宿もどこかこん

な雰囲気があるのではないでしょうか? 3人の同僚の一人は、ラカイン州のシトウェからヤンゴンにやってきた学生です。ヤンゴンの大学に籍を置いていますが、大学が封鎖中ですから学業のほうはなかなか進行してくれません。ここ3年間ほど帰郷したことがないそうで、「来年からヤンゴンとシトウェを直結するバスが運行する予定だから、一緒に里帰りしませんか?」と話を持ちかけてきました。彼は比較的まじめな人物でどこか落ち着いた点があります。

昼間は受付には、おばちゃんが仕事をしていますが、彼女はかなりヒステリックな面をもっています。 いつもわめいて、顔をしかめていますが、外人の顔をみると、とたんに態度が変わってニコニコします。他に掃除や洗濯を引き受けるインド系の娘たちが4人通勤しています。これが、ホワイトハウスの概要です。娘たちは仲間同士で楽しそうに仕事をしています。彼女たちの主な役割は掃除ですが、余った時間を利用して、お客さんの洗濯ものを引き受けて小遣い稼ぎに充当しています。彼女たちもボスの存在を煙たがっているようで、ボスがいない場所では、年頃の娘らしく、わいわいきゃあきゃあ騒々しくなり元気そのものです。

 

20November,1999 (バンコクにて)

本日の行動も大変充実したものとなりました。午前中はバンコクのBSIトラベルでカトマンズから帰る切符を手配しました。両替もしました。壱万円と100ドルでほぼ7000バーツの額となり、バンコクでの滞在費用や買い物代金、そして飛行機の切符代金に充当して少しばかり残ります。いずれは、バンコクに再びやって来て買い物そのほかで使い切ってしまいますから心配はありません。午前中に切符を申し込んで午後2時に切符を受け取ることが出来ました。ピーマンのこの路線を購入する際には、必ずダッカ1泊のクーポン券を発行してもらうことを忘れてはいけません。仮の予約を入れ込んで確定しておくのが望ましいのです。

それから、日本文化センターによりました。ここではバンコク週報がミャンマーに関しての何よりの最新の情報源です。1ドルは350チャット程度になっている様子です。今年の夏以降タイとの関係が悪化している状況が紙面をにぎやかにしています。かなり、アメリカよりの内容ではないかと思います。事実は、どうなのでしょうか?慢性的に外貨が不足しているミャンマーですから、欧米の経済封鎖があろうが何があろうが、淡々としている国ではないかと思います。このバンコク週報には、現在の軍事政権を誹譲中傷した記事が多く見受けます。現在の軍事政権が日本の軍艦マーチを使っているのは、軍国主義を煽りたてるものだとか、ナチス同様の強制労働を国民に強いているとか、根堀り葉堀りで弱点を責め立てています。今年の8月に発生したミャンマー大使館占拠事件以降、この傾向が強まっているそうで、現在、タイとミャンマーの関係は事の真相はわかりませんがギクシヤクしているようです。

今日の最後の詰めとしてバンコクの秋葉原なるパンテーププラザによりました。本日は土曜日の夕方ともあって熱気がむんむんです。時間が少ないので館内をゆっくりと観察することは出来ませんでした。しかし、すごい熱気が充満していたのは間違いありません。また日本のパソコン市場との違いもしかりと見せ付けてくれました。その違いというのは、ともかくCDが数多く売れていることです。海賊版は横行しています。怪しげな画像のCDが大手を振って並んでいます。もちろん、コピー用の生のCDがまるでそれは、輪投げのごとくポールに山積となっているのです。客層も若い人々がほとんどです。さすがエンターテイメントの国です。日本では、学術用を基礎として発展したようですが、ここバンコクでは、娯楽が完全に先に来ているように感じます。遊びの道具としてパソコンの利用が発達しているのです。でもこの方法がパソコン上達の道であることは間違いありません。市場視察もなかなか面白い発見が出来るものです。いつまでも明るい雰囲気を持ったタイの秋葉原でした。日本の地方都市では、パソコン量販店の雰囲気は、中高年のリストラ組みかと思わせる連中がしかめっ面をして、店内を物色しているので何となく重苦しさを感じてなりません。それがここまで来るとカップルが怪しげな画像CDの前で肩を組みながら、あっけらかんとしています。ネパールでは限られた1部のエリートあるいは、金持ち階級が大事そうに隠しながら使っている節があります。そのわりに彼らの使い方には基本がまったく欠落しているのです。ここでは、本当にオープンだなと感じてしまいます。

 

21November 1999

今日のBGの便では旅行者が15人程度でした。これでは、強制両替を避けて通れるものではありません。乗り合わせた日本人の乗客は4名です。これからミャンマー、ネパール、インド、パキスタンを経由して西へ向かう青年。建築関係の仕事が、今は不景気で自主的に休暇を取り、世界のあちこちを旅している中年の男性。オーストラリアで一年間ワーキングホリデイを体験し、帰路に立ち寄った高知のお嬢さん、そして正体不明なる私の4名です。結局私が音頭を取って市内に向かうこととしました。ツーリストインフォメーションのお姉さんたちの悲壮な演技によるタクシーの斡旋を振り切って、空港の建物から脱出し、2ドルでタクシーを1台貸しきることが出来ました。市内から空港へは、500チャットが相場です。2ドルを現地通貨に換算すると、700チャット弱ですから、妥当な料金といえるでしょう。

バンコクでは、ミャンマーのことを大変厳しく非難していましたが、ここヤンゴンに来てみると事情はどうもそれとは異なっています。やはり何といっても私にとって肌があうようであります。今回持ち込んだ新兵器一式はまったく調べることもなく、あなたはパソコンを持っていますと紙切れに書いて、それをパスポートに貼り付けて終了です。

いとも簡単に税関を通過してしまいました。ある旅行者は、ミャンマーはパソコンの持

ち込みを禁止しているというベトナムで仕入れた情報を信じて、バンコクに一式をおい

てきたそうです。金沢の松本さんは大変面白い人物です。今回もユニークな人々に出会うことが出来、充実した旅が続きそうです。私の持ち合わせていない部分、視点から物事を観察してくれますから、大変助かります。それから、昨年同期に出会ったミャンマーフアンで静岡の家具職人、中田サンとも偶然に再会することが出来ました。彼は明日モールメインに出

かけるそうです。

宿の人々は私のことをしっかりと覚えてくれました。

 

22November 1999

バングラデッシュ。ピーマンは、バンコクとヤンゴン間のフライトの中で一番料金が安いので、時間のある旅人には人気があります。週1便しか運行していません。しかも、日曜日が出発ですから、翌日はマーケット(アウンサンボ-ジョー・マーケット)が休みとなり、両替などをするには不便な面があります。仕方がないので、多くの人はホワイトハウスで少しレートが悪いのを覚悟で交換しています.

空港での強制両替で手にした使い切れない額のFECどう処分するか、みんな頭を悩ませています。各自それぞれの方法でこの強制両替を避けるのに工夫を凝らしているようです。外国人のカップルはにわか夫婦となり、二人で300ドルで済んだという事例もあります。当方は大体使い切ってしまうか、次に進む国の査証を申請したり、みやげ物を買ったり、本を買うなどでこの程度の額は消耗してしまうのが常です。万一余ったとしても友人に預けておいて、次回の資金に組み入れて使うことにしていますから、大きな問題にはなりません。最近この国の方針で国際電話の料金をFECで支払うように措置が決まったそうで、以前はドルキャッシュとFECはどちらかと言うとFECは敬遠されたのですが、こうなっては、等価に取引されています。それが、証拠に松本さんは、いとも簡単にFECをドル現金にわずかの手数料で交換してしまったようです。後で聞いた話ですが、日本からの4人組の一人、福岡からの松永さんは、インレーで1FECあたり、5チャットの手数料でドルキャッシュに交換出来たと大喜びでした。

昨日から少しばかり風を引いています。早速現地で薬を購入して飲んでいます。今日は金沢の松本さん、福岡の松永さん、そして高知のお嬢さんも同じバスでマンダレ一に向かうこととなりました。4人集まればタクシーで行くのが手っ取り早く割安です。2時にホールに集合と約束したのですが、いつも快活に笑いを飛ばしている松永さんが時間になっても姿を見せません。やむなく、彼を置き去りにして出発です。しばらくすると、彼は他の外人と相乗りで30分はど遅れてバスターミナルに到着です。

今回のレオイクスプレスは事故もなく、快適に深夜の国道を北上していきました。夕食、夜食、朝食と食事が提供されて、始めてこのバスを利用する友人たちは感激していました。翌朝、バスがマンダレ-の駅に到着すると、案の定客引きがどっと押し寄せました。

今年の8月にバンコクで発生したミャンマー大使館襲撃事件以来、査証の発給が厳しくなり旅行者の数が激減したそうで、外国人旅行者を相手に商売をしている宿は客を集めるのに必死となっています。私が大阪でミャンマーの査証を取得したときは、夏以降中断していた査証発行業務が3週間前から開始したばかりです。バンコクで査証を取ろうとした人が職業の欄を無職と記入したら拒否されたそうです。学生がそれを取らんとして出かけても、本国からの正式な在学証明がないと発給しないという条件が加わりました。

我々がバスを降りると、瞬時にして人だかりが出来てしまいました。彼らには、マンダレーでの宿はロイヤルゲストハウスをお勧めしたのですから、これ以上のお節介は控えることとし、私はスルリとすり抜けて乗り合いトラックで市内に向かいました。同じバスに乗り合わせた松永さんは、MR.HOSHIBAはどこへ行ったのかいなくなったと騒いでいたようです。私が宿まで案内してくれるものと信じきっていたようです。当方は、そんなことはお構いなしで、友人の事務所に向かったのです。

 

スット・リン・イン(PINWOOLIN)

25November 1999

今日はマンダレーからメイミョウにやって来ました。マングレーから100チャットの乗り合いピックアップの乗車券を買い、まったく現地人になりすました風情です。多少のミャンマー語がしっかりと役にたっているようです。マングレーからのぎゅう詰めラインカーの車内はまったく和気あいあいを感じさせます。和やかな空気に包まれた社会を垣間見ることとなりました。1歳くらいの赤ん坊がむずがっていると、周囲の人がちゃんとあやしてくれます。子供たちも人見知りすることなく、平気で他人の懐に抱かれてしまうのです。日本の社会では、満席の公共交通機関に赤ん坊が紛れ込む光景はまず見かけることがありません。社会の発展は、自家用車の所有率を大きく引き上げ、地方では一家に2台、3台あるのは珍しいことではありません。こうした環境では、他の家族と触れ合う機会はまったく失われてしまいます。ましては日本の社会では、子供たちは他人を本能的に警戒してしまいがちです。しかし、ここミャンマーでは、まさしく人と人の触れ合いに満ちた人間らしい空気をぷんぷんと匂わせています。文明の進展はある逆にでは人間らしさを抹消しようとしているのではないでしょうか?

さてさて、メイミョウに到着してルビー・ゲストハウスに入り部屋代を聞くと5ドルといいます。それでは、他の宿で安いところはないものかと聞くとすんなりと教えてくれました。SutRim lnnという宿に電話をかけ、始めは4ドルという料金の値下げ交渉までしてくれました。今、自転車で迎えに来るからしばらく待ってください。と丁寧なもてなしを受けてしまったのです。いやはや感激です。この国のホスピタリティには感心するのです。一体このような現象はどこの世界にあるでしょうか?通常は私のところが一番安いから泊まりなさいと迫り、他の宿を教えることはないのです。本当に目を疑うかのような出来事です。だからいつもミャンマーに来てしまうのかも知れません。

さて、しばらくすると宿のお兄ちゃんが迎えに来ました。自転車の後ろに載せてもらって無事宿に到着です。部屋も広くきれいです。申し分ありません。明日は列車を利用してシボーまで行程を進める予定です。夕方の散歩を兼ねて外へ出かけようとすると、宿の主人がお茶をご馳走してくれました。何と気の優しい人々でありましょう。本当にミャンマーの旅は楽しくてありがたいものです。今日も1日感謝しなくてはなりません。

駅に出かけて明日の列車は何時にあるのか、切符の手配をどうするべきかで、構内をうろうろしていると、ギョロ眼の異様な風情のインド系の叔父さんが近寄ってきました。きれいな英語を話す叔父さんが何かと親切に説明をしてくれました。何しろ戦争中には、彼のお父さんが日本の兵隊の料理当番をしていたそうで、えらく日本ひいきのおじさんです。しかし、このインド人今はクーリーの仕事をしています。顔に刻まれた奴が彼の人生を語っています。親切にあれこれ世話を焼いても、金銭をねだられることもなく、後腐れもないさっぱりした感じを受けました。同時に寂しさも漂わせています。ここに一人の苦難の人生があったことでしょう。明日の朝また会うことが出来るでしょう。

明日は少しばかり早く起きなければいけません。シポーまでたどり着けば、そこで3泊

する予定となります。そうそうマングレーの事務所にスリッパを忘れてきたのです。今

度寄ったときに返ってくるでしょう。出発間際に少し慌てていたようです。

 

チャールズ・ゲストハウス(HSIPOW)

26November 1999

今日の朝は早く起きました。ともかく列車の旅に乗れることで気分がうきうきとしています。朝6時半におきるのはちょっとつらかったのですが、郷に入っては郷に従えという諺どおり、最近は早起きに対して抵抗がありません。この国では、交通機関は早朝夜明け前から動いています。長距離の移動は大概、6時頃の出発です。

7時過ぎには、メイミョウの駅につきました。7時半には駅長さんがやってきて切符の販売を始めました。料金は何と2ドルです。およそ6時間の列車の旅を考えると安いものです。列車は山の中をジグザクに迂回しながら走るおんぼろな列車です。縦揺れ、横揺れ、ありとあらゆる揺れが生じています。私のパソコンが大丈夫かと心配になります。

でも何とか無事なようです。ちなみに現在も問題なく稼動しているのです。やはりこのシャープのメビウスはなかなか立派な性能を誇ります。質の悪い電気を平気に食いながら作業をしてくれます。今の所安心して使えそうです。当分の間、快調に動いて欲しいものです。車内の光景は、すごいのであります。皆さん荷物をたくさん持って入ります。向かい側に座った若夫婦の麻袋には、畑から採れたての鞘つきの豆がどっさりと詰め込まれています。二人は仲むつまじく、袋からそれらを少しづつ取りだし、豆を取り出す作業を開始しました。膨大な豆の量ですから、遅々としか作業がはかどりません。器用に豆の鞘を外して、殻は窓の外へリズミカルにボンボンと捨てています。まったく気の遠くなる作業です。多分終点のラショーまで行くのでしょう。確か6時間以上かかります。それでも少しづつですが、豆の分量が増えています。いつになったら終わるのでしようか?

私は少しばかり風を引いているようです。体の節々がじんわりと痛んでいます。早く回復させないと今後の活動に支障をきたすかも知れません。

列車はきわめてゆっくりと山道を進んでいきます。予定から1時間程度遅れた様子です。しかし、客はまったくあせった様子も見せません。この路線は1日に2本しか列車が往復

しない場所で、時刻表を見ると、それぞれの駅での停車時間が多めにとってあります。ですから、数時間の遅れがあっても何処かの駅でそれを調整して出発しますから、大幅な遅れは生じることはまずありません。本当に優雅な走行で、日本の鉄道と比較しても意味がないかも知れません。根本が違うのでしよう。外観が違えば、内容も思考も大きく異なるのです。インドの列車も人の心を乗せて走っています。ここでも、同様な光景が繰り広げられています。

さて、朝早くこの国を観察すると、僧侶があちこちで喜捨を受けている光景を良く見かけます。この現象はどのように捉えるべきでしょう。色々な見方が出来ましょう。ある意味では、これは税金の一部と読み取ることも可能かも知れません。日本では、みんながどのようにして、納税を避けるべきかで頭をひねっています。先進国では、あらゆる面で税金がかかる仕組みとなっています。人々はどうしたら税金を逃れることが出来るか必死になってその節税方法を考えています。

それに引きかえこの国では、みんなが惜しみもなく僧侶へ、あるいは困っている人に手を差し伸べることを徳としているようです。日本の税金は官僚機構を通じて、社会資本に投下されたり、新しく始まる介護保険制度の原資となって、社会のシステムを構築していると言えましょう。同様にミャンマーにおいても姿や形は異なっても、宗教界に莫大な資金が流れ、それらが再び還流して社会に還元されているとも言えるでしょう。この視点に立つと、ミャンマーの人々は惜しみもなく税金をパンパンと払っているように映ります。

さてシポーの町は始めてですが、以外と小さな町です。列車から降り、人の歩いていく方向へぶらぶらとついていくと、ひとりでに街の中心にでます。歩き始めれば何となく感じがつかめるものです。「外国人には親切にしましよう」という英語の看板があります。街角で宿はどこにあるか聞くとすんなりと答えてくれます。昨日もそうでした。ともかくガイドブックがなくても何とか宿にたどり着くことが出来るのは、ここミャンマーの国です。

たどり着いた宿は一見立派そうですが、建物そのものは老巧化した簡素な木造2階建てです。でも掃除は行き届いているようで、トイレなども比較的清潔です。宿の管理人は物静かな老人で確かな英語を話します。料金も2ドルで高くはありません。それなりに感じの良い宿です。この町は何の変哲もないのですが、ゆっくりするには、もってこいかも知れません。カローの町と少しばかり似た雰囲気があります。しかし本当にミャンマーの人々は親切で正直な人々の塊でしょうか?少しばかり現地の会話が司に馴染むようになりました。これからもしっかりと身につくように努力をしていきたいと思います。

 

27November 1999

本日は宿を変更しました。有名なるチャールズ・ゲストハウスにやってきたのです。この宿の人は本当に親切です。私が少しばかりミャンマー語が話せるとわかるとやたらと現地語で説明をしてくれます。次第に私も耳が慣れてきたようです。かなり馴染むようになりました。そしてこの家の子供がとてもかわいくて、私になついてきます。チャールズさんは外人の間で有名らしく、名指しでこのゲストハウスに尋ねてくる客もいます。

以前はお茶のブローカーをしていたのですが、今はゲストハウスのオーナーです。彼の主催する朝の散歩が口コミで旅行者の間に広まって、何の変哲もない町が一躍有名になりました。今回は時間がないので、参加することは出来ませんでしたが、次回は彼のツアー(無料)にぜひ同行しようと思います。奥さんもいつもさわやかな応対をしてくれます。年頃の娘は、写真を撮りましょうというと、シャン族の衣装をまといギンギンで登場しました。

さて、早速自転車を借りて市内の散策を始めました。この村には、有名な滝があるそうです。それをめがけて、まっしぐらの大作戦を立てました。しかし、ここは、ミャンマーです。自転車をお寺の境内に預けて歩くこと約1時間。道なき道を遠くに見える滝をめがけて進むのみです。方向感覚の弱い人はすぐに道に迷う事となりましょう。行きはよいよい、帰りは怖いとでも言いましょうか? 田のあぜ道をつたわりながら、バナナ農園を横切りながら、まるで獣道を歩くことを余儀なくさせられました。でも何とか無事に到着です。道中人々の親切に助けられながらの道中でした。滝壷についたときは感激そのものです。地元の子供たちが水浴びに来ていました。彼らを含めた良い写真がとれました。地元の人々にとって、この滝への道は、道なき道を行くことになるわけです。

我々は有名観光地、天下の絶景ともなれば、必ず立派な道が整備されていると考えがちです。ここでは、無残にもそういった甘い考えは完全に打ち砕かれてしまうのです。苦労してこそ本当に良いものにありつけるのは真実かも知れません。

道中の作業小屋にたむろしていた学校帰りの子供たちに道を尋ねると、優しい面立ちで答えてくれました。1枚しか残っていないビスケットをそのうちの一人に渡すと、何のためらいもなく、それを等分して仲間に配っていました。この国の、人々の心の優しさはこんな小さい子供たちの心にもしっかりと宿っています。このことを日本の社会に置き換えれば、どのような結果となるでしょうか?子供たちは見知らぬおじさんから食べ物をもらうことは殆どありません。毒入りビスケットと疑われてもしかたのない日本の社会です。どうも過大評価なのでしょうか。今日も親切に満ち溢れたミャンマーにべったりと浸りそうです。

今日はシャンの人々の新年にあたるそうです。夜10時過ぎに、この宿にも祭礼のグループがやってきて10分間程ですが、歌と踊りを披露していきました。アジア地域での祭りには似たような傾向があります。ネパールでもこのような場に出くわしました。主に子供たちが、太鼓や楽器を持ち込んで各家々を回り、何らかの公演をしながら集めた資金は、後日の歓談の会費に充当するのでしょう。当方も少しばかりですが、寄付をいたしました。宿のおかみさんは、500チャット札を出していたようです。本当に明るく素直な空気に満ち溢れていました。ミャンマー万歳です。

 

28November 1999

今日は、ゆっくりとした日となりました。洗濯をして、市内をぶらぶらと散策をして、明日のバスの切符を買っての1日です。ようやく風邪も治り始めたようです。次第にこの国の言葉を理解出来るようになるのは、大変嬉しいことであります.もう一息というところでしょうか? さて、軍事政権のことですが、表面的には、平静を覆っているようです。この国は完全なる軍事政権とは言い兼ねる面をあちこちに数多く見受けます。宗教がまったく規制されずにいるのが大きな救いではないでしょうか? 国家の首脳が寺院で厳かに頭を下げることから地方視察の番組が始まります。欧米の制裁を受けて経済的なハンディキャップキャップを持つのは仕方ないとしても、人々の暮らしが、いや人々の心が安定していることこそ善政と言えましょう。今後のこの国の成り行きを見守っていきたいと思います。

このゲストハウスにはまったく感心します。木造の暖かみが伝わってきます。南京虫の予防を兼ねてなのか、殺虫剤の撒き過ぎなのでしょうか、2階の廊下はつるつるしています。フマキラーの臭いが鼻につきますが、本当に、のんびりとくつろげる空間が用意されています。日当たりの良いバルコニーには、中国茶が常時飲めるように配慮されています。藤製の長椅も何台か用意されています。今後ここは、ひとつの休息を兼ねた旅の補給の地になるかも知れません。外人客や日本人客の出入りが多いようです。長期滞在の人々もいます。メコンという雑誌に載っているので、多くの旅人が、やってくるようです。欧米人の旅のバイブル、ロンプラにも載っています。

今回この町で写真を150枚以上撮りました。市場の光景を始め、屋台の風景、人々の顔など盛りだくさんです。ミャンマーの人々はその大半がどこにも出かけることなく人生を終わっています。いつまでも純真な表情を崩すことなく、天国へと導かれていくのでしようか? 濁った顔、淀んだ顔を見かけることはありません。さまざまな事柄が脳裏に浮かんできます。

ここで日本人がデジカメを持っていたので、その画像を貰うこととなりました。確かに良くとれています。驚くばかりにきれいに取れています。私のカメラが何となくばかばかしくなって来ました。 来年は良いカメラを持って旅に出かけることとしましょう。とくにパガンの壁画は完壁にとれていました。 拡大して眺めてもまったく無理はありません。今後のノウハウが次第に身につくようです。

 

29November 1999

今日は、シポーからマンダレーに向かいました。出発時間は早朝6時です。ミャンマーの旅はこのようにして、時々朝早く出発することを余儀なくされます。ともかくこの町からマングレーに行くには、3社のバスが運行していますが、いずれも早朝6時が出発なのです。仕方なく今日は早起きとなりました。まだ、太陽が昇らない時刻です。街灯の明かりの中をバス停に向けて歩き始めました。この時刻になると、もう人々が活躍し始めています。市場には、ローソクをつけたまま商売が始まっています。自転車で人がうろうろし始めています。バス停付近の茶店は、もう開店しています。同じバスに乗る人々でしょう。時間待ちを兼ねてお茶の時間にしています。さて、バスは定刻を10分ばかり遅れて出発しました。のんびりとしたものです。バスは満席でもなくいくつか空きを見ることが出来ました。さて、このバスの座席は異様に高いのです。日本で利用していた市内バスを改造しての特注品とでも申しましょうか? 座高を高くすることで、荷物をその下にたくさん積みこめるように工夫がなされています。

しかし、その反面バスが悪路にさしかかると、荷物棚に頭を打ちつけそうになります。40センチばかり座席の足を高くしてあるので、足が床に届きません。確かにこれは、不安定なものです。おまけに座席の幅が狭く、お尻の置き場所がありません。こんな状態で数時間もバスに乗るのは大変なことです。 しかし現地の人にとれば、きわめて日常的な現象です。バスの後部は完全に貨物専用席となり、座席は取り外されています。 貨客バスと呼んでも差し支えがありません。 ともかく異様なる車内にこれぞ、ミャンマー方式と感嘆の目を向けるばかりでした。

道中しばらく走行していると、検問所にさしかかりました。 ここでは、マリファナなどの薬物の摘発に一役かっているそうです。このあたりは中国との国境の通過地点にあたります。 相乗りタクシーが荷物を満載して、マングレーから中国方面に向けて走り去っていきます。最近ミャンマーを訪問する観光客の中で中国人が増えてきたそうです。彼らは私よりもたくさんお金を落としているはずです。

なるほど、このシポーの町は物価も安く、中国系の家と思える看板を多く見受けます。本当にシポーの町は物価も安く、のんびりとくつろげる宿に滞在することが出来ました。この町のフアンになりそうです。

さて、バスは田の道をかなりゆれながら走っています。 本当に無事マンダレーまで走りきるものでしょうか? その一抹の不安があたりました。メイミョウを過ぎ、しばらく行ったところでタイヤの調子が悪くてとうとうダウンしてしまいました。マンダレーまで後一時間程度で到着すると言うのに-。幸いに通り掛かりのピックアップが代替となり、乗客を市内まで運んでくれました。 結局マンダレ一に到着したのは、予定時刻の一時を2時間遅れて3時過ぎとなりました。まあ値段も500チャットです。日本での市内バスの料金と変わりません。それで、延々と9時間もお世話になるのですから、料金は格安と言えるでしょう。

今日は、アジア・キング(友人の会社)の事務所で泊まることとしました。マネージャーが何かと面倒を見てくれます。食事は無料、宿代も無料です。数日後に予定しているヤンゴン行きのバス切符を買うのに、発売所までバイクを利用して一緒に出かけました。その途中に銀行に寄ったのですが、いやはや驚きです。立派な建物ですが、やたらと事務員のお姉さん

たちの多いこと。このフロアには、ざっと30人がひしめきあっていました。最近の日本の銀行は中に入っても、機械が並んでいるばかりで職員の数は少なくなりました。日本の銀行がこうだとしたら即破産するに違いないでしょう。シンガポール系の資本の入った銀行でミャンマーの特殊な一面を垣間見ることとなったのです。

 

モ二ユワ・ゲストハウス(MONYWA)

30November 1999

今日はマングレーからモニユワに移動です。昨日はバスの切符を購入しました。2日間の滞在をモニユワにすることとなったのです。バスは所要時間が約4時間です。日本製のおんぼろマイクロバスは、高らかにうなりをあげているわりに、スピードは上がっていないようです。大平原の中を満席のバスは快走中です。今回も何のトラブルもなく、終点に到着したのですが、あっと言う間に力車に囲まれ唖然としてしまったのです。町から市内までは3キロほどあると話を聞いていました。初めての土地ですから、最初から力車を頼む予定でいました。 何やかやとミャンマー語で話しかけてきますが、ちんぷんかんぷんです。その中で一人だけ英語を話す力車ドライバーがいました。「政府の協定で、サイカーは、1キロ60チャットです。市内までは3キロですから、180チャットでどうですか?外国人の泊まれる宿は三つあります、その中で一番安くて清潔な宿へお連れしましよう。」

マングレーからモニユワまでのバスの料金が200チャットなのに、市内に行く3キロの料金が180チャットというのはどうも疑問です。結局値切って100チャットで手を打ってもらいました。地元の人に聞いてみると、適正料金は60チャットから70チャットだそうです。おまけに、私は、この力車マンには、お茶までご馳走しました。いやはや物事の価値観は多様性を持ってみなければいけません。

この宿の若い連中は大変親切そのものであります。陽気で話が好きで、きさくにつき合ってくれます。最初はテレビとソファーと冷蔵庫のついた豪勢な部屋を紹介してくれました。いやもっと安い部屋で結構というと、次は5ドルの部屋を案内してくれたのです。この部屋も冷房が効いていますから快適です。しかも朝はたっぷりと朝食がつくそうで、これに期待をかけて即宿帳に氏名を記入しました。チンドウイン川とイラワジ川の合流地点にあるこの町の探索は、明日ゆっくりとしましよう。

 

01December 1999

ここの宿の朝食はすごく派手な飾りがしてあります。遊び心をたっぷりと仕込んだ楽しい絶品の朝食でした。 いやはや、珍しい細工に感心しました。おまけに、この宿の奥さんはおしゃべりが好きで、次から次と話しかけてきます。私のブロークンなミャンマー語と彼女のブロークンイングリッシュの波長があっているとでもいいましょうか、双方ともに英語とミャンマー語をまぜこぜにして話しが弾みました。

日本から富士山の写真を送って欲しいとささやかなお願いがありました。 彼女は、「もし、値段の高いものだったら受け取るわけにはいきません。価格が安ければ、お願いしたいのです。」とものすごく控えめに用件を伝えるのです。これは、一般的なミャンマーの人々の感覚です。 知り合いとなって何か依頼されても、無理な要求をされたことはありません。

旦那が先週からヤンゴンの病院に入院して、心臓病の治療を受けているとのことです。 元はシャン族の出身で、家元はシポーの手前チャメだと言います。お兄さんは船の技師としてヤンゴンで仕事をしているそうです。 大変かわいいのが、ミーミーレー (サニー・チャイルド)なる愛称で呼ばれている2歳の男の子です。本当にミャンマーの子供たちの目は明るくて、澄んでいます。 子供の写真を撮っていると、あっと言う間に朝が終わりました。次いでにおばあちゃんもモデルになってもらったのです。日本でいうと3世代同居の微笑ましい家族に見えます。

午後は、宿の若い兄ちゃんが一緒に日本人墓地に案内してくれました。 途中で本人の家にも立ち寄りました。高床式となっていて、2階部分が住居という、このあたりの典型的な造りです。

日本人基地にはしっかりと日本語で慰霊文が刻み込まれていました。 太平洋戦争の頃には、数多くの日本人兵士がここで、命を落としたことを今も伝えています。そして、隣には、ミャンマー様式のお墓がいくつも並んでいました。 しかし、お墓の目の前は巨大なごみ捨て場となっています。 これでは、死者の魂は安楽に過ごせないのではないかと思いませんか? だけど何故お墓とごみ捨て場とが一緒になっているのでしょうか? ミャンマーの謎

のひとつなのです。 パゴーも確か同じだったと思います。 墓地のある土地は幽霊が出没

するとして恐れられています。 だから人々が寄りつくこともなく荒れ放題となるのでし

ょうか? 私たちの感覚では、お墓は大体お寺の境内にあるか、共同墓地にあるかして、常に清潔に保たれています。 ここでは、一体どうなっているのでしょうか?今度誰かに聞いてみることとしましよう。

この宿では、インドのビハール州から来ている旅行者に会いました。久しぶりに私のヒンディー語がでました。何となく、すらすらと会話が出来て嬉しいものであります。 彼の話を聞くと、インドはそんなに住み良い国ではないようです。 民主主義であっても、一般大衆は決して幸せにはなれないと断言します。 まったく同感です。ミャンマーは軍事政権ですが、人々の生活は、インドより幸福だといいます。 最近パキスタンは汚職の充満する現体制を嫌って軍事政権に逆戻りしました。 国民もそれを容認しています。どうも世界は民主主義一辺倒では解決しない部分も多くあるのではないでしょうか? 西側諸国から非民主的な国家だと非難されながらも、この国は成り立っています。 ゆっくりですが、経済的な発展も各分野で伸び始めたようです。交通の便も日増しに良くなっています。まだ訪問していない地域がいくつもあります。北部のミツチ-ナも魅力があります。 ラカイン州のミヤウ-の遺跡はまだ訪れていません。来年も必ず訪問することとしましよう。

持ち込んだ私のパソコンは結構仕事をしてくれます。ミャンマーの電気がピリピリするたびに心臓が止まりそうになります。幸いに今も調子よく仕事をしてくれるので助かります。今回のミャンマーでの電気事情は前回に比べると良好です.昨年、マンダレーに滞在したときは電気の供給が1日おきとなっていましたが、今はそんな制限もなくなりました。 デジカメも活躍していて、もう400枚以上の写真を撮りました。あっという間にメモリが少なくなっていきます。しばらくしてから、CDにデータを引っ越しする必要があります。今回のフルセットはかなりの重量がありますが、機能は抜群です。強いていうならば、デジカメの性能の良いものが欲しいところです。また、マイクロカセットか、デジタル録音装置(MP3)が必要だったかも知れません。さまざまな音声を録音し、現場にいながらマルチメデア版旅行記の作成も夢ではありません。

ミャンマー語の感覚は確かに日本語に近いものがあります。単語をしっかりと発音出来るようになれば、かなりの意思疎通が可能となります。単語の配置も日本語と同じで、助詞、助動詞などの用法も似ていますから慣れると一気に進展します。これで少しばかり私も語秦が増え、ミャンマー語が板について来ました。我ながら驚いています。今後もしっかりと努力していきたいと思います。

さて、この町の市内とバス駅を結ぶのは10チャットの乗り合いトラックがあるとのことでした。ちなみにサイカーの料金は60から70チャットが相場です。来る時には100チャットも払いました。ちょっと高いなあと感じました。この町は他のミャンマーの町同様、至るところにサイカーがたむろしています。どうも供給過剰を感じてなりません。それでもミャンマー経済の原動力の一端を担っているのでしょう。サイカーがないと不自由する人がたくさんいます。 反面サイカーの運転手たちは、いつも閑そうな顔をしているのです。

今日も1日終わりました。少しばかり休憩を兼ねての滞在となりました。冬といえども日中の日差しはかなり強いものがあります。明日はモニユワからマングレーに行き、さらにバスを乗り換えて、夜行バスでヤンゴンに帰る予定です。バスは確か4時間程度でモニユワからマングレーまで結んでいます。マンダレ-を夕方5時出発のバスには充分間に合うでしょう。

 

ホワイトハウス(YANGON)

03December 1999

宿についたら金沢の松本氏が先に到着していました。彼なりに大変旅を楽しんでいるようで、私の紹介したOASISという宿も利用したそうです。とくにパガンはお気に入りの場所か。マングレーからパガンへそして、インレー湖という典型的なコースを取り、最後はゴールデンロックで有名なチャイトーへ向かったそうです。ヤンゴンからチャイトーに行くバスはカラオケバスだったそうで、何事にもどっかりと構えている彼もさすがに度肝を抜かれたそうです。日本製の中古車は古いといえども、中には車両の後部に安全対策のためにビデオカメラが装備されているのもあります。 観光バスの中古品となると、種類多くの付属品が付いているものです。それらを取り外してミャンマーに送ると、取り外す費用だけでもコストがかさみますから、いっそのこと、そのまま送ろうということになったのでしょう。現地で、それをうまく利用しているケースを見かけます。

マイク一式を利用し、車内放送で「今回はご利用ありがとうございました、まもなく食事の時間です。30分間を予定しています。」とマイクを通して肉声で流れてびっくりします。カラオケバスは人気の的でいつも満席のようです。しかし、ミャンマー語には3種類の声調がありますから、音楽の高低と混ざってどのような按配になるものか一度体験したいものです。

久しぶりに楽しい話をすることが出来ました。彼にとって2週間のミャンマーは、あっと言う間に終わったそうです。ミャンマー語も多少上達したようです。明日はバンコクから一緒に乗り込んだ松永さんもここに帰ってくるでしょう。彼も2週間の滞在予定でしたから。

ミャンマーの人々の間でもヤンゴンの在住回教徒は、ラカイン州に行くことが出来ないという事情を抱えています。またラカイン州の回教徒はヤンゴンに来ることが出来ないそうです。これは、バングラデッシュからの経済難民を防ぐ政策のようであります。仏教徒は問題ないそうですが、自分たちの国であっても自由に往来が許されないという不幸な一面があります。しかし、私達(外国人)は自由に出入りが出来るのが幸いです。

 

04December 1999

昨日は、ヤンゴンで金沢の松本さんからいろいろと楽しい話を聞かせてもらうことが出来ました。彼は彼なりの旅を楽しんでいるようです。我々4人はヤンゴンへ向かうときは一緒でしたが、私だけがヤンゴンに残りの3人はそれぞれ、カトマンズとバンコクへ旅立ちました。まあ誰も、事故や大きな問題に遭うこともなく、快適なミャンマーの生活を満喫した様子でした。本当にご苦労様でした。

今日は日本からメイルが到着していました。飯田さんからの連絡です。ともかく日本はで雪がちらほらとして大変寒そうです。所でこのメイルのシステムは1週間後に政府から利用差し押さえの命令が出て、現在使用不可となりました。軍事政権は情報の流出を警戒しているようです。でも情報のコントロールは現在の国際社会ではとうてい不可能なことです。ミャンマー政府が衛星放送の一般供用を法律違反としているにも拘わらず、多くの家に屋根にはパラボラアンテナが立っています。友人の家は、テレビのチャンネルが20以上あり、世界中の番組を楽しんでいます。政府が規制していても衛星放送解禁ではないはずなのに、番組表が本屋さんに出回っています。

今日は少しばかり買い物をしました。海賊版のCDを三枚4,500チャットで購入です。1枚1500チャットです。ざっと600円程度と言えましょう。これが、タイランドでは、200バーツです。すなわち6ドル程度です。どちらも同様な価格なのです。いやはや、正規の料金では、数万円するものが、ここでは、何と600円で手に入るのです。どうせこの国はアメリカから経済上の制裁を受けている国です。アメリカが主体となって守ろうとしている、知的財産所有権の法的規制などあるはずがありません。隣のタイランドではアメリカの政策に追従したかたちで、時々海賊版の一斉摘発を行うのですが、ここまでくると完全に治外法権です。マーケットで苗から親しくしている靴屋さんに立ち寄りました。アリという店員に土産として腕時計を渡したら家族中が大変喜んでくれたそうです。まじめそうな青年です。

これからも彼らがどのような人生を歩くものか、見守っていきたいと思います。同じ場所を旅すると、そこに住む人々がどのような人生を歩んでいくのかを知ることも出来ます。その国の個人の生活の発展をもとに、現地の文化をいっそう深く追求することにもなります。10年以上も前に知り合ったバングラデッシュの友人、カリムはその後どうしているのでしょうか。時々カレンダーが届いたりして交流が続いています。 数年前に結婚したという便りも届きました。今でも銀行の小遣い役として仕事をしているようです。今回こそ会うことが出来ましょう。そのときには、いろいろと話が弾みそうです。 だからいつまでも旅を止めることが出来ません。

結論としてミャンマーは本当に良い国だと皆が評価しているようであります。今回のバングラデッシュの飛行機に乗り合わせた4人はめでたく再会して、過去2週間の思い出をお互いに披露しあっています。それでは、今日はこの程度で終わりにしたいと思います。

 

パンガバー・ゲストハウス(PYE)

5December 1999

本日はヤンゴンからイラワジ河畔の町ピーにやって来ました。5時間のバスの旅は300チャットですから、日本円に換算しても100円はしないのです。どうもこの国の物価感覚をつかむのは難しいことです。宿はいつものとおりパンがバーです。私のことをいろいろと覚えてくれていました。本当に安らぎの宿のひとつなのです。蚊が少しばかり多いのと、トイレが古い言った点に苦情があります。しかし、ここの宿の人柄は本当に明るく、素直で何度訪問しても気持ちの良い場所なのです。いつも笑顔で応対してくれます。昨夜は8名の外国人がいたけど、全員出発して今日は私一人だそうです。私の泊まる部屋は冷房装置があるのですが、今日は6時から電気が来ませんからそのつもりでお願いしたいとのこと、ろうそくまで手配してくれました。この部屋は仏様もご一緒の特別室です。ありがたいような泣きたくなるような気持ちで胸が詰まります。外国人の宿泊許可書を獲得するには、いろいろな基準があるようです。トイレが洋式とか、クーラーの設置など細かく定められているようです。その基準に達するぎりぎりの投資をしているのでしょう。そう言えば、ヤンゴンのホワイトハウスも観光省の検査があるからといって、大部屋のベッド数を半分にしてみかけは検査がパスするようにしていました。

確かミャンマー観光年の1996年の年末に出かけたときは、この宿のドミトリーは20人以

上が詰め込まれていました。今はベッド数を半分にし、使わないベッドを積み重ねて布をかぶせていました。ミャンマーの現地人が利用する宿の多くは売春宿を兼ねているとの話です。外人専用の宿では、こういった行為を慎むように配慮したのでしょうか、宿によっては、外人専用フロアがあり、ここの床はタイル張りでピカビカ磨きがかかっています。が、現地人フロアの床は板を張ったままです。政府が外人観光客に対して見苦しい部分を隠そうと必死です。今日は電気のこない日です。発電機を回して家族がビデオを楽しんでいます。私のミャンマー語もかなり通用するようになりました。バスに乗ったり、食事をしたり、買い物をしたりなどは現地人と同様な感じで受け答えが出来るようになりました。益々味のあ

る旅が出来そうです。

 

6December 1999

今日は予定が変更となりました。 昨年運行していたはずのピーからタンドゥェへの昼間

のバスはありません。仕方なく、ちょっとつらいけども夜行バスを利用することとなりました。宿で切符を申し込んでも、直接買いに行っても料金は同じです。夜9時出発の小型マイクロバスです。明日はンガパリに到着出来るでしょう。しばらくの間浜辺でのんびり休憩するのも時には良いでしょう。今回もいくつか新しい土地を加えることとなりました。まだ日数が残っています、人のあまり行かないところを訪問してみたいと思います。さてタングップから北のシトウェに向かうのも魅力です。

ラカイン州の州都シトウェに行くにはピーからヨーマ山脈を横断し、タングップから新しい船のサービスを利用して行くことが出来ます。料金は4,500チャットするそうですが、これは、旅行者も地元の人々も同じ料金だそうです。目的地には9時間後の到着とかです。今までは1泊2日かけて政府のスローボートで入るしかなかったのですが、この国も徐々に交通機関の整備が進んで来ました。料金が少し高いのですが、次回訪問するときはぜひこのルートを利用してみたいと思います。ともかく、幻のミヤウ一には、必ず出かけてみたいと思います。後日ヤンゴンの空港でこの船を利用したイタリア人に話を聞いたら、45ドル支払ったそうです。行くときはタンドゥェから50ドル出して飛行機で飛び、帰りはスピードボートを使ったそうです。さて実際はどうなのでしょうか?

昼ご飯はタミル系の食堂に入りました。ここは、昨年も立ち寄っていますから顔なじみです。食堂の旦那が夕方4時頃くるようにと、声をかけてくれました。小さなタミル系の社会ですが、私を大きくもてなしてくれました。歩いて5分程度の場所に同じタミル系の友人が経営する軽食(ド-サ)の店があります。そこで彼ら自慢の南インドの味をご馳走になり、お茶をご馳走になりました。友人の家によって親戚の結婚式の写真を見せてもらい和やかな談笑のひとときが過ぎていきます.彼らはミャンマーに住んでいても、お嫁さんがインド人だったり、新婦がインド人だったり、国際結婚に対しては日常的な出来事のようです。彼らの場合は同じ文化を持った人々同士の結婚ですから、摩擦が少ないのでしょう。時には、タミル人とミャンマーの女性の組み合わせも見かけることがありますが、日本のように大騒ぎはしないようです。いやはや、ミャンマーのほうが日本よりも精神的には、成熟し国際化しているかも知れません。本当に気の良い主人でした。 感謝の気持ちでいっぱいです。 だから、ミャンマーの旅は忘れることが出来ません。

また、このパンガバーの宿は夕方までチェックアウトを伸ばしてくれます。宿のマネージャーMR.SHWEからコーヒーの差し入れがありました。

バスの出発は夜の9時ですからまだ時間はたっぷりあります。バス駅と市内は数キロ離れています。この時間だと市内バスも動いていませんので、宿専属のサイカーを利用することとなりました。特別料金なる100チャットで交渉が成立しました。気の優しそうなお兄さんです。この町はサイカー専用レーンが設定してあります。このレーンはサイカーと自転車専用ですが、真っ暗なところを猛スピードで走行していきますからハラハラしっぱなしです。 私の目が悪いからでしょうか? 前方が暗いのにもかかわらず何台も追い抜きをかけていくのは、まさしく神業に近いものを感じてなりません。マイクロバスは車内に荷物を満載して出発です。ミャンマーの人々にとっては、カーゴバス(貨物バス)という概念が発達しています。 すなわち、バスは人間を運ぶだけのものではなくて、荷物運送も同時に行うものなのです。 明日からはンガパリで、のんびりすることにしましよう。

今回も写真を100枚程度追加しました。いつの間にか、画像は500枚を超えてしまったのです。今後どんどん増加していくことでしょう。早く、写真の整理をしなくてはいけません。単に並べるだけ、集めるだけならば、誰にでも出来ることです。多くの画像情報から必要な部分を手早く取り出してこそ、情報としての真価があるのは疑う余地はありません。一刻も早く撮影した画像の整理をしなくてはいけません。

 

リンターウー・ゲストハウス(NGAPALl)

07December 1999

今日は夜行バスでンガパリに到着しました。海の潮の音を聞きながら快適な時間が過ぎていきそうです。今のところ順調に旅が進んでいます。今日は12月7日です。早速宿のマネージャーに夕食を招待してもらいました。話をしている間に何となく親しくなって、「ご一緒にどうぞ」ということとなりました。この土地では、海草を食べるのには、驚きました。海外の旅で始めてです。イカや蛸を食べることがあっても、今回のように日本でいう、モズクのような味のするカレー風味の酢の物をご飯のうえに載せて食べるのははじめてでした。その他、乾し魚を油で揚げたものなどが登場し、ちょっと珍しいものを食べたのです。

この宿の受付のお兄さんはいつも陽気です。お坊さんになったことは2度あります。 始めは1ケ月、その次は3週間でやめたそうです。何しろおなかは減るし、どうしても、彼女のことが頭に浮かんでしまい、熱心にメディテーションに浸れなかったと経験談を語ってくれました。英語はかなりたんのうです。現役の大学生で法学専攻とのこと、毎年少なくても一度はヤンゴンに出て学業継続の手続きをとるそうで、ここンガパリとヤンゴンしか知らないそうです。

ミャンマーの人々はどうしてこう明るいのでしょうか?昨日乗ったバスの車掌は、何度も何度もアリガトウと口癖のように言っていました。街角でも、人々の話の中でも、アリガトウを良く司にすることがあります。本当に楽しい国なのです。

宿の電気は自家発電です。白熱電球がちかちかしています。はたして私の大事なパソコンは大丈夫なのでしょうか? 何ともなければ良いのですが?相子の木のそびえる中に建つバンガロー住まいは快適です。浜辺には、専用のサンチェア-が置いてあります。ここに寝そべるのはたいがい外国人です。現地の人々は日焼けをしようという考えはありません。夕方日差しが弱くなったころになって、服をきたままタイヤのチューブを利用した浮き袋と共に、海水の中で戯れるのが彼らの海辺での過ごし方です。となると、若いカップルは、昼間は何をしているのでしょうか? 白い砂浜が延々と続き、人影もまばらです。日本の海水浴場とは全然違います。 隣のタイランドの浜辺のように、マリーンスポーツが華やかに看板を挙げるわけもなく、ひっそりとして落ち着いたビーチリゾートといえるでしょう。

この宿リンターウーの名称は、リンター村の端という意味だそうです。今までの宿に比べると少し割高感がありますが、この場所でこの設備であれば、仕方ないでしょう。快適な環境にあると思います。

さて、ミャンマー航空の路線は政府関係者に占拠され、切符の入手は大変困難とのことです。その反面エアーマングレーは民間需要を引き受けているのですが、ここには、プレミアムがついて、結局ヤンゴンとタンドゥェの区間は片道が80ドルもすることになっています。本当に困ったものであります。

さて、ここで昼の間はネパールの記事を仕上げようと思いましたが、電気の事情が悪くて事は進行しません。しかし、強烈な太陽の下では、ソーラーの発電装置が重要な役割を果たしてくれました。装置をバッグに括り付けて浜辺を歩いていると、勝手に充電してくれますから、電池切れから解放されて、とうとう250枚ものンガパリの写真を撮ってしまったのです。整理が大変です。インド東北部の記事もまだ仕上がっていません。しなければならない事が多く残っています。昨日は、ピーの宿で手紙を10通仕上げました。近況報告と新年の挨拶を兼ねて、ヤンゴンからまとめて送付する予定でいます。お正月が近くなって来ましたが、南国にいるとそんな気配はまったく伝わってきません。

 

08December 1999

今日も1日ゆっくりと休憩出来ました。ここは、大変いごこちの良い場所です。朝は宿のオーナーの友人がビデオカメラを持ち込んでその使い方の講習会をしましたO私が職業の欄に技術者と書いたことで、すっかり信じ込んだのでしょう。日本人は賢いから何でも出来るという先入観も強い人々です。私はまだ、ビデオカメラなど操作したことはありません。持ち込まれたのは、15年ほど前の型遅れのソニーの製品です。現場で再生しても、白黒でした見ることが出来ないモデルです。しかも、べったりと日本語で事細かく表示がしてあるのが、彼らには何の事かさっぱり分りません。その部分に説明を加えると、ステッカーにミャンマー文字を記入してべたべたと貼付けました。自称カメラマンの作品を覗くと、それなりにこの宿の様子が撮影されていました。使い方が良く分らなくても見よう見真似で何とか操作していたようで、その努力には感服です。そうこう説明をしている間に何かしら朝のお菓子が登場しました。何とも優しい人々の集まりです。私のカメラも大活躍で、写真もたくさんとることが出来ました。アルバムにはすでに600枚以上が集まりました。早くデータベースの形式にしなくてはなりません。

本日は午前10時過ぎまで曇りでしたが、それ以降は真夏の日差しがきつくなりました。お蔭様で肌が真っ黒になりそうです。ここには、客の置いていった本を集めてミニ・ライブラリを開いています。その中には日本の文庫本がありますから、それをゆっくりと読むことにしましよう。 浜辺を散歩すると遠くで地引き網をしていました。 これもばっちりと写真に収めることが出来ました。さて、予定はどうなるのでしようか?しばらくの間、このようにしてゆっくりと休憩するのも大切なことです。 ここは本当にのんびりと出来る場所のひとつです。いやミャンマー全体がのんびり出来る場所かも知れません。

この宿の受付のお兄さんは、とても陽気な人です。いつも笑顔を絶やすことなく仕事をしています。大体ミャンマーの人々の多くがそうです。日本人の場合はストレス過剰が顔に現れているのですが、ここミャンマーの多くの人々は、屈託のない顔をしています。持って生まれた天性ともいうべきでしょうか?

本日ここで、夕食を取りました。海老の野菜妙め、ご飯、そして水を注文したら合計520チャットしたのです。結構高い値段です。しかしこの価格を日本円で換算すると、200円になりません。現地での生活になれると、大金に映るのです。一応予算は組んでありますから、何とかやりくりが出来ます。後2日間この宿を利用する予定でいます。それからは、ローカルな食事が続くでしょう。

今回も大体予算の範囲内です。ネパールのビザに50ドル払い、ラーマンさんの土産としてウイスキーの代金が20ドル、その10ドル分ほど宿代を支払ったときにお釣りとして、ドル札で返って来ました。その他に海賊版のソフトを4本求めました。これには、6,000チャットすなわち18ドル程度かかっています。まだ少しばかり残りそうですが、今回も前回同様、FECとチャットの使い分けは正解だったようです。次回はぜひともシトウェに挑戦したいものです。そこへ出かけるには最低2週間は必要かも知れません。じっくりと時間をかけて訪問したいものです。また、カルカッタのアラカン・コネクションを何とか利用して、さらに意義のある良い旅をしたいと考えています。

私がパソコンを操作していると、スウェーデン人とノルウェー人が珍しそうに、のぞきこんでいました。これがきっかけとなり話しが始まりました。一人は大学生で、えらく熱心にパソコンのことを聞いています。当初、彼らは私をタイ人と思っていたようでタイ語で挨拶をしてくれました。さて、北欧の事情もかなり、厳しいようです。税金はともかく55%徴収される仕組みとなっています。その分社会福祉が進んでいることは事実です。独身で何もしない人には、1ケ月1,000ドル支給される制度があります。このお金を受取ながら、隣のノルウェーで税金を払わなくても良い仕事をして、さらに収入を上げることが可能だそうです。8%の人々が失業中ですが、その4割程度の人々は真の失業者ではなくて、これらの規則を巧みに利用して、国外で稼いでいるそうです。日本人で失業保険をもらいながらアルバイトをして稼いでいるのに類似しています。さらに、消費税は20%にもなるとの話でとても大変です。パソコンを外国で購入して持ち帰っても入国時には、それが税金の対象となり、国内で購入するのと変わらないそうで、がんじがらめで抜け道を探すのに必死です。香港やシンガポールでの販売価格をうらやましがっています。信頼のおける外国人に頼んで、持ち込んでもらうしかないようです。こうなると本当に労働意欲が沸くものでしょうか?今後の政策に大きな問題を提起しているようです。今後の日本も同じような問題を抱えつつあります。どうなるのでしょうか?

国の政策、立案に左右されて今後の方針が大きく変化していくことは間違いありません。高齢化する社会に対してどのような方針が最善なのか、難しい選択に迫られているようです。

今日は6時から10時半まで、メインラインすなわち、政府からの電気が供給されました。その間はTVが放映されています。さて、明日も1日この宿でゆっくりと過ごしたいものであります。 電気のこない日はお経の暗諦する声が響き渡るホールは多目的に利用されています。

 

09December 1999

今日の朝、花の写真を撮影していたら、「一緒にタンドゥェに行きませんか?」と、宿の人が声をかけてくれました。早速便乗して、町へ出かけました。そのお蔭で市場の写真を撮ることも出来ました。それにしても、何と屈託のない、楽しい人々なのでしょうか? まったく安心して身を任せることが出来ます。本当に快適な日々なのです。 今回はこの村で写真が200枚程度撮ることが出来ました。いや良く出来たものであります。 本当に人々の微笑みに満ちた国です。昔のスリランカのことを思い出します。最近はスリランカへ足をいれるのが、少なくなりました。私が頻繁に行き来を始めた1980年代初頭は何と素朴で陽気な気質だと感心していたのが、あっという間に大きく変化を遂げました。次第に人々の心は経済至上主義となり、彼らの微笑みには、必ず裏が潜むようになりました。社会主義体制から自由主義体制への急激なる移行もその理由のひとつでありましょう。他にこの国の場合は諸外国との関連がその国の歴史を通してあまりにも、多く関わっていたことも挙げられると思います。この点がミャンマーと大きく違うのではないでしょうか?

ミャンマーとランカの差異を分析してみるのも、面白いテーマではないかと考えます。ともに仏教国でありながら、どうしてこのように違いがあるのでしょうか?学生の卒業研究課題のひとつとなりましょう。浜辺でヤンゴンの書店で求めたアラカンの本を読めば読むほど興味が沸いてきます。来年は絶対にアラカンの土地を踏んでみたいと思います。

この宿の人々は誰もが親切です。とくに私が片言ながら、ミャンマー語を話すことを知ってか、一層親しみを感じているようです。他の外国人とは、仕事としての会話はあっても、私のように無駄話の相手はしていません。 徐々に私のペースになりつつあります。

もう一声というところでしょうか? ましてや、今回はこの家の人々の写真をFDに収めて20枚分をきれいにまとめて差し上げました。ンガパリは電話事情も悪く電気の供給もおぼつかないのです。近代化には程遠い存在なのですが、それでもこの場所にふさわしい生活のリズムが残っている様子を感じます。近くの人々は皆知り合いです。撮影したばかりの写真を見ても「ああこれは、だれそれだね。」といった具合にすぐ返事が返ってきます。 ひとつの安定したコミュニティを感じさせます。このゲストハウスは、全部で45人の従業員がいます。何人かは家族全体で住んでいますから、当然に子供たちも多く住んでいるのです。家族中住み込みでこの敷地内にいるのです。毎日が本当に楽しそす。一種の運命共同体に見えてきます。宿のオーナーはさぞかし、このグループの酋長的存在となるのでしょうか?

先日浜辺で海老探りをしていた少年がいました。彼もこの宿の家族従業員の一人なのでしょう。それにしてもあんな単純な方法で魚をとること自体が信じられませんでした。 世界には、まったく単純な漁法もあるものです。また、別の場所では子供たちが貝を採っていました。これもきわめて単純な方法です。ともかく、今のところこの国は、自然が満喫出来る唯一の場所かも知れません。夜になると、漁り火がこうこうと輝きます。

夕日もきれいでした。波の音も快適です。本当に安心快適なる日々です。 明後日は少しばかりハードな生活となりそうです。それも時には、良いでしょう。波の音が静かに響いています。

そうそう、大事な情報です。シトウェからタンゴックへは、マリカエクスプレスという新しい船が運行を開始したようです。毎週木曜日と金曜日にタンゴックを出発し、月曜日と火曜日にシトウェを出発するそうです。この船は9時間で結んでいるそうで、料金は外人も現地人も同一価格で少しばかり値が張りますが、4,500チャット(14ドル)必要とかの話です。絶対この船に乗ってみたいものです。多分どこかの国の中古船を利用しているものでしょう。距離は360キロほどあります。大体このコースはピーから出発するのが妥当でしょう。

 

10December 1999

今日も1日ここでのんびりしました。海岸線の北側を探検です。大変親切な人たちです。朝はモヒンガ-をご馳走になりました。また、とても大きなココナツも差し入れとしていただきました。おなかはいっぱいになります。明日はいよいよお別れです。隣のレストランへも足を運びました。ここでは、コーヒーが40チャットで飲めるのです。以前大手のホテルで仕事をしていた兄さんが新しく自分で店を開いたようです。今年の11月から始めたそうです。時々外国人が利用しているのを見かけます。隣のホテルの従業員が軽食を取りにきたり、お茶を飲みにきたりしています。まったくのどかな光景です。

この宿の従業員のしつけは大変気持ち良いものがあります。今日の朝はシーツの交換をしてくれました。明日は出発だと言うのに、丁寧に枕カバーやタオルも交換です。部屋も掃除してくれましたが、灰皿を交換するのを忘れたようです。夕食の時にチップを少し出したら、心からありがとうといってくれました。インドやネパールなどとは、大きな違いがあります。あちらの国々では、チップがないととたんに不機嫌な顔をしますから。

さて、夕方写真を整理しました。事はついでで、新年の挨拶状を作成したのです。背景はビーチの夕日を利用しました。少し文字を飾って新年の挨拶を加え、おまけとして、子供の写真を挿入してみました。 距離を置いて眺めていた宿のオーナーが興味を示し始めた様子です。 出来上がった作品を目にして、私の孫を入れてもらえないかと真剣なまなざしです。何となく空気が和らいで来ました。 何かしらラカイン地方の特産物である織物も頂戴しました。 親方はよほどこの仕上がりが気に入ったようです。「多少お金がかかっても良いのだが、何とかその写真(パソコンで処理したもの)が早く欲しい」と言い出しました。でも、時間的には少しきついかも知れません。この宿にはずいぶんお世話になりました。みんなから親切にしてもらい感激の宿のひとつです。これは、ぜひ何とか実現させたいものです。ともかく最善の努力をするべく返答をしておきました。

カトマンズまでいけば、そこから画像をメイルで送って日本で処理出来るかも知れない

という算段が生じました。友人に依頼すれば何とかなるでしょう。まあ楽しみにしても

らいましょう。

所でこの宿は大変封建的な印象を持っています。 従業員の大部分は同じ敷地に住み込みで働いています。当然のことながら、家族も一緒ですから、子供たちも同居しています。ここから通学している子供たちも多くいます。ひとつの共同体という感じを受けました。 それで皆さん意気投合しているようで、笑顔が絶えません。宿の旦那は、江戸時代の代官様という貫禄がしないでもありません。そんな不思議な社会を目の前にしました。それにしても皆人なつっこく、陽気なのには驚きます。

 

11December 1999

今日はグァに向かう日です。朝早く起きるのは私にとっては、かなり辛いことなのですが、最近歳をとったからなのか、それともミャンマーの日常生活のリズムになれたものか、以外と早く目が覚めるようになりました。目覚まし時計の助けを借りることなく、多少早めにすっきりと目を覚ますことが出来ました。前日にパッキングをしていたので顔を洗って歯を磨いて準備完了です。さて、宿の門が閉まっているではないですか? 朝5時過ぎから発電機を回して客の便宜を計っているのでしょう。門のそばには巨大な三菱製の発電機がコトコトとうなりを立てています。その傍で叔父さんが安楽椅子にもたれかかって気持ちよさそうに、うとうとしています。起こすのは多少後ろめたい気分でしたが、施錠されている門から脱出するには、ここを飛び越えなければなりません。やはり格好が悪いので、起きていただくことにしました。さて、実際には鍵などはかけてないのです。おっさんが紐をくるくると回すといとも簡単に門が開いてしまったのです。

以外と簡単な仕掛けに驚きです。これが、ミャンマー式の戸締まりなのでしょうか、鍵は不要で形だけの鍵を飾っておくのも賢明な方法かも知れません。これだと、鍵の紛失に気をもまなくてすみます。

さて、タンドゥェ行きのピックアップは6時にこの宿の前を通過するとの話です。5時半過ぎには、タンドゥェからの逆方向のピックアップが満員の乗客を乗せて通過していきました。確かにミャンマーの朝は早いものです。まだ太陽が昇らない暗闇の中を人々がすでに行き来を始めています。終点には、市場があるそうで、朝のうちに水揚げされた新鮮な魚介類買い出しに一役買っているようです。これが、折り返すこととなります。

今は5時半過ぎですから、まだ30分も時間があります。眠いのを我慢して起きてくれた番人が、私のためにお茶を差し入れてくれました。一杯口にするとまた一杯くれます。次はわざわざ熱いお茶を持ってきました。

そうこうする間にもう一人宿の人が姿を見せました。今から市場へ自家用マイクロバスで行くから一緒に乗っていくようにと勧めてくれました。所々村の一角には、ゆらゆらとローソクをともしながら、商売が始まっている様子です。 バスが終点へ着くころ、ようやく太陽が姿を見せました。車は私のためにコースを変更して、グァ行きのバス発着場を経由してくれたようです。 一緒に乗ってきた宿の人は、私がバスの切符を無事購入するのを見届けてから別れていったのです。本当に親切な人々であります。この宿へは、また訪問することしましょう。

 

タガ一・ゲストハウス(GWA)

11December 1999

定刻どおりにトラックバスは出発しました。ここから先の道はまったくすごいのです。未舗装で境を舞い上げて進みます。所々小川があり、簡易な木造の橋がかかっています。その橋を通過するときは徐行しなければなりません。まっすぐした道などありません。日本でいえばオフロードといえそうです。しかし乗客はそんなことなどまったく気にしません。車内は和気あいあいの雰囲気でいっぱいです。 隣に座った坊やが珍しそうに私のカメラを覗き込んでいました。車社会の日本では、めくり会うことのない社会です。

日本の田舎で公共交通機関を利用すると、その乗客の大半は老人ばかりと言えましょう。しかし、ここミャンマーの田舎ではすべての世代が同居しています。しかし、今後は徐々に都市化し、農村部には老人と子供が残されていくのではないでしょうか? ミャンマーのことですから、まだまだ時間がかかると思います。道中ひとつの村を通りかかりました。車窓から気がついたのは、この地区の構成人員があらゆる年齢層で成り立っていることです。お爺さんさんが、安楽椅子で昼寝をしています。おばあさんが、孫と遊んでいます。 若い奥さんたちが井戸端会議をしています。若いあんちゃんたちがギターを奏でています。子供たちがボール遊びをしています。そんな快適な村の生活なのです。日本も昔そうだったかも知れません。はたしてどちらが豊かな社会なのか考えさせられます。

2年前に外国人旅行者から仕入れた情報によるとこの区間は10時間の旅とありましたが、

今は8時間きっかりで到着です。とうとうグアに到着しました。 バスを降りるとすぐ目の前が指定の宿でここしかありません。粋の良いだんなが迎えてくれました。この旦那にはもったいないような美貌な奥さんが仲むつまじく仕事をしています。この宿には発電機もそろっています。しかし田舎のことですから、シャワーなどの設備はありません。 タンクに汲み置きされた水を利用して水浴びする方式です。トイレも水洗式とは程遠いものです。しかし、この宿の旦那の陽気さですべてを忘れれることとなります。宿の代金は200チャットでした。日本円に換算すると、1泊70円です。今までの宿の中で最低の金額でした。それでも蚊帳も用意してあり、10時まで発電機がうなりをたて、白黒テレビの周りに近所の人々が集まってきます。食事もまずまず美味しくさほど不自由は感じません。

グァには、午後4時前に到着しました。まだ日が高いので、ビーチまで散歩に出かけることをしました。 この道案内をしてくれたのが、自称写真家のミャンマー人です。彼の家は海辺へ行く道中にありました。2歳のかわいい娘がきょとんとしていました。家の前には小さい看板が掲げられていました。

 

デルタ・ゲストハウス(PATHEIN)

12December 1999

パセインへの道はかなり遠いようです。宿のおっさんが6時半に起こしてくれました。バスの切符もこの大将のお世話になりました。バスの代金は1,000チャットですと言うので、大将に渡すと、彼がそれを他の誰かに渡して完了です。乗車券など手にすることはありません。バスは宿の前に停車して、出発を待っています。ここでは、信頼が基本です。インドなどでは、こんな場合、お金が編し取られるのではないかと不安になるのですが、ここはミャンマーですから、こんな場合でも心静かに待っていれば良いのです。

ともかく朝のコーヒーを飲んで時間待ちです。バスは予定より20分ほど遅れて出発です。乗車の際は名簿を確認し順序良く席に着きます。お絞りとお水が1本配給となりました。 キメの細かいサービスです。このバスはヤンゴンまで行っても、途中で降りても同一料金なのです。 一人1,000チャットですが、昨日のトラックバスよりも快適そうです。ヨーマ山系を横断するのに、ジグザク走行が始まりました。峠を超えなければなりません、しかも起伏が激しく、道幅は狭く蛇行しています。今日も挨だらけの旅となりました。

この区間は道路整備中で、あちこち道を掘り返しています。しかし、このあたりの植生は竹林が続いています。竹といえば根が四方八方に張りめぐり、弱い地盤を支える役割をしています。そう言えば、この地域では、大きく地肌が露出している光景は見かけません。マレーシアなどでは、団地開発のため山を半分ほど削り宅地造成工事をしたところは赤く地肌が剥き出しとなり、地滑りなどの人災を頻発しています。日本も山間部へ行くと、観光道路の造成で山肌が削られているのを良く見かけます。しかし、ここミャンマーはそういった工事が始まったばかりです。開発が遅れているということは如何に緑が多いものか良くわかります。 開発と環境は常に平行線をたどっているのでしょう。幸いにして、この地域の竹はすぐに開発の跡を消してくれるでしょう。

運転手は私が何処で下車すれば良いのか心得ていました。 チャウンゴン橋のふもとでバスを乗り換えてパセインに向かうのが通常のルートです。ここから、ヤンゴンまでは、3時間かかりません。日没前にはヤンゴンに到着も可能です。橋で下車してヤンゴンからパセイン方面へ向かう車に乗り換えることとなりました。幸いにも、橋の料金徴収所の人々が親切にいろいろと教えてくれます。ここで一休みです。彼ら政府の役人の給料は1月1500チャットだそうです。これのほかに、何かしら諸手当が追加されるのですが-。 日本では最低1日働くと50ドル(5000円)は大丈夫という話になると、私は1日10時間働くから、そして1日25ドルでも良いと俄然目が輝いて来ました。そのうち10ドルでも良いからとにこやかに話かけて来ました。でも査証のことで問題があるから、日本へ行くことは大変難しいんです。と丁寧にお断りしました。 彼らが屈託のない楽しい雰囲気の中で仕事をしているのが、うらやましい限りです。

バスは満席なので2台ほど見送りました。 次に空のピックアップがやって来ました。これを利用することとなりました。 運転席に空きがあったので、今回はそこを利用することとなりました。 荷台の木造のベンチに比べると快適です。料金も200チャットと適正価格です。 眺めも良く、ソーラーの充電装置をダッシュボードに置いての走行です。 時々カメラでパチリと撮影しながら2時間の旅はあっと言う間に終わってしまいました。

隣に座ったのは、正体不明、謎のおっちゃんでした。私を運転席に招いてくれたのもこの叔父さんです。乗り合いトラックから降りるときも気前良く私の分も払ってくれました。 市内に近くなって、市内専用のトラックの料金も払ってくれました。 さて、善意でおごってくれたのでしょうか? それとも何らかの魂胆があるのでしょうか? 彼の眼は何となくギラギラと光って怪しげな印象を拭い去ることが出来ません。乗り合いトラックを降りたときには、ばっちりと彼が立て替えた料金を請求されました。トラックから降りると目の前が有名な寺院です。「一緒に、お参りしよう」と手を引かれ境内に行きました。彼は仏様の前で真剣な表情でお祈りしています。どうも不気味です。薄笑いを浮かべながら、「町というものは、危ないから充分気をつけてください。所であんたはお酒が好きなのか、女はいくらでも買えますから世話しましょうか?」などと意外な方向に展開していきました。終始にたにたしながら話しかけてきます。胸ポケットには、札束がびっしりと詰め込まれています。何かが変と感じて当方も隙を見て姿をくらませることにしました。一体あのおじさんは何物だったのでしょうか?

 

13December 1999

今日は1日かけて今までの画像1,000枚程度の整理をしました。データベースの機能が充分に働くようにキーワードを入れ込む作業です。これが大変といえば大変なのです。でも1日かけて出来あがりました。これからは画像を取り込んだときに同時に記入するのが賢明でしょう。それにしても良く出来あがったものです。利用価値は充分ありますが、画像の質が少し低いことに不満があります。今度からは、やはり画素数130万ピクセルのカメラで撮影したいと思います。

午後は港町パセインの印象がでるような写真を撮影出来ました。この町ですてきだと思うのが、川に沈む夕日です。夕暮れ時に手漕ぎの船が通過すると絵になります。なじみのお茶屋さんに何度も足を運びました。それにしても、この町のエネルギーには、圧倒されます。

さて、パセインの宿で仕事をしている青年は22歳です。 2年前に両親をなくして今は一人暮らしです。この宿で雑用をして生活を営んでいます。左腕には蛇の刺青を、右の手には母の名前を彫りこんでいます。最近お寺で修行を済ませたばかりで、まだ坊主頭の名残を見ることが出来ます。いつも笑顔で屈託のない表情を見せてくれるのです。 1月の給料は1500チャットだそうで、左腕を示しながら「時計が欲しいのだけどお金がないからね。」とニヤニヤしていました。

さて、ここの宿のマネージャーは奥さんを2人持っているそうです。こちらの人々は妻を多く持つケースを結構聞きます。はたして何が原因なのでしょう。もう少しこの話を突き止めてみたいものであります。宿の青年は「俺は金がないから、お嫁さんも貰えないんだよね。」と寂しそうでした。

この宿の客の中にヤンゴンから薬品の卸に回っている青年がいました。片言の日本語を話すので何となく親しくなりました。一時日本の建設関係の会社で仕事をしていたそうで、今はヤンゴンの大手薬品販売会社に籍を置いて各地を回り歩いている人物です。ミャンマーの人々の識字率はアジア各国の中でも高いので有名です。彼らは何事においても、記録するのが好きな国民と見受けました。大体、長距離バスの座席割にはじまり、サイカーの順番の調整表、屋台のお茶屋の売り掛け帳など隅々まで記録しています。これは、中等教育の水準が高いからでしょう。傑作なのは、バスの座席や料金など日常の表示はミャンマー文字を使うのに、計算するときは、アラビア数字に置き換えて電卓を叩いている点です。私達にも思い当たる節があります。漢字の数で表記された場合、それをどうやって電卓で計算すれば良いものでしょうか? 彼は早速地元の人と電卓片手で商談をしていました。

 

チャンメ一・ゲストハウス(CHAUNTAH)

14December 1999

今日は行き先が変更となり、チャンタにやって来ました。ここへは2度日の訪問です。宿で切符を手配すると50チャット多くなったようですが、まあかまいません。玄関まで迎えに来ます。席も比較的良い場所となっています。 定刻は11時出発ですが、10分ほど前に宿の前にやって来ました。 新しく今回はフェリーボート利用に際して外国人は1ドル徴収される規則になりました。地元の人々は払う必要はありません。これも、さほど不満は生じません。これが、何となくミャンマーらしい雰囲気なのです。バスは時々変な音を発しながら疾走していきます。燃料が悪いのが原因でしょうか? 坂道にさしかかると、ストンストンと頼りない音を出すたびに、エンジンをかけなおして走ります。今回も無事エンストに見舞われることなく、無事目的地に到着出来ました。しかも所要時間は3時間を切っていました。次第に道路事情も改善されているようです。 バスの車掌は気の毒そうにフェリーの料金を徴収していきました。わずかながらのお返しのつもりなのでしょうか、みかんをひとつ買ってどうぞと差し出してくれたのが忘れられません。そんな心暖まるバスの旅でした。このフェリーは所要時間が20分程度です。

チャンタの宿は前回と同様にチャン・ミ-を利用することとしました。前回に比べるとこの付近はレストランの数が増加しています。でも客の数は増えていないようです。けれども10月に3日間の連休があった時は、この村は大繁盛し、どこの宿もミャンマー人観光客で賑わったそうです。昨年はインド系の従業員がいたのですが、変わって今年はパセイン近郊の村からアルバイトの青年を頼んでいます。仕事らしい仕事と言えば、発電機を回したり、洗濯をしたり、客引きをしたりする程度しかありません。1月5000チャットの給料です。他に食事の代金として、4000チャット支払っているとの話です。これが、ミャンマーでの一般的な労働条件なのかも知れません。1日平均の手取りは、200から300チャットが相場なのでしょう。日本へ出稼ぎに行った経験のお姉さんも健在です。

ここの天気は快晴です。しかし海の美しきはやはりンガパリが完全に勝っています。どうしても水の色が今一つすっきりとしません。しかし人々の心がそれをカバーしてくれるのがミャンマーなのです。

 

15December 1999

今日は1日のんびりしました。海はまずまずの美しきです。北側に行くほどきれいな水をたたえています。それにしても、この地域はハワイ的で、人々は陽気でのんきな性格です。これは、ミャンマー全体を通しても言えることなのですが-。南海の観光地はどこも世界中共通したものを持っています。地元の人々は観光に頼って若い連中はいつもぶらぶらしています。その中でも中国系ミャンマー人の経営する雑貨屋が一番繁盛していると見え、あらゆる商品を置いています。町の真申には、仏教寺院があってそのパゴダが青い空に堂々とそびえています。

夜、宿で明日の切符を申し込みました。旧式の電話機でバス会社に連絡すると、係りの人が座席表を抱えて飛んで来ます。明日の朝は玄関前までバスは横付けとなります。このサービスを含んで250チャットというのは安くて、親切と言えましょう。となると、デルタ・ゲストハウスで求めた切符300チャット払ったのですから、少しばかり手数料が少し含まれていたようです。でも、ミャンマーの交通機関の料金設定は、行きと帰りの料金が異なる場合が時々ありましたから、適正料金なのかも知れません。パセインからヤンゴンまでは400チャットでいくそうです。残すところわずかとなりました。快適に旅が続きますように祈っています。

 

16December 1999

今日はチャンタからヤンゴンに向かいました。昨日手配したバスは宿の前にやってきたのが6時半過ぎです。本当にこの国は朝が早いことで有名です。朝起きたら、宿の女主人が、コーヒーの差し入れをしてくれました.これだからミャンマーの旅は捨てがたいものがあります。お蔭で目がばっちりと覚めました。バスには、通路いっぱいに炭が満載されていました。定刻どおりの出発で快走していきます。

バスは緑豊かなヨーマ山脈の南端を横切って、パセインに到着したのは、10時過ぎです。これだと、早めにヤンゴンに到着が出来るでしょう。ヤンゴン行きのバス会社の係りがしきりに声をかけてきます。ここで、一息入れてからヤンゴンに向かうことにしました。朝食とも昼食ともつかない時間です。チャウンタで、宿の人の話によると、カーカーチーというレストランが安くて美味しいとうわさをしていました。やはり味はしっかりとしています。しかもチキンカレーが185チャットとすこぶる良心的な値段です。

バスの切符を手配する際、12時半と11時半を聞き違えて結局前者のバスを利用することとなり、予定は少し遅れました。 この地域のバスのサービスは万全です。ピックアップが各家庭の玄関を経由して、集客しながらバス駅に向かいます。町の真申にある発券所を定刻1時間前に集合です。切符を買ったときには、叔父さんが当社のバスは新車で、クーラーが入っていますと自慢していました。所がそれは、半分正解で半分は的を得ないのでありました。すなわち、バスが車庫からバス駅に向かうまでは、乗客がなくてもクーラーを効かせて少しばかり車内を冷やしておいたようです。ああ、ありがたいと思いきや、動き出したら、窓を空けてクーラーが止まってしまったのです。勢いよく走っている時は天然の風が入ってきますから、そんなに暑さを感じません。今回クーラーが作動したのは、乗車するときと、挨だらけの道が30分程度続いたとき窓を締め切ってクーラーを回した2回だけでした。料金が400チャットですから文句も言えません。バスは新車と言ってもミャンマーの感覚での新車です。かなり古びた日本の市内循環バスの改造版です。

結局定刻12時半を20分ほど遅れて動き出しました。ヤンゴンには、4時半についたのです.前回はこの区間にフェリーボートが動いて、両サイドでバスを乗り換えましたが、ごく最近橋が完成して、その必要はなくなりました。その分無駄が省けて、ヤンゴンとパセインの間は自家用車だと、3時間で行き来するようになり、チャンウンタビーチの名前は有名になりつつあります。バスも4時間を切って運行しています。この新しい橋はミャンマー人が中国から学んだ土木技術を駆使して、自分たちで作った橋だそうで偉く自慢しています。国内でもっとも長い橋は、乾季で河川の水量も少なく橋げたの半分以上は地肌が露出していました。これだと、作業が容易かも知れません。バスは予定より遅れたので予定していたパゴー行きは中止です。写真の整理や多少の用件もあります。パゴー行きを1日伸ばし今日はヤンゴンに宿泊し、翌日出かけることとしましよう。今回も快適に旅が終わりそうです。満員の市内循環ピックアップに揺られて、いつもの宿ホワイトハウスに到着です。お疲れ様でした。

 

ミヤナンダ・ゲストハウス(PAGO)

17December 1999

今日は久しぶりにパゴーに出かけることにしました。ヤンゴンからパゴーへは快速ピックアップに乗ると2時間で到着します。ともかく高速道路を突っ走っていくのですから。ここでは一昨年出会った田中さんと偶然に再会するはめとなりました。彼とは2年前にこのゲストハウスで会いました。当時彼は、ミャンマーが好きになって、旅の途中で立ち寄ったのがきっかけで、一年間現地の出版会社で仕事をしていました。何かとミヤンマーの事情に詳しい一人です。

ミャンマーの人口が増えないのは、結婚しないで人生を終える人が意外と多い点に注目すれば、それが実態に沿った見方かも知れません。ミャンマーに関しては独身で生涯を

送るというのには、以外と抵抗が少ないように見受けます。インドやネパールなどでは、

カースト制度の名残を基にあらゆる面で実社会での生活はがんじがらめになっています。

この国では、性風俗に関しても何となく大らかな一面を持っているようです。外国人の

宿泊出来る宿以外の宿泊施設では、娼婦がいるとのことですから、政府の取り締まりが

あっても実際は容認しているとも言えましょう。しかし、何かしら明るさを感じます。

インドやパキスタンなどでは、男女の関係というと非常に重苦しい空気が漂います。こ

の国は、タイ同様性文化に対して大らかで明るい雰囲気を持っていると見るのは、私の

独断でしょうか?

田中さんから雨季の話を聞きました。このあたりは洪水が起こると大変だそうです。バスや列車は全面ストップして、水が引くまで数日間待たなければいけません。長距離バスも道中で立ち往生したり、何日もの間運行が停止したり、こうなると、経済はまったく麻痔してしまうのは日に見えています。特にここパゴーでは、腰のあたりまで水かさが増えるそうで、そんな中をボートで買い物に行くそうです。町中が水浸しになるのが、時々あるそうです。ヤンゴンでは、泥水の中を歩行中にどぶにはまり込んで全身すぶぬれになる被害も続出するとの話です。いやはや恐ろしい実態があります。いつも乾季にこの国を訪問しているので、そのようなけはいをまったく感じることはありません。でも雨季の被害は想像をはるかに超えたものとなっています。

夕方になって、彼と友人の家へ出かけて話をすることとなりました。 彼の食事は決まってこの家の家庭料理です。今日も1日平和な日となりました。次男は車修理の仕事をしていて、1月5000チャットの給料との話です。しかし、毎日、キンマの薬を噛んでいますから、その費用もばかになりません。 やりくりをどのようしいるのでしようか? お母さんが仏教徒で、お父さんが酒飲みで半身不随の回教徒という複雑な家庭事情を背景にしたものでしょう。長男は家出をしたらしく、多少くれかかっているとの話でした。本人は、アパートを借りて英語の先生をしながら、まずまずの収入を上げ自活しているそうです。長女は日本で平和に暮らしているようです。 熱心に今でも日本語学校に通い続けているようです。かわいい娘さんでした。末っ子の日本語は次第に確かなものとなりました。一昨年会ったときよりも格段と上達していたのです。そのうちに日本人のお嫁さんになるのでしょう。

 

ホワイトハウス(YANGON)

18December 1999

今日がミャンマー最後の夜です。パゴーから帰ってラーマンさんの事務所に寄りもてなしを受けました。本人たちはセリラム方面に出かけるので明日は不在になるとの話です。それで別の友人(チャンドラ氏)を紹介してくれました。彼らと一緒に夕食です。いつものように屋外のシーフードのお店でした。 4人で酒、タバコ、スプライト、野菜妙め、イカのチリソース和え、海鮮料理のてんぷら盛り合わせ、シーフードのホットプレイト、白飯、そしてデザートは食べ放題で、合計6500チャットでした。 一人あたり5ドルの料金でした。これを結局おごっていただきました。ご馳走様でした。いろいろと楽しい話も聞かせてもらいました。レストランからの帰りには残った高級タバコ(当方の普段愛用しているタバコの4倍の価格)を差し出して、「これをどうぞ、家ではお父さんがいて見つかるとまずいから」といわれ、おやっと感じました。これだけ近代的な商売感覚を持っているのに、お父さんの影がしっかりと残り続けるちょっと封建的な一面も保ち続けているのです。

紹介されたチャンドラ氏の事務所では、同級生のミャンマー人と本人が和気会々と仕事をしています。 酒を飲まないタミル人と酒が好きなミャンマー人が共同で仕事をし、同じテーブルで料理をつついている光景は、広い心がないと成り立たないのではないでしょうか?概してこの国の人々は人種や民族にあまりこだわっていないようです。今は車を3台持って順調に商売が伸びています。仲間の一人は来週シンガポールへビジネストリップに出かけるとの話です。 日本に行きたいのだけども、どうしたら良いものか、良いアイデアがあったら教えて欲しいということでした。香料やスパイス関係の仕事をしています。友人たちはおとなしそうで、なかなかの紳士です。残念ながら、私のミャンマー語はブロークンです、彼らの英語もブロークンで顔を合わせるとにっこりと領きあうばかりです。仕方なく、チャンドラ氏とタミル語を中心として、話が進みました。

確かに今年は日本人の学生は少なくなりました。話によると、在学証明がないと、ミャンマーの査証は発行しないようです。バンコクでは、査証発給の条件が少し厳しくなったようです。無職とかリタイアなどと記入するともらえなくなる可能性がでています。今回、私が無事取得出来たことは大変良かったと思います。やはり無職というよりも、仕事をしていることにしたほうが効果的かと思います。

 

19December 1999

今日がミャンマー最後の日です。午前中は例の写真を印刷出来ないものか挑戦しましたが、1枚1500チャットするとのことで結局あきらめました。それでもコンピューターの店と仲良くなれたのが、今回の収穫だったと思います。

その後少しばかり買い物をし、町を一回りすると正午です。昼ご飯を食べてからゆっくりと空港へ向かいました。バスを乗り継ぎすると30チャットで到達することが出来ます。

それで、空港の近くでお茶を飲んで最後のミャンマーの空気に触れて終了となりました。税関やイミグレなどはまったく問題もなく通過することが出来ました。さて、それからが大変でした。

バングラデッシュ航空は大幅な遅れとなりました。結局何の連絡もないまま3時間の遅れとなったのです。 しかし、この結果いろいろなことを発見することとなったのです。この時間帯に日本からの飛行機が到着して出発しました。やはり客層がかなり違います。

大体日本からの観光客が多くその中には、韓国からの客も多くいました。しかし、何故か日本人客の表情は雲りがちでした。年金生活の夫婦円満と見受けたカップルはここでは、何となく暗く疲れきった姿をしています。ミャンマーの平凡な人々が完全に輝いています。ともかく、ミャンマーへくる日本人の夫婦の姿は一定したパターンがあります。大体において年齢のわりに派手に盛装して着飾っています。それが、何となく板についていないように見受けます。所が同じ金満家でもミャンマーのご夫人などが金製品でみやびやかに飾っていても、違和感を覚えることはありません。お金に不自由しなくても心に不満をいっぱい抱えている人間とその逆の人間の対比はこうも違うものでしょうか?こうして考えるとミャンマーに軍配があがります。私のえこひいきな見解かも知れませんが-。現実に彼らの生活はそんなに苦しいとは思えません。実際に給料が低いのは現実ですが、彼らにはものを買う必要がないといえばそうかも知れません。お金がないわりにどんどん寺院へ寄付をしています。お坊さんへのお布施を惜しむこともありません。パセインのレストランではひまなしに僧侶がやってきます。それに次から次へとご飯を差し入れしています。こうして見ると、税金の1種と言えましょう。

 

ヤンゴン発ダッカ行き

今回の空港の中では、さまざまな人たちにめぐり合うこととなりました。さてそれをご披露するとしましよう。

 

ラジオネパールのおばちゃんアナウンサー

空港の待合室で見かけたサリー姿のおばさんが、日本人のカップルと話をしているのが目に入りました。カトマンズを偉く宣伝しています。彼女はネパール人と見定めて得意のネパール語で挨拶をしました。始めは私をシュエルパだと思ったそうです。「あなたのネパール語は私のそれよりも上手ですね。」などと、久方のネパール語会話で、話が弾みました。 聞くところによると、彼女は有名なラジオネパールのアナウンサーでした。

休暇をとってミャンマーへの観光旅行です。 2週間の予定であちこち回ったそうで、パガンの遺跡には感激したと語っていました。ここミャンマーにもネパール人が多く住んでいます。 彼女はヤンゴンでは、最高級のトレーダーズホテル住まいです。 何しろこの宿のマネージャーがネパール人とかで、特別割引の45ドルで利用していたと言います。毎日接待のパーティーがあったとかで快適な日々だったようです。他に彼女は日本や英国へ出かけています。スリランカへも旅をしたそうです。ともかく、勇猛果敢なマダムの一人です。 娘はフィンランドで放送関係の勉強をしているという国際派の家族です。もちろん英語も達者ですから旅行をするうえには不自由がないのですが、母国語を話す人がそばにいると心強いのでしょう。

彼女にとってダッカ1泊のトランジットを経由してカトマンズに行くのは始めてです。 航空会社は、ここで預けた荷物を忘れずにネパールに届けるのか不安でならないようです。このトランジットは、前回私は経験済みですから、荷物のことや、パスポートが一時空港で保管されること、食事がどうなるのか、空港から市内への送迎などについて、事細かく説明をすることとなりました。 何となく彼女は理解したようです。

どう言うわけか、今回のバングラデッシュの飛行機は遅れに遅れています。 彼女は自国のネパールの航空会社とバングラデッシュ航空を同時に非難しています。その話には、真実が

こもり、益々意気投合したのです。私が他の言葉も操るのを耳にして彼女はびっくりしていました。まさしく粋の良いおばさんに出会ったものです。カトマンズに帰ったら-

緒に食事でもしましようと誘いの声がかかりました。

 

マドラスからの商売人のグループ

南インドのマドラスとヤンゴンは密接に結びついています。マドラスのビルマバザールというと、密輸品市場のメッカとして有名です。 最近はインド政府の経済自由化の影響下で次第に影を潜め始めました。時代とともに並ぶ商品も種類を変えています。ある時期は、ラジカセやウォークマン、カメラ、腕時計、テレビなどが所狭しと並んでいましたが、最近はパソコン関連の商品が多く並んでいます。彼らははるばるマドラスとヤンゴンの間をカルカッタ経由で往復しています。 このグループの中には1ケ月に2度も往復する人もいるとの話です。とにかく、何らかの商品が動いているのは確かです。 私がタミル語をで話しかけると皆びっくりしながらも関心を示し始めました。 ミャンマー在住のタミル人は、彼らの生活様式が東南アジア化し始めています。インド人と言えば、男性なら髭を格好よくのばすのが常ですが、一部の人々は私達同様に髭剃りの習慣が身についたようです。これだと、インド人という印象から遠ざかってしまいます。おまけに彼らの多くは商売がらマルチリンガル(多言語)ですから、ますます正体を探るのに混乱を極めるのです。今回はこのグループの中に唯一の若い新婦が混じっていました。ミャンマーの女性は今や世界から注目されているのではないでしょうか?その心の優しさと上品なしぐさで・・・。と考えるのはえこひいきかも知れません。

彼らは予想したように、大量の荷物を動かしていました。ダッカ空港のトランジットルーム内で、彼らは荷物を再点検しています。機内へ預けた荷物をさらに頑丈に針金を巻きつけて封をしています。 カルカッタへ行く彼らには命を張った税関や、空港スタッフとのストラグルが始まるのは間違いないようです。それにしても、あの中味はなんでしょうか?

 

日本人カップル(これからインドのグラムシャラヘ行く)

通常この時期は日本人の旅行者が10人程度いても不思議ではないのですが、今回はやけに少ないのです。待合室で見かけたのは二人だけです。関西からの若い二人はミャンマー2週間の旅を終えてカルカッタへ向かうとの話です。その後、ダライラマに会いに行くのだと張り切っていました。ダライラマ氏は来年からインドのレ一に引っ越しをするそうで、あそこまで行くのは大変だから、今ならば、ダラムシャラ在住でニューデリーからバスで一夜で行くことが出来ます。高僧と握手出来るのは今のうち、と張り切っていました。彼らは何度もインドへ来ているそうです。

 

80歳の高齢バングラデッシュの尼さん

この飛行機には、いろいろな人々が乗り合わせます。超高齢といっても確かでしょう。年齢を聞くと80歳の尼さんです。年のわりに動きはしゃきしゃきして、高齢を感じさせない、おばあさん尼僧が同乗です。 国籍はバングラデッシュですが、住まいはミャンマーですから、両国を行ったり来たりし、両国の言葉がたんのうです。しかもインテリで何でも知っています。 大体、ミャンマーのお坊さん達は仕事をするわけでもなく、暇を持ち余しています。ですから、本を読んだりして、いつも勉強しています。こういった人々が、ばらっばらっと社会の中に多く点在していることは、その社会を安定化させる役割を果たしていると思えます。高齢のおばあさんは物知りで、体は健康そのものです。 近隣諸国の仏教遺跡をあちこち巡礼したそうで、貫禄充分です。バングラデッシュでも東にいくほど仏教徒の数は多くなっています。国境を接するミャンマーの影響を大きく受けていますから、彼らにとって、心の拠り所となるのは、首都ダッカ以外の場所なのかもしれません。

 

アッサムのお坊さん

ミャンマーの坊さんとそっくりないでたちです。が話している言葉はヒンディー語でもなく、ベンガリ語でもなく、ミャンマー語でもありません。一体彼の所属はどこなのかと案じている間に話のきっかけが出来ました。彼はアッサムで孤児院を経営しているお坊さんでした。ミャンマーに1か月滞在する予定だったが、5人いる子供たちの一人が急病となったので一刻も早く帰郷を余儀なくされたそうです。彼の母国語はアッサム語ですが、これはベンガリ語に比較的似た言葉ですから、私の初歩のベンガリ語でも充分通用するようです。英語を交えながら話が弾みました。彼が尼さんの世話を甲斐甲斐しくしていたので、てっきり親子関係かなと思いました。でもこの考えは完全に間違っているでしょう。なぜならば、小乗仏教では、結婚は出来ないのですから、子供が出来て、息子が僧職を引き継ぐというのは日本的発想です。

彼は一刻も早くアッサムに帰りたいと知恵をひねっています。 時間がないので、バング

ラデッシュのビザをもっていません。 彼の手元には、ヤンゴン、ダッカ、カルカッタの切符があります。 カルカッタへの到着は明日の夜となり、それからアッサムの州都ゴウハテへは列車で20時間の旅です。さらに、本人の住む土地へは、バスで12時間という奥地です。もしバングラデッシュの政府が陸路のトランジットを認めてくれるならば、ダッカで途中下車をして、陸路で自宅へ帰るほうが、ダッカでカルカッタ行きの便を待っているよりも早く目的地に到着するのです。

翌日我々はダッカ空港で彼の姿を見かけました。 残念なことに陸路を通過してのアッサ

ム行きは拒否されたそうです。 やむなく夜のカルカッタ行きまで待つこととなりました。

 

ボンベイへ機械の調達に行くタミル系ミャンマー実業家

一目でタミル人とわかる2人組が待合室で話し込んでいました。あちこちの人々と話をするのが私の趣味となり始めました。 じわじわと接近して、タミル語で話を始めると高齢のおじいさんは片言の日本語で返事をくれました。 年は60歳で日本の兵隊がいたときは少年時代で今でも少し覚えています。本職はお医者さんだそうです20歳以上年が離れている弟と一緒にボンベイに向かう予定です。いつもはバンコク経由でボンベイに入るのですが、他の航空会社の便は満席でここしか席が空いていなかったとのことです。

弟と言っても年齢は40歳を超えています。まるで親子に見えてなりません。弟はミャンマーの実業化の一人なのでしょう。さっぱりとしたスーツを着こんで、あたかもビジネスマンの貫禄が充分あります。これからボンベイで機械装置の購入に行くそうです。ここミャンマーで、ローソクの製造工場を持っています.ミャンマー政府は、1990年代前半から経済の自由化を促進し、国の活性化を図っています。ビジネスという形で国外へ出かけるのは容易になりました。しかし、ミャンマー人そのものは国外との接触や取引相手などは無に等しいのですから、幅を利かせるのは、インド系や中国系のミャンマー国籍を持った人々です。この現象はミャンマーだけではありません。マレーシアの経済が中国系マレー人に占拠されているのも同じ形態と見ることが出来ます。1900年代初頭のラングーンは4割以上も移民で占められていたといいます。国家の門戸を開いてみれば、再び外国資本に、人脈に頼らざるを得ないのが現状です。資本力、知識、人脈に関しては、インド系、中国系が優位を勝ち得ています。

 

ミャンマー系の回教徒で巡礼の旅にでる2人連れ(農業家)

背広姿でおとなしそうな二人の紳士が同乗です.彼らは生粋のミャンマー人です。 大体この種のミャンマーの人は東に位置するタイランドに出かけるのが多いのですが、彼らは故かインドにむかっています。 興味しんしんで話を聞いてみました。彼らは何と、仏教徒ではなくて、イスラム教徒です。 地元で農場を経営して大成功を収めたようで、何度かインドに行っています。今回の旅の目的は回教徒としての巡礼を兼ねています。

インドのラジャスタンのアジメールという町には回教徒のあこがれである著名な人のお墓(ダルガ)があります。そこへお参りにいくようにと周囲の人々が資金を出し合って代表しとての旅です。

話しぶりからして、本当に穏やかさを伝えてくれます。 彼らがあのギクシヤクとした混乱のインドの雑踏にもまれるのかと思うと、他人事ながら哀れさを感じてしまいます。向こうには友人もいるから大丈夫だと胸を張っていました。 所でインドからの出国時の空港税はいくらでしょうかと質問がありました。「インドとミャンマーは国境を接しているから近隣諸国となり150ルピーです。」と教えました。彼らの旅が安全でありますように。

 

バングラデッシュからの人々

このお兄さんも商売でミャンマーに来ているのでしょう。 私達と同じホワイトハウスでしょっちゅう姿を見かけました。私が何物なのか彼も警戒していたようで、宿にいる間は無愛想でしたが、ここ空港内では、一変してにこやかに話かけてきます。商売の話がうまく、まとまったのかも知れません。チェックインは3時半に始まりましたが、彼が空港へ姿を見せたのは2時間遅れの5時半でした。 事前に情報を入れて、今日の便が遅れることを察知したようです。 いつも、宿からあちこちに電話をしていましたから、彼なりの情報ネットワークが機能したのでしょう。 それを知らずに当方は一番乗りで待合室についたのです。

大体こう言った場所では、同じ国籍の人々が固まって話し込むのが常です。しかし乗客の絶対数が少ないのですから、固まりようがありません。しかし、このお兄さんはもう一人のバングラデッシュ青年と親しく話しかけています。もう一人の青年はミャンマーで仕事をしている技術者という話です。 3ケ月ごとに行き来を繰り返しているそうです。

もう一人、立派なあごひげを蓄えたバングラデッシュの老人が仲間に加わって来ました。この叔父さんの正体は何でしょうか?ミャンマーへ観光に来たという話ですが・・・。その後飛行機が遅れてヤンゴンを出発し、ダッカ空港でトランジットの手続きを済ませて、宿に向かう途中でおっちゃんの姿を見かけました。大量の荷物を持ち込んで税関の係員と交渉中でした。カウンターはガランとし、彼しか残っていません。 実は彼も密輸に一役かっていたようです。個人の手を介した物流とは何なのか、彼らの凄まじいエネルギーを感じます。バンコク発カルカッタ行きの便はインド商人が衣類の仕入れに暗躍する場所です。チェックインのときはインド人が大量のズタ袋を運び込んでいます。彼らも税関で一悶着するに違いありません。

 

2ケ月の休暇を終えて帰国するイタリア人

空港で最初に会ったのがこのイタリア人です。彼は2ケ月の休暇を取って毎年アジア各地を旅行しています。ミャンマーは今回で2度目とかで、ネパールについでお気に入りの国です。昨年は一般的なコースを回り、今回はラカイン州を中心に旅をしたそうです。

じわじわとミャンマーの人気が高まって、リピーターが増え続けています。ダッカからは今晩の深夜に出発するローマ行きに乗るそうで、飛行機が数時間遅れていても平気です。同じ航空会社の乗り継ぎですから、どこで待っても同じなのです。

 

さようならミャンマー

とにかくコスモポリタンなる空気で満ち溢れています。これが、バンコクなどでは隣の客と話をすることはまずありません。ここでは、いろいろな人たちがそれぞれの思いでそれぞれの方向へ向かいます。そんな光景を目の前にし、その人々の中に入っていくことで旅のエピソードが深まって生きます。成田やバンコクのように気取ったところもなく、気さくな人々ばかりの田舎の雰囲気です。それが好きでこの航空会社を利用するのかも知れません。何しろこの人々と話をするのに、私の頭はフル回転しました。いくつもの言葉が同時に絡まってきました。あの人と話をする傍ら、別な人と別な言葉で応対するわけです。とにかくこの地域の会話に不自由が次第に少なくなりました。これからも独自の旅のパターンを守り続けていきたいと思います。

こうしてミャンマーでの最後の時間は貴重な体験を積む結果となりました。私が日本人であることを誰も信じてくれません。パスポートを見せてようやく国籍は日本だと認識するのです。それでも半信半疑で納得がいかないようです。まあ無理がないかも知れません。

飛行機が3時間遅れるので、空港で焼きそばが提供されました。ここでは、案内などありません。係りの人が口頭でそれぞれの客に説明を加えています。それでも誰も不平を言う人はいません。

この空港内で新しい設備が整いました。それは、喫煙室です。これは、一般の待合室よりも快適に設計され、ゆったりとした真新しいソファーに、衛星テレビの設備も準備されています。もちろんタバコ会社がスポンサーとなって造成されたものでしょう。大きく555とサインボードが輝いています。ここに、現在の資本主義のからくりを見出すことが出来ます。タバコ関連の商品は政府にとっても大きな財政収入となります。タバコ会社の利益は莫大なものでしょう。その罪滅ぼしかのようにやたらと豪勢なものを準備しました。もちろん宣伝も兼ねているのはいうまでもありません。ミャンマーはタバコ天国でモクモクと煙っています。

深夜にダッカの宿に入りました。どうもこの国の印象は悪いのです。それは、あまりにもミャンマーが素晴らしい国だったからかも知れません。ミャンマーの宿では、女性がしとやかに応対してくれます。所がここバングラデッシュでは女性が人前にでることはありません。ダッカの宿では男ばかりが、接客にあたっています。ミャンマーでもそんな場合があるのですが、彼らは非常に優しく穏やかなる表情で応対してくれます。まるでまったく別の社会に来たことを強く感じてなりません。

今日は、カナダ人の写真家とフランス人の旅行者と3人で部屋をシェアすることとなりました。バンコク在住のカナダ人写真家は、なかなかのつわもので、何度もタイとミャンマー国境を陸路で往復し、ゲリラ地区などの写真をとりまくったそうです。

 

Sunday,January02,2000

ポカラのホテルニューコスモスにて

 

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