アジア旅日誌 No.20 トン君との旅
2002年2月14日から2月28日の2週間、3人の日本人と1人のミャンマー人がミャンマーの主要観光地を旅行しました。一般のパッケージツアーとは異なり、現地の生活様式にどっぷりと浸った日々の連続でした。通常の旅に比べると費用は格安となった反面、忍耐力を必要とする厳しさもありましたが、好奇心旺盛なるメンバー、偶然に構成された稀に見る見事なメンバーの組み合わせが旅の楽しさを倍増してくれました。さて、一体どのような旅をしたのでしょうか?
概要
2002年2月14日から2月28日の2週間、3人の日本人と1人のミャンマー人がミャンマーの主要観光地を旅行しました。一般のパッケージツアーとは異なり、現地の生活様式にどっぷりと浸った日々の連続でした。通常の旅に比べると費用は格安となった反面、忍耐力を必要とする厳しさもありましたが、好奇心旺盛なるメンバー、偶然に構成された稀に見る見事なメンバーの組み合わせが旅の楽しさを倍増してくれました。さて、一体どのような旅をしたのでしょうか?
日程表
日時 | 行動 | 宿泊地 | |
01日目 木 | 2002/02/14 | 関空からバンコク経由でヤンゴン | ホワイトハウス |
02日目 金 | 2002/02/15 | 終日市内を散歩する。 | ホワイトハウス |
03日目 土 | 2002/02/16 | 午前中は休憩し、午後バスの旅 | 夜行バス |
04日目 日 | 2002/02/17 | 午前中インレー到着。周辺散策 | ニャウンシェ |
05日目 月 | 2002/02/18 | 終日湖周遊 | ニャウンシェ |
06日目 火 | 2002/02/19 | 移動、カロー散策 | カロー |
07日目 水 | 2002/02/20 | カロー散策。トラックと列車で移動 | マンダレー |
08日目 木 | 2002/02/21 | マンダレー市内観光 | マンダレー |
09日目 金 | 2002/02/22 | 船で終日移動 | パガン |
10日目 土 | 2002/02/23 | 遺跡を馬車で観光 | パガン |
11日目 日 | 2002/02/24 | ポパ山ハイキング | パガン |
12日目 月 | 2002/02/25 | タクシーでピーへ移動 | ピー |
13日目 火 | 2002/02/26 | ピー市内観光 | ピー |
14日目 水 | 2002/02/27 | トンを見送ってヤンゴンへ | ヤンゴン |
15日目 木 | 2002/02/28 | シュエダゴンと買い物 | 機内 |
メンバー紹介
中嶋 明子――――――いつも陽気な八王子のオバサン
坂野 育代――――――元教師で山の大好きな大津のオバサン
干場 悟―――――――冬になると日本脱出をする旅の好きなオジサン
ナイン・ウィン・トン―ミャンマー片田舎の純真な青年
第 1日目
本日の関空発TG623便は予定が大幅に遅れて3時半到着が5時半となりました。どうもエンジン故障が原因のようです。こちらバンコクではTGフライトに限り3時間前にチェックインが始まるので、真っ先に駆けつけ、大阪からの到着便のゲートで待ち伏せをする予定でしたが、残念無念その期待は裏切られてしまいました。いつもは定時到着を自慢するTG便ですが、今回はどうしたことでしょうか?ヤンゴン行きのチェックインは5時20分から始まりますから、彼らを出迎えに行く余裕はありません。下手をすると私の方がこの便を逃すことになります。ヤンゴン行きのゲートで係りの人に聞くとまだ50人の客を待っていますから安心してくださいという説明です。時間は刻々と過ぎて行き、もう機内への搭乗が始まりました。そうこうしているうちに彼女達が登場です。やはり、同じ航空会社での乗り継ぎは安心して利用できます。これが他社便での乗り継ぎの場合は待ったなしで、出発したかも知れません。しかも、遅れているので、係員が大阪からの到着便とヤンゴン行きの出発便をゲートからゲートへ誘導してくれるという親切ぶりです。やはりTG便は信頼のおける翼と言えるかも知れません。こうして、今回の現地でのドッキングはスレスレの所で成功に終わりました。
さて、バンコクからヤンゴンは580キロの距離ですから、東京から大阪とほぼ同じです。飛び立てば1時間もかかりません。その割に機内食は立派なものが出てきました。いつもは、バングラデッシュ航空のヤンゴン行きを利用していますが、比較するとやはり、TG便は松のコースでBG便は梅という違いがあります。スチュワーデスも丁寧に食事を配り、何度も飲み物を運んできます。きめこまやかなTGのサービスも誠に嬉しいものがあります。ほっと一息ですが、出入国カードや税関の申告書を書いている間にもう、ヤンゴン上空に差しかかるという具合です。もう少し長く乗っていたくなる飛行機だったのであります。
今回は満席のTGヤンゴン行きですから、入国審査の窓口はすぐに長蛇の列が出来てしまいましたが、幸いに我々は機内で後ろの席を確保したので運良く、後ろ側の出入り口からタラップを降りて真っ先にイミグレのカウンターに姿を見せることが出来たのです。続いて不評なる強制両替の窓口が待ち構えていますが、ここも一人あたり200ドル分をFECという兌換券に変えて問題はありません。元来3人まとめて両替しても良いのですが、それぞれ窓口に立って両替を経験するのも悪くはありません。かくして、それぞれが200ドルという別名ミャンマードラーを入手しました。続いて荷物受け取りですが、これにはやけに時間がかかりました。彼女達の荷物は真っ先に出てきたのですが、私の荷物が出てくるまでには20分以上もかかったようです。これは、その時の運不運もあるようです。税関の申告が終えると観光案内所のレディがお待ちかねです。大概の客はここでタクシーと宿の手配をこの愛らしきお姉さま方の指示を仰ぐことになるのですが、今回もそれは何事もなかったように素通りです。チラホラとタクシーの運転手が直接交渉にやってきましたが、どれも2000チャットと言い値下がりはしません。そんな彼らとも距離をおいて路上に突進です。数台の車が近づき声をかけて来ましが、2000チャットから下がりません。更に一歩前進し、空港からかなり離れた場所にやってきました。そんな中を一台のタクシーがゆっくり声をかけてきました。現地語でスーレーまでいくらと尋ねると素直に1200チャットと答えてきました。ようやく素直で純情なる運転手に巡り会いほっとしました。もし、このタクシーを逃すと料金こそ安いのですが、市内バスに頼るしかありません。はるばる遠路寒い日本からのお客さまです。冷房付きのタクシーというわけにはいきませんが、この時間帯だと一刻も早く宿に入りたくもなるものです。最悪の設定をかろうじて免れることになり一安心です。タクシーは勿論メーターもありません。日本をはじめ先進国ではメーター制でタクシーは走るものという前提があります。一見合理的かもしれませんが、ここに現代文明の落とし穴を見ることが出来ます。というのは、今のような交渉が全く必要がなく、単に目的地を言えば後は沈黙の世界です。果たしてこれは豊かな社会と言えるのでしょうか?空港についてからのタクシーの手配を取り上げても文化の違いを見出すことが出来ます。日本の社会が本当に豊かなのか疑問に感じることが数多くあります。旅をすることはそんな部分を別の視点から眺めることにより、新たな発見を見出すことにあるのかも知れません。
さて、30分程度で市内に入りましたが、今回はピーロードというメインのルートを避けて、別の道を走ったようです。でも所要時間は同じで8時半前には定宿ホワイトハウスに到着です。最近このゲストハウスは客の入りが良くて主人はホクホク顔のスタッフは気持ち良く迎えてくれます。3階の部屋に行くにはエスカレーターやエレベーターなどは無く、ここでもまるで登山にきたかの如し、延々と階段を登らなくてはなりません。しかも、レストランは屋上を利用していますから、噂のビッグな朝食をせしめるには、更に階段を登るという活動をしなければなりません。でも、これは朝飯前の運動として考えると一石二鳥とも言えませんか?シーズン中には大体70名ほどの客を抱え忙しい毎日となり、オーナー一同家族は積み上げられた札束をほくそえみながら数えています。ミャンマーはインフレが激しく、行くたびに値段が改定になりますが外国人の立場からすると、昨年は1ドルで300チャットだったのが、今は700チャットです。しかし、レストランのメニューは250チャットから350チャットと倍にはなっていません。長距離バスの料金は2250チャットから2550チャットと若干高めになりました。市内バスの料金は変更なしですから、外国からの旅行者は昨年に比べると全体的に4割程度物価が下落したことになるという美味しい話です。
とにかく、今日と明日の宿は確定しました。今日一日は多くの時間を機内で過ごしていますから食欲はそんなに沸くものではありません。まだ8時半ですから、折角のミャンマー第一夜ということで、近くのレストランで乾杯となりました。お姉さま2人はビールで当方がコーラという組み合わせでウェイターは目を白黒させていましたが、そんなことはお構いなしで、感激的なミャンマーの初日を酒のつまみに優雅な時間を過ごすことになりました。さて、明日からの旅にはどのようなハプニングが発生することになるのでしょうか?
第 2日目
朝はホテルの屋上で朝食です。7時からの名物ビュッフェは飲み物、果物、中華料理、トーストと盛り沢山の品物が所狭しとメインのカウンターをふさいでいます。何から手につければ良いか迷ってしまいます。ぼつりぼつりと客が集まってきました。屋上のガーデンレストランでの朝食はなかなかの評判です。客の中には、ここで腹いっぱい詰め込んで、昼食を抜いて夕食という節約人種も登場です。一流ホテルのビュッフェに比べると質は多少落ちるのですが、ドミトリーで3ドル、シングルで5ドル、トイレシャワー付きでエアコン装備の部屋は二人で15ドルというのは良心的な価格です。この宿は客引きに手数料を払うことはなく、その分で豪華な朝食を提供しているそうです。口コミで次第に人気を高めています。誰もが知っているホワイトハウスなのです。さて、メインのテーブルにミャンマー独自の道具を発見しました。いわゆる炭火焼トースターとでも名前を付けましょうか?丸い鉄器の中に炭火がこうこうとし、穴のあいた鉄製のお椀のようなものが乗っかっています。その上にパンを置けば良いのですが、うっかりすると直ぐに焦げて真黒になってしまいます。どうも、この原始的なトースターは10秒以内にひっくり返すのがコツのようです。家庭の手作りジャムが数種類準備されています。機内食で登場するミニパックのジャムなどに比べるとまさしく自然食で一味違います。
さて、ゆっくりと朝食に挑戦している間に、友人から電話が入りました。昨年知り合ったミャンマー片田舎の農業青年が今回の旅に同行するべくヤンゴンに到着したようです。実は先月ヤンゴンから本人に手紙を出し都合がつくようであれば、2月15日にヤンゴンに来てくださいと手紙を出したのが、無事届いた様子です。昨日の朝実家を出発して、夜行バスを利用してヤンゴンに到着したそうです。ちょうどバス駅から電話をくれました。実は今回の旅は、私たちにとっては初顔合わせに近いものでした。日本国内で数度会って話しをした程度で、どのような性格の人々なのかは全く不明です。しかも、彼女達にとって見知らぬミャンマー人との旅をするには、双方とも不安があります。しかし、ここまで来た以上は引き返すことも出来ません。もう、事態は引き返すことは出来ません。私は過去5年間の間に7度もミャンマーを訪問していますが、ミャンマーの田舎の人々にとってヤンゴンに行くことさえ一生に一度というケースが多いのは事実です。ましてや、マンダレーやインレーそしてパガンの遺跡などに足を踏み入れることの出来る人々は限られています。そんな田舎の好青年を招待という形で同行させたいというのが私の動機でした。そして、2時間後に無事全員集合、はるばる田舎から出てきたトン青年も加わり市内観光をすることになりました。宿の前の喫茶店でお互いに自己紹介ですが、本人は少しばかり緊張気味です。それは当然かも知れません。私のことは多少知っているのですが、初めて目にする日本のオバサン達とこれから何処へ行って、どんな旅が始まるのか皆目見当がつきません。しかも、本人は英語が出来ずミャンマー語のみという世界です。一方彼女達は多少の英語と日本語です。かろうじて私が多少のミャンマー語を理解できるので、それが掛け橋となっているにしか過ぎません。明日のバスの切符を4人分準備して市内に繰り出すことになりました。
まずは宿から歩いて10分の距離にあるスーレーパゴダにお参りです。こんな時に地元の人が一緒だと心強いものがあります。又同時に地元の人々の熱心に祈る様子を身近に感じることが出来るのです。トンは仏様の前に向かうと自然に真剣な眼差しになり、深々と頭を垂れてお祈りしています。私たちもそれを真似て真剣にならざるを得ません。ロンジ-姿で嬉しそうにキョロキョロしています。時間とともに皆と打ち解けてきました。これは、どうも家族旅行の雰囲気に近くなって来ました。外国人とミャンマー人とが共に旅行する場合はその多くがガイドと客の関係というのが常識ですが、今回の私たちの組み合わせはそういった事を外れた特殊なものです。周囲の人々も私たちの存在が気にかかるようです。ヤンゴン市内も最近は交通渋滞が激しくなりましたが、周辺諸国のバンコクほどではありません。信号無き場所を皆が勝手に自由に横切っています。それでいて事故を見かけることは殆どありません。旧式な車両と穴だらけの道路ではスピードをあげて走行するのは不可能です。多くの車両は音だけがすさまじいのですが、実際はそんなに速度が上がっていないのです。まさしく平和を絵に書いたような交通事情です。
さて、ミャンマーの国は二重、いや三重通貨制ですから、実際の旅は多少複雑です。宿の料金はドルもしくは、入国時に強制両替で入手したミャンマードルの支払いになります。しかし、食べ物やバスの料金などは現地通貨のチャットを使います。食べ物や現地の交通機関の料金は日本の10分の1程度ですから、現地通貨を手に入れるといっきにお金持ちになった感じを受けるのです。市内バスは4円、喫茶店でのお茶やコーヒーは10円。大衆食堂でミャンマー定食を食べても70円というのが相場です。宿代は地方に行くと3ドルで豪華な部屋を利用することが出来ます。地元の人々は実際にはさらにその半額程度で利用しているのですが、それにしても、この国に足を踏み入れるとあまりの物価の安さにカルチャーショックを受けて日本に帰国するのがいやになるのです。そんなわけで、まずは両替をしなくてはいけません。ボージョーマーケットの知り合いを通してちょっと良いレートで両替をすることになりました。
その間、トンとオバサマはマーケットをぐるぐる徘徊です。ここでちょっとした事件が発生したのです。このマーケットは主にインド系少年達が便利屋さんとして罠を張っているので有名ところです。この市場の商店主や店員は英語に弱く、もっぱら地元のミャンマーのみで取引が行われています。そんな中に外国人を時々見かけるのですが、意志の疎通に一苦労しています。その仲介役をしているのが、自称マーケットガイドなる集団です。彼らの中には巧みに日本語を操って両替の取次ぎをしたり、買い物の通訳をかったりすることにより収入を得ています。ガイド達は警察が一番嫌いだそうで、時々彼らに賄賂を渡して違法な行為を見逃してもらうこともあるそうです。しかし、彼らはいつも明るい笑顔を見せてくれます。人を騙して大きく儲けようなどという悪質なものではありません。お客さんの案内を買って出て少しばかり小銭を稼いでいると見受けます。物価の違いがあまりにも大きいので彼らにとっては、外国人の購入金額の数%をコミッションとしてもらうだけでもこの国では大金になってしまいます。かといって毎日決まってそんな好都合な客にありつけるとは限りません。時々警察の手入れがあって一掃される場合もあります。それでも、逞しく彼らはここで立派な職を得ているのです。
ふとしたきっかけでオバサマたちも彼らの世話になりました。日本語とミャンマー語は文法が同じで、単語の用法も近いものがあります。ミャンマー語の発音は3種類の声調があり、日本語にない音が数種類あり、それを習得しない限り通じにくいのですが、彼らには生活がかかっています。どこで、どのように覚えたものか、このインド系の便利屋さんは日本語のほかに商売のコツもしっかりと覚えています。そんな彼らの御節介で買いたいものがスムーズに手に入るのも悪くはありません。概して価格というものは買い手と売り手の双方の合意で成り立つのが経済の原則です。ミャンマーの場合は他国の観光地のように極端に値段を吹っかけることは少ないようです。しかも、信じられないくらいに物価といい人件費といい安いのが現実です。一般にアジア諸国では、布地の販売と縫製は分業製ですから、布地を買うのに店を探し、縫ってもらうのに又交渉しなくてはなりません。それを一気に解決してくれるのが彼らの出番すなわち取次ぎ業務開始となるのです。オバサマたちも手馴れたもので、たどたどしい英語で精一杯価格を下げて交渉成立したもようです。お昼前に注文したドレスが夕方5時に仕上がることになりました。果たしてどんなものが出来上がるのでしょうか?
さて、ドレスが出来上がるまでまだ時間があります。この時間を利用してヤンゴン市内にある友人の僧院を訪問することになりました。行きはタクシーで駆けつけました。市内といっても町外れにありますから30分ほどかかります。実はこのお寺の一番偉いお坊さんがインドに留学するときに同じ飛行機に乗り合わし、私が節介を焼き無事にカルカッタ郊外の僧院にたどり着いたというエピソードのある所なのです。主席僧侶はインドの大学に留学中で不在でしたが、次席僧侶が生徒を前にして授業中だというのに拘わらず、それを中断して私達を迎えてくれました。勉強中だった小坊主達は目をくりくりさせてじっと我々を眺めています。苦手な勉強から開放されたのが嬉しいのか、私達の顔を見るのが珍しくて嬉しいのか良く分かりませんが、ここでも、ミャンマー独自のゆったりとした微笑に出くわすことになったのです。僧侶は我々をもてなすが為に小坊主の一人に冷たい飲み物を買いに走り出しました。
ミャンマー各地にはこのように僧院が数多くあり篤志家の寄付によって運営されているのが実情です。一種の教育福祉事業のような一面も兼ね備え、国家の中で根強くその機能を果たしています。寺小屋のようなもので、ここに入れば無料で読み書きが習得でき、仏教についても学ぶことが出来ます。俗人はお寺に寄付し、僧侶に喜捨をすることにより、後にありがたいお話を聞くことが出来、心の平和を得ることが出来ると信じています。そんななだらかな、滑らかな人々と寺院の関係が何百年と続いているのがミャンマーです。軍事政権といえども宗教指導者を大切にしています。TVで、何かのオープン儀式のあるときには必ず僧侶の姿が映し出されます。満員の市内バスでも必ず僧侶席があり、優先的に席を譲ることが義務となっています。
ここに、ミャンマー独自の社会の仕組み、いやミャンマーという国の平和の秘密が隠されているのではないでしょうか?最近の日本は寺院や僧侶の存在がおろそかになっています。物質至上主義と化した日本では寺院も一つの経済活動をになう場所になってきました。幼稚園や学校の経営を手がけ、檀家からの寄進だけでは成り立たなくなってきました。ミャンマーでは、人々は惜しげもなく寺院に寄付をしています。この寄付の風潮は裏を返せば、一種の賄賂と同じ意味になります。ミャンマーの現政権の官僚が賄賂の件で首になったと新聞で報道されています。昔の政権も賄賂がはびこり、一掃するのに軍事政権が復活したという歴史を抱えています。かくして敬虔なる仏教徒がお寺に寄進するという体質がそのまま政治の舞台でも繰り広げられるのは当然です。西洋の合理的精神がこの国では通用しない理由は、仏教を基本とした中道でファージーな感覚を受け継ぐからではないでしょうか?寺院や僧院に寄進する富を工業や農業のインフラ整備に充当すれば経済成長も急速に早まるでしょうが、誰もそんなことに飛びつきません。これが、今のミャンマーの基本かも知れません。私達は経済の成長を優先して、発展の発展を重ねた結果、皮肉にも大きな環境問題を引き起こし、複雑な人間関係をもたらし、ひいてはそれが、大きなストレスとなり世の中全体がぎすぎすするという結果をもたらしました。ミャンマーの社会は政治体制がどのような方向に進もうが、陰では僧院や寺院が大きく社会に影響を与えて続けているのです。
僧院の見学を終えて市内に帰るには31番のバスを利用しました。ミャンマーにきて今日で2日目です。日本の都市を走るバスとは雲泥の差があります。木造オンボロ市内バスの初体験が始まりました。料金は一人1円とか2円という設定で、時々びっしり満員になりますが、器用に客が中へ中へと詰め込まれて行きます。ちょっと荷物があって邪魔になると座っている乗客がスウーと膝の上に預かってくれます。日本でかばんを他人に預けるのは失礼にあたると考えられるのですが、ここでは無意識のうちに人に預けることになります。そんな信頼関係の強い満員の車内です。回教の国では、満員バスといってもパキスタンのように男女の席が完全に分断されている市内バスもあります。この場合、車掌は男性専用部分と女性部分を行ったり来たりして、切符の販売に大忙しです。ここでは、そんなことを誰も気にしていません。乗客も自己申告で支払いしています。ミャンマーのことですから、切符を受け取ることなどありません。車掌は前の入り口と後部入り口と二人いるのですが、乗り込んだ客をしっかりと覚えていて、料金の徴収を怠りません。超満員のバスの旅は延々と40分の乗車です。オバサマたちはこの車内で庶民の暮らしをつぶさに眺めることが出来満足そのものでした。最初は立ち席で結構くたびれたと思うのですが…。
さて、タイミング良くオンボロ市内バスはマーケットの近くに到着です。約束の5時は目前です。ドレスの出来栄えはどうでしょうか?そら急げ!急げ!時間ぎりぎりに仕立屋さんに到着です。彼女も私達の到着を待っていたようで、私達が着くと直ぐに完成品を出し着てみるように勧めてくれました。仕立屋としての誇りでしょうか、作品が客の体型にぴったりしているかどうか気にかかるのも当然です。初めてのミャンマードレスですから、着付けは仕立屋さんが手取り足取りで教えてくれます。おお完成、まるでオバサマ達の年齢が一気に若返りました。これだと30歳第でも十分通用するではないですか。仕立屋さも満足そうに弁当箱を抱えて安心して自宅に帰りました。
さて、トンはバス停の近くに宿を確保しています。今日は終日我々のお供をしてさぞかし疲れた様子です。何しろ昨日の夜行バスでヤンゴン入りしたのですから、十分な睡眠を取っていません。夕方になると目がトロンとしてきました。知らない人々の中に入って何がどうなっているのか不透明な会話の中にいるというのは疲れを倍増させるものです。口では大丈夫と言っていますが、顔ではケロリと明るい表情を見せています。得体の知れない日本人グループの不可解な行動を身近に体験して興味を示しているの部分もあります。買い物も終わり明日はバス停で再会することを約束して別れることになりました。いやはやトン君ご苦労様でした。
第2日目も無事終了です。宿のロビーで話し込んでいると見かけた女性が座っていました。先月バンコクで同じ宿に泊まっていた女性の姿を発見です。彼女は3週間前にヤンゴン入りをし、2週間の予定を更に延長してミャンマーの空気を楽しんでいます。一人旅の女性も交えて近くのレストランで乾杯です。彼女は小さいころ北京に住んでいたことがあり、その後中国語の習得で留学をし、大の中国ファンです。ここヤンゴンのホワイトハウスは最近中国人の旅行者が増えたのですが、中国語の話せるスタッフはいません。そんなわけで時々お手伝いに加わることもあるそうです。来週はバンコクに帰り、カンボジアを経由して日本に帰国の予定とのことです。瞳さんはその名の通り明るい瞳を輝かせて今までの旅の話をしてくれました。タイランドは年間1,000万人の外国人旅行者が集まります。それに比べるとここヤンゴンは年間40万人程度と報じられています。しかし色々な人々がそれぞれの夢を抱えて集まってくるのです。
第 3日目
ミャンマーに初めて足を踏み入れたのは16年前になります。当時は1週間しか滞在許可が出ず、バンコクの免税店で酒とタバコを購入してヤンゴンで販売すると1週間の滞在費用が捻出できるという不思議な背景がありました。ダッカの空港で知り合った南インドのタミル人は、元ヤンゴンに住んでいたのですが、数年前にマドラスに移住し今回は友人を訪ねてのヤンゴン滞在を予定していました。当時私はインドの旅を数回続け、タミル語を話すことが出来ました。それが契機でヤンゴン市内のインド系ミャンマー人との交流が始まりました。彼らは私が器用に彼らの母国語を話すのを大変喜んでくれました。日本人で北インドのヒンズー語を話す人々は数多くいるのですが、南インドのタミル語となると限られています。マレーシアやシンガポールではマレー人や中国系の人々が片言ながらタミル語を話す人々がいるのですが、私のタミル語は彼らの心にしっかりと焼きついたようです。次々と友人を紹介され、毎日ご馳走になり、宿から友人宅へとタクシーで連れ回され私の財布の中身は全然減って行きません。そんなあっと言う間の1週間の豪勢な旅でした。そんな友人の中で、市場で穀物商をしているラーマンさんと深く知り合うことになったのです。数年前に友人達と農産物の輸出入の事業を始め、今は社長さんです。1996年以降再び私のミャンマー熱が高まり、再度訪問を重ねることになりました。そんな友人がいたから私のミャンマー訪問も回を重ねることが出来ました。早速表敬訪問です。ヤンゴンの中心部に事務所を構えていますから、宿からも近く何かと便利な場所です。目をくりくりとさせた大柄のラーマンさんと会うのは一月ぶりです。「何か問題があったら知らせてください。何でも応援しますから」と気持ち良く私達を向かえてくれました。ここでご馳走になるお茶は、ヤンゴン市内で一番美味しいお茶(ミルクテー)でした。
さて、無事挨拶を終え、ラーマンさんの「バス駅に行くのなら車を用意しましょう」という申し出を断り、市内バスで長距離バス駅に向かいました。11キロ離れた郊外にある駅までは20チャット(4円)です。今の時間帯はラッシュを外れていて、始発から乗り込むのですから座席も容易に確保できます。オバサマたちは目をくりくりさせて車内の様子を観察です。バスを降りると待っていたかのようにトンが嬉しそうに手を振って待ち構えていました。まだ時間は早いので、指定のバス会社の事務所に荷物を預けて近くの食堂で腹ごしらえです。さて、これから長い旅の始まりです。トンは初めて出かける未知の土地に期待をかけているようで、嬉しそうです。時間と共に本人は次第に私達に馴染んで来ました。知らない間に人と人との信頼関係が築き上げられていきました。
タウンジー行きの長距離バスは予定では明日の早朝7時ごろに目的地となるシュウェニャンに到着します。西日本JRバスの外装をそのまま残した日本の中古の車両は定刻13時きっかりに出発しました。延々18時間のバスの旅ですが、料金は450円と格安です。一体この国の経済はどうなっているのでしょうか?バスは数時間毎に休憩をしながら走行しますから、トイレは休憩の時に済ませておくのが長距離バス旅行術の一つです。幸いに早めに予約を入れたので座席も前方に取ることが出来ました。軽やかなエンジン音を響かせてヤンゴンから一路北に向かいました。シュウェニャンまで18時間の長旅ですから、眠れる時に睡眠をとっておくのが賢明です。最初は冷房が利いていましたが、夕方になると冷房は中止です。よく観察していると、舗装道路では冷房を切って窓を開け、工事中で埃の多い区間は窓を閉め切って冷房をオンにしています。ミャンマー式燃料節約法の一つかも知れません。
第 4日目
明け方眠い目をこすりながら飲むコーヒーミックスは格別の味がします。そろそろ目的地が近くなりました。このあたりはシャン高原でなだらかな丘陵地帯です。ほぼ定刻にバスはインレー湖の分岐点に到着しました。バスを降りるとタクシーが待ち構えていました。一人200チャットと声がかかりましたが、それはご遠慮願ってサイカーで行くことになりました。値段は一人200チャットで交渉成立、2台のサイカーが私達を乗せ、のんびりした田園風景の中を進みます。後で測定したら12キロの距離がありました。そんな中を40分揺られて宿に到着です。
トンは次第に私達の荷物を自ら進んで持ってくれるようになりました。初めて見る新しい土地に感激しているようです。宿で朝食をサービスしてもらい、長いバスの旅の疲れを見せることもなく町を徘徊することになりました。幸いに今日はこの町に市が立つ日です。カラフルな市場は見ているだけでも楽しいお祭り気分です。お花市場、野菜市場、雑貨、生きの良い魚、ミャンマー独特の葉巻などが山積みになっています。宿の前には運河があり、それは市場へと通じています。荷物を満載したボートがひしめき合っています。こぢんまりとした町は散歩するにも手ごろで、排気ガスも少なく、遠くからボートのエンジン音がカラカラと響いてきます。市場では、ビニール袋のほかに木の葉を利用した包装材も見かけます。穏やかで且つ賑わいのある市場をしっかりと見学することが出来ました。町を散歩していると仏教寺院を見かけました。地方の無名なお寺は外国人料金などという野暮な設定はありません。トンは嬉しそうに早速お参りです。じっと壁に描かれた仏様の絵物語を真剣に読んでいます。朝の散歩はあっと言う間に終わり、昼ご飯が近くなりました。宿の近くの大衆食堂で焼き飯を食べましたが、一人200チャットですから40円という料金です。これでは、いつになったら手持ちの100,000チャットを使い切るのでしょうか?
少しばかり休憩を取って午後はシャン州の州都タウンジーまで足を伸ばすことにしました。ラインカーで大体1時間の距離で、料金は一人150チャットです。概してこの国のラインカー(乗合ピックアップ)はいつも混雑していて屋根にも人が乗っかっている光景をよく見かけます。トンは屋根に席を取りました。私は後ろの立ち席です。オバサマは何とか中に座ることが出来ました。乗り合わせたタウンジー大学の女学生と楽しい会話教室が始まりました。オバサマは彼女達から差し出されたひまわりの種を捨てるわけにもいきません。地元の人々のしぐさを真似てもうまく割ることが出来ません。しまいには、可憐な女学生がプィと種を割って差し出してくれるという親切ぶりです。牛詰めの車内はそんな和やかな空気に包まれて快走していきました。終点が近くなるころ私の手足はもうガタガタになっていました。ここで、車内に潜んでいた女学生と記念撮影をしましたが、トンは恥ずかしそうに距離を置いて遠くから女学生を眺めています。そんな彼を無理やりに皆の中に押し込んで撮影をしたのです。タウンジーの市場周辺を散歩してお茶を飲んでいるともう4時半を過ぎました。最終のラインカーは5時半と聞いていますから、そろそろ帰りの便を見つけなければなりません。トンは我々の次なる行動を察知し、インレー湖に帰るラインカーの乗り場を探り当ててくれました。何かと便利な青年で、オバサマ達とも打ち解けてきました。
ミャンマーの主要な観光地といえば、マンダレー、インレー湖とパガンの仏教遺跡が挙げられます。こういった土地は他の無名の町に比べると格段に整備が行き届いています。夜遅くても市街には街灯がこうこうとしています。しかし、今回は運悪く夕食に向う道中で、オバサマの一人は竹串が足に突き刺さりトロリンコと血が流れてきました。一同顔面蒼白、どのように処置するべきか重大会議です。トンはそんなことは日常茶飯事と見え、大騒ぎをしている我々の一挙一動に関心があるようです。ミャンマーを旅行中何かの傷が原因で足の指を切断した人もいるそうで油断は出来ません。しかし、次第に出血も止み一命?をとりとめたけはいです。
私も足の裏にとげが刺さったのでしょうか、チクチクしています。こちらの人の視力は抜群ですから、彼に見てもらうことにしました。「ほらほら!これが取れないかなぁ?」と相談すると直ぐそばにあるトゲのある花木のトゲを引きちぎり、キュッキュットつついて瞬時に刺抜きをしてくれたのには驚きました。私達の世界では、こんな場合にはトゲ抜きかピンセットを利用して取り出すことしか頭に浮かびません。彼の場合はすぐ近くにある枯れ枝や花木のトゲが浮かびあがったのでしょう。確かにこの方法がもっとも自然な手段といえるでしょう。文明社会にどっぷりと浸った私達は何と不幸なのかと改めて深い反省の念に駆られてしまったのです。日本人というのは変なことで大騒ぎしているよ…!
今日の夕食は中華料理です。トンは真面目を絵に描いたような性格で、お酒も飲まず、タバコも吸いません。時々自分の嗜好品であるミャンマーチュウインガムを口にする程度です。それが、一つ2円が相場です。食後には決まって、2円札を握りしめて「チョットゴメン。あれを買ってくるから」と嬉しそうに近くの店に入っていきました。「本日は長旅お疲れ様でした。」では乾杯といっても、女性2人はビールで男性2人がジュースという変則的な組み合わせですから、ウェイターが戸惑ってしまいます。そんな組み合わせも世界にはあるのです。本当に今日はお疲れ様でした。乾杯!
第 5日目
今日は終日ボートを貸しきってインレー湖の周遊を楽しむことになりました。料金はAコース3500チャット、Bコース5000チャットです。Aコースは3時過ぎに、Bは5時過ぎに帰着となります。今回はAを利用しました。船は貸し切りで4人分の椅子が既に準備され私達を待っていました。船頭も気立てがよさそうに見えます。ほぼ定刻に出発。10分ほど水路を走ると視界が開けて大きな湖を目にすることが出来ます。船が近づくと水鳥がバタバタと散っていきます。この地方独特の片足漕ぎをしている船が、漁をしています。大きなバスケット型の竹製の筒を利用しての捕獲作戦です。しばらく行くと湖の中にトマト畑を見ることも出来ます。この湖は水深が浅く、最大で6フィートです。湖底の土を汲み上げ天然の肥料にしてのトマトはさぞかし美味しいことでしょう。船は水上集落の中を走りますから、そこに住む人々の生活をつぶさに観察することが出来ます。この地域は道路がありません。各家庭には小船が家の床下に鎮座し、それを利用して隣の家へ、買い物にいくようです。大人も子供も小さいころから水にはなれた生活をしているので、スイスイと船を操っています。自然と一体化した人々の生活にしばし、感動の連続です。
1時間ほどそんな景色を楽しんでから、市場に上陸です。この湖では周囲の主要な町に5日ごとのサイクルで順繰りに市が立つことになっています。船を降りて20分ほど歩くとカラフルな市場に到着です。普段はひっそりしているのですが、5日目には周囲の村人が集まって賑わいます。周囲はサトウキビ畑が広がっています。その中には点々と小さなサトウキビ精製所があります。ゆったりとした田園の中、日本では想像もつかない原始的な製法、製造所です。数人の従業員が黙々と作業をしています。この湖の水上集落には絹織物、銀細工、傘などを作る家内工業が盛んで、それを織り交ぜての船旅です。船頭と土産物屋との間に何らかの協定があるのでしょう。工場兼販売所はいつも気持ち良く我々を迎えてくれます。この機会を利用してトイレを拝借、お茶をご馳走になるのです。湖上には有名なお寺がありますが、その少し手前のレストランで昼食です。お昼ごろになると何艘かの船が専用の桟橋に横付けになりました。最後にお寺に立ち寄って船が帰途についたのは3時半でした。
トンの母はこのシャン州の出身で、父親はビルマ族なのです。しかし、この二人はどのように知り合ったものでしょうか?母の実家と現在居を構えているタエットは1600キロ離れています。今でも母が実家に帰ろうとすると3泊4日はゆうにかかる距離です。母方の叔母が今もミッチーナという町に住んでいるそうです。最近、ミャンマーの交通事情は大きく改善されました。ゆっくりですが、道路が、橋が整備され、人々の移動がスムーズになっています。しかし、トンの両親が出会った時代はどのようにして行き来をしたものでしょうか?インドの田舎などで結婚というと、新郎と新婦の実家の距離は遠くても100キロから200キロの範囲にあり、隣町や隣村から嫁を貰う場合が多く、ほぼ一日で行き来できる距離にあります。今は何千キロも離れた人と人との交流が盛んになり、南インドのケララ州の人が2000キロ離れたカルカッタの人と結ばれるという状況が発生します。日本でも昔は、隣村からお嫁さんを貰っていたでしょう。今は北海道の人と九州の人が一緒になるのも珍しくありません。時には国境を越えて国際結婚も盛んです。交通機関が発達し、何処からパートナーを貰っても一日あれば、たとえそれが、地球の裏側であっても相手の里にたどり着くことが可能になりました。トンの両親はどのような運命の巡り合わせがあったのでしょうか?彼は母親の里の雰囲気をたっぷりと味わっているようです。10歳の時に1ヶ月母親の里に行ったことがありますから、それを思い出しているのでしょうか?
水上散歩も無事終え、宿で一休みするともう、夕食の時間です。昨日は中華料理でしたから、今日はミャンマーカレーの店に挑戦です。さて、人に尋ね歩いてようやく発見したミャンマーカレー専門店。ここの宿が一風変わっています。メニューはなく、「ミャンマー人は350チャット、外国人は500チャット頂くことになっています。」とウェイターが申し訳なさそうに事前に通告してきました。外国人は何度もお代わりして沢山食べるからだそうです。宿代や乗り物で外国人料金と現地人料金という二重の設定はあるのですが、食堂でそんな例は初めてです。しかし、こうして事前に説明があるのがいかにもミャンマー的といえましょう。初めて体験するミャンマーカレーの定食セットはオバサマたちのお気に入りの一つとなりました。
標高1,000メートル付近にあるミャンマーの風光明媚な湖、インレー湖は自然と人々の生活が一体となり多くの実りをもたらして来ました。豊富な農産物はヤンゴンやマンダレーなどの都市に送られていきます。しかし、湖は知らない間汚染を受けつつあるのも現状です。便利なプラスチック製品の利用が増加し、強力な合成洗剤の使用が拡大し、湖に流れ込みはじめました。いすれはインレー湖も周囲の人口増加や現代文明の浸透により自然破壊が進行し、バランスを失うときがくるのでは無いでしょうか…?
第 6日目
2日間ゆっくりとニャウンシェの滞在を楽しみ、今日はカローへ移動です。タイミング良く8時半に宿の前からアウンバン行きの乗合トラックが出発です。始発ですから、席をしっかりと確保することが出来、しかも料金は地元の人と同じ300チャットです。これだと、乗り換えは一度で済み、短時間で移動できます。およそ2時間のラインカーの旅は日本のオバサマにとって初めての体験です。人と荷物を満載した庶民の足は高らかに発車オーライ、トンは屋根の上に乗るのが大好きです。ラインカー試乗こそミャンマーの人々の生活を知る貴重な手がかりとなります。どんなに満員でもたくみに客を詰め込んでいく技術に感服します。そして、老若男女がそれぞれの立場をわきまえて譲り合うという微笑ましい光景を目前にすることが出来ます。若いお兄さん達は混雑してくると屋根に自分の場所を確保します。お年寄りや女性には必ず席が割り当てられていくのです。車内は平和そのもので皆和やかな雰囲気に包まれています。日本の満員電車は皆無言でヘッドフォンを耳にあてている人、新聞に目を通している人、そして全員の顔が引きつっています。それに比べるとここ、ミャンマーの超満員ラインカーは雲泥の差を感じてなりません。
そんな和やかな車内に身を寄せているともう終点アウンバンに到着です。ここで、この州の名物料理シャンカオソエという麺料理に挑戦です。一杯100チャットですから20円です。全体の分量は少ないのですが、具沢山で日本のうどんに似た味がします。ここからは20分ほどで今日の目的地カローに入ることが出来るのです。ラインカーもいくつかタイプがあります。大きな町同士を結ぶ車両は比較的新しい車両ですが、小さな町を走る短距離のラインカーはランクが下がりボロさが一段と低下してくのが常です。案の定、ここから先のラインカーはこれでも車?動いてくれるかなと心配になるような代物でした。しかも、車掌のドレスもぼろぼろ、シャツの背中がぽっくりと破れたままです。そんなことはもうお構いなしです。乗り物は動けば最高、車掌は料金を徴収して客をうまくさばいてくれると十分です。どうも日本の国は必要以上に安全、清潔をうたったが為に物価上昇を招いたのではないでしょうか?
さて、ここカローはミャンマー国内でもネパール系住民やインド系住民が多く住んでいる特殊な町です。英国植民地時代には避暑地として栄えた町ですから、何となく垢抜けした町の雰囲気があります。仏教寺院、回教寺院そして教会が共存し平和の里の見本とそのものです。今はこの標高1300メートルのカローはベストシーズンで、暑くもなく寒くもなく、日本の初夏に似た気候です。周囲には松林があり、どことなく景色も日本のそれと同じものを感じます。まずはバス停近くのネパール系喫茶店ラクシュミにご挨拶です。カローには友人が沢山います。早速ネパール語でご挨拶です。これには周囲の人々もびっくりです。インドのシーク教徒の友人にはヒンズー語で、南インド系のタミル人のガイドにはタミル語でご挨拶ということで、私の頭の中はごっちゃになっていきますが、それが又楽しみの一つになっていきました。いつも投宿するゴールデンリリィはトイレつきの部屋は満室でパラミモーテルに変更です。料金交渉もすんなり運び、こぎれいな部屋は一人4ドル、ミャンマー人のトンは1500チャットで利用できます。彼も始めてのリッチな宿に興奮しています。まるで王子さまになったように喜んでいます。
第二次世界大戦の時に日本軍はミャンマーにも侵攻しましたから、年配の人々の中には日本語を話す人も多くいます。多くは片言の日本語ですが、そんな中でウラミンさんは今もきれいな日本語を話す一人です。時々、日本からの戦跡巡礼団の世話をしたり、日本語教室を開いたりしています。時々日本にも出かけることがあるウラミンさんとはもう5回目になる気心知れた仲になりました。予告も何もない突然の訪問に驚きもあったでしょうが、お茶をご馳走になり、初対面のオバサマたちとの話も弾み、楽しい時間が過ぎました。明日はこの町から列車を利用してマンダレー方面に向う計画です。トンと連れ立って私は駅へ明日の列車の予約です。その間オバサマ達はウラミンさんと話に熱中です。
夕方は裏山へ夕日を見に出かけることになりました。トンの村にも小高い丘があり、時々森林の切り出し作業などもしているとの話です。彼は池に放たれた魚が息を吹き返したがごとく山の中を歩き回っています。オバサマは写真をとるのが面倒なのでトンにカメラを預けてしまいました。本人は興味しんしんでバチバチ写真をとるのにご機嫌です。あたかも一つの家族のように時間が過ぎていきました。
次第に私達の心の絆が深まると共にトンの口からたどたどしい日本語が出てきました。そしてオバサマたちからは片言のミャンマー語が出てきました。ミャンマー語は声調があって発音は難しい部分があります。しかし、口に出して何度も発音してみると少しは分かるようになります。こうして、夕食時はミャンマー語会話教室も併設されることになったのです。そんなミャンマー語の中で私達に覚えやすい文章もあります。オノサーレは分からない、パイサーレは腹が減った、ヤバレーが大丈夫という意味です。今日は生活必需文の3つを覚えることになりました。一方トンは私達の会話に日本語特有の語尾「ね」に注目したようで、何でも最後に「ね」を付けるようになりました。「おはようね」と彼が発声異したときには笑いこけてしまいました。今日は夕食後も会話熱が高まり、更に一軒喫茶店をまわりミャンマー会話教室が続きました。
第 7日目
高原の朝は清々しいものがあります。タージ行きの列車は12時発ですから時間はまだたっぷりあります。日本の光景に似た松ノ木林の散策は心を楽しくしてくれます。どこからともなく、可愛い子供が私達に花をささげてくれます。これがネパールなどでは決まって後でお金を請求され、がっかりするのですが、ここではそんな心配はありません。道路わきに咲いた可憐な花を摘んで追っかけてきます。恥ずかしそうにハイどうぞと手渡して去っていくのです。そんなことが2度もありました。
さて、列車は12時出発ですから、30分前から乗車券の販売が開始になります。指定された時刻に駅に到着すると、駅員が申し訳なさそうに「貴方の列車は5時間の遅れです。バスを利用してタージに行くのが良いでしょう」と説明してくれました。これは大変なことになりました。計画変更です。この列車には2度乗ったことがあります。道中の景色は抜群で33回のスイチバックも圧巻です。80キロの山岳地帯をゆっくりと6時間かけて運行する観光ルートです。バスでいけば3時間少々で目的地に入ることが出来るのですが、列車の旅も体験したいものです。そんなもくろみが瞬時にして消滅したのです。スシ詰めのラインカーの世話になるしかありません。トンは屋根の上に席を確保しました。私も見習って屋根の上です。視界良好180度の展望が開けて悪くはありません。ラインカーは山道ゆえにそんなに早く走ることは出来ません。車両が古いのでエンジンの音だけがやたらと煩く聞こえるのです。オバサマたちは外国人料金で一人1,000チャットを請求されました。その分は責任を持って優先席を提供してくれます。地元の人は400チャットです。始めは高原地帯のさわやかな風を浴びての快適な屋根の上でしたが、山を降りるのにつれ、気温が高くなり、埃の分量も増えて来ました。あと1時間の辛抱というところでラインカーはノックダウンしたのです。しかし、それも手馴れたもので、20分で修復を終え再び疾走です。道中でオイルを補給したのは良かったのですが、しばらくはエンストの繰り返しです。一体この国の車はどんな性格をしているのでしょうか?5回ほどエンストを繰り返しようやく本調子にもどりました。合計3時間半の間揺られつづけた甲斐あって、お尻には床ずれが出来たのは私だけではなかったようです。しかし、我々は果敢にもそんな苦痛は何のその、逞しく次へ次へと行程をこなしていったのです。
隣の席(屋根の上)に乗っていたミャンマー人が「私はヤンゴンに行くのに列車を利用します。貴方もヤンゴンですか?一緒に駅に行きましょう」と気を使ってくれました。そんなわけで無事駅に到着。時間を確かめるとマンダレー行きの列車は時刻表では6時半ですが、1時間遅れて7時半に到着するとの話です。所要時間は3時間ですから、マンダレーには10時半が到着だと納得して切符を購入しました。べらべらとミャンマー語でまくし立てあっという間に切符の手配が済みました。外人は3ドル、ミャンマー人は100チャットです。周囲の人々、そして駅員も私のミャンマー語にあっけに取られたようです。出発までまだ3時間ありますから、近くの喫茶店で休憩し、更にレストランで休憩するはしご作戦を展開です。陽が落ちて涼しくなり、この3時間の休憩ですっかりと疲れが取れました。
さて、列車が到着する7時半を目がけて駅に戻ったのですが、更に1時間遅れるとの話です。となるとマンダレーの宿につくのは真夜中になってしまいます。あれあれ、この町に泊まって明日の朝の列車で行けばよかったのかなと後悔の念が沸いてなりません。しかし、切符は既に購入しました。もうしばらくすると列車は間違いなく入線します。もう覚悟を決めるしかありません。マンダレーは以前にも数回訪問したことがあり、駅と宿はそんなに遠くはありません。何とか解決できるでしょう。そんな一抹の不安を抱えながらの夜汽車です。木製の座席が並ぶ古い車両にオバサマたちは、不平不満を述べることなく、逆に過去の夜汽車の旅を連想して楽しんでいました。私としては、一刻も早くマンダレーに到着することを願うしかありません。そんな時に限って信号待ちや対向列車の交換に時間がかかるものです。車内は勿論ミャンマーの庶民の匂いが立ち込めています。他の国に比べて安堵感があるのが何よりもの救いです。
とうとう列車はマンダレーに到着しました。時計を見ると11時45分です。列車を降りるとサイカーの客引きが待ち受けています。そんな中を掻き分けて駅前にたどりつき2台のサイカーに分乗し、ひっそり静まり返ったマンダレーの町を15分ほど揺られ、以前宿泊したガーデンホテルに到着です。宿の玄関はもう鍵がかかっていましたが、玄関に近いところに従業員が眠っています。地元の世話好きな人がひょっこり現れて、起きろ!起きろとガンガン鉄格子の戸を叩いてくれました。まもなく、受付の電気がつき見覚えのあるタミル系のオジサンが我々を迎えてくれました。即私はタミル語を交えて料金の交渉です。めでたく成立、冷房付きの部屋は一人5ドル、トンは1800チャットで利用できることになったのです。まさしくこの日は危機一髪に長い日だったのです。それにしてもオバサマ達の元気ぶりには脱帽です。何かしら耐久力のレースをしているかのような今回の企画にべったり張り付いて病気知らず、医者要らずです。竹串刺傷事件やチョット下痢気味というマイナーなことはいくつかあったようですが、いずれも大事には至っていないのが幸いです。
今日で旅の半分は終了しましたが、極めてユニークな体験を盛り込んだツアーです。それを列挙すると以下のようになるでしょう。
- 庶民の足ラインカーに乗ってミャンマー人を理解しよう。
- 深夜の列車はノスタルジアが沸いて最高の雰囲気が沸く。
- カローに来たらウラミンさんに出会ってみよう。
- 夜行バスの長い旅も経験の一つとして貴重なもの。
- ミャンマー友人との道連れは、相互理解を早める。
- デラックスと簡素な宿の組み合わせも楽しみの一つ。
- 現地食にも様々あり、州によっても異なります。
- ミャンマーならでは異種類の乗り物を体験できる。
- 人を呼ぶときの口笛ミャンマー風を実践しよう。(男性のみ)
- ミャンマー喫茶店の雰囲気を味わおう。
- おまけですが、マルチ言語のHOSHIBA氏をよろしく。
第 8日目
昨日はぐっすり眠りにはいり、昨日の緊張感は吹っ飛んでしまいました。宿を2日ずつ取るというのは翌日ゆっくり出来るという利点があります。パッケージツアーは豪華な宿に泊まり歩くのは良いのですが、毎日移動の連続ですから、気分的に落ち着かないものがあります。それよりも安宿で連泊するのが疲れをほぐす最善の策かも知れません。ホット・シャワーも出るし、エアコンもついているし、TVもついていますから満足できる宿です。トンもぐっすり眠りこけていました。
さて、マンダレーの丘といえば有名な場所で旅行者必見の一つです。私は一度出かけたことがありますから、トンにオバサマたちの案内を任せ、喫茶店でお茶を飲んで休憩です。1時間半ほどすると仲むつまじく皆が帰ってきました。トンは一冊の本を大事そうに抱えています。前回もそうでした。ピーの有名なお寺に一緒に参拝に出かけたところ、参道の店で本を見かけ嬉しそうに買い物をしていました。英語とミャンマー語の教本です。何故かミャンマーのお寺の参道沿いには数珠屋、仏具屋、土産物やそして、本屋さんが軒先を連ねています。今回は日本語とミャンマー語の教本です。オバサマ達が良き導師となり、着々と日本語が上達していきます。私達が日本で購入する書籍は立派な装丁で高価なものですが、ミャンマーのそれは、一冊50円程度で分厚い本を買うことが出来ます。しかし、彼にとっては一日の給料を越える金額です。その本を大切そうに、あっちを開きこっちを開きして会話の練習です。中学校を卒業しただけで家計を助けるために農作業に従事している青年は嬉しさで一杯です。ミャンマーは識字率が高いことで有名です。おそらくそれは、仏教を前提にしている僧院が教育部門を支援しているからでしょう。どんな田舎に行っても僧院は必ずあり、普通の学校に行けない子供達は無料で読み書きが習得できるという制度を維持しています。インドやバングラデッシュのリキシャ(ミャンマーではサイカー)ドライバーの多くは儲けたお金を酒や賭博に使い、彼らの多くはその生活が荒んでいるのですが、ここでは、閑があれば読書をするインテリドライバーを多く見受けます。さて、教材は揃ったのでトンの心は一層明るさを増したようです。
昼食を終え、私はちょっと両替(FECからチャット)です。インド系イスラム教徒のオジサンが店番をしています。両替を依頼すると息子が裏から登場。自転車を飛ばしてどこかへ消えていきました。「店の親父は10分ほど待っておくれ、今お金を用意するから」ということです。ちなみに両替を看板に挙げている中級レストランは660チャット、貸し自転車兼両替取次店は690チャットというレートを提示してくれました。当然のことながら、後者に軍配です。
午後からは郊外にある200年前の木造の橋ウービンに出かけることになりました。ここでも、トンは数多く通過するラインカーの中から上手に我々の目的とする車を見つけ出してくれました。ミャンマーの人々は知らない人には親切にものごとを教える習慣があります。そして、知らない人々は何の恥じらいもなく、他人から教えを請うのが当然です。日本の現状を振り返ると、情報過多で人に道を尋ねることが少なくなりました。最近はやりのカーナビは人間性を抹殺する機器のさいたるものかも知れません。こうして、ミャンマーの人々の実生活に触れてみるとうらやましくて仕方ありません。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の損」という諺がありますが、日本の国ではそんな諺の持つ意味が不要になった社会かも知れません。人と人とがどのように付き合えばよいのか、人としての基本が失われた社会と見るのは私だけでしょうか?立派な木造の橋はのんびりした田園の中にあります。しばし、ここでテータイムです。夕方は超有名なマハムニ寺院の観光です。このお寺、外国人は3ドルとなっていますから、トンの登場です。彼にオバサマの案内を依頼しこちらは、陰でタバコを一服。地元の人は無料で外国人は3ドルの拝観料ですから、待遇がぐっとあがり、係員が鐘のつき方を手ほどきしてくれるという超VIP級のお参りです。トンも熱心にお参りに励んだそうです。
さて本日の行程は全て無事終了し、夕食の時間になりましたが、トンの様子がどうもおかしいのです。あれあれ、ご飯の前に薬を飲んでいるではないですか?どうしたのかと聞いてもチョットとしか答えません。本人は食欲もなさそうです。我々はそんなことは一向に構わず夕食を済ませ一緒に部屋に帰りました。トンはバタンと寝込んでしまいました。どうも熱があるようです。オバサマから体温計を借りて測定すると7度6分あります。これだと、体がだるいのは当然です。早速、全員一致で手厚い看護が始まりました。7度6分といっても油断が出来ません。もしかすると、もっと上昇するかも知れません。オバサマ達の心は深い悲しみで一杯です。「ここで倒れたら実の母親がどんなに心配するだろう、私達にも責任があります。一刻も早く回復するように手を尽くそう」私も気が気ではありません。額のタオルを交換たり、定期的に熱を測ったりしましたが、熱は一向に引こうとしません。7時に薬を飲んだとすれば、そろそろ熱が下がっても良いのですが、空腹で薬だけを飲んだのがまずかったのかも知れません。中国製の薬を購入して飲んだようで、包装材には漢字が混じっています。10時過ぎに無理やりビスケットを胃に流し込んで、日本製の熱さましを投与するとあっと言う間に熱が引き始めたではないですか!一時は、彼の様子を見て明日早朝の出発を延期しても構わないという申し出もありました。12時過ぎて再び熱を測ると6度台に大きく下がり、本人は汗びっしょりになっていました。微熱が続いた状態で汗をかくということは、熱が下がって行く前兆です。どうやら峠は越えたようです。全員ほっと胸をなでおろすことが出来ました。いやはや現地人の強靭さには驚きです。握手をしても、いかにも農家の青年という分厚い皮膚を感じます。夕方マハムニ寺院へお参りした時は、快活に振舞っていたのですが…。
一緒に旅を続けて1週間が経過しました。トンは周りの人々が日本人ばかりで、精神的に疲れが溜まったのではないでしょうか?いかにミャンマー人は楽天的性格の持ち主といえども、初めての土地、初めての旅、見知らぬ人々との会話、今まで食べたことの無い食事、そんな全ての事柄が毎日毎日めまぐるしく変化し、それを消化するのに限界に達し熱が出たのかも知れません。最後に待望のマハムニ参拝を終えてがっくりときたのかも知れません。目に見えないストレスが熱を引き起こしたと考えるのが妥当でしょう。私達の看護が奏をなしたのでしょうか?何とか災難は去って行きました。
第 9日目
パガン行きの船は早朝6時出発です。前日予約していたサイカーは5時に私達を待ち構えていました。宿のオジサンが親切に朝食のセットをナイロン袋に詰めて手渡してくれました。ミャンマーの朝食制度はあくまでもコンプリメント(サービス)として提供されているのですから、食べない人は食べない人で宿は経費節約になります。しかし、朝早く出発だから、パックにして手渡すという親切ぶりに感激せざるを得ません。朝まだ夜が明けない間からサイカーは待ってくれているのも感動です。そんな親切の塊を肌で感じるのがミャンマー旅行の醍醐味なのです。せっかく頂いたゆで卵は超半熟で殻を取って食べるには特殊な技術が必要になりましたが…。
船は定刻に出発しました。外国人は16ドルですからチャットに換算すると10,200チャットです。それに引き換えミャンマー人は600チャットですから20倍弱の開きがあります。ミャンマー人はデッキクラスを指定され、外国人には専用の椅子席が提供されました。トンにはどうも納得いかないようです。かといって私達だけが、別室のふかふかした椅子席に座っているのも気が引けます。結局我々も甲板を利用して、ごろりと横になることに決まりです。船室内は見晴らしが悪く、何時の間にか外人観光客も指定された船室を離れ上甲板にあがり移り行く景色を眺めています。およそ80名の外国人観光客と10人足らずのミャンマー人を乗せて夜明け前のマンダレー港南下の旅が始まりました。中国製の比較的新しい船は進路を南東にむけ、時速20キロでトロトロ出航です。船内には食堂もあり、居心地は悪くはありません。船という乗り物は誰にとっても心が和むものです。いったん出航すると乗客全員が運命共同体になってしまいます。沈没しても同じ、又悪いことも出来ません。荷物がその辺に散乱していても平気でいられるのが船旅の良さといえましょう。
そんな客の中でチャーミングなお姉さんを伴った家族連れがいました。同行している子供達ははにかみやなれど何か話しをしたがっているけはいです。彼らも私達同様パガンにいくとの話です。次第に心が打ち解け、現地の基礎化粧品なるタナカの使い方教室が始まりました。お姉さんのライライ・チュウが手取り足取りで教えています。もう即席美容院の開店のように盛り上がりました。それを見ていた外国人男性も頬を出して、私にも少しくれませんかとおねだりしてきました。ミャンマーでは船のデッキクラスが人と人との触れ合いの場所になりました。何の猜疑心もなく自然に会話が始まり、淡々とした時間が過ぎていきます。太陽が昇って甲板への陽射しが強くなると、占拠していた場所は日陰を求めてすこしずつ移動していきます。外国人専用のふかふか椅子席の船室は単なる荷物置場となって、多くの外人は最上のデッキにあがり、船旅を満喫しています。母なるイラワジ川はとうとうと流れ、田園風景が延々と続いていきます。外国人の中で日本人は私達のみ3人でした。
昨夜は熱に浮かされていたトンですが、朝になるとケロリとして快活さを取り戻しました。時々昼寝をしたり、遠くの景色を眺めたり船の旅を楽しんでいます。話には聞いたことがあるパガンの実際を楽しみにしています。私達も交代でお昼寝です。船を降りるときには例の家族連れが住所を手渡し、「時間があったら遊びに来てください」と声がかかりました。ようやく11時間の船旅で無事パガンに到着です。まずは近くの喫茶店で喉を潤して、馬車で市内にはいることになりました。今日から3日間ここエデンモーテルのお世話になることになりました。
第10日目
世界三大仏教遺跡と言えば、インドネシアのボロブドール、カンボジアのアンコールワットそしてここミャンマーのパガンの名が挙がります。数千ものパゴダが乱立する光景は目を見張るものがあります。今は廃墟と化した仏塔が当時の栄光を物語っています。しかし、今も一部の寺院が信仰の対象となり、熱心に祈りを奉げている人々の姿を見ることが出来ます。歴史書によると、この王国は仏教寺院にお金を使いすぎ、財政が圧迫されたところへモンゴルのジンギス・カンの攻勢に会い崩壊したと言われています。
さて、ホテルで朝食を取りながら貸し切り観光馬車の値段交渉です。明後日のピー行きタクシーの交渉です。パガンは外国人用の宿泊施設が乱立し、価格破壊が始まっていますから以外とすんなりと価格が下がります。宿の代金だけではなく、馬車の値段も過当競争の結果3500チャット(5ドル)で一日貸し切ることが出来ました。トンは自転車で回りたいそうで、一日300チャットで準備しました。家にも自転車が一台あるそうで、麦藁帽子をかぶりご機嫌です。本人にとっては、10日目にして初めて自由行動です。自転車なら誰に遠慮することもなく、思い向くまま勝手気ままに好きな場所を自由に回ることが出来ます。そんな時間も持たないと精神的なストレスが蓄積し、ノイローゼになっては困ります。夕方会いましょうということでお互いに遺跡観光に出発したのです。
2月下旬ともなれば、日中はかなり暑く感じます。しかし、日陰に入るとひんやりします。日本の蒸し暑さとは性格が異なり、暑いけれども快適な馬車の旅です。しかし、埃の多いのには対抗策がありません。覆面強盗のごとく、タオルを口にあてて不気味な姿で遺跡観光開始となりました。一番有名なアーナンダ寺院を見学していた時に、後ろからにこにこしながらトンが声をかけてきました。元気はつらつで、にこにこした表情です。共に鐘をついてお別れです。では、夕方また会いましょう。
さて、今回の御者はどうも人相が悪く客ずれした印象を持ちました。案の定私達が土産物屋に興味のないことを知ると、いっそう無愛想になりました。ミャンマー人の給料は一日働いて300チャット、500チャットも出れば高収入の部類です。そんな金額から考えると馬車のチャーターは一日3500チャットですから、彼らにとっては申し分のない美味しい収入です。しかし、最近は観光客の増加により、外国人がいかにお金をたくさん持っているかを知り、次第に欲張りになってきたようです。宗教が変わると考え方も異なってきます。特にイスラム教の教えでは、富んでいるものは、貧しいものに分け与えなくてはならないとされています。ですから、外国人という金持ちから金品を頂くのは当然という解釈がなされています。しかし、熱心なる仏教徒の精神にはそういった考えにはなじまないようで、トンはいつも遠慮しています。私の生活は私、あの人々の生活はあの人々と割り切った部分があります。今回の旅は「オバサマたちも一緒で、オバサマ達の財布で旅をしているから少し贅沢しているのです。二人で旅をするときは、出来るだけ安い方法で旅をしよう」本人は今回の旅を驚きの目で見つめていたに違いありません。信じられないお金の使い方です。村では一日200チャットの日当で働いていた日々を思うと格段の違いです。時々「うわぁ高いね!」と悲鳴をあげています。そんなわけで私達も出来るだけ控えめに消費する方向をせざるを得ません。
先日大阪在住のネパールの友人に会いました。同じ仕事場のパン屋の社長とともにインド料理の視察を兼ねて2週間付き添ったのですが、社長さんともなれば、買い物も莫大な金額になりかねません。社長の財布を見てびっくり、数百万の買い物をして楽しむ社長とは今回の旅を通して大きな亀裂が生じたそうです。現地の人々といかに接点を見出し、共通したものを得るには、その手法に注意しなくてはなりません。特に四六時中起居をともにする現地人との旅は、出来るだけ現地の人のスタイルに合わせる必要があります。高額な買い物は本人のいないところで密かにするのがポイントの一つなのです。幸いに我がオバサマ達の買い物といっても大変控えめな方々でほっと一安心でした。
水銀柱は益々上昇です。御者は木陰で昼寝を決め込みました。私達は午後の休憩です。喫茶店にはいると誰もがにこやかに迎えてくれました。そんな中、船で一緒だったおばさんが、私達の姿を見かけて声をかけてきました。言葉は通じませんが、身振りで何をいわんとしているかよく分かります。同じアジア人、仏教徒同士ですから、ジェスチャーにも共通したものがあり、通じ方は早いのです。これが遠く離れた西洋やアラブの人々だと、その仕草も大きく異なり場合によっては逆の意味にとられ誤解を招く場合もあります。このオバサンは、にこやかにハエ追いの役をかって出てくれたのです。ありがとうね。
さて、船の中で知り合ったもう一つの家族の住所がこの近くであることを知り、早速出向くことになりました。眠っていた御者を起こしてひとっ走り、馬車で10分の距離でした。ライライチュ-の家はもうてんてこ舞いで、突然の珍客に大喜びです。昨日の船上即席美容院のお礼を述べて家庭訪問が始まりました。村の中心に位置し、雑貨屋も営んでいます。木造2階建ての立派な住まいで、牛、鶏、そして馬車(登録番号170番)もいます。このあたりではかなり裕福な暮らしでしょう。そんな家をつぶさに案内してくれました。台所は薪と炭を利用する原始的なものですが、親切に火をつけて実演です。この住まいを見ていると、日本の昔そのもので、ここには私達が忘れた何かを断片的につなぎ合わせてくれるものを感じました。質素、簡素だからこそ、人の心には暖かいものが脈々と流れるのかも知れません。親戚や近所の子供達があつまり、家の中庭は賑やかになりました。そんな家庭訪問はアッと言う間に1時間がたち、日が沈む時刻となり、待たせてある馬車でサンセットポイントに向かいました
そんな時刻にトンはイラワジ川で水浴びをしていたそうです。遠くから見ると濁った水がとうとうと流れています。私達の水の感覚はあくまでも透明無色でなくてはならないという固定観念があります。彼らは濁った赤土色の川しか見たことがありませんから、何の抵抗もなく、その中で生活が共有されているのです。洗濯をし、水浴びすることに何の抵抗もありません。エアコンの効いた部屋やホット・シャワーよりも大自然の中での水浴びが快適なのでしょう。あくまでも自分達の生活スタイルを維持するのが最良の幸せなのでしょう。
さて、今回同行したトンは典型的なミャンマーの青年です。彼らの生活そして、考え方をしっかりと観察することが出来ました。日本では、子供達の会話の中に「僕のような人間がそんなことは出来ません」という発言を耳にすることがあります。これは、日本の社会を凝縮したと受け止めることが出来ます。複雑な人間環境、情報過多がもたらしたが故にそのような発言がいともたやすく口に出る社会です。他の人と比較するからこそ僕のようなという言葉がすぐ思い浮かぶのでしょう。トンは伸び伸びと日本語を自分流で勉強しています。今の彼には比較する対象がありません。周囲のミャンマー人で日本語を話す人は誰もいません。だからこそ純粋にものごとを考えることが出来るのでしょう。彼らにとっては他人の様子を伺いながら行動するということはまずありません。こうして考えてみるとミャンマー社会の豊かさの基本はどこからきているのでしょうか?人は皆同じという仏教思想を根底とした社会が根強く現在に続いているからだと思います。
今日の夕食は、トンはミャンマーカレーで、私達は中華料理です。今日も夕食時はミャンマー教室で賑わいました。
第11日目
旅のコツも次第にトンは飲み込みました。何かと私達の便利屋さんとしての機能も果たすようになりました。今日はパガン郊外にあるポパ山日日帰りハイキングです。ラインカーは朝8時半に出発しますが、それまでには乗車券の手配をしなければなりません。トンは朝飯も食べずに1キロ離れているバス駅に向かい私達のために奔走してくれたのです。外人は1000チャット、現地の人は400チャットでした。トンはTVを見てポパ山のことを知っていますから、今日の遠足には興味津々です。ラインカーはバス駅を発車して宿の前を通過しますから、私達はトンの手配が奏をなして、宿の前で待っていれば良いのです。又しても今日もラインカーの旅です。しかし、今回のラインカーは庶民の生活路線を走るのとは違い、地元の観光客も同乗する観光路線です。遠くヤンゴンから来た家族連れもいます。私達と同じように、パガンに宿泊していて日帰り観光で霊山ポパ参りです。所要時間3時間でポパ山の中心タウンカラットです。2時間後の1時に同じラインカーが引き返します。
さて、オンボロラインカーは平地走行には強いのですが、山道に差しかかると速度ががたりと落ち喘ぎながら登っていきました。とうとう、積載過剰が原因でしょうか、坂の真ん中で立ち往生です。半分ほどの客が車から降り、車体を軽くすることで再び車は出発です。そんな光景は日常茶飯事のミャンマーです。誰も不平不満の表情は見せません。トンは朝コーヒーを一杯飲んだだけですから、さぞかし空腹のはずですが、昼食の時間になっても「大丈夫、時間がないから軽いものを食べて山に登りましょう」と気を遣ってくれました。トンの食生活を見ている間食には全く関心がありません。朝は軽く、昼と夜はしっかりとご飯を食べるのが日常生活なのでしょう。それに比べると私達はグルメとかで美味しいものを食べ、テータイムやおやつなどの習慣を持ち込んでいつも口を動かしています。しかし、よく考えてれば、不幸の始まりかも知れません。空腹なはずなのに、鼻歌交じりで機嫌よくポパ山頂への坂道を登っていきました。
断崖絶壁に立つポパ山寺院は山裾から300メートル登らなければなりません。しかし、山頂にたどり着くと展望が開け心地良い風に包まれます。同じラインカーに乗り合わせた客と鉢合わせです。この霊山は純粋な仏教というよりも土着信仰のナッツ神を祭ってあるので有名です。今日もトンは多くのことを吸収したようです。今回の旅に参加して喜んでいました。村に帰ると長男としての立場をわきまえ、弟を学校に行かせようと一生懸命働かなければならないそうです。19歳の弟を学校に送り込むには年間90,000チャット(130ドル=\15,000)を捻出しなくてはなりません。そんな弟は英語の読み書きが出来、私の書いた手紙は弟を通して翻訳されていたそうです。次回は是非とも彼の家族に会ってみたいものです。果たしてどんな家族なのでしょうか?
4時過ぎにはポパの遠足は終了し、パガンに帰着です。夕方は近くの船着場を見学です。ここはまさしく庶民の生活の場そのものです。一日の仕事を終えて水浴びをする人、子供連れで洗濯をしているお母さん、水汲みをしている少女。そして皆楽しそうな顔をしています。もう、こうなればタイムスリップというしかありません。おまけにちょうど日没の時間で空が薄赤く染まり、いっそう雰囲気を高めてくれました。
第12日目
旅も終盤が近くなりました。昨日予約していたタクシーは9時前から出発準備完了、宿の前で待ち受けていました。パガンには3日間の滞在となり、愛着も湧きのんびり観光することが出来ました。又の訪問を狙いたいと思います。特にライライチョーの家庭訪問は心に残りました。この町はいつも外人観光客で溢れ、少しですが、観光公害の影響を受け人々の心は濁り始めています。しかし、周辺諸国に比べるとまだまだ素直さ、穏やかさが残っています。
貸し切りタクシーは8時間の行程で400キロ離れたピーに南下です。当初夕方4時半発深夜12時着のヤンゴン行き高速バスの途中下車を計画していましたが、まだFEC(ミャンマードル)がたくさんあまっています。思い切って車をチャーターです。トンはもったいないねと言いながらも、実際に車に乗って移動を開始すると、やはりタクシーはいいねと大喜びしています。しかし、10時過ぎになると、冷房のない車は蒸し風呂状態となり、炎天下の埃の中を疾走です。今は乾季で周辺は乾ききっています。雨季が始まるまでまだ3ヶ月以上待たなければなりません。それは、まさしく過酷なる耐久レースそのものでした。窓を閉めると熱地獄、開けると埃地獄です。ちなみにお値段はこの距離で66ドル(9000円)日本では信じられない価格です。しかし、予定よりも早く到着することが出来、床ズレラインカーよりも快適なのは間違いありません。
トンの家はピーの手前2時間の距離にあるアウンランから船に乗って対岸のタイェットという町に入り、更に超オンボロラインカーで2時間乗ってから歩いて1時間の距離にあるそうです。そんな中継地点にあたる町で一休みです。それにしても、この車(トヨタ)は機嫌よく動いてくれました。運転手も温和そうな人柄で快適な旅を楽しむことが出来ました。道中で見かける民家は質素、簡素そのものです。通りかかる車は全て時代物ですが、荷物と人を満載し、排気ガスをもうもうと、そして乾いた大地の埃ももうもうとあげて走っていく姿には、貧しさは感じません。日本の国では、がら空きの列車が走っています。むしろ後者に貧しさを感じてなりません。時々ラインカーを追い抜くのですが、外からみると凄い乗り物に乗っていたのだと感服してしまいます。でもその車内は人との触れ合いの場といえるでしょう。ワンマンバスの会話のない日本のバスと威勢良く運転手と車掌が声を掛け合って走るオンボロラインカーのどちらに軍配が上がるのでしょうか?そして、私達が築き上げた高度成長、科学の発達は私達の生活を便利にする反面失われたものも多くあるのは確実です。この国では市内バスの料金は数円という単位です。日本では100円単位で、その支払いのために働かなくてはなりません。
がら空きのバスよりも満員ラインカーが効率の良いのは当然です。しかし、場所によっては一日数本しか運行されなかったり、満員になるまで発車しなかったりするのが常です。時間を金で買っているのが日本の社会です。こうして時間が余っても人との会話をすることはなく、無言でコンピューターに向かい、TVやビデオを見て時間が過ぎていくのです。
この国の平和さは、そこに住む人々が作り上げることで出来上がるのであり、外部から影響が少ないのが、ここミャンマーの特徴です。我々は一介の旅行者ですが、若し全てを日本流に振舞うならば、結果的にこの国の文化を破壊していくことになるでしょう。郷に行ったら郷に従うというのが旅の原則かと思います。現地の人々との対話、どのようなかかわり方をするべきか、考えさせる旅でもありました。しかし、今回はこのようにして、不思議なコンビで大きな摩擦もなく、全てがスムーズに運びました。各人の個性が不思議と波長が合ったのは間違いありません。ナイン・ウィン・トンは、典型的な農村の青年を代表しているものと思います。しかし、家の躾や育ちも影響していると思います。又私達も今回のメンバーだったからこそ、お互いに気を遣うことなく、普段の生活方法で何十倍もの楽しみを得ることが出来ました。
真剣に本人が考えていることが一つありました。マンダレーの丘で私と一緒に写真をとりたかったのですが、外国人料金のことで私が辞退したのでショックだったそうです。村に写真を持っていって両親に見せたいという本心が見えて来ました。ピーには有名なお寺シュウェサンドー寺院があります。明日はあそこに張り付いている記念写真撮影屋に頼んで皆一緒の写真を撮るのだと張り切っていました。恥ずかしそうに、日本のお父さん、お母さんという言葉が口からぽつりと漏れたのは確かです。
私達旅行者はカメラを抱え、無尽蔵に写真をとりまくっています。しかし、彼らにとって写真は貴重な存在です。有名観光地では決まってカメラをぶら下げた半日仕上がり保証の写真屋さんがいます。大半のミャンマー人はこれを利用して旅の記念に持ち帰ります。彼らにとっては一枚の写真が全てを物語る貴重な材料になっています。写真に麻痺した私達は何枚撮影しようが、どこで撮影しようが、そして、それらを後日眺めても思ったほどの感動は沸きません。私達は物質文明の虜になって不幸な日々を暮らしているのではないでしょうか?私達がこのように多くの写真を撮っているのをトンはどのように感じていたのでしょうか?
昨日パガンから電話をしてピーの宿を予約したのですが、一部屋しかありません。そんなわけで分散宿泊となりました。分散といってもすぐ近くですから何の不自由もありません。夕食はトンの好きなミャンマーカレーの店で乾杯です。今日も一日お疲れ様でした。トンも村に帰る日が近くなり、何となく嬉しそうです。
第13日目
昨日の炎熱地獄タクシーの疲れも朝になると吹っ飛び、今日はピー最大の寺院にお参りにいきました。トンが親切に手ほどきをしてくれます。年齢と生まれた曜日を聞き取り、指をさしながらチョコチョコと計算し、貴方はこの方角でお祈りしてください。そばにある仏様には年の数だけ水をかけるように教えてくれました。本人は真剣そのものです。昨夜の写真を持ち帰りたいという話が進展し、私達のカメラの一台を提供することにしました。これならば、全部撮影し終わって現像して焼付けをすれば何枚も家に持ち帰ることが出来ます。日本で、もう一度焼き増しを頼めば私達も楽しむことが出来ます。急いでフィルムを空にして写真屋に持っていきました。仕上がりは午後4時半です。写真が出来上がる間散歩を兼ねて少しばかり買い物です。明日の朝トンは村に帰ることになっています。オバサマ達が何かプレゼントしようとしても、いつも遠慮ばかりしています。ミャンマー人の普段着なるロンジ-(腰巻)の店に入っても、高級品に手を出そうとしません。安っぽそうな構えをしている店に入り700チャット(140円)の品物を指差してご機嫌です。本当に飾り気のない性格です。でも、朝の洗顔後、鏡とにらめっこし熱心にミャンマーの粉白粉(タナカ)を塗りまくり、自分の姿に惚れ込んでいる時間を持っています。
昼食は「私達はインド料理の店にはいるけど、トンはどうするミャンマー料理かな?では昼飯代だよと」言って500チャット渡すと喜んで自分の好みの店に向かいました。しばらくすると、「190チャットで済んだよ」とお釣りを返してくれました。
先月一年ぶりに再会した時は、私が日本で特別に持参した200ドル相当の現地通貨を渡すのに一苦労しました。本人はなかなか受け取ろうとしません。知らない人からそんな大金を預かっても返すことが出来ないと心配しています。「最終的に私が10年後に貴方の家に行き居候するから、その時に返してもらえば良いのです。でも、このお金は酒やタバコに使ってはいけません」ということで了解を得ることが出来ました。本人は大事そうにロンジ-にしまい込んでそっくり家に持ち帰ったのが一月前です。そのお金で役牛とお守りと豚を買ったそうです。正直にどう使ったのか嬉しそうに報告してくれました。
さて、イラワジ川に沈む夕日を楽しみ最後の夕食もいつもの調子で日本語教室を兼ねた楽しいものとなりました。食後私と二人で喫茶店に入りました。会話力が不足ながらも身の上話に話題が集中です。話しに熱中して閉店の時間になりました。支払いを済ませて夜道を歩いている時に喫茶店の少年がお釣り(100チャット=20円)を渡そうと追っかけて着ました。そんなミャンマーの風土を嫌いになるわけがありません。いよいよ明日はトンとお別れです。
第14日目
今朝は6時半起床で早めに朝食を済ませました。トンが田舎に帰るには8時のラインカーに乗らないとその日の内に村に入れません。何度も乗り継いで夕方5時過ぎに家の玄関をくぐることになるそうです。7時過ぎに全員でラインカーの乗り場まで見送りに行きました。8時までまだ20分ほどありますから、乗り場のすぐ前の喫茶店でお別れのお茶会です。周囲の人々は私達の関係が奇異に映ったことでしょう。予定よりも早くアウンラン行きのラインカーが通りかかり、トンはお茶を半分のみ残しての出発です。我々も飲み残しのお茶にもう一度口をつけるという慌ただしい役を演じました。ラインカーが到着すると喜び勇んで乗り込んで行きました。今回の旅を通して、トンの役割は何かと大きなものがありました。たとえ言葉が通じなくても、人の心と心が十分通じ合えたのではないかと思います。彼は又元の生活に戻ることでしょう。乾ききった大地で森に入り枝を切ったり、何らかの農作業に従事したりする日々が続くでしょう。私達も日本に帰り、普段の生活に戻る日も遠くありません。
さて、宿に戻って大失敗に気がつきました。ミャンマー人は身分証明書の携帯が義務付けられています。それを宿に忘れてしまったのです。宿の主人は大丈夫です。心配しなくても良い、本人はそのうち取りにくるからということですが、私の気持ちが静まりません。早速宿のマネージャーに手紙を書いてもらい速達書留で貴方の身分証明書はこの宿にあることを伝えました。その後どうなったことでしょうか?5月になると日本へ連絡がくるはずです。それまで気長に待つしかありません。
さて、私達は10時半のバスでヤンゴンに向かいました。早めに座席を予約したので前方に席を確保することが出来たのですが、西側で直接陽射しを浴びる特別席だったのです。これからバスの席を予約するときには太陽の向きを考慮して購入する必要があります。およそ6時間のバスの旅はアッと言う間に終わりです。道中立ち寄ったドライブインで食後に、デザートを振舞ってもらい、ミャンマーの人々の親切は最後の最後まで続きました。住み慣れたヤンゴンのホワイトハウスへは夕方4時半に到着です。
夕食は前回も利用したオキナワレストランです。日本で3年間働いていたミャンマー人の経営で外国人の姿もチラホラ見かけます。私達素人にとって宝石を買うのは難しいことですが、彼の手元に手頃な価格の指輪がありました。思った時に買わないと次の機会はいつ来るか分かりません。そんなわけで夕暮れのショッピングも兼ねた最後の夕食となったのです。ホワイトハウスのピーさんは在日本歴9年ですから、日本語たんのうで、日本語を交えて、いつも冗談に花を咲かせています。そんなピーさんとミャンマーの事情を話し込んで私が寝付いたのは真夜中の2時でした。
第15日目
今日はヤンゴン最終日です。楽しかったミャンマーの旅、強烈なミャンマーの旅全てが終わってしまいます。最後の極めつけはミャンマーの誇りとなっているシュウェダゴンパゴダです。最後にこの有名な寺院を持ってくる気配りはなかなか憎いものがあります。実は最初に回るか、一番最後にするべきか悩んでいたのです。午後は市場で買い物です。ボージョーマーケットでは殆どの品物が揃い、しかもどんな通貨でも通用しますから、最後の残金の整理には都合の良い場所です。オバサマ達はそれぞれ思い思いの買い物をし、財布の中も軽くなって行きました。昼食はインド料理のマサラドーサというインド版クレープです。私が預かった共同経費の財布も底が見えてきました。最後のタクシー代を残してきれいに空になっていきます。
空港から市内へ来たときは1300チャット、市内から空港へは1500チャットです。全ての手続きを終え空港待合室で搭乗を待っていると、真っ赤な夕日が地平線に沈んで行きました。確かトンの住んでいる村の方向が近いはずです。今日までの2週間、夢のような時間がめまぐるしく心の中に浮かんでは消えを繰り返していました。
最後に
それは私達にとって夢のような2週間でした。勿論ミャンマーの青年にとっても夢物語の連続だったかも知れません。不思議なメンバーの組み合わせがあたかも家族のように連なり快適な旅を続けることが出来ました。今でも深く私達の心に刻まれています。お互いが知らない部分で補完しあい、しかもその行為には全く無理をすることなく魔術にかかったような2週間が過ぎました。現地の生活に深く触れることが出来たのは、我が友人(息子のような)の参加による部分が大きかったと思います。純情な田舎の青年の動向がミャンマーを代表していると言っても過言ではありません。序所にミャンマーの実態が浮き彫りになってきました。又陽気な日本のオバサマ、そして彼女達の旺盛な好奇心が一つの大きな支えになりました。事前の予備知識をもつと先入観に捕らわれ、真実を見つめる目が曇る場合が多いのですが、幸いにも下調べなしのミャンマー初体験は一層思い出深いものが残る結果となりました。
ミャンマーはまた訪れたい場所です。地元の人々の陽気さ、美味しい食べ物、そして治安が良さなど数え上げるときりがありません。満員のトラックバスでも人と人との関係がすんなりと運びパニックに陥らない心豊かな社会を満喫した2週間でした。果たして他の国でこのような組み合わせが生まれるものでしょうか?まさしく一期一会という言葉にふさわしいミャンマーの旅でした。そんな旅の記録が出来たことに安堵の胸を下ろしています。最後に今回の旅に参加された皆さんに心からお礼を述べたいと思います。
S.Hoshiba
2002/3/7