アジア旅日記No.21トン君との旅(続)
ナイン・ウィン・トンについては前回の話しに登場してきますから本人の紹介は割愛することにしたいと思います。昨年の記録にも登場するナイン・ウィン・トンとの出会いが再度実現の運びとなりました。マグウェに住んでいる農業青年は私の手紙を大切にしまいこんで再びヤンゴンにやってきました。
内容
参加者
干場悟
中嶋明子
坂野郁子
ナイン・ウイン・トン
費用
現地で一人あたり500ドルを預かり滞在費用に充当。その中で一人80ドル相当を土産代など個人的費用に充当しましから、事実上の負担は一人5万円という計算になります。
上記金額に飛行機代金KIX-YGN往復TG利用で68000円を加算
日程
旅のはじまり
ナイン・ウィン・トンについては前回の話しに登場してきますから本人の紹介は割愛することにしたいと思います。昨年の記録にも登場するナイン・ウィン・トンとの出会いが再度実現の運びとなりました。マグウェに住んでいる農業青年は私の手紙を大切にしまいこんで再びヤンゴンにやってきました。日本からの郵便事情は左程悪くはないようで、確実に本人の手に渡っていました。私の予定が急遽変更になり当初2月2日にヤンゴン到着が1週間遅れて2月9日となりました。バングラデッシュ航空はほぼ定刻にヤンゴン到着です。しかしこの飛行機は注意しなくてはいけません。最近は時々予定が変更になったりオーバーブッキングがあったりするなど怪しげなる会社のひとつとして数えられている今日この頃です。友人の子息を始めての海外旅行に連れ出すという話が急遽決定したのでミャンマー到着は1週間遅れてしまいました。久しぶりのヤンゴンの空気は隣国タイに比べると落ち着いているというか、のどかというのがふさわしいかも知れません。いつもと左程変わることなく手続きも順調に終えて無事空港ビルの外に吐き出されることになりました。
手持ちのチャットを活用して市内へはトラックバスの利用となりました。タクシーを利用するとおよそ1台2000チャット以上するのですが、地元の交通機関を利用するとその20分の一以内で市内に到達することが出来るのです。同じ便で到着した日本人女性2名を含めて合計3人でとぼとぼ夕暮れの道を歩き大通まで出向きました。ヤンゴンに限らずミャンマーの地元交通機関は満員にならないと発車しないのが常識です。しかし今回のトラックバスは集客状況が悪いにも拘わらず以外に早く発進したのです。でも途中からは例によって超満員の区間も出てきました。これが懐かしのミャンマースタイルなのかも知れません。詰め込まれても、詰め込まれても不満や不愉快の念を表す人は皆無です。
いつもの宿ホワイト・ハウスに投宿しました。何とか個室が取れそうです。最近はこの宿は常に満室状態が続き部屋の確保が難しくなってきました。中近東やアラブ諸国、イスラム関係国家を避けて外人観光客は、イラクとアメリカの対立が高まっている状態ですから比較的安全な国への旅に切り替えを始めたのも客の増加に繋がっているようです。
ヤンゴン入りは無事果たしたものの、これから情報を仕入れなくてはなりません。又うまく両替もしなくてはなりません。果たしてナイン・ウィン・トンとの再会は希望に添ったものになるのでしょうか?ひとつひとつをクリアしなくてはならないのです。
さて翌日の朝事前に手紙で連絡を入れたトンが宿の前の喫茶店に姿を現しました。誠に半便予想しなかった部分もあったので顔を見たときは大感激になってしまいました。本人も満身の笑みを浮かべて私を迎えてくれたのです。早速私のつたないミャンマー語で再会を喜び、今後の予定を語りました。本人は昨年に比べると日本語も確かに進歩した跡を見ることが出来ます。それにもまして昔同様屈託のない顔を見せてくれました。さて、これから彼を旅の一員として加えた計画を立てなくてはなりません。
旅の準備のひとつとして新しく出来たアウン・ミンガラー・バス駅に出かけました。何しろ最近出来たばかりというので一体どんな素敵な駅なのか胸が高まりました。ぎゅう詰めの市内バスに揺られること約1時間。終点がバス駅です。いやはや着いてまたしても驚くばかりです。広大な敷地に掘建て小屋が並んでいます。それでも待合室らしき一角には乗客がTVを見て時間待ちをしていました。何しろ木造トタン屋根の簡素なつくりの待合所です。今は乾季で日中の日差しは強力なものがあります。しかし、この巨大な木造仮小屋は風通しが良く、貧相なつくりにも拘わらず結構快適に過ごせる場所でした。土間は土を固めたもので、コンクリートで舗装されているわけではありません。雨季やサイクロンが襲ってくるならば果たしてどのような光景に変わるものでしょうか?想像を絶するものではないかと危惧の念を深めてしまうのです。そんなことはお構いなしに食堂は結構客で埋まっています。新しく出来たバス駅と言えばカトマンズ郊外にあるバスターミナルは日本の援助で出来た立派な建物で洗練されたデザインを誇っています。これぞバス駅という立派なものです。お隣中国の雲南省のバス駅は地方に行っても立派な鉄筋コンクリート製の建物の中にあらゆる設備が整っています。バスの発車時刻や料金そして距離、所要時間など丁寧に表示されていますから安心して駅を利用することが出来ます。もうひとつ隣のタイ国のバスターミナルは方面別に3箇所ありますが、いずれも近代的な建物に必要な設備を全て整えていました。こうも格差が大きいとは正に天国と地獄の隔たりがあると見るのは私だけでしょうか?まさしくミャンマー式というのはこのことなのでしょう。その後は各方面でミャンマー式を発見することになりました。
翌日、パゴーの近くに軍人として入隊している弟に会いに行くことにしました。最近ヤンゴン市内のバスターミナルは大きく変更が加えられました。どこに行くのも10キロ以上離れた郊外にあります。そこへ到達するのは至難の業と言えるでしょう。我々観光客にとっては難解なことが数多くあります。バスの番号はミャンマー数字で表記されていますから解読するに時間がかかります。又市内中心部は一方通行が多いので下車する場所と乗車する場所が異なることもしばしばあります。更に超満員でないと車が発車しないという合理性があります。不思議なことにミャンマーの市内バスは詰めても詰めても人が乗れるという不思議な乗り物です。そんな中を車掌が器用に集金していきます。それはもう神業に近いものがあります。集金したからと言って乗車券をくれるわけでもなく、新しい乗客と前から乗っていた客を巧みに判別しての料金徴収技術はこの国ならではの技法といえるのです。概して日本で利用されていた市内バスが改造されての運行です。日本では右ハンドルの左側通行ですが、この国では右ハンドルで右側通行ですから車両の乗降口を変更しなくてはなりません。どの車両も傷だらけで必死に走っています。エンジンさえ魚いてくれるならば、内装などはどうでも良いというのがミャンマー式です。座席が老巧化していくとそれを幸いにして立ち席に改造です。所々歯が欠けたように座席が間引いてある車両もあります。このほうが乗客を沢山乗せることが出来るから採算の面では優れているようです。そんなミャンマー式市内バスは大体20チャットで利用できます。20チャットというと、円に換算すると2円程度です。ここで私達は大きなカルチャーショックに遭遇することになるのです。同じ区間を隣国タイのバンコクで利用すると普通のバスは市内均一で約10円。エアコン付の車両に乗るとその倍以上の価格になります。明らかにバンコクより5倍以上も高いのです。ちなみに日本の市内バスは場所により多少の幅はありますが、大体200円程度です。どうも、この国のバス代金は日本の100分の1といっても過言ではありません。一体どうしてこんなに格差が生じるのでしょうか?この回答はいずれ本文で紹介できるものと思います。昨年は主要な観光地を訪問したのですが、今回はマイナーな場所を選ぶことにしました。そのために下準備をしなくてはなりません。昨年まで利用されていた中距離バス駅(セマライン)は廃止になり、新しく27階建てのビルの建設がはじまりました。今後は大きく方面別に3箇所のバス駅に分散されるそうです。32番の市内バスはランタヤ・バス駅(西部方面)51番のバスはサワジーゴン・バス駅(北部方面)そして34番のバスでアウン・ミンガラー・バス駅(東部方面)という区分けになっています。
話は大きくそれてしまいました。トンの弟は昨年入隊したばかりです。パゴーの手前インターゴゥという村の建設部隊に籍を置いています。面会に出かけた日は丁度ミャンマーの休日で運良く再会することが出来ました。パゴー行きのラインカーで途中下車です。快適なる道路を突っ走るのですが、威勢の良い音に比べると速度はそんなに上がっていないようです。大体ミャンマーの若者は車の屋根に乗るのが好きと見え、トンも郊外に差し掛かると屋根の上に席を確保してご機嫌です。
初対面にも拘わらず弟は恥ずかしがることもなく、物怖じすることもなく気さくに話し合うことが出来ました。私のことは兄のナイン・ウィン・トンから多少の話は聞いていたものと思います。初めての握手を交わした後は、もう以前から知己であったかのように振舞うことになりました。まさしく兄と弟は瓜二つです。成るほど兄のほうは年長だけあって少し苦労した顔をしていますが、弟は甘えん坊という空気をかもし出しています。兄は弟の勉学の面倒を見ようとして現金収入の道を探り続けていたようです。その苦労が実って弟は理知的な表情を漂わせています。二人並べて記念撮影をしましたが、どちらがどちらなのか判別のつかない部分もあります。そんな中の良い兄弟です。ナイン・ウィン・トンが言うには、「弟は一ヶ月3000チャットの給料しかもらえないから時々私が差し入れをするのです。」と誇らしげに語っていました。
軍隊というと日本でいうならば自衛隊に相当します。縁があって彼らの住んでいるバラック(宿舎)へも出入りすることが出来ました。それは、それは、日本の自衛隊とは格段の違いです。おそらく100倍以上も異なるといえるでしょう。設備に至っては表現の私用がありません。給料も100倍では効きますまい。
木造の簡単な作りのバラック(宿舎)でした。弟の話によるとこの部隊には700人の軍人が住んでいるとの話です。食事と寝る場所は確保されているのですが、一ヶ月の給料が3000チャットというのは雀の涙ほどでしかありません。近くの喫茶店でお茶を楽しむとすれば50チャットかかります。バスでヤンゴンに往復すると最低金額の方法で往復すると150チャットが必要になります。ですから3000チャットという金額はあっと言う間になくなってしまうのです。それで時々兄のナイン・ウィン・トンは差し入れをしているようで、今回も別れる時には1000チャットをポケットから出して渡していました。何となくほほえましい光景でもあるのです。はたから見ていると本当に仲の良い兄弟として映ります。今月の末に弟は1週間の休暇を取って一緒に里帰りをするのだと話していました。ここパゴーの郊外は今は乾季で日ごとに暑さが増して行きます。日中は30度を越える暑さです。これが雨季まで続くようです。水銀柱はあがる一方です。雨季になると洪水の連続だといいますから、環境は好ましくないようです。しかし、そんなことはミャンマーの人々にとっては当然のことでさして珍しいことではないようです。工場の作業員で一月に13000チャットと言いますから13ドルの賃金です。どうもこの国の賃金体系には謎めいた部分が沢山あります。
さて、ほぼ一年ぶりに対面したナイン・ウィン・トンは以前と同じ微笑をたたえて迎えてくれました。今回は新しいバッグを抱えて新しい服装でやってきました。先日道端でサングラスをかったそうです。25円のサングラスがとても気に入った様子です。成るほどかっこいいというのはこの事でしょうか?ミャンマーの若者スタイルを自称しているナイン・ウィン・トンでした。
旅日誌
第 1日目
数日前に田舎からヤンゴンに出てきたトンです。私との再会を非常に喜んでくれました。今日は日本から友人が来るというので張り切っています。2月に入ると気温もぐっと上昇し日中の日差しが強くなってきます。そんな中を市内バスを利用してブラリブラリと空港に向かいました。空港の到着ロビーへの出入りも比較的緩く、私が日本人とわかると難なくトンを伴って入ることが出来ました。初めての空港ターミナル内をきょろきょろと伺ってはしゃぎ回っています。到着まではまだ1時間ほどありますが、既に到着ロビーには多くの人が待ち構えていました。
友人の乗るTG便は10分の遅れでヤンゴン空港に到着です。しかし客はなかなか姿を見せません。ひとつにこの国の入国管理の手続きには他の国より時間が多くかかることと、機内に預けた荷物がベルトコンベヤーに乗って客の手に入るのに時間がかかるという点が状況を悪くしています。遠くに人影が少しずつ見えました。私には分りませんが、トンはすぐに見つけたようです。彼らの視力は驚異的なものがあります。文明にどっぷりと浸りパソコンを弄繰り回す私達の視力はいつのまにかどんどんと低下し不幸な生活を強いられてきたことを現実として再認識する羽目になりました。概してトンの五感には鋭いものがあるようです。30分も経過したでしょうか?ようやく税関をくぐり私達の目前に彼女達が姿を現しました。丁度一年ぶりの再会です。きょとんとしたトンは夢と現実の板ばさみに出くわしたような表情で久しぶりの再会を喜んでいました。
早速タクシーを値切って市内に繰り出しました。最近ガソリンの価格が上昇したのでタクシー代金は2000~2500チャットが相場です。なつかしのホワイト・ハウスに直行ということになりました。ともかく夕食を用意しなければなりません。すぐ近くの簡易レストランでまずは乾杯です。本日は皆さんお疲れ様でした。トンは近くに宿が見つかりました。
第 2日目
今回の旅は前回に引き続いて2度目ですからお互いに気心が知れています。皆さんは前日は機内での宿泊で、時差も2時間半あります。旅の疲れは時差が大きく影響すると言われています。1時間の時差を体内時計で正常に戻すには1日かかると言われています。となるとヤンゴンの場合は2日半の休養が必要になります。しかし、それだけのんびりしているわけにも行きません。結局この日は近くにある公園で昼食を取るのが主要なる日課となりました。カンドウジーという湖は町の中心スーレーパゴダの北数キロに位置しています。ホワイトハウスでゆっくりと食事を済ませた後タクシーで公園に向かいました。入場料は一人15チャットですから、日本円に換算すると1円50銭になります。オンボロ車の洪水なるヤンゴンの市内にもこんな閑静な場所があるということは以外でした。チラホラとカップルの姿が目に入ります。広大な公園内を聞き歩きながらレストランに入ったのは正午過ぎでした。
さて、ここでトンの役目が登場しました。明日の予定はゴールデン・ロックに出かける計画です。そのためには事前にバスの切符を購入しなくてはなりません。みんなで昼食を終えた後、トンは市内バスでバス駅まで往復です。私達はここで2時間休憩しているからバスの切符を手配してください。ということで本人は喜び勇んで出かけていきました。普通の観光旅行でガイドの手配というと日本語が話せる人か英語を話せる人がつくのが一般的です。我々の方針は現地語しか出来ないガイド兼友人を準備しました。ガイドという名称をつけてよいものか戸惑います。何しろ本人がでかけたことのない場所にいくのですから・・・。その反面外国の文化に汚染されていない本人の動きをつぶさに知ることが出来ます。郷に行ったら郷に従えの通り、彼の意見を聞き入れることで、本当のミャンマーの姿に触れることが出来たのです。私も言葉はこの国では堪能ではありませんが或る程度は通じます。
さて、日本のパック旅行は何かと忙しいスケジュールに追われることになるのですが、今日は午後1時から4時までの3時間はただ呆然と公園の喫茶店ですごすという優雅なスタイルです。休憩しているときにミャンマー映画の撮影ロケ隊に出会いました。この公園もロケーションが良いので時々利用されるようです。そんな中に日本語を流暢に話す監督さんがいました。日本には姉が働いていて2年間本人も住んでいたそうです。まあ2年もいれば日本語には不自由しないものと思います。そんな青年とも話しをすることも出来ました。
さて、トンは切符を握り締めて帰って来ました。確かこの路線は外国人料金の設定があるのですが、4名分は全て現地人価格になっています。明日はトラブルにならなければ良いのですが・・・。今日はこれで宿に帰ることになりました。来るときは1300チャットだったのですが帰りのタクシーは800チャットでした。メーターがついているのではなく、全て交渉制ですから一苦労します。そんな部分はトンに任せることになりました。ご苦労さまです。
本日は大きな失敗がありました。両替をしたときに受け取る金額を間違って一桁少なかったのです。260ドルの両替で26ドル分しか受け取っていません。これは大変なことです。気がついたのは昨日公園から帰り夕食を済ませた後です。もう両替した場所は閉店ですから手の施しようがありません。一瞬騙されたのではないかと不安に駆られた一瞬でした。しかし友人を通しての取引でしたからその友人を通せば何とかなるかもしれません。店は閉まったものの友人の家を聞いていたので早速訪問することにしました。友人は市場で靴屋を営業しているインド系のミャンマー人です。何とか家にたどりつき、友人に事情を説明すると本人は「大丈夫です。残りのお金は私の店で預かっていますから明日の朝取りにきてください。」ということでこの件は一件落着となりました。もうのどの痞えがスーと引き下がるとはこのことなのでしょう。何しろ残金の234ドルは現地のお金としては大金です。私達4人の15日分の食費と交通費に該当する資金ですから。
インド系商人の血縁関係は深いものがあります。自宅には南インドのマドラスからおじさんが逗留していました。予定では3ヶ月滞在とかで今は一月が経過したばかりだそうです。そういえば前回店を訪問したときにも店の前でたむろしていました。こうした光景はヤンゴンではよく見かけることがあります。幸いに私のつたないタミル語(南インドの言葉)も結構通じるようでみんな気さくに話し掛けてくれます。そんなことから彼らの実態に関しても徐々に謎が解けていくのです。
第 3日目
チャイトー行きのバスは11時半ですから午前中は十分時間があります。ゆっくりと朝食を取りトンとは9時に宿の前の喫茶店で待ち合わせです。いつもより早く到着して現地の朝食モヒンガーとお茶を飲むのが習慣となりました。今日はいつもと異なり少しばかりしゃれ込んでいます。出発までに時間がありますから、まだ早いのですが、土産物の下見を兼ねて市街散策です。勿論昨夜の約束通り受け取りそこねた残金を確保しなければ身動きが取れません。無事その用件も解決しました。
新しく出来たアウン・ミンガラー・バス駅は市内の北東部にあり15キロほど離れていますから、バスで行くと1時間ほどかかります。荷物があると混雑した市内バスでの移動は一苦労ですから2500チャット払ってタクシーで直行です。タクシー料金は客の数と荷物により異なります。勿論運転手によっても異なります。そんなわけで出来るだけ穏やかな顔をした運転手を探すことが必要です。日本のタクシーだどかん全メーター制で交渉などは必要ありません。行き先を告げて乗り込んでしまえばよいのです。これだけ暑いと冷房も効いていますが、この国ではよほどのことでない限りエアコンの効いた車両に乗る機会にめぐりあうことはありません。やはり灼熱タクシーに乗車する羽目になりました。
勿論バスもエアコンの世界とは縁遠いものです。昨日切符を購入するときにトンには右側が良いか左側が良いのか出来るだけ日差しが少なくゆれの少ない前部の席を確保するように依頼をしておきましたから問題はありません。しかし、切符の価格には問題があったようで、この窓口で再度料金の追加です。トンは1300チャットで外国人は2500チャットというわけで追加の3600チャット(360円)を払いました。もうこうなると外国人に優先権が与えられバスの乗務員はやけに気配りをしてくれます。荷物は抱えてくれるわ、現地の人を押し分けて座席へ案内するわ。ああ同じ値段で良いから同じ待遇にして欲しかった。
通路にもびっしりと乗客を乗せ、座席の最奥部には雛を入れたダンボールを満載しての出発です。日本制の中古車がここでも活躍しています。バスがうなりを立てて走行している間は聞こえないのですが、エンジンを切ると奥のほうからピヨピヨと雛のさえずりが響いてきます。日本ではこのような光景を見かけることはまずありません。
パゴーまでは幅広い快適な道路ですが、それを過ぎると一車線のガタガタ道に変わります。でもこの地域は平野部なので起伏も少なくカーブも少ないので比較的順調に車は走行しています。エンジントラブルやパンクなどがあって到着時刻が1時間、2時間遅れるのはこの国では当然のことですが、今回はどうもそんな気配もなく順調に午後四時半過ぎに目的地チャイテヨーに到着しました。
さて、バスから降りて定宿の向かおうとすると向こうから見慣れた人がやってくるではありませんか。宿の若旦那です。確か2年前にこの宿に2日ばかり滞在したのですが、彼らは私を覚えていたようで、懐かしげに挨拶を交わしました。さて、今日は部屋が取れるものでしょうか?そんな心配を抱えながら宿に到着したのですが、案の定満室に近い状態です。部屋は4人部屋が一つ空いていましたが2室希望する我々には納得がいきません。そんなわけで他の宿を探すことにしました。しかし何処も満員で希望する部屋は見つかりません。仕方なく振り出しに戻りいつもの宿で4人部屋を何とか利用し翌日は部屋を変えてもらうようにするしかないと決心しました。所がその部屋は、我々が宿探しをしている間に他の客に占有されてしまいました。宿の主人は奥の手を出したようです。二階にある現時人専用の部屋を提供してくれました。それは誠に単純な作りでダブルベッドが一つ無造作に置かれています。でも幸いなことに隣同士に2部屋確保できました。トイレとシャワーは共同です。さらに驚いたことに料金は一人1ドル(120円)という格安の設定です。これで決定です。今夜は多少不便かもしれませんが、一夜の宿が確保できたことはこの上なく幸せなことです。宿の支配人はきをつかって扇風機を他の部屋から調達してくれました。そんなわけで今日も無事終了です。
チャイテヨーという所にはゴールデン・ロックという名所があります。ミャンマーの人々にとっては聖地の一つです。何しろ断崖の上に大きな石が落ちそうで落ちない角度で乗っかったままなのです。その石は金箔で塗られ遠くから眺めても荘厳な威容を現してくれるのです。地震があってもこの石は落ちなかったという伝説の金の石なのです。ヤンゴンから4~5時間のドライブで車の入るキンモンキャンプという所までくることが出来ます。その後は現地の専用トラックに乗り換えるのですが、ゴールデン・ロックは山の頂上にあり、ふもとは門前町の雰囲気をかもし出しています。外人専用の宿が3軒そして現地人を対象にした宿が10軒ほど並んでいます。他に食堂や茶店、土産物店が一本の参道沿いにひしめきあって並んでいます。このキンモンを含めてチャイテヨーと呼ばれているのです。
夕食はこの宿が経営しているパンミョウドウ・レストランです。4人がまるで家族のように楽しく団欒しながらの食事の風情に従業員も目を丸くして眺めているようです。ただ風変わりなのは、男性軍が水やコーラ、女性軍がアルコールで乾杯するのを見て従業員の目つきは更なる暗示にかけられるのが常なのです。トンの好物はやはりミャンマー式カレー定食です。特にその中でも何故かしら豚肉がお気に入りです。そんな彼の希望も取り入れ、中国式に何種類もの料理を注文してみんなでそれを楽しむことにしました。おなかも一杯になりました。それでも飽きることなく続いて食後のお茶の時間です。今宵は満月も近く月夜の道を散歩しながら小さな村の中を練り歩きますから、我々は大変目立った存在になったようです。今日も充実した一日がふけて行きます。
第 4日目
昨夜はものすごくオンボロな部屋でした。叔母様たちにとっては人生初の体験だったかも知れません。何しろ120円で一人泊まったのですから。しかし、以外と夜は自然の風が入り込み、朝方は寒さを感じるほどでした。ミャンマーでは主要な観光地は配電の設備が行き届いています。特にパガンなどは電話や電気の設備は他の地域よりも優先的に開発がなされているようで、ここゴールデン・ロックもその恩恵を預かっています。外国人観光客に恥ずかしくないように政府が配慮しているのでしょうか?そんなわけで夜通し停電することもなく快適な夜をすごすことが出来たようです。
さて、現地スタイルの朝食を済ませて山頂に向かうことになりました。山頂に向かうにはトラックバスに乗り換えなくてはなりません。といっても中型トラックの荷台にずらりと板を並べた簡素な作りです。乗り込んだ良いものの満席になるまで出発してくれません。日本ではこれで満員と思ってもこの国の解釈は異なります。これでもかという詰め込み方なのです。まさしく経済効果200%の効率とはこのことなのでしょう。40分も待つということになると、日差しの位置が変わってきます。乗車場には暑さをしのぐ為に日よけが設置してあります。時間と共に私達客席にも強い日が射すようになりました。その苦しみがわかったかのようにトラックは少し移動するのです。さて、発車かなとおもうとそれは勘違いでした。トンは初めてここゴールデン・ロックを自分の目で確かめるのですから、心は浮き浮きしています。彼らにとっては待つという時間の概念はありません。皆平然とにこやかに出発を待ち構えているのです。さしずめ囚人護送車のごとく詰め込まれたトラックはようやく山に向かって出発です。こうして満席にも拘わらず、車掌は器用に乗客の間をくぐりぬけ乗車券の拝見と料金の徴収活動を行っています。一人35円で50人ほど乗っていますから1500円ほどの売上になるのです。これで20分の登山バスの代用です。日本ではさしずめ一人1500円ということに該当するのではないでしょうか?以前訪れたときはこの道路は未舗装でほこりを巻き上げて走っていました。一定の区間に水を撒く人がいて、帰路には篤志な方がそういった係りを見つけると小銭をばら撒いて水を撒く人の労をねぎらっていました。そんな訳で何人かの人々は小銭をずっしりと用意して乗り込んでいたのです。今回はそんな光景を目にすることはありませんでした。
さて、終点についたものの、トラックの荷台は席が高いのでタラップが準備してあります。タラップといっても空港でみるような立派なものではありません。ミャンマースタイルですから、柱を組み合わせた簡素なものです。こうした苦労は地元の人々にとっては当然のことで苦労でも何でもありません。日本では完全に道路交通法違反となるでしょうが、ここはミャンマーです。しかも何度もこの道を運転したことのある経験豊富な運転手がついています。ジェットコースターの速度の遅いものだと思えば危険を感じることはないでしょう。
トラックバスは一応終点につきましたが、更にロックの近くへ行くには再度乗り換えが必要となります。ここから歩いて行く客もいます。我々はここから歩くことにしました。さて、歩き始めると篭屋が登場です。終点までは物凄く遠いから是非この籠をご利用くださいというのが歌い文句です。はじめは断っていましが彼らは執拗に食い下がってきます。はじめの言い値が10ドルでしたが、次第に値下がりです。10分ほど歩いた所で価格の折り合いがついて交渉成立です。確か6ドル分(6000チャット)で終点まで行くことになりました。これは籠というよりも前と後ろに人足がいて肩に梯子を乗せて進む方式で一風変わっています。好奇心の強いお姉さま(中嶋さん)はゆらりゆらりと進みます。後で感想をきくと目線も高く眺めは良好、また前の人と後ろの人がタイミングをうまく計って曲がり角や段差の多い所などは自然な動きをしてくれたのが良くわかったそうです。あれは二人の呼吸が合わないと危険を感じるのは当然なのですが・・・。そんな奇妙な体験を積むことも出来ました。
さて、頂上近くには外人用の見張り場があります。ここは避けて通ることができません。外人は有無なく6ドル徴収される運命にあるのです。籠屋はこの関所で終点です。我々は街道に立ち並ぶ土産物屋を冷やかしながらの散策です。竹を加工した機関銃が威勢良くパチパチと本物そっくりの音をたてていたのが印象的です。子供が夢中になるのではなく、親も夢中になって遊んでいるのがミャンマーの真の姿かも知れません。そんな素朴な人々の中に混じって私達もその機関銃に触れることが出来ます。簡素なものですが、人の心が沢山こもっているのではないでしょうか?高度なプラスチックや電子機器を組み合わせて複雑な作りになっている日本の玩具でも、最近の子供達は感激も何もしてくれません。それに比べるとこのミャンマーの現状をどう捉えればよいものか疑問に感じてなりません。
隣の店では何かしら鍋に怪しげな物体が入り込んでいるエキス状のものが並んでいます。ムカデや薬草、蛇?何か得体がわかりませんが、トンに聞くと笑いながら本当のことを言おうとしません。どうも精力剤の効果があるようですが・・・。どこからともなく、ミャンマー人がクマノイ(熊の胆)という言葉を発していましたぞ。頂上につくとそこはもう土足厳禁ですから、素足で歩くことになります。寺院内は大理石が敷き詰めてあるのですが、黒石は熱さが蓄積されていますから、白を選んで歩かなければなりません。それはオセロゲームをしているかのようです。トンは早速興味を持ってゴールデン・ロックに近寄っていきました。当然のことながら敬虔なるお祈りを捧げていました。少しばかりのお金をはたいて金粉を購入して貼り付けていました。さて、こうして無事チャイテヨー参りも終了です。しかしここへ来る日本人は数えるほどしかいないのではないでしょうか?パガンやインレー湖などは飛行機を利用し、現地では車や船を利用すれば比較的快適に観光することが出来ます。ここへ来るには囚人護送タイプのトラックバスの乗車が原則となります。おそらくお姉さま方がはじめてではないでしょうか?偉大なる経験とはこの一言につきましょう。しかも灼熱の大理石の上をジャンプホップしながらの寺院参観は彼女達の人生にしっかりと刻みこまれたと思います。
せっかく山の上まで来たのですから即引き返すのはもったいないので昼食をとったり、お茶を飲んだりしながらゆっくりと下山です。キンモンに比べると700メートルほど高い場所ですからさわやかな風も吹いています。こんな時間でも巡礼の客足が絶えません。もう一つこの頂上にくるには歩くコースもあります。巡礼団の中には夜歩いて朝日を拝む人もいます。夜ならばかえって涼しいので疲れることはありません。そういえば10年ほど前にスリランカを訪問し、聖地となっているアダムスピークへは深夜の道を歩いて朝日を拝んだことを思い出しました。あの山は2500メートル以上だったので頂上で震えながら朝日を待ち、あまりの寒さにすぐ下山したのです。
宿に帰ると約束どおり今日は快適な部屋を利用することが出来ました。姉さん達の部屋は冷房も効いています。少々値段がはりますが、それでも二人で5ドルという価格ですから、決して高くはありません。参道より少し入り込んでいるので閑静そのもので、庭も手入れが行き届きブランコが配置されています。単純そのものですが、心安らぐ快適な宿です。
夕食もいつものように皆ではしゃぎながらワイワイ楽しく過ごし、お茶の時間も忘れることなく時間をとりました。トンは食後にミャンマー式のチューインガムを求めるのが習慣となっています。いつものようにちょっと失礼と近くの店に入ってコンヤ(現地の名前)を買ってもぐもぐやっています。2つで1円という価格が相場で彼らにとっては貴重な嗜好品です。でもこれを常に習慣としていると歯が次第に黒ずんでくるのです。ぐちゃぐちゃと噛むと口の中が次第に赤くなって、それを時々ピュッと吐き出すのですが、知らない人が見るとこの人病人ではないかと心配すること請け合いとなります。
宿の入り口には地元の特産各種フルーツジャム製造販売の店がありますが、そこには私達の宿のマネージャーがたむろする場所です。今日はそのマネージャーに呼び止められました。お茶とジャムの試食をどうぞということです。皆が和気あいあいとギターを弾きながら楽しんでいます。そんな中へ日本からの珍客も混じり、フランス人のギターのうまい青年も加わり音楽会は熱気を帯びてきたのです。お姉さまはもと音楽関係の仕事をしていたベテランですから、こういった雰囲気を盛り上げるコツは十分心得ています。いつしか日本の歌も登場です。トンも音感が良くすらすらとメロディーを口ずさんでいきます。そんな即席音楽会の様子はばっちりとカメラに記録、ついでに音も録音機にて保存したのはゆうまでもありません。
彼女達は覚えたミャンマー語を使おうと懸命です。ミャンマー語で「さようなら、又会いましょう」はナウッマ・トウェチャーメーですが、間違ってナウッマ・ウェーメー(後で買いましょう)と口に出ました。しかもこれを何度も繰り返して店の人に言ったようです。お店の人たちもその意味をさようならではなく、後で買いましょうとして捉えていましたから、にこにこ顔でした。彼女達が本当の意味を知ったのは私が宿についてからのことです。さぁてこの後始末は一体どうなることでしょうか?
第 5日目
本日の予定はパアンへの移動です。昨日確かめたところ朝の9時半と10時半に2本運行されていると聞きました。前部は僧侶優先席となっていますが僧侶の予約がなければ我々が優先的に利用できるように依頼をしておきました。9時半の出発と思っていると、9時過ぎにトラックバスの人が私達を呼びにきました。幸いに僧侶席は我々お姉さま方に割り当てられることになりました。これでお尻が痛くなるのは避けることが出来るでしょう。既に何人か乗客が集まっています。ミャンマーでは珍しいことかも知れませんが、この便は予定きっかりに出発です。まだいくつか席が空いているのですが、そんなことには拘わりなく、エンジンのうなりと共に今にもハンドルがもぎ取れそうになるようなオンボロピックアップはスタートです。
案の定途中からはぞくぞくと客が乗り込んできました。トンは最初から屋根の上の特等席です。車内が混雑してくると若者達の多くは屋上に移動します。これでもかこれでもかという具合に客を詰め込んでいくのです。この区間も坂道も少なく道路も平坦ですから振動もそれほど大きくありません。しかし、道路は完全舗装にはほど遠く、所々穴空きの状態ですから速度は思ったほど上がりません。やけにエンジンの音が響くのみです。そもそも、このピックアップ改造貨客運行車両なるものは、その多くが年代ものの車両で床のどこかに穴があいたり、ドアが中から開かないなど相当に使い込んだ機種ですから音だけがけたたましく響いてくるのです。難所に差し掛かると車はグゥッと速度を落としますから、屋根の上でも以外と安全なのかも知れません。平坦で凹凸の少ない道ではそれでも快走しますから、そんなスリルを若者達は楽しんでいるようです。しかし、今は灼熱の太陽が照りつけています。走っているときは涼しいのですが、停車するとたちどころに熱さが身にしみるようです。ここパハンは私もはじめての土地です。
サルウィン川に面した比較的大きな町でカイン州の州都にもなっています。付近には奇岩を多く見る田園地帯です。そんな町に到着したのは2時過ぎでした。トンも屋根の上での5時間は体に響いたようでぐったりとしていました。さて、宿を探さなくてはなりません。土地勘がないものですから右往左往し、人に道を聞きながら安宿確保の開始です。最初の宿は安かったのですが、トイレシャワー付の部屋はふさがっているとのことで断念です。そんなわけで他の宿をあたることになりました。こんな場合ミャンマーは至って親切で躊躇することなくほかの宿を紹介してくれるのです。次なる宿を私とトンで偵察にいきました。こちらはどうも町一番の高級宿です。部屋は外観よりもゴージャスに出来ています。料金も15ドルと手軽でエアコンもついているという説明でした。そんなわけで勢い込んで全員でこの宿をめがけ到着したのです。さて、ここでひと悶着が発生です。エアコンというのは名前ばかりで電気が来ていません。部屋にはTVもあるのですが、停電では何の役にもたたず、ただの箱にしか過ぎません。話が違うではないですか!宿の若いマネージャーと値下げ交渉です。エアコン付で15ドルというのに装置があっても動かないのはエアコン付の部屋ではないから値下げが当然というのがこちらの主張です。トンと私でがなり立てるものですからマネージャーはさぞかし困惑したことでしょう。それではオーナーに許可をもらってくるからと2度も足を運んだのです。こうして2割引に成功です。結局その夜はやけにこの宿だけが明るくこうこうとしていました。発電機が回り電気がつきましたが、冷房装置を回すには力不足だったようです。しかし、滞在した部屋は2方向に窓があり風通しは良かったのですが、近くにある発電装置の音が耳についたのかも知れません。宿のスタッフは珍しく遠方からの客を丁重に迎えなくてはならないと様々な気配りをしてくれました。ミネラルウオーターは無料、朝食は朝早くても準備するなど先ほどの荒々しい値段交渉のことなぞ忘れたかのようです。
夕方散歩を兼ねて町をぶらぶらしている間に中華料理の店を発見。ここが狙い目と思い夕食に出かけました。7時過ぎに入ったのですが、客の姿はありません。メニューを見ると金額が書いてありません。とにかく価格調査が必要です。トンと二人で、これはいくらと確かめながらの注文です。あまり高額になると、店のほうが値段を提示してきます。トンはメモ用紙にミャンマー語で品名を書いてウェイターに渡すようになりました。なかなか繊細な綺麗な丸文字を書いています。彼の人柄を表すかのようです。さて、注文がそろって皆で食べ始めること外国人グループがやってきました。彼らは車で乗りつけています。車体にはUNの文字がありますから、現地で勤務している国連関係の人々でしょう。となると結構質の良い店を偶然に見つけたものです。他に家族連れのミャンマー人も見えました。料理もさっぱりとし価格も意外と安く賢い選択になったのです。トンも最近は中華料理への興味もわいてきたのは間違いありません。昨年一緒に旅をした時は、中華料理に行くよというとちょっと不機嫌で、ミャンマー料理だよというとにんまりしていたのです。今年はどちらでも良いという顔つきになりました。
さて、明日は朝7時に船が出るので早く休まなければなりません。トンも時には一人で物思いに耽ることもあるのでしょう。半時間ほど近くの喫茶店で一人でお茶を飲んで帰りました。
第 6日目
朝は夜が明けたばかりですから、宿のボーイ達は眠そうな眼で朝食の準備に取り掛かっています。急がないと船に乗り遅れます。しかし彼らはのんびりとミャンマー流で作業をしています。どうせ船は時間通りに出発しないのだから・・・。やはり日本人はせっかちなのでしょうか?船着場までは歩いて5分の距離ですから、遠くはありません。6時半過ぎには乗船となりました。
この船はモールミャンまでわずか2時間の旅ですが、マンダレーとパガンを運行する観光船に比べると現地色が濃厚なコースです。その分船は今にも沈みそうなオンボロ船です。外国人料金が設定されていますから我々は2ドル、トンは50チャットの値段です。前回の船旅では現地人は船室(ソファーの座席)内への立ち入り禁止を経験したのですが、この船はそんな設備もなく、現地人と外人は仲むつまじく同席で親交を保つことが出来ました。隣のおじさんは商人のようです。家族連れものっています。満席にもならず悠々とサルウィン川を下っていきました。朝の間は空気も澄み切り写真をとるには絶好のタイミングです。所々に寺院を眺めながらのんびりとした航行が続きました。
2時間の予定は1時間半で到着です。以前はこの船は一日2便あったのですが最近は車が発達して減便になったそうです。モールミャンはモン州の州都なのでこの地域で一番大きな町です。昨年利用したSee Breezeという宿は船着場から歩いて5分の距離です。ここでは客引きなどは見かけません。よほど観光客が少ないのでしょう。マンダレーやパガンなどのバス駅には必ずといって良いほど宿の客引きがたむろしているのですが、地方にはいると宿探しに一苦労することがあります。
大きな町なのですが、ここもパハンと同様電線、電柱があるのですが、電気が流れない電線なのです。夕方数時間だけ市内が明るくなりますが、その後は再び暗闇に包まれてしまいます。大きな宿やお店だけが発電機を回して客のサービスに努めています。これが、ミャンマーの地方都市の実態なのです。
さて、ンガパリへ出かける日が近くなりました。そろそろ宿に連絡を入れて部屋を確保しなければなりません。今は観光シーズンですからすぐに部屋がふさがってしまいます。そんなわけで手紙を書いて宿泊申し込みをしようとトンを連れて近くの郵便局へ直行です。郵便局の説明によると速達で出しても5日から1週間かかるとのこと、トンは機転を利かせて電報という文字を見つけました。これなら少しは早く届くことでしょう。明後日には届くとのことです。さて、この電報料金は英語で出すのとミャンマー語で出すのでは料金が異なるそうです。それでも3円で長いメッセージを送ることが出来たのです。出来るだけ早くこの手紙が届きますように。我々の到着に間に合いますように。後日知ったのですが、この電報は我々がンガパリに到着する前日の午後に配信されたとの事です。
夕方はこの町の裏手にあるモン式の寺院に参拝です。夕方涼しくなってから夕日を眺めるには最適な場所でした。うっそうとした緑の平原に大きく弧を描いてサルウィン川が流れているのが良くわかります。トンはこのお寺めぐりも大切にしているかのようで、熱心に祈っていました。
予定ではこの町に2泊し明日は郊外にある戦没者慰霊公園と水中寺院として有名なチャイカミを訪問することにしていたのですが、宿の設備に多少問題があり、急遽チャイテヨーに戻ることになりました。
第 7日目
さて、朝8時半に朝食を済ませ船着場に出かけました。ヤンゴンやチャイテヨーに向かうには船で対岸のモッタマへ行かなければなりません。大型のフェリーは一時間毎に運航され出発したばかりです。この船は外国人料金が設定され我々は1ドル(1000チャット)払わなければなりません。船着場のカウンターで早く向こう側に行かなければならない旨を伝えると、それならば艀を利用してくださいとの返答です。これだと外国人料金もなく一人40チャットという格安の船の旅です。勿論この船は現地式ですから満席になるまで詰め込まれます。次第に喫水線が下がり今にも浸水するかの状態まで客を乗せての出発です。小船ですからバランスを取るのに船頭は真剣な眼差しで貴方はもう少し右へ、貴方は左へと指示をし、バランスを定めています。途中ですれ違う船から派生する波をたくみに避けながらの20分の船旅でした。横波を受けると即転覆になりかねません。そんなスリル満点の船旅の経験時には悪くないものでしょう。
さて、モッタマには列車の駅があり、各地へのトラックバスの乗り場もあります。次のチャイテヨー行きは10時にあるということで乗車券を購入したのですが、時間になってもなかなか出発しません。結局1時間遅れて11時に出発です。次第に日差しが強くなってきました。ただじっとしているだけでも汗ばんできます。車が動いているのならば風を受けて気持ちが良いのですが、待つことの辛さを改めて感じさせます。しかし、地元の人々はそんなことは関係なくじっとしているのです。
チャイテヨーはモールミャンとヤンゴンの中ほどに位置していますから、今日少し移動しておけば明日の移動が容易になります。それと前回味わった森の避暑地という雰囲気のチャイテヨーを忘れることが出来ません。そんなチャイテヨーを目指してピックアップは北へ北へと移動です。途中でドライブインに立ち寄りながら4時過ぎに終点到着です。3日ぶりの町は我々を暖かく迎えてくれました。
早速宿の前の土産物屋で買物です。別れる時にナウッマ・ウェーメーの言葉どおりジャムの詰め合わせセットを数点購入し約束を果たしたのは言うまでもありません。これで日本人の信用がぐっと高まったのではないでしょうか?もう今日でこの町に合計3泊することになりますから、行きつけの喫茶店もできいつもにこやかに対応してくれます。周囲の客も我々の賑やかさに関心を払い時に質問攻めに遭遇することもありました。
この地へ来る外国人の多くはヤンゴンから車をチャーターして観光にきますが、料金は車代が一台50ドルとのことです。我々は一人往復4$ですから4人で16$という格安の料金です。当然のことながら熱風との戦いも含まれています。でも時間がそう長くはないのですから耐えることが出来るでしょう。
第 8日目
さて、今日のヤンゴン行きのバスは往路と違う会社の便を利用することになりました。この会社のバスは外人料金の設定はなく現地人と同じ価格で利用することが出来ます。そんな詳しいこともトンは心得るようになりました。懐かしきチャイテヨーはさらばの時間です。しかし予定の出発時刻になってもバスは動こうとしません。乗客は6人ほどしかいません。他社の便は満席となって既に出発してしまいました。一体この先何が起きるのでしょうか?予定より30分遅れての出発です。それでも席はがら空きです。しかしこれは杞憂というもので、20分ほど走ったチャイトーという街からは満席になったのです。どうもこの会社の本部はチャイトーにあり、そこで集客して運行しているのが分りました。チャイテヨーのキンモンへの乗り入れは付録のようなものです。満席になるとほっと一安心です。これが出発の合図でもありますからね。どうか事故が起きませんように。
満足の行くまで客を詰め込んだバスはエンジンを響かせながらヤンゴンの郊外に差し掛かりました。さて、あと一歩という所で立ち往生です。どうもギアがうまく入らないようです。乗客の一部が諦めて市内バスに乗り換えたり、タクシーを拾ったりし始めました。かれこれ30分もしたころ修理も終え再度出発進行です。こうしてミャンマーのバスは常に不安が交錯すると言えるでしょう。
お疲れ様でした。またまたホワイト・ハウスに戻ってきました。今日は中嶋さんの誕生日です。それを知って宿ではバースデーケーキを準備してくれました。さて、ここで大きな問題が発生したのです。実はこの宿は外国人専用となっていて現地のミャンマー人は室内に立ち入り禁止という方針を打ち出していたのです。私はトンを自室に招いたりしていたのには問題はなかったようですが、今回は宿のマネージャーから注意が促されたのです。全員で誕生祝のケーキを食べようと四人そろって部屋に入り込んだのが事件の発端です。トンはそのことを知らされてかなり興奮したのは間違いありません。私達も唖然とした次第です。宿の方針に疑問がないわけではありませんが、純真なミャンマー人青年の心は深く傷ついたのに違いありません。今まで家族同様に旅をしていたのに、ここへ来て無残にも分断されてしまうという悲しさもあったに違いありません。又ミャンマーの国にいながらミャンマー人に差別されるという悲哀も感じたのかも知れません。宿の主張によるとミャンマー人と外国人とのトラブルが時々発生するので数年前から方向を切り替えたとのことです。特に男女間の問題が主要な原因とか聞きました。
そんなわけでトンをなだめるのに一苦労です。別れ際に「宿が何といおうと我々は家族みたいなものだから、心の中ではいつもそう感じてください。」と説明すると涙を流して抱きついてきました。それほどに彼の心は大きく揺れ動いていたのです。
第 9日目
今日はトンにとっては人生初めての飛行機に乗る日です。昨日のハプニングを忘れたかのように張り切っています。気持ち良く朝の挨拶を交わして午前中は市場巡りで買い物の下見です。昨年も一緒にこの市場内を回ったので、どこにどんな店があったのか記憶していますから迷うことはありません。今日は買うことはしないのですが、とにかく見るだけにしましょう。
我々の飛行機は午後1時半の出発です。空港に12時までに入るように連絡がありました。国内線といえども簡単なパスポートのチェックがあります。ミャンマー人は身分証明書の提示が必要になります。そんな手続きもあっという間に終え、搭乗を待つばかりとなりました。以前トンが飛行機の中にトイレがあるのかという質問が出ました。トイレもあるし食事もでるから心配ないよと返答したら目を丸くして信じられないという顔つきをしていました。ほれほれ飛行機に乗ったから今度は分かったでしょう。そんな素朴な人柄が我々の気分を和ませてくれるのです。
60人ほど乗れるプロペラ機は軽快な音をたてて離陸しました。後部は数席空きがあります。この国の航空券の販売システムはかなり複雑で外国人は60ドル、現地の人はその半分の25000チャットなのですが、これは空席がある場合にのみ適用となり事前に予約ができません。外人と同じ便で飛ぶにはドル払いで55ドル払わなければなりません。今は地元の人々も押しかける観光シーズンです。現地人の航空券は前日からしか販売されていません。我々はその間ヤンゴンを離れて観光中です。結局割高になりましたが、事前にトンの席も確保することになったのです。これで全員お揃いで目的に到着する手はずが整ったのです。もし、満席でトンの席が取れないとなると、彼は一人、夜行バスで追っかけて現地で翌日再会することになるのです。そんな寂しい思いをさせてはならないという親心が働いたのは言うまでもありません。
飛行時間はわずか40分です。いつもは一泊2日でバスの旅となるンガパリ行きは、今回は豪勢なものになりました。ヤンゴンの宿を出て2時間もしない間にンガパリの砂浜に立つことができたのは感激です。トンも機内では興奮した様子はみせませんが、心の中ではさぞかし感激したのに違いありません。ンガパリの空港に到着したときは全員で記念写真を撮影したのです。
ンガパリの空港でもイミグレーションがあります。ここで我々はパスポートを見せて何事もなく無事通過しました。トンも係官にどこに泊まるのか質問され、身分証明書を提示して終了です。さて、この国では外国人と現地人が同じ行動をするのは一般的ではありません。みんなが何となく好奇な目で眺めています。ましてや正式な許可を持っているガイドを雇っているのではありませんから時々不信な顔立ちをする人もいます。しかし、事情がわかるとみんな拍手喝采することになるのです。
空港の外にはオンボロながらリンタウーの送迎車が待ち構えていました。彼らは昨日の夕方私達の到着を知ったそうです。モーラミャンからの電報は我々の到着より早かったことに感謝です。そんなわけですから、ここはひなびた海辺の観光地です。お隣のタイランドで見るようなけばけばしさを感じることは皆無です。それでも、この地は次第に有名になりいくつものリゾートホテルが乱立するようになったのです。がたがた道を揺られること20分、一年ぶりにミャンマーで一番美しいと評判のビーチに到着したのです。
トンに出会ったのはこの浜辺でした。3年前に私がピーという町からこのンガパリへ来るのに同じバスに乗っていたことがきっかけになりました。漁業をしているという同じ村からの友人を訪ねてこの町にきたのですが、既に友人はいなく、片道切符で出稼ぎを予定してやってきましたから帰るにも帰れず困惑していた彼に帰郷への手助けをしたのが始まりです。初めは友人に会えるという期待で胸がいっぱいだったのですが、それが次第に崩れ、元気もなくなり、がっかりしていたときでしたから、私の支援が忘れることができなかったのでしょう。私たちにとっては大きな金額ではなかったのですが、本人は浜辺で涙を流して喜んでくれました。そんな光景が昨日のことだったかのように思えてなりません。喜びをかみしめてトラックバスに乗り故郷へ向かった姿が脳裏によみがえりました。確かこの宿の前からタンドウェというバス駅にむかったのです。
第10日目
昨夜は波の音が心地よく体に響きぐっすりと休むことができました。ともかく宿は満室です。この海辺の町には3泊を予定しています。最初にこの町を訪問すると楽しみは半減しますから、後半の滞在です。さて、朝から中嶋さんの顔色が良くありません。どうも連日の旅の疲れ、そして熱さが体に響いたのではないでしょうか?体温を測ると微熱があります。朝食後にかんかん照りの中を散策したのも症状を悪化させたようです。そんなわけで中嶋さんは熱冷ましを飲んで絶対安静、軟禁状態になったのです。元気の良い坂野さんは水着を着て海との戯れをはじめました。何しろ日本の海水浴場とは違い、広い浜辺を独り占めできるのが何よりの宝です。トンも私も泳ぎはじめました。真っ白な砂浜、真っ青な空が果てしなく続いています。疲れたと思うと椰子の木陰で一休み。そこにはベンチが準備してあるのです。
ところでトンは午後からは自由時間です。500チャット(50円)渡してこれで好きなものを食べてくればということで、遠く離れた隣村まで遠征です。3年前のことを何かしら心の中で感じていたに違いありません。当時は友人に会うことができず不安な気持ちでこの砂浜を歩いたのですが、今回は日本の友人と家族旅行の一員として何の憂いもなく浜辺を散策できたのです。数時間してトンは戻ってきました。「今度は友達と一緒に、あるいはお嫁さんと一緒にここに来るからね」と素直にうれしさを表現してくれました。
さて、中嶋さんの容態は次第に回復の兆しを見せてきました。熱が序所にさがり快活な話し振りも復活しはじめたのです。一時はどうなることかと不安にもなりました。もしかして飛行機で帰ることになるかも知れません・・・。そういった最悪の事態は避けることができそうです。夕食は何事もなかったかの様にいつもの店で乾杯です。しかし、彼女はいつもよりもアルコールを控えたのは言うまでもありません。明日は完全に元気が復帰することでしょう。
第11日目
今日の朝は中嶋さんも元気はつらつとした表情を見せてくれました。これで一安心です。浜辺を一望するレストランでの朝食はリゾート気分をさらに高めてくれました。午前中は波も穏やかでひんやりとした風が心地よく肌になびいてきます。
トンは結構おしゃれが好きで、朝は顔を洗ってから決まって現地の人々がつけるタナカというお化粧をしてめかしこんでいます。私がフーンと不思議そうな顔をして見ていても、わが道を行くという態度を崩そうとしません。どこから覚えたのか時々「若者スタイル」と日本語で陽気につぶやいています。
みんなで話をしながらの朝食ですが、時々話題になるのが通称戸籍調査です。これは中嶋さんの発案でトンの家族について質問するという嗜好です。家族関係はもちろんのこと家にいる犬や猫、牛の数や年齢なども質問の項目に入るのですから、話題は尽きることがありません。彼の話を通して一般的なミャンマーの農村の生活を垣間見ることができるのも恩恵です。
話を総合すると、飲料水は自宅から30分、水浴の場所は自宅から20分に位置するとの話。彼らにとって30分歩くということは近くて便利という概念です。今の日本ではどんな田舎に行っても蛇口をひねることで水を得ることができます。山に出かけたり、キャンプに出かけても設備が整い何の不自由はありません。彼の村の話は昨年も聞きました。しかし、今回は世話をしている家畜の数がかなり増えたのは間違いありません。家の周りはさぞかしにぎやかなことでしょう。そんな様子をありありと伺うことになりました。
さて、一休みしてから一番近くの町に出かけることになりました。このンガパリはタンドウェという町の郊外16キロに位置しています。この辺りで一番大きな町でヤンゴンへのバスもこの町からスタートします。市場を徘徊しているときに貝細工を見かけました。トンはひとつ10チャットで首飾りを求めました。どうもお姉さん(実家)への土産にするようです。
午後は中嶋さんも海水浴です。準備してきた水着も役に立ち、彼女達は海を満喫しています。明日はもうこの町からさようならになります。夕日の沈むころトンはカニと戯れています。トンの人生において良き日になったのかも知れません。
第12日目
さて今日はミャンマーの世界を深く味わう日となりました。昨日既にラインカーの予約を入れ、前の席を確保したのでそれほど窮屈な思いをすることはないでしょう。この区間を利用する外人がぼつりぼつりと増えてきたようです。今回は私たちのほかに3人の外国人も同席です。行く先は同じグワという町です。宿の車は7時に途中まで行くから同乗してくださいと申し出がありました。バス駅についたのは7時半ですから、ここでお茶とケーキで軽い朝食を済ませることにしました。出発準備完了ともなるとトラックバスは満席です。若い青年は例によって屋根の上に乗車します。老若男女が折り重なっての発車は日本では決して見ることは出来ないでしょう。朝8時に出ると夕方4時ごろに到着するのですが、あくまでもこれは目安です。荷物の積み替えが多ければそれだけ時間がかかるのは当然です。今回も案の定、途中から大量のお米が積み込まれました。一袋50キロの俵が26個ですから、その重量だけでもエンジンはくたばってしまいます。大量の米袋の上には乗客が何のためらいもなく座っています。幼児を抱えて車内を移動することはほぼ不可能ですから、誰かが窓から、いや横から抱えあげて乗り降りします。もう誰の子供であろうが、関係なく人々は大切に抱きしめて互いに助け合っての生活が成り立っているのです。日本の社会で失われた部分を、ここでは多く感じることができます。誰もが不平を言わずに譲り合っています。荷物が多ければ手助けをして本人の手元近くまでバトンタッチしていきます。
日本では多くの場合無関心を装ってしまい勝ちですが、この国ではこうしてお節介が当然ですから、生活習慣も大きく変化したものです。日本の車内は清潔そのものでほこりひとつ入り込む隙がありません。冷暖房完備で清潔そのものでしょうが、そこに乗り合わせる人々の心はどうでしょうか?無理やりシルバーシートなどというものを設定しなければ人々が行動をとらなくなった国と、それを必要としない国の開きは大きいものがあります。先進国として誇るには何か恥ずかしい思いがしてなりません。設備がどんなに優れていても、そこにいる人々の心が輝いているからこそ楽しいのです。どんなに埃が入り込もうが、板敷きのシートで多少お尻がいたもうが、このオンボロトラックの路線は人の魂を満載して動いているといっても過言ではありません。
この路線はお姉さま方にとってもかなり厳しかったようです。朝の内はよかったのですが、しだいに暑さが加わり、埃も増え苦難の連続です。あと何時間で終点なのか、そればかりが気にかかる一日だったようです。これも通常のパックツアーでは体験できない路線です。道路は全線未舗装、途中で橋が崩壊寸前で全員下車して車両のみが徐行運転。バス停などは存在するわけもなく、誰かが途中で手をあげると停車する仕組みです。無秩序の中の秩序ある行動が走行を可能にしているのでしょう。
この種の乗り物は郵便配達もかねています。今は乾季ですから問題はないのですが、車掌が時々封筒に入った手紙を路上に放り投げています。だれかがそれを拾っています。もちろん住所氏名が書かれていますから、確実にその人の手元に届くことでしょう。場合によっては建物の書状受けに放り込み、運転手が警報を鳴らして去るという方式もあります。いずれにしても人と人との信頼関係が基盤となってミャンマーの世界をいっそう豊かなものにしているのかも知れません。
さて、ようやく終点に到着です。夕方4時を過ぎたばかりです。今夜はこの町に宿泊して明日の朝バスでヤンゴンに入る予定でいたのですが、ここにきて朝のバスは先月まで動いていたけれども今は廃止になったと聞き、今にも脳天から火花が出るがごときショックを感じたのです。そんなはずはないのに、確かンガパリで確認したのに、ヤンゴンでも確認したはずなのに。となると、ここに一泊しても明日はまた同じように夜行バスを利用するしかありません。思いを決し、今宵のバスで強行出発となったのです。
バスの切符が果たして手に入るものか、後ろの席ではゆれが激しいのでできるなら前の席で4人が近くにいたいという条件が必須です。幸いに何とか乗車券を確保することが出来ました。出発は8時ということです。あと3時間ほどすると再度揺られるのを覚悟です。心を決めてしまったからにはあとは野となれ山となれという諦めの境地が加担してか、以外と平静に行動ができるものです。それにしても、おば様達も結構たくましくなりました。7時間半のオンボロトラックに揺られて、体は埃だらけです。3時間休憩してから今度はオンボロバスで旅を続けようというのですから。もちろん冷房など効くわけがありません。食事も日本食ではなく、現地スタイルのものばかりを胃に流し込んでの大奮闘になってしまいました。この時はやはり申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そして又、彼女達の芯の強さに感服、脱帽してしまったのです。これも彼女達だからこそ不平不満を表すことなく行動してくれたものと思います。もちろん私もトンという知り尽くしたミャンマー青年が控えていたから安心して身を任せることができたのかも知れません。
さて、乗り込んだバスは筆舌しがたい奇妙な交通機関だったのです。もうすでに荷物は搭載しているようです。何か大きなプラスチックの箱が並んでいます。入り口の近くには自動車用のバッテリーがモーターにつながれています。プラスチックの箱の中には生きた魚介類が入り、これこそ産地直送クール宅急便をかねた貨客混載バスの生態でした。後部座席はいくつかを取り払って貨物専用席になっています。通路にもびっしりと水槽が並び、席にあぶれた人は水槽の上にあぐらをかいて座るという方式で収益をあげています。通路にも人がびっしりとなりますから、名前が呼ばれた順に着席です。おまけにシート張りの座席も改造してあり、私では床に足が届きません。もう宙ぶらりんの状態ですから疲れるのも当然です。座席の位置を高くしておくことによってそこへ荷物をたっぷりと積み込むことが可能です。
さて、走り始めたのは結局9時過ぎでした。日中の暑さに比べると夜は爽やかな風に変わり意外と体力の消耗が少ないものです。3時間ほど山間部を走り平野部に差し掛かったところで深夜の休憩です。ここまでくるとヤンゴンはあと少しです。朝の5時過ぎにはヤンゴンに到着したのです。それも市内の中心に近い魚市場が終点とはうれしい限りです。
第13日目
ヤンゴンには早朝到着でした。まだ夜が明けていません。それでも町にはタクシーが走り、市内バスも運行を始めています。そんな中をまずはお茶で一息入れることにしました。次第に夜が明けて周囲も明るくなってきたのです。タクシーを拾って宿に直行しましたが、あいにく満室です。マネージャーは私たちのために特別に大部屋を午前中の間開放してくれました。このホワイト・ハウスはここ数年の間有名になり常に満席の状況です。予約を入れてもチェックアウトの正午にならないと部屋の空き状況をつかむことができないのです。電子メイルもあるのですが、今はパソコンが故障中で正常に働きません。メイルや電話で連絡が入っても、客の予約がそのとおりになるのは半々だそうです。交通機関の延着は頻繁に発生します。予約を変更しようにも地方からの電話事情は極めて悪く折角の予約も正常に受け付けることが出来ないとマネージャーは嘆いていました。単にパソコンを導入して電子メイルで世界各国からの受付が可能になったとしても、他のインフラが整備されていないと全く意味がなくなるという事実を知ることができます。
さて、昨日の朝から乗り物の連続ですから、お姉さま方はもうクタクタです。とにかく仮眠が必要。トンも宿に帰りシャワーを浴び気分を一新しなくてはなりません。
午後は私の友人で貿易商をしているラーマンさんの倉庫を訪問する話が急に展開しました。トンはヤンゴンで働きたいという希望も少し持っています。どんな仕事でどんな待遇なのか現場を見て判断する必要がありますから、トンを含めて全員参加でヤンゴン郊外にある作業場を見学することになったのです。
ラーマンさん(社長)自らの運転で近くミャンマー料理の店で昼ご飯の招待を受けました。私たちが出かける店とは異なる中級クラスの専門店です。これは我々観光客の知らないミャンマーの一面で、地元の中流階級が出入りするツウの店でした。店内は昼食の時間ともあって大繁盛です。普通は500チャットで定食を食べている私たちですが、この店は900チャットです。しかし、値段だけあって設備はしっかりしています。清潔で味も一ランク上で文句の言いようがありません。これが商売繁盛の秘訣かも知れません。
さて、郊外にはランタヤという大きな工業団地があります。政府が支援しているのでこの地域の電力事情は悪くありません。そんな一角にラーマン氏の経営する貿易商の倉庫があります。主にインド方面へ穀類、豆類の輸出を手がけていますから、その規模は膨大なものです。何トンという単位で商品が保管されているのは圧巻です。そんな中、全員目を丸くして感動のしっぱなしでした。倉庫内では数十人の若者が麻袋の補修作業をしていました。彼らの給料は一月13000チャット(1300円)というのが初任給で、経験、年数により少しは上昇するようです。食事と宿舎は提供されますからそんなに待遇としては悪くはないようです。さて、トンは一体何を感じたのでしょうか?
以前から予定していた倉庫見学も終了しました。トンは最近気分が落ち込んでいます。多分私たちとの残された時間が少ないのを感じているのかも知れません。明日からは又元の暮らしに引き返さなければというジレンマに陥っているのでしょうか?
私たちもこの工場見学を通してミャンマーの知らなかった部分を見ることができたのは幸いなことでした。ラーマンさんは第二工場の増設中で、新しい場所も紹介してくれました。彼らにとって困るのは為替相場が変動による痛手が大きいという話です。過去2週間の間に15%ほどチャットが強くなりました。いわゆるドル安すなわちFEC安でラーマンさんの保管していた支払い用外貨の値打ちがダウンして大損害です。しかもここにきてミャンマーのバブル崩壊で銀行からの引き出し制限が施行され、産業界は大混乱中です。従業員に給料をはらうのに銀行が1週間に10万チャットしか払いだしてくれないので、資金繰りに奔走するしかありません。ミャンマーの経済事情はこのようにいつも危機を抱え込んでいます。幾多ものこうした困難を乗り越えたラーマンさんですから、今回も平静に対処しているようです。
第14日目
朝7時に会う約束をしていたので私も早起きをして彼が泊まっている宿まで出かけて見ました。ちょうど宿の階段を下りてくるところでした。一緒に最後のお茶を飲んでしばしの別れです。最後に封筒を手渡してくれました。あとでゆっくり読んでください・・・。さて、いったいトンは何を表現したかったのでしょうか?昨夜一生懸命心をこめて書いてくれたのに間違いありません。昨夜が最後のヤンゴンでした。今度はいつ再会することができるものでしょう。今日は弟と一緒に実家に帰るという計画を以前からしていました。かなりの金額を懐に入れていますから、道中紛失しないように気を配らなければなりません。前回はピーという町で彼が田舎へ帰るのを見送りました。何かしら別れというものには哀愁が漂うものです。何しろこの18日間は家族のように接した日々でした。新しい場所にも出かけました。言葉の不自由はありましたが、多くの事を語ってくれました。トンも別れがつらいのでしょう。将来のことに目を輝かせている表情を読み取ることができました。さあ自分の道を歩んでください。遠くから応援していますから・・・。こうして彼は格安なる市内バス(2円)に乗り込んでヤンゴンから一路田舎への道を歩き始めたのです。
トンを見送り、ゆっくりとしかも虚脱感を感じながら朝食を取りました。さて、考えことをしてはいけません。当初は皆を見送ってから里帰りをする予定でいたのですが、トンにとっては昨日で今回の目的を達成したも同然です。あとは買い物が主要な課題です。その買い物といってもほぼ目安がついています。この国ではインドのみやげ物屋のように高額に吹っかけられることはまずありません。買い物に対する私たちの価値観と彼の価値観とは大きく異なるのは至極当然で、我々の買物には率直に興味を示しません。立場を変えて考えると同じかも知れません。彼の興味の対象となるのは20円で入手するサングラスとか、50円で購入できるYシャツ、10円で手に入るお守りなどが彼の世界です。そんな彼を伴って高額(我々にとってはメチャ安)の買い物をするのは彼の心を傷付けるかも知れません。そんな配慮も働いて一足先に故郷に帰るように指示をしたのです。そろそろホームシックにかかっても良い時期です。昨年パガンからピーへ車を貸しきって彼の田舎近くを通りかかった時にもそれとなく帰りたそうな表情を見せていました。
午前中は買い物と決めていましたから、即実行です。事前に希望商品のメモをもらっていたので大助かりです。どのコースで回れば効率がよいかを頭に入れながらのご案内です。昼前には大体の品が揃いほぼ予定に達したといえましょう。お疲れ様でした。
今日の午後は船でヤンゴン周辺のトワンティへ行く予定です。外国人の乗船券は専用の窓口で購入することになります。何となく偉そうな人が対応してくれます。船で2時間と言いますが実際は1時間半の旅でした。以外とここは穴場的な存在です。船は⒓時半に出港。トワンティからヤンゴンに帰るにはバスで45分走るとヤンゴンの対岸に到着します。ここからフェリー(一人1ドル)を払って帰るという回遊コースがお勧めです。帰りのフェリーはなぜか私は無料になりました。切符を販売する係りが私をミャンマー人のガイドと勘違いしたのでしょう。私の代金を請求することなく船に乗り込んだのでした。
第15日目
昨日ですべての行事が終了しました。土産物も買込みました。ホワイト・ハウスでゆっくりと朝食ビュッフェを楽しみました。いろいろな思い出が交錯してきます。トンは家についたものでしょうか?
飛行機の出発は午後の7時半ですから終日時間があるのですが、彼女達はバンコクで飛行機を乗り継いで深夜便で関空に向かいます。2週間前よりも気温はぐっと上昇し外へ散歩するにも熱気が高まってきました。そんなわけで、本日は休憩ばかりです。
タクシーで予定より早く空港に向かい、近くの食堂で延々と2時間話に花が咲きました。今回の旅も楽しい時間を創造することができました。私一人ではこんな旅はできません。トンと言うミャンマーの田舎の青年が加わることにより珍道中が展開できたのは言うまでもありません。
さて、私は明日と明後日の2泊をヤンゴンで過ごしてからネパールに入る予定です。ネパールでも同じような友人が私を待ち構えていることでしょう。それではお互いの旅の安全を祈って今回の旅日記を終わりにしましょう。
終わりに
さて、この国の実態を詳しく知るに従い、彼らの持つ悲しみを取り払うことが出来ないことが良く分りました。一体私は彼らに何することが出来るのでしょうか?もしかして会わなかったほうが幸せだったのかも知れません。本人から最後の手紙が届きました。
その内容は「今回は皆さんと共に旅ができたことを大変嬉しく思っています。文化や宗教の違いで私に間違いがあったならばお許しください。家族同様に過ごした日々は忘れることが出来ません。今度はいつ会うことが出来るか分りません。でも又会いたいと思います。本当にありがとうございました。」
それが彼の素直な気持ちなのかも知れません。私達は今度いつ会うことが出来るか定かではありません。私の責任に於いて彼の一家を今後支援し続けることが出来るかどうかも定かではありません。国情の違いで大きく左右されてしまいます。過去の事例からするとインドネシアなどは国際送金の事情が整備されていますから、たとえ小額であろうと確実に本人の手に届きました。インドでも同じです。ネパールでも銀行送金などには不自由することはありませんでした。ミャンマーの国情では現在はまだまだ遅れていますから事は容易に進みません。しかし、彼らこそが支援を待っているのは事実です。ミャンマーの経済を見る限り、日本との格差は膨大なものがあります。同じ100ドルという金額でも最貧国とされているネパールの3倍程度の値打ちがあると言えるでしょう。ネパールでも日本の10分の1の物価ですから、日本とミャンマーを比較すると30倍程度の値打ちが出てくると言えます。1万円という金額は日本ではあっと言う間に消えてしまいますが、ミャンマーでは30万円に近い値打ちが出るという事実に驚くばかりです。
昨年に比べるとトンは大きく成長したのは間違いありません。3年前の生活と今の生活は格段に楽になったと語ってくれました。昨年手渡した生活資金を利用して牛を買ったり、苗を購入したり着々と進展しているとの話です。今年も少しばかり用立てることが出来ました。日本円で考えると2万円程度ですが、この国の購買力からするとその10倍以上ありますから高額といえるでしょう。こうした資金が契機となり彼ら自信の考えで有効に利用されているのが私にとって何よりも嬉しい置き土産です。口癖のように今はお返しが出来ないけれども、あなたの子供達がミャンマーにやってきたときにはお世話を引き受けますからと真剣に語ってくれるトンです。機会があって再会することが出来ればそれは又楽しいことです。いつかは彼の家にいって居候するからと冗談を飛ばしています。しかし、次回再会することができなくても、彼は彼なりに今まで知らなかった世界を体験したことは大きな収穫ではないかと感じています。その反面知らずにいるのが幸せだったのかも知れないと疑問が沸くこともあります。
さて、まさしく同じような境遇を持ち合わせたネパールのダマイと共通した部分があるのは当然です。16歳の時に実の父親を伴ってトレッキングの荷物もちとして参加した青年は今年で21歳になりました。3年前から私のトレッキング専用の荷物持ちを兼ねたガイドとして起用しています。時々生活資金を少しばかり提供しているのですが、純真に受け取って「今までこんな大金を自分で持ったことは初めてです。」と驚きの表情を隠そうとしませんでした。ダマイの家も今は豚なども飼いそれを育てて収益にしています。そんな彼らと同じ食事を、同じ場所で休み、生活をともにすることがしばしばです。現地語でのたどたどしい、そしてもどかしい会話が進行します。表現は単純かもしれませんが、言葉を選んで意味の深い会話を楽しむのも私の趣味になってきました。基本的にはいつまでもこうした支援が続くこととは限らないし、その金額の大小が問題ではなく、こうした気持ち、助けあう気持ちが私達を結びつけていること。私へお返ししなくても、誰かほかの人にその気持ちを分かちあうことが私へのお返しであること。自分で自立するように心がけるように・・・。そんな気持ちはどの程度通じたものでしょうか?
インドネシアの青年はかれこれ10年間ほど支援を続けたでしょう。時々連絡が入ります。大学を卒業したけれども、思い通りに就職口が見つからずまたまた苦労の連続です。真の援助というのは時には子供を崖から突き落とすような一面も持ち合わせる必要があるかと思います。子供を海に連れ出し、船から突き落とすことで泳ぎをいとも簡単に覚えてしまうということを聞いたことがあります。おたがいに甘え続けているのでは援助の効果は無くなってしまうのが現実と言えるでしょう。
本当に今回のミャンマーの旅も楽しいものになりました。参加した人々に深く感謝の意を送りたいと思います。
Wednesday, April 30, 2003
バンコクにて作成